昔から大好きだったアイスクリームショップで、店員として働くことになった。
採用の連絡をもらったあの日から、胸の奥がずっとそわそわして落ち着かない。湧き上がる嬉しさが、心臓を小さなリズムで跳ねさせている。――だってそこは、俺にとって単なる店以上の、特別な場所だったからだ。
物心ついた頃から、数え切れないほど足を運んだ馴染みの店。
重いガラスの扉を開けるたびに響く、軽やかなベルの音と、甘くて冷たい空気。海外の街角をそのまま切り取ってきたようなポップな内装に、パステルカラーのポスター。壁いっぱいに広がる賑やかな装飾は、いつだって俺を非日常へと連れ出してくれた。
ショーケースの中には、絵に描いたようにカラフルなアイスクリームがずらりと並んでいる。どれもが宝石みたいに魅力的で、選ぶときはいつも本気で頭を抱えた。
『今日は何味にしよう』と迷う時間さえ、子どもの頃の俺にとっては最高のご褒美だったんだ。
家族と手を繋いで来た日も、部活帰りに友達とはしゃいだ日も、アイスといえば決まってこの店だった。
そんな“思い出の場所”に、今度は自分が働く側として立つ。考えれば考えるほど現実味がなくて、どこかふわふわとした夢を見ているような気分になる。
そして今日、ついに初出勤の日を迎えた。
おろしたての制服に袖を通した瞬間から、期待と緊張がせめぎ合い、胸の鼓動は一段と速さを増していく。
眺めるだけだった、あのカウンターの向こう側。そこに立つ自分をイメージして、俺は一度深く息を吐き出し、馴染み深いドアノブに手を伸ばした。
「これから、お世話になります。
小瀧南緒です、よろしくお願いします!」
「店長の佐藤です。こちらこそ、今日からよろしくね!」
差し出された店長の名札には、誇らしげに三つの金星が輝いている。
ハキハキとした明るい声と、一切の迷いがない堂々とした佇まい。この人ならきっと、仕事を基礎から叩き込んでくれる。そう直感させる頼もしさに、俺の背筋は自然とピンと伸びた。
副店長やスーパーバイザーへの挨拶を駆け足で済ませ、バックヤードのさらに奥にある事務所へと案内される。
店長と向かい合って座り、手渡されたオリエンテーション用のファイルを開く。お店の経営理念、接客の極意、そして膨大なアイスクリームのフレーバー名と知識――。言葉で聞けばシンプルなのだけれど、いざ頭に詰め込もうとすると、整理が追いつかずに脳内がパンクしそうになる。
「すみません、メモが全然追いつかなくて……!」
「あはは、大丈夫。最初から全部完璧になんて無理だから、少しずつ覚えていこう」
店長が柔らかく微笑んだ、その時だった。
休憩室のドアが静かに開き、一人の男が滑り込んできた。勤怠記録用の機械に手慣れた様子でスマホをかざし、打刻の電子音が小さく響く。店長がその姿に気づき、パッと顔を輝かせた。
「ああ、ちょうど良かった。佐伯くん、ちょっとこっち来てくれる?」
「はい」
短く、落ち着いたトーンの返事。
出勤したばかりのようで、黒い上着を羽織ったまま足を止める。
「小瀧くん、彼がアルバイトリーダーの佐伯澄人くんだよ」
――第一印象は、もう、完膚なきまでに「完璧」だった。
彫刻のように整った顔立ちに、すらりと無駄なく伸びた長身。プラチナブロンドの髪は遊び心があるのに上品にセットされ、蜂蜜を溶かしたような色の瞳が、涼しげな光を宿してじっとこちらを射抜いている。
大学の友だちが「あのアイス屋、絶対顔採用だよな。働いてるやつ、美男美女しかいないもん」なんて噂していたのを思い出す。当時は聞き流していたけれど、目の前の彼を見た瞬間、全力で納得してしまった。
「佐伯くん、こちらが新しく入った小瀧南緒くんです。いつも通り、指導係として教えてあげてね」
店長の紹介を受け、俺は姿勢を正して軽く会釈した。
「えっと、初めまして。……小瀧です。今日から宜しくお願いします」
だけど、返ってきたのは歓迎の言葉ではなかった。佐伯は不遜に腕を組み、高い身長から俺を見下ろして、吐き捨てるように言った。
「あー、マジすか……教えるのめんどくさ……。俺、やりたくないんですけど」
……え、今なんて言った? やりたくないって、初対面の相手に、しかも店長の前で言うことか?
さっきまでのクールで神聖な雰囲気はどこへやら。欠伸を噛み殺しながら、あからさまに億劫そうに頭を掻くその姿に、俺は呆気に取られて固まってしまった。
「でも、佐伯くん。そう言いつつ、今までの子たちの面倒も見てくれたじゃない。それに、小瀧くんとは同い年だから。話も合うと思うよ?」
店長は苦笑いしながら、なんとか場を収めようとしてくれる。
同い年でバイトリーダーということは、高校生の頃からここで働いているんだろうか。眉間に皺を寄せたまま呆然としている俺に、佐伯はポケットに手を突っ込んだまま問いかけてきた。
「へぇ……同い年ってことは大学二年? アンタ、どこ大?」
「明成大ですけど……」
「はっ、Fランじゃん」
鼻で笑うような、上から踏みつけられる言い方。あまりの無礼さに、怒りを通り越して口が半開きになってしまう。
それでも店長は「大丈夫、仕事は超できる子だから!」とだけ言い残し、月末のシフト作成のために席を離れてしまった。
……店長、この状況で放置は勘弁して欲しい。だって、どう考えても、気まず過ぎる。
残された俺を一瞥する佐伯の瞳には、何の感情も宿っていない。
さっきまで頭の片隅にあった「かっこいい」なんて言葉は、一瞬で彼方へ吹き飛んでいた。
冷淡、無関心、そして不遜。こいつが指導係だなんて、冗談じゃない。
「で、名前なんだっけ?」
「……小瀧です。よろしくお願いします」
「あー、もうマジで嫌。無理そー……。とりあえず、同じことは二回言わないから。ちゃんとメモ取って」
――自分は二回も名前を聞き返してくるくせに、何が「二回言わない」だよ。
佐伯の完全にやる気ゼロな声を聞いているうちに、困惑はいつしか別の感情に変わっていた。
やってやる。絶対に、こいつに文句を言わせないくらい完璧に動いてやる。
俺の心には逆に、静かな、けれど熱い火がついていた。
*
まずはアイスの種類を覚えるように命じられたけれど、これが想像を絶する難関だった。
種類が膨大な上に、似通った名前が多すぎて頭の中はすでに飽和状態だ。ケースの端から端まで視線を泳がせ、メモ帳には呪文のような商品略号を必死に書き連ねていく。
特にチョコレートコーナーは地獄だった。似たような褐色のパッケージが並び、一見しただけでは区別がつかない。
「えっと……これがチョコチップで、こっちがダブルチョコ……?」
「ちがうし。逆」
「あ、ごめん。じゃあこっちがダブルで――」
俺がアイスを指差して振り返ると、カップを補充していた佐伯が、鼻で笑うように吐き捨てた。
「小瀧ってさ、脳みそ何グラムあんの?」
「……今、なんて?」
「いや、軽そうだなって思って。小学生でも見分けつくけど」
無表情のまま見下ろしてくる佐伯。冷房の効いた店内の空気が、より一層肌に刺さるように冷たく感じた。
言い返したい言葉が喉まで出かかったけれど、実際に覚えられていないのは事実だ。俺はぐっと唇を噛んで黙り込むしかなかった。
「次はスクープ。アイスを丸く掬う動作のことなんだけど……」
佐伯の態度はブリザード並みに寒気がするけど、俺の心は別のところで浮き立っていた。客として通っていた頃、店員が大きなアイスタブにディッシャーを滑らせ、魔法のように綺麗な球体を作り出すあの瞬間が大好きだった。
今日、ついに俺も「あの器具」を握る。期待で胸がどきりと跳ねた。
「掬い方は二種類。最初は『ラウンド』。自分の臍に向かってディッシャーを引き寄せるイメージで……」
佐伯の手元を盗むように観察し、見よう見まねで挑戦する。ぐぐっ、と体重を乗せてみても、アイスの密度は予想以上に高く、力が必要だった。不格好な塊がカップの上に転がる。
「……次は『S字スクープ』。動きが細かいけど、まぁやってみて」
教え方は投げやりだけど、佐伯が見せた動きは完璧だった。滑らかなS字の軌跡を描いて掬い上げるその手つきは、淀みがない。コイツが若くしてバイトリーダーに君臨している理由を、ようやく突きつけられた気がした。
「なんで掬い方が二つあるの?」
「具材の問題。クッキーとかマシュマロが入ってるフレーバーは、それらを均等に見栄えよく盛り付ける必要があるから」
淡々とした説明だけれど、驚くほど簡潔で腑に落ちる。
「……うわ、S字めっちゃむずい。カーブが全然決まらないっていうか……」
何度目かの失敗で顔をしかめた瞬間。横にいた佐伯が、背後からそっと俺の右手に手を添えた。
「手、貸して」
手の甲から手首にかけて、重なった佐伯の体温がダイレクトに伝わってくる。ひんやりとした店内に似合わず、その手は驚くほど熱い。
骨格がしっかりしていて、指の節々まで男らしく、手首なんて俺よりも断然太い。
「……こう?」
「そう。無理に丸めようとしないで」
耳元で囁く声が近い。吐息が触れるほどではないのに、その距離感に心臓が落ち着かなくなる。態度は相変わらずなのに、支える手つきだけは丁寧だった。
「腰、引けてる。もっとガラスケースに体押し付けながらじゃないと、力入んないよ?」
呆れた口調のすぐ後、今度は俺の腰と背中の中間に佐伯の手がそっと添えられた。グイと力を込めて押し出され、俺は若干バランスを崩しながら、冷たいショーケースへと密着させられる。
必然的に、背後から佐伯の体に包み込まれるような形になる。こんな状況なのに、佐伯は顔色一つ変えず、ただ実務的に俺のスクープを見つめて言った。
「小瀧の手首、すげー細いね」
「えっ?」
不意に初めて名前を呼ばれ、鼓動が一段跳ねた。
「俺が本気出したら、簡単に折れそう」
「お、おい! 折るなよ!」
「折るわけないじゃん。……こういう風にアイスが減ってきたら、奥から在庫を補充する作業があるから。こっち来て」
案内されたのは店奥の巨大な冷凍庫。バケツのようなアイスタブが積み上がっている。佐伯はホワイトボードで在庫数を確認し、『CC』と書かれた略語の横に手際よく日付を記入していく。
「持てる?」
腕を伸ばしてタブを抱えると、予想外の重みに体が沈んだ。十キロ以上はある。バランスを崩しながら冷凍庫の重い扉を体で押さえようとすると、佐伯が横から手を伸ばしてきた。
「やっぱ貸して、小瀧」
「いや、大丈夫だって」
「見てて怖い。落として足の指、全部骨折しそうだし」
物騒な言い方に「ひぃ」と短い悲鳴が漏れそうになる。佐伯はそれを軽々と担いで言った。
「シフト被ってる日は、俺がやるから」
……言い方はキツいけど、なんだかんだ……優しかったりする?
一瞬そう思ったけれど、おそらく俺の不器用さが心底信用できないだけだと思い直す。それでも、佐伯は「職場体験の中学生の方がマシ」と毒を吐きながらも、決して俺の隣を離れずに仕事を叩き込んでくれた。
「次はクレープね。こっち来て」
促されるまま、鉄板の前に立つ。熱せられた鉄板からシュウッと小さな音が立ち、熱気が顔を包む。鼻の奥をくすぐる、甘くて香ばしい匂い。
佐伯はクレープ生地がたっぷり入ったボウルからお玉を掬い上げると、流れるような動作で鉄板の上に白い円を描いてみせた。
「生地を流して、広げて……鉄板を回すのはこう」
迷いのない手つきで、佐伯が生地を鮮やかな円形に広げていく。あっという間にまな板の上で整えられ、店のロゴが入った包装紙に手際よく包まれたクレープが、俺の目の前に突き出された。
「食って」
「え?」
「いいから。一口食ってみて」
あまりに突然の指示に戸惑いながらも、俺は手を伸ばした。佐伯がクレープの根元をしっかりと握って固定してくれているので、そのまま頭を下げて食らいつく。
「あむ……んっ……! 美味ひい……」
驚いた。見た目はふわふわなのに、噛めば驚くほどモチモチとしている。焼く人によって厚みのムラが出たり、食感が重くなったりしがちなクレープだけど、これは文句なしに「正解」の味だ。美味しさに感動しつつ、思わず生クリームを追い求めたくなる衝動に駆られる。
そんな俺の咀嚼を、佐伯は無言で、じっと見つめてくる。
――な、なに? 早く食えってこと……?
そう察して慌てて飲み込み、喉に若干の詰まりを感じていると、間髪入れずに鉄板の前へ立つよう促された。
「最終的には、今食べたクオリティに仕上げて。あとは実践あるのみだから」
「わ、わかった……!」
お玉で生地を掬い、熱い鉄板に落とす。佐伯と同じように動かしているつもりなのに、俺の生地は無残にも日本地図のように歪な形に広がっていく。
「……うっわ、マジかそれ……下手くそすぎる」
佐伯の言葉は容赦なさすぎて、逆に誤魔化しの笑いが込み上げそうになる。だけど、隣に立つ彼の瞳は一切笑っていなくて、真剣そのものだ。
「いきなりできるわけないだろ。料理なんてしたことないんだから」
「ふぅん。俺は初日でできたけどね」
さらりと自慢を挟んでくるその性格、どうなってんだ。思わず鉄板に佐伯の手を押し付けて「ジュージュー」言わせたくなるほどの苛立ちを覚える。 二回、三回と挑戦を繰り返すが、目の前にはクレープかパンケーキかも判別不能な、謎の厚みを持った生地の山が築かれていった。
「……こ、こんな感じでどう?」
「百円で売ってても、俺なら買わない」
腕を組んだまま、バッサリと切り捨てられる。鉄板の熱気と冷や汗が混じり合い、額や背中がじっとりと濡れていく。
「もっと高い位置から生地を落して」
「でも、ビチャッてなりそうで怖いっていうか……」
「わかるけど。いいからやれって言ってんの」
その有無を言わさない圧に押され、俺は覚悟を決めて高い位置から生地を落とした。すると、今までが嘘のように綺麗な円形が広がり、均一な薄さまで延ばすことができた。
「……絶望的だったけど、最初よりはマシ」
「……あ、ありがとう」
ようやくお許しが出て、次は「レジ金チェック」が待っていた。売上金を機械に投入し、表示された金額と手元の現金が一致するかを確かめる、地道で神経を使う作業。
「早くしろよ。レジ金合わなきゃ帰れないんだから」
「ご、ごめん……!」
大量のお札と小銭。数えても、数えても、計算が合わない。どこで間違えたのか分からなくて、焦りだけが募る。二回目も失敗し、退勤時間はとうに過ぎてしまった。
「……あの……やっぱり合わない。……手伝ってもらってもいい?」
癪だけど、低姿勢で頼み込む。しかし、佐伯はパイプ椅子に踏んぞり返って足を組んだまま、スマホから視線だけをこちらに向けて冷たく言い放った。
「無理。……こんな簡単なこと、なんでできないの?」
もう一度最初からやり直そうと、メモを握りしめたその時。手元にふっと影が落ちた。振り返ると、いつの間にか佐伯がすぐそばに立っていた。
「手伝いはしない。けど、やり方は教える。一回で覚えて」
トントン、とお札の端を揃えながら、佐伯が札勘のルールを説く。
「まず、枚数は必ず十枚ずつまとめて。手前から奥に向かって、滑らせるように数える。一回でもトチったら最初から」
指先を震わせながら、俺は佐伯の動きを必死に模倣する。
「あと、金種ごとに分けるのは基本中の基本。混ざったまま数えてるから、後で訳分かんなくなるんだよ」
淡々とした解説。だが、その長く美しい指先が刻む正確なリズムに、俺は思わず見惚れてしまった。
「はい、じゃあ後は自分で――」
「もう一回、やってみる!」
教わった通りに数え直すと、佐伯は黙って隣に立ち、俺の手の動きをさりげなく見守ってくれた。数え終わるそばから、合っていた分を机の端にスッと仕分けてくれる。その無言のサポートに、「そういう気遣いはしてくれるんだ」と、ほんの少しだけ毒気が抜かれた。
「……合ってる! 合ってるよね!?」
「あー、やっと終わった。ほら、さっさと着替えろよ。警備セットの時間になる」
佐伯は再びパイプ椅子に腰を下ろし、スマホをいじり始めた。静まり返った店内に、冷たい空気と俺が上着を着る布擦れの音だけが響く。
「ごめん、待たせた。準備できた!」
歩きながらダウンジャケットのジッパーを引き上げようとするけれど、金具が噛んでしまって中々上がらない。ジッパーの固い抵抗に舌打ちしそうになり、もういいや、と諦める。そのまま佐伯の方へ向かうと、彼は黒いカバーのついたスマホと鍵をポケットにねじ込み、億劫そうに、けれどゆっくりと立ち上がった。
「……貸して」
低く短い声と共に、佐伯の手が俺のダウンジャケットの金具へ伸びた。ぐっと力を込めてジッパーを動かそうとするけれど、頑固に噛み込んだ金具はビクともしない。
至近距離にある佐伯の頭頂部を見下ろし、俺は少し間の抜けた声を絞り出した。
「い、いいよ、もう。あとで直すから……」
早く帰りたいだろうに、こんなことに付き合わせて申し訳ない。そんな思いが込み上げるなか、佐伯は無言のまま、何度も慎重に金具を上げ下げしている。長い前髪の隙間から覗く視線は、鋭く手元を射抜いていた。
額が触れそうなほどの距離感。心臓がうるさく鳴り出し、俺はたまらず視線を逸らして俯いた。
「……動かないでくんない? 前、見えないんだけど」
「ごめん……」
不意に、佐伯と目が合った。
嫌な奴だと思っている相手でも、これほどの至近距離で整いすぎた顔に直視されると、どうしても狼狽えてしまう。俺は真っ赤になった顔を背けるようにして固まった。
くっきりした二重のライン、そしてスッと通った高い鼻梁がすぐ目の前にあって、その造形美はもはや暴力的なほどだった。
さらに追い打ちをかけるように、佐伯の動いた拍子に、ふわりと香りが鼻腔をくすぐる。
アイスクリームの甘い匂いとは違う、清潔感のある石鹸みたいな……その香りに脳を直接揺さぶられたような感覚に陥り、俺は真っ赤になった顔を背けるようにして、呼吸を止めて固まった。
やがて、カチリと硬い音がして、噛み合わせが外れる。佐伯はそのまま、スッと上まで滑らかにジッパーを上げてくれた。
「はい、出来た」
「あ……ありがとう……」
予想外の親切に、柄にもなく素直に礼を言うと、佐伯は返事もせずにスタスタと出口の方へ歩き出した。
俺も慌てて後を追う。慣れた手つきで外の鍵を閉めるその背中を見つめ、俺はもう一度声をかけた。
「あの……佐伯。今日はいろいろ教えてくれて、ありがとう」
俺のことを「めんどくさい」と言い放ったはずなのに、結局、最後まできっちり付き合ってくれた。本当は態度が悪いだけで、根は嫌な奴じゃないのかもしれない――。
そんな淡い期待を込めて伝えた、その瞬間。佐伯は俺を見下ろし、薄く口角を上げながら言い放った。
「じゃあね、二歳児」
「……は?」
「自分で服も着られないし、アイスもクレープも、幼児のお粘土みたいだったから」
「はぁぁあああ!?」
俺の絶叫など風に流すように、佐伯はすました顔で踵を返し、夜の闇へと消えていく。
今日一日、怒られてばかりで、慣れないバイトに必死でついていくのが精一杯だった。最後の最後で優しくファスナーを直してくれたから、精一杯の感謝を伝えたのに!
別れ際の言葉が「お疲れ様」じゃなくて「二歳児」って、何なんだよ。むかつくし、失礼だし、お粘土って……確かにまだ売り物には程遠いけどさ!
……それなのに、反対方向へ歩いていく佐伯の背中を、つい目で追ってしまう自分が一番意味がわからない。
体はぐったりと重いのに、胸の奥だけが妙にざわざわしている。
傲慢で、意地悪で、距離感のおかしい相手なのに。スマホを弄りながら次の角を曲がる所まで、見届けてしまった。
「……明日も、佐伯とシフト一緒なのかな」
振り回されるのはもう懲り懲りなはずなのに、気づけば奴のことばかり考えている。
きっとこれは、苦手な相手を「敵」として脳が認識して、過剰に警戒しているだけだ。そう自分に言い聞かせる。けれど、まぶたの裏には、あの時ジッパーを直してくれた佐伯の、無駄に綺麗な顔が焼き付いて離れない。
『はい、できた』
あの瞬間、佐伯は一瞬だけ、目元が柔らかかったような。
……いや、単にバカにされていただけかも? もしくは、緊張しすぎて幻覚でも見たのかもしれない。
スマホでシフト表を呼び出し、自分の名前のすぐ上にある「佐伯」の二文字を指先でそっとなぞる。
――ああ、もう! バイト初日からこんなに情緒をかき乱されるなんて、聞いてないってば……!
採用の連絡をもらったあの日から、胸の奥がずっとそわそわして落ち着かない。湧き上がる嬉しさが、心臓を小さなリズムで跳ねさせている。――だってそこは、俺にとって単なる店以上の、特別な場所だったからだ。
物心ついた頃から、数え切れないほど足を運んだ馴染みの店。
重いガラスの扉を開けるたびに響く、軽やかなベルの音と、甘くて冷たい空気。海外の街角をそのまま切り取ってきたようなポップな内装に、パステルカラーのポスター。壁いっぱいに広がる賑やかな装飾は、いつだって俺を非日常へと連れ出してくれた。
ショーケースの中には、絵に描いたようにカラフルなアイスクリームがずらりと並んでいる。どれもが宝石みたいに魅力的で、選ぶときはいつも本気で頭を抱えた。
『今日は何味にしよう』と迷う時間さえ、子どもの頃の俺にとっては最高のご褒美だったんだ。
家族と手を繋いで来た日も、部活帰りに友達とはしゃいだ日も、アイスといえば決まってこの店だった。
そんな“思い出の場所”に、今度は自分が働く側として立つ。考えれば考えるほど現実味がなくて、どこかふわふわとした夢を見ているような気分になる。
そして今日、ついに初出勤の日を迎えた。
おろしたての制服に袖を通した瞬間から、期待と緊張がせめぎ合い、胸の鼓動は一段と速さを増していく。
眺めるだけだった、あのカウンターの向こう側。そこに立つ自分をイメージして、俺は一度深く息を吐き出し、馴染み深いドアノブに手を伸ばした。
「これから、お世話になります。
小瀧南緒です、よろしくお願いします!」
「店長の佐藤です。こちらこそ、今日からよろしくね!」
差し出された店長の名札には、誇らしげに三つの金星が輝いている。
ハキハキとした明るい声と、一切の迷いがない堂々とした佇まい。この人ならきっと、仕事を基礎から叩き込んでくれる。そう直感させる頼もしさに、俺の背筋は自然とピンと伸びた。
副店長やスーパーバイザーへの挨拶を駆け足で済ませ、バックヤードのさらに奥にある事務所へと案内される。
店長と向かい合って座り、手渡されたオリエンテーション用のファイルを開く。お店の経営理念、接客の極意、そして膨大なアイスクリームのフレーバー名と知識――。言葉で聞けばシンプルなのだけれど、いざ頭に詰め込もうとすると、整理が追いつかずに脳内がパンクしそうになる。
「すみません、メモが全然追いつかなくて……!」
「あはは、大丈夫。最初から全部完璧になんて無理だから、少しずつ覚えていこう」
店長が柔らかく微笑んだ、その時だった。
休憩室のドアが静かに開き、一人の男が滑り込んできた。勤怠記録用の機械に手慣れた様子でスマホをかざし、打刻の電子音が小さく響く。店長がその姿に気づき、パッと顔を輝かせた。
「ああ、ちょうど良かった。佐伯くん、ちょっとこっち来てくれる?」
「はい」
短く、落ち着いたトーンの返事。
出勤したばかりのようで、黒い上着を羽織ったまま足を止める。
「小瀧くん、彼がアルバイトリーダーの佐伯澄人くんだよ」
――第一印象は、もう、完膚なきまでに「完璧」だった。
彫刻のように整った顔立ちに、すらりと無駄なく伸びた長身。プラチナブロンドの髪は遊び心があるのに上品にセットされ、蜂蜜を溶かしたような色の瞳が、涼しげな光を宿してじっとこちらを射抜いている。
大学の友だちが「あのアイス屋、絶対顔採用だよな。働いてるやつ、美男美女しかいないもん」なんて噂していたのを思い出す。当時は聞き流していたけれど、目の前の彼を見た瞬間、全力で納得してしまった。
「佐伯くん、こちらが新しく入った小瀧南緒くんです。いつも通り、指導係として教えてあげてね」
店長の紹介を受け、俺は姿勢を正して軽く会釈した。
「えっと、初めまして。……小瀧です。今日から宜しくお願いします」
だけど、返ってきたのは歓迎の言葉ではなかった。佐伯は不遜に腕を組み、高い身長から俺を見下ろして、吐き捨てるように言った。
「あー、マジすか……教えるのめんどくさ……。俺、やりたくないんですけど」
……え、今なんて言った? やりたくないって、初対面の相手に、しかも店長の前で言うことか?
さっきまでのクールで神聖な雰囲気はどこへやら。欠伸を噛み殺しながら、あからさまに億劫そうに頭を掻くその姿に、俺は呆気に取られて固まってしまった。
「でも、佐伯くん。そう言いつつ、今までの子たちの面倒も見てくれたじゃない。それに、小瀧くんとは同い年だから。話も合うと思うよ?」
店長は苦笑いしながら、なんとか場を収めようとしてくれる。
同い年でバイトリーダーということは、高校生の頃からここで働いているんだろうか。眉間に皺を寄せたまま呆然としている俺に、佐伯はポケットに手を突っ込んだまま問いかけてきた。
「へぇ……同い年ってことは大学二年? アンタ、どこ大?」
「明成大ですけど……」
「はっ、Fランじゃん」
鼻で笑うような、上から踏みつけられる言い方。あまりの無礼さに、怒りを通り越して口が半開きになってしまう。
それでも店長は「大丈夫、仕事は超できる子だから!」とだけ言い残し、月末のシフト作成のために席を離れてしまった。
……店長、この状況で放置は勘弁して欲しい。だって、どう考えても、気まず過ぎる。
残された俺を一瞥する佐伯の瞳には、何の感情も宿っていない。
さっきまで頭の片隅にあった「かっこいい」なんて言葉は、一瞬で彼方へ吹き飛んでいた。
冷淡、無関心、そして不遜。こいつが指導係だなんて、冗談じゃない。
「で、名前なんだっけ?」
「……小瀧です。よろしくお願いします」
「あー、もうマジで嫌。無理そー……。とりあえず、同じことは二回言わないから。ちゃんとメモ取って」
――自分は二回も名前を聞き返してくるくせに、何が「二回言わない」だよ。
佐伯の完全にやる気ゼロな声を聞いているうちに、困惑はいつしか別の感情に変わっていた。
やってやる。絶対に、こいつに文句を言わせないくらい完璧に動いてやる。
俺の心には逆に、静かな、けれど熱い火がついていた。
*
まずはアイスの種類を覚えるように命じられたけれど、これが想像を絶する難関だった。
種類が膨大な上に、似通った名前が多すぎて頭の中はすでに飽和状態だ。ケースの端から端まで視線を泳がせ、メモ帳には呪文のような商品略号を必死に書き連ねていく。
特にチョコレートコーナーは地獄だった。似たような褐色のパッケージが並び、一見しただけでは区別がつかない。
「えっと……これがチョコチップで、こっちがダブルチョコ……?」
「ちがうし。逆」
「あ、ごめん。じゃあこっちがダブルで――」
俺がアイスを指差して振り返ると、カップを補充していた佐伯が、鼻で笑うように吐き捨てた。
「小瀧ってさ、脳みそ何グラムあんの?」
「……今、なんて?」
「いや、軽そうだなって思って。小学生でも見分けつくけど」
無表情のまま見下ろしてくる佐伯。冷房の効いた店内の空気が、より一層肌に刺さるように冷たく感じた。
言い返したい言葉が喉まで出かかったけれど、実際に覚えられていないのは事実だ。俺はぐっと唇を噛んで黙り込むしかなかった。
「次はスクープ。アイスを丸く掬う動作のことなんだけど……」
佐伯の態度はブリザード並みに寒気がするけど、俺の心は別のところで浮き立っていた。客として通っていた頃、店員が大きなアイスタブにディッシャーを滑らせ、魔法のように綺麗な球体を作り出すあの瞬間が大好きだった。
今日、ついに俺も「あの器具」を握る。期待で胸がどきりと跳ねた。
「掬い方は二種類。最初は『ラウンド』。自分の臍に向かってディッシャーを引き寄せるイメージで……」
佐伯の手元を盗むように観察し、見よう見まねで挑戦する。ぐぐっ、と体重を乗せてみても、アイスの密度は予想以上に高く、力が必要だった。不格好な塊がカップの上に転がる。
「……次は『S字スクープ』。動きが細かいけど、まぁやってみて」
教え方は投げやりだけど、佐伯が見せた動きは完璧だった。滑らかなS字の軌跡を描いて掬い上げるその手つきは、淀みがない。コイツが若くしてバイトリーダーに君臨している理由を、ようやく突きつけられた気がした。
「なんで掬い方が二つあるの?」
「具材の問題。クッキーとかマシュマロが入ってるフレーバーは、それらを均等に見栄えよく盛り付ける必要があるから」
淡々とした説明だけれど、驚くほど簡潔で腑に落ちる。
「……うわ、S字めっちゃむずい。カーブが全然決まらないっていうか……」
何度目かの失敗で顔をしかめた瞬間。横にいた佐伯が、背後からそっと俺の右手に手を添えた。
「手、貸して」
手の甲から手首にかけて、重なった佐伯の体温がダイレクトに伝わってくる。ひんやりとした店内に似合わず、その手は驚くほど熱い。
骨格がしっかりしていて、指の節々まで男らしく、手首なんて俺よりも断然太い。
「……こう?」
「そう。無理に丸めようとしないで」
耳元で囁く声が近い。吐息が触れるほどではないのに、その距離感に心臓が落ち着かなくなる。態度は相変わらずなのに、支える手つきだけは丁寧だった。
「腰、引けてる。もっとガラスケースに体押し付けながらじゃないと、力入んないよ?」
呆れた口調のすぐ後、今度は俺の腰と背中の中間に佐伯の手がそっと添えられた。グイと力を込めて押し出され、俺は若干バランスを崩しながら、冷たいショーケースへと密着させられる。
必然的に、背後から佐伯の体に包み込まれるような形になる。こんな状況なのに、佐伯は顔色一つ変えず、ただ実務的に俺のスクープを見つめて言った。
「小瀧の手首、すげー細いね」
「えっ?」
不意に初めて名前を呼ばれ、鼓動が一段跳ねた。
「俺が本気出したら、簡単に折れそう」
「お、おい! 折るなよ!」
「折るわけないじゃん。……こういう風にアイスが減ってきたら、奥から在庫を補充する作業があるから。こっち来て」
案内されたのは店奥の巨大な冷凍庫。バケツのようなアイスタブが積み上がっている。佐伯はホワイトボードで在庫数を確認し、『CC』と書かれた略語の横に手際よく日付を記入していく。
「持てる?」
腕を伸ばしてタブを抱えると、予想外の重みに体が沈んだ。十キロ以上はある。バランスを崩しながら冷凍庫の重い扉を体で押さえようとすると、佐伯が横から手を伸ばしてきた。
「やっぱ貸して、小瀧」
「いや、大丈夫だって」
「見てて怖い。落として足の指、全部骨折しそうだし」
物騒な言い方に「ひぃ」と短い悲鳴が漏れそうになる。佐伯はそれを軽々と担いで言った。
「シフト被ってる日は、俺がやるから」
……言い方はキツいけど、なんだかんだ……優しかったりする?
一瞬そう思ったけれど、おそらく俺の不器用さが心底信用できないだけだと思い直す。それでも、佐伯は「職場体験の中学生の方がマシ」と毒を吐きながらも、決して俺の隣を離れずに仕事を叩き込んでくれた。
「次はクレープね。こっち来て」
促されるまま、鉄板の前に立つ。熱せられた鉄板からシュウッと小さな音が立ち、熱気が顔を包む。鼻の奥をくすぐる、甘くて香ばしい匂い。
佐伯はクレープ生地がたっぷり入ったボウルからお玉を掬い上げると、流れるような動作で鉄板の上に白い円を描いてみせた。
「生地を流して、広げて……鉄板を回すのはこう」
迷いのない手つきで、佐伯が生地を鮮やかな円形に広げていく。あっという間にまな板の上で整えられ、店のロゴが入った包装紙に手際よく包まれたクレープが、俺の目の前に突き出された。
「食って」
「え?」
「いいから。一口食ってみて」
あまりに突然の指示に戸惑いながらも、俺は手を伸ばした。佐伯がクレープの根元をしっかりと握って固定してくれているので、そのまま頭を下げて食らいつく。
「あむ……んっ……! 美味ひい……」
驚いた。見た目はふわふわなのに、噛めば驚くほどモチモチとしている。焼く人によって厚みのムラが出たり、食感が重くなったりしがちなクレープだけど、これは文句なしに「正解」の味だ。美味しさに感動しつつ、思わず生クリームを追い求めたくなる衝動に駆られる。
そんな俺の咀嚼を、佐伯は無言で、じっと見つめてくる。
――な、なに? 早く食えってこと……?
そう察して慌てて飲み込み、喉に若干の詰まりを感じていると、間髪入れずに鉄板の前へ立つよう促された。
「最終的には、今食べたクオリティに仕上げて。あとは実践あるのみだから」
「わ、わかった……!」
お玉で生地を掬い、熱い鉄板に落とす。佐伯と同じように動かしているつもりなのに、俺の生地は無残にも日本地図のように歪な形に広がっていく。
「……うっわ、マジかそれ……下手くそすぎる」
佐伯の言葉は容赦なさすぎて、逆に誤魔化しの笑いが込み上げそうになる。だけど、隣に立つ彼の瞳は一切笑っていなくて、真剣そのものだ。
「いきなりできるわけないだろ。料理なんてしたことないんだから」
「ふぅん。俺は初日でできたけどね」
さらりと自慢を挟んでくるその性格、どうなってんだ。思わず鉄板に佐伯の手を押し付けて「ジュージュー」言わせたくなるほどの苛立ちを覚える。 二回、三回と挑戦を繰り返すが、目の前にはクレープかパンケーキかも判別不能な、謎の厚みを持った生地の山が築かれていった。
「……こ、こんな感じでどう?」
「百円で売ってても、俺なら買わない」
腕を組んだまま、バッサリと切り捨てられる。鉄板の熱気と冷や汗が混じり合い、額や背中がじっとりと濡れていく。
「もっと高い位置から生地を落して」
「でも、ビチャッてなりそうで怖いっていうか……」
「わかるけど。いいからやれって言ってんの」
その有無を言わさない圧に押され、俺は覚悟を決めて高い位置から生地を落とした。すると、今までが嘘のように綺麗な円形が広がり、均一な薄さまで延ばすことができた。
「……絶望的だったけど、最初よりはマシ」
「……あ、ありがとう」
ようやくお許しが出て、次は「レジ金チェック」が待っていた。売上金を機械に投入し、表示された金額と手元の現金が一致するかを確かめる、地道で神経を使う作業。
「早くしろよ。レジ金合わなきゃ帰れないんだから」
「ご、ごめん……!」
大量のお札と小銭。数えても、数えても、計算が合わない。どこで間違えたのか分からなくて、焦りだけが募る。二回目も失敗し、退勤時間はとうに過ぎてしまった。
「……あの……やっぱり合わない。……手伝ってもらってもいい?」
癪だけど、低姿勢で頼み込む。しかし、佐伯はパイプ椅子に踏んぞり返って足を組んだまま、スマホから視線だけをこちらに向けて冷たく言い放った。
「無理。……こんな簡単なこと、なんでできないの?」
もう一度最初からやり直そうと、メモを握りしめたその時。手元にふっと影が落ちた。振り返ると、いつの間にか佐伯がすぐそばに立っていた。
「手伝いはしない。けど、やり方は教える。一回で覚えて」
トントン、とお札の端を揃えながら、佐伯が札勘のルールを説く。
「まず、枚数は必ず十枚ずつまとめて。手前から奥に向かって、滑らせるように数える。一回でもトチったら最初から」
指先を震わせながら、俺は佐伯の動きを必死に模倣する。
「あと、金種ごとに分けるのは基本中の基本。混ざったまま数えてるから、後で訳分かんなくなるんだよ」
淡々とした解説。だが、その長く美しい指先が刻む正確なリズムに、俺は思わず見惚れてしまった。
「はい、じゃあ後は自分で――」
「もう一回、やってみる!」
教わった通りに数え直すと、佐伯は黙って隣に立ち、俺の手の動きをさりげなく見守ってくれた。数え終わるそばから、合っていた分を机の端にスッと仕分けてくれる。その無言のサポートに、「そういう気遣いはしてくれるんだ」と、ほんの少しだけ毒気が抜かれた。
「……合ってる! 合ってるよね!?」
「あー、やっと終わった。ほら、さっさと着替えろよ。警備セットの時間になる」
佐伯は再びパイプ椅子に腰を下ろし、スマホをいじり始めた。静まり返った店内に、冷たい空気と俺が上着を着る布擦れの音だけが響く。
「ごめん、待たせた。準備できた!」
歩きながらダウンジャケットのジッパーを引き上げようとするけれど、金具が噛んでしまって中々上がらない。ジッパーの固い抵抗に舌打ちしそうになり、もういいや、と諦める。そのまま佐伯の方へ向かうと、彼は黒いカバーのついたスマホと鍵をポケットにねじ込み、億劫そうに、けれどゆっくりと立ち上がった。
「……貸して」
低く短い声と共に、佐伯の手が俺のダウンジャケットの金具へ伸びた。ぐっと力を込めてジッパーを動かそうとするけれど、頑固に噛み込んだ金具はビクともしない。
至近距離にある佐伯の頭頂部を見下ろし、俺は少し間の抜けた声を絞り出した。
「い、いいよ、もう。あとで直すから……」
早く帰りたいだろうに、こんなことに付き合わせて申し訳ない。そんな思いが込み上げるなか、佐伯は無言のまま、何度も慎重に金具を上げ下げしている。長い前髪の隙間から覗く視線は、鋭く手元を射抜いていた。
額が触れそうなほどの距離感。心臓がうるさく鳴り出し、俺はたまらず視線を逸らして俯いた。
「……動かないでくんない? 前、見えないんだけど」
「ごめん……」
不意に、佐伯と目が合った。
嫌な奴だと思っている相手でも、これほどの至近距離で整いすぎた顔に直視されると、どうしても狼狽えてしまう。俺は真っ赤になった顔を背けるようにして固まった。
くっきりした二重のライン、そしてスッと通った高い鼻梁がすぐ目の前にあって、その造形美はもはや暴力的なほどだった。
さらに追い打ちをかけるように、佐伯の動いた拍子に、ふわりと香りが鼻腔をくすぐる。
アイスクリームの甘い匂いとは違う、清潔感のある石鹸みたいな……その香りに脳を直接揺さぶられたような感覚に陥り、俺は真っ赤になった顔を背けるようにして、呼吸を止めて固まった。
やがて、カチリと硬い音がして、噛み合わせが外れる。佐伯はそのまま、スッと上まで滑らかにジッパーを上げてくれた。
「はい、出来た」
「あ……ありがとう……」
予想外の親切に、柄にもなく素直に礼を言うと、佐伯は返事もせずにスタスタと出口の方へ歩き出した。
俺も慌てて後を追う。慣れた手つきで外の鍵を閉めるその背中を見つめ、俺はもう一度声をかけた。
「あの……佐伯。今日はいろいろ教えてくれて、ありがとう」
俺のことを「めんどくさい」と言い放ったはずなのに、結局、最後まできっちり付き合ってくれた。本当は態度が悪いだけで、根は嫌な奴じゃないのかもしれない――。
そんな淡い期待を込めて伝えた、その瞬間。佐伯は俺を見下ろし、薄く口角を上げながら言い放った。
「じゃあね、二歳児」
「……は?」
「自分で服も着られないし、アイスもクレープも、幼児のお粘土みたいだったから」
「はぁぁあああ!?」
俺の絶叫など風に流すように、佐伯はすました顔で踵を返し、夜の闇へと消えていく。
今日一日、怒られてばかりで、慣れないバイトに必死でついていくのが精一杯だった。最後の最後で優しくファスナーを直してくれたから、精一杯の感謝を伝えたのに!
別れ際の言葉が「お疲れ様」じゃなくて「二歳児」って、何なんだよ。むかつくし、失礼だし、お粘土って……確かにまだ売り物には程遠いけどさ!
……それなのに、反対方向へ歩いていく佐伯の背中を、つい目で追ってしまう自分が一番意味がわからない。
体はぐったりと重いのに、胸の奥だけが妙にざわざわしている。
傲慢で、意地悪で、距離感のおかしい相手なのに。スマホを弄りながら次の角を曲がる所まで、見届けてしまった。
「……明日も、佐伯とシフト一緒なのかな」
振り回されるのはもう懲り懲りなはずなのに、気づけば奴のことばかり考えている。
きっとこれは、苦手な相手を「敵」として脳が認識して、過剰に警戒しているだけだ。そう自分に言い聞かせる。けれど、まぶたの裏には、あの時ジッパーを直してくれた佐伯の、無駄に綺麗な顔が焼き付いて離れない。
『はい、できた』
あの瞬間、佐伯は一瞬だけ、目元が柔らかかったような。
……いや、単にバカにされていただけかも? もしくは、緊張しすぎて幻覚でも見たのかもしれない。
スマホでシフト表を呼び出し、自分の名前のすぐ上にある「佐伯」の二文字を指先でそっとなぞる。
――ああ、もう! バイト初日からこんなに情緒をかき乱されるなんて、聞いてないってば……!



