※
「へぇ、依人くんの尊敬する先輩、俺なんだ」
大浴場から部屋への帰り道。
俺の話を聞いて、にんまり笑った沢見に、思わずジト目になる。いや、そういう反応すると思ってたけどさぁ。
ふたりで廊下を歩きながら、俺は拗ね気味に問いかけた。
「っていうか、そんなになんか話したの? 一晩で距離詰めすぎじゃない?」
「たいした話はしてないけど。そういうふうに言ってくれたってことはあれかな。俺は谷先輩の部屋に入らないってやつ」
「へ?」
「ちなみに、庄野は、『桐生先輩、うるさいとは聞いてましたけど、マジでうるさかったです~。夜もずっとごそごそしてるし~』って言ってたな」
「うるさいって聞いてたって誰から!? 夜ずっとごそごそしてたのはマジごめんだけど! 眠れなかったの」
弁明した俺に、タオルで髪を拭きながら、沢見が肩をすくめる。
「はい、はい。その声、その声。めちゃくちゃ早朝に響いたよね。あれは笑った。飛び起きたけど」
「それもマジでごめん、罰掃除もやり切ったので許してください……」
「べつにいいけど、俺は。仲直りもしたみたいで安心したし。だから、気になるなら、これ以上は依人くんに聞きなよ。教えてくれるでしょ、たぶん」
「そうかなぁ。――あ」
生乾きの髪を揺らしたところで、俺はぱっと目を輝かせた。
「海先輩!」
「なっちゃん。沢見くんも、ひさしぶりだね」
一階の談話室から出てきた海先輩が、にこりとほほえむ。
海先輩が言ったとおりで、朝の食堂で見かけることはあっても、こんなふうにばったり出会うことは本当にひさしぶりだった。
せっかくだし、もっと喋りたい。そわそわし始めた俺を見て、沢見は「じゃあ」と愛想の良い笑みを浮かべた。
「俺、先戻るね。海先輩もお先です」
「よかったの? なっちゃん。沢見くん、本当に先に帰っちゃったけど」
ふたりになってすぐに、海先輩がこっそり俺に問いかける。
「邪魔じゃなかった? 大丈夫?」
「ぜんぜんです、ぜんぜん。依人の尊敬する先輩が、なんで俺じゃないんだっていう話をしてただけなんで。沢見だって言うんですよ」
「そうなんだ。なっちゃんに懐いたのにねぇ」
まぁ、相性はあるからねぇと言わんばかりの相槌に、「そうなんですよ」と勢い込む。なんのことはない。ちょっと寂しかったのだ。
「なんか急に仲良くなったんですよ、本当に。沢見は谷先輩の部屋に行かないっていう話をしただけだって言うんですけど」
「ああ、なるほど」
「え?」
「ごめん、ごめん。いや、かわいいなと思って」
目を丸くした俺をほほえましそうに見つめ、海先輩は納得したわけを明かした。
「我慢してるって話だよね、それ。たぶんだけど」
「我慢……」
実感が伴わないまま、おうむ返しに呟く。
『谷先輩の部屋でふたりにならない理由? 前にも言ったけど、先輩の勉強の邪魔したくないからだよ』
いつだったか、沢見はそう言っていた。
まぁ、もちろん、それだけじゃないけどね、と苦笑して。
密室に好きな人とふたりだと、触れたくなる。だから、守るべき一線のために我慢は必要なのだ、と。
……っていうか、海先輩、なにをどこまで知ってるんだろ……。
先ほどとは異なるそわそわを抱えたまま、海先輩を見上げる。
俺と依人の噂を気にしてくれていたという話は聞いたけど、なんだか少し気恥ずかしい。
「でも、べつに男同士だし。我慢ってなんだって感じですけど」
「そうかな」
俺の叩いた軽口に、海先輩は同調しなかった。
「そういうこともあるかもしれないけど、でも、大事にしたいって素敵なことだと思うけどな」
「……ですよね」
どこか困ったふうにほほえんだ海先輩から、そっと目を伏せる。
今の言い方はよくなかったと気づいたからだ。
……でも、そうだよな。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
男同士だし、体格だって変わんないし、と言いたくなる気持ちはある。でも、そういうことじゃないと依人も言っていた。
――顔の造作の話じゃなくて。好きな人が自分に笑いかけてくれたり、かまってくれたら、あ、かわいいなって思うでしょ。
かわいく見えるのは好きだから。顔の造作じゃなくて、主観の問題。いいなと思ったら好きになる。大事にしたい。
そう思ってくれる気持ちを「いや、俺も男なんだけど」で一蹴する考え方は、たぶん、すごく不誠実だ。
海先輩も、依人も、すごいな。そんなことを痛感して、顔を上げる。
「そういうとこ、本当、いいやつだなって思います」
「よかった」
撤回した俺に、海先輩はほっとした顔をした。
「本当はね、依人くんとのことで困ってるなら、最上級生として注意しようかって言おうと思ってたんだ。でも、よかった。大丈夫そうで」
「ありがとうございます。あと、すみません。なんか心配してもらってたみたいで」
変わらない優しさにはにかむと、海先輩は「いや~」となんとも言えない苦笑をこぼした。
「まぁ、心配はするでしょ。そもそもで言えば、変な噂になってる時点でなっちゃん切れないかな~って思ってたし。様子見してたら、今度は早朝に非常階段で揉めたって言うし、依人くんは医務室使ったとか言うし」
「断片だけ聞くとヤバいですよね!? でもマジで大丈夫です!」
医務室云々に至っては、「ちょっと腫れただけなんで」と渋る依人を半ば無理やり引っ張っていっただけの話だし。
ちなみにだけど、「たいしたことなくてよかったけど、ものに当たっちゃ駄目よ。下手したら折れるわよ」と真顔で延々と怒られている。折れるんだと俺がビビった。
「いいよ、いいよ。安心した」
ぺこぺこ謝る俺に、海先輩はほほえんだ。
「なっちゃんに直接聞けてよかった」
海先輩がぽんと肩に置いた手のひらから、温かい信頼が伝わってくる。
それがうれしくて、ありがたくて。俺はこんなブラザーになりたかったんだって。改めて思い出した心地だった。
でも、べつに、と言うとあれだけど、依人との関係を『ブラザー』だけに留めたいと意固地になっているつもりはない。
……それに、依人のこと好きか嫌いかって言われたら、あたりまえに好きだしさ。
海先輩と別れ、ひとり階段を上りながら、俺は頭を悩ませていた。
そう、依人のことは好き。ただ、部屋に一緒にいたら「我慢」しようと思うような、好きじゃない。
つまり、依人と同一の好きじゃない。そうである以上、気軽に「オッケー、本気で付き合ってみようか」は言ったら駄目ということだ。
……でもさぁ、待つって言ってくれたけど、限度はあるわけじゃん。
その話をしてから、そろそろ十日。依人の限度はあと何日なんだろう。そう考えたところで、俺は小さく溜息を吐いた。
結局、俺は、自分がうんうん唸っているあいだに、依人に見切りをつけられることが怖いのだ。
めちゃくちゃ勝手だよな、本当。自己嫌悪を抱きつつ、「ただいま」と部屋の扉を開ける。
「おかえり……って、先輩、またなんか考えながら帰ってきたでしょ」
「え?」
きょとんと瞬くと、二段ベッドの下段から依人が起き上がった。読んでいたらしい本を置き、「髪」と自分の頭を指さす。
「ぜんぜん濡れてるから」
「本当だ。まぁ、いっか」
「よくはないでしょ。拭いてあげましょうか?」
ベッドの縁に座り直した依人が、来い来いと手招く。妙ににこやかな様子に、俺はぎこちなく首を傾げた。
「近づくなって言ってなかった?」
「まぁ、そうだけど。俺が悩ませてんのかなって思ったから、特別。先輩、好きでしょ。人と触れ合うの」
「…………好きだけど」
好きだけど、さっきちょうど考えてたんだって。
依人から近づくなって言われた時点で、意図を察せなかった俺が鈍すぎんのかなぁとか、いろいろ。
すべて心の中で言い、依人の脚のあいだに膝を抱えて座り込む。
なにがおかしかったのか小さく笑い、依人は俺が肩にかけていたタオルを手に取った。
俺がよしよしと頭を撫でるより、依人が髪を拭うしぐさは丁寧で。なんだかすごくこそばゆい。
「真夏じゃないんだから、早く乾かさないと風邪引きますよ」
「うん」
相槌がしんみりしたのは、頭上から響く声が優しかったせいだ。
依人がこんな声を出すなんて、春の俺は知らなかった。誤魔化すように、自分の膝に顎をうずめる。
依人が言ったとおり、俺は人と触れ合うことが好きだ。体温を感じると安心する。でも、今はそれだけじゃなくて、ドキドキしている気がした。
これがぜんぶ、依人と同じ「好き」だったらいいのに。
ぎゅっと手を握り込んで、静かに口を開く。
「依人はさ、なんで俺が悩んでるってわかったの?」
「なんでって。先輩、めちゃくちゃわかりやすいじゃないですか」
なにを言ってるんだと言わんばかりの答えに、俺は撃沈した。
その反応をどう捉えたのか、依人が「まぁ」と言い足す。柔らかい指の動き同様の、柔らかい声だった。
「そういうとこも好きですけど。見てて飽きないし」
「見ててうるさいじゃないんだ、そこは」
「言われたことあるんですか?」
「……表情がうるさいは、ある」
認めた俺に、はは、と依人が笑う。どこか楽しそうに。その声につられ、俺はもうひとつ問いかけた。
「嫌じゃないの。その、……俺が悩んでるの」
だって、俺が「わかりやすい」のだとしたら、自分のことを有りか無しかと考える様子が丸見えということだ。
そんなの嫌じゃないのかな、と不安になる。まぁ、今さらかもしれないけど。
「だって、先輩、思ったら即の人じゃないですか」
「え? ああ、まぁ」
思いのほか、依人の返答はあっさりしていた。一拍遅れて頷くと、同じ調子の声が続く。
「このあいだも言ったけど、『やってみないとわかんない』みたいな」
「まぁ、うん」
「その先輩が、やってみて間違ったらどうしようって考えてくれてるの、愛って感じしないですか?」
愛。予想もしなかった表現に、俺はぱちりと瞬いた。
……愛かぁ。
言われたばかりの台詞を思い返すだけで、じんわりと胸が熱くなる。
「……そうだといいなぁ」
ぽつりと俺は呟いた。
「依人と一緒の好きだったらいいな」
依人はなにも言わなかった。でも、沈黙の居心地が悪いわけではなくて。ゆるゆると髪を拭く心地良いリズムに甘え、俺は口火を切った。
「たいした話じゃないんだけど、ここに入る前、その『やってみないとわかんない』でちょくちょくやらかしててさ。ちょっと自信なくしてたんだ」
「ここに入ったころの話ですか、もしかして」
「そう。思ったことそのまま言ったら駄目な気がして。そうしたら、なに言っていいのかわかんなくなっちゃって」
もう、二年近く前の話になるのだろうか。過去を振り返りながら、打ち明ける。
「それで、なんか暗かったんだけど。海先輩のフォローで立ち直って」
沢見や純平が言うところの、「きょどきょどしていた」黒歴史。こんなこと、後輩のブラザーに話すつもりなんてなかったのに。
心境の変化を不思議に感じながら、俺は言い足した。
「また『やってみよう』って思うようになった。それなのに、またこうやってうじうじ考えてるの、依人のことが本当に大事だからだと思う」
「へぇ、大事ですか」
「うん。もちろん、それまでの人間関係が大事じゃなかったわけじゃないんだけど。依人が大事なんだよ」
念を押す調子で繰り返す。依人に伝えたかったからだ。
「それは本当」
「先輩の言うそれって、ブラザーとして?」
「それもあるけど、それ以上に。依人個人として」
確認に、苦笑まじりに応じる。
「大事だよ、依人が。きっと、俺の一番」
好きの種類はわからなくても、それはたしかなんじゃないかな、と思う。
そっと笑ったものの、相槌も返事もなかったことに気がついて、俺は「依人?」と呼びかけた。
いつのまにか、指の動きも止まっている。
「どうかした……」
首を反らした先で瞳がかち合い、俺は慌てて元の姿勢に戻った。
問いかけが途切れたことがすべてで、心臓がめちゃくちゃドキドキしている。でも、ドキドキしている理由はわからなかった。
「先輩」
呼ぶのとほとんど同時に、ぎゅっと依人の腕が回る。
抱き込まれているみたいな体勢に、俺の心臓はさらにヤバい音を立てた。とどめのように、耳元で依人の声がする。
「前言撤回していいですか。ちょっとだけ」
触りたいと請うようなそれに、俺はぎこちなく頷いた。なんでもない接触のはずなのに、その反応が精いっぱいだった。
「体育祭の準備中だったかな。なんでもかんでも『ふつうに考えて』って言うのやめたらって言ったの覚えてる?」
「え、……言ったかな。ごめん、すげぇ説教くさいこと言ってるね」
たぶん、今以上に、思ったことをそのまま口にしていたんだろうな。それでも気をつけてたつもりだったんだろうけど。
ドギマギしながら応じると、空気が揺れて、依人が笑ったことがわかった。
「覚えてないならいいんですけど、俺にとっては気づくきっかけのひとつで」
「……うん」
「まぁ、だから、先輩のおかげで、俺もけっこう変わったっていう話です。そんなわけで、手紙も出しました」
「え? 幼馴染みくんに?」
とんでもなくドキドキしていたことを忘れ、ぱっと視線を巡らせる。今までで一番の至近距離で目が合って、依人が小さくほほえんだ。
「向こうも予定があるだろうし。来るかどうかもわかんないけど」
「うん」
「来たら、思いっきり文句言ってやろうと思って」
「いいな、それ」
応じながら、そうだよな、と得心する。
……喧嘩しないと、仲直りもできないもんな。
できたらいいなという願いを込めて、依人に笑いかける。つられたような笑みをこぼした依人が、最後にぎゅっと俺を抱きしめた。
そして。
「あと、大丈夫。心配しなくても、先輩はけっこう俺のことが好きだと思う」
「…………へ?」
耳に注がれたそれは、催眠術かなにかみたいに。俺の胸にとすんと突き刺さったのだった。
「へぇ、依人くんの尊敬する先輩、俺なんだ」
大浴場から部屋への帰り道。
俺の話を聞いて、にんまり笑った沢見に、思わずジト目になる。いや、そういう反応すると思ってたけどさぁ。
ふたりで廊下を歩きながら、俺は拗ね気味に問いかけた。
「っていうか、そんなになんか話したの? 一晩で距離詰めすぎじゃない?」
「たいした話はしてないけど。そういうふうに言ってくれたってことはあれかな。俺は谷先輩の部屋に入らないってやつ」
「へ?」
「ちなみに、庄野は、『桐生先輩、うるさいとは聞いてましたけど、マジでうるさかったです~。夜もずっとごそごそしてるし~』って言ってたな」
「うるさいって聞いてたって誰から!? 夜ずっとごそごそしてたのはマジごめんだけど! 眠れなかったの」
弁明した俺に、タオルで髪を拭きながら、沢見が肩をすくめる。
「はい、はい。その声、その声。めちゃくちゃ早朝に響いたよね。あれは笑った。飛び起きたけど」
「それもマジでごめん、罰掃除もやり切ったので許してください……」
「べつにいいけど、俺は。仲直りもしたみたいで安心したし。だから、気になるなら、これ以上は依人くんに聞きなよ。教えてくれるでしょ、たぶん」
「そうかなぁ。――あ」
生乾きの髪を揺らしたところで、俺はぱっと目を輝かせた。
「海先輩!」
「なっちゃん。沢見くんも、ひさしぶりだね」
一階の談話室から出てきた海先輩が、にこりとほほえむ。
海先輩が言ったとおりで、朝の食堂で見かけることはあっても、こんなふうにばったり出会うことは本当にひさしぶりだった。
せっかくだし、もっと喋りたい。そわそわし始めた俺を見て、沢見は「じゃあ」と愛想の良い笑みを浮かべた。
「俺、先戻るね。海先輩もお先です」
「よかったの? なっちゃん。沢見くん、本当に先に帰っちゃったけど」
ふたりになってすぐに、海先輩がこっそり俺に問いかける。
「邪魔じゃなかった? 大丈夫?」
「ぜんぜんです、ぜんぜん。依人の尊敬する先輩が、なんで俺じゃないんだっていう話をしてただけなんで。沢見だって言うんですよ」
「そうなんだ。なっちゃんに懐いたのにねぇ」
まぁ、相性はあるからねぇと言わんばかりの相槌に、「そうなんですよ」と勢い込む。なんのことはない。ちょっと寂しかったのだ。
「なんか急に仲良くなったんですよ、本当に。沢見は谷先輩の部屋に行かないっていう話をしただけだって言うんですけど」
「ああ、なるほど」
「え?」
「ごめん、ごめん。いや、かわいいなと思って」
目を丸くした俺をほほえましそうに見つめ、海先輩は納得したわけを明かした。
「我慢してるって話だよね、それ。たぶんだけど」
「我慢……」
実感が伴わないまま、おうむ返しに呟く。
『谷先輩の部屋でふたりにならない理由? 前にも言ったけど、先輩の勉強の邪魔したくないからだよ』
いつだったか、沢見はそう言っていた。
まぁ、もちろん、それだけじゃないけどね、と苦笑して。
密室に好きな人とふたりだと、触れたくなる。だから、守るべき一線のために我慢は必要なのだ、と。
……っていうか、海先輩、なにをどこまで知ってるんだろ……。
先ほどとは異なるそわそわを抱えたまま、海先輩を見上げる。
俺と依人の噂を気にしてくれていたという話は聞いたけど、なんだか少し気恥ずかしい。
「でも、べつに男同士だし。我慢ってなんだって感じですけど」
「そうかな」
俺の叩いた軽口に、海先輩は同調しなかった。
「そういうこともあるかもしれないけど、でも、大事にしたいって素敵なことだと思うけどな」
「……ですよね」
どこか困ったふうにほほえんだ海先輩から、そっと目を伏せる。
今の言い方はよくなかったと気づいたからだ。
……でも、そうだよな。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟く。
男同士だし、体格だって変わんないし、と言いたくなる気持ちはある。でも、そういうことじゃないと依人も言っていた。
――顔の造作の話じゃなくて。好きな人が自分に笑いかけてくれたり、かまってくれたら、あ、かわいいなって思うでしょ。
かわいく見えるのは好きだから。顔の造作じゃなくて、主観の問題。いいなと思ったら好きになる。大事にしたい。
そう思ってくれる気持ちを「いや、俺も男なんだけど」で一蹴する考え方は、たぶん、すごく不誠実だ。
海先輩も、依人も、すごいな。そんなことを痛感して、顔を上げる。
「そういうとこ、本当、いいやつだなって思います」
「よかった」
撤回した俺に、海先輩はほっとした顔をした。
「本当はね、依人くんとのことで困ってるなら、最上級生として注意しようかって言おうと思ってたんだ。でも、よかった。大丈夫そうで」
「ありがとうございます。あと、すみません。なんか心配してもらってたみたいで」
変わらない優しさにはにかむと、海先輩は「いや~」となんとも言えない苦笑をこぼした。
「まぁ、心配はするでしょ。そもそもで言えば、変な噂になってる時点でなっちゃん切れないかな~って思ってたし。様子見してたら、今度は早朝に非常階段で揉めたって言うし、依人くんは医務室使ったとか言うし」
「断片だけ聞くとヤバいですよね!? でもマジで大丈夫です!」
医務室云々に至っては、「ちょっと腫れただけなんで」と渋る依人を半ば無理やり引っ張っていっただけの話だし。
ちなみにだけど、「たいしたことなくてよかったけど、ものに当たっちゃ駄目よ。下手したら折れるわよ」と真顔で延々と怒られている。折れるんだと俺がビビった。
「いいよ、いいよ。安心した」
ぺこぺこ謝る俺に、海先輩はほほえんだ。
「なっちゃんに直接聞けてよかった」
海先輩がぽんと肩に置いた手のひらから、温かい信頼が伝わってくる。
それがうれしくて、ありがたくて。俺はこんなブラザーになりたかったんだって。改めて思い出した心地だった。
でも、べつに、と言うとあれだけど、依人との関係を『ブラザー』だけに留めたいと意固地になっているつもりはない。
……それに、依人のこと好きか嫌いかって言われたら、あたりまえに好きだしさ。
海先輩と別れ、ひとり階段を上りながら、俺は頭を悩ませていた。
そう、依人のことは好き。ただ、部屋に一緒にいたら「我慢」しようと思うような、好きじゃない。
つまり、依人と同一の好きじゃない。そうである以上、気軽に「オッケー、本気で付き合ってみようか」は言ったら駄目ということだ。
……でもさぁ、待つって言ってくれたけど、限度はあるわけじゃん。
その話をしてから、そろそろ十日。依人の限度はあと何日なんだろう。そう考えたところで、俺は小さく溜息を吐いた。
結局、俺は、自分がうんうん唸っているあいだに、依人に見切りをつけられることが怖いのだ。
めちゃくちゃ勝手だよな、本当。自己嫌悪を抱きつつ、「ただいま」と部屋の扉を開ける。
「おかえり……って、先輩、またなんか考えながら帰ってきたでしょ」
「え?」
きょとんと瞬くと、二段ベッドの下段から依人が起き上がった。読んでいたらしい本を置き、「髪」と自分の頭を指さす。
「ぜんぜん濡れてるから」
「本当だ。まぁ、いっか」
「よくはないでしょ。拭いてあげましょうか?」
ベッドの縁に座り直した依人が、来い来いと手招く。妙ににこやかな様子に、俺はぎこちなく首を傾げた。
「近づくなって言ってなかった?」
「まぁ、そうだけど。俺が悩ませてんのかなって思ったから、特別。先輩、好きでしょ。人と触れ合うの」
「…………好きだけど」
好きだけど、さっきちょうど考えてたんだって。
依人から近づくなって言われた時点で、意図を察せなかった俺が鈍すぎんのかなぁとか、いろいろ。
すべて心の中で言い、依人の脚のあいだに膝を抱えて座り込む。
なにがおかしかったのか小さく笑い、依人は俺が肩にかけていたタオルを手に取った。
俺がよしよしと頭を撫でるより、依人が髪を拭うしぐさは丁寧で。なんだかすごくこそばゆい。
「真夏じゃないんだから、早く乾かさないと風邪引きますよ」
「うん」
相槌がしんみりしたのは、頭上から響く声が優しかったせいだ。
依人がこんな声を出すなんて、春の俺は知らなかった。誤魔化すように、自分の膝に顎をうずめる。
依人が言ったとおり、俺は人と触れ合うことが好きだ。体温を感じると安心する。でも、今はそれだけじゃなくて、ドキドキしている気がした。
これがぜんぶ、依人と同じ「好き」だったらいいのに。
ぎゅっと手を握り込んで、静かに口を開く。
「依人はさ、なんで俺が悩んでるってわかったの?」
「なんでって。先輩、めちゃくちゃわかりやすいじゃないですか」
なにを言ってるんだと言わんばかりの答えに、俺は撃沈した。
その反応をどう捉えたのか、依人が「まぁ」と言い足す。柔らかい指の動き同様の、柔らかい声だった。
「そういうとこも好きですけど。見てて飽きないし」
「見ててうるさいじゃないんだ、そこは」
「言われたことあるんですか?」
「……表情がうるさいは、ある」
認めた俺に、はは、と依人が笑う。どこか楽しそうに。その声につられ、俺はもうひとつ問いかけた。
「嫌じゃないの。その、……俺が悩んでるの」
だって、俺が「わかりやすい」のだとしたら、自分のことを有りか無しかと考える様子が丸見えということだ。
そんなの嫌じゃないのかな、と不安になる。まぁ、今さらかもしれないけど。
「だって、先輩、思ったら即の人じゃないですか」
「え? ああ、まぁ」
思いのほか、依人の返答はあっさりしていた。一拍遅れて頷くと、同じ調子の声が続く。
「このあいだも言ったけど、『やってみないとわかんない』みたいな」
「まぁ、うん」
「その先輩が、やってみて間違ったらどうしようって考えてくれてるの、愛って感じしないですか?」
愛。予想もしなかった表現に、俺はぱちりと瞬いた。
……愛かぁ。
言われたばかりの台詞を思い返すだけで、じんわりと胸が熱くなる。
「……そうだといいなぁ」
ぽつりと俺は呟いた。
「依人と一緒の好きだったらいいな」
依人はなにも言わなかった。でも、沈黙の居心地が悪いわけではなくて。ゆるゆると髪を拭く心地良いリズムに甘え、俺は口火を切った。
「たいした話じゃないんだけど、ここに入る前、その『やってみないとわかんない』でちょくちょくやらかしててさ。ちょっと自信なくしてたんだ」
「ここに入ったころの話ですか、もしかして」
「そう。思ったことそのまま言ったら駄目な気がして。そうしたら、なに言っていいのかわかんなくなっちゃって」
もう、二年近く前の話になるのだろうか。過去を振り返りながら、打ち明ける。
「それで、なんか暗かったんだけど。海先輩のフォローで立ち直って」
沢見や純平が言うところの、「きょどきょどしていた」黒歴史。こんなこと、後輩のブラザーに話すつもりなんてなかったのに。
心境の変化を不思議に感じながら、俺は言い足した。
「また『やってみよう』って思うようになった。それなのに、またこうやってうじうじ考えてるの、依人のことが本当に大事だからだと思う」
「へぇ、大事ですか」
「うん。もちろん、それまでの人間関係が大事じゃなかったわけじゃないんだけど。依人が大事なんだよ」
念を押す調子で繰り返す。依人に伝えたかったからだ。
「それは本当」
「先輩の言うそれって、ブラザーとして?」
「それもあるけど、それ以上に。依人個人として」
確認に、苦笑まじりに応じる。
「大事だよ、依人が。きっと、俺の一番」
好きの種類はわからなくても、それはたしかなんじゃないかな、と思う。
そっと笑ったものの、相槌も返事もなかったことに気がついて、俺は「依人?」と呼びかけた。
いつのまにか、指の動きも止まっている。
「どうかした……」
首を反らした先で瞳がかち合い、俺は慌てて元の姿勢に戻った。
問いかけが途切れたことがすべてで、心臓がめちゃくちゃドキドキしている。でも、ドキドキしている理由はわからなかった。
「先輩」
呼ぶのとほとんど同時に、ぎゅっと依人の腕が回る。
抱き込まれているみたいな体勢に、俺の心臓はさらにヤバい音を立てた。とどめのように、耳元で依人の声がする。
「前言撤回していいですか。ちょっとだけ」
触りたいと請うようなそれに、俺はぎこちなく頷いた。なんでもない接触のはずなのに、その反応が精いっぱいだった。
「体育祭の準備中だったかな。なんでもかんでも『ふつうに考えて』って言うのやめたらって言ったの覚えてる?」
「え、……言ったかな。ごめん、すげぇ説教くさいこと言ってるね」
たぶん、今以上に、思ったことをそのまま口にしていたんだろうな。それでも気をつけてたつもりだったんだろうけど。
ドギマギしながら応じると、空気が揺れて、依人が笑ったことがわかった。
「覚えてないならいいんですけど、俺にとっては気づくきっかけのひとつで」
「……うん」
「まぁ、だから、先輩のおかげで、俺もけっこう変わったっていう話です。そんなわけで、手紙も出しました」
「え? 幼馴染みくんに?」
とんでもなくドキドキしていたことを忘れ、ぱっと視線を巡らせる。今までで一番の至近距離で目が合って、依人が小さくほほえんだ。
「向こうも予定があるだろうし。来るかどうかもわかんないけど」
「うん」
「来たら、思いっきり文句言ってやろうと思って」
「いいな、それ」
応じながら、そうだよな、と得心する。
……喧嘩しないと、仲直りもできないもんな。
できたらいいなという願いを込めて、依人に笑いかける。つられたような笑みをこぼした依人が、最後にぎゅっと俺を抱きしめた。
そして。
「あと、大丈夫。心配しなくても、先輩はけっこう俺のことが好きだと思う」
「…………へ?」
耳に注がれたそれは、催眠術かなにかみたいに。俺の胸にとすんと突き刺さったのだった。

