コーヒーが冷めるまで、謎は置いておく

 カフェを出たあと、俺はまっすぐ家へは戻らなかった。

 ――いや、戻れなかったが正しい感情だ。

 胸の奥に残った、佐々木の「失くした時間」という言葉が、靴底のガムのように張りついて、どうしても剥がれなかったからだ。

 自分の店へ向かう途中、何度もスマホを見てしまう。
 真壁からの続報は、まだ来ない。

 来てほしくないような、来てほしいような。
 矛盾した気持ちを抱えたまま、俺は遠回りをして──俺は店へ戻った。

 ※

 店の鍵を開けた瞬間、空気が違うと分かった。

 音が、ない。
 照明も落ちている。
 店は眠っているはずの時間帯なのに――目を覚まされている。

「……真壁?」
 声を落として呼んだ、そのときだった。
「おかえり」

 カウンターの陰から、低い声が返ってきた。

 真壁は、いつもの黒いシャツのまま、まるで最初からそこにいたかのように、肘をついて俺を見ていた。
「遅かったな」
「いるなら電気くらいつけろ」
「そうなると、喫茶店じゃなくて骨董品屋になるがいいか?」
「そんなことより、さっきの報告の件」
「焦るな焦るな。先に冷蔵庫に品物を入れて、俺にコーヒーを淹れたら話してやる」
 
 犬を追い払うようにしっしと手を払う姿に多少腹が立つが、せっかく買った品物がダメになるのは避けたい。俺は冷蔵庫に品物を黙々と入れていく。
 そんな俺を真壁は楽しそうに見つめている。

「なんなんだ、さっきから!」
「新しいカフェのコーヒーは美味かったか?」
「へ?」
「お前が“寄り道”をするだろうことも、その相手が誰かも、だいたい予測できたからな」

「……いつから」
「君が家を出たあたりからだ」

 淡々とした声。
 感情は、ない。

「……尾けてたのかよ」
「正確には、“監視していた”」

 言い直しが、ぞくりとくるほど正確だった。

「佐々木さんのスマホ、位置情報は開いたままにしてある」
「……お前……」

 怒るより先に、ぞっとした。

「違法かどうかなら、グレーだ。
 だが、“調査”としては最短ルートだ」

 迷いもなく言い切る声が、俺の知らない場所で進んでいた“捜査”の現実を突き刺す。

「……で」

 真壁はカウンターに、小さなジッパー袋を置いた。
 透明な袋の中に、欠けた陶器の破片が入っている。

 中には、欠けた白磁の破片。
 金の縁取りのある、あの砂糖壺の一部だった。

「……そんな」
 喉が、ひくりと鳴った。

「佐々木さんのアパートの資源ゴミから出てきた」
「……」
「俺がお前に送った砂糖壺と、同じ絵付けだ。
 破片の断面も、形状も、一致している」

 真壁の声に、感情はなかった。
 あるのは、ただの“事実”だけ。

「……どうして」

 俺の声は、ひどく、空っぽだった。

「歳月物の器は、割れやすい。
 衝動的に持ち帰って、扱いに慣れていなければ、なおさらだ」

「……違う……」

 声が震える。
 否定したいのに、言葉が形にならない。

「割ったんだ」
 容赦のない断定。

「衝動的に盗って、扱いきれずに、落として、処理した」
 ひとつひとつ、事務的に言語化される“犯行の手順”。
 まるで、レポートを読み上げているかのように。

「……やめろよ……」

 ようやく、声が出た。

「……そんな……言い方……」

「感情を挟まなければ、事実は歪まない」

 真壁は、冷然とそう言った。

「……癒川が聞いた“可哀想な話”と、俺が拾ってきた“現実”は、全くの別物だ」

 その言葉に、胸がひく、と鳴った。

「……それでも……っ」

 歯を食いしばる。

「……佐々木さんは……悪い人じゃ……」
「善人でも、盗む」
 被せるように。

「優しくても、嘘をつく」
「……!」
「寂しくても、奪う」

 言葉が、刃のように降ってくる。

「……それが、人間だ」
「……っ」
「お前は、“可哀想な人”と、“盗んだ人間”を、同一視しようとしている」
 ぴしりとした指摘。

「それは……癒川、お前の逃げだ」
「……逃げって……」
「お前は、“裁く側”になるのが怖いだけだ」

 静かに、断言された。

「……!」
「だから、“優しい話”にすがる」

 ぐらりと、視界が揺れる。

「……お前……真壁に、何が……」
 声が弱々しくなる。
 反論したいのに、言葉の端が、どんどん削れていく。
「……お前には……その気持ち……分からないだろうな……っ」

「分からない」

 即答だった。
 しかし、次に続く言葉は、さらに冷たかった。

「理解する必要がない」
「……」
「俺は、犯人の心に寄り添わない」
 真壁は、まっすぐこちらを見る。
「“証拠”にだけ、付き従う」
「……っ」

「お前が誰を好きでも、誰を信じようが、俺は構わない」
 声は静かだが、内容は突き放すように鋭い。

「だが、真実はお前の感情に合わせてくれたりはしない」

 まるで、宣告のようだった。

 

「……でも……」

 俺は、俯いた。

「……俺は……」
 声が、かすれる。
「……それでも……本人の口から……」

「聞きたい、だろうな」

 真壁は、わずかに目を細めた。
 だが、そこに温度はない。

「“真実”じゃなくて、“納得”が欲しい」

 ――ぎくり、とする。

「……」
「お前は無実であってほしいんじゃない」
 真壁は、冷静に言い切った。
「“可哀想なまま”でいてほしいだけだ」

 その言葉は、俺の奥底を、正確に撃ち抜いた。


「……勝手に……」

 唇が震えた。
「……勝手に……決めるなよ……」
 でも、否定の言葉は、か細い。

「……悠」
 真壁が、低く、乾いた声色で俺の名前を呼んだ。

「探偵役というものは、いつでも汚れ役を買って出るやつのことを言う」
「……」
「お前は、“信じたい側”に立っていればいい」
「……」

「その代わり」
 静かに、付け足された。

「この件に口出しを一切するな」
「……っ」
「泣くなら、事件の外で泣け」

 俺は、何も言えなかった。 

 割れた陶器の破片が、カウンターの上で、静かに光っている。
 それは、壊れた砂糖壺よりも俺の“逃げ”の形に見えた。

 真壁は犯罪に対して冷酷だ。
 真実を知るためなら優しくならない。

 それでも――

 その背中に、すがりたくなってしまう自分が、いちばん、情けなかった。