6月に入った、ある日の昼休み。教室で事件が起きた。
弓月が、クラスの女子グループに話しかけられていた時のことだ。
「ねえ、弓月くん。これ、どう思う?」
女子の一人が、スマートフォンの画面を見せている。何かのSNSの投稿らしい。
弓月は画面を覗き込んで、少し考えてから答えた。
「えっと……いいと思う」
女子たちが、一斉に笑った。
「え、マジで? これ、普通ないわーって話なんだけど」
「あ、そうだったんだ? ごめん、よくわかんなかった」
困ったように苦笑いを浮かべたが、女子たちは悪気なく盛り上がりながら、そのまま自分たちの縄張りに戻っていった。
弓月は一人になると、机に突っ伏し、大きく息を吐いた。俺は、ほっておけず背中をペンで突っついて、声をかけてみる。
「おーい、気にすんな」
「……ん?」
「あいつら、悪気ないから。弓月が空気読めないんじゃなくて、あいつらが説明下手なだけだから。俺も女子のノリなんて、わかんねーし」
振り向いた弓月は、驚いた様子でボソッと呟く。
「……ありがとな」
「別に」
前を向き直る弓月の口元が、微かに緩んだように見えた。
その時、女子グループがこちらをうかがいながら、こそこそ話しているのが目に入った。なぜか幼馴染の石井もいるみたいだ。違うクラスなのに最近よく見かける。
何でいるんだろうとぼーっと眺めてみると、視線がバチっと合ってしまう。でも、すぐにふいっと逸らされた。そう言えば、中3の卒業式以来、ろくに話していない。
弓月と俺は、ずっと前からの友達みたいに、助け合うことも増えていった。しかし、その数日後、弓月との関係に、小さな亀裂が入る出来事が起こる。
6月中旬のある放課後、弓月は、親戚との用事で先に帰ったので、久しぶりに一人で図書館に向かった。ある本を探すために。
それは、カンボジアの公用語、クメール語の入門書だ。
司書に尋ねると、奥の棚から埃をかぶった薄い本を出してきてくれたから、受け取り、ページを開いてみる。
クメール文字は、日本のひらがなとも漢字とも全く違う、ニョロニョロとした丸みを帯びたデザインで、読み方も意味も全く分からない。
けれど、夢中でページを捲り、指でなぞっている自分がいた。
これが、弓月の国の言葉か――何故か惹かれるものがある。初めて見たのに変だよな。
家に帰ると、部屋の机でその本を手本に、一文字ずつノートに書き写してみた。何度書いても覚えられないし、発音もわからないけど、手を動かすことが楽しい。絵を描いたりするのと似ているのかもしれない。
弓月の育った国について勉強するのが、最近の俺の趣味だ。世界史の地図を広げて、カンボジアの地名や川の名前など記憶していく。自分の知らない自分に、弓月と出会ってからよく遭遇する。誰かに興味を持つなんて、生まれて初めてだし、自分が日々変わっていくのを感じる。
梅雨が本格的に始まると、連日の雨で、空は鉛色に沈んでいる。俺は弓月に、クメール語の本を借りたことを言い出せずにいた。なんだか言いにくくて……。勝手に弓月の国のことを勉強するのは、迷惑かもしれないと思ったからだ。
しかし、ある日の昼休み。弓月が俺の方に振り向き、尋問してきた。
「なあ、サク。お前、何か隠してるだろ」
心臓が跳ねた。バレてる?
「……別に」
「嘘つけ。なんか、最近、サクのノートにクメール文字みたいなのが、書いてあったんだけど」
俺の目を真っ直ぐに見つめてきて、怖い顔をしている。もう、隠し続けるのは限界か。
「まさか……勉強してんの?」
俺は観念して、頷く。
「……図書館で、本借りた」
弓月は、一瞬きょとんとしてから、表情を少しだけ強張らせた。
「なんで……」
「お前のこと、知りたいと思ったから」
弓月は、ふいっとそっぽを向いた。
「……やめろよ、なんか重いし」
その声は、いつもより低く、どこか突き放すような響きがあった。嫌われるのかな、俺……せっかく出来た友達なのに。不安が頭をよぎって、どう対応すればいいのか分からなくなる。
すると、弓月が小さく息を吐いてから口を開いた。
「ていうか、俺もクメール文字とか、ほとんど読めねーし……もちろん書けない」
「え?」
俺は、驚きすぎて喉がつまった。
「だって、インターでも英語だし、クメール語は片言で、メイドやドライバーと、たまに話すくらいで全然使わないのに、俺より勉強するってどういうこと?」
半笑いで俺に説教を続ける。
「それに、俺、半年しかいないにに。そんな、俺のこと知ろうとしても、意味ねーのに」
そう言って、弓月が微笑んでくれたから、俺もほっとして吹き出す。
「そうなのか……ごめん重いことして。少しでも、弓月の国の言葉知りたくて……それと、今の、いないのに、だぞ」
「へへッ、のに、だな。勉強するなら、英語にしろ。教えてやるから」
「うん。そうする。でもクメール語って面白いぜ」
「だから~ なんで、サクの方が俺より熱心なんだよ!」
俺たちは笑い合い、無事に和解した。最初、死ぬほど怒られて、もう友達じゃいられないのかなって思って焦ったけど……良かった、と胸を撫で下ろす。
その日の帰り道、田舎道を歩いている時に弓月が口を開いた。
「……悪かったな。さっき、ちょっと怒ったりして。それに、重いとか……サクが俺のために何かしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて」
「怖いって……」
「俺、半年で帰るじゃん。そしたら、お前が俺のために勉強したこととか、全部無駄になるし……それが、すげえ申し訳なくて、それにクメール語なんて俺も知らない言葉なのに……」
弓月の横顔を見てると、本心を伝えたくなる。嘘なんてつけないし、自分の想いを知ってもらいたくて。
「……無駄じゃねえよ。弓月のこと知りたいって思ったから、勝手に勉強しただけ。結局意味なかったけど。俺、初めてなんだ。誰かに興味持つとか、生まれて初めてだから。だから、無駄じゃねーよ」
弓月は目を細めて、微かに瞳を潤ませる。
「……ありがとな」
その声は、いつもより震えている。それ以上何も言わないけど、歩くペースが少しだけ落ちた気がした。俺がその歩幅に合わせていると、弓月がボソッと呟く。
「……お前って、ほんと変なヤツだよな」
「ヘヘッ、そうかも」
「でも、そんなお前も……悪くないよ」
なんだそれ。恥ずかしそうな弓月を前にすると、俺も同じ気持ちだって言いたくなる。どんなお前も、悪くないに決まってるから。
俺たちは、ただ、並んで帰り道をゆっくりと歩いていった。
だけど、別れの時のことを想像すると、泣きそうになる。
梅雨の合間の風が、青葉の香りを乗せて、俺たちをやさしく包んでいく。
弓月が、クラスの女子グループに話しかけられていた時のことだ。
「ねえ、弓月くん。これ、どう思う?」
女子の一人が、スマートフォンの画面を見せている。何かのSNSの投稿らしい。
弓月は画面を覗き込んで、少し考えてから答えた。
「えっと……いいと思う」
女子たちが、一斉に笑った。
「え、マジで? これ、普通ないわーって話なんだけど」
「あ、そうだったんだ? ごめん、よくわかんなかった」
困ったように苦笑いを浮かべたが、女子たちは悪気なく盛り上がりながら、そのまま自分たちの縄張りに戻っていった。
弓月は一人になると、机に突っ伏し、大きく息を吐いた。俺は、ほっておけず背中をペンで突っついて、声をかけてみる。
「おーい、気にすんな」
「……ん?」
「あいつら、悪気ないから。弓月が空気読めないんじゃなくて、あいつらが説明下手なだけだから。俺も女子のノリなんて、わかんねーし」
振り向いた弓月は、驚いた様子でボソッと呟く。
「……ありがとな」
「別に」
前を向き直る弓月の口元が、微かに緩んだように見えた。
その時、女子グループがこちらをうかがいながら、こそこそ話しているのが目に入った。なぜか幼馴染の石井もいるみたいだ。違うクラスなのに最近よく見かける。
何でいるんだろうとぼーっと眺めてみると、視線がバチっと合ってしまう。でも、すぐにふいっと逸らされた。そう言えば、中3の卒業式以来、ろくに話していない。
弓月と俺は、ずっと前からの友達みたいに、助け合うことも増えていった。しかし、その数日後、弓月との関係に、小さな亀裂が入る出来事が起こる。
6月中旬のある放課後、弓月は、親戚との用事で先に帰ったので、久しぶりに一人で図書館に向かった。ある本を探すために。
それは、カンボジアの公用語、クメール語の入門書だ。
司書に尋ねると、奥の棚から埃をかぶった薄い本を出してきてくれたから、受け取り、ページを開いてみる。
クメール文字は、日本のひらがなとも漢字とも全く違う、ニョロニョロとした丸みを帯びたデザインで、読み方も意味も全く分からない。
けれど、夢中でページを捲り、指でなぞっている自分がいた。
これが、弓月の国の言葉か――何故か惹かれるものがある。初めて見たのに変だよな。
家に帰ると、部屋の机でその本を手本に、一文字ずつノートに書き写してみた。何度書いても覚えられないし、発音もわからないけど、手を動かすことが楽しい。絵を描いたりするのと似ているのかもしれない。
弓月の育った国について勉強するのが、最近の俺の趣味だ。世界史の地図を広げて、カンボジアの地名や川の名前など記憶していく。自分の知らない自分に、弓月と出会ってからよく遭遇する。誰かに興味を持つなんて、生まれて初めてだし、自分が日々変わっていくのを感じる。
梅雨が本格的に始まると、連日の雨で、空は鉛色に沈んでいる。俺は弓月に、クメール語の本を借りたことを言い出せずにいた。なんだか言いにくくて……。勝手に弓月の国のことを勉強するのは、迷惑かもしれないと思ったからだ。
しかし、ある日の昼休み。弓月が俺の方に振り向き、尋問してきた。
「なあ、サク。お前、何か隠してるだろ」
心臓が跳ねた。バレてる?
「……別に」
「嘘つけ。なんか、最近、サクのノートにクメール文字みたいなのが、書いてあったんだけど」
俺の目を真っ直ぐに見つめてきて、怖い顔をしている。もう、隠し続けるのは限界か。
「まさか……勉強してんの?」
俺は観念して、頷く。
「……図書館で、本借りた」
弓月は、一瞬きょとんとしてから、表情を少しだけ強張らせた。
「なんで……」
「お前のこと、知りたいと思ったから」
弓月は、ふいっとそっぽを向いた。
「……やめろよ、なんか重いし」
その声は、いつもより低く、どこか突き放すような響きがあった。嫌われるのかな、俺……せっかく出来た友達なのに。不安が頭をよぎって、どう対応すればいいのか分からなくなる。
すると、弓月が小さく息を吐いてから口を開いた。
「ていうか、俺もクメール文字とか、ほとんど読めねーし……もちろん書けない」
「え?」
俺は、驚きすぎて喉がつまった。
「だって、インターでも英語だし、クメール語は片言で、メイドやドライバーと、たまに話すくらいで全然使わないのに、俺より勉強するってどういうこと?」
半笑いで俺に説教を続ける。
「それに、俺、半年しかいないにに。そんな、俺のこと知ろうとしても、意味ねーのに」
そう言って、弓月が微笑んでくれたから、俺もほっとして吹き出す。
「そうなのか……ごめん重いことして。少しでも、弓月の国の言葉知りたくて……それと、今の、いないのに、だぞ」
「へへッ、のに、だな。勉強するなら、英語にしろ。教えてやるから」
「うん。そうする。でもクメール語って面白いぜ」
「だから~ なんで、サクの方が俺より熱心なんだよ!」
俺たちは笑い合い、無事に和解した。最初、死ぬほど怒られて、もう友達じゃいられないのかなって思って焦ったけど……良かった、と胸を撫で下ろす。
その日の帰り道、田舎道を歩いている時に弓月が口を開いた。
「……悪かったな。さっき、ちょっと怒ったりして。それに、重いとか……サクが俺のために何かしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて」
「怖いって……」
「俺、半年で帰るじゃん。そしたら、お前が俺のために勉強したこととか、全部無駄になるし……それが、すげえ申し訳なくて、それにクメール語なんて俺も知らない言葉なのに……」
弓月の横顔を見てると、本心を伝えたくなる。嘘なんてつけないし、自分の想いを知ってもらいたくて。
「……無駄じゃねえよ。弓月のこと知りたいって思ったから、勝手に勉強しただけ。結局意味なかったけど。俺、初めてなんだ。誰かに興味持つとか、生まれて初めてだから。だから、無駄じゃねーよ」
弓月は目を細めて、微かに瞳を潤ませる。
「……ありがとな」
その声は、いつもより震えている。それ以上何も言わないけど、歩くペースが少しだけ落ちた気がした。俺がその歩幅に合わせていると、弓月がボソッと呟く。
「……お前って、ほんと変なヤツだよな」
「ヘヘッ、そうかも」
「でも、そんなお前も……悪くないよ」
なんだそれ。恥ずかしそうな弓月を前にすると、俺も同じ気持ちだって言いたくなる。どんなお前も、悪くないに決まってるから。
俺たちは、ただ、並んで帰り道をゆっくりと歩いていった。
だけど、別れの時のことを想像すると、泣きそうになる。
梅雨の合間の風が、青葉の香りを乗せて、俺たちをやさしく包んでいく。



