空には鍵が掛かっていない

 この場の雰囲気にそぐわない生徒がいるなと、そのときはただそんなふうに思っていた。
 僕は図書委員で、だからこそ放課後の図書室のカウンターに座って、返却された本のバーコードを読み取ったり、貸出の作業をおこなったり、ブックトラックに乗せられた本を書架に並べ直しに立ったりしていた。
 彼は同級生だから、なにもそのときが初対面というわけではなかった。廊下で彼が友人たちと騒いでいるその横を通り過ぎたこともあったし、「おはよっ!」と、唐突に挨拶をされたこともあった。だけど彼を『鮫島海斗』というひとりの人間として認識したのは、そのときが初めてだった。

 鮫島海斗。この学校に、彼の名を口にして眉をひそめない教師はいない。出席日数は留年スレスレ、喧嘩の噂は絶えず、制服の着こなしひとつとっても校則への反逆心が透けて見える。 だが、彼がただの「不良」であれば、僕もここまで意識しなかったはずだ。 鮫島は、笑うのだ。 教師に説教されているときも、自分の取り巻きと馬鹿話をしているときも、彼はいつも白い歯を見せて屈託なく笑う。その笑顔が太陽のような引力を持ち、周囲の人間を惹きつけてやまないことを、彼自身が誰よりも知っているようだった。

 そんな鮫島が、よりによって専門書の棚の前で立ち止まっている。指先が書架の背表紙を滑っていく。不意に彼が振り返り、颯爽とこちらにやってきた。
「なあ、これ、借りたいんだけど」
 ドサリ、と無造作に置かれたハードカバー。午後の体育のあとで体にふりかけたのだろう、微かな制汗スプレーの匂いが、古紙の匂いを乱暴に上書きする。至近距離で目が合った。次の瞬間、彼の顔がくしゃりと歪む。例の、あの笑顔だ。
「あれ? 佐藤じゃねえか!」
「あ……うん。こんにちは」
 心臓が不格好に跳ねた。 鮫島はまるで、親しい友人を雑踏で見つけたかのような声を上げたのだ。僕はその熱量に気圧され、反射的に身を引いてしまう。悪い癖だ。人見知りといえば聞こえはいいが、相手が好意的に話しかけてくれているのに口ごもってしまう悪癖を直したいと、ずっと思っている。

 僕は普段、図書室を利用する生徒が借りる本なんて気にもしないのだけれど、鮫島がカウンターの上に置いた本を見て、内心ギョッとした。そもそも彼が本を借りるということ自体が珍しく……いや、もっと言えば図書室を訪れることが意外すぎるのだけれど、その本を見る限り、必要にかられてやってきたのだろうと推察した。
「どうした? 早くしてくれよ」
「あ、ああ、ごめん……」
 僕は慌てて本を手に取った。

『事例で学ぶ 少年法と保護観察』

 表紙にも、背表紙にも見間違いではないぞとばかりにありありとそのタイトルが刻まれている。あまりにも生々しいタイトルだと思った。高校生が興味本位で読む本ではない。明らかに『必要に迫られて』手に取る本だ。  
 顔を上げると、鮫島からは笑顔が消えていた。真顔だった。
「……佐藤。お前、図書委員だよな」
 声のトーンが低い。
「こういうの詳しいか? オレ、馬鹿だから読んでもよく分かんなくてよ」
 その瞳には、切迫した色が浮かんでいた。僕は初めて、学年一のムードメーカーが、誰にも言えない弱さを晒している瞬間に立ち会ってしまったのかもしれない。
 なぜ僕なのだ。そもそも図書委員だからといって、この部屋にある本のすべてを知っているわけではないし、どんな本にも興味があるわけでもない。そもそも少年法について書かれた専門書が蔵書としてあること自体、いま初めて知ったのだ。
「鮫島……くんはどうしてこの本を?」
 頭ごなしに突き放さなかったのは、僕の中の好奇心が疼いたからだ。僕は自分が思っているより随分と浅ましい人間らしい。
「おっ! 相談に乗ってくれるのか?」
 鮫島の表情がパッと明るくなる。だけどよく見ると、細めた目の奥は、ちっとも笑っていなかった。それに気付いたとき、僕は背筋がぞっと冷たくなった。いつも笑顔を絶やさない人が、実は心の中に闇を抱えている……というのはよくある話だけど、鮫島もその『よくある』うちのひとりだと他人事のように括るには、あまりにも近しい存在だった。
 普段、ろくに会話もしないのに。同級生で、顔を知っているというだけなのに。
「いや、そういうわけじゃないけど……」
 じゃあどういうわけなんだと聞かれたらどうしようと思ったが、鮫島は口ごもった僕を見て、ハハッと笑った。
「どうしてオレがこんな本を借りようとしてるのか、気になったんだろ」
「……ごめん」
 図星だった。続く言葉もなく、それからは淡々と貸出の手続きを行う。鮫島は僕から本を受け取ると、「サンキュー」と言って、図書室を出て行った。

 鮫島は普段、よく授業をサボって屋上にいるらしい。折角学校に来ているのに授業をサボるなんて、僕には考えられない。でも他人には他人の価値観があって、きっと鮫島は勉強を人生の重きに置いていないのだろう。
 あの日以来、僕は彼のことが気になってしょうがなかった。
 学校に来ているだけで奇跡、なんて陰口を叩く教師もいるが、今の僕には彼が必死に何かに抗っているようにしか見えなかった。

***

 数日後の昼休み、僕は衝動的に教室を抜け出した。
 向かった先は屋上だ。本来は立ち入り禁止の場所に向かうのは、僕には勇気が要った。
 重い鉄の扉を押し開けると、乾いた風が頬を撫でた。コンクリートの照り返しが眩しい。その光の中に、彼はいた。給水塔の陰、フェンスに背中を預けて座り込んでいる。いつもの取り巻きはいない。彼はひとりだった。
「……うげっ」
 足音に気づいた鮫島が顔を上げ、あからさまに嫌そうな声を漏らす。だが、僕の顔だと認識すると、その表情が少しだけ緩んだ。
「なんだ、佐藤かよ。センコーかと思ったじゃねえか」
「ご、ごめん。驚かせるつもりはなくて」  
 また謝ってしまった。僕は鮫島の数メートル手前で足を止めた。視線は、彼の手元に吸い寄せられる。  
 ページが開かれたままの『事例で学ぶ 少年法と保護観察』、あの本だ。 鮫島は大きな手でそのページを押し広げていたが、眉間には深い皺が刻まれていた。まるで難解な暗号解読に挑んでいるかのような、苦渋の表情だ。
「……読んでるんだ」  
 僕がおそるおそる尋ねると、鮫島はバツが悪そうに鼻を鳴らした。
「おう。読んでるけどよ……なに書いてあるかさっぱりだ。漢字も多いし、言い回しがいちいち回りくどいんだよ。これ書いたヤツ、絶対性格悪いぜ」  
 悪態をつきながらも、彼は本を閉じようとはしない。その指先が、ある一行の上で迷うように止まっているのを僕は見逃さなかった。  
 制服のシャツ越しにもわかる逞しい肩が、小さく震えているようにも見えた。喧嘩に明け暮れているはずの彼が、紙束相手にこれほど無力になっている。そのアンバランスさが、僕の『お節介』のスイッチをまたしても押してしまった。
「……どこが、分からないの?」  
 気づけば、僕は彼の隣にしゃがみ込んでいた。鮫島は驚いたように目を丸くする。至近距離で見ると、彼の瞳は予想以上に澄んだ茶色をしていた。
「え、いや、全部っていえば全部なんだけどよ……特にここ。これ、なんて読むんだ? どういう意味だ?」
 彼が指差した太字の箇所を覗き込む。鮫島の指先が示していたのは『虞犯少年』という単語だった。
「ああ、それは『ぐはんしょうねん』って読むんだよ」
「グハン?」
「罪を犯す『おそれ』がある少年のこと。実際に何かしたわけじゃないけど、性格や環境からして、将来的に犯罪をする可能性が高いと判断された場合……とかかな」
 説明しながら、僕は自分の心臓が早鐘を打っているのを感じていた。鮫島海斗の隣で、少年法の解説をしている自分。数日前には想像もできなかった光景だ。
 鮫島は「ふうん」と唸り、真剣な眼差しでその文字を見つめた。
「……何もしなくても、そう決めつけられちまうのかよ」  
 ぽつりとこぼれ落ちた言葉は、鉛のように重かった。僕の心の中にずしりとのしかかってくる。
  風がページをめくろうとするのを、彼は太い指で押さえつける。その横顔には、いつもの太陽のような笑顔の欠片もなかった。そこに垣間見えたのは、迷子になった子供のような、切実な不安だった。
「なあ、佐藤」
 鮫島が不意に顔を上げ、僕をまっすぐに見た。
「お前、頭いいよな。図書委員だし」
「いや、図書委員は関係ないけど……成績は、まあ普通だよ」
「オレにさ、この本の中身、教えてくんねえか」
 頼み込むような、縋るような声だった。
「いま、これを知っとかないと……オレ、たぶん後悔する。このさきずっと……それこそたぶん、一生、後悔する気がするんだ」
 鮫島の喉仏がごくりと上下する。その言葉の裏に隠された事情を、僕はまだ知らない。けれど、彼が今、なにかと必死に戦おうとしていることだけは痛いほど伝わってきた。
 断る理由はなかった。いや、正直に言えば、断りたくなかったのだ。
 僕はずっと、この学校の異分子である彼に、惹かれていたのかもしれない。
「……分かった。僕でよければ」
 そう答えると、鮫島は一瞬きょとんとして、それから、あのくしゃりとした笑顔を弾けさせた。その表情を見て、胸を撫で下ろす。彼がまだ、そういう表情が出来る心の余裕を持ち合わせていそうなことに安堵したのだ。
「マジか! サンキューな、佐藤!お前、見た目よりいいヤツだな!」
バン、と背中を叩かれる。痛い。けれど、その痛みが不思議と嫌ではなかった。
 青空の下、僕と不良少年の、奇妙な読書会が始まろうとしていた。

「いいか、まず前提として……少年法っていうのは『罰すること』が主目的じゃないんだ。『少年の健全な育成』、つまり立ち直らせることが目的なんだよ」
 僕は教科書を読み上げる教師のような口調にならないよう、言葉を選びながら説明した。
 鮫島は胡座をかいた膝の上に本を広げ、食い入るように文字を追っている。額にはじわりと汗が滲んでいた。初夏の日差しのせいだけではないだろう。彼が発する熱気のようなものが、隣にいる僕にも伝わってくる。
「立ち直らせる、か……」  
 鮫島が低い声で復唱する。彼の整えられた細い眉がまた大きく歪んだ。
「じゃあ、もし……もしもだぞ。相手を半殺しにするくらいの喧嘩をしたとしても、反省してれば許されるのか?」
「許される、という言葉が正しいかは分からないけど……」
 僕は言葉を濁した。鮫島の例えがあまりにも具体的だったからだ。「半殺し」という物騒な単語が、彼が口にすると冗談に聞こえない。
「家庭裁判所は、その事件の重さだけじゃなくて、本人の性格とか、家庭環境とか、そういうのも全部見て処分を決めるんだ。だから、本当に反省していて、周りの大人がしっかりサポートできるなら、少年院に行かずに保護観察で済むこともある……って、この本には書いてある」
 そこまで一気に喋ってから、僕は息を継いだ。鮫島は黙り込んでいた。視線は本に落とされたままだが、ページをめくる気配はない。握りしめられた拳の関節が白く浮き上がっている。その手の甲には、いくつかのかさぶたと、古傷のような白い線が走っていた。
 それが喧嘩の勲章なのか、それとももっと別の痛みによるものなのか、僕には分からない。ただ、普段遠巻きに見ていた「不良の鮫島」という記号が剥がれ落ち、痛みや迷いを抱えた生身の人間がそこにいることだけは確かだった。
「……なぁ、佐藤」
 長い沈黙の後、鮫島が口を開いた。
「保護観察ってのは、具体的に何すりゃいいんだ?」
「えっと……月に数回、保護司っていう人のところに行って面談したり、約束事を守ったりするんだ。悪い友達と付き合わない、とか、夜遊びしない、とか」
「……それだけか?」
「基本的には。あとは、社会奉仕活動とかもあるみたいだけど」
「そうか」
 鮫島は短く息を吐き出し、空を見上げた。
「やり直せるチャンスはあるんだな」
 その横顔には、安堵とも苦渋ともつかない複雑な色が浮かんでいた。まるで、綱渡りのロープの上で、かろうじてバランスを保っているような危うさだ。
「あのさ、鮫島くん」
 僕は意を決して、これまでずっと喉元まで出かかっていた問いをついに口にした。
「その本、誰のために読んでるの?」
 まさか自分自身のためじゃないよねとはさすがに言えなくて、遠回しな聞き方になった。
 鮫島はゆっくりと視線を空から僕へと戻す。その瞳が、探るように僕を射抜いた。一瞬、拒絶されるかと思った。だが、彼は自嘲気味に口の端を吊り上げた。
「……ダチだよ」
「友達?」
「ああ。バカな連れがいてよ。調子に乗ってでかいヤマ踏んじまって、今、少年院に入ってんだ」
 少年院。僕にとっては聞きなじみのない単語が、彼の口からは日常会話の一部のように飛び出してくる。
「あいつ、家も複雑でよ。親も半ば見捨ててるような状態で……このままだと誰も引き取り手がないって噂を聞いたからよ。……俺になんかできねえかなと思って」
 それだけじゃないはずだと直感した。友人が捕まっているのも、その友人を心配しているのも本当だろう。けれど、彼が放っている切迫感は「友人のため」という美談だけで説明できる量を超えていた。
 鮫島自身が、当事者であるかのような。あるいは、その友人と自分を重ね合わせ、自分の未来を見ているかのような、そんな怯えを感じたのだ。でも、僕はそれを指摘しなかった。指摘してしまえば、この奇妙な連帯感が壊れてしまう気がしたからだ。
「……そっか。友達思いなんだね」
「茶化すなよ」
 鮫島は照れ隠しのように鼻の下を擦ると、乱暴に本を閉じた。
「今回はここまでだ。オレの頭がパンクしちまう。……サンキューな、佐藤。助かったわ」
 彼は立ち上がり、ズボンの尻についた砂を払った。見上げると、逆光の中で彼の体躯が一層大きく見える。
「あ、あのさ」
 立ち去ろうとする彼の背中に、僕は声をかけた。
「また、分かんないところがあったら……聞いてよ。僕でよければ、また一緒に読むから」
 自分で言っておいて、心臓が跳ねた。だがその跳躍は、鮫島と初めて言葉を交わしたときのものとは違う。高揚感にも似ていた。
 これは共犯の申し出だ。優等生の図書委員が、不良の片棒を担ぐようなものだ。 鮫島は振り返り、目を丸くした。それから、今日一番の、屈託のない笑顔を見せた。
「おう! 頼りにしてるぜ、佐藤センセ」
 予鈴のチャイムが、昼休みの終わりを告げる。 グラウンドに向けて設置されたスピーカーがフェンスの真下にあるから、その音は鼓膜の奥まで響くような大きな音だった。
 屋上の扉を開けて校舎内へと戻っていく彼の背中を見送りながら、僕は自分の掌がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。 退屈だった僕の日常に、劇薬が一滴、垂らされたような気がした。——それからというもの、昼休みの屋上は僕たち二人だけの秘密の教室になった。

***

 教室での鮫島は相変わらずだ。机に足を投げ出し、取り巻きたちと大声で笑い、授業中に教師に注意されれば悪びれもせず軽口を叩く。クラスメイトたちはそんな彼を恐れ、怪訝に眉をひそめ、あるいは面白がり、遠巻きに眺めている。以前の僕もその中の一人だったけれど、今は違う。
(あ、今の笑い方は演技だ)
(先生を睨んでいるけど、あれは本当は困っている顔だ)
 授業中、斜め前の席に座る彼の背中を見つめながら、僕は優越感にも似た奇妙な感情を抱いていた。鮫島の本当の顔を知っているのは、この学校で僕だけだ。その思い込みは、透明人間みたいだった僕の輪郭を、少しだけ濃くしてくれる気がした。
 僕は図書委員の特権をフル活用し、鮫島のために『アンチョコ』を作り始めた。
 放課後になると図書室に向かい、あの難解な専門書の要点をノートにまとめ、噛み砕いた言葉で解説を書き込む。ルビも振った。テスト勉強だってこんなに真剣にやったことはない。 チャイムが鳴ると同時に弁当を早食いし、準備したノートを抱えて屋上へ走る。それが僕の新しい日常になっていた。
「へえ、家庭裁判所調査官……ってのが調べるのか」
 その日、鮫島はコンビニのおにぎりを頬張りながら、僕が作ったノートを覗き込んでいた。 初夏の風が少し強くなり、生ぬるい空気が僕たちに吹き付けてくる。
「そう。少年がどうして事件を起こしたのか、その背景を詳しく調べる専門家だよ。性格検査とか、面接とかをして……その結果を裁判官に報告するんだ」
「ふうん……。そいつは、少年の味方なのか?」
「味方、とも少し違うかな。少年の更生のために何が必要かを考える人、だから」
 鮫島は「ふん」と鼻を鳴らし、おにぎりの包装フィルムをくしゃりと握りつぶした。
「更生、ねえ。……なあ、佐藤」
「ん?」
「その調査官ってのは、親のことも調べるのか?」
 唐突な問いだった。鮫島の声のトーンが、ふっと低くなる。
「うん、調べるみたいだよ。保護者が少年をちゃんと監督できる能力があるか、とか、家庭環境に問題がないか、とか」
「……もしよ」
 鮫島は視線をノートから外し、遠くの景色——グラウンドのフェンスの向こうにある住宅街を見つめた。
「もし、親がどうしようもないクズだったら、どうなるんだ? 親に引き取る気がなくて、更生させる力もないって判断されたら……その少年は、どこに行けばいいんだよ」
 ドキリとした。鮫島の横顔に浮かんでいたのは、友人を案じる表情というよりは、もっと個人的で、切実な諦念のように見えたからだ。
  鮫島の家庭の噂は、友達のいない僕の耳にも届いていた。
 父親は蒸発し、母親には新しい男がいるとかいないとか。その真偽は定かではないが、彼が『家』という場所に安らぎを感じていないことだけは、その荒んだ雰囲気から察することができた。 いまの問いは、捕まった友人のことなのか、それとも自分自身のことなのか。
「……その場合は」
 僕は喉の渇きをおぼえながら、慎重に言葉を選んだ。
「児童自立支援施設とか、養護施設に行くこともあるし……どうしても家庭での更生が難しいと判断されたら、少年院送致になる可能性も高くなる、とは思う」
それも本に書いてあったことだ。
「……だよな」
 鮫島は短く吐き捨てると、苦笑いを浮かべた。
「環境が悪いからって、子供が割を食うなんて理不尽な話だぜ。生まれた場所は選べねえのにな」
 かける言葉が見つからなかった。「そうだね」と同意するのも、「そんなことないよ」と否定するのも、どちらも彼を傷つける気がした。
 沈黙が落ちる。グラウンドで野球部の金属バットがボールを叩く音が響く。夏の大会を目前にして、昼休み返上で練習をしているらしい。
 鮫島はふと、自嘲するように呟いた。
「ま、オレには関係ねえ話だけどな。……悪い、湿っぽい話になっちまった」
 彼は強引に空気を変えるように、パンと両手を叩いた。
「よし、続きだ続き! この『審判』ってのはどういう流れで進むんだ?」
 鮫島を見ると、笑っていた。いつもの、太陽のような笑顔で。けれど僕には、その笑顔がひどく脆い仮面に見えて仕方がなかった。今にも崩れ落ちそうなその仮面を支えているのが、僕とのこの時間だけなのだとしたら。僕は無意識のうちに、ノートの端を強く握りしめていた。
「……審判はね、非公開で行われるんだ」
 説明を続けながら、僕の中でひとつの感情が芽生え始めていた。ただの好奇心や、優越感じゃない。
 僕は、この、ほんとうは不器用で乱暴な同級生を——鮫島海斗という人間を、守りたいと思っているのかもしれない。僕が彼に教えているのは『法律』だけれど、彼が僕に教えてくれているのは、もっと別の、今はまだ名前の分からない感情だった。
 
 その時だった。ギギ、と錆びついた蝶番が鳴き、屋上の重い鉄扉の開く音がした。
 僕と鮫島は弾かれたように振り返る。姿を見せたのは、生活指導担当の体育教師、黒崎だった。ジャージ姿の巨体が、入り口を塞ぐように仁王立ちしている。
「おい……こんなところで何をしている」
 地を這うような低い声。鮫島が舌打ちをし、僕を庇うように一歩前に出た。
「鮫島。またお前か。ここが立ち入り禁止なのは知っているはずだろう」
 黒崎の視線は、鮫島を睨みつけたあと、ゆっくりと僕の方へと動いた。
 その目が、怪訝そうに細められる。
「……佐藤? お前、こんなところで何をしている」
 黒崎の声には、明らかに「おとなしい生徒の佐藤がなぜここに?」という戸惑いと、「まさか脅されているのか?」という懸念が混じっていた。
「あー、センセ。こいつは関係ねえよ」
 僕が口を開くより先に、鮫島が気怠げに言った。彼は僕の方を見ようともせず、ポケットに手を突っ込む。
「オレが呼び出したんだ。暇つぶしの相手が欲しくてよ。こいつ、断りきれなくてついてきただけだから。説教ならオレ一人に……」
「違います!」
 僕の口から飛び出したのは、自分でも驚くほど大きな声だった。鮫島が驚いて振り返る。黒崎も眉を跳ね上げた。心臓が早鐘を打っている。膝が震えそうだ。でも、ここで鮫島に『悪役』を演じさせて、僕だけが『被害者』として安全圏に逃げることだけは、どうしてもしたくなかった。それは、ここ数日積み上げてきた彼との時間を、僕自身が否定することになるからだ。
「呼び出されたんじゃありません。僕が……僕が、鮫島くんと一緒にいたかったんです」
「一緒にいたかった、だと?」
 黒崎の声がドスを利かせる。
「はい。僕たちは……勉強をしていました」
 僕は震える手で、隠していたあのノートと、分厚い専門書を突き出した。
「勉強?」
 黒崎は胡散臭そうに鼻を鳴らし、僕の手からノートをひったくった。パラパラとページをめくる音が、静まり返った屋上に響く。そこに書かれているのは、僕の文字で写された少年法に関する詳細な記述だ。そして余白には、鮫島の汚い字で『ムズい』とか『なるほど』とか、感想やメモが書き殴られている。それがいじめやパシリの結果ではないことは、教師である黒崎なら一目でわかるはずだ。そこには、この数日、確かに二人が頭を突き合わせていた痕跡があった。
「……少年法、か」
 黒崎はノートから顔を上げ、鮫島を見た。その眼差しが、わずかに揺らいだように見えた。軽蔑でも、敵意でもない。何かを探るような、複雑な色。
「お前がこれを勉強しているのか」
「……わりぃかよ」
 鮫島は顔を背け、不貞腐れたように言った。長い沈黙が流れた。風が吹いて、ノートのページがパタパタと鳴る。僕は乾いた喉を潤すように、生唾をごくりと飲み込んだ。
 やがて、黒崎は大きなため息をつくと、乱暴にノートを僕の胸に押し付けた。
「……屋上は立ち入り禁止だ。鍵が壊れているからといって、そして『勉強』をするからといって入っていい理由にはならん」
 厳しい口調だったが、その瞳からここに現れたときのような険しい色は消えていた。
「チャイムはとっくに鳴っている。さっさと教室に戻れ。……今回は見逃してやるが、次はないぞ」
「は、はい! すみません!」
 僕は深々と頭を下げた。鮫島も、気まずそうに、けれど小さく頭を下げたのが見えた。
 逃げるように屋上を後にし、階段を降りる。踊り場まで来て、ようやく黒崎の足音が聞こえなくなったとき、鮫島が立ち止まった。
「……お前、馬鹿かよ」
 背中を向けたまま、彼が言った。
「あそこは『無理やり連れて来られた』って言っとけば、お前は怒られずに済んだんだぞ。内申点に響いたらどうすんだよ」
「そんなの、どうでもいいよ」
 僕は息を整えながら答えた。
「それに、嘘をつくのは嫌だったんだ。僕たちは本当に、勉強してただけなんだから」
 鮫島がゆっくりと振り返る。彼は呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔で、くしゃりと髪を掻き上げた。
「マジで変わったヤツだな、お前。……でも、サンキュー。助かった」
「ううん。僕の方こそ」
 二人で顔を見合わせ、ふっと笑いが漏れた。黒崎に見つかって、決まりを破った共犯者になったという事実が、僕たちの距離をまた少し縮めた気がした。
 教室に戻ろうとした時、鮫島がふと思い出したように言った。
「なあ、佐藤。さっきの話の続きなんだけどよ」
「さっきの話?」
「親に見捨てられた少年の話だ」
 空気が、また張り詰める。
「もし……そいつに、帰る家がなかったら。シャバに出たあとも、誰も引き受けてくれなかったら。そいつは一人で生きていくしかねえのか?」
 その問いかけに、僕は先ほどの黒崎の表情を思い出していた。あの複雑な目。先生たちは知っているだろう。鮫島の家庭の事情を。彼が今、どんな環境のもとに立たされているのかを。僕はノートを握りしめ、彼に向き直った。
「……一人じゃない場合もあるよ」
「あ?」
「『身元引受人』は、必ずしも親じゃなくてもいいんだ。親戚とか、雇い主とか……少年を真剣に支えようとしてくれる大人がいれば、認められることもある」
 僕の言葉を聞いた瞬間、鮫島の目が見開かれた。
「親以外でも……いいのか?」
「うん。簡単ではないけど、可能性はある」
 その時、鮫島の表情が、今まで見たことのないものに変わった。 それは、暗闇の中に一筋の光を見つけたような――縋るような希望の表情だった。
「そうか……父親や母親じゃなくても、いいんだな」
 そう言った彼が誰を思い浮かべたのかは分からない。けれど、その『誰か』の存在が、今の彼をギリギリのところで支えているのだと確信した。
「よし!」
 鮫島はパンと自分の頬を叩き、気合を入れるように声を上げた。
「勉強の続きは放課後だ! 図書室なら文句ねえだろ? 頼むぜ、佐藤!」
「えっ、図書室でやるの? 目立つんじゃ……」
「知ったことかよ。オレは勉強熱心な生徒なんだからな」
 ニカっと笑って、彼は廊下を歩き出す。その背中は、屋上にいた時よりも少しだけ軽やかに見えた。僕はその後ろ姿を見つめながら、ある予感に震えていた。 彼がここまで前のめりに必死で知識を吸収しているのは、友人のためと単なる知識欲だけではない。きっと自分の人生を切り拓くための「武器」を探しているのだ。そして僕は、その武器を渡す役割を担ってしまった。もう、後戻りはできない。僕はそう思って彼のあとを追った。

***

 放課後の図書室は、普段なら静寂と微睡みに満ちた場所だ。だが今日は、まるで猛獣が迷い込んだ檻のような緊張感に包まれていた。
「……おい、声でかいぞ」
 僕が小声で注意すると、対面に座った鮫島が「お、わりぃ」と肩をすくめた。彼は意外にも、図書室のルールを律儀に守ろうとしていた。ドスドスと歩かないように気をつけているし、ページをめくる手つきも、いつもの乱暴さがなりを潜めている。ただ、その広い背中と鋭い目つきは、隠そうとしても隠しきれない威圧感を放っていたけれど。
 周囲の視線が痛い。自習している生徒や、本を選んでいる下級生たちが、チラチラとこちらを盗み見ている。
「なんで鮫島が?」
「隣のあいつ誰?」
「図書委員のカウンターに座っているやつだろ」
 そんなヒソヒソ話が聞こえてくる。しかし、当の鮫島はそんな雑音など意に介さず、僕が広げたノートの一点を指差した。
「ここだ、佐藤。さっき言ってた『雇い主』ってやつ」
 彼は声を潜めながらも、熱っぽく問いかける。
「仕事場の親方が『こいつの面倒は俺が見る』って言えば、それでも身元引受人になれんのか?」
「……うん。なれるよ。『補導委託』といって、家庭裁判所が適当な人に少年を預ける制度もあるし、少年院から仮退院するときに、住み込みで働かせてくれる雇用主が引受人になるケースも多いみたいだ」
 僕が答えると、鮫島は深く息を吐き、天井を仰いだ。
「住み込み……か。最高じゃねえか」
 その言葉の響きには、単なる知識の確認以上の、切実な憧れが滲んでいるように感じられた。僕はシャープペンシルを握り直した。彼の意図が、少しずつ輪郭を結び始めている。
「……ねえ、鮫島くん」
 僕は核心に触れる質問を投げかけた。
「ひょっとして、その『友達』には、働き口があるの?」
 鮫島は視線を戻し、少し迷うような素振りを見せてから、ニヤリと笑った。
「ああ。……まあ、友達の話だけどな」
 彼は内ポケットから、くしゃくしゃになった一枚の名刺を取り出した。油のシミがついた、古い名刺だ。『鮫島モータース』と書かれているわけではない。『田村モータース』という武骨な文字が躍っていた。
「ガキの頃からオレらが世話になってるバイク屋のおっさんがいてよ。『もしもおまえたちが高校を辞めても、家追い出されても、ウチに来りゃなんとかなる』って、いつも言ってくれてんだ」
 鮫島はその名刺を、まるでお守りのように親指でさすった。
「でもよ、未成年が親の同意なしに一人暮らししたり、契約したりすんのは難しいだろ? だから、法的にどうなのか知りたかったんだ。もし警察沙汰になったり、親が連れ戻しに来たりした時に……そのおっさんに迷惑かけたくねえから」 
 点と点が繋がった。鮫島は単に「友達」を救いたいだけじゃない。 自分自身を救うための逃走ルートをも構築しようとしているのだ。法という武器を使って、親という鎖を断ち切り、自分の力で生きていくための準備。そのために、彼は学年一の問題児という仮面の下で、必死に足掻いていたのだ。
「……すごいね」
 素直な感想が口をついて出た。
「え?」
「いや、ちゃんと考えてるんだなって。……そのおじさんが引受人になってくれて、住む場所と仕事が確保できれば、家を出ても補導されたり連れ戻されたりするリスクは減らせると思う。特に、家庭環境に問題があるって裁判所や児童相談所に認めさせられれば、親権者の同意がなくても……」
 僕は夢中で説明していた。法律の知識なんて、つい数日前までただの活字の羅列だった。けれど今は、鮫島や彼の友人の自由をこじ開けるための『鍵』に見える。鮫島は真剣な眼差しで頷き、僕の言葉を一言一句漏らさないように聞いていた。
「よし、分かってきた」
 ひとしきり話を聞いた鮫島が、満足げに名刺をポケットにしまった、その時だった。

「海斗!」
 静かな図書室に、場違いなほど甲高い、甘ったるい声が響き渡った。ビクリと肩を震わせたのは僕だけじゃない。鮫島の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。入り口の方を見ると、派手なメイクをした女性が立っていた。年齢は三十代後半くらいだろうか。服装も若作りで、学校という場所には明らかにそぐわない空気を纏っている。その後ろには、困り果てた顔の事務職員が立っていた。
「やっと見つけた。もう、電話くらい出てよお」
 女性はスリッパの音を響かせ、一直線にこちらへ歩いてくる。鮫島が立ち上がった。その背中が強張っている。
「……母さん」
 その呼び名を聞いた瞬間、僕の背筋に冷たいものが走った。この人が、鮫島の母親。 彼女は僕たちのテーブルまで来ると、鮫島の腕に絡みつくように抱きついた。甘い香水の匂いが漂ってきた。
「黒崎先生って方から電話があったのよ。最近、素行が悪いって。心配して来ちゃった」
 言葉とは裏腹に、彼女の目は笑っていなかった。そして、その視線がゆっくりと、鮫島の隣にいる僕へと向けられた。
「あら、お友達?」
 値踏みするような、ねっとりとした視線。  鮫島が慌てて僕を庇うように一歩前に出る。
「関係ねえよ。ただの……図書委員だ。オレに本の場所を教えてくれてただけだ」
 彼は僕との関係を否定した。でもそれは、屋上での黒崎とのやりとりのときとは違う。僕をこの母親に関わらせまいとする、明らかな拒絶——いや、防衛だった。
「ふうん……」
 母親は興味なさそうに僕から視線を外すと、鮫島の頬に手を添えた。
「ねえ海斗。今日、パパが帰ってくるの。あっちのお家から。久しぶりに三人でご飯食べましょうよ」
「……オレは行かねえよ」
「だめよ。お金、必要なんでしょ? 原付の修理代とか、色々」
 直後、彼女は鮫島の耳元で何かを囁いた。鮫島の拳が、白くなるほど握りしめられる。
「……分かったよ。行くよ」
 鮫島は絞り出すように言った。
「うふふ、いい子」
 母親は満足げに微笑むと、僕の方を一瞥もせずに踵を返した。
「校門で待ってるからね」と言い残し、颯爽と去っていった。残されたのは、凍りついたような沈黙と、香水の残り香だけ。
 鮫島はしばらく立ち尽くしていたが、やがて力なく椅子に座り込んだ。先ほどまでの、未来を見据えていた輝きはその眼差しから消え失せていた。
「……見られちまったな」
 彼は自嘲気味に呟いた。
「あれが、オレの『家族』だ」
 僕は何も言えなかった。ただ、彼が握りしめたポケットの中のバイク屋の名刺だけが、彼の唯一の手綱なのだということだけが、痛いほど理解できた。そして僕は思った。僕にできることは、ただ本を貸し出すことだけじゃないはずだ、と。
「……佐藤、さっきの話だけどよ」
 母親が去ったあとの重苦しい空気を振り払うように、鮫島が口を開いた。
「オレ自身の身の振り方を考えてたのは本当だ。でもよ、ダチの話も嘘じゃねえんだ」
 彼はポケットからスマホを取り出すと、画面を僕に見せた。ひび割れた画面には、中学生くらいの鮫島と、もうひとり、目つきの鋭い少年が肩を組んで写っていた。
「こいつだ。夏休みになれば、少年院から出てくる。……でもな、さっきお前に教わった通りだ。保護観察がついた場合、『不良交友』は一番やっちゃいけねえことなんだよな」
 鮫島は苦々しげに唇を噛んだ。
「つまりオレが会いに行けば、それだけであいつの更生の邪魔になる。あいつの保護観察が取り消されちまうかもしれねえ。だから……会えねえんだ」
 会いたいのに、会えない。それが相手のためだから。法律という壁は、僕が思っていたよりも冷徹に、彼らの友情を分断しようとしていた。
「でもよ、なにも言わずに無視するなんてできねえだろ。あいつは一人でシャバに戻ってくるんだ。俺がいまでも味方だってことくらい、伝えてやりてえ」
 鮫島の目が、再び熱く燃えていた。
「だから、バズらせる」
「え?」
「あいつ、スマホは持ってるはずだ。直接会えなくても、ネット越しなら声は届く。SNSで話題になって、あいつの元にも届くような……でっかい花火を打ち上げるんだよ」
 鮫島が語った計画は、あまりにも無謀で、馬鹿げていて――そして、泣きたくなるほど純粋だった。

***

 決行は、夏休み前、最後の日曜の夜だった。明日は終業式。あれからも鮫島との関係は、水面下で続いていた。今日のこのときに向けて、ゆっくりと、しかし綿密に計画を練っていた。
 二十三時。日付が変わりかけているその時間に、僕たちは図書室の窓から校舎に忍び込んだ。日中、部活動に励んでいる生徒を尻目に、図書委員である僕が、図書室に忘れ物をしたと申し出て、鍵を借りた。無人の図書室を忍び足で歩き、一番端っこの窓の鍵を開けておく。学校が防犯装置を作動させていたとしても、感知しない場所であることは分かっていた。
 暗闇に沈む廊下は、昼間とは全く異なった場所のようだった。どれだけそっと歩いても自分の足音が大きく響いた。僕の手には、文房具店を三軒回って買い集めた、大量の黄色い付箋の束。鮫島の手には、油性マジック。
「いくぞ、佐藤。ビビってねえか?」
「……ビビってるよ。足なんかガクガクだ」
「ハハッ、正直でいいな!」
 僕たちは手分けして、校内のあらゆる場所に付箋を貼り始めた。
 廊下の壁、下駄箱、階段の手すり、教室のドア、トイレの鏡。
 一枚一枚に、鮫島が考案したメッセージが書かれている。

『空には鍵がかかっていない』

 ただそれだけ。意味深で、招待状のようで、そして僕たちにとっての『自由』の象徴。僕もマジックを借りて、同じ文言を震える手で書き、そして貼った。ペタ、ペタ、ペタ。静寂の中に、紙を貼る乾いた音だけがリズムよく響く。それは次第に、僕たちの鼓動とリンクしていった。
「中学のときもな、あいつとよく屋上でサボってたんだ」
 作業の手を止めずに、鮫島がポツリと語りだした。
「空が広くてよ、ここだけは学校のルールも、親の干渉も届かねえ気がした。……あいつがシャバに出てきたとき、思い出してほしいんだ。世界は息苦しい場所だけじゃねえってことを」
 付箋千枚のメッセージを学校中に貼る。
 言葉にすれば簡単だが、実際にやると気の遠くなるような作業だった。指先がインクで汚れ、腕がパンパンになっても、僕たちは貼るのをやめなかった。 優等生の僕が、夜中に校則を破り、校舎を『汚して』いる。けれど不思議と罪悪感はなかった。これは破壊活動じゃない。僕たちは今、会えない友人に向けた、世界で一番不器用な手紙を書いているのだ。
「ラスト一枚!」
 鮫島が叫び、昇降口のど真ん中、一番目立つ柱にバン!と手を叩きつけた。黄色い付箋が、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる。僕たちは顔を見合わせ、声を殺して笑い合った。汗だくで、手は真っ黒で、これまでの人生で一番、最高に馬鹿な夜だった。

***

 翌朝。登校した生徒たちの悲鳴に近い歓声で、学校はパニックに陥った。

「おい見ろよこれ!」
「何これ怖い!」
「空には鍵が掛かっていないってどういう意味?」
「都市伝説?」
「誰の仕業だよ!」

 校舎のいたる場所が、黄色い付箋で埋め尽くされている。まるで一晩のあいだに、黄色い花が一斉に開花したかのような異様な光景。生徒たちはスマホを取り出し、競うように写真や動画を撮り、SNSにアップし始めた。

『ウチの学校ヤバい』
『謎の怪文書』

 僕は喧騒の中、いつも通り図書委員としてカウンターに座っていた。廊下の喧騒が聞こえるたびに心臓が口から飛び出そうになっていたけど、顔には出さない。——僕はなにも知らない、ただの真面目な図書委員だ。
 ふと、廊下を見ると、人だかりの中心に鮫島がいた。彼は「なんだこれ、誰がやったんだ?」と大声でとぼけながら、近くにいた生徒のスマホの画面をこっそり確認して——ニヤリと、満足げに口角を上げた。
 
「屋上になんかあるらしいぜ!」
 白々しく、鮫島が叫んだ。生徒たちが一斉に階段を駆け上がっていく。僕も、何事だろうと気になっているフリをして廊下に出て後に続く。途中でポケットからスマホを取り出して、カメラを構える。
 あらかじめ鮫島と打ち合わせた通りだ。
 
 いつもは重く閉ざされている鉄扉が先に到着していた野次馬の生徒たちによって大きく開け放たれていた。
「なんか書いてあんぞ!」
 芝居がかった鮫島の声。僕は人だかりをかき分けて、さりげなく鮫島の後を追う。カメラを向ける。屋上の地面に広がった白い布に青色のペンキで文字が殴り書きしてある。

『おかえり! いつかまた絶対、会おうな!ずっと待ってるから』

 僕と鮫島以外の人達にとっては、一体何のことか分からないだろう。でも、カメラのレンズの中に、鮫島が映ってさえいればそれでいい。

 いつか。——きっとそう遠くないうちに、鮫島の友達にもこのことが伝わるかもしれない。人だかりの中心で騒いでいる鮫島の姿も、SNSにアップされるだろう。その人に伝わるだろうか。鮫島の真意が。青色のペンキのメッセージが、自分に向けられたものであるであるということに気付くだろうか。

 生徒たちの騒ぎが最高潮に達した時だった。
 放送の呼び出し音が鳴り響き、校長の声が流れた。
『全校生徒、直ちに体育館に集合しなさい。……繰り返す、全校生徒、直ちに体育館へ』
 怒りを含んだ低い声。僕はごくりと唾を飲み込んだ。祭りは終わりだ。ここからは、代償を払う時間が始まる。
 体育館の空気は、鉛のように重かった。全校生徒約千人が押し込められているにもかかわらず、聞こえるのは衣擦れの音と、時折誰かが咳払いをする音だけ。壇上に並んだ教師たちの顔は一様に険しく、特にマイクを握る校長の顔は怒りで赤黒く染まっていた。
「……これは単なる悪戯の範疇を超えている。校舎に対する侮辱であり、神聖な学びの場を汚す行為だ」
 校長の声がスピーカーを通してビリビリと鼓膜を揺らす。僕は列の真ん中で、俯いたまま拳を握りしめていた。手汗が止まらない。隣に並ぶ生徒の視線が、そんなはずはないのに、まるで僕の罪を見透かしているかのように痛い。千枚の付箋。それは今朝までは『革命』の旗印だったけれど、大人たちの前に晒された今、それは誰かが悪戯をはたらいたという『証拠品』であり、そしてただの『ゴミ』として断罪されていた。
「犯人が名乗り出るまで、全校生徒を下校させるつもりはない。また、正直に申し出ない場合、警察への被害届も検討している」
 警察。その単語が出た瞬間、体育館内がざわりと波打った。まずい。警察が入れば、指紋採取などで僕が関与していることはすぐにバレる。そうなれば、内申点も、進学も、将来に関する何もかもが吹っ飛ぶ。恐怖で足がすくむ。視界が明滅する。 でも——。 僕はちらりと、列の離れた場所にいる鮫島を見た。彼はポケットに手を突っ込み、退屈そうに天井を見上げている。彼一人に罪を被せるわけにはいかない。昨夜、あの暗闇の中で共有した熱量は、僕にとっても真実だったのだから。
 僕は意を決して、震える膝に力を入れた。手を挙げよう。僕がやりました、と。 右肩を少し浮かせた、その時だった。
「あー、はいはい。もういいよ、校長先生」
 気怠げな、それでいてよく通る声が静寂を切り裂いた。 鮫島が手を挙げていた。 「オレだよ。オレがやったんだ」
 全校生徒の視線が一斉に彼に集まる。壇上の教師たちが色めきたった。黒崎が、鬼のような形相でマイクを奪う。
「鮫島! 貴様、反省の色はないのか!」
「反省? なんで? みんな楽しんでたじゃん。こんなシケた学校、たまには祭りみたいなもんがあったってがいいだろ」
 鮫島は悪びれもせず、ヘラヘラと笑ってみせた。その態度は、完璧な『不良』そのものだった。周囲の生徒たちが「やっぱりあいつか」「すげえ度胸」などと囁き合う声が聞こえる。
 違う。彼はそんな軽い気持ちでやったんじゃない。 僕は堪えきれず、叫ぼうとした。 「ま——」
「一人でやったのか?」
 僕の声を遮るように、鋭い質問が飛んだ。黒崎だ。鋭い眼光が、鮫島を射抜き、そしてゆっくりとその延長線上にいる、僕の方へと向けられようとしていた。屋上での一件。先生の脳裏には、僕と鮫島が一緒にいた記憶が残っているはずだ。
「あれだけの量を、一晩で一人で貼れるわけがない。共犯者がいるはずだ。……例えば、最近お前とつるんでいる——」
「ハッ! 冗談キツいぜセンコー」
 鮫島が大声で笑い飛ばし、黒崎の言葉を遮った。
「オレが誰かとつるむ? こういうとき、オレはいつだってソロだろ」
 鮫島はわざとらしく肩をすくめ、僕の方を一瞥もしなかった。
「あんな量の紙、夜通し貼りまくってマジで疲れたわ。……誰か手伝ってくれりゃ楽だったのになあ!」
 嘘だ。その言葉は、僕を完全に切り捨てるための嘘だ。鮫島は僕を守ろうとしている。
『目立たないが優等生の佐藤』という僕の居場所を壊さないために、自分ひとりで泥を被り、悪役を演じきろうとしているのだ。
「……鮫島、お前……」
 黒崎は何か言いたげに眉をひそめたが、鮫島の完璧な演技の前では、それ以上追及する材料がなかったようだ。あるいは、教師として「優等生を巻き込みたくない」という心理が働いたのかもしれない。 「……職員室に来い。たっぷり話を聞いてやる」
「へいへい」
 鮫島が列を離れ、壇上の脇へと歩き出す。その途中、鮫島は一度だけ振り返った。全校生徒を見渡すふりをして、その視線が一瞬だけ僕と交錯する。彼はニカっと白い歯を見せて笑った。余計なことすんなよ。声には出さず、口の動きだけでそう伝えてきた気がした。
 僕は動けなかった。彼の背中が遠ざかっていく。その背中は昨日よりもずっと小さく、そして孤独に見えた。一瞬のうちに、僕はただの傍観者に戻ってしまった。その代償として、鮫島自身が檻の中へと連れて行かれてしまう。
「解散!」
 号令がかかり、緊張が解けた生徒たちがわっと騒ぎ出した。口々に鮫島の噂話をしながら教室へ戻っていく波の中で、僕だけが足元の床を見つめていた。ポケットの中には、昨日の夜、彼が余ったからと僕にくれた、最後の一枚の黄色い付箋が入っていた。くしゃりと握りしめる。悔しさと、情けなさと、どうしようもない熱い感情が、涙となって滲んできた。
 このまま終わらせてたまるか。鮫島海斗。君が僕を守ったことを、僕はずっと忘れない。
 そして、君が守りたかった「友達へのメッセージ」も、僕が必ず守り抜いてみせる。
 僕は涙を乱暴に拭うと、顔を上げた。共犯者の僕にしかできない戦い方が、きっとあるはずだ。

***

 放課後の図書室は、まるで通夜のような静けさだった。僕はカウンターの中で、鮫島と読み込んだあの『事例で学ぶ 少年法と保護観察』のページを無意識にめくっていた。指先が震える。以前とはちがって、そこに書かれている文字が頭に入ってこない。
 噂はすぐに広まった。鮫島海斗、無期停学。最悪の場合は退学処分もあり得るという。しかも、反省の色が見えない鮫島の態度を鑑みて、学校側は警察への被害届の提出を本気で検討しており、保護者——あの母親が呼び出されたらしい。
「……最悪だ」
 僕は本を閉じ、拳を机に叩きつけた。もしも鮫島が退学になったとしても、それでも「田村モータース」の親方は彼を雇ってくれるかもしれない。だが、もし警察沙汰になれば? 家庭裁判所の審判になれば? あの母親のことだ。
「監督能力がない」と判断されるのを嫌がり、世間体を気にして、鮫島を強引に家から出さないようにするかもしれない。あるいは逆に、厄介払いとして少年院送りに同意するかもしれない。どちらにせよ、鮫島が描いた「親方のもとで住み込みで働き、自立する」という未来図は、音を立てて崩れ去ろうとしている。
 鮫島が僕を庇ったせいで。彼がたった一人で罪を被ったせいで。

『余計なことすんなよ』

 鮫島の唇の動きを思い出す。ふざけるな。共犯者なら、最後まで一蓮托生であるべきだ。あいつだけが泥を被って、僕だけがのうのうと学生生活を続けるなんて、そんな結末は認めない。
 僕は弾かれたように立ち上がり、検索用のパソコンに向かった。キーボードを叩く音が、図書室に響く。

『田村モータース』

 鮫島が見せてくれた名刺の記憶を頼りに、検索をかける。ヒットした。隣町にある小さなバイク屋だ。電話番号も載っている。
 僕は震える手でスマートフォンを取り出し、画面に表示された番号をタップした。コール音が鳴る。一回、二回、三回……。
「はい、田村モータースです」
 少ししゃがれた、太い声。年配の男性だ。

「あ、あの……! 突然すみません。僕、鮫島海斗くんの友人の、佐藤といいます」
「ん? 海斗の?」
「お願いです、助けてください。鮫島くんが今、学校で……!」

 事情を話すのに、どれくらいの時間を使っただろうか。僕は無我夢中で、昨夜のことは伏せつつ、鮫島が今どれほど窮地に立たされているか、そして彼がどれほど親方のことを頼りにしていたかを捲し立てた。電話を切ったあと、僕は校長室へと走った。足がもつれる。でも、止まるわけにはいかない。

 校長室の前まで来ると、中からヒステリックな金切り声が聞こえてきた。
「だからあ、あたしは知りませんよそんなこと!あの子が勝手にやったんでしょう!?」
 鮫島の母親だ。
「退学でも何でも好きにしてください。警察に突き出すなら突き出せばいい。どうせろくな大人になりゃしないんだから!」
 胸が悪くなるような言葉の数々。僕は扉のすりガラス越しに中の様子を伺った。
 鮫島は、パイプ椅子に座らされ、うつむいていた。両脇を黒崎と校長に固められている。母親は立ったまま、ハンドバッグを振り回して喚き散らしている。鮫島の背中が、小さく見えた。あの屋上で見せた、未来を見据える力強い眼差しはどこにもない。彼は今、実の親から『不要品』として切り捨てられようとしている。
 もう、我慢の限界だった。僕は扉に手をかけ、勢いよく引き開けた。
「失礼します!」
 バン! と大きな音が鳴り、室内の視線が一斉に僕に集まる。
「佐藤……?」  
 黒崎が目を丸くした。鮫島も驚いたように顔を上げる。すぐにその瞳が「来るな」と訴えていたが、僕は無視した。僕はまっすぐに鮫島たちの元へ歩み寄った。
「佐藤くん、今は取り込み中だ。出て行きなさい」
 校長が不快そうに言ったが、僕は足を止めない。
「出て行きません。鮫島くんの処分について、証言したいことがあります」
「証言だと?」
「彼は……鮫島くんは、みなさんが思っているような『ただの不良』じゃありません」  
 僕は母親を睨みつけ、それから先生たちに向き直った。
「彼は、毎日図書室に通って、法律の勉強をしていました。自分と友達の将来について、真剣に考えていました。昨日の騒ぎだって……やり方は間違っていたかもしれないけど、あれは悪意なんかじゃない。友達を励ますための行動だったんです!」
「はあ?」
 母親が呆れたように鼻で笑った。
「なによそれ。勉強? 友情? 馬鹿馬鹿しい。海斗にそんな殊勝なことができるわけないじゃない。ねえ先生、この子、海斗に脅されてるんじゃないの?」
「脅されてません!」
 僕は叫んだ。
「彼は誰よりも優しくて、誰よりも現状を変えようと必死なんです!それを、何も知らない大人が勝手に決めつけないでください!」
 静まり返る職員室。優等生の佐藤が声を荒らげたことに、教師たちは言葉を失っていた。  鮫島が、震える声で呟いた。
「……佐藤、もういい。やめろ」
「よくない!」

 その時だった。 校長室の入り口から、野太い声が響いた。
「おうおう、威勢のいいのがいるじゃねえか」
 全員が振り返る。そこに立っていたのは、作業着姿の男性だった。油の染みたキャップを被り、顔には深い皺が刻まれているが、その眼光は鋭い。
「親方……!?」
 鮫島が椅子から立ち上がった。田村モータースの親方、田村だった。
「よお、海斗。学校でなんかやらかしたって聞いたからよ、すっ飛んできたぞ。大事な友達から報告を受けてな」
 親方はズカズカと部屋に入ってくると、呆気にとられる校長や母親を尻目に、鮫島の肩をバシッと叩いた。
「情けねえ顔してんじゃねえよ。男が一度やったことなら、胸張ってろ」
「で、でも親方、オレ……」
「細かいことはあとだ」
 親方はくるりと向き直り、校長と黒崎に向かって頭を下げた。深々と。
「海斗がお騒がせして申し訳ありませんでした」
 その態度は、堂々としていた。謝罪でありながら、決して卑屈ではない。まだ幼気な少年を守るための、大人の頭の下げ方だった。
「あ、あなたは?」
 校長が戸惑いながら尋ねる。
「田村モータースの田村と申します。この鮫島海斗の、苗字は違いますが、海渡の叔父にあたる者です」  
 親方は顔を上げ、きっぱりと言い放った。
「今回の件、学校の顔に泥を塗ったことへの償いは、私が責任を持ってさせます。塀のペンキ塗りでも草むしりでも、俺と一緒にやらせます。だから——」
 親方の目が、鋭く光った。
「警察だの退学だの、この子の未来を潰すような真似だけは、勘弁してもらえませんか」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
 黙っていられなくなった母親が口を挟んだ。
「勝手なこと言わないでよ。海斗の親権者は私よ。お兄さんが勝手にしゃしゃり出てこないでよ」
「その親権者であるおまえが、碌に海斗の面倒を見ていないから、こういうことになってるんだろうが」
 親方は母親を睨みつけた。「子供が必死にSOS出して、自分の足で生きようとしてんのに、親が足引っ張ってどうすんだ!」
 その迫力に、母親は「ひっ」と息を呑み、後ずさりした。親方は再び先生たちに向き直る。
「そこの佐藤くんから電話をもらいました。……先生方。海斗の友達がここまで必死になるってことは、こいつにはそれだけの値打ちがあるってことじゃありませんか?」
 黒崎が、ふう、と大きく息を吐いた。その表情から、険しい怒りの色が消え、代わりに教師としての思慮深い色が戻っていた。
「……田村さん、とおっしゃいましたね」
「はい」
「校長」
 黒崎が校長を見る。
「警察への届け出は、保留にしませんか。……私としても、更生の余地がある生徒を、みすみす放り出したくはありませんからね」
 校長は腕を組み、しばらく唸っていたが、やがて渋々といった様子で頷いた。
「……黒崎先生がそこまで言うなら。ただし、深夜に学校に侵入し、全校生徒や先生方を混乱に陥れたという事実は消えない。実害は今のところないが、生徒たちが今回の件をSNSに流出させているから、今後の対応に追われるかもしれない。君はそういうことまで考えて、今回の騒ぎを引き起こしたのかね」
校長の問いに、僕も、直接問われた鮫島も、なにも答えられなかった。
「事の重大さを鑑みて、無罪放免というわけにはいかない。しばらくのあいだ奉仕活動をしっかりやってもらうからな」
「ありがとうございます!」  
 僕と親方の声が重なった。目が合って、ちょっと気まずくなってすぐに視線を逸らした。 鮫島は、信じられないものを見るような目で、僕と親方を交互に見ていた。  その目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。太陽のような笑顔も、威嚇するような睨みも崩れ去り、ただの高校生の少年としての素顔がそこにあった。
「……ありがとう……ございます……」
 彼は親方に頭を下げ、それから僕を見て、くしゃくしゃの泣き顔で笑った。

***

「あちいなー。おい佐藤、オレに水ぶっかけてくれよ」
「制服がびしょびしょになっちゃうだろ」
「別にいいじゃねえか。この炎天下なら、すぐに乾くだろうよ。なんなら、水泳部の連中みてえに、水着になっちまうか?」
「それは海斗だけでいいからな」
 僕と鮫島の軽口が飛び交う。僕たちに与えられた奉仕活動。それはプールの掃除と、校舎周りの草むしり。草むしりは僕たちを不憫に思った運動部の連中が手伝ってくれて、予想よりも随分と早い期間で終わってしまったから、教師の監視の目が薄いプールサイドで、こうしてふざけあう余裕が持てている。
「ほら、望み通りにしてやる」
 僕は近くにあったホースを拾い上げると、蛇口をひねり、ノズルを『ストレート』に合わせて引き金を引いた。勢いよく飛び出した水流が、鮫島の背中を直撃する。
「うひょー! つめてえ! 最高だ!」
 鮫島は叫び声を上げながらも、逃げるどころか自ら水しぶきの中へと体を晒しに来た。頭から、肩から、大量の水を浴びる。彼なりに反省の意味を込めたらしく、短く刈り込んだ黒髪から雫が滴り落ち、首筋を伝って鎖骨のくぼみへと流れ込んでいく。夏の日差しを反射して、飛び散る水飛沫がダイヤモンドの粒のように煌めいていた。
「……おい、かけすぎだろ!」
 ひとしきり水を浴びた鮫島が、ブルブルと濡れた犬のように頭を振って水を飛ばす。僕はホースの水を止める。
 彼の白いワイシャツは完全に透けて、彼の鍛え上げられた肉体に張り付いていた。  広背筋のライン、厚い胸板、そして腹筋の起伏が、濡れた布地越しにありありと浮き上がっている。喧嘩で培った筋肉だと言われればそれまでだが、それは美術室の彫像よりも遥かに生々しく、圧倒的な生命力を放っていた。袖口から覗く太い腕には血管が浮き出ていて、滴る水がその軌跡をなぞっていく。
「ふぅ……生き返ったぜ」
 鮫島はニカっと笑ってこちらを見た。濡れたシャツが肌に張り付く不快感なんて、彼は気にもしていないようだ。むしろ、その野生児のような姿は、この炎天下のプールサイドに誰よりも似合っていた。
「傑作だよな。学校一の問題児の罰掃除を、みんなが手伝ってくれるなんてよ」
 鮫島は可笑しそうに喉を鳴らした。あの事件以来、彼を見る生徒たちの目は明らかに変わった。恐怖や嫌悪ではなく、どこか畏敬の念を含んだ、あるいは「面白い奴」を見る目に。 彼が体を張って繋ごうとした『友情』の物語の顛末は、僕が広めたわけでもないのに、いつの間にか美談として語られ始めていたのだ。
「お前のおかげだ」
 不意に、鮫島が真面目な顔で言った。
「お前があの時、職員室に乗り込んでこなかったら……オレは今頃、ここにはいなかった」
 水に濡れた長い睫毛の奥にある瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。 「……ありがとうな」
 不意打ちは卑怯だ。 僕は照れくささを隠すために、わざとぶっきらぼうにホースを巻き取り始めた。
「お礼なら、その濡れた制服が乾いてから言ってよ。風邪引かれても困るし」
「へへっ、優等生サマは心配性だなぁ」
 鮫島は悪戯っぽく笑うと、プールに溜まっていた水を両手で掬った。「じゃあ、お返しだ!」
「えっ、ちょっ……」
冷たい水が僕の顔面を直撃した。
「わっ! やったな海斗!」
「ハハハ! お前だけ涼しい顔してんのはズルいんだよ! これで共犯だ!」
「意味が分からないよ!」僕はホースを構え直した。もう遠慮はいらない。「覚悟しろよ!」
「おう、来やがれ!」
 真夏の太陽の下、僕たちの笑い声が水しぶきと共に弾けた。シャツが肌に張り付く感触も、目に染みる水の冷たさも、今はすべてが心地よかった。
 図書室の静寂から始まった僕たちの関係は、今、怖いくらいにくっきりと輝く青い空の下で、新しい形へと変わり始めていた。