大学生になって初めて挑戦するアルバイトは、小さい頃から大好きだったアイスクリームショップの店員。
 思い返すだけで、胸がわくわくして跳ねる――だって、ずっと憧れていた場所だから。

 店内は海外風のポップな内装で、壁にはパステルカラーのポスターや、にぎやかな装飾があちこちに飾られている。
 アイスケースには、見た目も鮮やかな何十種類ものアイスがずらりと並んでいて、つい目が泳いでしまうほどだ。

 子どもの頃から、家族とでも友達とでも、アイスといったらこの店に来るのが恒例だった。
 まさか、その店で自分が働く日が来るなんて。ちょっと夢みたいだ。今日は出勤初日。緊張と期待で、朝から胸がドキドキ鳴っている。

小瀧南緒(こたきなお)です、よろしくお願いします!」
「店長の佐藤です。こちらこそ、今日からよろしくね!」

 店長・佐藤さんの名札には、金の星が三つ光っている。
 明るく、ハキハキしていて、堂々とした佇まい。しっかり仕事を教えてくれそうな雰囲気に、俺は背筋がピンと伸びる思いだった。

 副店長やバイザーにも挨拶を済ませ、店長に案内されて従業員専用の休憩スペースへ。
 向かい合って座り、オリエンテーション用のファイルを開きながら、大まかな説明を受ける。アイスの種類や操作の仕方、接客の基本――文字にすると簡単だけど、頭の中で整理するだけでもう精一杯。

「すみません、メモが追い付かないです……!」
「大丈夫だよ、少しずつ覚えて行けば」

 店長が微笑んで答えたその時、休憩室のドアが開いた。
 一人の男性が、勤怠記録用の機械にスマホのQRコードをかざして入って来る。店長はその姿を見てにこりと笑う。

「ああ、ちょうどいいところに。佐伯くん、こっち来てくれる?」
「はい」

 声をかけられたのは、「佐伯」という男性。出勤したばかりらしく、黒い上着を羽織ったまま足を止める。

「小瀧くん、アルバイトリーダーの佐伯澄人(さえきすみと)くんだよ」

 第一印象は――もう、完璧だった。
 整った顔立ち、スラリと伸びた長身。
 プラチナのブロンド髪は軽くセットされ、蜂蜜みたいな色瞳が、涼しげにじっとこちらを見ている。誰がどう見てもイケメン。
 大学の友達から「あの店舗、顔採用あると思う。働いてる人みんな、美男美女だし」と聞いたことがあるけど、なるほど、納得の美しさだ。

「佐伯くん、こちらが新しく入った小瀧南緒くんです。いつも通り、指導係として教えてあげてね」

 店長の紹介に、俺は軽く会釈する。

「えっと、小瀧です。よろしくお願いします」

 腕を組んで俺を見下ろす佐伯。

「あー、マジすか。教えるのめんどくさ……俺、やりたくないんですけど」

 ……え、いま何て言った? やりたくないって、どういうこと?

 さっきまでのクールな雰囲気はどこへやら、あくびをこらえつつあからさまに面倒そうに頭をかく姿に、思わず固まる。
 信じられない。店長の前でその態度ってアリなのか?

「でも、佐伯くんそう言いつつも、今までの子たちにも教えてくれたじゃない。
 それに、小瀧くんは同い年だから。話も合うと思うよ?」

 店長は苦笑しながら、何とか場を収めようとしてくれる。

 同い年でバイトリーダー……高校生の頃から働いてたってこと?
 眉間に皺を寄せて呆然としていると、佐伯はポケットに手を突っ込んだまま質問してきた。

「へぇ……同い年ってことは大学二年? アンタ、どこ大?」

「明成大ですけど……」

「はっ、Fランじゃん」

 上から踏みつけられるような言い方に、勝手に口が半開きになってしまう。
 店長は軽く苦笑いして「大丈夫、仕事は超できる子だから!」とだけ言い残し、席を離れた。
 月末に向けてシフトを組まなきゃいけないらしい。裏方作業も大変そうだな、とその姿を見送りながら思った。

 目の前の佐伯は、俺を一瞥しただけで、表情は変わらない。
 第一印象の“かっこいい”は、頭から吹き飛んでいた。
 冷たい、無関心、面倒くさそう。
 こいつが指導係だなんて……本気で嫌だ。

「で、名前なんだっけ?」
「えっと……小瀧です。よろしくお願いします」
「あー、もうマジでやだ。無理そ。とりあえず同じことは二回言わないから、メモ取って」

 なんで二回も名前聞くくせに、お前はそんな事言うの!?
 佐伯の完全にやる気ゼロの声に、逆に火がついた。

 *

 まずはアイスの種類を覚えるように言われたけれど、種類が多いし、似た名前もあって、頭の中はもう完全にごちゃごちゃ。
 ケースの端から端まで目を泳がせながら、メモ帳に呪文のように長い商品名の略語を書き込む。

 チョコレート味のコーナーに差し掛かると、さらに混乱は増した。
 同じような色合いのパッケージがずらりと並び、違いはパッと見ただけじゃ全然わからない。

「えっと……これがチョコチップで、これがダブルチョコ……?」

「ちがうし。逆だし」

「あ、ありがと。じゃあこっちがダブルで――」

 俺がアイスを指差して振り返ると、佐伯はカップを補充しながら、鼻で笑うように言った。

「小瀧って脳みそ何グラム?」

「……今なんて?」

「いや、軽そうだなって。小学生でも見分けつくけど、覚えられないの?」

 目の前で腕を組み、無表情で俺を見下ろす佐伯。冷房の効いた店内の空気も、なぜか刺さるように冷たい。
 思わず言い返したくなるけど、実際に覚えるのは苦手だから、黙り込むしかない。

「じゃあ、次はスクープね。アイスを掬う動作を“スクープ”って言うんだけど……」

 佐伯のブリザードみたいな冷たさを感じる態度に反して、俺は内心ワクワクしていた。
 いつも客として買いに来たとき、店員が大きなアイスタブにディッシャーを滑らせてアイスを丸める瞬間――あれが大好きだった。今日、自分がそれをやる番なのだ。出来るかな、ドキドキする。

「掬き方は二種類あって、最初はラウンド。自分の臍に向かって動かすイメージで……」

 佐伯のお手本をじっと観察し、見よう見まねで挑戦する。
 ぐぐぐ……と体重をかけて掬うけど、意外と力が必要で、カップに載せたアイスはまだ少し不格好だった。

「……次はS字スクープね。動きが細かいけど、まぁやってみて」

 めちゃくちゃざっくりな教え方だけど、佐伯は一度だけ滑らかなS字スクープを見せてくれた。
 その曲線を描くような動きがあまりに手早くて、経験の豊富さを物語っている。
 コイツがバイトリーダーに選ばれた理由に、俺はようやく納得がいった。

「掬き方って、なんで二つあるの?」
「ここのアイスって、クッキーとかマシュマロが入ってたりするじゃん。それを均等に見栄えよく盛り付ける必要があるから」

 淡々としているけれど、その説明は非常に簡潔で、バカな俺でも理解できた。

「うーん、S字めっちゃ難しい。カーブさせられないっていうか……」

 何度目かの失敗の瞬間、横で見ていた佐伯が、そっと俺の右手に手を添えた。

「手、添えるから。力抜いて」

 手の甲から手首にかけて、重なった佐伯の体温が伝わる。
 少しひんやりした店内なのに、その手はあたたかく、しっかりしている。指先の節ごとに筋が浮かび、骨格がはっきり見える。俺よりも太く、男らしい腕だ。

「……こう?」
「そう。無理に丸くしようとしないで」

 耳元で喋る声が近くて、息がかかるほどではないのに、自然と意識してしまう距離。
 無表情なのに、丁寧に支えてくれているのがわかる。

「……小瀧の手首、すげー細いね」
「えっ?」

 不意に初めて名前を呼ばれて、心臓が一段跳ねる。

「俺が本気出したら折れちゃいそう」

「お、おい! 折るなよ」

「折るわけないじゃん……。こういう風にアイスが減ってきたら、奥の冷凍庫にある在庫を補充するから。ついてきて」

 店奥の冷凍庫にある、バケツのようなアイスタブ。
 佐伯はホワイトボードで在庫数を確認し、“CC(チョコチップ)”と書かれた略語の横に赤で日付を記入する。

「持てる?」

 腕を伸ばしてタブを持ち上げると、想像以上に重い。多分十キロ以上はありそうだ。
 冷凍庫の扉を体で押さえようとすると、佐伯が俺の抱えるタブに手を伸ばす。

「やっぱ貸して、小瀧」

「いや、大丈夫だって」

「見てて怖い。落としたら足の指、全部骨折しそう」

 脅しみたいな言葉に、想像して思わず「ひぃ」と声を漏らしそうになる。
 確かに落とせば怪我はしそうだけど、他のアルバイトの子達が頑張って運んでいるのをさっき見かけたから、俺もやらないわけにはいかない。

「シフト被ってる日は、俺がやるから。これはお前やんなくていいよ」

 ……優しい? 一瞬そう思う。
 でも、今までの言動を思い返すと、多分本当に俺が落とすと思っているだけだろう。
 それでも、「クソ不器用」とか「職場体験の中学生のがマシ」とか言いつつ、ちゃんと隣にいて、佐伯は仕事を教えてくれた。

 *

「じゃあ、次はクレープね。こっち来て」

 促されるまま、鉄板の前に立つ。温かい鉄板からジュウッと小さな音が立ち、熱気がほんのり顔に当たる。鼻の奥に甘く香ばしい匂いが広がって、少しドキドキする。

 佐伯はクレープの素がたっぷり入った銀色の入れ物を指差し、大きなお玉でそれをすくい、滑らかな動きで鉄板に流してみせた。

「生地流して、広げて……鉄板回すのはこうやって」

 手際よく、生地を丸く広げていく佐伯。あっという間にまな板の上で丸く整い、パパッと店のロゴ入り包装紙で巻かれたクレープが、俺の目の前に突き出された。

「食って」
「え?」
「いいから、一口食ってみて」

 突然の言葉に狼狽えながら手を伸ばす。
 でも佐伯が根本をしっかり握ってくれているので、そのまま口に運ぶことができた。

「あむ……んっ……! 美味ひい」

 見た目はふわふわなのに、口の中ではモチモチ。
 クレープって、焼く人によって厚みが出すぎたり、食感がもったりしたりするけれど、これは明らかに上手い。
 美味しさにちょっと感動しつつ、つい生クリームも欲しくなるほどだった。

 もぐもぐと食べる俺を、佐伯はじっと見つめている。

 ……は、早く食えってこと……?
 
 慌てて飲み込み、若干詰まりを感じていると、すぐに鉄板の前に来るよう促された。

「最終的には、今食べたクオリティになるように練習して。あとは実践あるのみ。焼いて」

「わ、わかった……!」

 お玉で生地を掬い、鉄板の上に流す。
 同じようにやっているはずなのに、生地はまるで日本地図のように縦長に広がっていく。
 どうやって丸くするんだ……と悩みつつ、とりあえずそれっぽく形を整えてみる。

「……うわ、まじかそれ」

「何が?」

「いや…下手くそすぎる」

 佐伯の言葉は容赦なさすぎて、笑いそうになる。しかし彼は一切笑わず、真剣そのもの。
 家でクレープを焼いたことなんてないし、料理スキルもゼロ。初日で完璧にできるわけがない。

「いきなり出来るわけないじゃん……」

「俺は初日で出来たけどね」

 余裕たっぷりに自慢まで挟む余裕、性格どうなってんだ……。
 思わず鉄板に佐伯の手を押し付けてジュージュー言わせたくなるほど苛立つ。

 二回、三回と挑戦を繰り返す。
 目の前にはクレープなのかパンケーキなのか分からない、謎に厚みのある生地が積み上がった。

「……こ、こんな感じでどうでしょう?」

「百円で売ってても、誰も買わないと思う」

 腕組みしたまま、バッサリと切り捨てるように言われ、鉄板の熱さと冷や汗で額や背中がじわりと濡れる。

「もっと高い所から生地落として」

「でも、ビチャってなりそうで怖くて」

「分かるけど、いいからやれって言ってんの」

 その圧に押され、俺は言われた通り高い位置から生地を落とす。
 すると今までより綺麗な丸い形ができ、薄く均一に延ばすことができた。

「絶望的だったけど、最初よりはマシ」

「……あ、ありがとう」

 ようやくお許しが出て、次はレジ金チェック。
 レジのお金を全部機械に入れて、表示された金額と同じになるように手作業で数える作業だ。

「早くしてくんない? レジ金合わないと帰れないからね」

「ご、ごめん……!」

 大量のお札と小銭を数えるけれど、なかなか合わない。どこで間違えているのか分からず、焦るばかり。
 二回目も合わず、退勤時間を大幅に過ぎてしまい、申し訳なさが募る。

「……あの……やっぱり合わないから、手伝ってもらっていい?」

 ムカつくけど、低姿勢で丁寧に頼む。
 しかし佐伯はパイプ椅子で足を組んだまま、スマホから視線だけをこちらに向けて言う。

「無理。……簡単なのに、なんでできないの?」

 ……ですよね。

 もう一度やり直し、メモを取りながら挑戦しようとしたその時、手元が一瞬暗くなる。
 振り返ると佐伯がすぐそばに立っていた。

「手伝いはしないけど、やり方は教える。一回だけ」

 トントン、とお札を揃えながら言うと、佐伯は俺に札勘のルールを教えてくれる。

「まず、枚数は必ず十枚ずつにまとめる。手前から奥に向かって滑らせるように数える。間違えたら最初からやり直し」

 指先を震わせながら、佐伯の動きを真似する。
 ぎこちなくも十枚ずつ揃え、滑らせるように数える。

「あと、金種ごとに分けるのは基本。混ざったまま数えると、後で絶対に間違える」

 佐伯は淡々と説明するが、その長く美しい指先の正確さとリズムに、俺は思わず見とれてしまう。

「はい、じゃあ後は……」

「もう一回やってみる!」

 教わった通りに数え直す。佐伯は黙って隣に立ち、手の動きをさりげなく確認。
 数え終わると、合っていた分を机の端に仕分けてくれる。
 その無言の仕草に、俺は心の中で「たまに優しいところもあるんだ」と思った。

「……合ってる! 合ってるよね?」

「あー、やっと終わった。ほら、さっさと着替えろよ。警備の時間になるから」

 佐伯はまた、パイプ椅子に腰かけたままスマホをいじっている。
 冷たい店内の空気と俺の上着を着る時の布擦れの音だけが、静かな時間を作っていた。

「ごめん、お待たせ……準備できた!」

 歩きながらダウンのジッパーを上げようとするけれど、金具が噛んで中々上がらない。
 ジッパーの固い手応えに、つい舌打ちしそうになる自分を抑えて、もう後でいいや、と決めた。
 そのまま佐伯の元へ向かうと、彼はスマホと鍵をポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がった。

「……貸して」

 俺のダウンの金具に手を伸ばす佐伯。ぐっと力を入れるその動作に、金具はガッチリ噛んで動かない。
 目の前の佐伯を見上げ、少し間の抜けた声で言った。

「いいよ、あとで直すから」

 早く帰りたいだろうに、と申し訳なさが込み上げる。
 無言のまま佐伯は何度か金具を上げ下げする。長い前髪に隠れて視線は見えないけれど、その先は間違いなく手元に注がれている。
 額が触れそうになる距離感に、思わず視線を逸らして俯いた。

「……見えないんだけど」

「ご、ごめん……」

 不意に、佐伯と目が合う。
 苦手な相手でも、イケメンに直視されると思わず狼狽えてしまい、顔を背けた。

 噛んだ部分がカチリと外れ、スッと合わせてくれる。
 
「はい、出来た」

「あ……ありがとう……」

 予想外の親切に、素直にお礼を伝すと、佐伯はすたすたと出口の方へ歩き出す。
 俺もその後を追いかけながら、慣れた手つきで外の鍵をかけるその背中を見て、思わず声をかけた。

「あの、今日はいろいろ教えてくれてありがとう」

 俺のことが嫌だったはずなのに、結局いろいろ教えてくれた。
 本当は態度が悪いだけで、嫌なヤツじゃないのかもしれない。
 そんな淡い期待を込めて伝えたその瞬間、佐伯は俺を見下ろし、軽く口角を上げながら言った。

「じゃあね、二歳児」

「……え?」

「自分で服着られないし、アイスもクレープも、幼児のお粘土みたいだから」

「はぁぁああ!?」

 俺の絶叫もお構いなしに、佐伯はすました顔で踵を返し、反対方向へ歩いていく。

 今日一日、怒られてばかりで、慣れないバイトに必死でついていくのが精一杯だったのに。
 最後の最後で、優しくファスナーを直してくれたから素直にお礼を言ったのに!

 なのに、別れ際の言葉が「お疲れ様」ではなく、「二歳児」って何だよ。
 むかつくし失礼だし、アイスが粘土って……確かにまだお客さんに出せるクオリティじゃないけどさ。

 ……それでも、反対方向へ歩く佐伯の背中を、つい目で追ってしまう自分が、一番意味わからない。

 体はぐったりしているのに、心だけ妙にざわざわしている。
 厳しくて意地悪で、初対面なのに距離の取り方も分からない相手なのに、どうして気になってしまうんだろう。
 もう、訳がわからない。

 ……明日も、佐伯とシフト一緒なのかな。

 振り回されるのはもう懲りごりなのに、佐伯のことを気にしてしまう自分がいる。
 きっとこれは、苦手だから脳が敵として認識していて、余計に気になってしまうのだろう。
 だけど頭の中には、あの時ファスナーを上げてくれた佐伯の無駄に整った顔がちらつく。

 “はい、出来た”

 あの瞬間、もしかしてちょっと笑ってた気がする。いや、マジでバカにされてただけかもしれない。
 もしかして幻覚?

 シフト表を見ながら、俺は自分の名前の一つ上にある佐伯の名前を指でなぞる。

 ――ああ、もう! 初日からこんなことでドキドキするなんて、聞いてないってば……。