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「なんだ、結局、純平に手伝ってもらってるんだ。そのプリント、夏が授業中にぼーっとしすぎて貰ったやつでしょ」
「沢見」
 一階の談話室で勉強していた俺は、かかった声に顔を上げた。
 にまにま笑いながら現れた沢見が、俺と純平が使っていたテーブルの椅子を引く。
「野本先生、優しいのにねぇ」
「そら、まぁ、新学期始まってからずっとぼーっとしとったらな。さすがの野本先生もお怒りになるんとちゃうか」
「ああ、もう二週間だしね。さすがにね」
 課題のプリントを貰った俺ではなく、数学B担当の野本先生に同情する調子に、俺は沈黙を決め込んだ。
 なにせ、授業中にぼーっとしていたことも、「まったくわからん」という理由で純平に手伝いを求めたことも事実である。
「でも、珍しいやん。沢見が一階の談話室来るん。空いた時間は谷先輩の部屋や思ってたわ」
「先輩の部屋には顔出さないよ、俺」
 沢見の元ブラザー、現恋人である谷先輩との仲をからかった純平に、沢見はあっさり実情を明かした。
「会うのは先輩の勉強の休憩中、上の談話室って決めてるんだよね」
「ああ、まぁ、谷先輩も受験生やもんな」
「俺はいちゃつきたいけどね。でも、庄野も、俺がまったく部屋にいないと気にするだろうし」
 庄野というのは、沢見の後輩ブラザーの一年生だ。
 明るくて、空気を読むのがうまいタイプのめちゃくちゃいい子。依人もそこそこ仲良さそうにしてたっけ。
 そういうところには気を使ってるんだな、とどんより相槌を打つ。
「ああ、それで……」
 それで、俺と依人が初日に談話室でいちゃこいてる場面を目撃したわけね。谷先輩と庄野くんに対する配慮をほかの寮生というか俺にも発揮してくれよ。
「なに。薄々思ってたけど、最近、暗いね、夏」
「いや、べつに暗くは」
 ないと思うんだけど、と続けようとした台詞に、「せやねん」という純平の声が被さる。
「それやのに、妙に談話室に誘ってくるし。かわいいブラザーに、部屋で癒してもろたらええのにね」
 かわいいブラザー。他意のないはずの表現に、ぎくりと肩が揺れる。
 ふたりが顔を見合わせた気配に、俺は恐る恐るプリントから視線を上げた。目が合った純平が生ぬるくほほえむ。
「喧嘩したとか言わんといてや。それともなに? また依人くんに冷たぁされたん?」
「いや、依人はなにも悪くないんだけど!」
「やろなぁ」
 したり顔で頷いて、純平は話を続けた。
「道くん言うてたもん。最近は教室でも人当たり良うなったって」
「マジで?」
「いや、喜びよ。なんなん、その顔」
「……だよな」
 それは、まぁ、いいことだと思うけど。
 不承不承認めた俺の態度に、沢見が半笑いで口を挟んだ。
「違う、違う。純平。それ、嫉妬」
「嫉妬ぉ?」
「自分にだけ懐いてたかわいいブラザーが、お友達つくりはじめたから複雑なの。夏お兄ちゃんは。ブラザー大好きだから」
「ああ……、不健全やな」
「ふたりともマジやめて」
 とくに、純平の「先輩としてあたりまえに喜べよ」みたいな目が本当にグサッとくるから。訴えて、俺はシャーペンを放り出した。
 ……暗いつもりはないけど、でも、落ち着かないんだよな、部屋にふたりでいるの。
 原因は俺の罪悪感とわかっているものの、変な態度は取らないと誓った決意が、簡単に崩壊するレベル。
 それで、つい、部屋を空ける回数が増えた、ということなんだけど。
 沢見のときはなにも思わなかったのに、この違いはなんなんだろう。
 じっと沢見を凝視していると、沢見が訝しげに首を傾げた。
「なに。今度は俺の顔見て変な顔して」
「え? いや、その」
 やましいことはないはずが、盛大に声が上擦る。
「いや、だから、なに」
「え、えっと……」
 怪訝な表情を深くした沢見から、俺は視線を泳がせた。
 沢見に対してやましいことはない。だが、依人に対してやましいことは、正直ちょっとあるのだった。
 ……興味本位で最悪な自覚はあるんだけど、想像しそうになるんだよな。なんでかは、わかんないんだけど。
 つまり、落ち着かないという表現は、半分が本当で半分は正しくないということだ。
「あのさ……って、え、依人!?」
 ぽんと肩に手を置かれ、振り返ったところで仰天する。話題に出すつもりだった相手が立っていたからだ。
 しかも、なぜかめちゃくちゃ機嫌の悪そうな顔をしている。その顔と同じ、不機嫌そうな声が問う。
「勉強してるんじゃなかったんですか?」
「あ、いや、してた。ちょっと前までマジでしてた。な、してたよな?」
 勉強すると言って部屋を出たブラザーが遊んでいたら、責めたくなってもしかたがない。
 不機嫌の理由を察し、俺は純平に縋りついた。
「な、純平。俺、してたよな?」
「ちょっと前まではな。夏がうじうじうるさいで、今は相談聞いとったんやけど」
「へぇ、相談」
 さらにトーンの下がった声と冷たい視線に、ぶんぶんと首を横に振る。
「してない、してない。本当になにもしてない! な、してないよな? 俺」
「まぁ、まだ口割っとらんでな」
 そういう意味ではしていないと頷いた純平が、「そうや」と依人に笑みを向けた。
 ちなみにだが、沢見は高みの見物を決め込んでいる(が、口を挟むとろくなことを言わないので、このほうがマシと言える)。
「依人くん知っとる? 夏、夏休み明けもここでへこんでてんで。なんや知らんけど、依人くんのお土産握りしめながら『ゴミくずですみません』って」
「いや、ちょっと、マジで。純平」
 嘘を吐いてフォローしてほしいとは言わないが、絶妙に間違った説明もしないでほしい。
焦って制止をかけたものの、純平は笑顔のまま言い放った。
「やで、あれやったら、相談乗ったってや。ほんま、うじうじしつこいねん」
「いいですけど」
「へ?」
 あっさりした了承に驚いて見上げると、依人は有無を言わせない調子でほほえんだ。肩先に食い込む指の力にビビりつつ、やんわり呼びかける。
「あの、……依人?」
「いいですよ、もちろん。こういうときのためのブラザーですもんね?」
 こういうときのためのブラザー。困ったときに助け合うのがブラザー制度のいいところ。春からずっと俺が力説していた内容である。
 それをそのまま返されて、拒絶できるわけがない。
 曖昧に頷いた俺に、依人がにこりと笑う。笑ってるのに、めちゃくちゃ怖い笑顔だった。

「夏先輩、あたりまえの話してもいいですか?」
 依人に続いて部屋に戻り、扉を閉めた直後。耳元でバンと鳴った音に、俺はぎくりと固まった。
 我に返って、ちらりと横を見る。扉に向かって伸びた腕と、血管の浮いた手の甲。恐喝と評したほうが正しい気はするが、いわゆる壁ドンというやつだ。
 どう弁解したもんかなぁというレベルじゃ、なかったかもしれない。
「ど、どうぞ……?」
 険しい顔に視線を戻し、引きつった笑みを浮かべる。その俺に向かい、依人ははっきり言い切った。
「謎の気を使って距離取られるのも、無視されるのもふつうに腹立つんですけど。夏先輩は、どう思います?」
「無視はしてない、してない。え? してないよね?」
「そうですね。無視はしてないですよね」
 動転した俺を宥めるように、依人がほほえむ。
「やたらこっちのこと見てんなぁって思って俺が振り向いた瞬間に目ぇ逸らしたり、なんやかんや理由つけて部屋出て行ったりしてるだけですもんね」
「…………」
「ブラザーのこと大事にしてくれる先輩が、理由もなくそんなことしないですよね」
「…………マジすみません」
 盛大に視線をさ迷わせたのち、俺は深々と謝った。なにせ、すべて身に覚えのあることである。
「マジすみませんはいいから、なんなんですか」
 壁ドンのまま問い重ねられ、「えっと……」と往生際悪く呟く。依人の噂を聞いたことは、できれば言いたくなかったからだ。
 ……いや、まぁ、態度に出した俺が悪いことはわかってるんだけど。
 どうしようかなぁ、と。改めて依人を見やったところで、俺ははっとした。たぶんだけど、依人のこれは不機嫌だけの顔じゃない。
 気づいた事実に、逡巡を捨てて打ち明ける。
「実は、その、夏休みに従兄からちょっと依人のこと聞いて。――あ、聞いたって言っても、詳しくはなにも聞いてないんだけど」
 秘密を暴くみたいな真似は嫌だけど、中途半端に誤魔化して、依人を不安にさせたいわけじゃない。
 その一心で、できるだけあっさり響くように説明する。
「依人の写真見た従兄が、『男が好きだって噂になって逃げ出した子だ』って言っててさ」
「はぁ」
「それで、ちょっと気になって。それだけなんだけど」
 へらりと笑ったものの、依人はなにも言わなかった。
 怒っているのか、ショックを受けているのかの判別もできない、わりと鉄壁の無表情。
 春に会ったころの、トゲトゲの壁を張り巡らせていた依人みたいだ。そんなことを考えていると、依人が小さく息を吐いた。
「まぁ、べつに、おおまかに否定はしないですけど」
「あ、……そうなんだね、うん」
「で? 気になったから、あの態度だったんですか?」
「いや、その」
 説明を終え、少しほっとしたタイミングで強まった語気に、再び俺の視線が泳ぐ。
 はっきり言って、さっきの話とは違う意味で言いたくない。
 ……でも、これもしかたないよな。だって、変に誤魔化して、依人に誤解させたくないもん。
 自分にもう一度言い聞かせ、俺は重い口を開いた。
「なんというか、悪かったなと思いまして」
「悪かった?」
「だって、依人、心機一転でここに来た、みたいなこと言ってたじゃん。それなのに、勝手に俺に昔のこと知られたら嫌だろ」
『全寮制の高校を選んだのは、地元を離れたかったからです』
 会ってすぐのころに、依人が言ったことだ。あのときは理由を絞り切ることはできなかったけど、依人の噂を聞いて、俺は勝手に納得した。
 噂になったことが嫌で、地元を離れたかったんだって。
「あと、依人がいろいろ言ったこと、俺、まったく本気に捉えなかったから。それも悪かったなって」
 俺がきちんと受け止めていたら違っていたと思うのは、傲慢かもしれない。
 でも、もし「そう」だったら、依人はもっと自由に過ごせたんじゃないかな。俺のよけいな説教で嫌な思いもしなかったんじゃないかな。
 そんな考えばかりが湧いて、後悔が尽きなかった。
 俺は先輩ブラザーなのに、根本的な部分で依人を信じていなかったのだと気づいたからだ。
 すっと息を吸い、改めてしっかり謝罪する。
「だから、ごめん。その、……そういう罪悪感で、どんな顔していいかわかんなくなったってことなんだけど」
「なんだ」
 怒っても呆れても当然と覚悟していたのに、依人はほっとした顔で呟いた。その調子のまま、ぽつりと言葉にする。
「気持ち悪いって思ったのかと思った」
「え?」
「いや、先輩が、男同士だからどうのこうの言うのはよくないって言ってたのは知ってるし、本当にそう思ってるのもわかってたけど」
「え? え?」
「でも、実際に自分がそういう相手と同室だったら、気持ち悪いんじゃないかなって」
 ごくあたりまえのことと思っている雰囲気に、俺は絶句した。
「まぁ、そう思ってもしかたないと思いますけど。ふつうっていうか」
「思うわけないじゃん!」
 自嘲が混じったことに気づき、慌てて声を張り上げる。
 黙り込んだのは、驚きすぎたからだ。そんなこと思うわけがない。
「だって、依人だよ」
「なにが、だって?」
 不思議そうに依人が問い返す。その顔を見つめ、俺は口をつぐんだ。
 依人のすべてを知っているなんて、言えるわけがない。根本的な部分で信じていなかったと痛感したばかりだ。
 でも、どうしても依人に伝えたかった。
「依人と知り合って半年も経ってないけど、俺にとって依人はかわいいブラザーだし、そうじゃなくても、いいやつだって知ってるし」
 だから、と必死に言葉を振り絞る。
「そんなことで気持ち悪いって思うわけないじゃん」
「……そういうもんですか?」
「そういうもんなの! 少なくとも俺にとっては。あ、……えっと、そんなことっていう言い方はちょっとあれだったかもしれない、けど」
 どんどん尻すぼみになる主張に、依人は不審そうだった表情をふっとゆるめた。
 あいかわらずのお花畑な思考と呆れたのかもしれない。
 ……でも、いいや。なんでも。
 ちょっとでもほっとして、笑ってくれたのなら、それで。
 こんなことなら、もっと早くに打ち明けておけばよかったのかな、なんて。のんきなことを考えていると、「先輩」と依人が俺を呼んだ。
 真面目な様子に、思わず首を傾げる。
「なに?」
「夏先輩、やってみないとわかんないからお試しでブラザーしようって、俺に言いましたよね」
「え? いや、まぁ、……言ったけど」
 やってみないとわかんないは俺のモットーだし、実際、やって良かったと思ってるけど。
「俺、付き合いましたよね」
「まぁ、うん」
 めちゃくちゃ渋々だったし、勝手にしろって感じだったけど。付き合ってくれたことは事実だ。
話の流れはまったくわからなかったものの、問われるままに頷く。
 きょとんとする俺に、依人はじりっと言葉を重ねた。
「じゃあ、今度は付き合ってほしいんですけど、先輩に」
「べつにいいけど。付き合うってなにに?」
「そのまま。お試しで付き合ってみようって意味ですけど」
 さらに意味のわからなくなった展開に、ぎこちなく問い返す。
「誰と誰が?」
「先輩と俺が」
 即答に、今度こそ俺は黙り込んだ。本気で意味がわからなかったからだ。
 ……いや、そりゃ、たしかに、俺もなかなか無理やり「お試しでいいから、ブラザーしてみようよ」って言ったけど。
 でも、それは、仲良くなる手段が欲しかったからで。あと、先輩ブラザーとして学校生活を楽しめるようにしてあげたかったからで。
 じゃあ、依人のこれはなんのためなんだ。
 ドキドキする心臓を誤魔化し、俺はどうにか平静を装った。なんだか急に今さら壁ドン状態であることが恥ずかしい。
「な……、なんで?」
 渾身の「いつもどおり」の問いかけに、依人は考えるように首を傾げた。依人の指が動いて、俺の頬に触れる。
「え……」
 ひんやりとした指先と、どこか緊張したような瞳。小さく声をこぼした俺をまっすぐに見つめ、依人が言う。
「先輩のことが、好きだから?」
 俺のことが好きだから。
 その突然の告白は、お盆に聞いた樹くんの発言どころではない威力を伴って。俺の中心にずどんと落ちてきたのだった。