「いや、もう本当信じられないんだけど!」
「信じられないのはこっちですよ。あんな大声出すことないでしょ。朝っぱらから非常階段で」
累積二枚のイエローカードで発動する罰則は、全フロアの談話室を掃除するというものだ。期間はきっちり一週間。
ようやく迎えた最終日。部屋の扉を閉めたタイミングで、俺は改めて訴えた。その俺を一瞥し、依人が嫌そうに耳を押さえる。
かわいくない態度に、俺は思わず眉を吊り上げた。
「おまえが! いきなり変なことするからだろうが!」
「だから謝ったじゃないですか。それに、今日で終わりでしょ」
「それは、……まぁ、そうだけど」
めちゃくちゃ軽い謝罪だったけど、まぁ、そうだ。
矛を収め、ふたりで勉強机に向かう。参考書に手を伸ばしつつ、まぁ、べつにいいんだけど、と俺は心の中で呟いた。
そう。べつに、本気で「変なこと」に腹を立てているわけじゃない。驚いたし、ついってなんだとは思ったものの、それだけだ。
さっきの文句も、ペナルティも今日で終わりという世間話から、なぜかヒートアップして飛び出しただけ。
それよりも、と。俺は依人の横顔を窺った。
……今日もやってんなぁ、依人。
イエローカードを貰った日の夜からだから、ちょうど一週間。依人は白いカードと向き合い続けている。
しかめっ面で数分凝視し、机に積んだ参考書の下にカードを押し込むところまでが、一連の流れだ。つまり、カードは白紙のままということ。
予想と違わず、依人は今日も参考書の下に押し込んだ。
今日もかぁというひとりごとは呑み込み、シャーペンを握り直す。依人をちらちら見てしまうのは、ご愛嬌にしていただきたい。
だって、正直、めちゃくちゃ気になっているのだ。
――もしかして、幼馴染みくんに文化祭のチケット送ろうか迷ってる?
――なんか心境の変化でもあったの?
みたいなことを根掘り葉掘り聞きたい。
だが、さすがに実行しないだけのデリカシーはあるのだった。
……依人の言い方だと、相手の子も悪気はないのかなって感じだったけど。
でも、悪気がないから許せ、は絶対に違うしな。
ひっそり唸っていると、隣から呆れ切った声がした。
「なんなんですか、さっきから」
「え? なにが?」
へらっと笑った俺を、依人が断じる。
「本当になにしててもうるさいですよね、先輩」
「え、なにも言ってなくない、俺?」
「めちゃくちゃうるさいです、視線。あと、なんか、お節介したいな~みたいな心の声がうるさい」
「黙ってるのに、そんなことある!?」
思わず叫んだ瞬間、それだと言わんばかりの視線が突き刺さった。声がデカい自覚はあるので、素直に非を認める。
「なんか、ごめん……」
「まぁ、いいですけど」
謝った俺にひとつ息を吐くと、依人は椅子ごと俺のほうを向いた。
「どうぞ」
「え?」
「いいですよ、言いたいことがあるなら言ってもらっても」
「言いたいことっていうか……」
しかたないと言わんばかりだが、依人は聞く体勢を取っている。悩んだものの、俺は控えめに打ち明けた。
「依人が後悔しない選択ができるといいなぁ、みたいな。そんなお節介心を持ってただけです……」
「なんか、意外」
「ん?」
拍子抜けした雰囲気に、首を傾げる。その反応にだろう。依人は少し取ってつけたような苦笑を浮かべた。
「俺の勝手な想像なんですけど。先輩は仲直りしたほうがいいって言うと思ってたから」
「ああ、……まぁ、たしかに?」
「やってみないとわかんないって、先輩、よく言うでしょ。だから、対人関係もその調子なのかなって」
「それも、まぁ、そうなんだけど」
依人の言うとおり、「やってみないとわかんない」は俺のモットーだ。
でも、対人関係における「やってみた」が、取り返しのつかない事態を招く可能性も知っている。
……だから、簡単に背中押しちゃいけないって思ったんだよな。
依人のことを大事に考えるようになったから、たぶん、よけいに。
「俺は今の依人しか知らないから、依人がどうしたいかが一番大事」
「……へぇ」
「だから、仲直りするのもしないのも依人の自由、って思ってるんだけど」
精いっぱい丁寧に言葉を選び、「もちろん」と俺はつけ足した。
「相談してくれたら、一緒に考えるけど。依人がいいなって思うことがいいと思うよ、俺は。視線がうるさかったのは、その、ごめん」
「いいですけど、それは。べつに」
呟くように応じたものの、依人はどこか考え込んだ顔をしている。
やっぱりよけいだったかもしれない。心配になり、俺はうつむいた顔を覗き込んだ。
「依人? ――って、え?」
ぎょっとしたふうに椅子をうしろに引かれ、声が戸惑う。
「な、なに、その反応」
「なにって、いや、近い。ふつうに」
「近いって、え? 依人、このあいだのあれ根に持ってんの?」
あれ。俺が外で人の目を気にして、距離を取ったこと。
跳ね上がった俺の語尾に、依人はめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
「あんた、俺のこと、本当になんだと思ってるんですか」
聞いた覚えのある台詞に、ぐっと黙り込む。なにか間違ったらしいことはわかったからだ。
沈黙した俺から視線を外し、依人が溜息を吐く。
「ひとつ聞きたいんですけど」
「え? あ、うん。……どうぞ?」
「先輩って、俺が先輩のこと好きなのわかってます?」
「へ……」
じとりとした目に、俺の心臓は大きな音を立てた。
落ち着かない気持ちを隠し、どうにか頷く。
それは、まぁ、当然知ってるし。その上で、俺はどうなのかなって考えてるけど。
「え、いや、わかってる、けど」
「じゃあ」
ぎこちなく認めた俺をほとんど睨みながら、依人は言い放った。
「あんまり近づかないでください、ガチで」
「で、でもさぁ。このあいだまで、そんな感じじゃなかったよね……?」
唐突な宣言に、半泣きで言い縋る。
だって、実際、そんな感じじゃなかったはずだし(純平も距離近いって言ってたし)、なによりも拒絶されると俺が寂しい。
俺のしつこさに辟易した態度で、依人はまたひとつ溜息を吐いた。椅子を机の正面に戻し、あごひじをついた状態で口を開く。
距離を取るという宣言を全身で体現しているみたいで、なんというかガードがすごい。
「『変なこと』したから」
「たしかに言ったけど。めちゃくちゃ怒ってるわけじゃないっていうか」
「つい、うっかり手を出したことは申し訳なかったなって思ってるんです。これでも、本当に」
いや、でも、部屋に戻ったときに「変なこと」と言ったのは、売り言葉に買い言葉に近いものがあったというか。
「だから」
続けるつもりだった言い訳をぶった切り、依人は言い切った。
「先輩からちゃんと返事貰うまで、なにもしません」
「ええ……」
そんな極端な、という困惑は、思いきり俺の声ににじんでいたらしい。依人の視線がちらりと俺のほうに動く。
「そんなわけなので、あんまりかわいい顔もしないでください」
「いや、かわいくないだろ、べつに。っていうか、それ、沢見にめちゃくちゃ馬鹿にされたんだけど」
「マジで沢見先輩になんでも言いすぎ」
「いや、これはガチで違くて!」
「かわいいですよ」
焦って否定した俺に、呆れたように依人は繰り返した。
「顔の造作の話じゃなくて。好きな人が自分に笑いかけてくれたり、かまってくれたら、あ、かわいいなって思うでしょ。ふつう」
「あ、……はい」
好きな人という表現に、じわじわと顔が熱くなったことを自覚する。
そうか。そういう話だったのか。
……たしかに、依人の顔は「かっこいい」だろうけど、言動含めて「かわいい」って思うもんな、俺も。
つまり、そういうものなのだろうか。そわそわ考えていると、依人が三度目の溜息を吐いた。
「俺は今けっこう本気で沢見先輩を尊敬してます」
「なんで沢見!?」
「うるさいです、それ」
「同じ尊敬ならブラザーの俺でよくない? え、なんで? そんなにこのあいだの夜よかったの?」
「聞き方」
うぜぇと思っている顔で、依人が参考書に手を伸ばす。
完全に話は終わりという態度だったが、俺はめげずに問いかけた。
「でも、マジでなんで? 春のころ嫌がってなかったっけ?」
「今はそう思うってだけの話です。というか、半年以上同じ建物で過ごしたら、印象なんて変わるでしょ」
「それは、まぁ、そうだと思うけど」
俺だって、依人の印象は正直めちゃくちゃ変わった。
でも、それはそれとして。沢見の名前をこの場で出す必要はないんじゃないの、なんて。
頭に疑問が浮かんだものの、言葉にしたらみっともない嫉妬になりそうで、俺は結局もごもご口を噤んだのだった。
「信じられないのはこっちですよ。あんな大声出すことないでしょ。朝っぱらから非常階段で」
累積二枚のイエローカードで発動する罰則は、全フロアの談話室を掃除するというものだ。期間はきっちり一週間。
ようやく迎えた最終日。部屋の扉を閉めたタイミングで、俺は改めて訴えた。その俺を一瞥し、依人が嫌そうに耳を押さえる。
かわいくない態度に、俺は思わず眉を吊り上げた。
「おまえが! いきなり変なことするからだろうが!」
「だから謝ったじゃないですか。それに、今日で終わりでしょ」
「それは、……まぁ、そうだけど」
めちゃくちゃ軽い謝罪だったけど、まぁ、そうだ。
矛を収め、ふたりで勉強机に向かう。参考書に手を伸ばしつつ、まぁ、べつにいいんだけど、と俺は心の中で呟いた。
そう。べつに、本気で「変なこと」に腹を立てているわけじゃない。驚いたし、ついってなんだとは思ったものの、それだけだ。
さっきの文句も、ペナルティも今日で終わりという世間話から、なぜかヒートアップして飛び出しただけ。
それよりも、と。俺は依人の横顔を窺った。
……今日もやってんなぁ、依人。
イエローカードを貰った日の夜からだから、ちょうど一週間。依人は白いカードと向き合い続けている。
しかめっ面で数分凝視し、机に積んだ参考書の下にカードを押し込むところまでが、一連の流れだ。つまり、カードは白紙のままということ。
予想と違わず、依人は今日も参考書の下に押し込んだ。
今日もかぁというひとりごとは呑み込み、シャーペンを握り直す。依人をちらちら見てしまうのは、ご愛嬌にしていただきたい。
だって、正直、めちゃくちゃ気になっているのだ。
――もしかして、幼馴染みくんに文化祭のチケット送ろうか迷ってる?
――なんか心境の変化でもあったの?
みたいなことを根掘り葉掘り聞きたい。
だが、さすがに実行しないだけのデリカシーはあるのだった。
……依人の言い方だと、相手の子も悪気はないのかなって感じだったけど。
でも、悪気がないから許せ、は絶対に違うしな。
ひっそり唸っていると、隣から呆れ切った声がした。
「なんなんですか、さっきから」
「え? なにが?」
へらっと笑った俺を、依人が断じる。
「本当になにしててもうるさいですよね、先輩」
「え、なにも言ってなくない、俺?」
「めちゃくちゃうるさいです、視線。あと、なんか、お節介したいな~みたいな心の声がうるさい」
「黙ってるのに、そんなことある!?」
思わず叫んだ瞬間、それだと言わんばかりの視線が突き刺さった。声がデカい自覚はあるので、素直に非を認める。
「なんか、ごめん……」
「まぁ、いいですけど」
謝った俺にひとつ息を吐くと、依人は椅子ごと俺のほうを向いた。
「どうぞ」
「え?」
「いいですよ、言いたいことがあるなら言ってもらっても」
「言いたいことっていうか……」
しかたないと言わんばかりだが、依人は聞く体勢を取っている。悩んだものの、俺は控えめに打ち明けた。
「依人が後悔しない選択ができるといいなぁ、みたいな。そんなお節介心を持ってただけです……」
「なんか、意外」
「ん?」
拍子抜けした雰囲気に、首を傾げる。その反応にだろう。依人は少し取ってつけたような苦笑を浮かべた。
「俺の勝手な想像なんですけど。先輩は仲直りしたほうがいいって言うと思ってたから」
「ああ、……まぁ、たしかに?」
「やってみないとわかんないって、先輩、よく言うでしょ。だから、対人関係もその調子なのかなって」
「それも、まぁ、そうなんだけど」
依人の言うとおり、「やってみないとわかんない」は俺のモットーだ。
でも、対人関係における「やってみた」が、取り返しのつかない事態を招く可能性も知っている。
……だから、簡単に背中押しちゃいけないって思ったんだよな。
依人のことを大事に考えるようになったから、たぶん、よけいに。
「俺は今の依人しか知らないから、依人がどうしたいかが一番大事」
「……へぇ」
「だから、仲直りするのもしないのも依人の自由、って思ってるんだけど」
精いっぱい丁寧に言葉を選び、「もちろん」と俺はつけ足した。
「相談してくれたら、一緒に考えるけど。依人がいいなって思うことがいいと思うよ、俺は。視線がうるさかったのは、その、ごめん」
「いいですけど、それは。べつに」
呟くように応じたものの、依人はどこか考え込んだ顔をしている。
やっぱりよけいだったかもしれない。心配になり、俺はうつむいた顔を覗き込んだ。
「依人? ――って、え?」
ぎょっとしたふうに椅子をうしろに引かれ、声が戸惑う。
「な、なに、その反応」
「なにって、いや、近い。ふつうに」
「近いって、え? 依人、このあいだのあれ根に持ってんの?」
あれ。俺が外で人の目を気にして、距離を取ったこと。
跳ね上がった俺の語尾に、依人はめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
「あんた、俺のこと、本当になんだと思ってるんですか」
聞いた覚えのある台詞に、ぐっと黙り込む。なにか間違ったらしいことはわかったからだ。
沈黙した俺から視線を外し、依人が溜息を吐く。
「ひとつ聞きたいんですけど」
「え? あ、うん。……どうぞ?」
「先輩って、俺が先輩のこと好きなのわかってます?」
「へ……」
じとりとした目に、俺の心臓は大きな音を立てた。
落ち着かない気持ちを隠し、どうにか頷く。
それは、まぁ、当然知ってるし。その上で、俺はどうなのかなって考えてるけど。
「え、いや、わかってる、けど」
「じゃあ」
ぎこちなく認めた俺をほとんど睨みながら、依人は言い放った。
「あんまり近づかないでください、ガチで」
「で、でもさぁ。このあいだまで、そんな感じじゃなかったよね……?」
唐突な宣言に、半泣きで言い縋る。
だって、実際、そんな感じじゃなかったはずだし(純平も距離近いって言ってたし)、なによりも拒絶されると俺が寂しい。
俺のしつこさに辟易した態度で、依人はまたひとつ溜息を吐いた。椅子を机の正面に戻し、あごひじをついた状態で口を開く。
距離を取るという宣言を全身で体現しているみたいで、なんというかガードがすごい。
「『変なこと』したから」
「たしかに言ったけど。めちゃくちゃ怒ってるわけじゃないっていうか」
「つい、うっかり手を出したことは申し訳なかったなって思ってるんです。これでも、本当に」
いや、でも、部屋に戻ったときに「変なこと」と言ったのは、売り言葉に買い言葉に近いものがあったというか。
「だから」
続けるつもりだった言い訳をぶった切り、依人は言い切った。
「先輩からちゃんと返事貰うまで、なにもしません」
「ええ……」
そんな極端な、という困惑は、思いきり俺の声ににじんでいたらしい。依人の視線がちらりと俺のほうに動く。
「そんなわけなので、あんまりかわいい顔もしないでください」
「いや、かわいくないだろ、べつに。っていうか、それ、沢見にめちゃくちゃ馬鹿にされたんだけど」
「マジで沢見先輩になんでも言いすぎ」
「いや、これはガチで違くて!」
「かわいいですよ」
焦って否定した俺に、呆れたように依人は繰り返した。
「顔の造作の話じゃなくて。好きな人が自分に笑いかけてくれたり、かまってくれたら、あ、かわいいなって思うでしょ。ふつう」
「あ、……はい」
好きな人という表現に、じわじわと顔が熱くなったことを自覚する。
そうか。そういう話だったのか。
……たしかに、依人の顔は「かっこいい」だろうけど、言動含めて「かわいい」って思うもんな、俺も。
つまり、そういうものなのだろうか。そわそわ考えていると、依人が三度目の溜息を吐いた。
「俺は今けっこう本気で沢見先輩を尊敬してます」
「なんで沢見!?」
「うるさいです、それ」
「同じ尊敬ならブラザーの俺でよくない? え、なんで? そんなにこのあいだの夜よかったの?」
「聞き方」
うぜぇと思っている顔で、依人が参考書に手を伸ばす。
完全に話は終わりという態度だったが、俺はめげずに問いかけた。
「でも、マジでなんで? 春のころ嫌がってなかったっけ?」
「今はそう思うってだけの話です。というか、半年以上同じ建物で過ごしたら、印象なんて変わるでしょ」
「それは、まぁ、そうだと思うけど」
俺だって、依人の印象は正直めちゃくちゃ変わった。
でも、それはそれとして。沢見の名前をこの場で出す必要はないんじゃないの、なんて。
頭に疑問が浮かんだものの、言葉にしたらみっともない嫉妬になりそうで、俺は結局もごもご口を噤んだのだった。

