終焉の戦歌

冷たい風が山肌を撫でる。



フェンリッドの北に連なる雪山、セラフィム峰は、古より試練の山と呼ばれてきた。



人智を超えた存在と対峙するためには、この山で己の弱さと向き合い、真実を掴まねばならない。



 ニコラスたちはまだ夜明け前、眠りの浅い時間に出発した。雪を踏む音だけが静かに響く。背後ではレアナの足取りがやや重い。前日受けた傷が癒えきっていないのだ。



「……無理はするなよ」



 ニコラスが気遣いの声をかける。レアナは無言のまま、うっすらと微笑んだ。



 「誰より無理してるの、あなただと思うけどね」



 彼女の声は細く、それでも芯がある。雪に覆われた山道は容赦なく、体力も精神も削り取っていく。



 後ろを歩くエリオットは地図を片手に眉をひそめる。



 「こっちで合ってるはずだけど……目印の石碑がないな」



 「雪に埋もれたのかもしれない」



 ニコラスは足を止め、辺りを見回した。

 空はまだ薄暗い。東の空にほんのりと紅が差し始める頃合いだ。



 レアナがふと立ち止まり、口を開く。



 「……試練の山には、真実の門がある。あの老人が言ってたの、覚えてる?」



 「真実の門……あの意味深な言葉な」



 エリオットが皮肉気に言うが、誰も冗談で済ませようとはしない。



 歩みを進めるにつれ、空は徐々に明るさを増していく。しかしその光は、冷たい白銀の世界をより際立たせ、試練の厳しさを映し出す。




 数時間後。

 ニコラスたちは山腹にある小さな洞窟にたどり着いた。風をしのぐための休憩だ。



 「ここ、誰かが使った跡がある」



 エリオットが洞窟の奥を指差す。乾いた焚き火跡が残っていた。



 「先客……?」



 「あるいは、監視者かもしれないわね」



 レアナが警戒を強める。かすかに残る足跡は、かなり新しい。少なくとも1日前のものではない。



 その時だった。外から細かな雪のざわめきとは別に足音が響いた。

 ニコラスが剣に手をかける。



 エリオットは静かに腰を低くし、洞窟の入り口の影に身を隠す。



 現れたのはひとりの少女だった。年の頃は16、7。白いマントに身を包み、青い髪が風に揺れている。



 「……あなたたちが、目覚めし者?」



 「誰だ、お前は」



 エリオットが問い詰めるが、少女は警戒する様子もなく、ニコラスを真っ直ぐ見つめた。



 「私はフィーネ。セラン連邦の観測士。この山に異常値が検出されたから来ただけ」



 「異常値……?」



 フィーネは首を傾げた。



 「この山、今だけじゃないの。何度も、起動されてる。まるで、何かが呼吸してるみたいに」



 レアナが息を飲んだ。



 「……じゃあ、ここはただの雪山じゃないってこと?」



 「この山の奥に、門があるわ。……だけど、選ばれし者にしか開かない」



 そう言ったフィーネの瞳はどこか遠く、何かを確信しているようだった。



 「あなたたちは……きっと、通れる。導かれてる。私も、一緒に行ってもいい?」



 ニコラスたちはフィーネの案内で洞窟を後にし、さらに険しい雪道を進んだ。高度が上がるごとに風は激しくなり、空気は薄くなっていく。



木々の姿はすでに消え、周囲にはただ雪と岩だけが広がっていた。



 やがて、奇妙な景色が広がった。山の中腹に、明らかに人工的な形状の壁面が現れたのだ。自然に形成されたとは思えないほどの直線、雪と岩の下に埋もれながらも、不思議な文様が刻まれている。



 「……これが、門?」



 エリオットが呟く。

 フィーネは小さく頷いた。



 「ええ、正確には封印された真実の門。セランの記録でも、これが実在する証拠はなかった。けれど、今反応がある」



 ニコラスが近づくと、何かが胸の奥で共鳴した。心臓が鼓動を早め、剣が微かに青く輝く。すると突然、文様が淡く光を帯び始めた。



 門が開きかけている。



 「ニコラス……あんたに反応してるよ」



 レアナが驚き混じりに言う。



 門は重く、鈍い音を立てて開いていく。吹き出す冷気の奥には、暗く静かな空間が広がっていた。そこに足を踏み入れた瞬間。

 

 世界が反転した。



 視界が歪み、空間がひっくり返るような感覚に襲われる。気がつけば、ニコラスたちはそれぞれ別々の場所に立っていた。



 ニコラスの前に広がっていたのは、真っ白な空間。床も、空も、遠くまでも白1色。ただ、目の前に1人の男がいた。



 自分自身だった。



 「……俺?」



 目の前のニコラスは静かに剣を構えた。瞳は赤く、そして剣は蒼炎に包まれている。



 「力は代償を求める。お前はそれを受け入れる覚悟があるか?」



 影のニコラスが低く問いかける。



 「お前はまだ知らない。この力が何を意味するか、どれだけの命がその焔で燃やされるかを」



 ニコラスは一歩前へ進み、剣を抜いた。



 「それでも……進むしかない。過去も、恐れも、すべて受け入れて前へ行く。俺たちは止まれないんだ!」



 その瞬間、空間が崩れ、白が青に変わった。




 一方、レアナは異なる光景を目にしていた。

 彼女の前には、子供のころの自分。そして、失った兄の姿があった。



 「なぜ私が……ここに?」



 レアナは戸惑いの声を漏らす。

 兄は微笑みながら近づいてきた。



 「お前はずっと、自分を許していない。俺のことを、忘れられなかった」



 「だって……あなたを、助けられなかった……!」



 涙がこぼれる。レアナは立ちすくんだまま、声を振り絞る。



 「でも、もう……振り返らない。あなたの分まで、私は生きる」



 兄は微笑んだまま、光となって消えていった。

 



 そしてエリオット。彼の前には、誰もいなかった。

 空虚な空間。沈黙。音も色もない。



 「……ふざけんな」



 彼は1人、拳を握り締めた。



 「俺は、ずっと誰にも必要とされなかった。何のために生まれて、何を守るために戦ってるのかすら、わからなかった」



 だが、ふと頭をよぎる。ニコラスとレアナ。命をかけて共に歩んだ旅の記憶。



 「……でも、あいつらがいる限り、俺は捨てられてない。たとえ世界に拒まれても、俺には……戦う理由がある」



 その言葉と共に、光が彼を包み込んだ。

 気がつけば、3人は再び門の奥の空間に戻っていた。



 フィーネが目を見開く。



 「あなたたち……門を超えたの?」



 ニコラスはゆっくりと頷いた。



 「ああ。たしかに、何かを……見た。けれどまだ、何も終わってない」



 門の奥にはさらに深い通路が続いていた。その先にあるのは、目覚めかけた神の欠片。「アーサーの影。」



 そしてそこに待ち受けるのは、かつてエーテリウムを恐れ、封じようとした者たちの残した審判だった。



 雪の白が、視界のすべてを包んでいた。



 風は絶え間なく吹き荒れ、岩肌を撫でながら鋭い音を響かせている。山道を登るニコラスたち3人は、それぞれ厚手の外套に身を包み、言葉少なに歩を進めていた。



 道は険しく、凍りついた岩を踏みしめるたびに靴が滑る。空はどこまでも重く、灰色の雲が空を覆っている。



「……このあたりが試練の地と呼ばれていた場所だと、あの老人は言っていたな」



 レアナが口を開く。彼女の肩にはまだ包帯が巻かれていたが、痛みを押してここまで同行している。彼女の足取りには、強い決意があった。



「ここで霊峰シリオンに眠る存在と対話する……それが封印強化の鍵を握るってことだったよな?」



 エリオットが周囲を警戒しつつ問いかける。

 ニコラスは頷いた。



「でも、霊と話すって……具体的にどうすればいいのか、説明はなかったな」



「試練を超えた者にだけ語られる。それが唯一の条件だと……」



 レアナの言葉に、3人の間に沈黙が落ちる。

 そのときだった。



 山の向こう側で、何かが唸るような音を立てた。空気が震え、一瞬だけ風が止む。



「……聞こえたか?」



 エリオットが剣に手をかける。



「何か、来る」



 ニコラスの言葉と同時に、雪の斜面が音を立てて崩れた。



 白銀の煙の中から姿を現したのは、まるで霧のように形を変える影だった。人のような形をしていながら、顔も、手も、曖昧で、その中心にだけ青い輝きがあった。



「これは……霊峰の試練か……?」



 レアナが一歩後ずさる。影は言葉を発しない。ただ静かに3人を見つめているようだった。



「試すってんなら、こっちから行くぜ」



 エリオットが叫び、剣を抜いて前に出た。

 だが、その瞬間だった。



 影の1つが音もなく動き、彼の動きに合わせて姿を変え、背後を取った。



 ニコラスの身体が、無意識に動いた。



 青い炎が剣の表面を這い、霧のような影を断ち切る。



「……今の、なに?」



 エリオットが驚きに目を見開く。



「わからない……でも、これって……」



 ニコラスは剣を見つめた。青い炎は消えず、まるで彼の意志に応えるように揺らめいている。



 そして、その炎を見た瞬間。

 霧の影たちが、動きを止めた。



 まるで、何かを思い出したかのように、彼らは雪の地に跪いた。やがて、影の中央が裂け、ひとつの声がそこから響いた。



「アーサーの器……久しき後継者よ。いま、汝に問いを与えよう」



 ニコラスは、無意識に前に出た。

 影の中心から、白い光が浮かび上がる。



 雪上に浮かぶ光の柱は、まるで世界の理を貫くかのように、真っ直ぐに天へと伸びていた。



 その中心で、ニコラスの意識は次第に深く沈んでいく。周囲の音が消え、風のざわめきすら遠のく中、彼の視界は真っ白に染まり、そして、暗転した。



 彼が目を開けたとき、そこは山の中ではなかった。



 石造りの回廊。



 無数の柱が連なる古代の神殿のような空間。天井は見えず、代わりに頭上には星々が揺らめく漆黒の夜空が広がっていた。



「……ここは」



 声は反響しなかった。ただ、自身の胸にだけ、問いかけるように響いた。

 足元の床に、文字が浮かび上がっていた。



 それは見たこともない文様。いや、記憶のどこかで見たことがあるような、既視感を伴うものだった。



『汝の心に、2つの道がある。守る者としての意思。そして、壊す者としての力』



 その言葉が、彼の脳に直接語りかけるように響いた。



「……何が言いたい」



 ニコラスが問い返すと、床の文様が光を放ち、空間全体が淡い青に染まった。

 その中央に人影が現れた。



 長身の男。漆黒の外套をまとい、顔の半分を覆う仮面をつけていた。

 しかし、残された片目には、確かにあの視線があった。



「……アーサー……?」



 だが、それは人ではなかった。

 それは核そのものであり、ニコラスの中にある何かと同じ。



 そいつが口を開く。



 「違う。私はかつてアーサーと呼ばれた者の残滓にすぎない」



 その声は冷たく、そして悲しみに満ちていた。



「私は、力を信じすぎた。理想を追い求めすぎた。世界を救いたかったのに……私が目指した先にあったのは、破滅だけだった」



 彼の背後に、崩れ落ちる都市。血に染まる空。大地を割る雷。かつての大戦の幻影が広がった。



「お前も、力を持ってしまった。いずれ選ばされる。守るのか、壊すのか。誰を救い、誰を見捨てるのか。だが……」



 仮面の奥で、男の声が震えた。



「お前には……私のようにはなってほしくない」



 ニコラスは、青い炎を宿す剣を見つめた。

 その炎は、かつてアーサーが使った聖火と呼ばれるものと酷似していた。



「俺は……誰も見捨てたくない。どんな戦いになっても、できる限り多くを守りたいんだ」



 その言葉に、仮面の男はふっと目を伏せた。



「ならば……その道を、行け。私の過ちを越えろ。そして、もしもあれが目覚める時が来たなら、お前の手で、世界を終わらせるな」



 次の瞬間、空間が揺れた。

 回廊が崩れ、天の星々が砕けるように消えていく。



「待て、まだ聞きたいことが!」



 ニコラスが叫ぶも、彼の身体は光に包まれ、急速に引き戻されていく。

 目を覚ましたとき、雪山の上で彼は倒れていた。



「ニコラス!」



 レアナが駆け寄る。顔に安堵の色が広がる。



「……戻った……?俺、なんか……」



「試練は……終わったみたいだな」



 エリオットが短く言った。彼の手の中に、さっきまで剣を振るっていた霧の影たちは、もうどこにもいなかった。



 空は晴れかけていた。山の頂から、かすかな陽光が差し込んでいる。

 その光の中、ニコラスの剣が静かに青く光りながら小さく、鼓動するように震えていた。



 ニコラスたちは山を下りながら、昨夜の出来事を誰も口に出せずにいた。

 その沈黙を破ったのは、レアナだった。



「……あの光、見たのよ。あなたの剣……あれ、本当にエーテリウムの……?」



 問いかける声には、恐れよりも驚きと戸惑いが混ざっていた。



「わからない。あの空間で見たもの……あれは、夢だったのかもしれない」



 ニコラスは肩越しに答えたが、その手に握られた剣は確かに青く輝いていた。



「でも、わかることがひとつある」



 彼は空を仰ぐようにして言った。



「俺の中には、何かがいる。誰かが、何かを託した。……その力を使うべき時が、きっと来るんだ」



 その言葉に、エリオットは一瞬だけ険しい顔を見せたが、やがて視線を前に戻した。



「それがアーサーの影ってわけか。……そいつが、君の中で目を覚ましつつあるなら」



 彼は言った。



「早く、世界に知らせなきゃならない。もう、時間はねぇ」



 山道を越えたその先に、旅のはじまりの地、フェンリッドの街が小さく見え始めていた。

 そしてその同じ空の下。

 4つの国もまた、それぞれの動きを見せ始めていた。



 サルディア帝国。



 黒鉄の城砦・ヴァルグレムにて、皇帝ガレン・ヴォルクスは剣を掲げていた。



「……我らが時代だ。敵が目覚めようとしているのなら、叩き潰すまで。鉄と炎で、我らの未来を築く」



 彼の号令のもと、軍団は動き出す。かつてより温められていた兵の増強、兵器の配備、そして未知の技術、エーテリウム兵装の実用化計画が、密かに始まっていた。



 カドリア王国。



 大聖堂にて、老王アグナスは神官たちに囲まれて祈りを捧げていた。



「これは……神の御裁きだ。我らが傲慢ゆえに封印が緩んだ。信仰と律法に立ち返らねば、滅びは避けられぬ」



 王国は民に粛清を告げ、信仰の再編を開始する。



 一部の騎士団が再召集され、聖なる大地への巡礼と調査が命じられた。



 ヴェルダ共和国。



 首都ライツェンの議会では、熱い論争が交わされていた。



「これは危機ではあるが、同時に、変革のチャンスだ。我らは自らの手で未来を選ばねばならない」



 若き大統領メイラ・カーストは、議員たちに向かって静かに語る。



「封印の再強化を成した者たちが、あの地にいた。ならば、私たちは彼らを支援すべきだ。武器ではなく、知恵と協力をもって」



 共和国は新たな方針を掲げた。

 調停と理解を目的とした探索隊の派遣。そして、レジスタンスとの接触。



 セラン連邦。



 浮遊都市アルス=ルーメンでは、最高学府知の塔の天文台にて、老博士イリオンが空を見上げていた。



「……また、あの波動が観測された。封印は一時的に保たれたが、揺らぎは止まっていない」



 セランは静かに、真理への接近を始める。



 アーサーが辿った痕跡と、彼が見た未来を、計算式と記録、古文書の解読から再構築しようとしていた。



「もし我らが探し当てることができれば……あれを止められる鍵が、どこかにあるはずだ」



 そして、そのすべての渦の中心に、ニコラスたちは立たされようとしていた。



 彼らの旅は、もう真実を知るためのものではない。



 世界を選ぶ覚悟を持って進むものへと、変わり始めていた。