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「あ、そうなん? てっきり二組目爆誕したんやと思ってたわ」
「え?」
 予想外の反応に、俺はぽかんと純平を見上げた。
 体育祭に引き続き文化祭の実行委員でもある純平が、中庭の看板づくりの進捗を確認しつつ、さらりと続ける。
「それやったら、べつにええけど。休憩合わせるくらい」
「え、なに。じゃあ、俺と谷先輩、合わせてくれないわけ? 最後の文化祭なのに?」
 俺と一緒に作業中だった沢見が、聞き逃せないと声を上げる。その沢見をじっと見つめたのち、純平は考えるように空を仰いだ。
 体育祭の時期と違い、文化祭の準備は外での作業も気候がいい。まぁ、今は俺と沢見しかいないんだけど。
 つられてドキドキと待つこと数秒、「まぁ、ええか」と純平はセーフの判定を出した。
「沢見も谷先輩もそこそこ線引きちゃんとしとるもんな。付き合うてへんのに、いちゃこらしとるどっかのブラザーと比べたら」
「え、なんでそんなディスんの……? っていうか、俺らそんなことしてなくない?」
 今だって、当日スケジュールの希望を聞かれたから、「じゃあ、依人と一緒に休憩取りたい」と答えただけなのに。
 純平が「え、なんなん? デート?」と目を丸くするから、「違うけど?」と否定しただけなのに。俺の扱いがひどすぎる。
「それに、ほら。体育祭と違って、依人もちゃんと一年生のとこで作業してるじゃん」
「あたりまえすぎるんよなぁ」
 俺の必死の訴えを一蹴し、純平が首をひねる。
「やって、距離近いねんもん。去年も海先輩といちゃこらしとったけど、依人くんとのは、なんか湿度が違うんよな」
「湿度」
 思わず繰り返した俺に、純平は重々しく首肯した。
「そう、湿度。少なくとも、海先輩は肩に顎乗せたりせぇへんやん。あと、自分、誰かがそば通るとちょっと離れようとするやろ? 逆にそれが生々しいいうか」
「待って」
「せやで、沢見はかなり配慮しとったんやなって、俺の中で沢見の株爆上がりしとったんやけど」
「いや、ちょっと。本当に待って」
「相対評価すぎてウケるんだけど」
 三人きりのタイミングとはいえ、純平は好き放題言わないでほしいし、沢見は冷めた顔で笑わないでほしい。
 針のむしろ状態の俺をちらりと見て、「まぁ、ええんやけどな」と純平は話を切り上げた。
「ほな、看板に足らんもんはないということで。そろそろほかの子も戻ってくるやんね? さぼらんとがんばってや。あ、一年生んとこ行くけど、なんか言うとこか?」
「そういうのいいから、ガチで」
「はい、はい。わかりましたぁ」
 うんざりした俺の反応を笑い、純平がひらりと手を振る。しゃがんだまま背中を見送ってふたりになると、沢見がぽつりと口を開いた。
「夏に悪気はないと思うんだけど」
「え?」
「俺だったら正直きついな。微妙に事情知ってると笑えないっていうか、健気だよね、依人くんも」
「え? え? なにが?」
「なにがって、純平も言ってたじゃん。誰かが来たら微妙に距離取ろうとする、夏の態度だよ」
「え……」
 でも、それは、依人が変にからかわれないための、いわば自衛で。依人のためで。
 ぐるぐる考えたまま絶句していると、沢見が首を傾げた。
「それとも、そういう意味で自分のことが好きな相手に触られんのは嫌だってこと?」
「え、いや」
「ちょっと前にも間違いたくないとか言ってたけど。本当にそうなら言ったほうがいいと思うよ、俺。そういうの、逆に傷つけるから」
「いや、あの」
「嫌なら嫌って言ってもらっていいんですよ、べつに」
 予想外の方向に展開した話を、焦って否定しようとしたのだが。否定が終わる前に、頭上からめちゃくちゃ冷たい声が降ってきた。
 どきんと跳ねた心臓を押さえ、ぎこちなく振り仰ぐ。
「よ、依人」
「あれ、どうしたの、依人くん。もしかして、純平になんか言われた?」
 真っ青になった俺を一瞥し、依人は沢見に視線を落とした。
「ふざけてばっかないで、今日中に一枚絶対仕上げろって言ってましたよ」
「了解。伝言、ありがとね」
「ぜんぜん。本当にいいです。じゃあ、それだけなんで」
 取り成した沢見に義務的に告げ、依人が背を向ける。俺なんて視界に入っていませんという態度だった。
「さ、沢見」
 縋りついた俺から、沢見がふいと目をそらす。
「うーん、ちょっとタイミングが悪かったかな」
「タイミングが悪かったかなって、めちゃくちゃ怒ってたよね、あれ!?」
「あー……、ねぇ。どこから聞いてたんだろうね」
「あんな冷たい声、俺、たぶん、はじめて聞いたんだけど……」
 会話がほとんどなかった春のころでさえ、あんな声じゃなかったと思うんだけど。
 数秒の沈黙のあと、沢見は生ぬるい笑顔で俺の肩を叩いた。
「まぁ、でも、ほら。謝ったらわかってくれるでしょ、たぶん」
「最悪すぎない、ちょっと! マジで」
 半分八つ当たりで叫んで、立ち上がる。
「行ってくるから、あとよろしくね!」
 沢見に言い残し、俺は依人が立ち去った方向に急いだ。
 声もそうだけど、あの目。思い出すと、胸がきゅっと苦しくなる。
 俺の思い違いじゃなければ、依人は怒っているだけじゃなくて、傷ついたんじゃないだろうか。
「依人!」
 どんどん近づく背中に、俺は必死に呼びかけた。
「依人、ちょっと待って! ごめん」
 名指しで叫んだから、無視できなかったのかもしれない。
 校舎の角を曲がった人気のない場所で、依人は立ち止まった。でも、振り向いた依人は、心底呆れたという顔をしていて。
 見とめた表情に、謝るつもりだった言葉が喉に詰まった。呼び止めたのは俺なのに、足も一歩、校舎のほうに下がる。
 その俺の反応に、依人は小さく息を吐いた。
「先輩は、影でこそこそ誰かを悪く言う人じゃないと思ってました」
 痛烈な非難に、視線が足元に落ちる。
 影で悪く言ったわけじゃないけれど、沢見に勝手に相談したことは事実だったからだ。
「えっと……」
 どうにか顔を上げ、口を開く。
「その、ごめん。たしかに、沢見に相談したことは認める。でも、悪口言ってたとか、そういうんじゃなくて。さっきのも」
「相談って便利な言葉ですよね。そう言えば、なに言っても許されるし」
「依人」
「でも、沢見先輩に相談するくらい困ってるなら、最初から言ってもらってよかったんですよ、本当」
 俺の呼びかけを遮り、依人はうんざりした調子で吐き捨てた。
「誰かが通るたびに距離取られんのも、正直、俺も面倒だったし」
「いや、それは」
「やってみないとわかんないとか、言わないと後悔するとか。男同士だからってどうこう言うのはおかしいとか」
「……依人」
「先輩が言ってたそれ、ぜんぶきれいごとだったんだなって、よくわかりました」
 名前を呼ぶこともできなくなって、再び視線を落とす。そんなつもりはないと弁明することはできなかった。
 依人がまたひとつ溜息を吐いた気配がして、すぐ背後の壁が鈍い音を立てる。
驚いて顔を上げると、触れそうな位置で依人と目が合った。
「嘘つき」
 依人、と呼びかけるより早く、依人の手が壁から離れていく。
 明確な拒絶を前に、俺はとうとう依人を追いかけることもできなくなってしまった。