南の大地。
戦争から遠く離れた、霧と森に覆われたゼオスの谷。
四大勢力のどこにも属さない、忘れられた人々が暮らす静かな地だ。
その中心に、小さな治療小屋を構える一人の女性がいた。
名は、レアナ・シェイル。
年齢は20代前半、エーテリウムの気配を読む力を持つ者だった。
朝露に濡れた草を踏みながら、レアナは静かに薬草を摘んでいた。
「エーテリウムの気配が濃くなってきた……」
谷に吹き抜ける風に、レアナは微かに眉をひそめる。
「これは……また、誰かが触れている」
谷の奥では、戦争の気配はまだ遠い。
だが、風が語る。
かつてこの地にも火が落ち、命が焼かれた記憶があることを。
昼過ぎ、レアナは傷を負った旅人を1人、谷の入り口で見つけた。
若い男だった。国の制服は着ていないが、背中に焼け焦げたエンブレムの跡があった。
共和国の部隊章……しかし彼の目に、敵意はなかった。
「誰も、もう信じられない……」
レアナは黙って頷き、彼を治療小屋へ運ぶ。
そして、そっと額に手を当てた。
彼の記憶に一瞬、異様な風景がよぎる。
灰色の空、崩れ落ちる塔、宙に浮かぶ光の塊……。
「……あなた……アーサーの記憶を見たの?」
男は小さく目を開き、震える声で答える。
「俺は……あの戦場で……あれを、見た」
レアナの胸に、ざらりとした違和感が走った。
次の戦争は、すでに静かに始まっている。
誰も気づかぬうちに……。
日が沈む頃、レアナは薬草の匂いが染みついた布で男の額を拭っていた。
彼の傷は深く、特に肩の切創は、通常の武器ではない何かまるで、光で焼かれたような形をしていた。
彼女は手を止め、そっと囁く。
「この傷……ただの戦争じゃない。あなた、何を見たの?」
男はわずかに目を開け、視線を天井に漂わせる。
その瞳は、まるで深い夢からまだ戻れずにいるようだった。
「塔が……落ちた。空に、光があって、誰かが叫んで……でも音が聞こえなかった」
「炎じゃない……もっと、静かで、でも、すべてを焼くような……」
言葉はそこで途切れた。
彼は眠りに落ちる。
レアナは火を落とし、窓を見つめた。
遠く、谷の外れにある風の柱が淡く青く光っている。
あれは、かつてアーサーが通ったという場所。
そして、エーテリウムが最も濃く染み込んだ記録の地。
彼女は静かに立ち上がり、棚の奥から古びた帳簿を取り出す。
何百年も前に書かれた、記録士たちの手による書。
『ジェイコブ・アーサー封印記』
その最後のページだけが、何者かによって破り取られていた。
次の日の朝。
谷には見慣れない霧が立ち込めていた。
外へ出たレアナは、空気の異変を感じ取る。
「……この霧、自然のものじゃない」
そして彼女は見た。
谷の東の斜面に、地面が裂けるようにして開いた亀裂。
それは、ただの地割れではなかった。
内側から冷たい風が吹き出し、青い光の粒子がゆっくりと昇っている。
レアナはすぐに悟った。
「エーテリウム……それも、深層の……」
村の子どもたちは怯え、大人たちは視線を逸らした。
だがレアナだけは、その裂け目から漂う記憶のような感覚をはっきりと感じていた。
これはただの亀裂ではない。
過去に通じる道。
風の声が、静かに囁く。
……彼が、帰ってくる。
……終わりが、再び始まる。
彼とは、かつて世界を焼き、そして封印されたあの男。
ジェイコブ・アーサー。
夕方。
レアナは決意したようにマントを羽織り、治療小屋の扉を閉める。
男が眠るベッドの横に、小さな書き置きを残して。
「まだ、あなたが何者なのか知らない。でも、あなたの記憶に触れたことで、私は動かなきゃならなくなった。私たちの世界は、何か大きな過ちの上に立ってる。真実を見つける。戻ってきたら、教えて。あなたが見たことを」
谷の入り口。
レアナは、異様な裂け目の前に立っていた。
それは地面の傷ではない。時間の綻びのように、黒く、静かに口を開けている。
中からは、風とは違う何かが吹き出していた。温度を持たず、けれど確かに記憶の匂いを含んだ気配。
エーテリウムの濃度も、ここだけ異常に高い。
レアナは目を細めて、その空気の波に指を伸ばす。
「ここは……過去へ、繋がっているの?」
確信はない。ただ、胸の奥にひっかかる感覚がある。
これは偶然ではない。彼が残したもの、あるいは、彼を呼び戻す何か。
風が耳元で囁く。
彼が、動いている。
この地が再び、目覚めようとしている。
レアナは決意するようにマントの裾を直し、ひとつ息を吐いた。
そして背後を振り返ることなく、裂け目の向こうへ足を踏み出す。
エーテリウムの微かな震えを感じながら、彼女はかつて誰も戻らなかった封印の地へ向かった。
森の中の廃墟。
レアナはその夜、小さな焚き火を灯していた。
長い道のりだった。霧と風、そして体の奥に響く妙な高鳴り。
まるで誰かに導かれているような、そんな感覚がずっとつきまとっていた。
その夜、レアナはそっと目を閉じた。
そして、記憶が、彼女を呑み込んだ。
光のない空。焦げた地。
誰もいない戦場に、漆黒の鎧をまとった男が立っていた。
背に、赤黒く輝く双剣。
その目には怒りと、深い絶望が燃えていた。
レアナは気づくと、その男のすぐ後ろに立っていた。
これはただの夢じゃない。
誰かの、強く焼きついた記憶それも、あの男の。
ジェイコブ・アーサー。
かつて7つの国を沈め、封印された伝説の支配者。
だがその顔に、勝利の色はない。
彼の口からこぼれた言葉は、静かで、あまりに人間らしいものだった。
「誰も、わかっていなかった……」
その瞬間、空が裂けた。
黒い炎が舞い上がり、剣が一振り。
音もなく地が割れ、軍が消し飛ぶ。
戦いではない。圧倒的な断絶。
レアナは思わず目を見開いた。
「これが、かつての戦争……?」
だが、アーサーの姿が揺らぐ。
力が、彼自身を蝕み始めていた。
「もう……引き返せないんだ……」
光が弾け、空が赤黒く染まる。
かつての仲間たちが、彼の前に立ちはだかる。
だが、その剣はもう、止められなかった。
「ジェイコブ! やめろ!」
誰かが叫んだ。
その声もまた、光に呑まれて消えた。
「やめてっ……!」
レアナは飛び起きた。
呼吸が荒く、額には冷や汗が滲んでいる。
焚き火はいつの間にか消え、静寂だけが残っていた。
彼の怒りも、力も、すべてが見えた。
だがその奥にあったのは後悔だった。
風が、彼女の耳元で囁いた。
過去が、お前を呼んでいる。
レアナは空を見上げた。
「彼は……悪じゃなかった」
その言葉を信じきれぬまま、彼女はもう一度歩き始めた。
真実を、この目で確かめるために。
レアナは焚き火の灯りを背に、辺りを慎重に見回した。
霧に包まれた森の中、彼女の視線は朽ちた石壁に刻まれた古代の文字に止まった。
それはエーテリウム戦争の歴史を記した碑文だった。
彼女は膝をつき、冷えた石に触れながらゆっくりと読み始める。
【かつてのエーテリウム戦争】
長きにわたり、4つの国がエーテリウムの力を巡り争った。
その激戦の中、ひとりの英雄が現れた。ジェイコブ・アーサー。
彼は力の暴走を止め、世界に平和をもたらしたかに見えた。
しかし、力の代償は大きかった。
アーサーはその力に呑まれ、心を蝕まれていった。
そして、最後には封印され、忘れられた存在となった。
レアナはページを閉じ、息をついた。
「彼は……本当に、誰よりも苦しんでいたんだ……」
彼女の胸に、かすかな光がともる。
真実を知った今、動くべき時が来たのだと。
だがレアナは碑文を読み終えた後も、胸のざわつきが収まらなかった。
「彼は……悪じゃなかった」
そう信じたい自分と、世界が語る破壊者としてのアーサーの姿が、どうしても頭の中で絡み合って離れなかった。
外の霧はますます濃くなり、風が森を揺らす。
「でも……誰もまだ、あの男を英雄としては見ていない」
村の噂も、国の記録も、誰もが彼を世界を壊した男と呼び、恐れ、忌み嫌う。
レアナは胸の中で小さく誓った。
「いつか、真実を知ってもらう」
彼が何故ああなったのか。彼が抱えた孤独と苦悩を。
そして、彼の中に確かにあった英雄としての心を。
まだ遠いその日を願いながら、レアナは夜の霧に消えていく道を見つめていた。
戦争から遠く離れた、霧と森に覆われたゼオスの谷。
四大勢力のどこにも属さない、忘れられた人々が暮らす静かな地だ。
その中心に、小さな治療小屋を構える一人の女性がいた。
名は、レアナ・シェイル。
年齢は20代前半、エーテリウムの気配を読む力を持つ者だった。
朝露に濡れた草を踏みながら、レアナは静かに薬草を摘んでいた。
「エーテリウムの気配が濃くなってきた……」
谷に吹き抜ける風に、レアナは微かに眉をひそめる。
「これは……また、誰かが触れている」
谷の奥では、戦争の気配はまだ遠い。
だが、風が語る。
かつてこの地にも火が落ち、命が焼かれた記憶があることを。
昼過ぎ、レアナは傷を負った旅人を1人、谷の入り口で見つけた。
若い男だった。国の制服は着ていないが、背中に焼け焦げたエンブレムの跡があった。
共和国の部隊章……しかし彼の目に、敵意はなかった。
「誰も、もう信じられない……」
レアナは黙って頷き、彼を治療小屋へ運ぶ。
そして、そっと額に手を当てた。
彼の記憶に一瞬、異様な風景がよぎる。
灰色の空、崩れ落ちる塔、宙に浮かぶ光の塊……。
「……あなた……アーサーの記憶を見たの?」
男は小さく目を開き、震える声で答える。
「俺は……あの戦場で……あれを、見た」
レアナの胸に、ざらりとした違和感が走った。
次の戦争は、すでに静かに始まっている。
誰も気づかぬうちに……。
日が沈む頃、レアナは薬草の匂いが染みついた布で男の額を拭っていた。
彼の傷は深く、特に肩の切創は、通常の武器ではない何かまるで、光で焼かれたような形をしていた。
彼女は手を止め、そっと囁く。
「この傷……ただの戦争じゃない。あなた、何を見たの?」
男はわずかに目を開け、視線を天井に漂わせる。
その瞳は、まるで深い夢からまだ戻れずにいるようだった。
「塔が……落ちた。空に、光があって、誰かが叫んで……でも音が聞こえなかった」
「炎じゃない……もっと、静かで、でも、すべてを焼くような……」
言葉はそこで途切れた。
彼は眠りに落ちる。
レアナは火を落とし、窓を見つめた。
遠く、谷の外れにある風の柱が淡く青く光っている。
あれは、かつてアーサーが通ったという場所。
そして、エーテリウムが最も濃く染み込んだ記録の地。
彼女は静かに立ち上がり、棚の奥から古びた帳簿を取り出す。
何百年も前に書かれた、記録士たちの手による書。
『ジェイコブ・アーサー封印記』
その最後のページだけが、何者かによって破り取られていた。
次の日の朝。
谷には見慣れない霧が立ち込めていた。
外へ出たレアナは、空気の異変を感じ取る。
「……この霧、自然のものじゃない」
そして彼女は見た。
谷の東の斜面に、地面が裂けるようにして開いた亀裂。
それは、ただの地割れではなかった。
内側から冷たい風が吹き出し、青い光の粒子がゆっくりと昇っている。
レアナはすぐに悟った。
「エーテリウム……それも、深層の……」
村の子どもたちは怯え、大人たちは視線を逸らした。
だがレアナだけは、その裂け目から漂う記憶のような感覚をはっきりと感じていた。
これはただの亀裂ではない。
過去に通じる道。
風の声が、静かに囁く。
……彼が、帰ってくる。
……終わりが、再び始まる。
彼とは、かつて世界を焼き、そして封印されたあの男。
ジェイコブ・アーサー。
夕方。
レアナは決意したようにマントを羽織り、治療小屋の扉を閉める。
男が眠るベッドの横に、小さな書き置きを残して。
「まだ、あなたが何者なのか知らない。でも、あなたの記憶に触れたことで、私は動かなきゃならなくなった。私たちの世界は、何か大きな過ちの上に立ってる。真実を見つける。戻ってきたら、教えて。あなたが見たことを」
谷の入り口。
レアナは、異様な裂け目の前に立っていた。
それは地面の傷ではない。時間の綻びのように、黒く、静かに口を開けている。
中からは、風とは違う何かが吹き出していた。温度を持たず、けれど確かに記憶の匂いを含んだ気配。
エーテリウムの濃度も、ここだけ異常に高い。
レアナは目を細めて、その空気の波に指を伸ばす。
「ここは……過去へ、繋がっているの?」
確信はない。ただ、胸の奥にひっかかる感覚がある。
これは偶然ではない。彼が残したもの、あるいは、彼を呼び戻す何か。
風が耳元で囁く。
彼が、動いている。
この地が再び、目覚めようとしている。
レアナは決意するようにマントの裾を直し、ひとつ息を吐いた。
そして背後を振り返ることなく、裂け目の向こうへ足を踏み出す。
エーテリウムの微かな震えを感じながら、彼女はかつて誰も戻らなかった封印の地へ向かった。
森の中の廃墟。
レアナはその夜、小さな焚き火を灯していた。
長い道のりだった。霧と風、そして体の奥に響く妙な高鳴り。
まるで誰かに導かれているような、そんな感覚がずっとつきまとっていた。
その夜、レアナはそっと目を閉じた。
そして、記憶が、彼女を呑み込んだ。
光のない空。焦げた地。
誰もいない戦場に、漆黒の鎧をまとった男が立っていた。
背に、赤黒く輝く双剣。
その目には怒りと、深い絶望が燃えていた。
レアナは気づくと、その男のすぐ後ろに立っていた。
これはただの夢じゃない。
誰かの、強く焼きついた記憶それも、あの男の。
ジェイコブ・アーサー。
かつて7つの国を沈め、封印された伝説の支配者。
だがその顔に、勝利の色はない。
彼の口からこぼれた言葉は、静かで、あまりに人間らしいものだった。
「誰も、わかっていなかった……」
その瞬間、空が裂けた。
黒い炎が舞い上がり、剣が一振り。
音もなく地が割れ、軍が消し飛ぶ。
戦いではない。圧倒的な断絶。
レアナは思わず目を見開いた。
「これが、かつての戦争……?」
だが、アーサーの姿が揺らぐ。
力が、彼自身を蝕み始めていた。
「もう……引き返せないんだ……」
光が弾け、空が赤黒く染まる。
かつての仲間たちが、彼の前に立ちはだかる。
だが、その剣はもう、止められなかった。
「ジェイコブ! やめろ!」
誰かが叫んだ。
その声もまた、光に呑まれて消えた。
「やめてっ……!」
レアナは飛び起きた。
呼吸が荒く、額には冷や汗が滲んでいる。
焚き火はいつの間にか消え、静寂だけが残っていた。
彼の怒りも、力も、すべてが見えた。
だがその奥にあったのは後悔だった。
風が、彼女の耳元で囁いた。
過去が、お前を呼んでいる。
レアナは空を見上げた。
「彼は……悪じゃなかった」
その言葉を信じきれぬまま、彼女はもう一度歩き始めた。
真実を、この目で確かめるために。
レアナは焚き火の灯りを背に、辺りを慎重に見回した。
霧に包まれた森の中、彼女の視線は朽ちた石壁に刻まれた古代の文字に止まった。
それはエーテリウム戦争の歴史を記した碑文だった。
彼女は膝をつき、冷えた石に触れながらゆっくりと読み始める。
【かつてのエーテリウム戦争】
長きにわたり、4つの国がエーテリウムの力を巡り争った。
その激戦の中、ひとりの英雄が現れた。ジェイコブ・アーサー。
彼は力の暴走を止め、世界に平和をもたらしたかに見えた。
しかし、力の代償は大きかった。
アーサーはその力に呑まれ、心を蝕まれていった。
そして、最後には封印され、忘れられた存在となった。
レアナはページを閉じ、息をついた。
「彼は……本当に、誰よりも苦しんでいたんだ……」
彼女の胸に、かすかな光がともる。
真実を知った今、動くべき時が来たのだと。
だがレアナは碑文を読み終えた後も、胸のざわつきが収まらなかった。
「彼は……悪じゃなかった」
そう信じたい自分と、世界が語る破壊者としてのアーサーの姿が、どうしても頭の中で絡み合って離れなかった。
外の霧はますます濃くなり、風が森を揺らす。
「でも……誰もまだ、あの男を英雄としては見ていない」
村の噂も、国の記録も、誰もが彼を世界を壊した男と呼び、恐れ、忌み嫌う。
レアナは胸の中で小さく誓った。
「いつか、真実を知ってもらう」
彼が何故ああなったのか。彼が抱えた孤独と苦悩を。
そして、彼の中に確かにあった英雄としての心を。
まだ遠いその日を願いながら、レアナは夜の霧に消えていく道を見つめていた。



