終焉の戦歌

炎に包まれる戦場、崩壊する前線、瓦礫の中で散った王女たちの命。



 絶望の淵で、ニコラスはその剣に青き焔を宿す。



 それは選ばれし者の証か、あるいは滅びを呼ぶ業火か。

 運命に抗う意志が、彼を断罪の剣へと変えていく。

 



 戦場の空は、もはや青ではなかった。



黒雲が空を覆い、地平線の果てまでも赤く染まっている。血と煙と怒声が交差する中、ニコラスは1人、荒野の中心に立っていた。



 倒れたヴェルダ兵、砕けたセランの機械兵、聖なる祈りを絶たれたカドリアの聖騎士たち。そのすべてが彼の視界に映っていた。



「……何も守れていない」



 地に膝をつき、剣を支えに立ち上がる。レアナとエリオットは後方の避難民を守るために、一時的に戦線を離れていた。



 その隙を突くようにして、サルディア帝国の強襲部隊が迫っていた。ラシアス率いる黒騎兵たちが、赤い旗を掲げて突撃してくる。



「貴様1人か、ニコラス」



 ラシアスの声が風に乗って届く。その手には、あの忌まわしき黒鉄の刃。神の力を汚し、殺すためだけに作られた魔剣が握られていた。



「ここで終わらせてやる。貴様ごと、レアナの希望もな」



 その言葉に、ニコラスの心の底で何かが弾けた。



 記憶。



 幼き日のアーサー。

 師であり、兄であり、憧れだった男の面影。



 誓い。



 レアナの願い。エーテリウムの力を、もう誰の手にも渡さないと誓った日。



 痛み。



 失った者たち。



奪われたもの。



守れなかった命。



 そのすべてが、今この瞬間、ひとつの熱として彼の中で燃え上がる。



「……そうか。なら、お前に見せてやるよ。俺の力を」



 ニコラスは、両手で刀を握り締めた。

 そして、呼吸を整える。



 吸って、吐く。



 次の瞬間、彼の刀から青い炎が立ち昇った。



 ゴウッ……!



 青い焔は風に逆らい、空を焦がす。まるで、魂の怒りそのものだった。



 ラシアスの表情が、わずかに揺れる。



「な……炎……!?エーテリウムの加護か!?」



「違う。これは……俺自身の覚醒だ」



 ニコラスの声が低く、響く。その瞳は青く燃え、視線だけで敵を貫く鋭さを持っていた。



 彼は一歩、前に出た。

 そして。瞬間、視界が青白く爆ぜる。



 ニコラスの身体が疾風のように動き、黒騎兵たちの中央に出る。剣が振るわれるたびに、青い炎が軌跡を描き、次々と敵兵を倒していく。



「くっ、止めろ!囲め!やつを倒せ!」



 ラシアスが叫ぶ。しかし、その叫びも虚しく、ニコラスは圧倒的な速さと力で軍勢を切り裂いていく。



 まるで、人間ではなかった。



 いや。それは、まさしく人が限界を越えた姿だった。



 剣が唸り、炎が吠え、敵の刃を弾き返す。そのたびに、青い火の粉が舞い、戦場が幻想のように染め上げられていく。



 やがて、ラシアスの元へとたどり着いた。



「逃げられねえぞ、ラシアス」



「ふ……ふざけるな……エーテリウムの力ごときで、この俺を!」



「言っただろ。これは、俺の力だ」



 ニコラスがそう告げた瞬間、炎が爆発した。



 一振り。



 それだけで、ラシアスの魔剣が砕け散り、鎧が焼け焦げ、彼は膝をついた。



 青い炎に包まれる中で、ニコラスの姿は静かだった。



「戦争を、終わらせる」



 決意だった。



 ラシアスは、静かにその場に倒れ込んだ。



 戦場に沈黙が訪れる。



 遠くで、レアナとエリオットがその光景を見守っていた。レアナの瞳から、静かに涙がこぼれた。



「ニコラス……」



 風が、彼の青い炎を撫でるように吹き抜けた。



 その瞬間、戦場にいた者たちは気づいたのだ。



 たった1人の男、ニコラスの覚醒が、この戦争の流れを、大きく変え始めていることを。



 青い炎が消えた。



 ニコラスの刀先が地を引きずる音が、静まり返った戦場に重く響く。



 「……っは……はぁ……!」



 彼の息は荒く、膝が震えていた。今にも崩れ落ちそうなその姿から、先ほどまで敵軍を圧倒していた英雄の影は消えつつあったのだ。



 覚醒の力。それは、ただの力ではない。



彼自身の命を燃やすようなものであり、限界を超えればその代償もまた、重くのしかかる。



 「クソ……ここで……終わる、かよ……」



 足が、動かない。剣を支えにしても、力が入らない。視界が揺れる。息を吸っても、空気が足りない。



 そこへ、一陣の風のように現れた影があった。



 「ニコラス!」



 レアナの叫びよりも早く、彼の背を支えたのはエリオットだった。



 「お前は……なんで戻ってきた……!」



 「放っとけるわけないだろ」



 エリオットは、鋭い瞳で周囲を見回しながらニコラスを抱え込んだ。彼の剣。魔導細工の双刃が背中に光を放つ。



 「今のあんたは確かに強かった。炎の化け物みたいだった。でも、あんな戦い方してたら……命がいくつあっても足りないぞ」



 「……分かってる……でも、俺がやらなきゃ……」



 「じゃあ次は、俺がやる」



 エリオットはそれだけを言うと、立ち上がった。その眼に、迷いはなかった。

 青の炎とは違う。だが彼の中にも、確かに燃える意思があった。



 「レアナ、ニコラスを頼む。ここから先は、俺が斬る」



 「……エリオット……」



 レアナは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。



 エリオットは、ニコラスから引き継ぐように前へと進み出す。動けなくなった親友のために、そして、希望を守るために。



 「帝国のやつら……全部、黙らせてやるよ」



 その刹那、彼の双剣が光を帯びる。風を切る音が変わった。

 エリオットの風が戦場を切り裂く。



 その一撃が敵の鎧を断ち、突進を止める。彼の風はただ速いだけではない。



読み切れない軌道と変則的な斬撃が重なり、サルディア兵たちは次第に恐怖の色を浮かべていった。



「だ……誰か、止めろ!あいつは人間じゃねぇ!」



「隊列を崩すな!まとまれ!」



 だが、風に囲まれた者に包囲の意味はなかった。



エリオットは軽やかに跳び、宙で1回転すると、その勢いで短剣を横薙ぎに振る。



鋭い風圧が前方を一掃し、5人が同時に吹き飛ばされる。



 地面には、倒れ伏す兵と巻き上がる砂塵だけが残った。



「はぁ……はぁ……ったく、まだいんのかよ……」



 エリオットは額から流れる汗を拭いながらも、構えを解かなかった。



力の消耗はある。だが、それ以上に彼の中にある怒りが、炎のように燃えていた。



「……どいつもこいつも、勝手に死のうとしやがって……」



 ……誰ひとり欠けてほしくない。だからこそ、彼が立つしかなかった。



 しかし、その時。



 地響き。



 振動を伴って現れたのは、帝国側の巨大な騎馬隊。



だが、先頭に立つのはただの軍人ではなかった。



「……来やがったか。指揮官クラスか……?」



 群れの中心。重厚な黒鎧を身にまとい、仮面で素顔を隠した男が、静かに馬から降りた。



「風の使い手……エリオット」



 鈍く、地を這うような声だった。

 エリオットの背筋に寒気が走る。



「あんた……誰だよ」



「我が名は、ズィグ=マルバルド。サルディア帝国第一軍・魔将部隊筆頭指揮官。貴様を討つために出張ってきた」



 その言葉に、周囲の空気が変わる。



 ズィグが手をかざすと、大地が裂け、地面から黒い魔力が渦を巻いて噴き出した。



その魔力が、死んだはずの帝国兵の身体に取り憑き、ゆっくりと立ち上がらせる。



「っ……くそ……まさか、ネクロかよ」



 黒い霧に包まれた兵士たち。それは死人が操られているのではなかった。意志を持つ新たな存在として蘇っている。エリオットは一歩、後ろへ引いた。



 レアナが叫ぶ。



「エリオット、戻って!」



「無理だ。あれを放っておいたら、ここから逃げることすらできない」



 エリオットは短剣を逆手に構え、もう一度前へ出る。

 ズィグは仮面の奥で笑った。



「風よ、吹き荒べ。だがその刃が我に届くことはない」



 ズィグの周囲に展開されたのは、魔力の結界。風すら歪め、進行を拒む絶対障壁だった。



 エリオットは斬りかかった。だが。



 カンッ!



 短剣の一撃は、結界に弾かれ、空へ舞った。



「なっ……!」



 そこへ、ズィグが巨大な斧を振り下ろす。



 エリオットは即座に後退したが、地面が抉れ、衝撃が走る。



 その一撃ひとつが、が重すぎた。



 風の使い手であるエリオットの反応速度ですら、完全には避けきれなかった。



 左肩に血が滲む。



「……っ、チッ……こりゃ……格が違うな……」



 それでも、彼は下がらなかった。

 ズィグは静かに語る。



「覚醒の炎に続き、風の刃までも。確かに貴様らは強い。



しかし、それが何になる。力は均衡ではなく、圧倒にのみ価値を持つ」



「へぇ……そのセリフ、死ぬ時にも言えるか?」



 エリオットは血を拭い、再び風を纏う。



 それでも、ズィグの前にはあまりに厳しい。



 だが、そこで。



 背後から、もうひとつの青い光が差し込んだ。



「……立つな、ニコラス!お前、もう限界……!」



「黙れ、エリオット……これだけ見せられて……黙ってられるかよ……!」



 ニコラスの刀に、再び焔が灯る。



 再び立ち上がったニコラスに、敵も味方も息を呑んだ。



 その刀に灯る青き炎は、先ほどよりもさらに強く、しかし不安定だった。



彼の呼吸は浅く、脚も震えている。限界はとうに超えている。それでも、彼は立っていた。



「……まだ、だ。終わらせない……」



 炎を纏う刀をゆっくりと構える。



 その横に、風をまとったエリオットが並ぶ。



 ズィグ=マルバルドは仮面越しに、二人を見据える。



「1人では届かぬ刃を、2人で放つか。それが最後の手札か、エリオット・カイン。そして、名もなき剣士よ」



 「名もなき剣士」



 そう言われたニコラスが笑った。



「名乗る気もなかったけどよ……いざってときには名乗っとくべきか」



 青い炎が、一瞬だけ強く燃える。



「俺の名はニコラス。あとは……見て覚えろ」



「言ってくれる……っつーか、死ぬ気じゃねぇだろうな、ニコラス」



「死ぬつもりなんかねぇよ。絶対、ここで終わらせる」



 2人は同時に走った。



 風と炎。相反するようで、どこか調和している。その動きは、戦場のどんな敵兵よりも速かった。



 ズィグは結界を再展開する。だが、その結界の外を回り込むように、エリオットが疾走し、風刃を連続で放った。



 結界の表面が波打つ。



 その隙にニコラスが刀を振る。



 青い炎が刃を包み、剣圧で切り裂く。ズィグは斧を横に振って応戦。



 衝突した瞬間、炎と魔力が炸裂し、爆音とともに周囲の地面が崩壊する。



 視界が煙に覆われたその一瞬、エリオットが結界の中へと飛び込んだ。



 「風牙。断!」



 空中からの回転斬撃。ズィグの結界をわずかに割った。



 続けて、ニコラスが真正面から斬り込む。



 刀が結界の裂け目を抜け、ズィグの鎧に深々と突き刺さった。



「ぐっ……!」



 初めて、ズィグが声を漏らす。

 それでもズィグは後退せず、反撃の一撃を振るった。



 その重斧が、ニコラスの脇腹を捉える。直撃は避けたものの、衝撃でニコラスが吹き飛ぶ。



「がっ……!」



「ニコラスッ!」



 エリオットが彼を庇おうとするが、今度はズィグがエリオットに魔力の槍を投げ放つ。風で逸らそうとしたが、槍の一撃は防ぎきれず、彼の左腿に突き刺さった。



 血が噴き出す。



 2人とも限界だった。



 エリオットは這うようにしてニコラスに近づく。



「……立てるか、ニコラス」



「……動けねぇな。悪い……使いすぎた」



 ニコラスの目から、焦点が少しずつ消えかけていた。

 刀に宿る炎も、もうわずかしか残っていない。



 ズィグが歩いてくる。



「このまま、終わりだ。風も炎も、ただの人間にすぎん」



 だがその時。



 「終わってたまるかよ」



 声を震わせながら、エリオットが立ち上がった。



「誰かを救うって、そういうことだろ……誰かが限界の先に立って、それでも前に進むから、誰かの命が繋がるんだろ……!」



 風がざわつく。



 彼の周囲の空気が、異様に静まった。

 そして爆発的な風が、彼の背を押した。



「俺は……カイン家の落ちこぼれだ!でもな、それでも、レアナやニコラスや、みんなを守れる男でありたいんだよ!」



 エリオットの足が、風に乗る。



 一瞬でズィグとの距離を詰め。



 全身の風を一点に集中し、突き出す。ズィグが再び結界を展開するが、その刃は、結界の内側にまですり抜けるようにして貫いた。



「なっ……が、アアアアアアアア!」



 ズィグの仮面が割れた。



 だが、それでも倒れない。彼は最後の力を振り絞り、斧を振り上げ。



「やらせねぇ……!」



 立ち上がったのは、ニコラスだった。

 ボロボロの身体で、ただ一撃。



 命を振り絞るように振るった剣がズィグの胸を、真っ直ぐに貫いた。



 ズィグの動きが、止まる。



「……くだらん……人間が……」



 ズィグの身体から、黒い魔力が抜けていく。鎧が崩れ落ち、巨躯が地に沈んだ。



 2人は、同時に膝をついた。



 レアナは、小高い岩の影に身を伏せながら、戦場を見つめていた。



 前線では、ニコラスが青き炎を纏った剣で、次々と敵を斬っていた。



 その姿は、神話に出てくる古の英雄のようで……だが、彼の動きが徐々に鈍くなっていくのも、レアナの目にははっきり見えていた。



(ニコラス……あれは、あの力を限界まで使ってる)



 誰よりも知っていた。

 あの剣と、あの炎が、彼の身体を蝕んでいくことを。



 そして、レアナの視線が、もう1人の男へと向く。



 エリオットだ。



 彼はすでに血まみれで、肩を大きく切られていた。それでも、何度も剣を振り上げ、ニコラスの背を守っている。



 その姿に、レアナは目を伏せる。



(どうして、また……私はここで見てるだけなんだろ)



 かつての記憶が、胸を締め付けるように浮かんできた。




 昔――村が燃えた。



 獣に襲われたのではなかった。人だった。



 兵士の格好をした男たちが、家に火を放ち、村人を斬り捨てていった。



 炎の中で、レアナはただ泣いていた。



 父も、母も、兄も、助けてくれなかった。



 彼らもまた、誰かを守れるほどの力を持っていなかったのだ。



 焼け跡で立ち尽くしていた少女に、手を差し伸べたのが。



 「……エリオット」



 その名を、思わず口にしていた。



 まだ彼も少年で、何者かも知らなかった。ただ、手を取って、逃げ道を探してくれた。



 そして言った。



 「ここから逃げたら、剣を持て。今度は、お前が誰かを守れ」



 レアナはその言葉を、ずっと胸の奥にしまっていた。

 守れるようになったと思っていた。



 けれど、今また、戦場の奥で、ただ震えている。



 「……違う」



 レアナはゆっくりと立ち上がった。



 剣を手に取る。刃が、微かに震える。



 戦えるのか、自分に。

 恐怖は、確かにある。

 でも。



 「今ここで、見ているだけなら……私、あの時と、何も変わってない」



 炎が爆ぜる音が近づいてきた。



 ニコラスの動きが、ついに止まりかけていた。敵の刃が、彼へと振り下ろされる。



「っ、待って!」



 叫びと同時に、レアナの身体が走っていた。

 剣を握る手が、痛いほどに固くなる。



 仲間たちが倒れていくのを、また見るわけにはいかなかった。

 あのときとは違う。今の自分には、剣がある。



 「私は……誰かの剣になるんじゃない」



 息を吐いて、刃を構える。



 「私の意志で、戦う!」



 足元の地面を蹴る。

 剣を持つ腕に、迷いはなかった。



 彼女が斬り込んだその一撃は、敵兵の剣を弾き飛ばし、ニコラスの前に割って入る。



 「……遅いよ、レアナ」



 ニコラスが小さく笑う。



 「今来たとこ」



 レアナはそう答えて、振り返らなかった。

 レアナの剣が一閃し、敵兵が倒れる。



 その背後から追ってきた兵士を、ニコラスの青炎が包んだ。



 「……まったく、無茶をする」



 ニコラスが苦笑混じりに言う。



 「だから来たんでしょ」



 レアナは呼吸を整えながら応えた。



 二人の背を、守るように立つ影。



「待たせたな」



 血まみれの姿で、それでも毅然と立つエリオット。



 その両手には、新たに握られた双剣。



 かつての主剣と、仲間の遺した刃だ。



 彼の瞳が、以前とは違う色を灯していた。



 「……無理はするな、エリオット」



 「無理しないと、止まらねえだろ。これは戦争だ」



 彼は歯を食いしばり、地を蹴る。



 3人の波状攻撃が始まった。



 ニコラスの剣が、敵陣の先頭を砕く。



 レアナの刃が、隙を突くように突き進む。



 そしてエリオットの双剣が、残された空白を補うように踊った。



 悲鳴すべてが交差する中、敵の指揮官、黒鎧の将が進み出る。



 「止められると思うな。我らが掲げる神意の前では」



 「黙れよ⋯⋯!」



 エリオットが声を荒げた。



 「その神の名の下に、どれだけの家族が殺されたか知ってんのか」



 怒りが刃を震わせる。

 だが、それはかつてのような、無軌道な憤りではなかった。



 「俺たちはもう、奪われる側には戻らねえ」



 エリオットの一撃が、黒鎧を裂いた。



 続けてニコラスの剣が、青き炎をまとい、敵将の兜を焼く。



 そして。



 レアナの剣が、最後の一撃として、静かに突き刺さる。



 「あなたの神は、誰も救ってない。……だから、終わらせる」



 黒鎧の将が崩れ落ちる。



 その瞬間、敵の士気が音を立てて崩れていくのが分かった。



 静寂が、戦場を包み込む。



 兵士たちが次々と武器を落とし、膝をつく。



 仲間を失い、命令を失い。やっと、この無意味な殺し合いが終わる。



 ニコラスは地面に膝をついた。



 その肩を、エリオットが支え、レアナが手を重ねる。



 「終わった、のか……?」



 「まだ……ほんの始まり」



 レアナが静かに言う。



 「私たちは止めただけ。これから、変えていかなくちゃいけない」



 エリオットは空を見上げる。



 陽が、戦火の煙を割って差し込んでいた。



 その光は、ただ眩しく。そして、どこまでも痛かった。



 立ち尽くすレアナの手には、まだ微かに温もりが残っていた。剣の柄を握る手が震える。けれど、それは恐れではなかった。



 彼女はずっと、傷を癒す者だった。



 人を殺すために剣を取ったことなどなかった。



 今も、その事実は変わらない。

 それでも……。



 「……私、戦ってしまったんだね」



 ポツリと、独り言のように呟く。

 レアナは、深く息をついた。



 「誰かを守るために……」




 思い出すのは、あの夜のことだった。

 炎の中で崩れ落ちた診療所。

 そして、その時、自分を引っ張り上げた、あの少年。



 「エリオット」



 レアナが振り返る。



 血と汗にまみれた彼が、肩を上下させながら、こちらを見ていた。



 「ねえ……あの時、私を助けてくれたのは……あなた、だったの?」



 問いかける声は震えていた。

 長い時を経て、ようやく辿り着いた問いだった。



 エリオットは、少しの沈黙のあと、ふっと目を伏せ、そして言った。



 「覚えてるよ。……炎の中、あんたが必死に子供を抱えてて、それでもまだ他の人も助けなきゃって叫んでた」



 レアナは驚いたように目を見開く。



 「だから救われたのはたぶん、俺のほうだ」



 彼は苦笑する。



 「戦いしか知らなかった俺に、誰かを守りたいって気持ちを思い出させてくれたのは、あのときのレアナだった」



 涙が、知らずにレアナの頬を伝う。



 「ありがとう、エリオット……」



 「礼を言うのは、俺のほうさ。生きててくれて、……そばにいてくれて」



 風が吹いた。

 血の匂いも、焼け焦げた煙も、もう遠ざかっていく。



 その中で、2人の言葉だけが、確かにそこにあった。



 そしてレアナは、ふと口角を上げて、静かに言った。



 「私……これからも、人を救いたい」



 「なら、その剣も悪くねえ。おまえが握るなら、きっと誰かを守れる」



 ふたりは微笑み合う。その背後で、雲の切れ間から陽が差し込む。

 長い夜が、やっと明けようとしていた。