翌朝。
目覚ましより先にスマホが震えた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
(……彼氏になっても生活指導は変わらないんだ)
僕は布団に顔を埋めたまま、もそもそと返信する。
【伊吹:起きてる】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯は……あと】
既読。
【神崎:よし】
(言うなってば!)
ツッコんだら負けだと思って、僕は返信をやめた。
すると、一秒後にピロンと追加で通知が来た。
【神崎:あとじゃない。今】
【神崎:撤収班ルール第十五条】
【神崎:朝飯は“あと”禁止】
(増えるの早すぎる!!)
僕は半笑いのまま、渋々布団から起き上がった。
◇
学祭翌日のキャンパスは、昨日の現実がまるで夢だったみたいに静かだった。
あれだけいた人がいない。屋台も音楽もない。
代わりにあるのは、段ボールとゴミ袋と、全身に疲れが貼り付いた実行委員たちだけ。
「おはよー……生きてる?」
委員長がゾンビみたいな顔でこちらに手を振ってきた。声だけ元気なの、どういう構造?
「生きてます……」
僕が返すと、背後から例の如く低い声がする。
「生かしてる……ギリギリ」
神崎だ。腕章は外してるのに、存在感は昨日のまま。見た目の良さも昨日のまま。
(ギリギリって何。僕のHPの話?)
「やめて、言い方が物騒」
「事実」
「事実じゃない!」
言い合っていると、委員長が僕らを見てにやにやする。
「ねえ、二人さ」
「なに」
「昨日、途中で消えたよね?」
僕はギクッとして、慌てて委員長を振り返った。
「えっ、いや、あれは、疲れてたから帰っただけで――」
僕が言い訳を組み立てるより早く、神崎がさらっと言った。
「約束があったので、抜けました」
委員長が目を丸くする。
「約束!? 何それ?」
僕は顔が熱くなるのを感じて、慌てて話を逸らした。
「き、今日の撤収、どこからやります?」
「お、話逸らした!」
委員長が笑いながらも、空気を読んで指示を出してくれる。
「ステージ解体が先! それ終わったら掲示剥がし! 広報はポスター回収もよろしく!」
「了解です!」
僕は返事をして、走り出しそうになって――肩を軽く掴まれた。
「走るな」
「……早歩き」
「早歩きなら許す」
「何の許可!?」
神崎が僕の耳元に、周りに聞こえない程度の小声で淡々と言った。
「彼氏の許可」
僕の脳が、一瞬停止しそうになった。
「……今それ言う!?」
「今言う」
「人いる!」
「この距離じゃ聞こえない」
「距離の問題じゃない!」
神崎は小さく笑って、軍手を一組僕に手渡してきた。
「ほら。これ、ちゃんと付けて」
「生活指導やめて」
「生活指導じゃない。撤収班」
(撤収班、彼氏になっても最強だな……)
◇
撤収作業は地味に過酷だった。
ガムテは指に張りつくし、段ボールは思ったより重い。
ステージ裏のケーブルが永遠に絡まっている。誰だよこの結び方したの。僕かもしれない。
「伊吹、それ持つな」
「持てるってば!」
「持てても持たない」
「なんで!」
「昨日、重たいの持ってよろけてた」
「……っ」
あんなに忙しかったのに、ちゃんと僕のことを見ている。悔しい。
神崎は僕の荷物を取りあげて、代わりに軽いものだけ残していく。
その手際が、腹立つくらいに優しい。
僕が黙っていると、神崎がふいに口を開いた。
「伊吹」
「なに」
「昨日の……」
心臓がドクンと跳ねた。
「昨日の、何」
「……呼び方」
「呼び方?」
「“蓮”って呼んだ」
神崎の耳が赤い。まだ撤収作業は始まってばかりだってのに。
「呼んだね」
「もう一回」
「え?」
「今」
神崎が周りの視線が切れたタイミングを見て、段ボールの陰に僕をそっと引っ張った。
「今ここで!?」
「今」
「無理!」
僕が慌てて拒否すると、神崎が少しだけ不機嫌になった。珍しく、子どもっぽい顔。
「……無理じゃない」
「無理だよ! 人いるもん!」
「誰も聞いてない」
「そういう問題じゃなくて!」
神崎は段ボールを持ったまま、ぼそっと呟いた。
「じゃあ、俺も呼ぶから」
「え?」
神崎が僕をまっすぐ見ながら、小さい声で言った。
「……悠真」
心臓が変な音を立てた。
(うわ。名前って、けっこうな破壊力……)
僕は思わず視線を泳がせていた。
「……い、今の反則」
「反則じゃない」
「反則だよ……」
「じゃあ、伊吹も」
「ぐっ……」
僕は負けた。負けたくないのに、負けた。
小声で、超小声で、ドキドキしながら神崎の名前を口にした。
「……れん」
「聞こえない」
「聞こえてるくせに!」
「聞こえない」
神崎が、ほんの少し口元を緩める。
「もう一回」
「調子乗るな!」
「彼氏の権利」
「権利にするな!」
僕は周りを確認してから、さっきより大きめの小声で言った。
「……蓮」
神崎の目が一瞬だけ大きくなって、それから、ふっと柔らかくなる。
「……よし」
「それ言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が笑った。
その笑いが、昨日の夜と同じ温度で、また胸がきゅっとなった。
◇
昼休み、学食にて。
僕と神崎はなんとか席を見つけて、向かい合って座っていた。
昨日は打ち上げでジャンクフードのカラフルな色に染まっていた場所が、今日は普通にうどんのお出汁の匂いしかしない。
「伊吹!」
声をかけてきたのは三木だった。まだテンションが高い。元気が余ってるみたいだ。ぜひ分けてほしい。
「昨日さ! お前、神崎くんと消えたじゃん!」
「消えてない!」
「消えてたよ」
三木がにやにやしながら話を続ける。
「で、どうだった? “約束”」
「約束って何の話!?」
僕が必死に誤魔化していると、神崎がしれっと割り込んできた。
「上手くいった」
僕は食べていたうどんを思わず噴きそうになった。
「ちょ、神崎!」
三木の目が、好奇心にキラリと輝く。
「なにそれ! なにそれ! 付き合った!?」
僕の脳内で、非常ベルがけたたましく鳴り響く。
(まだ! まだ心の準備が!)
僕が固まっていると、神崎がチラッと僕を見てからゆっくりと口を開いた。
「……関係者」
「関係者まだ使うの!? 便利すぎだろ!」
三木が爆笑する。
「お前らほんとおもしれー! まあいいや。学祭お疲れ! 俺、バイト行ってくるわ!」
「お疲れ!」
三木が学食を出て行ったのを確認してから、僕は神崎をギロリと睨んだ。
「……上手くいった、って何」
「約束」
「言い方が問題!」
「嘘は言ってない」
「言い方が意味深!」
神崎は涼しい顔で、いけしゃあしゃあと言った。
「伊吹、赤い」
「赤くない!」
「赤い」
僕の頭に、撤収班ルール第十一条がぱっと点灯した。
(やばい! 言われる……!)
慌てて先回りして阻止する。
「撤収班ルールはやめて!」
「撤収班じゃない」
「じゃあ何!」
神崎はそこで、少しだけ声を落とした。
「……彼氏の感想」
彼氏、という言葉に、僕の心臓がドキドキと反応する。
「……っ、そういうの、ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ」
神崎が小さく笑って、僕のトレーに唐揚げを一個置いた。
「食べろ」
「命令形やめて」
「……お願い」
神崎は、ちゃんと直す。そこがまたずるい。
僕は唐揚げを口に入れて、もごもごしながら言った。
「……撤収、あと少しで終わるよね」
「終わる」
「終わったら?」
神崎が僕を見る。昨日の約束の続きみたいに。
「撤収班じゃない時間」
「また作る?」
「作る」
即答。迷いがない。
僕は目を逸らして、でも口元が勝手に緩むのを止められなかった。
「……じゃあ、今日は僕が行きたいところ、決めてもいい?」
「いい」
「ほんと?」
「伊吹が決めるのが一番いい」
それはたぶん、僕が一番苦手な“自分の気持ちで選ぶ”ってやつ。
でも、隣に神崎がいるなら――
怖くないかもしれない。
◇
撤収作業に戻るために立ち上がると、神崎がいつものように言った。
「水」
「はいはい」
「飲む」
「はいはい」
「……好き」
最後だけ、声が小さかった。
僕は一瞬固まって、それから神崎を睨んだ。
「……今それ言う?」
「今言う」
「調子乗ってる」
「乗ってない」
「乗ってる」
神崎が少しだけ笑う。
「伊吹が赤くなるの、見たかった」
「やめて!」
僕が叫んで歩き出すと、神崎が当然みたいに隣に並んだ。
撤収班じゃない時間は、まだまだしばらく先。
でも――撤収班の時間の中にも、ちゃんと“彼氏”が混ざり始めている。
それが、僕は少しだけ嬉しかった。
目覚ましより先にスマホが震えた。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
(……彼氏になっても生活指導は変わらないんだ)
僕は布団に顔を埋めたまま、もそもそと返信する。
【伊吹:起きてる】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯は……あと】
既読。
【神崎:よし】
(言うなってば!)
ツッコんだら負けだと思って、僕は返信をやめた。
すると、一秒後にピロンと追加で通知が来た。
【神崎:あとじゃない。今】
【神崎:撤収班ルール第十五条】
【神崎:朝飯は“あと”禁止】
(増えるの早すぎる!!)
僕は半笑いのまま、渋々布団から起き上がった。
◇
学祭翌日のキャンパスは、昨日の現実がまるで夢だったみたいに静かだった。
あれだけいた人がいない。屋台も音楽もない。
代わりにあるのは、段ボールとゴミ袋と、全身に疲れが貼り付いた実行委員たちだけ。
「おはよー……生きてる?」
委員長がゾンビみたいな顔でこちらに手を振ってきた。声だけ元気なの、どういう構造?
「生きてます……」
僕が返すと、背後から例の如く低い声がする。
「生かしてる……ギリギリ」
神崎だ。腕章は外してるのに、存在感は昨日のまま。見た目の良さも昨日のまま。
(ギリギリって何。僕のHPの話?)
「やめて、言い方が物騒」
「事実」
「事実じゃない!」
言い合っていると、委員長が僕らを見てにやにやする。
「ねえ、二人さ」
「なに」
「昨日、途中で消えたよね?」
僕はギクッとして、慌てて委員長を振り返った。
「えっ、いや、あれは、疲れてたから帰っただけで――」
僕が言い訳を組み立てるより早く、神崎がさらっと言った。
「約束があったので、抜けました」
委員長が目を丸くする。
「約束!? 何それ?」
僕は顔が熱くなるのを感じて、慌てて話を逸らした。
「き、今日の撤収、どこからやります?」
「お、話逸らした!」
委員長が笑いながらも、空気を読んで指示を出してくれる。
「ステージ解体が先! それ終わったら掲示剥がし! 広報はポスター回収もよろしく!」
「了解です!」
僕は返事をして、走り出しそうになって――肩を軽く掴まれた。
「走るな」
「……早歩き」
「早歩きなら許す」
「何の許可!?」
神崎が僕の耳元に、周りに聞こえない程度の小声で淡々と言った。
「彼氏の許可」
僕の脳が、一瞬停止しそうになった。
「……今それ言う!?」
「今言う」
「人いる!」
「この距離じゃ聞こえない」
「距離の問題じゃない!」
神崎は小さく笑って、軍手を一組僕に手渡してきた。
「ほら。これ、ちゃんと付けて」
「生活指導やめて」
「生活指導じゃない。撤収班」
(撤収班、彼氏になっても最強だな……)
◇
撤収作業は地味に過酷だった。
ガムテは指に張りつくし、段ボールは思ったより重い。
ステージ裏のケーブルが永遠に絡まっている。誰だよこの結び方したの。僕かもしれない。
「伊吹、それ持つな」
「持てるってば!」
「持てても持たない」
「なんで!」
「昨日、重たいの持ってよろけてた」
「……っ」
あんなに忙しかったのに、ちゃんと僕のことを見ている。悔しい。
神崎は僕の荷物を取りあげて、代わりに軽いものだけ残していく。
その手際が、腹立つくらいに優しい。
僕が黙っていると、神崎がふいに口を開いた。
「伊吹」
「なに」
「昨日の……」
心臓がドクンと跳ねた。
「昨日の、何」
「……呼び方」
「呼び方?」
「“蓮”って呼んだ」
神崎の耳が赤い。まだ撤収作業は始まってばかりだってのに。
「呼んだね」
「もう一回」
「え?」
「今」
神崎が周りの視線が切れたタイミングを見て、段ボールの陰に僕をそっと引っ張った。
「今ここで!?」
「今」
「無理!」
僕が慌てて拒否すると、神崎が少しだけ不機嫌になった。珍しく、子どもっぽい顔。
「……無理じゃない」
「無理だよ! 人いるもん!」
「誰も聞いてない」
「そういう問題じゃなくて!」
神崎は段ボールを持ったまま、ぼそっと呟いた。
「じゃあ、俺も呼ぶから」
「え?」
神崎が僕をまっすぐ見ながら、小さい声で言った。
「……悠真」
心臓が変な音を立てた。
(うわ。名前って、けっこうな破壊力……)
僕は思わず視線を泳がせていた。
「……い、今の反則」
「反則じゃない」
「反則だよ……」
「じゃあ、伊吹も」
「ぐっ……」
僕は負けた。負けたくないのに、負けた。
小声で、超小声で、ドキドキしながら神崎の名前を口にした。
「……れん」
「聞こえない」
「聞こえてるくせに!」
「聞こえない」
神崎が、ほんの少し口元を緩める。
「もう一回」
「調子乗るな!」
「彼氏の権利」
「権利にするな!」
僕は周りを確認してから、さっきより大きめの小声で言った。
「……蓮」
神崎の目が一瞬だけ大きくなって、それから、ふっと柔らかくなる。
「……よし」
「それ言うなってば!!」
僕が叫ぶと、神崎が笑った。
その笑いが、昨日の夜と同じ温度で、また胸がきゅっとなった。
◇
昼休み、学食にて。
僕と神崎はなんとか席を見つけて、向かい合って座っていた。
昨日は打ち上げでジャンクフードのカラフルな色に染まっていた場所が、今日は普通にうどんのお出汁の匂いしかしない。
「伊吹!」
声をかけてきたのは三木だった。まだテンションが高い。元気が余ってるみたいだ。ぜひ分けてほしい。
「昨日さ! お前、神崎くんと消えたじゃん!」
「消えてない!」
「消えてたよ」
三木がにやにやしながら話を続ける。
「で、どうだった? “約束”」
「約束って何の話!?」
僕が必死に誤魔化していると、神崎がしれっと割り込んできた。
「上手くいった」
僕は食べていたうどんを思わず噴きそうになった。
「ちょ、神崎!」
三木の目が、好奇心にキラリと輝く。
「なにそれ! なにそれ! 付き合った!?」
僕の脳内で、非常ベルがけたたましく鳴り響く。
(まだ! まだ心の準備が!)
僕が固まっていると、神崎がチラッと僕を見てからゆっくりと口を開いた。
「……関係者」
「関係者まだ使うの!? 便利すぎだろ!」
三木が爆笑する。
「お前らほんとおもしれー! まあいいや。学祭お疲れ! 俺、バイト行ってくるわ!」
「お疲れ!」
三木が学食を出て行ったのを確認してから、僕は神崎をギロリと睨んだ。
「……上手くいった、って何」
「約束」
「言い方が問題!」
「嘘は言ってない」
「言い方が意味深!」
神崎は涼しい顔で、いけしゃあしゃあと言った。
「伊吹、赤い」
「赤くない!」
「赤い」
僕の頭に、撤収班ルール第十一条がぱっと点灯した。
(やばい! 言われる……!)
慌てて先回りして阻止する。
「撤収班ルールはやめて!」
「撤収班じゃない」
「じゃあ何!」
神崎はそこで、少しだけ声を落とした。
「……彼氏の感想」
彼氏、という言葉に、僕の心臓がドキドキと反応する。
「……っ、そういうの、ずるい」
「ずるくない」
「ずるいよ」
神崎が小さく笑って、僕のトレーに唐揚げを一個置いた。
「食べろ」
「命令形やめて」
「……お願い」
神崎は、ちゃんと直す。そこがまたずるい。
僕は唐揚げを口に入れて、もごもごしながら言った。
「……撤収、あと少しで終わるよね」
「終わる」
「終わったら?」
神崎が僕を見る。昨日の約束の続きみたいに。
「撤収班じゃない時間」
「また作る?」
「作る」
即答。迷いがない。
僕は目を逸らして、でも口元が勝手に緩むのを止められなかった。
「……じゃあ、今日は僕が行きたいところ、決めてもいい?」
「いい」
「ほんと?」
「伊吹が決めるのが一番いい」
それはたぶん、僕が一番苦手な“自分の気持ちで選ぶ”ってやつ。
でも、隣に神崎がいるなら――
怖くないかもしれない。
◇
撤収作業に戻るために立ち上がると、神崎がいつものように言った。
「水」
「はいはい」
「飲む」
「はいはい」
「……好き」
最後だけ、声が小さかった。
僕は一瞬固まって、それから神崎を睨んだ。
「……今それ言う?」
「今言う」
「調子乗ってる」
「乗ってない」
「乗ってる」
神崎が少しだけ笑う。
「伊吹が赤くなるの、見たかった」
「やめて!」
僕が叫んで歩き出すと、神崎が当然みたいに隣に並んだ。
撤収班じゃない時間は、まだまだしばらく先。
でも――撤収班の時間の中にも、ちゃんと“彼氏”が混ざり始めている。
それが、僕は少しだけ嬉しかった。



