炎に包まれる戦場、崩壊する前線、瓦礫の中で散った王女たちの命。
絶望の淵で、ニコラスはその剣に青き焔を宿す。
それは選ばれし者の証か、あるいは滅びを呼ぶ業火か。
運命に抗う意志が、彼を断罪の剣へと変えていく。
戦場の空は、もはや青ではなかった。
黒雲が空を覆い、地平線の果てまでも赤く染まっている。血と煙と怒声が交差する中、ニコラスは1人、荒野の中心に立っていた。
倒れたヴェルダ兵、砕けたセランの機械兵、聖なる祈りを絶たれたカドリアの聖騎士たち。そのすべてが彼の視界に映っていた。
「……何も守れていない」
地に膝をつき、剣を支えに立ち上がる。レアナとエリオットは後方の避難民を守るために、一時的に戦線を離れていた。
その隙を突くようにして、サルディア帝国の強襲部隊が迫っていた。ラシアス率いる黒騎兵たちが、赤い旗を掲げて突撃してくる。
「貴様1人か、ニコラス」
ラシアスの声が風に乗って届く。その手には、あの忌まわしき黒鉄の刃。神の力を汚し、殺すためだけに作られた魔剣が握られていた。
「ここで終わらせてやる。貴様ごと、レアナの希望もな」
その言葉に、ニコラスの心の底で何かが弾けた。
記憶。
幼き日のアーサー。
師であり、兄であり、憧れだった男の面影。
誓い。
レアナの願い。エーテリウムの力を、もう誰の手にも渡さないと誓った日。
痛み。
失った者たち。
奪われたもの。
守れなかった命。
そのすべてが、今この瞬間、ひとつの熱として彼の中で燃え上がる。
「……そうか。なら、お前に見せてやるよ。俺の力を」
ニコラスは、両手で刀を握り締めた。
そして、呼吸を整える。
吸って、吐く。
次の瞬間、彼の刀から青い炎が立ち昇った。
ゴウッ……!
青い焔は風に逆らい、空を焦がす。まるで、魂の怒りそのものだった。
ラシアスの表情が、わずかに揺れる。
「な……炎……!?エーテリウムの加護か!?」
「違う。これは……俺自身の覚醒だ」
ニコラスの声が低く、響く。その瞳は青く燃え、視線だけで敵を貫く鋭さを持っていた。
彼は一歩、前に出た。
そして。瞬間、視界が青白く爆ぜる。
ニコラスの身体が疾風のように動き、黒騎兵たちの中央に出る。剣が振るわれるたびに、青い炎が軌跡を描き、次々と敵兵を倒していく。
「くっ、止めろ!囲め!やつを倒せ!」
ラシアスが叫ぶ。しかし、その叫びも虚しく、ニコラスは圧倒的な速さと力で軍勢を切り裂いていく。
まるで、人間ではなかった。
いや。それは、まさしく人が限界を越えた姿だった。
剣が唸り、炎が吠え、敵の刃を弾き返す。そのたびに、青い火の粉が舞い、戦場が幻想のように染め上げられていく。
やがて、ラシアスの元へとたどり着いた。
「逃げられねえぞ、ラシアス」
「ふ……ふざけるな……エーテリウムの力ごときで、この俺を!」
「言っただろ。これは、俺の力だ」
ニコラスがそう告げた瞬間、炎が爆発した。
一振り。
それだけで、ラシアスの魔剣が砕け散り、鎧が焼け焦げ、彼は膝をついた。
青い炎に包まれる中で、ニコラスの姿は静かだった。
「戦争を、終わらせる」
決意だった。
ラシアスは、静かにその場に倒れ込んだ。
戦場に沈黙が訪れる。
遠くで、レアナとエリオットがその光景を見守っていた。レアナの瞳から、静かに涙がこぼれた。
「ニコラス……」
風が、彼の青い炎を撫でるように吹き抜けた。
その瞬間、戦場にいた者たちは気づいたのだ。
たった1人の男、ニコラスの覚醒が、この戦争の流れを、大きく変え始めていることを。
青い炎が消えた。
ニコラスの刀先が地を引きずる音が、静まり返った戦場に重く響く。
「……っは……はぁ……!」
彼の息は荒く、膝が震えていた。今にも崩れ落ちそうなその姿から、先ほどまで敵軍を圧倒していた英雄の影は消えつつあったのだ。
覚醒の力。それは、ただの力ではない。
彼自身の命を燃やすようなものであり、限界を超えればその代償もまた、重くのしかかる。
「クソ……ここで……終わる、かよ……」
足が、動かない。剣を支えにしても、力が入らない。視界が揺れる。息を吸っても、空気が足りない。
そこへ、一陣の風のように現れた影があった。
「ニコラス!」
レアナの叫びよりも早く、彼の背を支えたのはエリオットだった。
「お前は……なんで戻ってきた……!」
「放っとけるわけないだろ」
エリオットは、鋭い瞳で周囲を見回しながらニコラスを抱え込んだ。彼の剣。魔導細工の双刃が背中に光を放つ。
「今のあんたは確かに強かった。炎の化け物みたいだった。でも、あんな戦い方してたら……命がいくつあっても足りないぞ」
「……分かってる……でも、俺がやらなきゃ……」
「じゃあ次は、俺がやる」
エリオットはそれだけを言うと、立ち上がった。その眼に、迷いはなかった。
青の炎とは違う。だが彼の中にも、確かに燃える意思があった。
「レアナ、ニコラスを頼む。ここから先は、俺が斬る」
「……エリオット……」
レアナは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。
エリオットは、ニコラスから引き継ぐように前へと進み出す。動けなくなった親友のために、そして、希望を守るために。
「帝国のやつら……全部、黙らせてやるよ」
その刹那、彼の双剣が光を帯びる。風を切る音が変わった。
エリオットの風が戦場を切り裂く。
その一撃が敵の鎧を断ち、突進を止める。彼の風はただ速いだけではない。
読み切れない軌道と変則的な斬撃が重なり、サルディア兵たちは次第に恐怖の色を浮かべていった。
「だ……誰か、止めろ!あいつは人間じゃねぇ!」
「隊列を崩すな!まとまれ!」
だが、風に囲まれた者に包囲の意味はなかった。
エリオットは軽やかに跳び、宙で1回転すると、その勢いで短剣を横薙ぎに振る。
鋭い風圧が前方を一掃し、5人が同時に吹き飛ばされる。
地面には、倒れ伏す兵と巻き上がる砂塵だけが残った。
「はぁ……はぁ……ったく、まだいんのかよ……」
エリオットは額から流れる汗を拭いながらも、構えを解かなかった。
力の消耗はある。だが、それ以上に彼の中にある怒りが、炎のように燃えていた。
「……どいつもこいつも、勝手に死のうとしやがって……」
……誰ひとり欠けてほしくない。だからこそ、彼が立つしかなかった。
しかし、その時。
地響き。
振動を伴って現れたのは、帝国側の巨大な騎馬隊。
だが、先頭に立つのはただの軍人ではなかった。
「……来やがったか。指揮官クラスか……?」
群れの中心。重厚な黒鎧を身にまとい、仮面で素顔を隠した男が、静かに馬から降りた。
「風の使い手……エリオット」
鈍く、地を這うような声だった。
エリオットの背筋に寒気が走る。
「あんた……誰だよ」
「我が名は、ズィグ=マルバルド。サルディア帝国第一軍・魔将部隊筆頭指揮官。貴様を討つために出張ってきた」
その言葉に、周囲の空気が変わる。
ズィグが手をかざすと、大地が裂け、地面から黒い魔力が渦を巻いて噴き出した。
その魔力が、死んだはずの帝国兵の身体に取り憑き、ゆっくりと立ち上がらせる。
「っ……くそ……まさか、ネクロかよ」
黒い霧に包まれた兵士たち。それは死人が操られているのではなかった。意志を持つ新たな存在として蘇っている。エリオットは一歩、後ろへ引いた。
レアナが叫ぶ。
「エリオット、戻って!」
「無理だ。あれを放っておいたら、ここから逃げることすらできない」
エリオットは短剣を逆手に構え、もう一度前へ出る。
ズィグは仮面の奥で笑った。
「風よ、吹き荒べ。だがその刃が我に届くことはない」
ズィグの周囲に展開されたのは、魔力の結界。風すら歪め、進行を拒む絶対障壁だった。
エリオットは斬りかかった。だが。
カンッ!
短剣の一撃は、結界に弾かれ、空へ舞った。
「なっ……!」
そこへ、ズィグが巨大な斧を振り下ろす。
エリオットは即座に後退したが、地面が抉れ、衝撃が走る。
その一撃ひとつが、が重すぎた。
風の使い手であるエリオットの反応速度ですら、完全には避けきれなかった。
左肩に血が滲む。
「……っ、チッ……こりゃ……格が違うな……」
それでも、彼は下がらなかった。
ズィグは静かに語る。
「覚醒の炎に続き、風の刃までも。確かに貴様らは強い。
しかし、それが何になる。力は均衡ではなく、圧倒にのみ価値を持つ」
「へぇ……そのセリフ、死ぬ時にも言えるか?」
エリオットは血を拭い、再び風を纏う。
それでも、ズィグの前にはあまりに厳しい。
だが、そこで。
背後から、もうひとつの青い光が差し込んだ。
「……立つな、ニコラス!お前、もう限界……!」
「黙れ、エリオット……これだけ見せられて……黙ってられるかよ……!」
ニコラスの刀に、再び焔が灯る。
再び立ち上がったニコラスに、敵も味方も息を呑んだ。
その刀に灯る青き炎は、先ほどよりもさらに強く、しかし不安定だった。
彼の呼吸は浅く、脚も震えている。限界はとうに超えている。それでも、彼は立っていた。
「……まだ、だ。終わらせない……」
炎を纏う刀をゆっくりと構える。
その横に、風をまとったエリオットが並ぶ。
ズィグ=マルバルドは仮面越しに、二人を見据える。
「1人では届かぬ刃を、2人で放つか。それが最後の手札か、エリオット・カイン。そして、名もなき剣士よ」
「名もなき剣士」
そう言われたニコラスが笑った。
「名乗る気もなかったけどよ……いざってときには名乗っとくべきか」
青い炎が、一瞬だけ強く燃える。
「俺の名はニコラス。あとは……見て覚えろ」
「言ってくれる……っつーか、死ぬ気じゃねぇだろうな、ニコラス」
「死ぬつもりなんかねぇよ。絶対、ここで終わらせる」
2人は同時に走った。
風と炎。相反するようで、どこか調和している。その動きは、戦場のどんな敵兵よりも速かった。
ズィグは結界を再展開する。だが、その結界の外を回り込むように、エリオットが疾走し、風刃を連続で放った。
結界の表面が波打つ。
その隙にニコラスが刀を振る。
青い炎が刃を包み、剣圧で切り裂く。ズィグは斧を横に振って応戦。
衝突した瞬間、炎と魔力が炸裂し、爆音とともに周囲の地面が崩壊する。
視界が煙に覆われたその一瞬、エリオットが結界の中へと飛び込んだ。
「風牙。断!」
空中からの回転斬撃。ズィグの結界をわずかに割った。
続けて、ニコラスが真正面から斬り込む。
刀が結界の裂け目を抜け、ズィグの鎧に深々と突き刺さった。
「ぐっ……!」
初めて、ズィグが声を漏らす。
それでもズィグは後退せず、反撃の一撃を振るった。
その重斧が、ニコラスの脇腹を捉える。直撃は避けたものの、衝撃でニコラスが吹き飛ぶ。
「がっ……!」
「ニコラスッ!」
エリオットが彼を庇おうとするが、今度はズィグがエリオットに魔力の槍を投げ放つ。風で逸らそうとしたが、槍の一撃は防ぎきれず、彼の左腿に突き刺さった。
血が噴き出す。
2人とも限界だった。
エリオットは這うようにしてニコラスに近づく。
「……立てるか、ニコラス」
「……動けねぇな。悪い……使いすぎた」
ニコラスの目から、焦点が少しずつ消えかけていた。
刀に宿る炎も、もうわずかしか残っていない。
ズィグが歩いてくる。
「このまま、終わりだ。風も炎も、ただの人間にすぎん」
だがその時。
「終わってたまるかよ」
声を震わせながら、エリオットが立ち上がった。
「誰かを救うって、そういうことだろ……誰かが限界の先に立って、それでも前に進むから、誰かの命が繋がるんだろ……!」
風がざわつく。
彼の周囲の空気が、異様に静まった。
そして爆発的な風が、彼の背を押した。
「俺は……カイン家の落ちこぼれだ!でもな、それでも、レアナやニコラスや、みんなを守れる男でありたいんだよ!」
エリオットの足が、風に乗る。
一瞬でズィグとの距離を詰め。
全身の風を一点に集中し、突き出す。ズィグが再び結界を展開するが、その刃は、結界の内側にまですり抜けるようにして貫いた。
「なっ……が、アアアアアアアア!」
ズィグの仮面が割れた。
だが、それでも倒れない。彼は最後の力を振り絞り、斧を振り上げ。
「やらせねぇ……!」
立ち上がったのは、ニコラスだった。
ボロボロの身体で、ただ一撃。
命を振り絞るように振るった剣がズィグの胸を、真っ直ぐに貫いた。
ズィグの動きが、止まる。
「……くだらん……人間が……」
ズィグの身体から、黒い魔力が抜けていく。鎧が崩れ落ち、巨躯が地に沈んだ。
2人は、同時に膝をついた。
レアナは、小高い岩の影に身を伏せながら、戦場を見つめていた。
前線では、ニコラスが青き炎を纏った剣で、次々と敵を斬っていた。
その姿は、神話に出てくる古の英雄のようで……だが、彼の動きが徐々に鈍くなっていくのも、レアナの目にははっきり見えていた。
(ニコラス……あれは、あの力を限界まで使ってる)
誰よりも知っていた。
あの剣と、あの炎が、彼の身体を蝕んでいくことを。
そして、レアナの視線が、もう1人の男へと向く。
エリオットだ。
彼はすでに血まみれで、肩を大きく切られていた。それでも、何度も剣を振り上げ、ニコラスの背を守っている。
その姿に、レアナは目を伏せる。
(どうして、また……私はここで見てるだけなんだろ)
かつての記憶が、胸を締め付けるように浮かんできた。
昔――村が燃えた。
獣に襲われたのではなかった。人だった。
兵士の格好をした男たちが、家に火を放ち、村人を斬り捨てていった。
炎の中で、レアナはただ泣いていた。
父も、母も、兄も、助けてくれなかった。
彼らもまた、誰かを守れるほどの力を持っていなかったのだ。
焼け跡で立ち尽くしていた少女に、手を差し伸べたのが。
「……エリオット」
その名を、思わず口にしていた。
まだ彼も少年で、何者かも知らなかった。ただ、手を取って、逃げ道を探してくれた。
そして言った。
「ここから逃げたら、剣を持て。今度は、お前が誰かを守れ」
レアナはその言葉を、ずっと胸の奥にしまっていた。
守れるようになったと思っていた。
けれど、今また、戦場の奥で、ただ震えている。
「……違う」
レアナはゆっくりと立ち上がった。
剣を手に取る。刃が、微かに震える。
戦えるのか、自分に。
恐怖は、確かにある。
でも。
「今ここで、見ているだけなら……私、あの時と、何も変わってない」
炎が爆ぜる音が近づいてきた。
ニコラスの動きが、ついに止まりかけていた。敵の刃が、彼へと振り下ろされる。
「っ、待って!」
叫びと同時に、レアナの身体が走っていた。
剣を握る手が、痛いほどに固くなる。
仲間たちが倒れていくのを、また見るわけにはいかなかった。
あのときとは違う。今の自分には、剣がある。
「私は……誰かの剣になるんじゃない」
息を吐いて、刃を構える。
「私の意志で、戦う!」
足元の地面を蹴る。
剣を持つ腕に、迷いはなかった。
彼女が斬り込んだその一撃は、敵兵の剣を弾き飛ばし、ニコラスの前に割って入る。
「……遅いよ、レアナ」
ニコラスが小さく笑う。
「今来たとこ」
レアナはそう答えて、振り返らなかった。
レアナの剣が一閃し、敵兵が倒れる。
その背後から追ってきた兵士を、ニコラスの青炎が包んだ。
「……まったく、無茶をする」
ニコラスが苦笑混じりに言う。
「だから来たんでしょ」
レアナは呼吸を整えながら応えた。
二人の背を、守るように立つ影。
「待たせたな」
血まみれの姿で、それでも毅然と立つエリオット。
その両手には、新たに握られた双剣。
かつての主剣と、仲間の遺した刃だ。
彼の瞳が、以前とは違う色を灯していた。
「……無理はするな、エリオット」
「無理しないと、止まらねえだろ。これは戦争だ」
彼は歯を食いしばり、地を蹴る。
3人の波状攻撃が始まった。
ニコラスの剣が、敵陣の先頭を砕く。
レアナの刃が、隙を突くように突き進む。
そしてエリオットの双剣が、残された空白を補うように踊った。
悲鳴すべてが交差する中、敵の指揮官、黒鎧の将が進み出る。
「止められると思うな。我らが掲げる神意の前では」
「黙れよ⋯⋯!」
エリオットが声を荒げた。
「その神の名の下に、どれだけの家族が殺されたか知ってんのか」
怒りが刃を震わせる。
だが、それはかつてのような、無軌道な憤りではなかった。
「俺たちはもう、奪われる側には戻らねえ」
エリオットの一撃が、黒鎧を裂いた。
続けてニコラスの剣が、青き炎をまとい、敵将の兜を焼く。
そして。
レアナの剣が、最後の一撃として、静かに突き刺さる。
「あなたの神は、誰も救ってない。……だから、終わらせる」
黒鎧の将が崩れ落ちる。
その瞬間、敵の士気が音を立てて崩れていくのが分かった。
静寂が、戦場を包み込む。
兵士たちが次々と武器を落とし、膝をつく。
仲間を失い、命令を失い。やっと、この無意味な殺し合いが終わる。
ニコラスは地面に膝をついた。
その肩を、エリオットが支え、レアナが手を重ねる。
「終わった、のか……?」
「まだ……ほんの始まり」
レアナが静かに言う。
「私たちは止めただけ。これから、変えていかなくちゃいけない」
エリオットは空を見上げる。
陽が、戦火の煙を割って差し込んでいた。
その光は、ただ眩しく。そして、どこまでも痛かった。
立ち尽くすレアナの手には、まだ微かに温もりが残っていた。剣の柄を握る手が震える。けれど、それは恐れではなかった。
彼女はずっと、傷を癒す者だった。
人を殺すために剣を取ったことなどなかった。
今も、その事実は変わらない。
それでも……。
「……私、戦ってしまったんだね」
ポツリと、独り言のように呟く。
レアナは、深く息をついた。
「誰かを守るために……」
思い出すのは、あの夜のことだった。
炎の中で崩れ落ちた診療所。
そして、その時、自分を引っ張り上げた、あの少年。
「エリオット」
レアナが振り返る。
血と汗にまみれた彼が、肩を上下させながら、こちらを見ていた。
「ねえ……あの時、私を助けてくれたのは……あなた、だったの?」
問いかける声は震えていた。
長い時を経て、ようやく辿り着いた問いだった。
エリオットは、少しの沈黙のあと、ふっと目を伏せ、そして言った。
「覚えてるよ。……炎の中、あんたが必死に子供を抱えてて、それでもまだ他の人も助けなきゃって叫んでた」
レアナは驚いたように目を見開く。
「だから救われたのはたぶん、俺のほうだ」
彼は苦笑する。
「戦いしか知らなかった俺に、誰かを守りたいって気持ちを思い出させてくれたのは、あのときのレアナだった」
涙が、知らずにレアナの頬を伝う。
「ありがとう、エリオット……」
「礼を言うのは、俺のほうさ。生きててくれて、……そばにいてくれて」
風が吹いた。
血の匂いも、焼け焦げた煙も、もう遠ざかっていく。
その中で、2人の言葉だけが、確かにそこにあった。
そしてレアナは、ふと口角を上げて、静かに言った。
「私……これからも、人を救いたい」
「なら、その剣も悪くねえ。おまえが握るなら、きっと誰かを守れる」
ふたりは微笑み合う。その背後で、雲の切れ間から陽が差し込む。
長い夜が、やっと明けようとしていた。
絶望の淵で、ニコラスはその剣に青き焔を宿す。
それは選ばれし者の証か、あるいは滅びを呼ぶ業火か。
運命に抗う意志が、彼を断罪の剣へと変えていく。
戦場の空は、もはや青ではなかった。
黒雲が空を覆い、地平線の果てまでも赤く染まっている。血と煙と怒声が交差する中、ニコラスは1人、荒野の中心に立っていた。
倒れたヴェルダ兵、砕けたセランの機械兵、聖なる祈りを絶たれたカドリアの聖騎士たち。そのすべてが彼の視界に映っていた。
「……何も守れていない」
地に膝をつき、剣を支えに立ち上がる。レアナとエリオットは後方の避難民を守るために、一時的に戦線を離れていた。
その隙を突くようにして、サルディア帝国の強襲部隊が迫っていた。ラシアス率いる黒騎兵たちが、赤い旗を掲げて突撃してくる。
「貴様1人か、ニコラス」
ラシアスの声が風に乗って届く。その手には、あの忌まわしき黒鉄の刃。神の力を汚し、殺すためだけに作られた魔剣が握られていた。
「ここで終わらせてやる。貴様ごと、レアナの希望もな」
その言葉に、ニコラスの心の底で何かが弾けた。
記憶。
幼き日のアーサー。
師であり、兄であり、憧れだった男の面影。
誓い。
レアナの願い。エーテリウムの力を、もう誰の手にも渡さないと誓った日。
痛み。
失った者たち。
奪われたもの。
守れなかった命。
そのすべてが、今この瞬間、ひとつの熱として彼の中で燃え上がる。
「……そうか。なら、お前に見せてやるよ。俺の力を」
ニコラスは、両手で刀を握り締めた。
そして、呼吸を整える。
吸って、吐く。
次の瞬間、彼の刀から青い炎が立ち昇った。
ゴウッ……!
青い焔は風に逆らい、空を焦がす。まるで、魂の怒りそのものだった。
ラシアスの表情が、わずかに揺れる。
「な……炎……!?エーテリウムの加護か!?」
「違う。これは……俺自身の覚醒だ」
ニコラスの声が低く、響く。その瞳は青く燃え、視線だけで敵を貫く鋭さを持っていた。
彼は一歩、前に出た。
そして。瞬間、視界が青白く爆ぜる。
ニコラスの身体が疾風のように動き、黒騎兵たちの中央に出る。剣が振るわれるたびに、青い炎が軌跡を描き、次々と敵兵を倒していく。
「くっ、止めろ!囲め!やつを倒せ!」
ラシアスが叫ぶ。しかし、その叫びも虚しく、ニコラスは圧倒的な速さと力で軍勢を切り裂いていく。
まるで、人間ではなかった。
いや。それは、まさしく人が限界を越えた姿だった。
剣が唸り、炎が吠え、敵の刃を弾き返す。そのたびに、青い火の粉が舞い、戦場が幻想のように染め上げられていく。
やがて、ラシアスの元へとたどり着いた。
「逃げられねえぞ、ラシアス」
「ふ……ふざけるな……エーテリウムの力ごときで、この俺を!」
「言っただろ。これは、俺の力だ」
ニコラスがそう告げた瞬間、炎が爆発した。
一振り。
それだけで、ラシアスの魔剣が砕け散り、鎧が焼け焦げ、彼は膝をついた。
青い炎に包まれる中で、ニコラスの姿は静かだった。
「戦争を、終わらせる」
決意だった。
ラシアスは、静かにその場に倒れ込んだ。
戦場に沈黙が訪れる。
遠くで、レアナとエリオットがその光景を見守っていた。レアナの瞳から、静かに涙がこぼれた。
「ニコラス……」
風が、彼の青い炎を撫でるように吹き抜けた。
その瞬間、戦場にいた者たちは気づいたのだ。
たった1人の男、ニコラスの覚醒が、この戦争の流れを、大きく変え始めていることを。
青い炎が消えた。
ニコラスの刀先が地を引きずる音が、静まり返った戦場に重く響く。
「……っは……はぁ……!」
彼の息は荒く、膝が震えていた。今にも崩れ落ちそうなその姿から、先ほどまで敵軍を圧倒していた英雄の影は消えつつあったのだ。
覚醒の力。それは、ただの力ではない。
彼自身の命を燃やすようなものであり、限界を超えればその代償もまた、重くのしかかる。
「クソ……ここで……終わる、かよ……」
足が、動かない。剣を支えにしても、力が入らない。視界が揺れる。息を吸っても、空気が足りない。
そこへ、一陣の風のように現れた影があった。
「ニコラス!」
レアナの叫びよりも早く、彼の背を支えたのはエリオットだった。
「お前は……なんで戻ってきた……!」
「放っとけるわけないだろ」
エリオットは、鋭い瞳で周囲を見回しながらニコラスを抱え込んだ。彼の剣。魔導細工の双刃が背中に光を放つ。
「今のあんたは確かに強かった。炎の化け物みたいだった。でも、あんな戦い方してたら……命がいくつあっても足りないぞ」
「……分かってる……でも、俺がやらなきゃ……」
「じゃあ次は、俺がやる」
エリオットはそれだけを言うと、立ち上がった。その眼に、迷いはなかった。
青の炎とは違う。だが彼の中にも、確かに燃える意思があった。
「レアナ、ニコラスを頼む。ここから先は、俺が斬る」
「……エリオット……」
レアナは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。
エリオットは、ニコラスから引き継ぐように前へと進み出す。動けなくなった親友のために、そして、希望を守るために。
「帝国のやつら……全部、黙らせてやるよ」
その刹那、彼の双剣が光を帯びる。風を切る音が変わった。
エリオットの風が戦場を切り裂く。
その一撃が敵の鎧を断ち、突進を止める。彼の風はただ速いだけではない。
読み切れない軌道と変則的な斬撃が重なり、サルディア兵たちは次第に恐怖の色を浮かべていった。
「だ……誰か、止めろ!あいつは人間じゃねぇ!」
「隊列を崩すな!まとまれ!」
だが、風に囲まれた者に包囲の意味はなかった。
エリオットは軽やかに跳び、宙で1回転すると、その勢いで短剣を横薙ぎに振る。
鋭い風圧が前方を一掃し、5人が同時に吹き飛ばされる。
地面には、倒れ伏す兵と巻き上がる砂塵だけが残った。
「はぁ……はぁ……ったく、まだいんのかよ……」
エリオットは額から流れる汗を拭いながらも、構えを解かなかった。
力の消耗はある。だが、それ以上に彼の中にある怒りが、炎のように燃えていた。
「……どいつもこいつも、勝手に死のうとしやがって……」
……誰ひとり欠けてほしくない。だからこそ、彼が立つしかなかった。
しかし、その時。
地響き。
振動を伴って現れたのは、帝国側の巨大な騎馬隊。
だが、先頭に立つのはただの軍人ではなかった。
「……来やがったか。指揮官クラスか……?」
群れの中心。重厚な黒鎧を身にまとい、仮面で素顔を隠した男が、静かに馬から降りた。
「風の使い手……エリオット」
鈍く、地を這うような声だった。
エリオットの背筋に寒気が走る。
「あんた……誰だよ」
「我が名は、ズィグ=マルバルド。サルディア帝国第一軍・魔将部隊筆頭指揮官。貴様を討つために出張ってきた」
その言葉に、周囲の空気が変わる。
ズィグが手をかざすと、大地が裂け、地面から黒い魔力が渦を巻いて噴き出した。
その魔力が、死んだはずの帝国兵の身体に取り憑き、ゆっくりと立ち上がらせる。
「っ……くそ……まさか、ネクロかよ」
黒い霧に包まれた兵士たち。それは死人が操られているのではなかった。意志を持つ新たな存在として蘇っている。エリオットは一歩、後ろへ引いた。
レアナが叫ぶ。
「エリオット、戻って!」
「無理だ。あれを放っておいたら、ここから逃げることすらできない」
エリオットは短剣を逆手に構え、もう一度前へ出る。
ズィグは仮面の奥で笑った。
「風よ、吹き荒べ。だがその刃が我に届くことはない」
ズィグの周囲に展開されたのは、魔力の結界。風すら歪め、進行を拒む絶対障壁だった。
エリオットは斬りかかった。だが。
カンッ!
短剣の一撃は、結界に弾かれ、空へ舞った。
「なっ……!」
そこへ、ズィグが巨大な斧を振り下ろす。
エリオットは即座に後退したが、地面が抉れ、衝撃が走る。
その一撃ひとつが、が重すぎた。
風の使い手であるエリオットの反応速度ですら、完全には避けきれなかった。
左肩に血が滲む。
「……っ、チッ……こりゃ……格が違うな……」
それでも、彼は下がらなかった。
ズィグは静かに語る。
「覚醒の炎に続き、風の刃までも。確かに貴様らは強い。
しかし、それが何になる。力は均衡ではなく、圧倒にのみ価値を持つ」
「へぇ……そのセリフ、死ぬ時にも言えるか?」
エリオットは血を拭い、再び風を纏う。
それでも、ズィグの前にはあまりに厳しい。
だが、そこで。
背後から、もうひとつの青い光が差し込んだ。
「……立つな、ニコラス!お前、もう限界……!」
「黙れ、エリオット……これだけ見せられて……黙ってられるかよ……!」
ニコラスの刀に、再び焔が灯る。
再び立ち上がったニコラスに、敵も味方も息を呑んだ。
その刀に灯る青き炎は、先ほどよりもさらに強く、しかし不安定だった。
彼の呼吸は浅く、脚も震えている。限界はとうに超えている。それでも、彼は立っていた。
「……まだ、だ。終わらせない……」
炎を纏う刀をゆっくりと構える。
その横に、風をまとったエリオットが並ぶ。
ズィグ=マルバルドは仮面越しに、二人を見据える。
「1人では届かぬ刃を、2人で放つか。それが最後の手札か、エリオット・カイン。そして、名もなき剣士よ」
「名もなき剣士」
そう言われたニコラスが笑った。
「名乗る気もなかったけどよ……いざってときには名乗っとくべきか」
青い炎が、一瞬だけ強く燃える。
「俺の名はニコラス。あとは……見て覚えろ」
「言ってくれる……っつーか、死ぬ気じゃねぇだろうな、ニコラス」
「死ぬつもりなんかねぇよ。絶対、ここで終わらせる」
2人は同時に走った。
風と炎。相反するようで、どこか調和している。その動きは、戦場のどんな敵兵よりも速かった。
ズィグは結界を再展開する。だが、その結界の外を回り込むように、エリオットが疾走し、風刃を連続で放った。
結界の表面が波打つ。
その隙にニコラスが刀を振る。
青い炎が刃を包み、剣圧で切り裂く。ズィグは斧を横に振って応戦。
衝突した瞬間、炎と魔力が炸裂し、爆音とともに周囲の地面が崩壊する。
視界が煙に覆われたその一瞬、エリオットが結界の中へと飛び込んだ。
「風牙。断!」
空中からの回転斬撃。ズィグの結界をわずかに割った。
続けて、ニコラスが真正面から斬り込む。
刀が結界の裂け目を抜け、ズィグの鎧に深々と突き刺さった。
「ぐっ……!」
初めて、ズィグが声を漏らす。
それでもズィグは後退せず、反撃の一撃を振るった。
その重斧が、ニコラスの脇腹を捉える。直撃は避けたものの、衝撃でニコラスが吹き飛ぶ。
「がっ……!」
「ニコラスッ!」
エリオットが彼を庇おうとするが、今度はズィグがエリオットに魔力の槍を投げ放つ。風で逸らそうとしたが、槍の一撃は防ぎきれず、彼の左腿に突き刺さった。
血が噴き出す。
2人とも限界だった。
エリオットは這うようにしてニコラスに近づく。
「……立てるか、ニコラス」
「……動けねぇな。悪い……使いすぎた」
ニコラスの目から、焦点が少しずつ消えかけていた。
刀に宿る炎も、もうわずかしか残っていない。
ズィグが歩いてくる。
「このまま、終わりだ。風も炎も、ただの人間にすぎん」
だがその時。
「終わってたまるかよ」
声を震わせながら、エリオットが立ち上がった。
「誰かを救うって、そういうことだろ……誰かが限界の先に立って、それでも前に進むから、誰かの命が繋がるんだろ……!」
風がざわつく。
彼の周囲の空気が、異様に静まった。
そして爆発的な風が、彼の背を押した。
「俺は……カイン家の落ちこぼれだ!でもな、それでも、レアナやニコラスや、みんなを守れる男でありたいんだよ!」
エリオットの足が、風に乗る。
一瞬でズィグとの距離を詰め。
全身の風を一点に集中し、突き出す。ズィグが再び結界を展開するが、その刃は、結界の内側にまですり抜けるようにして貫いた。
「なっ……が、アアアアアアアア!」
ズィグの仮面が割れた。
だが、それでも倒れない。彼は最後の力を振り絞り、斧を振り上げ。
「やらせねぇ……!」
立ち上がったのは、ニコラスだった。
ボロボロの身体で、ただ一撃。
命を振り絞るように振るった剣がズィグの胸を、真っ直ぐに貫いた。
ズィグの動きが、止まる。
「……くだらん……人間が……」
ズィグの身体から、黒い魔力が抜けていく。鎧が崩れ落ち、巨躯が地に沈んだ。
2人は、同時に膝をついた。
レアナは、小高い岩の影に身を伏せながら、戦場を見つめていた。
前線では、ニコラスが青き炎を纏った剣で、次々と敵を斬っていた。
その姿は、神話に出てくる古の英雄のようで……だが、彼の動きが徐々に鈍くなっていくのも、レアナの目にははっきり見えていた。
(ニコラス……あれは、あの力を限界まで使ってる)
誰よりも知っていた。
あの剣と、あの炎が、彼の身体を蝕んでいくことを。
そして、レアナの視線が、もう1人の男へと向く。
エリオットだ。
彼はすでに血まみれで、肩を大きく切られていた。それでも、何度も剣を振り上げ、ニコラスの背を守っている。
その姿に、レアナは目を伏せる。
(どうして、また……私はここで見てるだけなんだろ)
かつての記憶が、胸を締め付けるように浮かんできた。
昔――村が燃えた。
獣に襲われたのではなかった。人だった。
兵士の格好をした男たちが、家に火を放ち、村人を斬り捨てていった。
炎の中で、レアナはただ泣いていた。
父も、母も、兄も、助けてくれなかった。
彼らもまた、誰かを守れるほどの力を持っていなかったのだ。
焼け跡で立ち尽くしていた少女に、手を差し伸べたのが。
「……エリオット」
その名を、思わず口にしていた。
まだ彼も少年で、何者かも知らなかった。ただ、手を取って、逃げ道を探してくれた。
そして言った。
「ここから逃げたら、剣を持て。今度は、お前が誰かを守れ」
レアナはその言葉を、ずっと胸の奥にしまっていた。
守れるようになったと思っていた。
けれど、今また、戦場の奥で、ただ震えている。
「……違う」
レアナはゆっくりと立ち上がった。
剣を手に取る。刃が、微かに震える。
戦えるのか、自分に。
恐怖は、確かにある。
でも。
「今ここで、見ているだけなら……私、あの時と、何も変わってない」
炎が爆ぜる音が近づいてきた。
ニコラスの動きが、ついに止まりかけていた。敵の刃が、彼へと振り下ろされる。
「っ、待って!」
叫びと同時に、レアナの身体が走っていた。
剣を握る手が、痛いほどに固くなる。
仲間たちが倒れていくのを、また見るわけにはいかなかった。
あのときとは違う。今の自分には、剣がある。
「私は……誰かの剣になるんじゃない」
息を吐いて、刃を構える。
「私の意志で、戦う!」
足元の地面を蹴る。
剣を持つ腕に、迷いはなかった。
彼女が斬り込んだその一撃は、敵兵の剣を弾き飛ばし、ニコラスの前に割って入る。
「……遅いよ、レアナ」
ニコラスが小さく笑う。
「今来たとこ」
レアナはそう答えて、振り返らなかった。
レアナの剣が一閃し、敵兵が倒れる。
その背後から追ってきた兵士を、ニコラスの青炎が包んだ。
「……まったく、無茶をする」
ニコラスが苦笑混じりに言う。
「だから来たんでしょ」
レアナは呼吸を整えながら応えた。
二人の背を、守るように立つ影。
「待たせたな」
血まみれの姿で、それでも毅然と立つエリオット。
その両手には、新たに握られた双剣。
かつての主剣と、仲間の遺した刃だ。
彼の瞳が、以前とは違う色を灯していた。
「……無理はするな、エリオット」
「無理しないと、止まらねえだろ。これは戦争だ」
彼は歯を食いしばり、地を蹴る。
3人の波状攻撃が始まった。
ニコラスの剣が、敵陣の先頭を砕く。
レアナの刃が、隙を突くように突き進む。
そしてエリオットの双剣が、残された空白を補うように踊った。
悲鳴すべてが交差する中、敵の指揮官、黒鎧の将が進み出る。
「止められると思うな。我らが掲げる神意の前では」
「黙れよ⋯⋯!」
エリオットが声を荒げた。
「その神の名の下に、どれだけの家族が殺されたか知ってんのか」
怒りが刃を震わせる。
だが、それはかつてのような、無軌道な憤りではなかった。
「俺たちはもう、奪われる側には戻らねえ」
エリオットの一撃が、黒鎧を裂いた。
続けてニコラスの剣が、青き炎をまとい、敵将の兜を焼く。
そして。
レアナの剣が、最後の一撃として、静かに突き刺さる。
「あなたの神は、誰も救ってない。……だから、終わらせる」
黒鎧の将が崩れ落ちる。
その瞬間、敵の士気が音を立てて崩れていくのが分かった。
静寂が、戦場を包み込む。
兵士たちが次々と武器を落とし、膝をつく。
仲間を失い、命令を失い。やっと、この無意味な殺し合いが終わる。
ニコラスは地面に膝をついた。
その肩を、エリオットが支え、レアナが手を重ねる。
「終わった、のか……?」
「まだ……ほんの始まり」
レアナが静かに言う。
「私たちは止めただけ。これから、変えていかなくちゃいけない」
エリオットは空を見上げる。
陽が、戦火の煙を割って差し込んでいた。
その光は、ただ眩しく。そして、どこまでも痛かった。
立ち尽くすレアナの手には、まだ微かに温もりが残っていた。剣の柄を握る手が震える。けれど、それは恐れではなかった。
彼女はずっと、傷を癒す者だった。
人を殺すために剣を取ったことなどなかった。
今も、その事実は変わらない。
それでも……。
「……私、戦ってしまったんだね」
ポツリと、独り言のように呟く。
レアナは、深く息をついた。
「誰かを守るために……」
思い出すのは、あの夜のことだった。
炎の中で崩れ落ちた診療所。
そして、その時、自分を引っ張り上げた、あの少年。
「エリオット」
レアナが振り返る。
血と汗にまみれた彼が、肩を上下させながら、こちらを見ていた。
「ねえ……あの時、私を助けてくれたのは……あなた、だったの?」
問いかける声は震えていた。
長い時を経て、ようやく辿り着いた問いだった。
エリオットは、少しの沈黙のあと、ふっと目を伏せ、そして言った。
「覚えてるよ。……炎の中、あんたが必死に子供を抱えてて、それでもまだ他の人も助けなきゃって叫んでた」
レアナは驚いたように目を見開く。
「だから救われたのはたぶん、俺のほうだ」
彼は苦笑する。
「戦いしか知らなかった俺に、誰かを守りたいって気持ちを思い出させてくれたのは、あのときのレアナだった」
涙が、知らずにレアナの頬を伝う。
「ありがとう、エリオット……」
「礼を言うのは、俺のほうさ。生きててくれて、……そばにいてくれて」
風が吹いた。
血の匂いも、焼け焦げた煙も、もう遠ざかっていく。
その中で、2人の言葉だけが、確かにそこにあった。
そしてレアナは、ふと口角を上げて、静かに言った。
「私……これからも、人を救いたい」
「なら、その剣も悪くねえ。おまえが握るなら、きっと誰かを守れる」
ふたりは微笑み合う。その背後で、雲の切れ間から陽が差し込む。
長い夜が、やっと明けようとしていた。



