赤い月の下で、半年間がひとつの世界になった

 放課後になり、クラスの全員が教室から出ていく中、席でノートを閉じもせず、ただぼんやりとしていた。この無音の世界が、気持ちを落ち着かせてくれるから、みんなが帰ったあとも、残ることが多い。

 その時、突然目の前に影が落ちた。なぜか弓月が机の前に立っている。忘れ物でもしたのだろうか? もう帰ったと思っていたのに。

「これ、なーに?」

 彼は、開きっぱなしのノートの隅を指さして不思議そうに尋ねる。そこには、俺が授業中に無意識に描いていた、欠けては満ちない小さな三日月のスケッチがいくつも並んでいた。

「……月」

 そう答えると、弓月は興味深そうに首を傾げ、俺の机に椅子を寄せて腰を下ろした。近すぎる距離に面食らう。初対面なのに、これが陽キャの距離感か。いや、海外育ちだとこれが普通なのか。

「サクって、ずっと月ばっか、描いてるんだな」

 弓月は机に肘をつき、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。

「日本の月って、すげー綺麗だよな。俺も、月好きでカンボジアでも見てたよ。定期的にシェムリアップに行くんだけど、ド田舎でさ、夜は真っ暗なんだ。だから、月がめちゃくちゃ大きく見える」

 スマートフォンのアルバムを開いた弓月が、こちらに画面を傾ける。
 巨大な石造りの寺院が、静かな池の水面に映っていて、その上に満月が浮かんでいる。――なんか凄い……こんなの見たことない。

「これ、アンコールワット。池に映った月と、空の月と、両方見えるだろ」

 初めて自分の心臓のでかい鼓動を聞いた。俺以外にこんなに月が好きなヤツに会ったことがなくて、不思議な感覚に包まれる。

 俺がずっと一人で見ていた月を、こいつも同じように見ていたのかもしれない。
 彼は、俺の絵を見ただけではなく、俺の孤独を最初から知っていたかのように話しかけてくるのだ。

 普段なら人の話を聞いても、面白いとは思わないのに、弓月の世界観に引き込まれてしまう。
 異国で孤独な彼と、日本で孤独な俺。二つの孤独が、同じ月を通して、その距離をゆっくりと縮めていく。

「半年だけしか、いないんだよな……」

 口から零れたのは、なぜかそんな言葉だった。

「短いよな」

 弓月はそう言って、フッと柔らかく目を細めた。それが、ずーっと友達でいたみたいな親しみがあって、もはや、初対面だとは思えない。薄暗い俺の世界に、ほんの少しだけ淡い色の閃光が差し込んできて、その制御できない光はとてつもなく眩しい。


 その日の夜。家に帰ると、ダイニングには冷たい空気が張り付いていた。俺の席には、いつものように、静かに皿が置かれている。
 なんとなく、暇そうな母に学校での出来事を話そうとした。

「今日、転校生が来たんだ」

 母はスマートフォンに目を向けたまま、「そう。良かったわね」と形だけ優しい抑揚のない声で返した。母は俺と話す時は、いつもこの調子だ。
 たぶん、母は俺が何をしようと、あまり興味がない。悪いことをしないで、普通にしていればそれでいい、みたいな感じで期待もされてないし、まあ気楽だ。

 父は、ビジネスのニュース番組を、イヤホンもつけずに大音量で流している。母と話していたら、父が「うるさいぞ、朔太郎」と低く怒鳴った。

 俺は、ささっと食事を済ませ、黙って自分の部屋に戻る。

 階段を上がる途中、居間から聞こえてくる父の笑い声が、やけに大きく響いた。テレビを見て笑っているようだ。俺と話す時は怒鳴ってばかりなのに、その声は世界で一番楽しそうだ。絶対、自分には向けられないし、父にとって、俺の言葉は雑音にすぎないのだろう。

 部屋の窓からは細い三日月が見えていた。それを見上げながら、今日の一日を振り返る。

 月が好きだと言った、弓月の笑顔を思い出した時、今までにない感情が溢れ出しそうになった。
 それが何なのか、俺にはまだ分からないけど。