4月の暖かな日差しが、教室内を優しく包み込む。その心地よさから、俺、芦川朔太郎は眠気と戦っていた。窓の外では、咲き誇った桜が満開のピークを終え、風が吹くたびに花びらが舞い散っている。
世界は明るくて広い。しかし、俺の視界だけはいつもグレーのフィルターがかかり無色透明だった。無彩色の世界には、もちろん感情はない。しかし、逃れるための安全地帯ではある。
俺は窓際の席で、ノートの隅に小さな月ばかりをスケッチしていた。授業を聞く気はなかったし、誰も俺に話しかけてこない。それが俺の安寧であり、朔太郎(朔、つまり新月の意味を持つ俺の名前)の生き方だった。まだ光を持たない、暗くて薄い存在。その薄暗さが、俺にとっては誰にも邪魔されない心地よい安全圏なのだ。
午後、新学期の最初のHRが始まってすぐのことだった。
教室の扉がガラッと音を立てた。
その瞬間、俺の静かなモノクロの世界に、突然スポットライトが当てられたみたいに、強烈な何かが差し込んだ。
担任に連れられて入ってきた転校生は、健康的に焼けた小麦色の肌と、明るい茶色の髪をしていた。日本の春の湿気た空気には似合わない、灼熱の太陽のように、強烈に眩しい。
「カンボジアのプノンペンから来ました、日野弓月です。交換留学で半年だけだけど、よろしく!」
屈託のない笑顔。その言葉は、俺の人生の期限を告げるものだった。「半年だけ」という短く、容赦のない制限時間。
心臓が、一度、ドクンと鳴った。
それと同時に、もう一人の自分が囁く。
すぐいなくなるのか。あまり関わらないでおこう。
いつもの自分の思考は冷淡である。自分一人の世界のテリトリーには、誰にも入らせることを許さない。
彼は、一瞬だけ周囲を見回したあと、まっすぐ俺を見て、ニッと笑う。
そいつが、この薄暗い世界を――わずか半年で、根こそぎ瓦礫にしてしまうとは。そのときの俺は、まだ知らなかった。
挨拶を終えると、担任は彼を窓側の、俺の前の席に座らせた。彼は大きな荷物を床に置くと、すぐにこちらを振り返る。
「俺、弓月、よろしく。弓月って呼んで。朔太郎でいいのかな?」
彼の声は、夏の始まりを告げる蝉の声みたいに、力強くてうるさい。ハキハキしてて俺とは真逆の人種だ。
「サクって呼んでいい? 朔太郎ってかみそうで」
その熱量に圧倒されて、小さく頷くことしかできなかった。
サク。誰にも、そんな風に呼ばれたことなんて、なかったな。
その後、弓月の周りには人だかりができた。
「カンボジアってどこ?」
「暑いの?」
「日本語うまいね!」
クラスメイトたちが、物珍しそうに質問を投げかける。弓月は最初、笑顔で答えようとしていた。しかし、質問が重なるにつれて、彼の表情に微かな困惑が浮かんでいく。
「えっと……タイの、隣で」
「あー、うん、暑いよ。めっちゃ暑い」
「日本語は……まあ、日常会話ならなんとか……」
会話は続かない。日本語はたどたどしい所もあるから、慣れていないのかも。弓月の答えは短く、クラスメイトたちは次第に興味を失い、一人、また一人と離れていく。
結局、弓月の机の周りには誰もいなくなった。
彼は、ひとり机に突っ伏して、スマホの画面を指でスクロールし始めた。画面には、日本語でも英語でもない、ニョロニョロした文字が並んでいた。
明るいやつなのに、誰も近づけない。俺はその姿を見て、奇妙な連帯感を覚えていた。
昼休み、弓月は教室から出て行った。俺は何となく気になり、遠くから彼の後を追いかけた。
階段の踊り場で、弓月はスマホ通話していた。国際電話らしく、小さな声で、外国語で何かを話している。俺には意味が分からなかったが、彼の声のトーンだけは理解できた。
それは、必死に何かをお願いしているようだった。
「……ជួយខ្ញុំផង(チュオイ・クニョム・ポン)」
ふいに、日本語が混じる。
「だから、俺が戻るまで、お父さんのこと頼むって……!ソピアさん、お願い」
弓月の声は、教室で見せていた明るさとは全く違う、張り詰めたものだった。
電話が切れた時、弓月は壁に背中を預け、天井を見上げた。辛そうな表情だ。その横顔には、疲労と、何かに追い詰められているような緊張が滲んでいた。さっきの太陽みたいな彼とは別人だ。
俺は、見てはいけないものを見た気がして、そっとその場を離れた。
しかし、心の片隅に、弓月の姿が焼き付いて消えなかった。
放課後。クラスの全員が教室から出ていく中、俺は席でノートを閉じることもせず、ただぼんやりとしていた。教室の無音の世界が、心を落ち着かせてくれる。
その時、突然目の前に影が落ちた。弓月が俺の机の前に立っている。忘れ物でもしたのだろうか? もう帰ったと思っていたのに。
「これ、なーに?」
彼は、まだ閉じずにいたノートの隅を指さした。そこには、俺が授業中に無意識に描いていた、欠けては満ちない小さな三日月のスケッチがいくつも並んでいる。
「……月」
俺がそう答えると、弓月は興味深そうに首を傾げて、そのまま俺の机に彼の椅子を近づけて、腰を下ろした。
「サクって、ずっと月ばっか、描いてるんだな」
弓月は机に肘をつき、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「日本の月って、めっちゃ綺麗だよな。俺も、月好きでカンボジアでも見てたよ。たまにシェムリアップに行くんだけど、めちゃくちゃ田舎でさ、夜は真っ暗なんだ。だから、月がめちゃくちゃ大きく見える」
弓月は、スマホを取り出して、写真を見せてくれた。
巨大な石造りの寺院が、静かな池の水面に映っている。その上に、満月が浮かんでいた。
「これ、アンコールワット。池に映った月と、空の月と、両方見えるだろ」
俺は、初めて自分の心臓のでかい鼓動を聞いた。彼は、俺の絵を見ただけではなく、俺の孤独を最初から知っていたかのように話しかけてくるのだ。
異国で孤独な彼と、日本で孤独な俺。その二つの孤独が、同じ月を通して、その距離がわずかに縮まっていく。
「半年だけしか、いないんだよな……」
俺が口にしたのは、なぜかそんな言葉だった。
「短いよな」
弓月はそう言って、眩しい笑顔を見せてくれる。その笑顔はもう、ずーっと友達でいたみたいな親しみがあって、他人行儀ではなかった。俺の世界のグレーのフィルターに、ほんの少しだけ、薄い色が差し込んでいく。その制御できない光はとてつもなく眩しかった。
その日の夜。家に帰ると、ダイニングには冷たい空気が張り付いていた。俺の席には、いつものように、静かに皿が置かれている。
食卓で、俺は暇そうな母に学校での出来事を話そうとした。
「今日、転校生が来たんだ」
母はスマホに目を向けたまま、「そう。良かったわね」と形だけ優しい声を返す。その声には、いつもの抑揚のなさがあった。母は俺と話す時、いつもこの調子だ。
多分俺が何をしようとも、あまり興味がない。悪い事をせずに、普通にしていればそれでいいみたい。期待もされてないし、まあ気楽だ。
父は、ビジネスのニュース番組を、イヤホンもつけずに大音量で見ている。俺が母と話してたら、父が「うるさいぞ、朔太郎」と低く怒鳴った。
俺は、ささっと食事を済ませ、黙って自分の部屋に戻る。
階段を上がる時、居間から聞こえてくる父の笑い声が、やけに大きく響いた。テレビを見て笑っている。俺と話す時は低く怒鳴るのに、その笑い声は、世界で一番楽しそうに、そして俺には絶対に向けられない声色だった。父にとって、俺の声は雑音にすぎないのだろう。
部屋の窓から、細い三日月が見えた。
俺はその月を見上げながら、今日の出来事を振り返る。
月が好きだと言った、弓月の笑顔を思い出して、今までにない感情が溢れ出しそうだった。
それが何なのか、俺にはまだ分からないけど。
世界は明るくて広い。しかし、俺の視界だけはいつもグレーのフィルターがかかり無色透明だった。無彩色の世界には、もちろん感情はない。しかし、逃れるための安全地帯ではある。
俺は窓際の席で、ノートの隅に小さな月ばかりをスケッチしていた。授業を聞く気はなかったし、誰も俺に話しかけてこない。それが俺の安寧であり、朔太郎(朔、つまり新月の意味を持つ俺の名前)の生き方だった。まだ光を持たない、暗くて薄い存在。その薄暗さが、俺にとっては誰にも邪魔されない心地よい安全圏なのだ。
午後、新学期の最初のHRが始まってすぐのことだった。
教室の扉がガラッと音を立てた。
その瞬間、俺の静かなモノクロの世界に、突然スポットライトが当てられたみたいに、強烈な何かが差し込んだ。
担任に連れられて入ってきた転校生は、健康的に焼けた小麦色の肌と、明るい茶色の髪をしていた。日本の春の湿気た空気には似合わない、灼熱の太陽のように、強烈に眩しい。
「カンボジアのプノンペンから来ました、日野弓月です。交換留学で半年だけだけど、よろしく!」
屈託のない笑顔。その言葉は、俺の人生の期限を告げるものだった。「半年だけ」という短く、容赦のない制限時間。
心臓が、一度、ドクンと鳴った。
それと同時に、もう一人の自分が囁く。
すぐいなくなるのか。あまり関わらないでおこう。
いつもの自分の思考は冷淡である。自分一人の世界のテリトリーには、誰にも入らせることを許さない。
彼は、一瞬だけ周囲を見回したあと、まっすぐ俺を見て、ニッと笑う。
そいつが、この薄暗い世界を――わずか半年で、根こそぎ瓦礫にしてしまうとは。そのときの俺は、まだ知らなかった。
挨拶を終えると、担任は彼を窓側の、俺の前の席に座らせた。彼は大きな荷物を床に置くと、すぐにこちらを振り返る。
「俺、弓月、よろしく。弓月って呼んで。朔太郎でいいのかな?」
彼の声は、夏の始まりを告げる蝉の声みたいに、力強くてうるさい。ハキハキしてて俺とは真逆の人種だ。
「サクって呼んでいい? 朔太郎ってかみそうで」
その熱量に圧倒されて、小さく頷くことしかできなかった。
サク。誰にも、そんな風に呼ばれたことなんて、なかったな。
その後、弓月の周りには人だかりができた。
「カンボジアってどこ?」
「暑いの?」
「日本語うまいね!」
クラスメイトたちが、物珍しそうに質問を投げかける。弓月は最初、笑顔で答えようとしていた。しかし、質問が重なるにつれて、彼の表情に微かな困惑が浮かんでいく。
「えっと……タイの、隣で」
「あー、うん、暑いよ。めっちゃ暑い」
「日本語は……まあ、日常会話ならなんとか……」
会話は続かない。日本語はたどたどしい所もあるから、慣れていないのかも。弓月の答えは短く、クラスメイトたちは次第に興味を失い、一人、また一人と離れていく。
結局、弓月の机の周りには誰もいなくなった。
彼は、ひとり机に突っ伏して、スマホの画面を指でスクロールし始めた。画面には、日本語でも英語でもない、ニョロニョロした文字が並んでいた。
明るいやつなのに、誰も近づけない。俺はその姿を見て、奇妙な連帯感を覚えていた。
昼休み、弓月は教室から出て行った。俺は何となく気になり、遠くから彼の後を追いかけた。
階段の踊り場で、弓月はスマホ通話していた。国際電話らしく、小さな声で、外国語で何かを話している。俺には意味が分からなかったが、彼の声のトーンだけは理解できた。
それは、必死に何かをお願いしているようだった。
「……ជួយខ្ញុំផង(チュオイ・クニョム・ポン)」
ふいに、日本語が混じる。
「だから、俺が戻るまで、お父さんのこと頼むって……!ソピアさん、お願い」
弓月の声は、教室で見せていた明るさとは全く違う、張り詰めたものだった。
電話が切れた時、弓月は壁に背中を預け、天井を見上げた。辛そうな表情だ。その横顔には、疲労と、何かに追い詰められているような緊張が滲んでいた。さっきの太陽みたいな彼とは別人だ。
俺は、見てはいけないものを見た気がして、そっとその場を離れた。
しかし、心の片隅に、弓月の姿が焼き付いて消えなかった。
放課後。クラスの全員が教室から出ていく中、俺は席でノートを閉じることもせず、ただぼんやりとしていた。教室の無音の世界が、心を落ち着かせてくれる。
その時、突然目の前に影が落ちた。弓月が俺の机の前に立っている。忘れ物でもしたのだろうか? もう帰ったと思っていたのに。
「これ、なーに?」
彼は、まだ閉じずにいたノートの隅を指さした。そこには、俺が授業中に無意識に描いていた、欠けては満ちない小さな三日月のスケッチがいくつも並んでいる。
「……月」
俺がそう答えると、弓月は興味深そうに首を傾げて、そのまま俺の机に彼の椅子を近づけて、腰を下ろした。
「サクって、ずっと月ばっか、描いてるんだな」
弓月は机に肘をつき、言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「日本の月って、めっちゃ綺麗だよな。俺も、月好きでカンボジアでも見てたよ。たまにシェムリアップに行くんだけど、めちゃくちゃ田舎でさ、夜は真っ暗なんだ。だから、月がめちゃくちゃ大きく見える」
弓月は、スマホを取り出して、写真を見せてくれた。
巨大な石造りの寺院が、静かな池の水面に映っている。その上に、満月が浮かんでいた。
「これ、アンコールワット。池に映った月と、空の月と、両方見えるだろ」
俺は、初めて自分の心臓のでかい鼓動を聞いた。彼は、俺の絵を見ただけではなく、俺の孤独を最初から知っていたかのように話しかけてくるのだ。
異国で孤独な彼と、日本で孤独な俺。その二つの孤独が、同じ月を通して、その距離がわずかに縮まっていく。
「半年だけしか、いないんだよな……」
俺が口にしたのは、なぜかそんな言葉だった。
「短いよな」
弓月はそう言って、眩しい笑顔を見せてくれる。その笑顔はもう、ずーっと友達でいたみたいな親しみがあって、他人行儀ではなかった。俺の世界のグレーのフィルターに、ほんの少しだけ、薄い色が差し込んでいく。その制御できない光はとてつもなく眩しかった。
その日の夜。家に帰ると、ダイニングには冷たい空気が張り付いていた。俺の席には、いつものように、静かに皿が置かれている。
食卓で、俺は暇そうな母に学校での出来事を話そうとした。
「今日、転校生が来たんだ」
母はスマホに目を向けたまま、「そう。良かったわね」と形だけ優しい声を返す。その声には、いつもの抑揚のなさがあった。母は俺と話す時、いつもこの調子だ。
多分俺が何をしようとも、あまり興味がない。悪い事をせずに、普通にしていればそれでいいみたい。期待もされてないし、まあ気楽だ。
父は、ビジネスのニュース番組を、イヤホンもつけずに大音量で見ている。俺が母と話してたら、父が「うるさいぞ、朔太郎」と低く怒鳴った。
俺は、ささっと食事を済ませ、黙って自分の部屋に戻る。
階段を上がる時、居間から聞こえてくる父の笑い声が、やけに大きく響いた。テレビを見て笑っている。俺と話す時は低く怒鳴るのに、その笑い声は、世界で一番楽しそうに、そして俺には絶対に向けられない声色だった。父にとって、俺の声は雑音にすぎないのだろう。
部屋の窓から、細い三日月が見えた。
俺はその月を見上げながら、今日の出来事を振り返る。
月が好きだと言った、弓月の笑顔を思い出して、今までにない感情が溢れ出しそうだった。
それが何なのか、俺にはまだ分からないけど。



