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 ミルズ侯爵は、身内に対して性格が破綻している以外は、すばらしく計算高く理性的で判断力に優れた紳士であった。
 潤沢な資産は代替わり以降、着実に増え続けている。

「あれほどの資金を僕に惜しげもなく注ぎ込み、いずれすべてを渡すつもりなのか、あの父上は。さすがに呆れるな。なんの血の繋がりもないというのに」

 十年が過ぎ、ヘンリーは十六歳、オハラは三十代半ばとなっていた。
 この国の貴族の子息は、家庭教師や召使いをひきつれて、グランドツアーと呼ばれる数年がかりの旅行に出るのが習わしである。
 うなるほどの金にものを言わせて、屋敷の前庭に山と積むほど用意した旅行用の荷物を眺め、ヘンリーは目を細める。そのまま、隣に立つオハラへと視線を流した。

「父上が先生を僕につけたのは、なかなかセンスが良かったんだと、今ではわかります。しかし、グランドツアーは、一度出かければ数年は戻れない冒険の旅です。恋人との別れが辛いなら来なくてもいいんですよ、先生。別れたらもうあとがないですよね? 年齢的に」

 年長者であるオハラに対しての、気遣いに満ちた言葉だった。オハラはうんうんとしたり顔で頷き、口を開く。

「俺の教育の賜物で、坊っちゃんは実に優しい性格のまま成長されたようで。ずいぶん俺の心配もしてくださっているみたいですが、ご安心ください。俺の恋人は坊っちゃんの熱烈なファンでして『坊っちゃんをひとりで旅に送り出すなんて、とんでもない男だ!』と俺の尻を蹴り上げてくるんですよ」

 オハラは「ですからもちろん、ご同行いたしますよ」と、胸に手をあてて微笑んだ。ヘンリーはなるほどと呟いてからオハラを見つめて言う。

「先生の詩の中にしか存在しない想像上の恋人は、ずいぶん溌剌とした人柄なのだな。今度会わせてくれ。詩集のひとつでも出せば、この世に物理として存在していることになるだろう。先生の詩集が出るのは、さて百年後でしょうか?」

「詩集が出ることは疑っていないんですね。俺は死後に絶大な評価を得てしまう自分の才能が怖い」

 くすっと、ヘンリーは小さく笑った。
 そのとき、二人の元へ近づいてくる人影があった。

「明日が出立だと聞いた。見送りにきたよ」

 貴族らしい上品な顔立ちの、中肉中背の男だった。
 ヘンリーは如才なくふわりと微笑み、滑らかな口ぶりで答える。

「ルイス兄さん、わざわざありがとうございます。荷物が多くて一度で運びきれないので、船の積み込み分だけ先に送り出すことになりまして」

 ルイスはミルズ侯爵の甥であり、ヘンリーの従兄だ。結婚から十年子どもの生まれることのなかった侯爵とは違い、弟夫婦は早くに結婚してルイスが生まれていたので、ヘンリーより年上である。

(「ポッと出」のヘンリー坊ちゃんのおかげで、侯爵家の後継者になるあてが外れた……)

 オハラがヘンリーの家庭教師について以降、屋敷で何度か見かけている。そのたびに、奥歯にものが挟まったような迂遠な物言いで、ヘンリーに繰り返し「何か」を問いかけてきていた。

「私もグランドツアーに出たけれど、規模は全然違った。父に爵位が無い以上、私の立場は『侯爵家育ちの庶民の息子』だからね。だけど、いずれ私が貴族となる日がきたときに、教養が身についていないわけにはいかない。家族中で無理をしての旅行だった。まさに、形ばかりのものだったよ」

“侯爵家の正式な跡取りとして爵位を継ぐ可能性にかけ、分不相応な金をはたいてまで貴族の真似事をし、その日のための準備を進めてきた。ところで、唸るほどの財産はいつ自分の手元に転がり込んでくるのだろうか?”
“君は、自分が本来なら後継者ではないことを知っているのだろう? ここは、正しい血筋の者に譲るべきではないのか?”

 詩人であるオハラは、他人を罵倒する際でも品のない言葉は使わず、知的でエレガントでいたいという願望がある。だが、ルイスに対しては「蛆虫(うじむし)野郎。いやいやこれは蛆虫に失礼か」くらいの、誠に短絡的な罵倒しか思いつかないのであった。詩人失格である。百年かけても詩集は出せそうにない。

 一方の「優しい性格のまま成長した」ヘンリーは、悪態をつくこともなければルイスを邪険にすることもない。
 このときも終始穏やかな表情のままで話を聞き終えると、ジャケットの内ポケットから紙の包みを差し出して、ルイスへとさりげなく手渡した。

「『薬』です。香にまぜて焚けば、吸った生き物を永遠の安らかな眠りに導くものです。僕はグランドツアーの準備に明け暮れて使うこともできませんでしたが、この家の血縁である兄さんは、父上とお会いする機会がこれから何度もあるでしょう。どうぞ有効に使ってください」

 薬と言いつつ、その説明はまさに致死毒である。
 オハラは片方の眉を跳ね上げたが、二人の会話に何も口出しはしなかった。ルイスは「おお……」と感極まったような声をもらしながら、その紙包を受け取る。
 隠しきれない愉悦の笑みが、その頬に浮かんでいた。

「しかし、これを私が使ったとして……。君は旅先にいる間に、不意に支援者を失う形になるかもしれない。不都合は無いのかい?」

 ふっと、ヘンリーは細く息を吐きだしてから、完璧な笑みを浮かべて答えた。

「数年がかりの、壮大な冒険の旅ですよ。行く手に何があるか、まったくわかりません。恋に落ちて帰り難くなることもあれば、命を落として無言の帰宅となることも。いずれにせよ、退路を断つつもりで出ますので、僕のことはまったくお構いなく」

“首尾よくあなたが侯爵の毒殺に成功した場合、僕はこの家には戻りませんので、後のことはよろしく”

 おそらく、ルイスの耳にヘンリーの言葉はそう響いたことであろう。
 ルイスはにこにこと笑いながら「わかった」と答え、そのまま「伯父さまにご挨拶をしてくる」と言いながら屋敷の中へと入って行った。
 ヘンリーは、その背をぼんやりと見つめてから、顔も向けぬままオハラに「なんですか」と言う。
 水を向けられるのを待っていたオハラは、ここぞとばかりに自分の考えを口にした。

「ルイスですよ。紙包の中のものを動物実験で試すこともなく、そのままミルズ侯爵に渡すでしょう。『御子息は侯爵様の毒殺を企てておいでですよ! なんて恐ろしい、これだからあばずれと間男から生まれた卑しい子どもは! 今すぐグランドツアーを中止にし、ひっ捕らえて縛り首にすべきです! 爵位と財産を我が手に!』って」

 ヘンリーは肩をすくめて「僕もそう思う、完全に同意」と答えてから、続けた。

「旅行に出る前に、カタをつけておきたかったんだ。僕が生まれてこの方、あのひとはずっとうるさかった。子どもにいらぬことを最初に吹き込んだのは、あのひとだった」

 表情が消えている。オハラがその顔を覗き込むと、ヘンリーは低い声で呟いた。

「父上も存外甘い、さっさと始末してしまえば良かったものを。さすが血縁でもない子に財産を残そうというだけある」

 ヘンリーらしからぬ、冷え切った口ぶりであった。オハラは思わず手を伸ばし、血の気の失せたヘンリーの頬を指でつまんだ。
 へにゃ、とヘンリーの顔が歪む。何をする、という目でヘンリーはオハラを見る。まだ身長差はあるが、見上げるというほどではなく、ちょうどよい位置でふたりの視線がぶつかった。

「ミルズ侯爵は邪悪さが足りず、不器用さを貨幣価値に置き換えることができれば億万長者級であるのは俺も長い付き合いなのでさすがにわかっていますけどね。坊っちゃんはいつ気づきました?」

「さあ。遊び相手との不義の子が、一向に我が家を訪れなかったあたりで、かな。父上の実の子を名乗る相手が現れたら、僕はさっさとこの家を出ていくつもりだった。だが遊興に耽っていたわりに、その痕跡がまったくない。母の浮気の真相はわからないけど、父上が、自分には子が成せないと気づいていたのであれば……僕を生かした意味も、わかるかもしれない。手を離せ、痛い」

 頬をつまみ上げられたままであったヘンリーは、そこで思い出したように抗議をする。
 オハラは手を離し、笑いながら「合格ですね」と言った。むっとしながら頬をさすり、ヘンリーは「先生のご指導ご鞭撻のおかげです」と口にする。
 まったくおもしろくない言い草を耳にして、オハラは満面の笑みを浮かべてもう一度ヘンリーの頬へ手を伸ばした。

「はい、坊っちゃん笑顔~。バラ色の人生~」
「もう坊っちゃんはやめてください先生。なんだかむかつくので」
「いやいや。本当に坊っちゃんは周りの大人の心映えが良かったんですね~、いい子に育って嬉しいですよ~」

 愚にもつかないやりとりをしている間に、屋敷の中からひとが争うような物音が聞こえてきた。騒いでいるのはルイスである。

「どうせすぐ取り押さえられるだろう」

 ヘンリーは誰にともなく呟き、爽やかな空気の中空を見上げて、ほっとしたように息を吐き出した。