撤収班ルールで、犬猿なはずのあいつと恋をする

 学祭前日。
 人はこれを「地獄」と呼ぶ。
 キャンパスは朝から騒がしくて、いつもは静かな廊下に段ボールが走り、脚立が運ばれ、ガムテの音が鳴り響いていた。学内の空気が、妙に熱い。
 僕は広報班の荷物を抱えながら、汗だくになって走り回っていた。

(掲示追加、誘導案内、ストーリー更新、当日アナウンス……!)

 頭の中のチェックリストが暴れ回る。止まれ。

「伊吹!」

 後ろから神崎の声が飛んできた。
 振り向くと、神崎が腕にポスターの束を抱えて、こちらに向かってくる。走ってる。あの神崎が、走っている。

「……神崎が走ってるの、初めて見た」
「今それ言う?」
「ごめん!」

 神崎は息を整える暇もなく言った。

「ステージ前の誘導サイン、二箇所分枚数が足りない」
「え、足りないって……ちゃんと掲示板の数だけ刷ってたはずだけど?」
「誰かが持っていった」
「持っていった!?」

 神崎が素早く頷く。

「たぶん、別班が流用したんだと思う。よくあることだ」

(よくあるの嫌すぎる!)

「ステージ前は人が詰まる。誘導サインがないと、質問が全部スタッフに来て運営が止まる」

 僕は必死に脳みそをフル回転させた。

「じゃあ、今から増刷――」
「印刷室、激混み」
「……詰んだ?」
「詰んでない」

 神崎がきっぱりと言い切った。

「救済策」
「あるの?」
「ある」

 神崎は僕の手から荷物を一部取って、淡々と指示を出した。

「伊吹。スマホで誘導文作って。“ステージ→出入口”の矢印だけ。簡単なやつでいい」
「うん!」
「俺がコピー機を探して出す。それか手書きで。A4で貼れる」
「手書きで!?」
「緊急時は手書きが強い」
「強いの概念が壊れてる!」

 でも神崎の目は真剣で、僕もふざけてる場合じゃなかった。

「わかった!」

 僕は壁際に寄って、スマホのメモを開いた。短く、見やすく、矢印と単語だけ。迷子対策のテンプレが役に立つ。

(よし、こういう時のための“広報”だ)

 十秒で文案を作って神崎に送る。

【伊吹:ステージ→出口はこちら→】

 既読がつく前に、神崎が僕の横から覗き込んで言った。

「いい」
「早っ」
「即採用」

 神崎の褒め方が、珍しくストレートだった。胸が少し軽くなる。
 神崎はスマホを握りしめたまま、だっと駆け出した。

「俺は印刷。伊吹はステージ前の誘導位置の確認」
「了解!」

 分担が決まると、頭の中の霧が晴れる。こういう時、神崎がいると、ちゃんと息ができる。



 昼過ぎ、さらに事件が起きた。
 広報の当日配布の案内チラシが、箱ごと見当たらない。

「えっ、どこ!?」

 僕が印刷室で箱の山をひっくり返していると、神崎がすぐにやって来た。

「どうした」
「チラシの箱が消えた!」
「消えた?」
「消えた!」

 神崎はさっと印刷室を見まわしてから、僕に視線を戻した。

「誰かが運んだのかも」
「どこに!?」
「現場」

 神崎の視線が、足元の段ボールのラベルに止まる。

「……“案内係”の倉庫。気を利かせて持って行ったのかも」
「案内係……!?」

 僕が走り出そうとすると、神崎がさっと僕の腕を掴んだ。

「走るな」
「でも急がないと!」
「急ぐけど、走らない」
「矛盾してる!」

 神崎は僕を引っ張りながら、早歩きで移動した。走ってないのに速い。なにそれ。
 案内係の倉庫に着くと、係の一年生が「あっ、これですか?」とチラシ箱を指差した。

「すみません! “配布用”って書いてあったので、勝手にここに……!」

 僕は膝からガクンと力が抜けるような気がした。

「……あります。ありますね。良かった……」

 神崎が一年生に、外面の優しさで話しかけている。

「大丈夫。次からは一言だけ連絡して」
「はいっ!」

(外面の神崎、ほんとに使い分けるな……)

 僕が箱を抱えようとした瞬間、神崎がさらっと自然にそれを取った。

「持つ」
「僕が持つよ」
「伊吹は持たない」
「なんで!」
「伊吹、手が震えてる」

 言われて初めて、自分の指先が微かに震えていることに気がついた。

(あ……緊張してたんだ)

 神崎は箱を抱えると、さっさと歩き出しながら僕に向かって淡々と話しかけてきた。

「学祭はうまくいくよ」
「根拠は?」
「俺がいる」

 さらっと言うな。
 胸が、ドキドキとうるさい。うっかりかっこいいとか思ってしまうじゃないか。



 そして夕方。
 貼り替えも、増刷も、搬入も、なんとか終わった。キャンパスのあちこちに誘導サインが貼られ、看板が立ち、実行委員の腕章が配られていく。
 前日なのに、まだやることがあるのが怖い。
 僕と神崎は、最後の確認作業のために校内を一周していた。空がだんだん暗くなっていく。
 ステージ前で立ち止まって、僕は大きく息を吐いた。

「……ここまで来たね」
「来た」
「明日、本番だよ」
「本番」
「神崎、語彙が減ってる」
「疲れてる」

 神崎が珍しく正直に言った。

「神崎も疲れるんだ」
「人間」
「人間なんだ」
「失礼」

 僕が笑うと、神崎も小さく笑った。疲れてるのに笑えるのが、嬉しい。
 ふいに神崎が言った。

「伊吹」
「なに」
「明日」

 心臓が跳ねる。明日、って言葉が大きい。次に何を言われるのか、ドキドキしながら期待してしまう。

「……明日、どうしたの」
「明日、終わったら」

 神崎は少し間を置いて、僕からすいっと視線を逸らした。

「……撤収班じゃない時間」

 またその言い方。

 僕の指先が、昨日自習室で握った神崎の体温を思い出す。

「……作るって言ってたね」
「言った」
「どこ行くの」
「どこでも」
「雑!」
「伊吹が行きたいところ」

 神崎が僕を見た。真面目で、今度は視線を逸さなかった。

「……約束」

 言葉が、じわりと胸に落ちて広がる。
 僕は、笑って誤魔化せなかった。

「……うん。約束」

 神崎の口元が、ほんの少しだけ上がる。
 その瞬間、僕のスマホがブブッと震えた。委員長からだ。

【委員長:前日最終チェックOK! みんなほんとありがとう! 明日よろしく!】

 僕は思わずプッと吹き出した。

「委員長、テンション高い」
「委員長は、強い」
「強いって何だっけ」
「伊吹が一番わかってる」

 神崎が言って、僕の肩に触れそうになって――やめた。

(さわらないんだ)

 触れたらきっと、僕の心臓がもたないから。神崎もわかってるんだと思う。
 代わりに神崎は、ポケットから飴を出して僕に渡した。

「はい」
「また飴」
「学祭前夜だから。糖分」
「お守りみたい」

 僕が言うと、神崎は囁くような声で言った。

「お守り」

 心臓が、静かにトクンと跳ねた。



 帰り道、神崎がいつものように言う。

「帰宅連絡」
「はいはい」

 僕が笑うと、神崎は言いかけて――止めた。

「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」

 神崎が咳払いをして、気を取り直すように言った。

「……明日、頑張ろう」
「うん」

 僕が頷くと、神崎が声を低くして言った。

「……明日、伊吹が笑ってるところが見たい」

 胸がぎゅっとなる。

「見せるよ。副委員長だし」
「副委員長じゃなくても」

 神崎の声が、今日一番優しかった。

 学祭当日まで、あと一晩。
 忙しさも不安もある。
 でも――明日の終わりに“約束”があるだけで、僕はもう少しだけ頑張れる気がした。