梅雨が明け、夏の日差しが眩しい7月の終わり、図書館の自習室で、弓月がスマホを俺に見せてきた。

 「サク、これ見て」

 画面に映っていたのは、熱帯の強烈な陽射しの中、巨大な木の根に絡め取られ、石造りの壁が崩壊している遺跡の写真だった。木の根はまるで巨大な蛇のように、瓦礫を抱きしめている。アニメの世界みたいだ。

 「これ、ベンメリアって言って、シェムリアップの郊外にある遺跡なんだ。アンコールワットよりも古くて、誰も修復してないから、めちゃくちゃに壊れてる。でも、木が全部繋ぎ止めてるだろ」

 弓月は、画面をスワイプして、別の写真を見せた。木の根が這い回る回廊、崩れた天井から差し込む陽射し、苔むした石の階段。

 「俺、ここ好きでさ。崩れてるのに、崩れきらない。不思議な場所なんだ。すっげーパワー貰えるし」

 俺の胸は、激しく締め付けられた。弓月の大切な場所みたいな所が、俺にもあるんだよな。

 「……これ、あそこに似てるかも」

 俺は思わずそう呟いた。
 弓月が、興味深そうに俺を見る。

 「あそこ?」

 「……俺の、秘密基地」

 その言葉が、口から出た瞬間、俺は後悔した。ここだけは、誰にも教えたことのない、俺だけの秘密の場所だったから。でも、弓月になら、見せてもいいと思った。

 でも、弓月は、俺の迷いを知ってか知らずか、嬉しそうにニッと口角を上げる。

 「見せてくれよ」

 俺は迷わず頷いた。


 次の土曜日に、弓月を俺の秘密基地に連れて行くことになった。辺りには何もないから、食料やドリンクを持って。ちょっとした遠足みたいになった。

 辿り着いたのは、町外れの丘の上にある廃校の敷地だ。誰も手入れしないまま、ツタに覆われた校舎。特に体育館は、屋根が一部崩落し、そこから生えた大きな木の根が、建物を内側から無理やり繋ぎ止めている。

 まさに、日本のベンメリア。
 秘密基地の入り口となる錆びた非常階段の前で、俺は一瞬立ち止まった。
 緊張で喉が渇く。ここに誰かを連れてくるのは、俺の心の鍵を渡すことと同じだから。

 俺は意を決して、階段を登り始めた。弓月は、俺の表情の変化に気づいたようだったが、何も言わずにただ静かに俺の後に続いた。
 
 辿り着いた屋上の踊り場は、いつ来ても異世界のようだ。
 崩れた屋根の隙間から、巨大な木の根が這い出している。その根は、まるで生き物のように、コンクリートの床を抱きしめている。ちょっと、おどろおどろしい。

 ツタが壁を覆い、緑の絨毯のように広がり、風が吹くたび、葉が揺れて、サラサラと音を立てる。清々しいような、不気味なような。そんな世界観だ。
 崩れた体育館の壁がここから見えて、木漏れ日の影が床に複雑な模様を描いている。

 「ここ、俺の秘密基地。……お前が最初で、たぶん最後」

 弓月は、初めて言葉を失っているようだ。彼はゆっくりと周囲を見回し、崩れた屋根、這い回る木の根、ツタに覆われた壁を、まるで何かを確かめるように見つめた。

 「……ベンメリアだ」

 弓月がぽつりと呟いた。

 「マジで、ベンメリアみたいだ。崩れてるのに、繋ぎ止められてる」

 俺は、この場所を見つけた時の事を話し始めた。

 「小さい頃、親に怒鳴られて、もうどこにも帰る場所がないって思って家出したんだ。そのとき辿り着いたのがここ。崩れた屋根の隙間から、欠けた月を見てたらさ、また始められる気がして。すーっと心が浄化されて、あんなに腹立ててたのにどうでも良くなって。それから、ここが俺のお守りみたいになったんだ。もう死んでやろうとか思ってたのに」

 弓月が屋上の縁に腰を下ろす。

 「へぇ。サクって、意外と死にたがり?」

 「……まあな」

 「俺もちょっと、そうかも」

 冗談めいているが、お互いに、その言葉が冗談でないことを知っていた。二人とも繊細な心をもっているから。常々思っていたが、俺たちは似ていた。

 「……なぁ。俺がいなくなったら、サクひとりで、ここで月見んの?」

 「弓月がいなくなったら……仕方ないだろ」

 「サク、寂しくても死ぬなよ」

 「は? 死ねねぇだろ、弓月に怒られそうだし」

 弓月は立ち上がり、根っこの束をぴょんと飛び越え、満面の笑みで言った。

 「こんな大事な場所に、俺が最初で最後の人間ってことか。上等だ。俺が、そのお守りを一生守ってやる」

 ◇

 8月の初旬、夕方頃に、俺たちは再び「日本のベンメリア」の屋上にいた。
 特に用事があったわけじゃない。遠足気分でまたやって来たのだ。ここは、夏でも不思議と涼しくて、太陽の光が大木で遮られるからか、外でも意外と過ごしやすい。

 俺たちは、崩れた屋根の下に座り込んで、持参したドリンクとお菓子を拡げた。
 夕陽がツタの葉を通して、茜色の不思議な模様の影を落とし、セミの鳴き声が騒がしく響いている。

 弓月が、ドリンクを飲みながら口を開いた。

 「なあ、ここって、本当に誰も来ないよな」

 「うん。誰にも会ったことないし」

 「じゃあ、ここは俺たちだけの世界ってことか」

 俺は、その言葉を否定しない。夕陽が沈み、辺りが暗くなり始めた頃、弓月は、崩れた屋根の隙間から見える空を指さした。

 「あそこから見える月は、カンボジアから見える月と同じなんだ。だから、俺たち、繋がってる」

 弓月の横顔をふいに見ると、持参したランタンに照らされた彼の表情が、いつもより少しだけ大人びて見えた。

 俺たちは、それ以上何も語らず沈黙を楽しんだ。ドリンクを飲み干して、暫く月を眺めてから帰路についた。


 夏休み明けの9月初旬。事件は起こった。

 幼馴染の石井に、放課後、空き教室に呼び出された。実は、中3の卒業式に告白されたけど、断った相手でもある。気まずい。今度はなんなんだ。
 弓月には、教室で待ってもらっている。他のクラスメイトの好奇の視線に耐えながら、恐る恐る、空き教室に向かった。ドアを開けると石井と目が合う。

 「朔太郎くん、久しぶり」

 「あー、久しぶり」

 「あれから、半年だね。最近、弓月くんと仲いいけど、もうすぐ帰っちゃうんでしょ? 朔太郎くん、きっと寂しくなると思うから、私のこともう一度考えてくれない? まだ、諦めてないんだよね……どうかな?」

 うっ……まだ諦めてないのか。断ったのに。それに、今の俺の頭の中には、弓月と一緒にどう過ごしていくか、でいっぱいなんだけど。

 「ごめん。今も、そういうの考える余裕がないんだ。弓月、もうすぐ帰っちゃうから……その前に、やっておきたいことが沢山あって」

 俺の言葉に、廊下で覗き見しているクラスのやつらが盛大にざわついている。でも、俺の心には一点の曇りもなかった。

 教室に戻ると、弓月は俺を人目のつかない体育館裏に連れていき、顔を真っ赤にして怒鳴り始めた。

 「お前、何やってんだよ!」

 「なに、お前も盗み聞きしてたのか? 真実を言ったまでだ」

 「俺のせいで、断るのはダメだろ」

 「いいだろーもう時間無いんだから、俺の自由にさせろよ」

 「ばっ……か、お前……!そんなこと言われたら、俺、帰りづれーだろ……!」

 弓月は、そっぽを向き、肩を小さく震わせる。俺には、かける言葉が見つからない。ただ、弓月の後ろ姿を見つめ、夕日が沈むのを待った。