カウンター越しに視線を落とすと、並んだ白磁のカップがきちんと静かに並んでいる。だが、その一つひとつの背後に、誰かの顔が浮かぶ。

 窓際の席を好んだ老紳士。数日置きに現れては、分厚い新聞を広げる背中が、いつの間にか途絶えている。
 毎週末にふらりと現れる若い女性客。小説を片手にカフェオレを頼み、ページをめくるたびに髪を揺らしていた。そういえば、先週は姿を見ていない。
 そして——名前すら思い出せない、一度だけ来て、コーヒーを半分残して帰っていったあの男。

(……違う。そういう考え方は、らしくない)

 頭を振るように、磨いていたカップを棚に戻す。
 けれども心のどこかで、砂糖壺の空席が確かに存在を主張していた。
 常連は家族のように思っていた。だが、その中に“触れてはいけない違和感”が紛れ込んでいたとしたら——。

「……マスター?」
 真壁の声に、我知らず強張った肩が揺れた。
「本気にするなよ。遊びだ。骨董屋の冷やかしだって」
 彼はからりと笑う。だが、その目だけはどこか鋭さを帯びていて、俺の動揺を見抜いているように思えた。

「おかわり」
「はいはい」

 ほぼ反射のように空になったカップへコーヒーを注ぐ。
 真壁は満足げにカップを傾けながら、にやりと口の端を上げる。

「さて、ここからが本題だ。誰が砂糖壺を持ち去ったのか……俺の骨董屋的勘から言わせてもらえば、常連の誰かって線が濃いな」
 その言葉に、俺は眉を寄せる。
「やめろよ、そんな物騒なこと言うのは」
「物騒でもなんでもないさ。いいか、あの壺はただの容れ物じゃない。釉薬のかかり具合や蓋の取っ手の造りを見れば分かる。持ち主の趣味と店の格を物語る品だ。……つまり、目利きでなければ価値に気づけない」

 彼は指先でカップの縁を軽く叩き、楽しげに続ける。
「そうなると、ただの一見よりは、普段から店に通ってお前のこだわりを知っている常連の方が怪しい」
「お前、推理小説の読みすぎだ」
「違う違う。職業病みたいなもんだよ。俺の店にだって、わざわざ価値ある物を狙って来るやつがいるからな」

 真壁の調子は軽いが、妙に言葉が胸に引っかかる。
 頭の中に、いくつかの常連の顔が浮かぶ。昼休みに足を運ぶ会社員風の男性、静かに文庫本を読む女性、土曜の午後にふらりと来る老紳士……。
 いや、まさか。あの人たちがそんなことをするなんて。
 曖昧に笑ってみせながらも、心の奥に小さな棘のような不安が残った。



 その時、からん、とドアベルが鳴った。
 視線を向けると、昼下がりの光を背負ってひとりの男性客が入ってくる。背筋の伸びた、落ち着いた雰囲気のサラリーマン風の姿。

「いらっしゃいませ」
 思わず声が少し柔らかくなる。佐々木だ。三十代半ばの会社員で、黒縁眼鏡に整った髪型。派手さはないが、落ち着いた雰囲気のある人だ。
 この店を気に入ってくれて、ほぼ毎日顔を見せてくれる常連のひとり。きっちりと整えられたスーツ姿なのに、どこか人懐こさを残し笑みを浮かべている。

 佐々木は店の奥にある二人掛けのテーブルへと歩き、椅子を静かに引いて腰を下ろした。
 カウンターの真壁とは少し距離がある位置で、互いの様子が視界の端に入る程度。カウンターの中に立つ俺からは、二人を同時に見渡せる格好になる。

 グラスに冷たい水を注ぎ、テーブルまで歩いて佐々木の前に置く。水面に小さな気泡が揺れ、光を映してきらりと瞬いた。彼は軽く会釈し、グラスに口をつける。

「マスター、本日のおすすめをお願いします」
「かしこまりました」
 
 カウンターに戻ると、豆を軽量し、ミルにかける。軽やかな振動が掌を震わせ、引き立ての粉から柔らかな香りが立ち上がった。

(そういえば……)
 手元を動かしながら、ふと昔のことが思い出される。


 ※


 数週間前のある午後。佐々木は今日と同じ席に座り、少し疲れた顔をしていた。書類の束を横に置いた。
「今日はちょっと、忙しくて……」
 肩を落とし、深く息を吐く。
「大変ですね」

 お湯を少しずつ注ぐ。粉がふわりと膨らみ、柔らかな香りが立ち上った。
 佐々木は、その香りを確かめるように深く息を吸い込む。
「……落ち着きますね」
 たった一言だが、日々の慌ただしさに押されていた彼の心が、少しほぐれたのがわかる。その瞬間こそが、この店の空気や、そこにいる人たちとの関わりを守りたい——そう感じさせる、この仕事の醍醐味だった。

「この店に来ると、やっぱりほっとします」

 彼の言葉に、俺は静かに微笑む。コーヒーを淹れることだけじゃない。
 この店の空気や、そこにいる人たちとの関わりを守りたい——そう感じさせる瞬間だった。


 ※


 ——現実に戻る。

 佐々木は今、窓の外を見やり、静かに肩を落ち着けている。あの時と変わらない、柔らかな仕草。俺の胸の中にも、同じ安らぎが広がる。

 カウンターでは真壁がカップを指先で揺らし、気まぐれにこちらを見ていた。その視線の先に佐々木の背中があった。
 二人の間には物理的な距離があるのに、不思議と張り詰めた糸のようなものを感じでしまう。

 目の前で真壁が身を乗り出し、俺の耳元でボソリと呟いた。
「ほらな、いかにも容疑者らしい登場だろ」
「やめろっての」
 口では否定しながらも、心のどこかで「もしや」という言葉が小さな影のようにチラついた。

 そんな佐々木に、真壁が横から声を掛けた。
「ところで佐々木さん。マスターの自慢の砂糖壺をご存じですか?」
 わざとらしく探偵まがいの調子で言うものだから、俺は思わず眉をひそめた。
「おい、からかうな」
「からかってなどいないさ」
 真壁は涼しい顔をして、顎を軽く撫でる。
「価値ある品が忽然と消えた。これは立派な事件だろう?」

 佐々木は一瞬きょとんとした後、苦笑いを浮かべた。
「ああ……あの丸い取っ手のついた、可愛らしい砂糖壺ですか。確かに、ここに座るたび目に入っていました」
「ええ。その通り」
 真壁は妙に丁寧な声音に切り替える。
「ちなみにですが、あの品を欲しいと感じたことは?」
「まさか」
 彼は軽く肩をすくめる。
「私はそんな度胸もありませんよ」

 穏やかなやり取り。だが、俺にはどこか張り詰めたように感じられた。
 用意していたカップの縁を思わず撫でてしまう。指先に残った感触が、胸の奥のさざ波を強調するようで、知らず息を浅くした。

 真壁はしばし黙り込むと、ゆったりとカップを揺らしながら佐々木を見やった。
「マスターの砂糖壺は、ちょっとした代物でしてね」
 低い声が、どこか芝居がかった調子で響く。

「白磁の肌に淡い金彩。取っ手の部分の丸みは、十八世紀のヨーロッパ製に倣った意匠でしょう。しかも、安物にありがちな歪みがなく、釉薬の艶も上質だ。骨董市に出れば、愛好家の目を惹くのは間違いない」

 真壁はしばし黙り込むと、ゆったりとカップを揺らしながら佐々木を見やった。

「ははぁ、なるほど……。そんなに価値のあるものだったとは知りませんでした。ただ――“私にはもう必要のないものですし”、飾る場所もなければ、盗み出す度胸もありませんよ」
 真壁は、飲んでいたコーヒーをカップに戻すように、静かに傾けた。その動作は、一瞬の「違和感」を見逃さなかった、という冷徹なサインだった。

 気持ちを振り払うように、淹れたてのコーヒーを佐々木の前へと運ぶ。
「お待たせしました。今日の豆はエチオピアです。ほんのり甘い口当たりですよ」
「ありがとうございます」

 彼はテーブルに置かれたカップに目を落とし、香りを確かめるように深く息を吸い込む。肩の力がすっと抜け、口元に安堵の笑みが広がった。

 その様子を見て、こちらまで心がほどける。やはり、この一杯が誰かの疲れを和らげる瞬間が、何よりも好きだった。

 真壁は軽く肩をすくめ、探偵気取りの口調で言う。
「潔白を主張されると、探偵役としては面白くないが……まあ良いでしょう。ただ、人は簡単に嘘をつく。特に、何かを『欲しがっていない』と言うときほど、真実から遠いものだ」
「だから、人を巻き込むなっての!」
 口を尖らせる俺の前で、真壁はどこか満足げにコーヒーを啜った。

 佐々木もカップを持ち上げ、ひと口含む。
「……やっぱり美味しいですね。今日のは特に、柔らかくて甘い香りがします」
「お気に召したなら良かったです」
 自然と頬が緩む。やはり、この瞬間のために豆を選び、丁寧に淹れるのだと思う。

 その穏やかな空気を、真壁が指先でカップを軽く叩いて破った。
「さて。そろそろ話を戻そうじゃないか」
「……戻すなよ」
「いやいや。事件は現場にあるものだぞ、ワトソン君」
 わざと探偵めいた調子で言いながら、真壁は佐々木と俺を交互に見やる。

「この店の象徴とも言える砂糖壺が忽然と消えた。容疑者は限られる。ここに足繁く通う常連か、あるいは——」
 真壁の視線が彼の前で静かに止まる。
 冗談半分の仕草なのに、妙な緊張感を帯びていた。

 少し驚いたように目を瞬かせ、やがてふっと笑みを浮かべた。
「私ですか。……いやいや、マスターの大事な物をそんなこと、するわけがないでしょう」
「ですが、欲しいと思ったことは?」
「欲しいと思ったなら、正直にそう言いますよ」

 再びカップを持ち上げ、佐々木はゆっくりと口をつけた。
 落ち着いた仕草。けれど、どこか目を伏せたままの笑みが気にかかる。

 その横顔を眺めながら、胸の奥に小さな棘のような感覚が残った。
 ――本当に、欲しいと思わなかったのだろうか。

 砂糖壺は、ただの器ではない。
 古い洋館の倉で見つけたときから、ひと目で気に入り、心の奥に灯りがともるような存在だった。
 だからこそ、常連である彼も、目を留めていたことは確かだ。

「……気のせいかもしれないな」
 小さく息をつき、胸のざわめきを押し込める。
 けれど、真壁の視線は俺と違って容赦がなかった。
「佐々木さん。物には持ち主の気配が宿るものです。眺めているうちに、それが欲しくなる……そういうこともあるでしょう?」
 落ち着いた声音で告げるその言葉は、冗談のようでいて探るようでもある。

 佐々木は笑いながらも、ほんの一瞬だけ言葉を探すように沈黙した。
「……なるほど、確かに素敵な器でしたね」
 そう答える彼の声には、どこか含みがあった。
 真壁は、空になったカップを指先で軽く回しながら、わざとらしく肩をすくめた。
「まあ、こうして話していても仕方ないか。けれど――“容疑者” がここに揃っているというのも、面白い状況だな」

「……揃ってるって、何の話だよ」
 俺が思わず眉をひそめると、彼はわざとらしく指を折って数え上げた。
「まずは、この店を日頃から知る者。つまり俺。そして佐々木さん。……もちろん、マスター自身」

「おい、俺を犯人候補にするな」
「いやいや、意外と自分の手元の物をなくすのが一番多いのだよ」
 悪戯っぽく笑うその声音に、佐々木も小さく笑みを零した。
 しかし——俺には、その笑みがどこかぎこちなく見えた。

 真壁は視線を榎本へと向け、さらりと続ける。
「佐々木さん。あなたは砂糖壺をご覧になっていた。そのことは否定されませんでしたね」
「ええ。……目に入る位置でしたから」
「ならば、こう考えるのは自然では? 美しいものを目にして、心が揺れる。人間であれば、当然のことです」

 佐々木は、わずかに目を伏せた。

 真壁はあえてそこで言葉を切り、探るように沈黙を置く。
 店の奥に満ちるコーヒーの香りが、妙に濃く感じられた。