10月31日。
 空港は、カボチャの飾りが目立ち、騒がしいハロウィンの喧騒に包まれていた。黒とオレンジの世界。子供たちの楽しげな声や、スーツケースの車輪の音が響いていた。

 しかし、搭乗口前の、俺たち二人の周囲だけは、世界の音が消えたような静寂に包まれていた。

 ゲートに入る直前、弓月は立ち止まる。別れの時間は、驚くほど早くやってきてしまった。
 数秒静止した後、軽く振り返り、その場でぶっきらぼうに言う。

 「じゃあな」

 「うん、またな」  

 俺も弓月に合わせる。湿っぽいのは嫌なんだろう。
 俺たちは、それ以上の言葉を交わせなかった。感情を全て吐き出し尽くした後には、辛い想いだけが残るはずだ。だから、明るいテンションで別れよう。

 「月、忘れんなよ」

 「……お前こそ」

 意地を張り、俺たちは最後まで抱き締め合うことはなかった。
 男同士の友情という、言葉にできない領域の絆。重い魂の契約みたいな……。

 搭乗ゲートのアナウンスが流れる。弓月は背を向け、ゲートへ一歩踏み出した。

 その瞬間、俺は衝動的に動いた。
 弓月のリュックサックには、あの日と同じカンボジアの赤いお守りが、紐で結ばれている。
 俺は何も言わず、そのお守りの布をギュッと掴んだ。最後の抵抗だった。

 弓月の体が硬直し、ゆっくりと振り返り、俺の顔と、俺が掴んだお守りを見た。

 「サク……」

 俺は掴んだ手を離せない。目だけが、別れへの恐怖で叫んでいた。

 「……行くな」

 弓月は静かにリュックサックを下ろし、お守りを引き抜き、俺の手に握らせた。

 「……これ、やるよ。大事なもんだけど、お前の方が大事だから」

 彼の目には、切ない覚悟が宿っていた。

 「3年後の約束、守れよ。アンコールワットで待ってるから」

 これは、ただのお守りではない。二人の未来を繋ぐ、魂の契約の証だった。

 「わかった……絶対行く」

 「じゃあな」

 弓月は、今度こそ振り返ることなく、搭乗口へと歩を進めていく。
 その背中は、遠ざかるたびに、世界の重力に引きずり込まれていくように見える。

 俺は、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。全身が鉛のように重い。
 手には、まだ弓月の温もりが残るお守りが握られている。

 しかし、ゲートの奥へ消える直前、弓月は、意図的に振り返った。
 その一瞬、俺たちの間にあった何メートルかの距離が、地球の裏側ほど遠く感じた。
 弓月の顔が歪み、唇が震えている。

 その瞬間、俺たちの間にあった、意地の張り合いが、音を立てて崩壊した。
 彼の瞳は、すでに涙で濡れていた。
 それを見た瞬間、俺の視界がぼやけて、弓月の顔を目に焼き付けたいのに……。指で涙を拭う。

 空港の喧騒も、ハロウィンの騒ぎも、全てが遠いノイズになる。二人とも、最後まで強がっていたのだ。
 俺は弓月の姿が見えなくなるまで、ただ立ち尽くしていた。

 ◇

 あれから月日は流れ、大学に進学した俺は、久しぶりに、秘密基地、「日本のベンメリア」の屋上に来ていた。
 もう、孤独で瓦礫になりたかったあの頃の俺じゃない。俺を繋ぎ止めるツタは、もう弓月との約束だけだった。

 俺は弓月と交わした「赤い月」の約束を、ただひたすらに守り続けた。

 皆既月食は、弓月が帰国してから、約3年の間に1度あり、その時、俺たちは互いに写真を送り合った。俺は、崩れた校舎の瓦礫と赤い月の写真。弓月は、赤い月とアンコールワットの写真を。池に映る月と、空に浮かぶ月。二つの月の赤い光が水面で繋がっているように見える写真。

 チャットのやりとりは、決して多くなかった。弓月はめちゃくちゃ忙しかったし。父親の看病を手伝い、弟妹の世話、インターの勉強と、大学受験の準備をしているようだった。

 しかし、月が満ちる夜には、必ずメッセージが来た。

 『今日、満月だな』
 『見てる。お前も見てる?』
 『当たり前だろ』

 それだけの会話。でも、それだけで十分だった。
 高校2年の夏、弓月から嬉しい知らせが届いた。

 『親父、復職した。また大使館で働けるようになった』

 俺は、心の底から安堵した。

 『良かったな』
 『ああ。お前のおかげだ』
 『俺、何もしてないだろ』
 『バカ。お前がいたから、俺、あの時踏ん張れたんだ』

 その言葉が、俺の胸を熱くした。
 高校3年の春、弓月の誕生日に、俺は初めて自分から写真を送った。
 「日本のベンメリア」で撮った、満月と瓦礫の写真を。画面越しに見える朽ちた校舎は、あの日と変わらない。

 『誕生日おめでとう。また一緒に月見ような』

 弓月からの返信は、シンプルだった。

 『ありがとう。絶対な』

 たったそれだけ。でも、その「絶対な」という言葉が、俺の背中を押してくれた。
 それから数日後。弓月から、夏の夜にボイスメッセージが届く。俺は、イヤホンをつけて、それを何度もリピートする。

 『サク、今日さ、アンコールワット行ってきたんだ。あの池、覚えてる? お前に見せた写真の。そこで月見てたら、お前のこと思い出して……月が綺麗なんだ……すごく。なんか、泣きそうになった。バカみたいだよな、俺』

 弓月の声は、少しだけ震えていた。

 『でも、国は違っても、同じ月を見てるって思ったら、なんか大丈夫な気がしたんだ。お前も、月見てる?』

 俺は、その夜、部屋の窓から満月を見上げながら、久しぶりに涙を流した。理由は分からないけど、止まらなかった。

 でも、俺は変わった、と思う。家では相変わらず透明人間扱いだったが、その薄い反応にも、以前のような絶望感はない。それでも生きる理由があったからだ。

 弓月に会いに行く。その目標が、俺を前に進ませた。

 その頃、近所にコンビニ風の店がオープンした。6時から22時まで営業の。さすがに、こんなド田舎にコンビニは簡単には出店しないだろう。俺はこの店でバイトを始めた。週に4日。貯金通帳に、少しずつ数字が増えていく。それが俺の希望だった。

 大学に合格した時、親は「よくやった」と言ったが、それだけだった。だが、もう気にならなかった。俺には、行くべき場所がある。会うべき人がいるから。

 そして今、19歳になった俺は、アンコールワット行きの航空券を、自分のバイト代で買う準備を始めた。今度は俺が、自力であいつを追いかける番だ。

 空には、雲一つない満月が輝いている。俺は自室のベッドで寝そべり、スマホで「シェムリアップ行き」のチケットを検索していた。日付、金額、ルート。真剣に画面を見つめる。

 「これで、本当に、次の赤い月は、あいつと一緒に見れるんだ」

 そう決意した瞬間、スマホの画面に通知が表示された。弓月からのメッセージ。

 『誕生日おめでとう!今、月見てる。サクも月見てる?』

 俺は急いで返信を打ち込む。

 『ありがと! 俺も、同じ月見てるぞ。待ってろ、次の赤い月の日には、そっち行くから』

 既読。「入力中……」という表示が点滅する。

 俺はチケットの購入ボタンに指をかけたまま、気持ち悪いくらいニヤニヤしていた。
 だって、弓月が俺の誕生日を、まだ覚えてるなんて思わなくて。普通に嬉しい!

 すると、弓月からのメッセージが届く。

 『来月、日本行く。待ってろ』

 画面に表示されたその一行が、俺の世界に、夜明けみたいな一筋の眩い光を差し込んだ。
 俺はベッドから立ち上がり、窓を開け、満月を見上げた。夜風が気持ちいい。嬉しくて叫びそうなのを堪え、落ち着いて返信する。

 『待ってるよ、バカ』 

 空の満月は、あの夜の赤い月とは違う、静かな白さで輝いている。
 でも、同じ月だ。弓月が見ている月と、同じなんだ。

 ポケットの中で、あの日弓月がくれたお守りが、温かかった。

 あの半年間だけが、俺たちのひとつの世界だった。
 でも、その世界は終わりではなく、続いていく。
 同じ月を見ている限り、俺たちは繋がっている。



                  
            ―Fin.―