冷たい風が山肌を撫でる。
フェンリッドの北に連なる雪山、セラフィム峰は、古より試練の山と呼ばれてきた。
人智を超えた存在と対峙するためには、この山で己の弱さと向き合い、真実を掴まねばならない。
ニコラスたちはまだ夜明け前、眠りの浅い時間に出発した。雪を踏む音だけが静かに響く。背後ではレアナの足取りがやや重い。前日受けた傷が癒えきっていないのだ。
「……無理はするなよ」
ニコラスが気遣いの声をかける。レアナは無言のまま、うっすらと微笑んだ。
「誰より無理してるの、あなただと思うけどね」
彼女の声は細く、それでも芯がある。雪に覆われた山道は容赦なく、体力も精神も削り取っていく。
後ろを歩くエリオットは地図を片手に眉をひそめる。
「こっちで合ってるはずだけど……目印の石碑がないな」
「雪に埋もれたのかもしれない」
ニコラスは足を止め、辺りを見回した。
空はまだ薄暗い。東の空にほんのりと紅が差し始める頃合いだ。
レアナがふと立ち止まり、口を開く。
「……試練の山には、真実の門がある。あの老人が言ってたの、覚えてる?」
「真実の門……あの意味深な言葉な」
エリオットが皮肉気に言うが、誰も冗談で済ませようとはしない。
歩みを進めるにつれ、空は徐々に明るさを増していく。しかしその光は、冷たい白銀の世界をより際立たせ、試練の厳しさを映し出す。
数時間後。
ニコラスたちは山腹にある小さな洞窟にたどり着いた。風をしのぐための休憩だ。
「ここ、誰かが使った跡がある」
エリオットが洞窟の奥を指差す。乾いた焚き火跡が残っていた。
「先客……?」
「あるいは、監視者かもしれないわね」
レアナが警戒を強める。かすかに残る足跡は、かなり新しい。少なくとも1日前のものではない。
その時だった。外から細かな雪のざわめきとは別に足音が響いた。
ニコラスが剣に手をかける。
エリオットは静かに腰を低くし、洞窟の入り口の影に身を隠す。
現れたのはひとりの少女だった。年の頃は16、7。白いマントに身を包み、青い髪が風に揺れている。
「……あなたたちが、目覚めし者?」
「誰だ、お前は」
エリオットが問い詰めるが、少女は警戒する様子もなく、ニコラスを真っ直ぐ見つめた。
「私はフィーネ。セラン連邦の観測士。この山に異常値が検出されたから来ただけ」
「異常値……?」
フィーネは首を傾げた。
「この山、今だけじゃないの。何度も、起動されてる。まるで、何かが呼吸してるみたいに」
レアナが息を飲んだ。
「……じゃあ、ここはただの雪山じゃないってこと?」
「この山の奥に、門があるわ。……だけど、選ばれし者にしか開かない」
そう言ったフィーネの瞳はどこか遠く、何かを確信しているようだった。
「あなたたちは……きっと、通れる。導かれてる。私も、一緒に行ってもいい?」
ニコラスたちはフィーネの案内で洞窟を後にし、さらに険しい雪道を進んだ。高度が上がるごとに風は激しくなり、空気は薄くなっていく。
木々の姿はすでに消え、周囲にはただ雪と岩だけが広がっていた。
やがて、奇妙な景色が広がった。山の中腹に、明らかに人工的な形状の壁面が現れたのだ。自然に形成されたとは思えないほどの直線、雪と岩の下に埋もれながらも、不思議な文様が刻まれている。
「……これが、門?」
エリオットが呟く。
フィーネは小さく頷いた。
「ええ、正確には封印された真実の門。セランの記録でも、これが実在する証拠はなかった。けれど、今反応がある」
ニコラスが近づくと、何かが胸の奥で共鳴した。心臓が鼓動を早め、剣が微かに青く輝く。すると突然、文様が淡く光を帯び始めた。
門が開きかけている。
「ニコラス……あんたに反応してるよ」
レアナが驚き混じりに言う。
門は重く、鈍い音を立てて開いていく。吹き出す冷気の奥には、暗く静かな空間が広がっていた。そこに足を踏み入れた瞬間。
世界が反転した。
視界が歪み、空間がひっくり返るような感覚に襲われる。気がつけば、ニコラスたちはそれぞれ別々の場所に立っていた。
ニコラスの前に広がっていたのは、真っ白な空間。床も、空も、遠くまでも白1色。ただ、目の前に1人の男がいた。
自分自身だった。
「……俺?」
目の前のニコラスは静かに剣を構えた。瞳は赤く、そして剣は蒼炎に包まれている。
「力は代償を求める。お前はそれを受け入れる覚悟があるか?」
影のニコラスが低く問いかける。
「お前はまだ知らない。この力が何を意味するか、どれだけの命がその焔で燃やされるかを」
ニコラスは一歩前へ進み、剣を抜いた。
「それでも……進むしかない。過去も、恐れも、すべて受け入れて前へ行く。俺たちは止まれないんだ!」
その瞬間、空間が崩れ、白が青に変わった。
一方、レアナは異なる光景を目にしていた。
彼女の前には、子供のころの自分。そして、失った兄の姿があった。
「なぜ私が……ここに?」
レアナは戸惑いの声を漏らす。
兄は微笑みながら近づいてきた。
「お前はずっと、自分を許していない。俺のことを、忘れられなかった」
「だって……あなたを、助けられなかった……!」
涙がこぼれる。レアナは立ちすくんだまま、声を振り絞る。
「でも、もう……振り返らない。あなたの分まで、私は生きる」
兄は微笑んだまま、光となって消えていった。
そしてエリオット。彼の前には、誰もいなかった。
空虚な空間。沈黙。音も色もない。
「……ふざけんな」
彼は1人、拳を握り締めた。
「俺は、ずっと誰にも必要とされなかった。何のために生まれて、何を守るために戦ってるのかすら、わからなかった」
だが、ふと頭をよぎる。ニコラスとレアナ。命をかけて共に歩んだ旅の記憶。
「……でも、あいつらがいる限り、俺は捨てられてない。たとえ世界に拒まれても、俺には……戦う理由がある」
その言葉と共に、光が彼を包み込んだ。
気がつけば、3人は再び門の奥の空間に戻っていた。
フィーネが目を見開く。
「あなたたち……門を超えたの?」
ニコラスはゆっくりと頷いた。
「ああ。たしかに、何かを……見た。けれどまだ、何も終わってない」
門の奥にはさらに深い通路が続いていた。その先にあるのは、目覚めかけた神の欠片。「アーサーの影。」
そしてそこに待ち受けるのは、かつてエーテリウムを恐れ、封じようとした者たちの残した審判だった。
雪の白が、視界のすべてを包んでいた。
風は絶え間なく吹き荒れ、岩肌を撫でながら鋭い音を響かせている。山道を登るニコラスたち3人は、それぞれ厚手の外套に身を包み、言葉少なに歩を進めていた。
道は険しく、凍りついた岩を踏みしめるたびに靴が滑る。空はどこまでも重く、灰色の雲が空を覆っている。
「……このあたりが試練の地と呼ばれていた場所だと、あの老人は言っていたな」
レアナが口を開く。彼女の肩にはまだ包帯が巻かれていたが、痛みを押してここまで同行している。彼女の足取りには、強い決意があった。
「ここで霊峰シリオンに眠る存在と対話する……それが封印強化の鍵を握るってことだったよな?」
エリオットが周囲を警戒しつつ問いかける。
ニコラスは頷いた。
「でも、霊と話すって……具体的にどうすればいいのか、説明はなかったな」
「試練を超えた者にだけ語られる。それが唯一の条件だと……」
レアナの言葉に、3人の間に沈黙が落ちる。
そのときだった。
山の向こう側で、何かが唸るような音を立てた。空気が震え、一瞬だけ風が止む。
「……聞こえたか?」
エリオットが剣に手をかける。
「何か、来る」
ニコラスの言葉と同時に、雪の斜面が音を立てて崩れた。
白銀の煙の中から姿を現したのは、まるで霧のように形を変える影だった。人のような形をしていながら、顔も、手も、曖昧で、その中心にだけ青い輝きがあった。
「これは……霊峰の試練か……?」
レアナが一歩後ずさる。影は言葉を発しない。ただ静かに3人を見つめているようだった。
「試すってんなら、こっちから行くぜ」
エリオットが叫び、剣を抜いて前に出た。
だが、その瞬間だった。
影の1つが音もなく動き、彼の動きに合わせて姿を変え、背後を取った。
ニコラスの身体が、無意識に動いた。
青い炎が剣の表面を這い、霧のような影を断ち切る。
「……今の、なに?」
エリオットが驚きに目を見開く。
「わからない……でも、これって……」
ニコラスは剣を見つめた。青い炎は消えず、まるで彼の意志に応えるように揺らめいている。
そして、その炎を見た瞬間。
霧の影たちが、動きを止めた。
まるで、何かを思い出したかのように、彼らは雪の地に跪いた。やがて、影の中央が裂け、ひとつの声がそこから響いた。
「アーサーの器……久しき後継者よ。いま、汝に問いを与えよう」
ニコラスは、無意識に前に出た。
影の中心から、白い光が浮かび上がる。
雪上に浮かぶ光の柱は、まるで世界の理を貫くかのように、真っ直ぐに天へと伸びていた。
その中心で、ニコラスの意識は次第に深く沈んでいく。周囲の音が消え、風のざわめきすら遠のく中、彼の視界は真っ白に染まり、そして、暗転した。
彼が目を開けたとき、そこは山の中ではなかった。
石造りの回廊。
無数の柱が連なる古代の神殿のような空間。天井は見えず、代わりに頭上には星々が揺らめく漆黒の夜空が広がっていた。
「……ここは」
声は反響しなかった。ただ、自身の胸にだけ、問いかけるように響いた。
足元の床に、文字が浮かび上がっていた。
それは見たこともない文様。いや、記憶のどこかで見たことがあるような、既視感を伴うものだった。
『汝の心に、2つの道がある。守る者としての意思。そして、壊す者としての力』
その言葉が、彼の脳に直接語りかけるように響いた。
「……何が言いたい」
ニコラスが問い返すと、床の文様が光を放ち、空間全体が淡い青に染まった。
その中央に人影が現れた。
長身の男。漆黒の外套をまとい、顔の半分を覆う仮面をつけていた。
しかし、残された片目には、確かにあの視線があった。
「……アーサー……?」
だが、それは人ではなかった。
それは核そのものであり、ニコラスの中にある何かと同じ。
そいつが口を開く。
「違う。私はかつてアーサーと呼ばれた者の残滓にすぎない」
その声は冷たく、そして悲しみに満ちていた。
「私は、力を信じすぎた。理想を追い求めすぎた。世界を救いたかったのに……私が目指した先にあったのは、破滅だけだった」
彼の背後に、崩れ落ちる都市。血に染まる空。大地を割る雷。かつての大戦の幻影が広がった。
「お前も、力を持ってしまった。いずれ選ばされる。守るのか、壊すのか。誰を救い、誰を見捨てるのか。だが……」
仮面の奥で、男の声が震えた。
「お前には……私のようにはなってほしくない」
ニコラスは、青い炎を宿す剣を見つめた。
その炎は、かつてアーサーが使った聖火と呼ばれるものと酷似していた。
「俺は……誰も見捨てたくない。どんな戦いになっても、できる限り多くを守りたいんだ」
その言葉に、仮面の男はふっと目を伏せた。
「ならば……その道を、行け。私の過ちを越えろ。そして、もしもあれが目覚める時が来たなら、お前の手で、世界を終わらせるな」
次の瞬間、空間が揺れた。
回廊が崩れ、天の星々が砕けるように消えていく。
「待て、まだ聞きたいことが!」
ニコラスが叫ぶも、彼の身体は光に包まれ、急速に引き戻されていく。
目を覚ましたとき、雪山の上で彼は倒れていた。
「ニコラス!」
レアナが駆け寄る。顔に安堵の色が広がる。
「……戻った……?俺、なんか……」
「試練は……終わったみたいだな」
エリオットが短く言った。彼の手の中に、さっきまで剣を振るっていた霧の影たちは、もうどこにもいなかった。
空は晴れかけていた。山の頂から、かすかな陽光が差し込んでいる。
その光の中、ニコラスの剣が静かに青く光りながら小さく、鼓動するように震えていた。
ニコラスたちは山を下りながら、昨夜の出来事を誰も口に出せずにいた。
その沈黙を破ったのは、レアナだった。
「……あの光、見たのよ。あなたの剣……あれ、本当にエーテリウムの……?」
問いかける声には、恐れよりも驚きと戸惑いが混ざっていた。
「わからない。あの空間で見たもの……あれは、夢だったのかもしれない」
ニコラスは肩越しに答えたが、その手に握られた剣は確かに青く輝いていた。
「でも、わかることがひとつある」
彼は空を仰ぐようにして言った。
「俺の中には、何かがいる。誰かが、何かを託した。……その力を使うべき時が、きっと来るんだ」
その言葉に、エリオットは一瞬だけ険しい顔を見せたが、やがて視線を前に戻した。
「それがアーサーの影ってわけか。……そいつが、君の中で目を覚ましつつあるなら」
彼は言った。
「早く、世界に知らせなきゃならない。もう、時間はねぇ」
山道を越えたその先に、旅のはじまりの地、フェンリッドの街が小さく見え始めていた。
そしてその同じ空の下。
4つの国もまた、それぞれの動きを見せ始めていた。
サルディア帝国。
黒鉄の城砦・ヴァルグレムにて、皇帝ガレン・ヴォルクスは剣を掲げていた。
「……我らが時代だ。敵が目覚めようとしているのなら、叩き潰すまで。鉄と炎で、我らの未来を築く」
彼の号令のもと、軍団は動き出す。かつてより温められていた兵の増強、兵器の配備、そして未知の技術、エーテリウム兵装の実用化計画が、密かに始まっていた。
カドリア王国。
大聖堂にて、老王アグナスは神官たちに囲まれて祈りを捧げていた。
「これは……神の御裁きだ。我らが傲慢ゆえに封印が緩んだ。信仰と律法に立ち返らねば、滅びは避けられぬ」
王国は民に粛清を告げ、信仰の再編を開始する。
一部の騎士団が再召集され、聖なる大地への巡礼と調査が命じられた。
ヴェルダ共和国。
首都ライツェンの議会では、熱い論争が交わされていた。
「これは危機ではあるが、同時に、変革のチャンスだ。我らは自らの手で未来を選ばねばならない」
若き大統領メイラ・カーストは、議員たちに向かって静かに語る。
「封印の再強化を成した者たちが、あの地にいた。ならば、私たちは彼らを支援すべきだ。武器ではなく、知恵と協力をもって」
共和国は新たな方針を掲げた。
調停と理解を目的とした探索隊の派遣。そして、レジスタンスとの接触。
セラン連邦。
浮遊都市アルス=ルーメンでは、最高学府知の塔の天文台にて、老博士イリオンが空を見上げていた。
「……また、あの波動が観測された。封印は一時的に保たれたが、揺らぎは止まっていない」
セランは静かに、真理への接近を始める。
アーサーが辿った痕跡と、彼が見た未来を、計算式と記録、古文書の解読から再構築しようとしていた。
「もし我らが探し当てることができれば……あれを止められる鍵が、どこかにあるはずだ」
そして、そのすべての渦の中心に、ニコラスたちは立たされようとしていた。
彼らの旅は、もう真実を知るためのものではない。
世界を選ぶ覚悟を持って進むものへと、変わり始めていた。
フェンリッドの北に連なる雪山、セラフィム峰は、古より試練の山と呼ばれてきた。
人智を超えた存在と対峙するためには、この山で己の弱さと向き合い、真実を掴まねばならない。
ニコラスたちはまだ夜明け前、眠りの浅い時間に出発した。雪を踏む音だけが静かに響く。背後ではレアナの足取りがやや重い。前日受けた傷が癒えきっていないのだ。
「……無理はするなよ」
ニコラスが気遣いの声をかける。レアナは無言のまま、うっすらと微笑んだ。
「誰より無理してるの、あなただと思うけどね」
彼女の声は細く、それでも芯がある。雪に覆われた山道は容赦なく、体力も精神も削り取っていく。
後ろを歩くエリオットは地図を片手に眉をひそめる。
「こっちで合ってるはずだけど……目印の石碑がないな」
「雪に埋もれたのかもしれない」
ニコラスは足を止め、辺りを見回した。
空はまだ薄暗い。東の空にほんのりと紅が差し始める頃合いだ。
レアナがふと立ち止まり、口を開く。
「……試練の山には、真実の門がある。あの老人が言ってたの、覚えてる?」
「真実の門……あの意味深な言葉な」
エリオットが皮肉気に言うが、誰も冗談で済ませようとはしない。
歩みを進めるにつれ、空は徐々に明るさを増していく。しかしその光は、冷たい白銀の世界をより際立たせ、試練の厳しさを映し出す。
数時間後。
ニコラスたちは山腹にある小さな洞窟にたどり着いた。風をしのぐための休憩だ。
「ここ、誰かが使った跡がある」
エリオットが洞窟の奥を指差す。乾いた焚き火跡が残っていた。
「先客……?」
「あるいは、監視者かもしれないわね」
レアナが警戒を強める。かすかに残る足跡は、かなり新しい。少なくとも1日前のものではない。
その時だった。外から細かな雪のざわめきとは別に足音が響いた。
ニコラスが剣に手をかける。
エリオットは静かに腰を低くし、洞窟の入り口の影に身を隠す。
現れたのはひとりの少女だった。年の頃は16、7。白いマントに身を包み、青い髪が風に揺れている。
「……あなたたちが、目覚めし者?」
「誰だ、お前は」
エリオットが問い詰めるが、少女は警戒する様子もなく、ニコラスを真っ直ぐ見つめた。
「私はフィーネ。セラン連邦の観測士。この山に異常値が検出されたから来ただけ」
「異常値……?」
フィーネは首を傾げた。
「この山、今だけじゃないの。何度も、起動されてる。まるで、何かが呼吸してるみたいに」
レアナが息を飲んだ。
「……じゃあ、ここはただの雪山じゃないってこと?」
「この山の奥に、門があるわ。……だけど、選ばれし者にしか開かない」
そう言ったフィーネの瞳はどこか遠く、何かを確信しているようだった。
「あなたたちは……きっと、通れる。導かれてる。私も、一緒に行ってもいい?」
ニコラスたちはフィーネの案内で洞窟を後にし、さらに険しい雪道を進んだ。高度が上がるごとに風は激しくなり、空気は薄くなっていく。
木々の姿はすでに消え、周囲にはただ雪と岩だけが広がっていた。
やがて、奇妙な景色が広がった。山の中腹に、明らかに人工的な形状の壁面が現れたのだ。自然に形成されたとは思えないほどの直線、雪と岩の下に埋もれながらも、不思議な文様が刻まれている。
「……これが、門?」
エリオットが呟く。
フィーネは小さく頷いた。
「ええ、正確には封印された真実の門。セランの記録でも、これが実在する証拠はなかった。けれど、今反応がある」
ニコラスが近づくと、何かが胸の奥で共鳴した。心臓が鼓動を早め、剣が微かに青く輝く。すると突然、文様が淡く光を帯び始めた。
門が開きかけている。
「ニコラス……あんたに反応してるよ」
レアナが驚き混じりに言う。
門は重く、鈍い音を立てて開いていく。吹き出す冷気の奥には、暗く静かな空間が広がっていた。そこに足を踏み入れた瞬間。
世界が反転した。
視界が歪み、空間がひっくり返るような感覚に襲われる。気がつけば、ニコラスたちはそれぞれ別々の場所に立っていた。
ニコラスの前に広がっていたのは、真っ白な空間。床も、空も、遠くまでも白1色。ただ、目の前に1人の男がいた。
自分自身だった。
「……俺?」
目の前のニコラスは静かに剣を構えた。瞳は赤く、そして剣は蒼炎に包まれている。
「力は代償を求める。お前はそれを受け入れる覚悟があるか?」
影のニコラスが低く問いかける。
「お前はまだ知らない。この力が何を意味するか、どれだけの命がその焔で燃やされるかを」
ニコラスは一歩前へ進み、剣を抜いた。
「それでも……進むしかない。過去も、恐れも、すべて受け入れて前へ行く。俺たちは止まれないんだ!」
その瞬間、空間が崩れ、白が青に変わった。
一方、レアナは異なる光景を目にしていた。
彼女の前には、子供のころの自分。そして、失った兄の姿があった。
「なぜ私が……ここに?」
レアナは戸惑いの声を漏らす。
兄は微笑みながら近づいてきた。
「お前はずっと、自分を許していない。俺のことを、忘れられなかった」
「だって……あなたを、助けられなかった……!」
涙がこぼれる。レアナは立ちすくんだまま、声を振り絞る。
「でも、もう……振り返らない。あなたの分まで、私は生きる」
兄は微笑んだまま、光となって消えていった。
そしてエリオット。彼の前には、誰もいなかった。
空虚な空間。沈黙。音も色もない。
「……ふざけんな」
彼は1人、拳を握り締めた。
「俺は、ずっと誰にも必要とされなかった。何のために生まれて、何を守るために戦ってるのかすら、わからなかった」
だが、ふと頭をよぎる。ニコラスとレアナ。命をかけて共に歩んだ旅の記憶。
「……でも、あいつらがいる限り、俺は捨てられてない。たとえ世界に拒まれても、俺には……戦う理由がある」
その言葉と共に、光が彼を包み込んだ。
気がつけば、3人は再び門の奥の空間に戻っていた。
フィーネが目を見開く。
「あなたたち……門を超えたの?」
ニコラスはゆっくりと頷いた。
「ああ。たしかに、何かを……見た。けれどまだ、何も終わってない」
門の奥にはさらに深い通路が続いていた。その先にあるのは、目覚めかけた神の欠片。「アーサーの影。」
そしてそこに待ち受けるのは、かつてエーテリウムを恐れ、封じようとした者たちの残した審判だった。
雪の白が、視界のすべてを包んでいた。
風は絶え間なく吹き荒れ、岩肌を撫でながら鋭い音を響かせている。山道を登るニコラスたち3人は、それぞれ厚手の外套に身を包み、言葉少なに歩を進めていた。
道は険しく、凍りついた岩を踏みしめるたびに靴が滑る。空はどこまでも重く、灰色の雲が空を覆っている。
「……このあたりが試練の地と呼ばれていた場所だと、あの老人は言っていたな」
レアナが口を開く。彼女の肩にはまだ包帯が巻かれていたが、痛みを押してここまで同行している。彼女の足取りには、強い決意があった。
「ここで霊峰シリオンに眠る存在と対話する……それが封印強化の鍵を握るってことだったよな?」
エリオットが周囲を警戒しつつ問いかける。
ニコラスは頷いた。
「でも、霊と話すって……具体的にどうすればいいのか、説明はなかったな」
「試練を超えた者にだけ語られる。それが唯一の条件だと……」
レアナの言葉に、3人の間に沈黙が落ちる。
そのときだった。
山の向こう側で、何かが唸るような音を立てた。空気が震え、一瞬だけ風が止む。
「……聞こえたか?」
エリオットが剣に手をかける。
「何か、来る」
ニコラスの言葉と同時に、雪の斜面が音を立てて崩れた。
白銀の煙の中から姿を現したのは、まるで霧のように形を変える影だった。人のような形をしていながら、顔も、手も、曖昧で、その中心にだけ青い輝きがあった。
「これは……霊峰の試練か……?」
レアナが一歩後ずさる。影は言葉を発しない。ただ静かに3人を見つめているようだった。
「試すってんなら、こっちから行くぜ」
エリオットが叫び、剣を抜いて前に出た。
だが、その瞬間だった。
影の1つが音もなく動き、彼の動きに合わせて姿を変え、背後を取った。
ニコラスの身体が、無意識に動いた。
青い炎が剣の表面を這い、霧のような影を断ち切る。
「……今の、なに?」
エリオットが驚きに目を見開く。
「わからない……でも、これって……」
ニコラスは剣を見つめた。青い炎は消えず、まるで彼の意志に応えるように揺らめいている。
そして、その炎を見た瞬間。
霧の影たちが、動きを止めた。
まるで、何かを思い出したかのように、彼らは雪の地に跪いた。やがて、影の中央が裂け、ひとつの声がそこから響いた。
「アーサーの器……久しき後継者よ。いま、汝に問いを与えよう」
ニコラスは、無意識に前に出た。
影の中心から、白い光が浮かび上がる。
雪上に浮かぶ光の柱は、まるで世界の理を貫くかのように、真っ直ぐに天へと伸びていた。
その中心で、ニコラスの意識は次第に深く沈んでいく。周囲の音が消え、風のざわめきすら遠のく中、彼の視界は真っ白に染まり、そして、暗転した。
彼が目を開けたとき、そこは山の中ではなかった。
石造りの回廊。
無数の柱が連なる古代の神殿のような空間。天井は見えず、代わりに頭上には星々が揺らめく漆黒の夜空が広がっていた。
「……ここは」
声は反響しなかった。ただ、自身の胸にだけ、問いかけるように響いた。
足元の床に、文字が浮かび上がっていた。
それは見たこともない文様。いや、記憶のどこかで見たことがあるような、既視感を伴うものだった。
『汝の心に、2つの道がある。守る者としての意思。そして、壊す者としての力』
その言葉が、彼の脳に直接語りかけるように響いた。
「……何が言いたい」
ニコラスが問い返すと、床の文様が光を放ち、空間全体が淡い青に染まった。
その中央に人影が現れた。
長身の男。漆黒の外套をまとい、顔の半分を覆う仮面をつけていた。
しかし、残された片目には、確かにあの視線があった。
「……アーサー……?」
だが、それは人ではなかった。
それは核そのものであり、ニコラスの中にある何かと同じ。
そいつが口を開く。
「違う。私はかつてアーサーと呼ばれた者の残滓にすぎない」
その声は冷たく、そして悲しみに満ちていた。
「私は、力を信じすぎた。理想を追い求めすぎた。世界を救いたかったのに……私が目指した先にあったのは、破滅だけだった」
彼の背後に、崩れ落ちる都市。血に染まる空。大地を割る雷。かつての大戦の幻影が広がった。
「お前も、力を持ってしまった。いずれ選ばされる。守るのか、壊すのか。誰を救い、誰を見捨てるのか。だが……」
仮面の奥で、男の声が震えた。
「お前には……私のようにはなってほしくない」
ニコラスは、青い炎を宿す剣を見つめた。
その炎は、かつてアーサーが使った聖火と呼ばれるものと酷似していた。
「俺は……誰も見捨てたくない。どんな戦いになっても、できる限り多くを守りたいんだ」
その言葉に、仮面の男はふっと目を伏せた。
「ならば……その道を、行け。私の過ちを越えろ。そして、もしもあれが目覚める時が来たなら、お前の手で、世界を終わらせるな」
次の瞬間、空間が揺れた。
回廊が崩れ、天の星々が砕けるように消えていく。
「待て、まだ聞きたいことが!」
ニコラスが叫ぶも、彼の身体は光に包まれ、急速に引き戻されていく。
目を覚ましたとき、雪山の上で彼は倒れていた。
「ニコラス!」
レアナが駆け寄る。顔に安堵の色が広がる。
「……戻った……?俺、なんか……」
「試練は……終わったみたいだな」
エリオットが短く言った。彼の手の中に、さっきまで剣を振るっていた霧の影たちは、もうどこにもいなかった。
空は晴れかけていた。山の頂から、かすかな陽光が差し込んでいる。
その光の中、ニコラスの剣が静かに青く光りながら小さく、鼓動するように震えていた。
ニコラスたちは山を下りながら、昨夜の出来事を誰も口に出せずにいた。
その沈黙を破ったのは、レアナだった。
「……あの光、見たのよ。あなたの剣……あれ、本当にエーテリウムの……?」
問いかける声には、恐れよりも驚きと戸惑いが混ざっていた。
「わからない。あの空間で見たもの……あれは、夢だったのかもしれない」
ニコラスは肩越しに答えたが、その手に握られた剣は確かに青く輝いていた。
「でも、わかることがひとつある」
彼は空を仰ぐようにして言った。
「俺の中には、何かがいる。誰かが、何かを託した。……その力を使うべき時が、きっと来るんだ」
その言葉に、エリオットは一瞬だけ険しい顔を見せたが、やがて視線を前に戻した。
「それがアーサーの影ってわけか。……そいつが、君の中で目を覚ましつつあるなら」
彼は言った。
「早く、世界に知らせなきゃならない。もう、時間はねぇ」
山道を越えたその先に、旅のはじまりの地、フェンリッドの街が小さく見え始めていた。
そしてその同じ空の下。
4つの国もまた、それぞれの動きを見せ始めていた。
サルディア帝国。
黒鉄の城砦・ヴァルグレムにて、皇帝ガレン・ヴォルクスは剣を掲げていた。
「……我らが時代だ。敵が目覚めようとしているのなら、叩き潰すまで。鉄と炎で、我らの未来を築く」
彼の号令のもと、軍団は動き出す。かつてより温められていた兵の増強、兵器の配備、そして未知の技術、エーテリウム兵装の実用化計画が、密かに始まっていた。
カドリア王国。
大聖堂にて、老王アグナスは神官たちに囲まれて祈りを捧げていた。
「これは……神の御裁きだ。我らが傲慢ゆえに封印が緩んだ。信仰と律法に立ち返らねば、滅びは避けられぬ」
王国は民に粛清を告げ、信仰の再編を開始する。
一部の騎士団が再召集され、聖なる大地への巡礼と調査が命じられた。
ヴェルダ共和国。
首都ライツェンの議会では、熱い論争が交わされていた。
「これは危機ではあるが、同時に、変革のチャンスだ。我らは自らの手で未来を選ばねばならない」
若き大統領メイラ・カーストは、議員たちに向かって静かに語る。
「封印の再強化を成した者たちが、あの地にいた。ならば、私たちは彼らを支援すべきだ。武器ではなく、知恵と協力をもって」
共和国は新たな方針を掲げた。
調停と理解を目的とした探索隊の派遣。そして、レジスタンスとの接触。
セラン連邦。
浮遊都市アルス=ルーメンでは、最高学府知の塔の天文台にて、老博士イリオンが空を見上げていた。
「……また、あの波動が観測された。封印は一時的に保たれたが、揺らぎは止まっていない」
セランは静かに、真理への接近を始める。
アーサーが辿った痕跡と、彼が見た未来を、計算式と記録、古文書の解読から再構築しようとしていた。
「もし我らが探し当てることができれば……あれを止められる鍵が、どこかにあるはずだ」
そして、そのすべての渦の中心に、ニコラスたちは立たされようとしていた。
彼らの旅は、もう真実を知るためのものではない。
世界を選ぶ覚悟を持って進むものへと、変わり始めていた。



