五回作業日があれば、四回は俺のそばで手伝い、一回は一年生のところで作業という依人のルーチンを見守るうちに時は過ぎ、六月下旬の金曜日。
 体育祭の本番がやってきた。

「夏先輩」
 備品の段ボール箱を運んでいた背中にかかった声に、立ち止まって振り返る。
「依人」
 本日の天気予報、晴れ。予想最高気温三十三度。ほとんど真夏のような太陽の下でも、なぜか依人は涼しげだ。
 イケメンパワーすげぇなと感心しつつ、「どした?」と依人に問いかける。
「今、部活対抗リレーじゃなかったっけ? 応援しなくていいの?」
 俺たちが今いるグラウンドから少し離れた通路にも、ひび割れたアナウンスは届いていて。サッカー部が抜いたのなんのと盛り上がっている。
 だが、依人はまったく気にしない顔で切り出した。
「純平先輩が、夏先輩に備品運びと人探し頼んだけど、よくよく考えたら夏先輩の苦手な相手だったって」
「苦手って。いや、まぁ、たしかに滝くんとあんまり気は合わないけど」
 純平に頼まれた人探しの相手が、あまり気の合わない滝くんであることは事実だが。困惑して、俺は首を傾げた。
 ちなみに、滝くんは、この学園の悪しき伝統、俺がどうなのよと思い続けている賭けごっこの胴元である。
 そういう意味で合わない相手だけど、探しに行くのが嫌ということはない。
「純平、ほかにもなんか言ってたの?」
「うん。喧嘩したら困るって」
「いや、いや、しない。しないから、喧嘩とか」
 苦手な相手と喧嘩って、小学生じゃあるまいし。とんだ言いがかりに――というか、よくよく考えたらってなんなんだ――、唇を尖らせたものの、俺ははっとして依人に確認を取った。
「え、っていうか、わざわざ言いに来てくれたの? 喧嘩するなって?」
「ついでに付き合おうかなって」
「なんで、大丈夫だよ。俺が苦手な相手がいるからって依人が来るのおかしいじゃん」
「一蓮托生だからじゃないですか?」
 しれっとした返答に、思わず歯噛みする。
「一蓮托生……。依人の苦手はいくらでも貰ってあげたいけど、俺の苦手は分けたくない……」
「なに馬鹿なこと言ってんですか。早く行かないと怒られますよ」
「それはそうなんだけどさぁ」
 早く行かないと怒られることも事実だったので、体育倉庫の方向に渋々足を踏み出す。
 それにしても、純平も依人も人のことをなんだと思っているのか。誤解を解くべく、俺は依人に言い足した。
「でも、本当、喧嘩とかしないからね、俺。大人なので苦手な相手ともちゃんと距離を取って付き合います。寮生活のマナー」
「大人って」
 どこがだと言わんばかりに、でも、春のころほど嫌味のない調子で依人が笑う。柔らかになった横顔がなんだかむず痒くて、俺は少しだけ足を速めた。
『本当、準備期間で夏に懐いたよね、依人くん』
 沢見が驚いた顔で評したとき、「そうだろ」と俺は自慢したけど、俺にだけ懐いたわけじゃないことは知っていた。
 純平を「寮生委員の先輩」とか「関西弁の人」じゃなく「純平先輩」と称したことがいい例で。つまり、依人は変わろうとしているんだと思う。
 一年生全体で和気藹々とは言わないけど、道長くんとはたまに喋っているみたいだし、俺が談話室に行くときについてきて、沢見や純平と話すこともある。
 ……いいこと、だよな。
 置いてきぼりを食らったみたいに感じるのは、わがままだ。
 うん、とひとり頷くと、「けっこう多いんですね、来場者」と依人が言った。自分から話を振ってくれるようになったことも、変化に違いない。
「新入生の親はそこそこ来てるんじゃないかな」
 視界に入った保護者らしき来場者を見送り、俺は問いかけた。
「依人のところは来てないの?」
「平日に会社休んでまで来ないと思いますけど」
「そっか、土日ならよかったね」
「そこまで来たいと思ってないと思いますけど」
「……俺が依人のガチの身内だったら、絶対来たいと思ってると思う」
 だって、全方位にツンケンしてる子どもが全寮制の男子校に入るとか、気が気じゃないと思うもん。
 そういう意味では、今の依人を見たら安心するかもしれないけど。
 生ぬるく笑うと、依人が俺が持っていた箱にむんずと手を伸ばした。なにかしらが伝わったらしい。
「すみませんね、協調性もなにもなくて。ついでに気も利かなくて。荷物持ちましょうか、先輩」
「誰もそんなこと言ってないじゃん! っていうか、いいから、そういう気遣い。本当に、マジで。フリとかじゃなくて」
「なんでですか、後輩ってそういうもんなんでしょ」
「違うよ、かわいがる対象だよ、後輩は。あと、依人には、いっそずっとふてぶてしくいてほしい。なんかもうそのほうが落ち着くから!」
 箱を抱え込んでぜぇはぁ訴えると、依人は呆れた顔で手を離した。
「めちゃくちゃ勝手なこと言いますね、マジで」
「…………なんか、ごめん」
 たしかに、かわいいブラザーが欲しい、仲良くしたいと騒いでいた俺が言う台詞じゃない。気まずさに耐えかね、無理やり話題を転換する。
「あ、そうだ。秋にある文化祭は土日もやるし、来る親多いよ。親だけじゃなくて、友達とかも呼べるんだけど。依人も誰か呼んだりする?」
「呼ばないですよ、面倒くさい」
「あ、そうなんだ……」
 ぴしゃりとした言い方に、話題のチョイスを間違えたことを自覚した。
 やっちゃったなぁと思いつつ、黙り込んだ依人の横顔を窺う。じわじわした暑さのせいだけではない気のする、うんざりした表情。
 ……友達の話題が嫌だったのかな。
 内省しているうちに目的の体育倉庫が見え、「あ」と声をこぼす。こちらに向かって歩いてくる長身に気づいたからだ。
 頭髪検査をギリギリですり抜け続けている茶髪は、滝くんで間違いない。
「滝くん。ちょうどよかった」
 気分を切り替え、立ち止まって明るい声をかける。
「純平が探してたよ、そろそろ戻ってほしいって」
「うわ、だる」
 俺の伝言に、滝くんは目つきの悪い目をさらに悪くした。
 そういう顔して、賭けごっこの胴元してるから、怖がる新入生が出るんだよ、との苦言は呑み込み、にっこりほほえむ。
 友好的な笑顔を維持した俺に反し、滝くんはうっとうしいという顔をした。
「わざわざ呼びに来るとか。そういうとこうざいよな」
「うざくてもいいけど、ひとりがサボると、真面目にやってる人が困るから」
「はい、はい。真面目、真面目」
 嫌味でしかない口調に、笑顔が固まる。
 いや、腹立つな。イラッとしたが、落ち着け、と俺は自分に言い聞かせた。俺は先輩。後輩ブラザーの前で喧嘩などしないのである。
「なんでもいいけど、早く行ってあげてね。そういうことだから」
「わかった、わかった」
 おざなりな了承だったものの、滝くんがグラウンドに向かって歩き出したので、俺はすべてよしとした。背中を見送り、依人に声をかける。
「ごめん、片づけよっか」
「早く済んでよかったですね」
 その言い方に、俺は思わず苦笑を返した。
 体育倉庫の所定の場所に備品の箱を戻しながら、「ごめんな」ともう一度断りを入れる。
「早く済んだけど、空気悪かっただろ」
「それはべつにいいんですけど。嫌じゃないんです?」
「まぁ、苦手がってるのはお互いさまだし、軽い嫌味だし。あ、依人に見せたのは悪かったと思ってるんだけど」
 そう言った俺に、「じゃなくて」と依人は首を傾げた。
「軽い嫌味でも嫌じゃないです? それに、お互いさまでも、自分のことマイナスに思ってる相手と顔合わせるのってストレスだし」
「え……、もしかして、それで付き合うって言ったの?」
 この場合の沈黙は、間違いなく肯定だ。純平に言われたのが八割だったとしても、二割は自分の意思で気遣ってくれた、と。そういうこと。
「え、え? 依人、そんなこと言うキャラだっけ?」
「……もう二度と言わないんで、どうぞ安心してください」
「いや、ごめん、ちょっとびっくりして! それだけ! 謝るから寂しいこと言わないで!」
 心外だという反応に、お願い、と恥も外聞もなく俺は言い縋った。
 よけいな気を使わせたいわけではないし、驚愕したことも事実だけど、あたりまえの感情としてうれしくないわけがない。
「まぁ、いいですけど」
 溜息まじりだったものの、得た了承にほっとして、改めてお礼を告げる。
「でも、そっか、ありがとね。けど、めっちゃ仲悪いとかじゃないから、気にしないで。ちょっといろいろあって相性悪いだけだから」
「いろいろって、賭けみたいなやつのことですか? 先輩、嫌いそうですよね、そういうの」
 依人の返事に、俺はぱちりと瞬いた。
「なんで知ってんの?」
「さすがに知ってますよ。俺のことなんだと思ってるんですか、マジで」
「いやぁ」
 べつに、ずっとぼっちと思っていたわけではない……つもりなんだけど。繰り返すけど、最近ちょくちょく同級生と交流してることは知ってたし。
 脳内で言い訳を繰り広げたものの、俺は「ごめん」と潔く謝った。この感じ、依人はきっと『爆発大賞』のことも知っている。
「気分悪いよな。あたりまえだけど、自分がそういう賭けの対象になってんの」
「いや、べつに」
「あ、でも、これは沢見も言ってたから本当なんだけど。依人が悪く言われてたわけじゃなくて、俺のうざ絡みを気の毒がられてるっていうか」
 わたわた言い募った俺に、依人は小さく息を吐いた。
 呆れた雰囲気に、ちくりと胸が痛む。せっかく馴染もうとしてくれていたのに、嫌になってほしくない。
「だから、べつにいいですって」
「え……」
 勝手な懸念ばかりしていた俺は、心底驚いた。依人の声にマイナスの感情がなかったからだ。
「それに、どうせ、先輩は参加してないんでしょ」
「え? あ、えっと」
「これだけ人数がいたら、いろんな人がいるんだろうなってわかるし」
 俺は参加していないと言ったときと同じあたりまえという雰囲気に、胸が熱くなる。
 ……そんなふうに思ってくれてたんだ……。
 どきまぎと頷きかけたものの、一転、俺は懺悔した。そんな立場じゃないと気がついたのである。
「いや、違う、ごめん」
「は?」
「そう言ってくれるのはうれしいけど、止めれてない時点で俺は同罪だった……。でも、できれば、ブラザーとしては最低限信用してほしい……」
「はぁ」
「……ごめん、これも違った」
「はぁ?」
「いや、その、依人の悪口は絶対に言わないからって言おうとしたんだけど、純平に愚痴ったことあったなって思い出して。マジごめん、クソすぎた」
 最終的に自分のクソぶりを暴露する事態に陥り、視線が地に落ちる。自己嫌悪に浸っていると、またひとつ溜息が響いて、依人が口を開いた。
「たしかに、たまにうざいときはありますけど」
「へ?」
「正直、うるせぇなぁって思うときはあるし、鈍いなって呆れるときもあるけど」
「めちゃくちゃ悪口じゃん……」
 俺が悪いんだけど、ちょっといろいろダメージがデカい。
 半泣きで顔を上げると、目が合った依人はなぜかしかたないという顔をした。その顔のまま、「でも」と続ける。
「ブラザーが選べないのはそうだけど、俺は先輩がブラザーでよかったって思ってる」
 思いもしなかった台詞に、じっと依人を見つめる。
『試しに俺と仲良くしてみないかなと思って。死ぬほどうざいわけじゃないんだろ?』
 体育祭の準備が始まるより、ずっと前。まだギリギリ四月だったころ。そう言って、強引に提案した。
 絶対に楽しかったと言わせてやると決心したのは俺だけど、こんなに早く言葉を貰えるとはまったく予想していなかった。
 妙にドキドキした心で、問いかける。
「うざくて、うるさくて、鈍いのでも?」
「あんただって、こんなに態度悪いのが後輩のブラザーでも『かわいい』って言うじゃないですか」
 呆れた声で返し、依人はぽんと俺の頭に手を置いた。
「お返し」
「お、お返し……?」
「困ってたら助けるのがブラザー制度なんでしょ」
 混乱しているあいだに、本当に軽くわしゃりと髪を撫で、依人の指が離れていく。
 ……俺が落ち込んでると思って、慰めてくれたってこと、だよな。
 たぶん、主に、滝くんとのあれこれについて。
 うれしいような、照れくさいような、恥ずかしいような。いろいろな感情が混ざった気持ちで、去年の一幕を思い返す。
『っつか、マジでうざいんだけど。こっちは遊びで楽しんでんのに、沢見たちがくっつくかどうか賭けるのやめろって本気に取りすぎだろ』
 当時から賭けごっこを仕切っている側だった滝くんは、口を出した俺に不快だという顔を隠さなかった。
 俺だって、テストは誰が一位か、だとか。体育祭はどこが優勝するか、だとか。そういった他愛ないお題だったら、なにも言うつもりはなかった。
 娯楽の少ない寮の、コミュニケーションの一環としての遊びと知っていたから。
 でも、去年、「沢見たちがくっつくかどうか」を賭けていたのは嫌だった。すごく、嫌だった。
 それで、言い方も考えず、カチンときた感情のまま詰め寄った。
 海先輩が取り成してくれたおかげで、おおごとにならずに済んだけど。滝くんと俺は「気が合わない」ことになった。
 合わないものはしょうがないし、うざい自覚もある。べつに、今さら落ち込んでいたわけでもない。でも。
 ……うれしいな、やっぱり。
 誰とも仲良くする気はないと高い壁を張り巡らせていた依人が、俺に心を傾けてくれている。
 昼間でも少し薄暗い体育倉庫の床には、入口から差し込んだ光で黒い影ができていた。その影から視線を上げ、依人に笑いかける。
「ありがと、依人。ちょっと照れるけど、元気出た」
「元気出たって、先輩、いつも元気じゃないですか」
 うざいくらい、という一言を呑み込んだらしい表情に、はは、と声を出して笑う。
 落ち込んでいたわけではないけど、さらに元気が出たことは本当だ。
「そうやって慰めてくれたの、ふたりめ」
「……ふたりめ?」
 不本意そうな確認に、張り切って「うん」と頷く。
「ひとりめはね、海先輩」
 本当に、俺はブラザーに恵まれている。充足した気分で、依人に満面の笑みを向ける。
「じゃあ、今度こそ戻ろっか。依人もまだ参加競技残ってるんだろ? 俺、めちゃくちゃ応援するから、がんばって」
「それは本当にマジでいいです。フリとかじゃなくて」
 うんざりした様子で頭を振った依人の背中をぽんと叩き、体育倉庫をあとにする。
 空は晴天で、かわいいブラザーがいる。いい体育祭だな、と俺は思った。
 ただひとつ、残念なことがあったとすれば。
 依人の怒涛のデレの衝撃で、楽しみにしていた三年生の応援合戦の記憶が、少し薄くなったことかもしれない。