やってみないとわかんない、は、俺の幼少期からのモットーだ。
 良く言えば、フットワークが軽い。悪く言えば、猪突猛進型の迷惑人間。
 この特性が災いし、やらかしたこともあったけど、やらない後悔よりやる後悔のスタンスで今日まで俺は生きてきた。
 そう、生きてきたわけだが。
 ……でも、さすがに、お試しお付き合いはどうなんだろ……。
 そもそもの話だけど、告白された以上、「俺も好きです」か「ごめんなさい」のどちらかを選ぶべきだったのでは。うっかり頷く前に。
 寮の自室の勉強机で、俺は「うーん」と大きく唸った。宿題を広げているものの、まったく進む気配はない。
 唐突な提案を受けた夜から、一週間。
 俺の頭を占める悩みごとは「夏休みに聞いた噂どうしよう」から「お試しお付き合いってなんなんだ」に完全に移行していた。
「なにが『んー』?」
「依人!?」
 突如として響いた声に、ぎょっとして振り仰ぐ。
 タオルで髪を拭いていた風呂上がりらしい依人と目が合い、俺はへらりと笑いかけた。
「あ、……えっと、おかえり」
「それで? なんだったんですか」
「え? いや」
 とりあえずと笑った手前、参考書の設問をシャーペンで指し示す。進んでいなかったので、嘘ではない。
「ちょっと、問題、悩んでて」
「どれ?」
「どれって、これ、二年の問題なん、だけど」
 参考書に視線を落とし、もう一度顔を上げた瞬間。依人ととんでもない至近距離で目が合った。
 ……いや、いやいや。違うから、これ。純粋に参考書覗き込んでるだけだから。
 言い聞かせ、ぎこちなく手元に視線を戻す。
 ――先輩のことが、好きだから?
 依人の告白がよみがえるから、なのだろうか。
 罪悪感を抱えていたころとは違った意味で、俺は落ち着かない日々を送っているのだった。
 自意識過剰ってやつなんだろうな、と自分に呆れていると、依人が俺の手からシャーペンを抜き取った。
 え、と言う間もなく完成した英文に驚いて、ぎぎっと依人を見上げる。
「なんでわかんの……?」
「まぁ、英文法だし」
「英文法だしってなに!?」
 それは、まぁ、英語が得意だったら、楽勝かもしれないけど。我慢できず、俺は歯噛みした。
「なんか、ずるい……! 俺が教えたかったのに……!」
「言ってましたね、そういや。勉強教えたいとかなんとか」
 言葉どおりのそういえば言ってたな、くらいのテンションに、「俺が教えたかったの!」と重ねて主張する。
「ブラザーできたらやりたいこと、いっぱいあったの、俺は!」
「はぁ」
「勉強もそうだけど、一緒に遊んだりもしたかったし、……あ、でも、一緒に遊ぶはそこそこ叶ったな」
 指折り数える俺に呆れた顔をして、依人は自分の椅子を引いた。勉強するのかなと思いきや、予想外に椅子が俺のほうに寄る。
「じゃあ、どうぞ」
「どうぞ?」
 クエスチョンマークでいっぱいになった俺に、依人がにこりとほほえむ。
「教えたかったんでしょ? なにがいいですか?」
「なにがいいっていうか、……いや、俺が選ぶ側なのおかしくね? 依人がわかんないとこ俺が教えるのが」
 と言ったところで、俺はジト目になった。そうか、こいつ、わかんないとこないのか。特待生だもんな。
「やりたかったんでしょ? いいですよ。付き合っても」
「……いやぁ」
 そりゃ、やりたいか、やりたくないかと問われたらやりたいけど。教える必要もないのに、依人の時間を奪ってまでやりたいわけじゃない。
 中途半端に笑うことで返事とし、俺は軽く目を逸らした。
 ……機嫌がいいのはいいことなんだけど、でも、なんかなぁ。
 そう。でも、なんか。落ち着かない気分に拍車がかかるのである。言えるわけのない「でも、なんか」を拗(こじ)らせたまま、俺は依人を窺った。
「っていうか、あの、…………なんか、距離、近くない?」
「そうですか?」
「そうですかって、いや、近いだろ」
 たぶんだけど、勉強を教えるだけで、膝が触れそうな距離まで椅子を近づける必要はないと思う。
 しどろもどろに訴えると、依人は少しだけ間を置いて首を傾げた。
「嫌でした?」
「いや、嫌とかそういうことじゃなくてさぁ」
「じゃなくて?」
「…………まぁ、いいや」
 じっと見つめてくる視線に、完全に負けた気分で「うん」と頷く。
 自分で言うのもなんだけど、俺はもともと距離の近いタイプだし。本来だったら、このくらいの距離はまったく無問題だ。ただ。
「じゃあ、よかった」
 安心したふうに笑った依人に、俺の罪悪感はマックスまで突き抜けた。キリキリと痛み出しそうな胃を押さえ、「あのさ」と呼びかける。
「ん?」
「あ、……えっと」
 聞き返すトーンの穏やかさに、胃が死んだ気はしたものの、俺はどうにか笑みを浮かべた。
 依人と仲良くしたい気持ちに変わりはないし、依人の言動や表情が優しいことはうれしい。めちゃくちゃうれしい。だが、無理だ。
 ……そういや、体育祭のときも「いっそずっとふてぶてしくいてほしい」って喚いたな、俺。
 情けない過去を思い返しつつ、慎重に言葉を選ぶ。
「あの、……わかりにくいだけで、前の依人が優しくなかったわけじゃないんだけど」
「はい」
「なんか、えらい優しいね?」
「お試しでもなんでも、付き合ってる相手には優しくするもんじゃないです?」
「あ、あー……」
 さも当然という返答に、俺はなんとも言えない声を出した。
 なるほど。それが依人にとってのお付き合いにおける「ふつう」。
 言っている意味はわかるんだけどなぁと悩む俺に、依人が確認する。
「それで? どうするんですか、勉強」
「あ、……いや、うん。大丈夫、です」
 これ以上、俺の我儘で依人の時間を奪うわけにはいかないので。
 未練を断ち切って断った俺に、「なら、いいですけど」と依人は苦笑をこぼした。しかたないと言わんばかりの、優しい顔。
 落ち着かなさに耐えかね、俺はぱっと視線を逸らした。誤魔化すようにシャーペンを手に取ったものの、もう一度ちらりと依人を見る。
 見慣れた静かな横顔に戻っていたけれど、もうひとつの質問をすることは、なんだかやっぱりできなくて。
 参考書に視線を戻し、溜息と一緒にそれを呑み込む。
 今の依人だったら、素直に答えてくれる可能性はあるんだろうけど。
「おまえ、自分が最近なんて言われてるか知ってる?」という確認は、ちょっとハードル高めだわ。