学祭当日まで、あと三日。
この言葉って、こんなに胃にくるものなんだ。
広報の最終作業は、増える一方だった。タイムテーブルの最終版を印刷、掲示、SNSで再告知。注意事項の差し替え。迷子防止の案内。雨が降った場合の導線確認。ステージ班からの「これも足して!」という無限の追記。
僕は副委員長として、頭の中に“やること一覧”を常に浮かべていた。消しても消しても復活する。まるでゾンビみたい。
(寝たい……でも寝たら置いていかれる気がする……)
印刷室の蛍光灯がやけに白い。紙の匂いとインクの匂いが、頭をぼんやりさせる。
「伊吹」
神崎の声がして、僕は反射的に背筋を伸ばした。
「なに」
「今、目が死んでた」
「死んでない!」
「死んでた」
「……寝不足なだけ」
神崎はいつも通りの涼しい顔で、でも僕の机の上を見て眉根を寄せた。
「それ、今日の分?」
「うん」
「それも?」
「……うん」
「それも?」
「……うん」
神崎が無言になる。無言が怖い。
「……神崎、怒ってる?」
「怒ってない」
「その“怒ってない”は怒ってる時のやつだよ」
神崎はため息を吐いて、僕の椅子の背もたれに手を置いた。
「伊吹」
「なに」
「今日は早く帰ろう」
「無理。まだ――」
「無理じゃない。帰る」
「神崎、命令形やめてって言ったよ!」
神崎は一瞬黙ってから、少し声を低めて言った。
「……お願い。早く帰って」
……ずるい。
僕が黙ると、神崎はさらに続けた。
「ここで倒れたら、学祭が始まる前に終わる」
「終わらない」
「終わる」
「終わらない!」
「終わる」
「うるさい!」
僕は怒ったフリをしながら、内心ではわかっていた。たぶん僕、今、強がってる。
(副委員長だから平気な顔しなきゃ、って思ってる)
神崎は僕の手元の付箋を一枚取った。
「これは、今日やる必要ない」
「必要あるよ。迷子対策の――」
「迷子は案内係がやる。広報が背負うな」
「……でも」
「でも、じゃない」
神崎が言い切って、僕のバッグを指差した。
「帰る準備」
「……まだ」
「帰る準備」
圧が強い。撤収班の圧じゃない。以前の会議のときみたいな、“撤収班じゃない顔”だ。
僕は、諦めたようにため息を吐いた。
「……わかったよ」
その瞬間、神崎の肩の緊張が少しだけ緩んだ。
(神崎、最近“撤収班じゃない顔”、多いな……)
◇
外に出ると、もう空が暗くなりかけていた。学内の掲示板には僕らの作ったポスターが並んでいて、それがやけに“現実”を突きつけてくる。
歩いていると、神崎がふいに言った。
「寄り道」
「どこに」
「図書館の自習室」
「え?」
「静かで、人がいない場所で作業しよう」
「帰るんじゃなかったの!?」
「帰る。だから“ここで終わらせる”。印刷室だと人が来て、また作業が増えるだろ。早く帰るから、作業は少しだけ。伊吹が“今日中にやらないと落ち着かない病”発症してるから」
「病名作るな!」
「作った」
「作るな!」
神崎は平然と自習室の鍵を借りて、僕を中に入れた。夜の図書館は、昼の賑やかさが嘘みたいに静かだ。机の木の匂いが落ち着く。
神崎は椅子を二つ並べて、僕の前に温かい缶を置いた。
「はい」
「なにこれ」
「ココア」
「……なんで」
「甘いの。脳に」
「また僕の顔で栄養判断してる」
「観察結果」
僕はココアを両手で包んだ。じんわりと温かい。
(あ、やばい。泣きそう)
泣く理由がわからないのがさらに怖い。疲れてるだけ。そういうことにする。
神崎がノートパソコンを開いて、淡々と言った。
「やるのは二つだけ」
「二つ?」
「当日アナウンス文の最終版の作成と、ストーリー用の短文テンプレ作成」
「……それ、二つに見えて中身十個あるやつ」
「俺が九割やる」
「え?」
「伊吹は確認と、言葉の温度調整」
神崎が画面を僕に向けた。
「ほら。ここ。“混雑が予想されますので”って硬い気がする。伊吹ならどう書く」
僕は画面を覗き込んで、思わずふふっと笑った。
「神崎、急に“優しい文章”書けないタイプ?」
「書ける」
「嘘だ。『混雑が予想されますので』って役所だよ」
「役所は信頼できる」
「信頼できても面白くはない!」
神崎が小さく笑う。そこから、作業が始まった。
僕が「ここは“迷ったら案内係に声をかけてください”の方が安心する」と言うと、神崎はすぐにぱぱっと直す。僕が「“楽しんでください”って入れたい」と言うと、神崎は素直に頷く。
気づけば、さっきまでの焦りが少しずつ薄れていった。
(……神崎と作業すると、なんだか楽に息ができる気がする)
ストーリー用の文章を読んでいるとき、僕の手がふいに手が止まった。
「……あ」
「何」
「ここ、“変更”って書くと、また混乱するかも」
「じゃあどうする」
「“追加のお知らせ”って言い換えよう。あと、時間は画像で出す」
「オッケー」
神崎が即答して、キーボードを叩く。
その指の動きが速くて、綺麗で、僕はなぜか見入ってしまった。
神崎がおもむろに顔を上げる。
「……見てる」
「見てない!」
「見てた」
「見てないってば!」
神崎が微かに目を細めた。
「伊吹」
「なに」
「無理してない?」
唐突に核心を突かれて、僕は一瞬言葉を失った。
「……してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
神崎は短く言ってから、ココアの缶を指で軽く叩いた。
「飲んで。手、冷たい」
「冷たくない」
「冷たい」
僕は渋々飲んだ。甘い。思ったより、ちゃんと甘い。
神崎が続ける。
「無理してる自覚ないなら、もっと危ない」
「……怖い言い方やめて」
神崎は一拍置いて、大事なことを言う時みたいに声を落とした。
「伊吹が壊れるの、嫌だ」
自習室の静けさが、普段より神崎の言葉を大きく響かせている。
僕は思わず目を逸らした。
「……僕、壊れないよ」
「壊れるよ」
「壊れない」
「壊れる」
「うるさい!」
言い合いなのに、神崎の声は優しかった。
僕は耐えきれなくなって、逆に神崎に聞いてみた。
「……神崎は無理してないの?」
神崎が一瞬だけ止まる。
「してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
僕が真似すると、神崎の口角が少しだけ上がった。
「……伊吹、うざい」
「神崎に言われたくない」
「言われたくない、って言う余裕あるなら大丈夫」
「それ、僕のセリフだし!」
神崎が笑って、そしてふっと真面目な顔に戻る。
「伊吹」
「なに」
「学祭、終わったら」
心臓が、ドキンと跳ねた。
「……終わったら、なに」
神崎はちょっとの間黙って、言葉を探すみたいに視線を落とした。
「……“撤収班”じゃない時間、作りたい」
心臓がうるさい。うるさすぎる。
「それって、デートみたいな?」
僕が半分冗談で言うと、神崎が珍しく少しうろたえたような表情をした。
「……デート、でもいい」
僕の耳に、じわじわと熱が上がってくる。
僕は誤魔化すように笑った。
「神崎、そういうこと言うと顔に出るよ」
「出ない」
「出る」
「出ない」
「出るってば」
神崎が僕を見る。少しだけ悔しそうで、少しだけ照れてる目だ。
「……伊吹も出てる」
「出てない!」
「出てる」
「出てない!」
神崎が、自分の手をほんの少しだけ僕の方に近づけた。
机の上。指先の距離が、数センチ縮まる。
僕は、思わず息を止めた。
(え、これ……)
神崎は指先を近づけて、いったん止めた。
まるで許可を待つみたいに。
それから視線を逸らしたまま、小さい声で言った。
「……握る?」
声が小さすぎて、聞き間違いかと思った。
「……な、なにそれ」
「いやならいい」
撤収班みたいに強引じゃない。逃げ道がある言い方。ずるい。
僕は、心臓の音がうるさいまま、神崎の手に自分の指先をそっと重ねた。
神崎の手は温かかった。指が少し震えていて、僕より緊張してるみたいで、なんだか可笑しい。
「……神崎、護衛なのにビビってる」
「ビビってない」
「ビビってる」
「……ビビってるかも」
神崎が小さく認めて、僕の指をぎゅっと握った。
たったそれだけで、僕の体の奥の疲れが、少しだけ溶けた気がした。
神崎が淡々と言う。
「これで、倒れない」
「どういう理屈?」
「理屈じゃない」
手を繋いだだけで倒れないって……でも、ちょっと分かるのが悔しい。
「珍しく正直」
「今だけ」
「今だけって言うな」
神崎が小さく笑った。
僕も笑った。今日は、自分の笑いがちゃんと自分のものだと思えた。
◇
作業は予定通り二つだけで終わった……ほんとに終わったのが信じられない。
鍵を返して外に出ると、夜の空気が冷たいのに、手だけがじんわりと温かい。
神崎が僕を見て言う。
「帰る」
「うん」
「帰宅連絡」
「はいはい」
僕が笑って言うと、神崎がいつもの言葉を言いかけて――止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎が咳払いして、少しだけ耳を赤くした。
「撤収班ルール……じゃなくて」
「じゃなくて?」
神崎が視線を逸らして、小さく言った。
「……今日、ありがとう」
僕はココアの甘さを思い出して、同じように返した。
「……どういたしまして」
学祭当日まで、あと三日。
たぶんまたトラブルは起きる。忙しさも増える。
でも、指先の温度が残っているうちは――僕は、平気な顔をしなくてもいい気がした。
この言葉って、こんなに胃にくるものなんだ。
広報の最終作業は、増える一方だった。タイムテーブルの最終版を印刷、掲示、SNSで再告知。注意事項の差し替え。迷子防止の案内。雨が降った場合の導線確認。ステージ班からの「これも足して!」という無限の追記。
僕は副委員長として、頭の中に“やること一覧”を常に浮かべていた。消しても消しても復活する。まるでゾンビみたい。
(寝たい……でも寝たら置いていかれる気がする……)
印刷室の蛍光灯がやけに白い。紙の匂いとインクの匂いが、頭をぼんやりさせる。
「伊吹」
神崎の声がして、僕は反射的に背筋を伸ばした。
「なに」
「今、目が死んでた」
「死んでない!」
「死んでた」
「……寝不足なだけ」
神崎はいつも通りの涼しい顔で、でも僕の机の上を見て眉根を寄せた。
「それ、今日の分?」
「うん」
「それも?」
「……うん」
「それも?」
「……うん」
神崎が無言になる。無言が怖い。
「……神崎、怒ってる?」
「怒ってない」
「その“怒ってない”は怒ってる時のやつだよ」
神崎はため息を吐いて、僕の椅子の背もたれに手を置いた。
「伊吹」
「なに」
「今日は早く帰ろう」
「無理。まだ――」
「無理じゃない。帰る」
「神崎、命令形やめてって言ったよ!」
神崎は一瞬黙ってから、少し声を低めて言った。
「……お願い。早く帰って」
……ずるい。
僕が黙ると、神崎はさらに続けた。
「ここで倒れたら、学祭が始まる前に終わる」
「終わらない」
「終わる」
「終わらない!」
「終わる」
「うるさい!」
僕は怒ったフリをしながら、内心ではわかっていた。たぶん僕、今、強がってる。
(副委員長だから平気な顔しなきゃ、って思ってる)
神崎は僕の手元の付箋を一枚取った。
「これは、今日やる必要ない」
「必要あるよ。迷子対策の――」
「迷子は案内係がやる。広報が背負うな」
「……でも」
「でも、じゃない」
神崎が言い切って、僕のバッグを指差した。
「帰る準備」
「……まだ」
「帰る準備」
圧が強い。撤収班の圧じゃない。以前の会議のときみたいな、“撤収班じゃない顔”だ。
僕は、諦めたようにため息を吐いた。
「……わかったよ」
その瞬間、神崎の肩の緊張が少しだけ緩んだ。
(神崎、最近“撤収班じゃない顔”、多いな……)
◇
外に出ると、もう空が暗くなりかけていた。学内の掲示板には僕らの作ったポスターが並んでいて、それがやけに“現実”を突きつけてくる。
歩いていると、神崎がふいに言った。
「寄り道」
「どこに」
「図書館の自習室」
「え?」
「静かで、人がいない場所で作業しよう」
「帰るんじゃなかったの!?」
「帰る。だから“ここで終わらせる”。印刷室だと人が来て、また作業が増えるだろ。早く帰るから、作業は少しだけ。伊吹が“今日中にやらないと落ち着かない病”発症してるから」
「病名作るな!」
「作った」
「作るな!」
神崎は平然と自習室の鍵を借りて、僕を中に入れた。夜の図書館は、昼の賑やかさが嘘みたいに静かだ。机の木の匂いが落ち着く。
神崎は椅子を二つ並べて、僕の前に温かい缶を置いた。
「はい」
「なにこれ」
「ココア」
「……なんで」
「甘いの。脳に」
「また僕の顔で栄養判断してる」
「観察結果」
僕はココアを両手で包んだ。じんわりと温かい。
(あ、やばい。泣きそう)
泣く理由がわからないのがさらに怖い。疲れてるだけ。そういうことにする。
神崎がノートパソコンを開いて、淡々と言った。
「やるのは二つだけ」
「二つ?」
「当日アナウンス文の最終版の作成と、ストーリー用の短文テンプレ作成」
「……それ、二つに見えて中身十個あるやつ」
「俺が九割やる」
「え?」
「伊吹は確認と、言葉の温度調整」
神崎が画面を僕に向けた。
「ほら。ここ。“混雑が予想されますので”って硬い気がする。伊吹ならどう書く」
僕は画面を覗き込んで、思わずふふっと笑った。
「神崎、急に“優しい文章”書けないタイプ?」
「書ける」
「嘘だ。『混雑が予想されますので』って役所だよ」
「役所は信頼できる」
「信頼できても面白くはない!」
神崎が小さく笑う。そこから、作業が始まった。
僕が「ここは“迷ったら案内係に声をかけてください”の方が安心する」と言うと、神崎はすぐにぱぱっと直す。僕が「“楽しんでください”って入れたい」と言うと、神崎は素直に頷く。
気づけば、さっきまでの焦りが少しずつ薄れていった。
(……神崎と作業すると、なんだか楽に息ができる気がする)
ストーリー用の文章を読んでいるとき、僕の手がふいに手が止まった。
「……あ」
「何」
「ここ、“変更”って書くと、また混乱するかも」
「じゃあどうする」
「“追加のお知らせ”って言い換えよう。あと、時間は画像で出す」
「オッケー」
神崎が即答して、キーボードを叩く。
その指の動きが速くて、綺麗で、僕はなぜか見入ってしまった。
神崎がおもむろに顔を上げる。
「……見てる」
「見てない!」
「見てた」
「見てないってば!」
神崎が微かに目を細めた。
「伊吹」
「なに」
「無理してない?」
唐突に核心を突かれて、僕は一瞬言葉を失った。
「……してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
神崎は短く言ってから、ココアの缶を指で軽く叩いた。
「飲んで。手、冷たい」
「冷たくない」
「冷たい」
僕は渋々飲んだ。甘い。思ったより、ちゃんと甘い。
神崎が続ける。
「無理してる自覚ないなら、もっと危ない」
「……怖い言い方やめて」
神崎は一拍置いて、大事なことを言う時みたいに声を落とした。
「伊吹が壊れるの、嫌だ」
自習室の静けさが、普段より神崎の言葉を大きく響かせている。
僕は思わず目を逸らした。
「……僕、壊れないよ」
「壊れるよ」
「壊れない」
「壊れる」
「うるさい!」
言い合いなのに、神崎の声は優しかった。
僕は耐えきれなくなって、逆に神崎に聞いてみた。
「……神崎は無理してないの?」
神崎が一瞬だけ止まる。
「してない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘」
僕が真似すると、神崎の口角が少しだけ上がった。
「……伊吹、うざい」
「神崎に言われたくない」
「言われたくない、って言う余裕あるなら大丈夫」
「それ、僕のセリフだし!」
神崎が笑って、そしてふっと真面目な顔に戻る。
「伊吹」
「なに」
「学祭、終わったら」
心臓が、ドキンと跳ねた。
「……終わったら、なに」
神崎はちょっとの間黙って、言葉を探すみたいに視線を落とした。
「……“撤収班”じゃない時間、作りたい」
心臓がうるさい。うるさすぎる。
「それって、デートみたいな?」
僕が半分冗談で言うと、神崎が珍しく少しうろたえたような表情をした。
「……デート、でもいい」
僕の耳に、じわじわと熱が上がってくる。
僕は誤魔化すように笑った。
「神崎、そういうこと言うと顔に出るよ」
「出ない」
「出る」
「出ない」
「出るってば」
神崎が僕を見る。少しだけ悔しそうで、少しだけ照れてる目だ。
「……伊吹も出てる」
「出てない!」
「出てる」
「出てない!」
神崎が、自分の手をほんの少しだけ僕の方に近づけた。
机の上。指先の距離が、数センチ縮まる。
僕は、思わず息を止めた。
(え、これ……)
神崎は指先を近づけて、いったん止めた。
まるで許可を待つみたいに。
それから視線を逸らしたまま、小さい声で言った。
「……握る?」
声が小さすぎて、聞き間違いかと思った。
「……な、なにそれ」
「いやならいい」
撤収班みたいに強引じゃない。逃げ道がある言い方。ずるい。
僕は、心臓の音がうるさいまま、神崎の手に自分の指先をそっと重ねた。
神崎の手は温かかった。指が少し震えていて、僕より緊張してるみたいで、なんだか可笑しい。
「……神崎、護衛なのにビビってる」
「ビビってない」
「ビビってる」
「……ビビってるかも」
神崎が小さく認めて、僕の指をぎゅっと握った。
たったそれだけで、僕の体の奥の疲れが、少しだけ溶けた気がした。
神崎が淡々と言う。
「これで、倒れない」
「どういう理屈?」
「理屈じゃない」
手を繋いだだけで倒れないって……でも、ちょっと分かるのが悔しい。
「珍しく正直」
「今だけ」
「今だけって言うな」
神崎が小さく笑った。
僕も笑った。今日は、自分の笑いがちゃんと自分のものだと思えた。
◇
作業は予定通り二つだけで終わった……ほんとに終わったのが信じられない。
鍵を返して外に出ると、夜の空気が冷たいのに、手だけがじんわりと温かい。
神崎が僕を見て言う。
「帰る」
「うん」
「帰宅連絡」
「はいはい」
僕が笑って言うと、神崎がいつもの言葉を言いかけて――止めた。
「……よ」
「言いかけた!」
「言ってない」
「言いかけた!」
神崎が咳払いして、少しだけ耳を赤くした。
「撤収班ルール……じゃなくて」
「じゃなくて?」
神崎が視線を逸らして、小さく言った。
「……今日、ありがとう」
僕はココアの甘さを思い出して、同じように返した。
「……どういたしまして」
学祭当日まで、あと三日。
たぶんまたトラブルは起きる。忙しさも増える。
でも、指先の温度が残っているうちは――僕は、平気な顔をしなくてもいい気がした。



