深い森の奥、静寂に包まれた小さな小屋。
ようやく訪れた平穏……。
レアナは、小屋の窓を開け、朝の光を取り込む。
小さなテーブルには、淹れたての薬草茶と、焼きたてのパン。
戦をくぐり抜けたとは思えぬほど穏やかな光景だった。
エリオットは包帯の巻かれた肩を無造作に掻き、眠そうな目をこすっている。
ニコラスは、壁に掛けられた小型スクリーンをリモコンで起動させた。
ニュースが流れ出す。
「速報です。本日、政府は西方戦争の正式な終結を宣言しました。生存者の保護と復興が第一の課題とされ……」
アナウンサーの声は機械的に平和を語る。だが、誰の表情も緩まなかった。
「……でたらめだ」
ニコラスがぼそりと呟いた。
「復興だ?一番壊したのは誰だってのに」
レアナは無言でうなずく。
そのとき、画面が切り替わり、別の緊急ニュースが流れ出す。
「……政府防衛省より、機密指定が解除された映像をお送りします」
そこに映し出されたのは、古びた文献。魔導的な封印の印が浮かぶ書物だった。
そして、背筋を凍らせる言葉が読み上げられる。
「五百年前、人類を救った英雄ジェイコブ・アーサーは、地獄の悪魔と契約を結びました。代償として、五百年後の今、人類が悪を清めきれなければ、魔界は門を開き、人間界へ侵攻を開始する……と」
レアナは息を呑んだ。
エリオットも静かに拳を握る。
「ふざけんな……そんなものが、今さら……!」
映像は続く。
「そして本日、午前5時。五百年前、英雄アーサーが狙撃により暗殺された旧王都の丘シルヴァ・クレイドにて、地表の歪みが観測されました」
画面に映るのは、灰に覆われた荒れ地。だがその中心には、黒い門のような裂け目が、禍々しく開いていた。
「すでに複数の人間に酷似した存在が門から出現。自らを悪魔の弟子と名乗り、周囲の村を襲撃しています。政府はこれを……」
ニュースは突然、ノイズ混じりに切れる。
静寂。
「来た、のか」
ニコラスの声は低く、どこか諦めに近い。
「終わったと思ったのに⋯⋯!」
レアナは小さく呟いた。
だが、その声には迷いがなかった。
彼女の中で、あの戦いが、癒し手としての自分と向き合う時間だったからこそ。
「じゃあ……やっぱり行くんだよね」
レアナはそっと、ふたりの背中に声を投げる。
エリオットは、軽く片目をつぶって言った。
「行くさ。今度こそ、終わらせるために」
ニコラスが肩を回し、青い炎の帯を一瞬だけ放つ。
「俺の命、使い道はもう決まってる」
そしてレアナも、小屋の棚から静かに医療鞄を取り出した。
かつては躊躇していたその手に、今は覚悟が宿っている。
「私も、ついていく。……あの門の先に、救えるものがあるなら」
再び始まる、戦いの予兆。
画面が途切れてからもしばらく、誰も口を開かなかった。
小屋にある唯一の窓から、遠く鳥の鳴く声が聞こえる。
「本当に……来るんだね」
レアナの声が静かに響いた。
「来る、じゃなくて、もう来てる」
エリオットが即座に言った。目は細く、口元は引き結ばれていた。
ニコラスは黙って炎の帯を指先で揺らしている。
その青は、以前よりもどこか不安定で、微かに赤味を帯びていた。
レアナはゆっくりと腰を上げ、窓辺に近づいた。
「……あのニュースに映った場所、あそこ、私……昔行ったことがあるの」
「え?」
ニコラスが顔を上げた。
「医療従者としてじゃない。もっと前。私が……まだあの人たちと一緒だった頃」
レアナの瞳が遠くを見ている。
「あの人たち?」
エリオットが問う。
レアナは振り返らなかった。
その背中から過去の匂いがした。
「私も一度、あの門に触れかけたことがある。封印されてる頃だったけど……。でも、聞こえたの。こっちへ来いって。何かを囁く声が……何度も、何度も」
その場に冷たい空気が流れた。
「お前……そのとき、どうしたんだ?」
ニコラスがゆっくりと立ち上がり、声を潜めて問う。
「逃げたわ。でも、私1人じゃなかった。あのとき、私を止めてくれた人がいた」
レアナの声が震える。
「それが……」
彼女はそっと、視線をエリオットに向けた。
「……あのとき私を救ってくれたのは、あなた、だったの?」
エリオットは目を伏せたまま、肩を落とす。
「……ああ。黙っていてすまない」
レアナの目が潤んだ。
ようやく真実が繋がったことへの、深い安堵。
「……私、ずっと聞けなかった。だって、あなたの目が、あの頃よりもずっと遠くを見てたから」
エリオットは一歩近づき、彼女の手を取った。
「ごめん。あの頃、俺は自分のことで精一杯だった。でも……今なら言える。あのときお前を救えたことだけが、俺が自分を信じてこれた理由だった、ありがとう本当に」
レアナの目から涙がこぼれ落ちる。
「それだけで、私は……私でいられた」
2人の間に、再び訪れた静寂。
だがそれは、重荷を分け合った者たちにしか生まれない、確かな絆だった。
「さあ、準備しよう」
ニコラスが言った。ゆっくりと立ち上がる。
「門を封じるか、ぶっ壊すか。やるべきことは1つだ」
エリオットとレアナも、うなずいた。
小屋の扉がゆっくりと開かれる。
3人は、新たな戦いの地へと向かうため、森を後にした。
黒煙のような影が、空を裂くように出現したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
かつてアーサーが暗殺された処。そこに、異形の裂け目が開いた。
「門だ……!」
ニコラスが叫ぶ。
空間がねじれる。音のない咆哮が大気を揺らし、そして……それは現れた。
巨大な腕。黒く、鎧のような皮膚。ねじれた角、虚ろな眼。
地獄の悪魔が、姿を現した。
「1体……だけ?」
レアナが呟いたが、その声には安堵はなかった。
1体だけで十分だと、全員が本能で理解した。
「……あれは、まだ最下位の悪魔だ」
エリオットの声が響く。
「それでも、この世界では桁が違う」
ニコラスが刀を抜いた。刃から青い炎が立ち昇る。
戦いが始まった。
ニコラスが正面から突撃する。刀が悪魔の腕に命中するも、浅い。
悪魔は口を開き、無音の衝撃波を吐いた。
「っぐあっ……!」
ニコラスが吹き飛ばされる。
エリオットが背後から銃を撃つ。
銃弾には特別な術が仕込まれている。それでも、悪魔の肌にはかすり傷。
「レアナ!」
彼女は既に支援術式を展開していた。治癒結界と魔力転送を同時に維持しながら、叫ぶ。
「……これ、時間が持たない!」
だが、彼らは3人だけではなかった。
レアナが通信用水晶を取り出し、叫ぶ。
「第十三部隊!応援要請、いますぐ、いますぐ来て!」
丘に数十人の兵士たちが駆け上がってきた。
魔法師、狙撃兵、剣士、重装兵。
だが、悪魔の動きは止まらない。
「奴の力は、集団戦にすら対応している……!」
応援に来た魔法使いが叫ぶ。次々と兵が吹き飛ばされ、骨が砕ける音が響く。
そのとき。
「ニコラス、刀を貸せ!」
エリオットが叫んだ。
「は?」
「俺が転送した魔術で、炎を一時的に10倍に増幅させる。制御できるかは……知らねえけどな!」
「やってみる価値はある!」
ニコラスが刀を投げ渡す。
エリオットが両手で魔法陣を展開し、刀に炎の魔力を注ぎ込む。
刀は赤と青の炎に包まれ、形を変え始めた。炎の大剣へと。
ニコラスがそれを受け取り、最後の突撃をかける。
「燃え尽きろ!」
地面を砕きながら飛び上がり、悪魔の胸部に突き立てる。
爆発した。
悪魔の叫びが空を裂き、門に向かって引きずられるように崩れ落ちていく。
煙の中から、ニコラスがゆっくりと姿を現した。片膝をつき、息を荒げながら。
悪魔は消えた。
だが、門は消えていなかった。
空に開いた裂け目は、なおも黒く、静かに揺れている。
「……何で、閉じねえ」
ニコラスが吐き捨てるように言った。
「1体倒しても……この門は、開いたままなんだ」
エリオットが呟く。
そこへ、軍の解析官が通信魔術で接続されてくる。
「門の封印条件が分かりました。かつてアーサーが用いた魂の鍵……それが必要です」
「魂の鍵……?」
「はい。五百年前の契約、アーサーが地獄の王と交わしたとされる契約書と、その封印鍵。それがなければ、門は閉じません」
「まさか……そんなモノを……」
誰かが呟いた。
レアナが顔を上げる。
「ねえ、さっきの……あれ、本当に下っ端の悪魔だったの?」
通信越しに、静かな答えが返ってくる。
「……はい。あれは、地獄の序列でいえば最下層。狩り犬と呼ばれる種族です」
絶句。
「じゃあ……次は?」
「……門が閉じなければ、上位階級の悪魔が順に現れ始めるでしょう」
3人は門を見上げた。そこから微かに、異界の風が流れてくる。
それは、絶対に閉じなければならない門だった。
夜。
森の奥の小さな小屋。
全身に走る痛みを抱えたまま、ニコラスは眠りに落ちる。
黒い霧に包まれた空間。視界の端から、赤い影が蠢く。
眼前に立っていたのは、かつて見たことのない、背丈の倍もある影だった。
「門を閉じる術など、この世に存在せぬ」
「お前たちが触れたのは、封印された契約の端くれに過ぎない」
「真なる封印を望むならば、地獄そのものに足を踏み入れ、王に膝をつくほかない」
影の言葉は、まるで自分の心の中に直接流れ込んでくるようだった。
声ではない。命令に近い。
「……それしか、道はないのか」
ニコラスの問いかけに、影は静かに頷いたようだった。
その瞬間、霧が裂ける。
焼け焦げた大地、赤黒い空。絶望の匂いが満ちた異世界の光景が、瞼に焼きついた。
「目覚めよ、地獄の訪問者」
次の瞬間、彼は跳ねるように目を覚ました。
冷たい汗が額を流れ落ち、息が荒い。夜明け前の静けさが、かえって恐ろしく思えた。
「……地獄に、行くしかないんだ」
声に出して言ったとき、自分でもその言葉の重みを実感した。
すべてを背負う決意。
自分が、人間でありながら、悪魔の地に足を踏み入れる者になる覚悟。
そのとき、扉の向こうから気配がした。
扉が静かに開くと、レアナが灯りを手に、心配そうな顔で立っていた。
「……大丈夫?すごくうなされてた」
「……ああ。少し、夢を見てたんだ」
ニコラスはベッドに腰かけたまま、ほんの少し微笑んでみせた。
けれど、瞳の奥にある覚悟は、レアナにもしっかりと伝わっていた。
「聞かせて。……その夢のこと」
「……封印の地じゃ、ダメだった。俺たちは……いや、俺は、地獄に行かないといけない」
「……えっ?」
レアナの手にしていた灯りが、かすかに揺れた。
その炎の揺れは、まるでこれから向かう運命の道を暗示しているようだった。
3人は、森の小屋から移動し、数時間かけて例の丘に辿り着く。
周囲には誰の姿もなく、扉は静かに開かれていた。
「誰にも見られてないな……」
エリオットが低くつぶやいた。
「それにしても、ほんとに行くの?帰って来れる保証もないのに」
レアナの声には微かな不安が混じる。
けれど、ニコラスの瞳は迷いなく前を見ていた。
「……俺たちが選んだ道だ。戻れないとしても、今しかない」
3人は無言のまま、扉をくぐった。
地獄……それは、人間の言葉では形容しきれない世界だった。
赤く染まる空。大地は焼け、空気は冷たく乾いていた。
驚くべきことに、彼らを迎え撃つ悪魔たちはいなかった。
「……何だこれ」
「罠、じゃないよな……」
恐る恐る進む彼らに、奇妙な静寂だけが付きまとう。
だが、進むにつれて、彼らは次第に理解することになる。
これは試されている⋯⋯。意志を。
黒き石階段を降りた先、そこには荘厳な玉座があった。
漆黒の王座に、赤き瞳を持つ王が座していた。
顔は闇に包まれ、ただその存在だけが異様な重みを放っている。
「よく来たな、人の子らよ」
声は空気を震わせる。
耳で聞くというより、頭の中に直接響くようだった。
「門を閉じたい……それが願いか」
ニコラスが一歩前に出る。
「……あの門を放っておけば、人の世界は滅びる。止めたい。だから……」
「だから?」
「あなたの力が必要だ」
「ふん、なるほど⋯⋯」
王は小さく笑った。
ただ静かに、彼らを見つめる。
「我らが門を開いたのではない。500年前の契約を破ったのは、あの者だ」
「だが、お前たちの中にまだ生きている者がいる。あの契約の因果を、断ち切る資格がある者がな」
エリオットが目を見開く。
「それって……」
「その男、お前の血に眠るものが鍵だ」
「……俺?」
ニコラスは一歩後ずさる。
「まさか、俺の血がそんな……」
「お前は遠い昔、契約者の末裔。あの王アーサーの守人にして、異界との楔」
「お前の意志ひとつで、門は閉ざされる。そしてその代償もまた、お前にのみ課される」
一瞬、場が凍る。
ニコラスの顔に、静かな覚悟が浮かぶ。
「……わかった。やる。俺がその役割を果たすなら、迷わない」
「ふむ。人間とは……時に、我らよりも恐れを知らぬものだ」
王が立ち上がる。
地響きのような音が鳴り、世界の空がひび割れた。
「では、我が名において、門を閉ざす」
「フィーニスの契印、ここに解く」
その瞬間、3人の視界が白く染まり、風が吹き抜ける。
現世。
森の小屋に戻った時、空はすでに晴れ渡っていた。
遠くに見えていた門は、もう消えていた。
「……帰ってきた、のか?」
エリオットが呆然とした声でつぶやいた。
ニコラスは頷く。
「扉は……閉じた。たぶん、もう開かない」
レアナは、何も言わず空を見上げていた。
あの激しい戦いから数日。ニコラスたちが地獄から戻った翌日。
レアナの小屋にて、3人は疲れ切った身体を休めていたが、突然の知らせが彼らを引き戻した。
「門がまた動いているらしい」
エリオットの声に、3人の間に緊張が走った。
「地獄の王に会って封印したはずだ……なぜ?」
レアナが問いかける。
兵士からの報告では、門はまだ完全には閉じていなかったらしく、そこから下っ端の悪魔が単独で侵入してきていた。
「もう一度地獄に行くのではなく、現世で防がなければならない」
ニコラス、エリオット、レアナの3人は、門の封印が完全ではないことに焦りを感じていた。
「このままでは悪魔たちが次々と現世に侵入してしまう」
レアナが言う。
そこで、彼らはジェイコブ・アーサーが結んだ契約の詳細を調べるため、街の大図書館へ向かった。
広大な書架の中、埃をかぶった古文書の一冊が彼らの目に留まる。
「これだ」
エリオットが手に取ったその本には、ジェイコブ・アーサーが交わした契約について記されていた。
契約の内容は恐ろしかった。
『自我を失う代償に、世界の悪をすべて滅ぼすことを条件とし、最強の力と黒い炎を纏った剣を手にする』
それはまさにアーサーの力の源であり、同時に彼を人間でなくした呪いでもあった。
ニコラスはその言葉に重く息を吐いた。
「この契約を理解しなければ、俺たちは正しく戦えない」
3人は再び結束し、今後の戦いに備える決意を固めた。
ようやく訪れた平穏……。
レアナは、小屋の窓を開け、朝の光を取り込む。
小さなテーブルには、淹れたての薬草茶と、焼きたてのパン。
戦をくぐり抜けたとは思えぬほど穏やかな光景だった。
エリオットは包帯の巻かれた肩を無造作に掻き、眠そうな目をこすっている。
ニコラスは、壁に掛けられた小型スクリーンをリモコンで起動させた。
ニュースが流れ出す。
「速報です。本日、政府は西方戦争の正式な終結を宣言しました。生存者の保護と復興が第一の課題とされ……」
アナウンサーの声は機械的に平和を語る。だが、誰の表情も緩まなかった。
「……でたらめだ」
ニコラスがぼそりと呟いた。
「復興だ?一番壊したのは誰だってのに」
レアナは無言でうなずく。
そのとき、画面が切り替わり、別の緊急ニュースが流れ出す。
「……政府防衛省より、機密指定が解除された映像をお送りします」
そこに映し出されたのは、古びた文献。魔導的な封印の印が浮かぶ書物だった。
そして、背筋を凍らせる言葉が読み上げられる。
「五百年前、人類を救った英雄ジェイコブ・アーサーは、地獄の悪魔と契約を結びました。代償として、五百年後の今、人類が悪を清めきれなければ、魔界は門を開き、人間界へ侵攻を開始する……と」
レアナは息を呑んだ。
エリオットも静かに拳を握る。
「ふざけんな……そんなものが、今さら……!」
映像は続く。
「そして本日、午前5時。五百年前、英雄アーサーが狙撃により暗殺された旧王都の丘シルヴァ・クレイドにて、地表の歪みが観測されました」
画面に映るのは、灰に覆われた荒れ地。だがその中心には、黒い門のような裂け目が、禍々しく開いていた。
「すでに複数の人間に酷似した存在が門から出現。自らを悪魔の弟子と名乗り、周囲の村を襲撃しています。政府はこれを……」
ニュースは突然、ノイズ混じりに切れる。
静寂。
「来た、のか」
ニコラスの声は低く、どこか諦めに近い。
「終わったと思ったのに⋯⋯!」
レアナは小さく呟いた。
だが、その声には迷いがなかった。
彼女の中で、あの戦いが、癒し手としての自分と向き合う時間だったからこそ。
「じゃあ……やっぱり行くんだよね」
レアナはそっと、ふたりの背中に声を投げる。
エリオットは、軽く片目をつぶって言った。
「行くさ。今度こそ、終わらせるために」
ニコラスが肩を回し、青い炎の帯を一瞬だけ放つ。
「俺の命、使い道はもう決まってる」
そしてレアナも、小屋の棚から静かに医療鞄を取り出した。
かつては躊躇していたその手に、今は覚悟が宿っている。
「私も、ついていく。……あの門の先に、救えるものがあるなら」
再び始まる、戦いの予兆。
画面が途切れてからもしばらく、誰も口を開かなかった。
小屋にある唯一の窓から、遠く鳥の鳴く声が聞こえる。
「本当に……来るんだね」
レアナの声が静かに響いた。
「来る、じゃなくて、もう来てる」
エリオットが即座に言った。目は細く、口元は引き結ばれていた。
ニコラスは黙って炎の帯を指先で揺らしている。
その青は、以前よりもどこか不安定で、微かに赤味を帯びていた。
レアナはゆっくりと腰を上げ、窓辺に近づいた。
「……あのニュースに映った場所、あそこ、私……昔行ったことがあるの」
「え?」
ニコラスが顔を上げた。
「医療従者としてじゃない。もっと前。私が……まだあの人たちと一緒だった頃」
レアナの瞳が遠くを見ている。
「あの人たち?」
エリオットが問う。
レアナは振り返らなかった。
その背中から過去の匂いがした。
「私も一度、あの門に触れかけたことがある。封印されてる頃だったけど……。でも、聞こえたの。こっちへ来いって。何かを囁く声が……何度も、何度も」
その場に冷たい空気が流れた。
「お前……そのとき、どうしたんだ?」
ニコラスがゆっくりと立ち上がり、声を潜めて問う。
「逃げたわ。でも、私1人じゃなかった。あのとき、私を止めてくれた人がいた」
レアナの声が震える。
「それが……」
彼女はそっと、視線をエリオットに向けた。
「……あのとき私を救ってくれたのは、あなた、だったの?」
エリオットは目を伏せたまま、肩を落とす。
「……ああ。黙っていてすまない」
レアナの目が潤んだ。
ようやく真実が繋がったことへの、深い安堵。
「……私、ずっと聞けなかった。だって、あなたの目が、あの頃よりもずっと遠くを見てたから」
エリオットは一歩近づき、彼女の手を取った。
「ごめん。あの頃、俺は自分のことで精一杯だった。でも……今なら言える。あのときお前を救えたことだけが、俺が自分を信じてこれた理由だった、ありがとう本当に」
レアナの目から涙がこぼれ落ちる。
「それだけで、私は……私でいられた」
2人の間に、再び訪れた静寂。
だがそれは、重荷を分け合った者たちにしか生まれない、確かな絆だった。
「さあ、準備しよう」
ニコラスが言った。ゆっくりと立ち上がる。
「門を封じるか、ぶっ壊すか。やるべきことは1つだ」
エリオットとレアナも、うなずいた。
小屋の扉がゆっくりと開かれる。
3人は、新たな戦いの地へと向かうため、森を後にした。
黒煙のような影が、空を裂くように出現したのは、正午を少し過ぎた頃だった。
かつてアーサーが暗殺された処。そこに、異形の裂け目が開いた。
「門だ……!」
ニコラスが叫ぶ。
空間がねじれる。音のない咆哮が大気を揺らし、そして……それは現れた。
巨大な腕。黒く、鎧のような皮膚。ねじれた角、虚ろな眼。
地獄の悪魔が、姿を現した。
「1体……だけ?」
レアナが呟いたが、その声には安堵はなかった。
1体だけで十分だと、全員が本能で理解した。
「……あれは、まだ最下位の悪魔だ」
エリオットの声が響く。
「それでも、この世界では桁が違う」
ニコラスが刀を抜いた。刃から青い炎が立ち昇る。
戦いが始まった。
ニコラスが正面から突撃する。刀が悪魔の腕に命中するも、浅い。
悪魔は口を開き、無音の衝撃波を吐いた。
「っぐあっ……!」
ニコラスが吹き飛ばされる。
エリオットが背後から銃を撃つ。
銃弾には特別な術が仕込まれている。それでも、悪魔の肌にはかすり傷。
「レアナ!」
彼女は既に支援術式を展開していた。治癒結界と魔力転送を同時に維持しながら、叫ぶ。
「……これ、時間が持たない!」
だが、彼らは3人だけではなかった。
レアナが通信用水晶を取り出し、叫ぶ。
「第十三部隊!応援要請、いますぐ、いますぐ来て!」
丘に数十人の兵士たちが駆け上がってきた。
魔法師、狙撃兵、剣士、重装兵。
だが、悪魔の動きは止まらない。
「奴の力は、集団戦にすら対応している……!」
応援に来た魔法使いが叫ぶ。次々と兵が吹き飛ばされ、骨が砕ける音が響く。
そのとき。
「ニコラス、刀を貸せ!」
エリオットが叫んだ。
「は?」
「俺が転送した魔術で、炎を一時的に10倍に増幅させる。制御できるかは……知らねえけどな!」
「やってみる価値はある!」
ニコラスが刀を投げ渡す。
エリオットが両手で魔法陣を展開し、刀に炎の魔力を注ぎ込む。
刀は赤と青の炎に包まれ、形を変え始めた。炎の大剣へと。
ニコラスがそれを受け取り、最後の突撃をかける。
「燃え尽きろ!」
地面を砕きながら飛び上がり、悪魔の胸部に突き立てる。
爆発した。
悪魔の叫びが空を裂き、門に向かって引きずられるように崩れ落ちていく。
煙の中から、ニコラスがゆっくりと姿を現した。片膝をつき、息を荒げながら。
悪魔は消えた。
だが、門は消えていなかった。
空に開いた裂け目は、なおも黒く、静かに揺れている。
「……何で、閉じねえ」
ニコラスが吐き捨てるように言った。
「1体倒しても……この門は、開いたままなんだ」
エリオットが呟く。
そこへ、軍の解析官が通信魔術で接続されてくる。
「門の封印条件が分かりました。かつてアーサーが用いた魂の鍵……それが必要です」
「魂の鍵……?」
「はい。五百年前の契約、アーサーが地獄の王と交わしたとされる契約書と、その封印鍵。それがなければ、門は閉じません」
「まさか……そんなモノを……」
誰かが呟いた。
レアナが顔を上げる。
「ねえ、さっきの……あれ、本当に下っ端の悪魔だったの?」
通信越しに、静かな答えが返ってくる。
「……はい。あれは、地獄の序列でいえば最下層。狩り犬と呼ばれる種族です」
絶句。
「じゃあ……次は?」
「……門が閉じなければ、上位階級の悪魔が順に現れ始めるでしょう」
3人は門を見上げた。そこから微かに、異界の風が流れてくる。
それは、絶対に閉じなければならない門だった。
夜。
森の奥の小さな小屋。
全身に走る痛みを抱えたまま、ニコラスは眠りに落ちる。
黒い霧に包まれた空間。視界の端から、赤い影が蠢く。
眼前に立っていたのは、かつて見たことのない、背丈の倍もある影だった。
「門を閉じる術など、この世に存在せぬ」
「お前たちが触れたのは、封印された契約の端くれに過ぎない」
「真なる封印を望むならば、地獄そのものに足を踏み入れ、王に膝をつくほかない」
影の言葉は、まるで自分の心の中に直接流れ込んでくるようだった。
声ではない。命令に近い。
「……それしか、道はないのか」
ニコラスの問いかけに、影は静かに頷いたようだった。
その瞬間、霧が裂ける。
焼け焦げた大地、赤黒い空。絶望の匂いが満ちた異世界の光景が、瞼に焼きついた。
「目覚めよ、地獄の訪問者」
次の瞬間、彼は跳ねるように目を覚ました。
冷たい汗が額を流れ落ち、息が荒い。夜明け前の静けさが、かえって恐ろしく思えた。
「……地獄に、行くしかないんだ」
声に出して言ったとき、自分でもその言葉の重みを実感した。
すべてを背負う決意。
自分が、人間でありながら、悪魔の地に足を踏み入れる者になる覚悟。
そのとき、扉の向こうから気配がした。
扉が静かに開くと、レアナが灯りを手に、心配そうな顔で立っていた。
「……大丈夫?すごくうなされてた」
「……ああ。少し、夢を見てたんだ」
ニコラスはベッドに腰かけたまま、ほんの少し微笑んでみせた。
けれど、瞳の奥にある覚悟は、レアナにもしっかりと伝わっていた。
「聞かせて。……その夢のこと」
「……封印の地じゃ、ダメだった。俺たちは……いや、俺は、地獄に行かないといけない」
「……えっ?」
レアナの手にしていた灯りが、かすかに揺れた。
その炎の揺れは、まるでこれから向かう運命の道を暗示しているようだった。
3人は、森の小屋から移動し、数時間かけて例の丘に辿り着く。
周囲には誰の姿もなく、扉は静かに開かれていた。
「誰にも見られてないな……」
エリオットが低くつぶやいた。
「それにしても、ほんとに行くの?帰って来れる保証もないのに」
レアナの声には微かな不安が混じる。
けれど、ニコラスの瞳は迷いなく前を見ていた。
「……俺たちが選んだ道だ。戻れないとしても、今しかない」
3人は無言のまま、扉をくぐった。
地獄……それは、人間の言葉では形容しきれない世界だった。
赤く染まる空。大地は焼け、空気は冷たく乾いていた。
驚くべきことに、彼らを迎え撃つ悪魔たちはいなかった。
「……何だこれ」
「罠、じゃないよな……」
恐る恐る進む彼らに、奇妙な静寂だけが付きまとう。
だが、進むにつれて、彼らは次第に理解することになる。
これは試されている⋯⋯。意志を。
黒き石階段を降りた先、そこには荘厳な玉座があった。
漆黒の王座に、赤き瞳を持つ王が座していた。
顔は闇に包まれ、ただその存在だけが異様な重みを放っている。
「よく来たな、人の子らよ」
声は空気を震わせる。
耳で聞くというより、頭の中に直接響くようだった。
「門を閉じたい……それが願いか」
ニコラスが一歩前に出る。
「……あの門を放っておけば、人の世界は滅びる。止めたい。だから……」
「だから?」
「あなたの力が必要だ」
「ふん、なるほど⋯⋯」
王は小さく笑った。
ただ静かに、彼らを見つめる。
「我らが門を開いたのではない。500年前の契約を破ったのは、あの者だ」
「だが、お前たちの中にまだ生きている者がいる。あの契約の因果を、断ち切る資格がある者がな」
エリオットが目を見開く。
「それって……」
「その男、お前の血に眠るものが鍵だ」
「……俺?」
ニコラスは一歩後ずさる。
「まさか、俺の血がそんな……」
「お前は遠い昔、契約者の末裔。あの王アーサーの守人にして、異界との楔」
「お前の意志ひとつで、門は閉ざされる。そしてその代償もまた、お前にのみ課される」
一瞬、場が凍る。
ニコラスの顔に、静かな覚悟が浮かぶ。
「……わかった。やる。俺がその役割を果たすなら、迷わない」
「ふむ。人間とは……時に、我らよりも恐れを知らぬものだ」
王が立ち上がる。
地響きのような音が鳴り、世界の空がひび割れた。
「では、我が名において、門を閉ざす」
「フィーニスの契印、ここに解く」
その瞬間、3人の視界が白く染まり、風が吹き抜ける。
現世。
森の小屋に戻った時、空はすでに晴れ渡っていた。
遠くに見えていた門は、もう消えていた。
「……帰ってきた、のか?」
エリオットが呆然とした声でつぶやいた。
ニコラスは頷く。
「扉は……閉じた。たぶん、もう開かない」
レアナは、何も言わず空を見上げていた。
あの激しい戦いから数日。ニコラスたちが地獄から戻った翌日。
レアナの小屋にて、3人は疲れ切った身体を休めていたが、突然の知らせが彼らを引き戻した。
「門がまた動いているらしい」
エリオットの声に、3人の間に緊張が走った。
「地獄の王に会って封印したはずだ……なぜ?」
レアナが問いかける。
兵士からの報告では、門はまだ完全には閉じていなかったらしく、そこから下っ端の悪魔が単独で侵入してきていた。
「もう一度地獄に行くのではなく、現世で防がなければならない」
ニコラス、エリオット、レアナの3人は、門の封印が完全ではないことに焦りを感じていた。
「このままでは悪魔たちが次々と現世に侵入してしまう」
レアナが言う。
そこで、彼らはジェイコブ・アーサーが結んだ契約の詳細を調べるため、街の大図書館へ向かった。
広大な書架の中、埃をかぶった古文書の一冊が彼らの目に留まる。
「これだ」
エリオットが手に取ったその本には、ジェイコブ・アーサーが交わした契約について記されていた。
契約の内容は恐ろしかった。
『自我を失う代償に、世界の悪をすべて滅ぼすことを条件とし、最強の力と黒い炎を纏った剣を手にする』
それはまさにアーサーの力の源であり、同時に彼を人間でなくした呪いでもあった。
ニコラスはその言葉に重く息を吐いた。
「この契約を理解しなければ、俺たちは正しく戦えない」
3人は再び結束し、今後の戦いに備える決意を固めた。



