弓月といる日常は、水中にいた俺を水面まで引き上げるようだった。
 ゴールデンウィークが明けた5月の放課後。弓月が突然、俺の机を叩いた。

 「なあ、サク。お前、今日暇?」

 サク。最初は違和感があったが、今ではこう呼ばれることが、自然に聞こえる。彼だけにこう呼ばれるのが、親しい関係みたいでなんか新鮮だ。

 「……別に用事ないけど」

 「じゃあ、ちょっと付き合えよ」

 弓月は、教室を出るなり、まっすぐ校門の外へ向かった。俺は何も聞かずについていく。

 彼が向かったのは、駅前の小さな本屋だった。店内に入ると、弓月は迷わず語学コーナーへ。そこで、日本語の文法書を手に取った。

 「これ、買おうと思って」

 「……日本語、もう喋れてるだろ」

 「喋るのと、ちゃんと理解するのは違うんだよ」

 弓月は苦笑した。

 「クラスのやつら、俺が変なこと言うと、すぐ笑うだろ? 別に悪気ないのはわかってるけどさ。でも、言い間違え多いし、正しく伝えられないと、なんかさ……日本人なのにって思う」

 弓月は文法書のページをめくりながら、ぽつりと呟く。

 「半年しかいないにに、こんなこと勉強しても意味ないかなって思ったんだけど。でも、お前みたいに話せるやつがいるなら、ちゃんとしたいって思ってさ」

 俺の胸を、その言葉が強く打った。

 「いないにに、じゃなくて、いないのに、だぞ」

 「いないのに、だな。ほら、さっそく間違えた!」

 弓月は、ここに馴染めないと感じながらも、必死にここに留まろうとしている。
 俺は、それまで自分が何も努力してこなかったことに気づいた。

 俺たちは本屋を出て、特に目的もなく町を歩いた。ここはド田舎で、人通りの少ない廃線跡の錆びたレールの上を歩いたり、寂れた商店街の片隅にある図書館で過ごしたりして、時間を潰す。

 弓月は親戚の家に下宿しているけど、家にいるのは気を使わせるからと言って、俺と放課後を過ごすことが多かった。

 道の駅でドリンクやお菓子を買い、外のヤギ小屋のそばのベンチで座って話すことにした。コンビニなどはないから、いつもこうなる。たまに、鶏の声が煩くて笑ってしまう。

 弓月が、文化の違いで起こった失敗談や、カンボジアでの暮らしについて笑いながら話すのを聞く。

 「カンボジアってさ、めちゃくちゃ暑いんだよ。40度とか普通。だから、昼間は誰も外歩かない。みんな昼寝してる」

 「……それ、学校も?」

 「インターだから、冷房ガンガンで授業やるけどさ。でも、放課後は暑すぎて遊べない。送り迎えも、ドライバーの車で。治安も良くないのもあるけど」

 「へー、そんな感じなんだ」

 「ショッピングモールの中のコーヒーショップに行って勉強する時もあるけど、家と学校の往復。だから、こんな所でのんびり友達と話すだけで、幸せを感じる」

 「俺も、ド田舎嫌だって思う時もあるけど、たまに都会行くと落ち着かなくて、たまにでいいな~って思う」

 「うん、ここはいい所だぞ、サクはラッキーだよ」

 思ったより、海外暮らしって大変なんだな。弓月はここが好きみたいで、俺も嬉しくなる。

 「ずっと、ここにいればいいじゃん」

 「そうなんだ、もっと長くいられたらな……て思うけどね」

 弓月は、少しだけ遠い目をした。

 「日本、好きなんだ。やっぱ日本人だし。カンボジアも好きだけど、やっぱり日本が落ち着く。将来は、日本の大学に行きたいって思ってるんだけど……」

 なんか、日本にいることが難しいのかも……。まだ16歳だし、一人で決められないことも多いし、弓月なりに色々悩んでいるのかもしれない。


 6月に入った、ある日の昼休み、教室で事件が起きた。

 弓月が、クラスの女子グループに話しかけられていた時のことだ。

 「ねえ、弓月くん。これ、どう思う?」

 女子の一人が、スマホの画面を見せている。何かのSNSの投稿らしい。
 弓月は画面を覗き込んで、少し考えてから答えた。

 「えっと……いいと思う」

 女子たちが、一斉に笑った。

 「え、マジで? これ、普通ないわーって話なんだけど」

 「あ、そうだったんだ? ごめん、よくわかんなかった」

 弓月は、困ったように苦笑いを浮かべる。
 女子たちは悪気なく笑いながら、そのまま自分たちの席に戻っていった。
 弓月は、一人机に突っ伏すと、大きく息を吐く。
 俺は、ほっておけず、弓月の背中をペンで突っつき、声をかける。

 「おーい、気にすんな」

 「……ん?」

 「あいつら、悪気ないから。弓月が空気読めないんじゃなくて、あいつらが説明下手なだけだから。俺も女子のノリなんて、わかんねーし」

 弓月は、少しだけ驚いた顔で俺を見た。

 「……ありがとな」

 「別に」

 弓月が前を向いた時、その横顔が、小さく笑っているように見えた。
 俺たちは、ずっと前からの友達みたいに、助け合うことも増えていった。


 しかし、その数日後、弓月との関係に、小さな亀裂が入る事件が起こる。

 6月中旬のある放課後、弓月は、親戚との用事で先に帰ったので、久しぶりに一人で図書館に向かう。図書館では、ある本を探す。

 クメール語の入門書。クメール語は、カンボジアの公用語だ。
 司書に尋ねると、奥の棚から埃をかぶった薄い本を出してきてくれた。俺はその本を手に取り、ページをめくる。
 クメール文字は、日本のひらがなとも漢字とも全く違う、ニョロニョロとした丸みを帯びたデザイン。読み方も意味も全く分からない。

 けれど、それを夢中でページを捲り、指でなぞっている自分がいた。

 家に帰ると、俺は部屋の机でその本を開いた。一文字ずつ、ノートに書き写していく。何度書いても覚えられないし、発音もわからないけど、手を動かすことが楽しい。

 弓月の育った国について勉強するのが、最近の俺の趣味だ。自分の知らない自分に、弓月と出会ってから良く遭遇する。誰かに興味を持つなんて、生まれて初めてだ。

 梅雨が本格的に始まり、連日の雨で、空は鉛色に沈んでいる。俺は弓月に、クメール語の本を借りたことを言い出せずにいた。なんだか言いにくくて。迷惑かもしれないと思っていたから。

 しかし、ある日の昼休み。弓月が俺の方に振り向き、ふいに言った。

 「なあ、サク。お前、何か隠してるだろ」

 心臓が跳ねた。バレてる?

 「……別に」

 「嘘つけ。なんか、最近、サクのノートにクメール文字みたいなのが、書いてあったんだけど」

 弓月は、俺の目を真っ直ぐに見た。

 「まさか……勉強してんの?」

 俺は観念して、頷く。

 「……図書館で、本借りた」

 弓月は、一瞬きょとんとした顔をする。それから、表情が少しだけ強張った。

 「……なんで」

 「お前のこと、知りたいと思ったから」

 弓月は、視線を逸らした。

 「……やめろよ、なんか重いし」

 その声は、いつもより低く、どこか突き放すような響きがあった。

 「ていうか、俺もクメール文字とか殆ど読めねーし、もちろん書けない」

 「え?」

 俺は、驚きすぎて息が止まった。

 「だって、インターでも英語だし、クメール語は、片言でメイドやドライバーと、たまに話すくらいで全然なのに、俺より勉強するってどういうこと?」

 弓月は、半笑いで俺に説教を続ける。

 「それに、俺、半年しかいないにに。そんな、俺のこと知ろうとしても、意味ねーのに」

 そう言って、弓月は笑いだす。

 「そうなのか……ごめん重いことして。少しでも、弓月の国の言葉知りたくて……それと、今の、いないのに、だぞ」

 「へへッ、のに、だな。勉強するなら、英語にしろ。教えてやるから」

 「うん。そうする。でもクメール語って面白いぜ」

 「だから~なんで、サクの方が俺より熱心なんだよ」

 俺達は笑い合って、事なきを得た。最初、死ぬほど怒られて、もう友達じゃいられないのかなって思って焦ったけど。良かった……。

 その日の帰り道、田舎道を歩いている時に弓月が口を開いた。

 「……悪かったな。さっき、ちょっと怒ったりして。それに、重いとか……サクが俺のために何かしてくれるのが、嬉しくて、でも怖くて」

 弓月は、ゆっくりと続けた。

 「俺、半年で帰るじゃん。そしたら、お前が俺のために勉強したこととか、全部無駄になるじゃん。それが、すげえ申し訳なくて、それにクメール語なんて俺も知らない言葉なのに」

 俺は、弓月の横顔を見た。

 「……無駄じゃねえよ。弓月のこと知りたいって思ったから、勝手に勉強しただけ。結局意味なかったけど。俺、初めてなんだ。誰かに興味持つとか、生まれて初めてだから。だから、無駄じゃねーよ」

 弓月は、目を細めて、微かに瞳を潤ませていた。

 「……ありがとな」

 その声は、いつもより少しだけ震えてるようだ。俺たちは、ただ、並んで帰り道を歩いていく。別れの時のことを想像すると、俺も泣きそうになってしまった。

 梅雨の合間の風が、青葉の香りを乗せて、俺達をやさしく包んでいく。