※
「え? 俺、そんなん言うてへんで?」
「え?」
「沢見と、夏に行かせてもうたけど、よう考えたら夏と滝くんはあかん組み合わせやったな。喧嘩しとったらどうしよ、みたいな笑い話やったらしたかもしらんけど」
体育祭から数日が経ったある夜のこと。
一階の談話室でたまたま一緒になった純平に、「そういえば」と体育祭のことを聞いた俺は、予想外の返事に、目を白黒とさせた。
その俺の反応に、「まぁ、ええけど」と純平が頷く。
「依人くんがそう言うんやったら、それで。言うたんかもしれんわ。知らんけど」
「純平さぁ。『知らんけど』って言ったら、ぜんぶ丸くおさまると思ってない?」
「でも、実際、依人くんと仲良うなったんやろ? よかったやん。はい、終わり、終わり」
「いや、ちょっと」
「いや、ちょっと言われても、俺、このあと、道くんと勉強会する予定あるんよね」
俺にかまう暇はないと宣言する笑顔で、純平は三人掛けのソファーから立ち上がった。
依人はひとりでなんでもできるので、正直ちょっとうらやましい。バイバイと見送り、俺はソファーに身を沈め直した。
……ってことは、十割自分の意思で俺に声かけに来たのかな。
依人が気遣ってくれたらしいことはうれしいが、「そんなに?」と首をひねりたい気持ちもある。あいつ、あんなふうだけど、繊細だよな。
うーん、と唸っていると、ふいに影が落ちた。
「あ、海先輩」
「どうしたの、唸ってたみたいだけど」
「いや……。あ、というか、なんかひさしぶりですよね。息抜きですか?」
少し距離を空けて隣に座った海先輩に、ぱっと笑顔を向ける。
体育祭が終わって一、二年生はのんびりしているものの、三年生は受験勉強に励んでいる人が多い。海先輩もそのひとりだ。
「そう、休憩」
首肯した海先輩が、くすくすと笑う。
「ひとり部屋は静かでいいけど、たまには誰かと喋りたいっていうか。去年はなっちゃんがいたから、にぎやかで楽しかったんだけどな」
「俺も! 去年めっちゃ楽しかったです!」
元気良く同意した俺に、海先輩は「でも」とからかうように目を細めた。
「なっちゃんは、今も楽しいんじゃないの? 四月のころはひやひやしたけど、だいぶ仲良くなったみたいだし」
「そうなんですよ! でも、まぁ、仲良くなったのは、本当にけっこう最近なんですけど。――あ、依人だ。依人」
照れ笑いをしたところで、タイミング良く廊下をぺたぺたと歩く依人が目についた。
ソファーから身を乗り出して手を振ると、立ち止まった依人が「なんですか」と反応する。
四月を思えば十分すぎる進歩だが、七月の依人はさらにひと味違うので、談話室の中まで入ってきてくれるのだった。
洗濯ものを入れた袋を持っているので、ランドリー帰りだったらしい。近寄ってきた依人を見て、海先輩は俺を見た。
「なるほど。仲良くなったねぇ」
「なにがですか?」
しみじみ呟いた海先輩ではなく、依人が俺に問いかける。警戒心のにじんだ態度がかわいくて、ううん、と俺は首を振った。
「俺と依人が仲良くなったって話、してただけ」
「はぁ」
「そしたら、依人が通りかかったから。見せびらかしたくなった」
「はぁ」
怪訝な相槌を繰り返したものの、依人は立ち去ることはしなかった。「まぁ、いいですけど」と言いながら、俺の隣に入り込む。
最近の依人はたまにこういう座り方をするのだが、スペースのないところでもおかまいなしなので、ちょっと猫っぽいな、と俺は思っている。
警戒心バリバリだった野良猫が、すり寄るようになった、みたいな。
言葉にした瞬間に依人が爆切れしそうなことを考えつつ、スペースを分け与えるべく海先輩側に少し距離を詰める。
一連のやりとりにだろう。海先輩は「へぇ」と意外そうな声を出した。
「なんか、依人くん、本当に丸くなったね」
「そうなんですよ。実は体育祭のときも」
「そういうこと、わざわざ言わなくていいですから」
ぴしゃりとした依人の制止に、海先輩が瞳を丸くする。でも、すぐに、海先輩はなにかを悟った顔になった。
「ツンデレってやつか、これ。なっちゃん懐けたな」
「それ、沢見にも言われたんですよ。でも、実際、懐きましたよね?」
「だから、ちょっと。そういう保護者ぶるのも求めてないんですよ。マジで」
不本意極まりないという声に、海先輩と顔を見合わせる。
……なんか、いいなぁ。
笑うのは我慢したものの、俺は改めて実感した。
大好きなブラザーだった海先輩と、なんだかんだ言ってもかわいい現ブラザーの後輩と、三人で一緒に過ごしている。春休みの俺が待ち望んだ光景。
「ごめん、ごめん」
膝の上に抱えた大きな袋に顎を乗せる姿の幼さに、よしよしと頭を撫でる。
「じゃあ、あれは、依人と俺の秘密ってことで」
俺たちを見守る海先輩はほほえましそうだったが、依人はむすりと視線を外した。俺の手を払いのけ、ひとりごとの調子で呟く。
「言わなきゃよかったって思うことも、やっぱりめちゃくちゃあるんですけど」
「ん? うん」
「今もそう思ってるし」
変わらず前方を見つめたまま、依人は「でも」と言葉を続けた。
「言わなくて後悔することがあるっていうのも、ちょっとわかります」
「……ふぅん?」
そういや、そんな話もしたんだっけ、俺。
ひっそり首をひねっていると、海先輩が「じゃあさ」と依人に話を振った。
「体育祭の話は秘密でいいけど。結局、依人くんは、なっちゃんのどこが気に入ったの? だいぶツンツンしてたじゃん」
「あ、それ、俺も聞きたい。うざいとかうるさいしか言われてないもん」
「ちょっと、ちょっと、依人くん。依人くんにとってはお兄ちゃんでも、俺にとってはかわいい後輩ブラザーなんだからいじめないであげてよ」
からかうように言って、海先輩が俺の肩を抱き寄せる。
ひさしぶりの密着タイムに、俺はぽすりと上体を預けた。俺も対人距離近いけど、海先輩も近いんだよね。
にこにこ笑う俺たちに依人はドン引きという顔をしたものの、丸くなったと評されたたまものか、嫌味を繰り出すことはしなかった。
自分の荷物に視線を戻し、淡々とした口調で答える。
「無害なとこ」
「無害?」
海先輩は不思議そうに問い返したが、依人はおざなりに似た台詞を告げただけだった。
「無害だと落ち着くじゃないですか」
照れているのか、どことなくむすりとした横顔。その顔を見つめ、内心で感慨深く呟く。
そっか。落ち着く場所にしたいっていう目標は、叶ってたのか。
……やってみないとわかんないよな、本当。
四月からの日々を思い返していると、海先輩が俺の肩を指先で叩いた。視線を向けると、内緒話をするような声が耳元で響く。
「よかったねぇ、なっちゃん。念願のかわいいブラザーができて」
念願の、かわいいブラザー。ほかでもない海先輩のお墨つきに、俺は満面の笑みで「はい」と返事をした。
逆隣からは、俺の満面の笑みと正反対の呆れ切った溜息が聞こえた気もしたけれど。
依人流の照れ隠しだったんじゃないかな、と思う。
「え? 俺、そんなん言うてへんで?」
「え?」
「沢見と、夏に行かせてもうたけど、よう考えたら夏と滝くんはあかん組み合わせやったな。喧嘩しとったらどうしよ、みたいな笑い話やったらしたかもしらんけど」
体育祭から数日が経ったある夜のこと。
一階の談話室でたまたま一緒になった純平に、「そういえば」と体育祭のことを聞いた俺は、予想外の返事に、目を白黒とさせた。
その俺の反応に、「まぁ、ええけど」と純平が頷く。
「依人くんがそう言うんやったら、それで。言うたんかもしれんわ。知らんけど」
「純平さぁ。『知らんけど』って言ったら、ぜんぶ丸くおさまると思ってない?」
「でも、実際、依人くんと仲良うなったんやろ? よかったやん。はい、終わり、終わり」
「いや、ちょっと」
「いや、ちょっと言われても、俺、このあと、道くんと勉強会する予定あるんよね」
俺にかまう暇はないと宣言する笑顔で、純平は三人掛けのソファーから立ち上がった。
依人はひとりでなんでもできるので、正直ちょっとうらやましい。バイバイと見送り、俺はソファーに身を沈め直した。
……ってことは、十割自分の意思で俺に声かけに来たのかな。
依人が気遣ってくれたらしいことはうれしいが、「そんなに?」と首をひねりたい気持ちもある。あいつ、あんなふうだけど、繊細だよな。
うーん、と唸っていると、ふいに影が落ちた。
「あ、海先輩」
「どうしたの、唸ってたみたいだけど」
「いや……。あ、というか、なんかひさしぶりですよね。息抜きですか?」
少し距離を空けて隣に座った海先輩に、ぱっと笑顔を向ける。
体育祭が終わって一、二年生はのんびりしているものの、三年生は受験勉強に励んでいる人が多い。海先輩もそのひとりだ。
「そう、休憩」
首肯した海先輩が、くすくすと笑う。
「ひとり部屋は静かでいいけど、たまには誰かと喋りたいっていうか。去年はなっちゃんがいたから、にぎやかで楽しかったんだけどな」
「俺も! 去年めっちゃ楽しかったです!」
元気良く同意した俺に、海先輩は「でも」とからかうように目を細めた。
「なっちゃんは、今も楽しいんじゃないの? 四月のころはひやひやしたけど、だいぶ仲良くなったみたいだし」
「そうなんですよ! でも、まぁ、仲良くなったのは、本当にけっこう最近なんですけど。――あ、依人だ。依人」
照れ笑いをしたところで、タイミング良く廊下をぺたぺたと歩く依人が目についた。
ソファーから身を乗り出して手を振ると、立ち止まった依人が「なんですか」と反応する。
四月を思えば十分すぎる進歩だが、七月の依人はさらにひと味違うので、談話室の中まで入ってきてくれるのだった。
洗濯ものを入れた袋を持っているので、ランドリー帰りだったらしい。近寄ってきた依人を見て、海先輩は俺を見た。
「なるほど。仲良くなったねぇ」
「なにがですか?」
しみじみ呟いた海先輩ではなく、依人が俺に問いかける。警戒心のにじんだ態度がかわいくて、ううん、と俺は首を振った。
「俺と依人が仲良くなったって話、してただけ」
「はぁ」
「そしたら、依人が通りかかったから。見せびらかしたくなった」
「はぁ」
怪訝な相槌を繰り返したものの、依人は立ち去ることはしなかった。「まぁ、いいですけど」と言いながら、俺の隣に入り込む。
最近の依人はたまにこういう座り方をするのだが、スペースのないところでもおかまいなしなので、ちょっと猫っぽいな、と俺は思っている。
警戒心バリバリだった野良猫が、すり寄るようになった、みたいな。
言葉にした瞬間に依人が爆切れしそうなことを考えつつ、スペースを分け与えるべく海先輩側に少し距離を詰める。
一連のやりとりにだろう。海先輩は「へぇ」と意外そうな声を出した。
「なんか、依人くん、本当に丸くなったね」
「そうなんですよ。実は体育祭のときも」
「そういうこと、わざわざ言わなくていいですから」
ぴしゃりとした依人の制止に、海先輩が瞳を丸くする。でも、すぐに、海先輩はなにかを悟った顔になった。
「ツンデレってやつか、これ。なっちゃん懐けたな」
「それ、沢見にも言われたんですよ。でも、実際、懐きましたよね?」
「だから、ちょっと。そういう保護者ぶるのも求めてないんですよ。マジで」
不本意極まりないという声に、海先輩と顔を見合わせる。
……なんか、いいなぁ。
笑うのは我慢したものの、俺は改めて実感した。
大好きなブラザーだった海先輩と、なんだかんだ言ってもかわいい現ブラザーの後輩と、三人で一緒に過ごしている。春休みの俺が待ち望んだ光景。
「ごめん、ごめん」
膝の上に抱えた大きな袋に顎を乗せる姿の幼さに、よしよしと頭を撫でる。
「じゃあ、あれは、依人と俺の秘密ってことで」
俺たちを見守る海先輩はほほえましそうだったが、依人はむすりと視線を外した。俺の手を払いのけ、ひとりごとの調子で呟く。
「言わなきゃよかったって思うことも、やっぱりめちゃくちゃあるんですけど」
「ん? うん」
「今もそう思ってるし」
変わらず前方を見つめたまま、依人は「でも」と言葉を続けた。
「言わなくて後悔することがあるっていうのも、ちょっとわかります」
「……ふぅん?」
そういや、そんな話もしたんだっけ、俺。
ひっそり首をひねっていると、海先輩が「じゃあさ」と依人に話を振った。
「体育祭の話は秘密でいいけど。結局、依人くんは、なっちゃんのどこが気に入ったの? だいぶツンツンしてたじゃん」
「あ、それ、俺も聞きたい。うざいとかうるさいしか言われてないもん」
「ちょっと、ちょっと、依人くん。依人くんにとってはお兄ちゃんでも、俺にとってはかわいい後輩ブラザーなんだからいじめないであげてよ」
からかうように言って、海先輩が俺の肩を抱き寄せる。
ひさしぶりの密着タイムに、俺はぽすりと上体を預けた。俺も対人距離近いけど、海先輩も近いんだよね。
にこにこ笑う俺たちに依人はドン引きという顔をしたものの、丸くなったと評されたたまものか、嫌味を繰り出すことはしなかった。
自分の荷物に視線を戻し、淡々とした口調で答える。
「無害なとこ」
「無害?」
海先輩は不思議そうに問い返したが、依人はおざなりに似た台詞を告げただけだった。
「無害だと落ち着くじゃないですか」
照れているのか、どことなくむすりとした横顔。その顔を見つめ、内心で感慨深く呟く。
そっか。落ち着く場所にしたいっていう目標は、叶ってたのか。
……やってみないとわかんないよな、本当。
四月からの日々を思い返していると、海先輩が俺の肩を指先で叩いた。視線を向けると、内緒話をするような声が耳元で響く。
「よかったねぇ、なっちゃん。念願のかわいいブラザーができて」
念願の、かわいいブラザー。ほかでもない海先輩のお墨つきに、俺は満面の笑みで「はい」と返事をした。
逆隣からは、俺の満面の笑みと正反対の呆れ切った溜息が聞こえた気もしたけれど。
依人流の照れ隠しだったんじゃないかな、と思う。

