学祭当日。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。心臓が勝手に「起きろ」と急かしてくる。怖い。
スマホを見ると、当然のように通知がある。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
(ここまでくるともはやお母さん)
いや、普通お母さんだってここまではしない。全然子離れできてない。
僕はいつも通り布団の中から返信した。
【伊吹:起きた】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯食べる】
既読。
【神崎:よし】
(努力するって言ったのに!)
でも今日はツッコんでる暇がない。僕は支度をして、腕章と資料を鞄に入れ、深呼吸をしてから家を出た。
◇
キャンパスに着いた瞬間、明らかにいつもと空気が違うことに気がついた。
普段は静かな正門が、屋台と看板と人で埋まっている。音楽、呼び込み、笑い声。大学がまるで別の場所みたいだ。
「伊吹!」
委員長が僕を見つけて手を振ってきた。目がギラギラしている。朝から元気すぎる。
「副委員長! 朝イチ導線チェックお願い!」
「了解!」
僕は資料を開きながら、導線の確認に走った。走るなって神崎に言われたけど、今日は走るしかない。副委員長、走る。
ステージ裏、案内所、救護室、トイレ、出入口……全部、ちゃんと機能しているか、一箇所ずつ確認していく。
掲示板を見ると、昨日貼った手書き誘導サインがちゃんと役に立っていた。矢印の向きも合ってる。よし、よし……って、僕の方が言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
ふいに、背後から低い声が聞こえてきた。
「走るな」
振り向くと、腕章をしっかりと腕にはめた神崎がいた。いつもより少し髪が整っていて、いつもより“本番”の顔だ。
「走ってない」
「走ってた」
「走ってないってば!」
「人混みで転んだら終わる」
神崎は僕の前に水のペットボトルを差し出した。
「飲め」
「命令形やめて……」
「……お願い」
今日もちゃんとお願いを言う。ずるい。
僕は素直に受け取ってペットボトルに口をつけた。冷たい水が喉を通って、少しだけ気分が落ち着く。
「神崎、今日は何の係?」
「撤収班」
「今日も撤収班!?」
「今日が一番撤収班」
「意味がわかんない!」
神崎が小さく笑って、それから真面目に言った。
「俺は広報と全体補助。それと伊吹の護衛」
「最後、いらない情報!」
「必要」
真顔で言うな。
◇
午前中は、なんとか回った。
だけど、人が増え始めた昼前から、現場が少しずつ崩れていく。
「副委員長! 案内所の前、行列伸びてます!」
「副委員長! 迷子が出ました!」
「副委員長! ステージ前、誘導が足りません!」
僕は耳が三組欲しかった。体も三つ欲しかった。
走り回って指示を出して、案内係に人を回して、警備と連携して、SNSのストーリー更新も確認して――
その途中で、三木に捕まった。
「伊吹ー! すげえじゃん! めっちゃ忙しそう!」
三木は差し入れの袋を持って来てくれていた。飲み物と小分けのお菓子だ。
「差し入れ! はい! 副委員長生きろ!」
「ありがとう! 助かる!」
三木が距離近めに肩を叩いてくる。
「今日終わったらさ、打ち上げ――」
「打ち上げは全体」
神崎の声が横からぶすりと刺さった。
三木がすかさず目を丸くする。
「うわ、出た。護衛」
「護衛じゃない」
「じゃあ何」
神崎が一瞬言葉に詰まってから、ゆっくりと口を開いた。
「……関係者」
関係者って何。学祭の? 僕の人生の?
僕がツッコむ前に、あっちから別の声が飛んできた。
「副委員長! ステージ班です! ちょっと!」
「ごめん、行く!」
僕が走り出そうとすると、神崎が僕の腕をぐいっと掴んだ。
「走るな」
「今それ言ってる場合じゃ――」
「走るな」
神崎は強い。掴む手が強いわけじゃなくて、止める意志が強い。
僕はぐっと下唇を噛んで、早歩きに切り替えた。
「……わかった!」
神崎が小さく頷いた。
その隣で三木がぽかんとしている。
「お前ら、ほんと何……?」
僕も知りたい。
◇
ステージ裏はカオスだった。
「開始が十五分押しで確定って出したのに、出演者が“十分押し”って言い始めて!」
「司会の原稿、時間が合わない!」
「観客が前に詰めすぎて危ない!」
ステージ班が焦っていて、あちこちで声が重なっている。僕の頭の中がまた絡まりそうになった。
(落ち着け。副委員長。まとめろ。まとめろ……!)
僕が口を開く前に、神崎が一歩前に出た。
「十五分押しは変更なしで。司会原稿は今ここで修正。警備を呼んで、観客は一度下げて」
指示が速くて迷いがない。
ステージ班が「わかった!」と動く。
僕は思わず神崎をまじまじと見上げてしまった。
(……神崎、かっこいい)
いやだ。そんな感想を抱く暇があったら仕事しろ、僕。
でも、神崎が“撤収班じゃない顔”をしてる時って、たいてい僕が危ない時だ。
神崎が僕にだけ聞こえる声で言った。
「伊吹。呼吸」
「してる」
「してない」
「……してる」
神崎が僕の手に、さりげなく飴を握らせた。
「糖分」
「今日も飴……」
「お守り」
昨日の言葉と同じ。胸がきゅっとする。
◇
午後。
トラブルは減らなかったけど、僕らは崩れなかった。
迷子は案内所で保護できたし、誘導は手書きサインが意外と強かった。ステージは十五分押しで回り始めたし、SNSもストーリーでこまめに周知できた。
僕はふと立ち止まって、キャンパスの人波を見渡した。
笑い声が聞こえた。屋台が賑わっている。ステージの音が響く。
(……ちゃんと学祭になってる)
胸の奥がじいんとした。
その瞬間、神崎が僕の横にすっと立った。
「笑ってる」
「え?」
「今。ちゃんと笑ってた」
神崎の声は静かで、でもすごく嬉しそうなのが伝わってくる。
僕は照れて、ついいつもの軽口で返していた。
「神崎のおかげでしょ。撤収班」
「撤収班じゃなくても、する」
「なにを」
神崎が僕を振り返る。目の光がいつにも増して優しい。
「伊吹の隣にいる」
胸が、またドキドキとうるさい。
「今それ言う?」
「今言う」
神崎ははっきりとそう言い切った。顔が赤い。いや、赤いのは僕の方かもしれない。
そこへ、委員長が勢いよく走ってくる。
「二人とも、あと一時間で終了だから! ラストまで頼むよ!」
「了解!」
僕は叫んで、走りそうになって――神崎に見られて、早歩きにした。
(悔しい……)
でも、その悔しさがなんだか楽しかった。
◇
夕方。閉会。
最後のアナウンスが流れ、人波がゆっくりと引いていく。屋台の片付けが始まり、スタッフの声が増える。
僕は腕章を握りしめて、大きく息を吐いた。
「……終わった」
「終わった」
神崎が隣にいる。今日はそれだけで、妙に安心する。
委員長が飛び跳ねながら言った。
「みんな! 打ち上げ行くぞー!!」
拍手と歓声がどっと湧き上がる。疲労と達成感が混ざって、空気が熱い。
僕は神崎をチラッと見た。
(約束、どうするんだろ)
神崎も僕を見る。視線がピタリと合う。
神崎が小さく言った。
「……約束」
心臓が跳ねる。
(この騒がしさの中で、二人だけの言葉がちゃんと届くのが、ずるい)
「うん」
「打ち上げ、顔出してから」
「そうだね」
神崎が一拍置いて、珍しく弱い声で言った。
「……逃げないで」
胸がぎゅっとなる。
「逃げないよ」
僕が言うと、こわばっていた神崎の肩が少しだけ緩んだ。
「……よし」
「言ったーー!!」
僕がツッコむと、神崎が笑った。
くたくたに疲れていたけど、その笑顔が眩しくて、この後の“約束”にドキドキと胸を高鳴らせている自分がいた。
目覚ましが鳴る前に目が覚めた。心臓が勝手に「起きろ」と急かしてくる。怖い。
スマホを見ると、当然のように通知がある。
【神崎:起床】
【神崎:水】
【神崎:朝飯】
(ここまでくるともはやお母さん)
いや、普通お母さんだってここまではしない。全然子離れできてない。
僕はいつも通り布団の中から返信した。
【伊吹:起きた】
【伊吹:水飲む】
【伊吹:朝飯食べる】
既読。
【神崎:よし】
(努力するって言ったのに!)
でも今日はツッコんでる暇がない。僕は支度をして、腕章と資料を鞄に入れ、深呼吸をしてから家を出た。
◇
キャンパスに着いた瞬間、明らかにいつもと空気が違うことに気がついた。
普段は静かな正門が、屋台と看板と人で埋まっている。音楽、呼び込み、笑い声。大学がまるで別の場所みたいだ。
「伊吹!」
委員長が僕を見つけて手を振ってきた。目がギラギラしている。朝から元気すぎる。
「副委員長! 朝イチ導線チェックお願い!」
「了解!」
僕は資料を開きながら、導線の確認に走った。走るなって神崎に言われたけど、今日は走るしかない。副委員長、走る。
ステージ裏、案内所、救護室、トイレ、出入口……全部、ちゃんと機能しているか、一箇所ずつ確認していく。
掲示板を見ると、昨日貼った手書き誘導サインがちゃんと役に立っていた。矢印の向きも合ってる。よし、よし……って、僕の方が言いかけて、慌てて口をつぐんだ。
ふいに、背後から低い声が聞こえてきた。
「走るな」
振り向くと、腕章をしっかりと腕にはめた神崎がいた。いつもより少し髪が整っていて、いつもより“本番”の顔だ。
「走ってない」
「走ってた」
「走ってないってば!」
「人混みで転んだら終わる」
神崎は僕の前に水のペットボトルを差し出した。
「飲め」
「命令形やめて……」
「……お願い」
今日もちゃんとお願いを言う。ずるい。
僕は素直に受け取ってペットボトルに口をつけた。冷たい水が喉を通って、少しだけ気分が落ち着く。
「神崎、今日は何の係?」
「撤収班」
「今日も撤収班!?」
「今日が一番撤収班」
「意味がわかんない!」
神崎が小さく笑って、それから真面目に言った。
「俺は広報と全体補助。それと伊吹の護衛」
「最後、いらない情報!」
「必要」
真顔で言うな。
◇
午前中は、なんとか回った。
だけど、人が増え始めた昼前から、現場が少しずつ崩れていく。
「副委員長! 案内所の前、行列伸びてます!」
「副委員長! 迷子が出ました!」
「副委員長! ステージ前、誘導が足りません!」
僕は耳が三組欲しかった。体も三つ欲しかった。
走り回って指示を出して、案内係に人を回して、警備と連携して、SNSのストーリー更新も確認して――
その途中で、三木に捕まった。
「伊吹ー! すげえじゃん! めっちゃ忙しそう!」
三木は差し入れの袋を持って来てくれていた。飲み物と小分けのお菓子だ。
「差し入れ! はい! 副委員長生きろ!」
「ありがとう! 助かる!」
三木が距離近めに肩を叩いてくる。
「今日終わったらさ、打ち上げ――」
「打ち上げは全体」
神崎の声が横からぶすりと刺さった。
三木がすかさず目を丸くする。
「うわ、出た。護衛」
「護衛じゃない」
「じゃあ何」
神崎が一瞬言葉に詰まってから、ゆっくりと口を開いた。
「……関係者」
関係者って何。学祭の? 僕の人生の?
僕がツッコむ前に、あっちから別の声が飛んできた。
「副委員長! ステージ班です! ちょっと!」
「ごめん、行く!」
僕が走り出そうとすると、神崎が僕の腕をぐいっと掴んだ。
「走るな」
「今それ言ってる場合じゃ――」
「走るな」
神崎は強い。掴む手が強いわけじゃなくて、止める意志が強い。
僕はぐっと下唇を噛んで、早歩きに切り替えた。
「……わかった!」
神崎が小さく頷いた。
その隣で三木がぽかんとしている。
「お前ら、ほんと何……?」
僕も知りたい。
◇
ステージ裏はカオスだった。
「開始が十五分押しで確定って出したのに、出演者が“十分押し”って言い始めて!」
「司会の原稿、時間が合わない!」
「観客が前に詰めすぎて危ない!」
ステージ班が焦っていて、あちこちで声が重なっている。僕の頭の中がまた絡まりそうになった。
(落ち着け。副委員長。まとめろ。まとめろ……!)
僕が口を開く前に、神崎が一歩前に出た。
「十五分押しは変更なしで。司会原稿は今ここで修正。警備を呼んで、観客は一度下げて」
指示が速くて迷いがない。
ステージ班が「わかった!」と動く。
僕は思わず神崎をまじまじと見上げてしまった。
(……神崎、かっこいい)
いやだ。そんな感想を抱く暇があったら仕事しろ、僕。
でも、神崎が“撤収班じゃない顔”をしてる時って、たいてい僕が危ない時だ。
神崎が僕にだけ聞こえる声で言った。
「伊吹。呼吸」
「してる」
「してない」
「……してる」
神崎が僕の手に、さりげなく飴を握らせた。
「糖分」
「今日も飴……」
「お守り」
昨日の言葉と同じ。胸がきゅっとする。
◇
午後。
トラブルは減らなかったけど、僕らは崩れなかった。
迷子は案内所で保護できたし、誘導は手書きサインが意外と強かった。ステージは十五分押しで回り始めたし、SNSもストーリーでこまめに周知できた。
僕はふと立ち止まって、キャンパスの人波を見渡した。
笑い声が聞こえた。屋台が賑わっている。ステージの音が響く。
(……ちゃんと学祭になってる)
胸の奥がじいんとした。
その瞬間、神崎が僕の横にすっと立った。
「笑ってる」
「え?」
「今。ちゃんと笑ってた」
神崎の声は静かで、でもすごく嬉しそうなのが伝わってくる。
僕は照れて、ついいつもの軽口で返していた。
「神崎のおかげでしょ。撤収班」
「撤収班じゃなくても、する」
「なにを」
神崎が僕を振り返る。目の光がいつにも増して優しい。
「伊吹の隣にいる」
胸が、またドキドキとうるさい。
「今それ言う?」
「今言う」
神崎ははっきりとそう言い切った。顔が赤い。いや、赤いのは僕の方かもしれない。
そこへ、委員長が勢いよく走ってくる。
「二人とも、あと一時間で終了だから! ラストまで頼むよ!」
「了解!」
僕は叫んで、走りそうになって――神崎に見られて、早歩きにした。
(悔しい……)
でも、その悔しさがなんだか楽しかった。
◇
夕方。閉会。
最後のアナウンスが流れ、人波がゆっくりと引いていく。屋台の片付けが始まり、スタッフの声が増える。
僕は腕章を握りしめて、大きく息を吐いた。
「……終わった」
「終わった」
神崎が隣にいる。今日はそれだけで、妙に安心する。
委員長が飛び跳ねながら言った。
「みんな! 打ち上げ行くぞー!!」
拍手と歓声がどっと湧き上がる。疲労と達成感が混ざって、空気が熱い。
僕は神崎をチラッと見た。
(約束、どうするんだろ)
神崎も僕を見る。視線がピタリと合う。
神崎が小さく言った。
「……約束」
心臓が跳ねる。
(この騒がしさの中で、二人だけの言葉がちゃんと届くのが、ずるい)
「うん」
「打ち上げ、顔出してから」
「そうだね」
神崎が一拍置いて、珍しく弱い声で言った。
「……逃げないで」
胸がぎゅっとなる。
「逃げないよ」
僕が言うと、こわばっていた神崎の肩が少しだけ緩んだ。
「……よし」
「言ったーー!!」
僕がツッコむと、神崎が笑った。
くたくたに疲れていたけど、その笑顔が眩しくて、この後の“約束”にドキドキと胸を高鳴らせている自分がいた。



