お前は、生きているだけで「嫌がらせ」になるんだ。
面白くて、笑いが止まらないな。
* * *
ヘンリーの「父親」であるミルズ侯爵は、大変邪悪な人間である。六歳になるヘンリーは、そのことを親切なひとに教えられて、よく知っていた。
ミルズ侯爵は、政略で結ばれた妻に興味を示さず、とある貴族夫人との関係にのめりこんだ。愛情のない生活に長年耐えていた侯爵夫人は、結婚から十年過ぎた頃、破れかぶれとなり自分もまた「火遊び」をする。
その時期に生まれたのが、ヘンリーだった。
夫人は出産に命を使い果たし、息子の生まれに関して自らの言葉で語る前に死んだ。
社交界のゴシップ好きから、侯爵家の使用人や出入りの業者に至るまで、誰もがヘンリーの父はミルズ侯爵ではないと知っていた。
しかし、ミルズ侯爵はヘンリーを嫡子として認めた。
正妻が産んだ最初で最後の子であるからして、侯爵家の跡継ぎとして遇するのは当然であると、内外に示したのだ。
結婚以来、死ぬまで妻を顧みることもなかった男が、ついに情を示したのか?
そうではなかった。
ミルズ侯爵は、自分の弟や甥のことが大嫌いだったのだ。
六歳になったヘンリーの前で、ミルズ侯爵は腹を抱えて笑って言った。
「はっはっはっ、実にいい気味だ! 私と妻の間に子が生まれないことで、あいつらは侯爵家の家督が自分に転がり込んでくると思っていただろうに、あてがはずれたな! お前のおかげだよ、ヘンリー。お前がそこにいて、人間の形をして息をしているだけで、あいつらにとっては絶大な嫌がらせになるんだ。胸がすく思いだ!」
父上。
ヘンリーは、呼びかけの言葉を呑み込む。その代わりに、心の中で呟く。
(どうしてあなたは、それほどまでに叔父上や従兄のルイスをお嫌いなのですか。彼らに家督を譲るくらいなら、血の繋がらない「息子」に継がせるほうがマシとは)
人間の形をして息をしているだけで「嫌がらせ」になると断言されたヘンリーは、そこですうっと息を吸い込む。
そして、高笑いするミルズ侯爵を見つめて、そうっと吐き出すのだった。
この呼気に毒が含まれていればいいのに。
息を吐く。
* * *
ヘンリーは行き届いた教育を受け、それを理解し吸収する能力を持った子どもであった。そのため、大人を前にしたときに自分が大人に見えるように偽装する様子がしばしば見受けられた。
受け答えが、非常に大人びいている。
ミルズ侯爵が、子どもに聞かせる必要のない事情まで口にしてしまったのも、ヘンリーのこの態度に拠るところが大きい。
このことをいち早く看破したのは、彼に「行き届いた教育を施した」当の家庭教師、詩人のオハラである。オハラは、詩人を自称し将来は王宮の桂冠詩人であると言い張っているが、いまのところ特段に評価されているのは経済論考であり、ヘンリーの教育者としては歴史や言語を含めほぼすべての領域を担当していた。乗馬や剣術でさえも。
まだ二十代半ばと若く、優秀な青年だった。
黒く艷やかで巻きの強い癖毛で、整った容貌をしており、すらりとして背が高く実に見目も良かった。彼を知る誰に聞いても「あれで詩さえ読まなければ、非の打ち所がない」と評判は上々だった。詩だけが彼の瑕疵であるという共通の認識が、浸透していた。
オハラは詩の悪評などどこを吹く風で「自分は詩人であり、感受性が豊かである」として、ヘンリーのここ最近の子どもらしからぬ態度に腹を据えかねている。
「坊っちゃんは自分を不幸だと考えておいででしょうな」
ある日、語学の勉強の最後にオハラがそう切り出すと、ヘンリーはおっとりと微笑んで答えた。
「まったくそんなことはないですよ、先生。僕を愛してこの世に生んでくださった母上とこれほどすばらしい環境を与えてくださる父上がいて僕の健やかな成長を見守ってくださるたくさんの方がいますこれで自分を不幸だなんて考えていたらそれは単なる傲慢というものでしょう」
「息継ぎしないでどれだけ喋れるか選手権でもしているのか? よしわかった。俺の肺活量の本気を見せてやろう」
オハラは、すうっと息を吸い込む。
ヘンリーは、ガラス玉のような瞳で、じっとオハラを見つめた。ヘンリーのその挙動が何を意味するか、オハラはすでに見抜いている。
(さては「肺活量」という言葉がわからなかったな。それを俺に気取られないよう表情を消しつつ、しっかり覚えておき、後でこっそりと調べようとしている。読めたぞ)
さてこういう場合は、なんと言うべきか。
思案するオハラに、ヘンリーが生真面目な調子で声をかけてきた。
「先生も、僕と同じ空間で息をするのは嫌ですか?」
「は?」
「ずっと息を止めています」
指摘されて、オハラはすうっと息を吐き出した。もう一度深く深くこの部屋の空気を全部吸い尽くすほどに息を吸い込み、胸をふくらませたまま「べつに」と口にする。
「坊っちゃんと同じ空間で息をするのが嫌だなんて、そんなこと考えたこともありませんよ。誰がそんなことを言ったんですか?」
「父上です」
オハラは「情熱の詩人」を自称しており、怒るべきときは怒るのが詩人としてのあり方だと強く信じていた。
胸の前で指を組み合わせてぽきりと鳴らし、断固とした口調で告げる。
「坊っちゃんの父上には、俺から『親子の愛情とはいかなるものか』を、わからせてきましょう」
「それでは先生が解雇されるだけで、僕の世界は何も変わらないですよ?」
そう言ってから、ヘンリーはほんのりと笑みを浮かべて続けた。「間違いました。変わります。先生がいないことで、今より確実に僕の世界は悪くなるでしょう」と。
オハラはつんと痛みを覚えた目を閉ざし、鼻を指でつまんだ。
「泣かせるなよ……」
その様子を見て、ヘンリーは「では」と席を立つ。去ろうとしている気配を感じてオハラは「待ちな」とドスのきいた声で呼びかけて、引き止めた。
「俺がいなくなったら、世界が暗くなる。もっともです。坊っちゃんの世界は暗黒に閉ざされ、二度と光が差すことはないでしょう」
「そこまでは言ってません」
「さあもっと近くで、坊っちゃんの『光』たる俺を仰ぎ見て良いですよ」
「先生の言葉遊びを聞いていると、たしかに詩は壊滅的なんだろうなと実感を伴ってわかってしまいます」
「誰がそんなことを坊っちゃんに吹き込んだんです?」
ぎろりとヘンリーを睨みつけてから、オハラは咳払いをして話を切り替えた。
「外の世界を知る大人の男として、俺は坊っちゃんに言っておきたいことがあります。世界は広い! そして光に満ち溢れている。いま坊っちゃんが目にしている屋敷の中の狭い世界なんて、食事が美味しい以外には大して見るべきものもないです。広い世界に旅に出れば、すぐにわかりますとも。この世界はまあ、食事の他にも『俺』という光が存在しているので、そう捨てたものでもないですが」
「オハラが料理を褒めていたと、料理長に伝えておきます。きっと喜ぶ」
打てば響くヘンリーの返事を耳にして、オハラはだんだんと駄々っ子のように地団駄を踏む。
「あーもう、可愛げがない! 笑わない子どもっていうのはたいして幸せじゃないんですよ。生まれたばかりの赤ん坊見たことありますか? 泣くとき以外ずーっとけらけら笑っているんですよ。それが、年々笑わなくなっていく。あれを見ていると、笑いってのは減るもんだとよくわかる。坊っちゃんのように、六歳で早々と底をつくのは早すぎです」
「底をつくとどうなるのだ?」
「感受性が枯れて、詩を詠めなくなります」
真面目な顔で聞いていたヘンリーは、不意に顔をほころばせた。誰が親であれ、六歳のヘンリーは実に愛らしい笑顔の少年である。
天使のような笑みを向けられて、オハラもまたつい唇の端に笑みを浮かべた。
ヘンリーは、笑顔のまま言った。
「見てください、先生。いまの僕、笑えていますか? これで先生みたいな詩人もどきにならないで済みますか?」
「どういう意味だ。おい、外に出ろ。お前に『人生』というものをわからせてやる」
オハラが凄んで言うと、ヘンリーは「あはは」と声を上げ、腹を抱えて爆笑した。
その笑いっぷりを眺めて、オハラはそれ以上の言葉を呑み込み、ふんと鼻を鳴らす。やがて、詩人らしく響きの良い声で憎まれ口を叩いた。
「わかれば良いんですよ。笑っていると、人生っていうのは知らないうちにどんどん良くなって、毎日がバラ色になります。間違いないです」
ヘンリーは、ちらっとオハラを見ていたずらっぽく言う。
「そういうのは、バラ色の人生を送っている男が言ってこその説得力だと思う。先生が言うと信憑性が薄れるので、絶対にやめたほうがいいです」
オハラは唸り声を上げて、もう一度「外に出ろ」と言った。
面白くて、笑いが止まらないな。
* * *
ヘンリーの「父親」であるミルズ侯爵は、大変邪悪な人間である。六歳になるヘンリーは、そのことを親切なひとに教えられて、よく知っていた。
ミルズ侯爵は、政略で結ばれた妻に興味を示さず、とある貴族夫人との関係にのめりこんだ。愛情のない生活に長年耐えていた侯爵夫人は、結婚から十年過ぎた頃、破れかぶれとなり自分もまた「火遊び」をする。
その時期に生まれたのが、ヘンリーだった。
夫人は出産に命を使い果たし、息子の生まれに関して自らの言葉で語る前に死んだ。
社交界のゴシップ好きから、侯爵家の使用人や出入りの業者に至るまで、誰もがヘンリーの父はミルズ侯爵ではないと知っていた。
しかし、ミルズ侯爵はヘンリーを嫡子として認めた。
正妻が産んだ最初で最後の子であるからして、侯爵家の跡継ぎとして遇するのは当然であると、内外に示したのだ。
結婚以来、死ぬまで妻を顧みることもなかった男が、ついに情を示したのか?
そうではなかった。
ミルズ侯爵は、自分の弟や甥のことが大嫌いだったのだ。
六歳になったヘンリーの前で、ミルズ侯爵は腹を抱えて笑って言った。
「はっはっはっ、実にいい気味だ! 私と妻の間に子が生まれないことで、あいつらは侯爵家の家督が自分に転がり込んでくると思っていただろうに、あてがはずれたな! お前のおかげだよ、ヘンリー。お前がそこにいて、人間の形をして息をしているだけで、あいつらにとっては絶大な嫌がらせになるんだ。胸がすく思いだ!」
父上。
ヘンリーは、呼びかけの言葉を呑み込む。その代わりに、心の中で呟く。
(どうしてあなたは、それほどまでに叔父上や従兄のルイスをお嫌いなのですか。彼らに家督を譲るくらいなら、血の繋がらない「息子」に継がせるほうがマシとは)
人間の形をして息をしているだけで「嫌がらせ」になると断言されたヘンリーは、そこですうっと息を吸い込む。
そして、高笑いするミルズ侯爵を見つめて、そうっと吐き出すのだった。
この呼気に毒が含まれていればいいのに。
息を吐く。
* * *
ヘンリーは行き届いた教育を受け、それを理解し吸収する能力を持った子どもであった。そのため、大人を前にしたときに自分が大人に見えるように偽装する様子がしばしば見受けられた。
受け答えが、非常に大人びいている。
ミルズ侯爵が、子どもに聞かせる必要のない事情まで口にしてしまったのも、ヘンリーのこの態度に拠るところが大きい。
このことをいち早く看破したのは、彼に「行き届いた教育を施した」当の家庭教師、詩人のオハラである。オハラは、詩人を自称し将来は王宮の桂冠詩人であると言い張っているが、いまのところ特段に評価されているのは経済論考であり、ヘンリーの教育者としては歴史や言語を含めほぼすべての領域を担当していた。乗馬や剣術でさえも。
まだ二十代半ばと若く、優秀な青年だった。
黒く艷やかで巻きの強い癖毛で、整った容貌をしており、すらりとして背が高く実に見目も良かった。彼を知る誰に聞いても「あれで詩さえ読まなければ、非の打ち所がない」と評判は上々だった。詩だけが彼の瑕疵であるという共通の認識が、浸透していた。
オハラは詩の悪評などどこを吹く風で「自分は詩人であり、感受性が豊かである」として、ヘンリーのここ最近の子どもらしからぬ態度に腹を据えかねている。
「坊っちゃんは自分を不幸だと考えておいででしょうな」
ある日、語学の勉強の最後にオハラがそう切り出すと、ヘンリーはおっとりと微笑んで答えた。
「まったくそんなことはないですよ、先生。僕を愛してこの世に生んでくださった母上とこれほどすばらしい環境を与えてくださる父上がいて僕の健やかな成長を見守ってくださるたくさんの方がいますこれで自分を不幸だなんて考えていたらそれは単なる傲慢というものでしょう」
「息継ぎしないでどれだけ喋れるか選手権でもしているのか? よしわかった。俺の肺活量の本気を見せてやろう」
オハラは、すうっと息を吸い込む。
ヘンリーは、ガラス玉のような瞳で、じっとオハラを見つめた。ヘンリーのその挙動が何を意味するか、オハラはすでに見抜いている。
(さては「肺活量」という言葉がわからなかったな。それを俺に気取られないよう表情を消しつつ、しっかり覚えておき、後でこっそりと調べようとしている。読めたぞ)
さてこういう場合は、なんと言うべきか。
思案するオハラに、ヘンリーが生真面目な調子で声をかけてきた。
「先生も、僕と同じ空間で息をするのは嫌ですか?」
「は?」
「ずっと息を止めています」
指摘されて、オハラはすうっと息を吐き出した。もう一度深く深くこの部屋の空気を全部吸い尽くすほどに息を吸い込み、胸をふくらませたまま「べつに」と口にする。
「坊っちゃんと同じ空間で息をするのが嫌だなんて、そんなこと考えたこともありませんよ。誰がそんなことを言ったんですか?」
「父上です」
オハラは「情熱の詩人」を自称しており、怒るべきときは怒るのが詩人としてのあり方だと強く信じていた。
胸の前で指を組み合わせてぽきりと鳴らし、断固とした口調で告げる。
「坊っちゃんの父上には、俺から『親子の愛情とはいかなるものか』を、わからせてきましょう」
「それでは先生が解雇されるだけで、僕の世界は何も変わらないですよ?」
そう言ってから、ヘンリーはほんのりと笑みを浮かべて続けた。「間違いました。変わります。先生がいないことで、今より確実に僕の世界は悪くなるでしょう」と。
オハラはつんと痛みを覚えた目を閉ざし、鼻を指でつまんだ。
「泣かせるなよ……」
その様子を見て、ヘンリーは「では」と席を立つ。去ろうとしている気配を感じてオハラは「待ちな」とドスのきいた声で呼びかけて、引き止めた。
「俺がいなくなったら、世界が暗くなる。もっともです。坊っちゃんの世界は暗黒に閉ざされ、二度と光が差すことはないでしょう」
「そこまでは言ってません」
「さあもっと近くで、坊っちゃんの『光』たる俺を仰ぎ見て良いですよ」
「先生の言葉遊びを聞いていると、たしかに詩は壊滅的なんだろうなと実感を伴ってわかってしまいます」
「誰がそんなことを坊っちゃんに吹き込んだんです?」
ぎろりとヘンリーを睨みつけてから、オハラは咳払いをして話を切り替えた。
「外の世界を知る大人の男として、俺は坊っちゃんに言っておきたいことがあります。世界は広い! そして光に満ち溢れている。いま坊っちゃんが目にしている屋敷の中の狭い世界なんて、食事が美味しい以外には大して見るべきものもないです。広い世界に旅に出れば、すぐにわかりますとも。この世界はまあ、食事の他にも『俺』という光が存在しているので、そう捨てたものでもないですが」
「オハラが料理を褒めていたと、料理長に伝えておきます。きっと喜ぶ」
打てば響くヘンリーの返事を耳にして、オハラはだんだんと駄々っ子のように地団駄を踏む。
「あーもう、可愛げがない! 笑わない子どもっていうのはたいして幸せじゃないんですよ。生まれたばかりの赤ん坊見たことありますか? 泣くとき以外ずーっとけらけら笑っているんですよ。それが、年々笑わなくなっていく。あれを見ていると、笑いってのは減るもんだとよくわかる。坊っちゃんのように、六歳で早々と底をつくのは早すぎです」
「底をつくとどうなるのだ?」
「感受性が枯れて、詩を詠めなくなります」
真面目な顔で聞いていたヘンリーは、不意に顔をほころばせた。誰が親であれ、六歳のヘンリーは実に愛らしい笑顔の少年である。
天使のような笑みを向けられて、オハラもまたつい唇の端に笑みを浮かべた。
ヘンリーは、笑顔のまま言った。
「見てください、先生。いまの僕、笑えていますか? これで先生みたいな詩人もどきにならないで済みますか?」
「どういう意味だ。おい、外に出ろ。お前に『人生』というものをわからせてやる」
オハラが凄んで言うと、ヘンリーは「あはは」と声を上げ、腹を抱えて爆笑した。
その笑いっぷりを眺めて、オハラはそれ以上の言葉を呑み込み、ふんと鼻を鳴らす。やがて、詩人らしく響きの良い声で憎まれ口を叩いた。
「わかれば良いんですよ。笑っていると、人生っていうのは知らないうちにどんどん良くなって、毎日がバラ色になります。間違いないです」
ヘンリーは、ちらっとオハラを見ていたずらっぽく言う。
「そういうのは、バラ色の人生を送っている男が言ってこその説得力だと思う。先生が言うと信憑性が薄れるので、絶対にやめたほうがいいです」
オハラは唸り声を上げて、もう一度「外に出ろ」と言った。



