9月中旬になると、弓月の帰国への焦燥感が、俺たちの間に影を落とし始めた。
 弓月といる時間は、まるで太陽の陽射しを浴びているように暖かく、グレーの世界を忘れさせてくれる。しかし、学校から家に帰ると、俺の存在は壁のシミのように薄くなり、孤独は決して消えなかった。

 この日の夜、弓月から珍しく電話がかかってきた。彼の声は、いつもより低く、どこか疲れた様子。

 「サク、ちょっといいか」

  「どうした」

  「……帰国日、決まった」

 その言葉で、俺の心臓は止まった。

 「10月31日。ハロウィンだってさ」

 弓月は、無理やり笑おうとしている。それが痛いほど伝わってきた。

 「まだ、あと一か月半あるけど……なんか、急に実感湧いちゃって」

 電話の向こうで、弓月が息を吸い込む音が聞こえる。

 「……母さんから、電話あってさ。向こうの状況が、思ったより悪いみたいで」

 「悪いって、何が」

 「……親父が倒れたんだ。過労で」

 俺は、息を呑む。

 「大使館の仕事、めちゃくちゃ忙しかったらしくて。それで、頼りにしてたメイドも急に辞めちゃって、母さん一人じゃ家事と弟たちの面倒も見るの大変で、現地での手続きも全部止まってるみたいだし」

 弓月の声は、震えている。

 「俺がここに来たのは、半分逃げだったんだ。交換留学で日本に来たのは、日本の学校に通ってみたいって思ってたのもあるけど、家族から離れて、外交官の息子としての将来のこと、進路とか? 考えたくて。でも親父が倒れるなんて思わなかったから」

 俺は、何も言えずに立ちすくんでいた。

 「半年経ったら戻らなきゃいけない。それが条件だったけど、上手く延長出来ないかな? とか考えてた。日本が思ったより楽しくて……」

 弓月の声が、さらに低くなる。

 「でも、親父の病状や、家のことが大変だから、自分の学校や進路のこと考えてる場合じゃない。俺がいない間に、母さんも弟たちも限界きてる。俺が戻って、崩壊寸前の家族を繋ぎ止めないと……サク、お前に会えて良かったよ。本当に」

 電話がブツっと切れた。俺は呆然として、部屋の窓から夜空を見上げた。月は、まだ半分も満ちていなかった。同じ年齢なのに、全然違う。弓月に俺は何をしてあげられるんだろう。


 それから数週間、帰国の準備で弓月は忙しそうで、一緒に遊ぶことも減り、チャットで会話したりすることが多くなった。俺の心にも、暗い影が少し迫っているようだ。弓月との別れが日々近づいている。

 それに加え、家での空気が重くなっていた。
 父は、仕事のストレスからか、些細なことで苛立つようになり、食事中に俺が椅子を引く音が煩いと怒鳴り、テレビのボリュームが気に入らないと舌打ちをする。

 母は、相変わらずスマホから目を離さない。俺が話しかけても、生返事ばかり。
 俺は、この数週間、ほとんど家族と口を利いていなかった。

 9月下旬の蒸し暑い夜。きっかけは、本当に些細なことだった。
 俺が、リビングでノートを広げていた時、父が「邪魔だ」と一言だけ言って、俺のノートをテーブルの端に押しやった。
 その瞬間、俺の中の堪忍袋の緒が切れた。

 「……いつも邪魔なんだろ、俺」

 俺がそう呟くと、父が顔を上げた。

 「お前は、生意気なんだよ!子供のくせに! いったい、何考えてんだ? 何も言わないし! まるで、いてもいなくても同じだ!」

 父の言葉が、俺の胸に突き刺さった。
 母は、一瞬、父を宥めようとするが、すぐ諦め、俺に「謝りなさい」と告げる。
 俺は、父を睨みつけ、踵を返して自分の部屋へ走った。部屋の机の上にあったスマホは、電源が切れていたから、そのまま置いていく。親と連絡がつかないように。ささやかな抵抗だ。

 もう何もかも嫌だった。弓月との奇跡のような半年が終われば、この世界が完全に瓦礫になる。それなら、いっそ今、この瞬間に壊れてしまいたい。

 俺は、リュックに家出に必要なものを詰め込み、衝動的に家を飛び出した。
 行先は決まっている。俺の秘密基地、「日本のベンメリア」へ。

 ◇

 崩れた屋根の隙間から、ぼんやりと欠けた月が見える。俺は屋上の縁に座り、夜風に吹かれた。やっぱり、気持ちが落ち着く。ここでは、呼吸が上手く出来る。

 「もう帰りたくねぇな。いっそ、瓦礫になってやろうかな……」

 誰に言うでもなく、「死んでやるー」と叫んだ。その声は、夜の闇に吸い込まれて消えた。
 どれくらい時間が経ったのかわからない。もうここは、暗闇に包まれていた。持参したランタンを付けると、ボヤっとした灯りがゆらゆらと揺れ始める。

 その時、突然、階段を駆け上がる音が聞こえた。

 そこに、息を切らした弓月が現れた。俺は驚きのあまり腰を抜かしそうになる。彼はスマホのライトと月明かりを頼りにやって来たようだ。Tシャツは汗で張り付き、髪は乱れている。
 彼は俺を見つけると、安堵と怒りの入り混じった、複雑な表情を浮かべた。

 「……いた。良かった。チャットも返信ないし、なんか嫌な予感して、サクの家行ったら、お母さんに家出したかもって言われて……」

 「それで、ここまで来てくれたのか? 悪かったな……」

 「やっぱり、今日はここに泊まるのか?」

 「うん……まあ、そうなるな」

 「わかった。今日は帰らなくていい。でも……俺に何も言わず消えんなよ!」

 「なんで探すんだよ? 俺定期的に家でしてるから、大丈夫だから、帰れよ」  

 俺は、冷たい声で返した。
 弓月は、少しだけ間を置いて、それから叫ぶ。

 「何で探しちゃダメなんだ?」

 弓月の声が、夜の闇に響いた。

 「瓦礫になりたいのかよ!誰にも繋ぎ止められない、ただの瓦礫の石になりたいのかよ!」

 彼の言葉は、あまりにも的を射ていて、俺は何も言い返せなかった。

 弓月は目を真っ赤にして、続けた。

 「毎日、放課後一緒に遊んで……半年だけしかいられないけど、お前いなくなったら……俺、ひとりになるの無理なんだけど」

 その言葉が、崩れかけた心に絡みつくツタみたいに、俺を繋ぎ止めた。

 「それ、こっちが言いたい……お前がいなくなったら、どうなんの? 俺……また、透明人間になるか」

 弓月は、俺に一歩近づく。

 「バカ!お前は透明じゃねえ!俺には見えてる!ずっと見えてるし!」

 「でも、お前はいなくなるんだろ? ほっとけよ」

 「いなくならねえよ!」

 弓月の声が、割れた。

 「俺が向こうに帰っても、お前はここにいる。俺はここにいなくなっても、お前のことは忘れない。同じ月を見る限り、俺たちは繋がってるから」

 その言葉が、俺の涙を溢れさせた。
 弓月はまた一歩、俺に近づいた。

 「もう、瓦礫になるとか、そんなこと言うなよ?」

 その声は小さくて、夜風にかき消されそうだった。

 「お前が瓦礫になったら、俺が困る。お前がどれだけ崩れても……」

 弓月は、息を呑んでから、静かに言った。

 「心がバラバラになってもいい。全部、俺が拾う。お前の骨の最後の一片まで拾ってやるから」

 その瞬間、胸の奥がぎゅっと痛む。
 弓月は強すぎだ。真っ直ぐすぎる。

 「……なんで、そこまで言うんだよ。俺なんかのために……なんで……」

 視界がぼやけて、何も見えない。

 「理由なんかねぇよ」

 風の音だけが、しばらく二人の間を通り抜けた。

 ◇

 話し始めたのは、どちらからだったのかもう覚えていない。
 俺たちは、そこから一晩中、言葉を交わした。
 俺は家での孤独を、弓月は家族の話を、すべて吐露する。

 弓月の家族の話。電話でも軽く聞いたけど、しっかり話したのはこの日が初めてだった。お父さんの病状や兄弟のこと。このまま状況が悪化すれば、家族全員が日本に帰任し、カンボジアでの生活が終わってしまうこと。

 「親父が元気だった頃は、毎月シェムリアップの領事館に出張に行くから、家族全員で旅行がてら、アンコールワットに行ってたんだ。あそこが、俺の……一番のお気に入り」

 弓月は、夜空を見上げた。

 「でも、親父が体調崩してからは、行ってないな……。俺、長男だからさ、責任あって。俺が戻らないと、母さんも弟たちも、もう限界みたいだから」

 すべてを話してくれた。思っていたより、大変そうだった。
 俺、家出してる場合じゃないよな……。平和ボケしてるって思った。

 東にブルーモーメントの空が広がっていた。廃校の屋根が、うっすらと姿を現した。幻想的な景色だ。小鳥のさえずりが聞こえて、夜明けが、ゆっくりと近づいてくる。

 弓月が、小さく呟いた。

 「……なあ、サク。ベンメリアってさ、崩れても終わりじゃないんだ。木が繋ぎ止めてるから、また新しい形で残ってる。ここもそうだよな」

 俺は、弓月の横顔をふと見上げた。彼の顔が、いつもより少しだけ大人びて見えた。

 「じゃあ、帰るか」

 「うん。死ぬなよ」

 「死なねぇよ」

 俺は、ぽつりと言う。

 「知ってる。俺が怒るし」

 弓月はそう言って、笑った。壊れそうな二人が、互いを繋ぎ止めた朝だった。

 ◇

 別れまで一か月を切った、10月初旬。
 季節は確実に進み、夜風は冷たさを帯びていた。俺たちは再び、「日本のベンメリア」の屋上にいた。忙しい弓月にこの日だけはと、空けてもらったのだ。

 特別な夜。漆黒の闇の中で、皆既月食が始まった。地球の影が月を覆い隠し、徐々に月が赤く色づいていく。
 俺たちの頭上に、血を流したように真っ赤な赤い月(ブラッドムーン)が昇る。
 その運命的な赤い光は、俺たちの別れを突きつけるように静かに輝いた。

 「これ、凄いな、真っ赤な月……カンボジアでも見れるかな」

 「うん、見れる。1年か2年に一回は見れる」

 「じゃあ、次は、アンコールワットで見ようかな」

 「あ!それいいな! 俺行くわ、アンコールワット。池に赤い月が映るんだろ?きっとすげーぜ」

 「あそこ、神様の家だからな、スゲーと思うぞ。それに、3年後なら、高校卒業してるから自由に動けるし、来れるかもな」

 俺の心臓が強く脈打った。こんな約束出来ると思わなかった。

 「俺、絶対行くから!その時、アンコールワットで待ってろよ」

 俺たちは、この赤い月の光の下で、3年後の再会を誓い合った。
 弓月が小さく呟いた。

 「俺たち、同じ月を見てる限り、迷わねぇよな。どこにいても」

 俺たちは赤い月をスマホで撮影し、待ち受けにした。 
 赤い月を眺めていたら、寂しさや、不安な気持ちが溢れて、心の底から湧き出る恐怖を隠せなくなってしまった。弓月の前だと、何故こんなにも感情が外に出てしまうのか。

 「短すぎるだろ……。帰るなよ!俺だけ置いてくなよ!」

 弓月は目を逸らし、真っ赤に染まった月を睨むように見上げた。この横顔は、初めて見る表情で、激しい葛藤が刻まれていた。

 「……俺だって、サクがいるから日本にいたいよ。このまま二人して崩れ落ちるまで、ここで一緒にいたい。でもな、俺が帰らないと、向こうで俺の家族が、瓦礫になっちまうんだ」

 彼の人生は、家族のためにある。とても立派なことだ。俺の知らない自己犠牲という精神。俺の親は俺がいなくても、瓦礫にはならないだろうから。

 弓月が、リュックサックから荷物を出そうとしていた時、赤い糸で編まれた小さなお守りみたいな物に視線を奪われる。

 「これ、カンボジアのお守りなんだ。日本のとは違うけど、僧侶が祈祷してくれたやつ。家族の無事とか、旅の安全を祈るものなんだ」

 弓月は、それを軽く触る。

 「親父が元気だった頃に、家族でもらったんだ」

 俺は、そのお守りを見つめ続けた。

 「……大事なもんなんだな」

 「うん」

 深夜、赤い月が見えなくなった頃、俺たちは帰路についた。

 それから、時間の流れが加速して、毎日が、恐ろしいほど早く過ぎていく。
 俺たちは、できる限り一緒にいた。放課後には、図書館やヤギ小屋を見に行き、週末は必ず「日本のベンメリア」に行く。そこで、ただ月を見上げたり、他愛もない話をする。その時間をお互いが大切にしているのが分かる。

 楽しい時は終わりを告げ、別れの時が刻々と近づいていく。