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 絶対に依人の悪口を言ったりしないから、ブラザーとして最低限信用してほしい。
 そんな懇願を、したことがある。

「嘘つき、かぁ」
 朝には早い薄明の空を見つめたまま、俺はうつうつとひとりごちた。
 相談は便利な言葉って言ってたけど、そのとおりだよな。春のころに依人を探してよく訪れた非常階段で、深々と息を吐く。
 ……帰ってこなかったなぁ、依人。
 謝らせてもらうこともできなかった現実が、めちゃくちゃ胸に痛い。
 ちなみにだが、寮を飛び出したとかそういう話ではないので安心してほしい。
『いきなりすみませ~ん。高見くん、今日は俺の部屋で寝るそうです~。沢見先輩がオッケー出したんで、今夜はよろしくお願いしま~す』
 と、まぁ、こんな感じで。
 依人の帰りをそわそわ待っていた俺の前に、大変明るく沢見の後輩ブラザーの庄野くんが現れたというだけである。
 やらかした側の俺に、拒否権が存在するわけもなく。素直に受け入れたはいいものの、悶々とした思考で眠るに眠れず。
 朝方になってとぼとぼ部屋を抜け出したと、そういうわけだった。
「……せっかく落ち着くって言ってくれたのに、俺が駄目にしちゃったな」
 手すりに肘をついたまま、ぽつりと自嘲する。ついでに、溜息ももうひとつ。
 背後で扉が開いたのは、そんなタイミングだった。
「依人……」
 振り向いた先にあった顔に、驚きがあふれる。
 依人はなにも言わなかった。でも、立ち去る気配もない。その事実にほんの少しほっとして、俺はがばっと頭を下げた。
「ごめん」
 依人はやっぱりなにも言わなかった。手のひらを握りしめ、昨日の昼間に伝えたかった謝罪を告げる。
「勝手に、沢見に相談したのも、ごめん」
「…………」
「でも、本当に困ってたから、とか、嫌だったから、とかじゃなくて」
 黙ったままの依人に、俺はどうにか言葉を継いだ。
「あと、変に距離取ったのもごめん。依人は変にからかわれるの嫌なんじゃないかなって、俺が勝手に判断した」
「勝手に、ですか」
「うん」
 呆れたような確認に、うつむいたまま頷く。
 依人を傷つけると思わなかったというのは、すごくずるい言い訳だ。
 また依人が沈黙する。
「ごめん」
 もう一度謝って、「でも」と俺は言った。
 俺に原因があることはわかっている。だから、庄野くんが現れたときもなにも言わなかった。でも。
「依人が部屋にいないのは、すごく嫌だった」
 言葉にした直後、本当に勝手だな、と自分でも呆れた。たぶん、依人もそう感じたんだと思う。
 何秒にも感じた沈黙に、ふっと吐息が混ざる。しかたないという空気のにじんだそれに、俺はぱっと顔を上げた。
 目が合った依人が、かすかに表情をゆるめる。
「庄野に部屋代われって言ったのは、ちょっと大人気なかったかなって、俺も思ってます」
「いや、依人はわりと大人気ないと思うけど……、って、ご、ごめん」
 一転して不本意そうに眉を寄せた顔に、慌てて謝る。
 三度目の謝罪に軽く頭を振り、依人は俺のほうに近づいた。あのころと同じようにほんの少し距離を置き、俺の隣に並ぶ。
「寂しかったですか、俺がいないと」
「……寂しいよ」
 本心から俺は答えた。罪悪感もすごかったし、部屋替えの申請を出されたらどうしようという不安もあった。
 でも、それ以上に、部屋にいる相手が依人じゃないという事実が、単純にすごく寂しい。
 俺の返事に、依人は小さく笑った。
「庄野、いいやつでしょ。空気も読めるし、会話もうまいし」
「でも、依人じゃないじゃんか」
 依人が驚いた気がして、焦って話題を変える。口説(くど)いているみたいだと気づいたからだ。
「依人は、沢見の部屋はどうだった?」
「あの人、人との距離感はかるのうまいですね。すげぇ楽」
「あ、……そうなんだ。でも、そうだよね」
「よけいなことも聞かないし」
 そういう相手だったら、依人はきっと最初から楽だったんだろうな、と苦笑する。俺は依人とぶつかってばかりだった。
 ……それでも依人でよかったって俺は思ってるけど。依人はどうなんだろう。
 依人の右手は、ずっとパーカーのポケットに突っ込まれている。それをちらりと見、俺は横顔に視線を移した。
「依人さぁ」
「はい?」
「壁殴ったよね。手、大丈夫?」
「大丈夫じゃないんで、聞かないでください」
「うわぁ、マジごめん」
「謝んないでください」
「ごめん」
「謝んないでくださいって言ってんのに。本当、人の話、聞かないですよね。俺、一回でも、誰かにからかわれたくないって言いました?」
「…………言ってない、ごめん」
「まぁ、いいですけど。もう」
 呆れたように、依人が失笑する。
 明け始めた空を眺める依人の横顔を、見つめてしばらく経ったころ。依人がぽつりと口を開いた。
「ここに来る前の話なんですけど。中三になる前の春休みだったかな。幼馴染みにゲイだって打ち明けたんですよね、俺」
 予想外の告白に、そっと息を呑む。でも、依人の声は静かだった。
 割り切った過去と体現する調子のまま、さらりと俺に説明する。
「あ、幼馴染みって、同い年の男なんですけど」
「うん」
「家も隣で、兄弟みたいな感覚だったから。最初はびっくりしても、案外ふつうに受け入れてくれるんじゃないかって勝手に期待して」
「……うん」
「実際、その場では『気にすんなよ』みたいな。『おまえがそうでも俺ら変わんないし』みたいな感じで、さらっと流してくれたんですけど。しばらくして学校で噂になって」
 ――俺のモットーは“他人に過剰に期待しない”なんですけど。
 この場所で、春に。そう言った依人の頑なな横顔を思い出した。
 なにも知らないまま、「厨二なモットーだな」と内心で少し呆れていたことも。
「べつにいじめられたとかじゃないけど、なんか、ぜんぶ嫌になって。その幼馴染みとも喧嘩したわけでもないんですけど」
 言葉を切った依人が、「なんでだろ」と首をひねる。本当に自分でもわかっていない様子だった。
「もちろん、噂になってることを知ったときは『なんで』って聞いたんですよね。そんなこと言わないって思ってたから」
 話の邪魔をしないように、「うん」と小さく相槌を打つ。依人は、なにかを思い出したように少しだけ笑った。
「でも、『ふつうに考えて、男が好きとか気持ち悪い』から、『俺が誰かに相談したのはしかたない』って開き直られて。『あ、もう、いいや』って思っちゃったんですよね、なんか」
「あのさ、依人」
「まぁ、とにかく、そんなわけで地元離れようって決めて、こっちに来たんですけど」
 慰めはいらないということだったんだろう。依人が呼びかけを遮る。
 短い沈黙が流れ、依人の視線がようやく俺のほうを向いた。
「だから、うれしかったんですよ、俺のこと知ってるから気持ち悪いなんて思わないって、言い切ってくれたこと」
「あ……」
「うれしかったんですよ、本当」
 噛み締めるように繰り返した依人が、呆然とする俺を笑う。
「それに、言ったじゃないですか、先輩。言わなくて後悔するより、言って後悔するほうがいいって」
「え、え? なに。結局、だから、言ったってこと? お試しで付き合ってみようって?」
「先輩のせいですよ」
「はぁ? なにが俺のせい……」
「だって、きれいごとって呆れてるのに、先輩は本気でそう思ってる顔するから。一回の失敗に固執して殻に籠った自分が、馬鹿らしくなったんですよね」
 もう怒っていないと示す態度で俺をからかい、依人はまたひとつ笑った。
 そうして、改めてというふうに俺を見る。
「でも、べつに、先輩は嫌だって言ってよかったんですよ。無理なら無理で、それで」
 責める気配のない、静かな声だった。思わずぎゅっと手のひらを握り込む。
 ……なんにも考えてなかったな、俺。
 お試しで付き合ってみようという提案に頷いたのは勢いで、そのあともそうだ。考えているつもりで、それだけだったのだと思う。
 依人と一緒にいると楽しいからと目先のことばかりで。自分が恥ずかしいし、申し訳ない。
「依人は」
 依人から視線を外し、手すりに置いた自分の腕を見つめたまま振り絞る。
「俺のなにがよかったの」
 必死で選んだ過去形を、依人はおかしそうに笑い飛ばした。
「だって、あんた、うるさいじゃないですか」
「…………え?」
「なにやってもうるさいから、どこにいても目につくし。そうしたら、いろんなところが見えるようになるし」
 想定外の反応の連続にぽかんとした俺をよそに、依人が続ける。
「ちょっと思うところがあって、昨日は過剰に反応しちゃったんですけど」
「え、あ、……うん」
「先輩が悪意を持って誰かになにか言う人じゃないって知ってるし。好きですよ、そういうとこ。なんか、すごく安心する」
「……べつに、ブラザーでもいいんじゃないの。それ」
 依人の態度に、拍子抜けしすぎたらしい。うっかりこぼれた発言を、俺は急いで撤回した。
「いや、ごめん。その、依人の好きを否定したいわけじゃないんだけど。……失言でした」
「べつにいいよ。それもわかるし」
 さらりと請け負った依人の頬を、肌寒くなった風がなぶっていく。うっすらとした光が照らす横顔を、俺はなんとなくじっと眺めた。
「でも、そうだな。たとえばなんですけど、先輩が」
「ん? うん」
「そこそこ好みの女の子と一緒にいたとして」
「うん」
「話もそこそこ合って、一緒にいて安心するなって思ったら、好きになったりしないですか? その相手のこと、自然に」
 自然に、という表現に、再び指先に力が入る。
 俺の緊張に気づいているのか、いないのか。依人は淡々と言葉を紡(つむ)いだ。
「そういうこと。俺にとっては、それがふつう」
「…………」
「いいなって思ったら好きになる。俺の恋愛対象、男だから」
 沈黙した俺に、「引いた?」と依人が問う。
 依人の顔に浮かんだ寂しそうに見えた笑みに、俺ははっとして首を横に振った。
「引いてない」
 指を伸ばし、服の上から依人のひじに触れる。
 声が出なかったのは、自分の無神経を思い知ったからだ。
 以前にも、依人は似たようなことを伝えてくれたのに。俺はなにもわかっていなかった。鼻の奥が熱い。
「ぜんぜん引いてないよ」
 真剣に伝え、俺はそっと息を吸った。まっすぐ見据え、「依人」と呼びかける。
「俺、ちゃんともう一回、本当に考える。依人だから駄目なのか、いいのか。だから、もうちょっと待っててほしい」
 必死に言い募りながら、たぶん、と俺は思っていた。
 たぶん、俺は、依人を好きになりたいんだ。ブラザーとしてだけじゃない、依人と同じ好きに。
 だって、そうでなければ、罪悪感だけでは、絶対にこんなふうに縋ることはできない。
「わかった」
 依人の返事に、俺は心底ほっとした。安堵が伝わったのか、依人がほほえむ。優しい瞳だった。
「いいよ、待ってる。先輩がちゃんと考えてくれるなら」
「うん。ありがと。考える」
 本当にちゃんと考えよう。依人のためにも、俺のためにも。
 自分に言い聞かせ、そっと小さく笑う。その唇に柔らかいものが触れた気がして、俺は固まった。
「…………え?」
 まぁ、柔らかいものっていうか、依人の唇なんだけど。
 瞬きもなく凝視する俺に、依人が言う。
「あ、ごめん。つい」
 固まった俺と相反する、まったく悪いと思っていない態度だった。
 ……いや、ついって。おかしいだろ。
 好きとか、嫌いとか、そういう問題じゃなく。おまけに、とりあえず謝りましたと言わんばかりだし。
 ふつふつとこみ上げるよくわからない感情のまま、俺は「はぁ?」とデカい声を出した。
 いや、マジで。本気で意味がわからない。ちなみに、依人は最悪なことにうるさいという顔をした。
 俺の腹の底からの訴えは、早朝の寮内にしっかり響き渡ったらしく。
 ふたり揃って今年二枚目のイエローカードを頂戴する事態になったのだが、それはまた別の話にしておきたい。