店のドアベルが、小さく鳴った。
夜の音に溶けるような、かすかな音。
それだけで、胸の奥がひくりと鳴った。
「……いらっしゃいませ」
声が上ずらないよう、意識して息を整える。
深夜の店内。照明はいつもより落としている。
カウンターの上には、何も置いていない。ただ、静かさだけがある。
「……こんばんは」
佐々木は、小さく頭を下げた。
昼に見た時と変わらない顔。変わらないはずの顔。
それなのに――もう、同じには見えなかった。
「いらっしゃいませ、こんばんは。佐々木さん」
俺は、いつもと同じ調子で応じた。
「あの……相談があるってお話でしたが、どうしたんですか?」
他愛のないやり取り。
けれど、二人とも、その言葉が「最後の雑音」だと分かっている。
「どうぞ。お掛けください」
カウンター越しに、回り込むように席を勧める。
その仕草すら、震えそうになる手を抑え込みながら。
真壁は、奥の席にいた。
暗がりに溶けて、存在だけがそこにある。
佐々木からは、見えない。
――それでいい。
俺は、マスターとして、ここに立つ。
コーヒー豆を挽く音が、やけに大きく響く。それが、自分の心音のようだった。
湯を沸かす間、視線を上げない。
そのほうが、顔を見なくて済むから。
――怖いのだ。
もし、目が合ってしまえば奇跡のような言い訳を、信じてしまいそうで。
「その前に、コーヒーでもいかがですか?」
「あ、はい……。お願いします」
ゆっくりと、カップに湯を注ぐ。
雑念が混ざらないように、呼吸を整えながら。
それが、祈りのように思えた。
――どうか。
――まだ、間に合ってくれ。
「……今日は、あんな時間にお電話してしまったのに、ありがとうございます」
「……いえ」
「どうぞ」
カウンターにカップを置く。
砂糖もミルクも出さない。
この夜に、甘さはいらない。
「佐々木さん」
声が、震えないように。
できるだけ、普段と同じ調子で。
「……少し、聞きたいことがあって」
彼は、頷いた。
「はい、なんでしょうか」
「……昔、大事にしていたものがあると、言っていましたよね」
一瞬、空気が張りつめる。
「……はい」
「それって」
言葉を選ぶ。
「“今も、探しているもの”ですか」
佐々木は、目を伏せた。
「……ええ……探して、いますね」
小さく、笑う。
「……ずっと」
胸が、苦しくなる。
「……それは、一体なんですか?」
「理解してもらえるかは分かりませんが、……“時間”です」
「……時間」
「戻らないって、分かっていても……欲しくなるものですから」
“感情”で、逃げる。
その気配が、はっきりと分かった。
「……それだけ、ですか」
問いが、思ったより低く出た。
「あの。……店の、砂糖壺のことですが」
ピクリと、佐々木の肩が揺れた。
けれど、彼は首を振った。
「……僕は……」
「……佐々木さん、“ただの古いもの”だって、言っていましたよね」
その言葉に、初めて視線が上がる。
「……」
「……あれは」
息を吸う。
「……佐々木さんにとって、本当に“いらないもの”でしたか」
沈黙。
逃げ道は、まだ、残っている。
それを、彼は知っている。
――いや。
“信じたい自分”が、まだ彼を、逃がそうとしているだけだ。
「……」
「……佐々木さん」
願うように、名前を呼ぶ。
「……どうか……俺に、嘘をつかないでください」
その瞬間だった。
奥の席から、足音がした。
ゆっくりと。
逃げ場を与えない、歩幅。
「――では、俺が代わりに答えよう」
闇から、真壁が現れる。
黒いシャツ。
感情のない目。
テーブルに、優しくジッパー袋が置かれた。
中にあるのは、白磁の破片。あの砂糖壺の、残骸。
「……っ」
佐々木の顔から、血の気が引く。
「佐々木さん。貴方は、下手すぎた」
「……な、何の……」
「資源ゴミの分別」
「……」
淡々と、真壁が続ける。
「……同じ金彩。割れ口。焼成の癖。
一致している」
それ以上は、言わない。
それだけで――十分だった。
「……佐々木さん」
「……いや……あの……」
彼は、逃げ場を探して、視線を彷徨わせる。
だが、どこにも、出口はない。
「……どうして」
俺の声が、溢れた。
「……どうして、よりによって……あの砂糖壺だったんですか……?」
彼は、肩を震わせた。
そして――
観念したように、息を吐いた。
「……あの砂糖壺」
かすれた声。
「……癒川さんが……“ただの物”として、見ていなかったからです」
「……え?」
「……あの壺を。
……あなたは……大切なものみたいに、扱っていた」
指先が、震える。
「……触る時も、置く時も……割れ物じゃなくて、“誰か”みたいに……」
言葉が、途切れる。
「……だから……」
歯を食いしばるように。
「……あれを持てば……。
……自分も……」
声が、掠れていた。
「……あの場所の“側”に、いられる気がした。
“客”じゃなくて……“選ばれた側”みたいで……」
嗚咽。
「……それだけで……救われる気がして……」
喉が、焼けるように痛んだ。
――ああ、そうか。
盗まれたのは――物じゃない。
彼は、“俺の居場所”を盗もうとしたんだ。
「……でも」
俺は、震える声で言った。
「……でも……、……それでも。盗みは、駄目です、駄目なんです」
真っ直ぐに、彼を見る。
「あなたの気持ちは、分かりました。……苦しかったんだって、ちゃんと伝わった。
でもね、ここは、喫茶店は唯一、自分っていう殻を安心して脱いでもいい場所で……盗んでいい場所じゃないんです。
何よりも、あなたが欲しかったのは……壺なんかじゃない」
自分で言っていて、気がおかしくなりそうだった。
「それを割ってまで、手に入れたかったものが……佐々木さんの答えでしょう?」
佐々木は、俯いて、何度も頷いた。
「……すみません……本当に……」
真壁が、静かに言った。
「……警察は呼ばない」
佐々木が、顔を上げる。
「だが、弁償はしてもらう。
貴方が壊した器も、“関係”もだ」
冷たい声。
「……その代わり、二度とこの店に来るな」
佐々木の目から、涙が落ちる。
「……はい」
深く、頭を下げ――
そのまま、立ち去った。
ドアベルが、鳴る。
それが――すべての、終わりだった。
※
静かで穏やかな夜が戻ってくる。
店には、俺と真壁だけ。
力が抜けて、俺はその場にしゃがみこんだ。
「……っ」
真壁が、近づいてくる。
俺の前に座ると俺の頭を大きな手で乱暴に掻き回す。
「おつかれさん」
「……ありがとう」
「無事、謎は解けたわけだ」
「そうだな……。なぁ、結局警察に突き出さなくてよかったのか?」
真壁は、しばらく、黙っていた。
「お前の店に、“世間”という名の騒音を入れたくなかった」
低い声。
「俺の大事な場所を汚したくなかった」
胸が、壊れそうになる。
俺は、彼に縋るように、寄りかかった。
「ひどい奴、最低、悪魔」
「分かってる」
短く、真壁が言う。
「それでも俺は、探偵という立場で汚れ役を引き受けるためにいる」
――ああ。
この人は。
人の闇を、自分ひとりで、抱え込んでいるんだ。
「……真壁」
「ん?」
「俺は」
彼の服を、握る。
「そんなお前がひとりで、立ってるのは、嫌だ」
一瞬――
彼の腕が、僅かに、俺の背に回った。
「本当に……お前は厄介だな」
「厄介でも、俺は……離れないから」
「……知ってる」
彼は、少し笑ってそう言った。
静かな夜。
砂糖のないコーヒーが、冷めていく。
けれど。
俺たちは、まだ、ここにいる。
同じ店で。
同じ夜で。
“共同責任”という名の、場所に。
