駅舎を出て、少し歩いたところで足を止めた。

 朝の空気が、思っていたよりも冷たかった。頬に触れた風がひやりとして、さっきまで熱っぱく泣いていた目のあたりの火照りをなだめてくれる。

 振り返ると、無人駅のホームが見えた。

 さっきまで、あそこで全部の記憶と向き合っていた気がする。夜の闇の中で、黒猫と電車と、母の手紙と一緒に。なのに今は、どこからどう見ても、地方のローカル線の小さな駅にすぎなかった。

 でも、ひとつだけ違うものがある。

 ポケットの中に、鈴がひとつ。

 私は指先でそれをつまみ出した。てのひらの上に乗せると、朝日を受けて小さく光った。銀色の丸いかたち。ところどころについた傷。指で触ると、そこだけ少しへこんでいるのが分かる。

「……おはよう」

 鈴に向かってそう言ってみる。自分でもちょっとおかしなことをしている自覚はあるけれど、口に出したら、胸の中に残っていた夜の重さが少し溶ける気がした。

 東の空は、もうすっかり桃色から黄金色に変わっていた。線路の上を、細い光の帯がすっと伸びていく。世界全体が「今日」という新しいページを開いたところみたいだ。

「……こんな朝、いつぶりだろ」

 ただ空を眺めるためだけに立ち止まるなんて、ここ数年やっていなかった。いつもはぎりぎりまで寝て、バタバタと支度をして、駆け込みで電車に乗って。空の色なんて、窓の外に流れる景色扱いだった。

 今は、同じ空なのに、まるで違うものに見える。

 世界って、こんなに優しかったっけ。

 胸の奥で、そんな思いがふっと浮かんだ。

     ◇

 ホームのベンチに腰を下ろし、もう一度ポケットから鈴を取り出す。

 てのひらに乗せて、胸のあたりにそっと押し当てる。シャツの向こうで、まだ少し早く打っている鼓動と、ひんやりとした金属の感触が重なった。

「……もう、やめようか」

 誰に向かってでもなく、ひとりごとのように呟く。

「自分のこと、責めるの」

 母の病室から逃げた夜。お盆に帰らなかった夏。キッチンでぶっきらぼうな言葉ばかり選んでしまった反抗期。全部、私が選んできたことだ。後悔しても、時間は巻き戻らない。

 でも、手紙の中の母は、一度も私を責めていなかった。

 むしろ、「誇りに思っている」と書いてくれた。

 私が勝手に作ってきた「悪い娘」というレッテルを、母は最初から貼っていなかったのだ。

「お母さんが望んでたのってさ」

 鈴の丸い頭を指でなぞりながら、言葉を続ける。

「きっと、『ちゃんと生きてくれればそれでいい』ってことだけだったんだよね」

 うまくいかない日があっても、泣きたい日があっても、笑ったり怒ったりしながら生きていくこと。それを、遠くから応援していたんだろう。

 なら、私もそろそろ、その願いに応えてみてもいい。

「怖くても、また歩き出していいんだよね」

 そう言ってみると、胸の中の何かが、ほんの少しだけ軽くなった。

 その瞬間、ホームをひとすじの風が駆け抜けた。

 鈴が、てのひらの上で小さく揺れる。

 ちりん。

 ほんのひとつだけ、澄んだ音が鳴った。

 さっきまで耳を澄ませていたのとは違う。自然に、当たり前のように鳴った音。それでも、どこかで「返事をもらえた」ような気がして、私は思わず笑ってしまった。

「……ありがとう」

 風の流れていったほうを向いて、そっとお礼を言う。

 母に。黒猫に。列車に。全部ひっくるめて。

     ◇

 改札を抜けて、家に帰る電車に乗った。

 いつもと同じ路線。いつもと同じ車両。なのに、窓から見える景色が少し違って見えるのは、きっと私のほうが変わったからだ。

 マンションに着くと、まずシャワーを浴びた。冷たい水とお湯を交互に使い、顔を洗って、目の周りをそっとこする。鏡の中の自分は、まだ少し泣きはらしていて目が赤い。でも、どこかすっきりした顔をしていた。

「よし」

 バスタオルで髪を拭きながら、キッチンに立つ。

 久しぶりに、ちゃんと朝ごはんを作ろうと思った。

 味噌汁用の鍋を出し、冷蔵庫から野菜を取り出す。ネギ、豆腐、わかめ。包丁を握る手が、少しだけ心もとない。ここ数年、自炊といえばパスタを茹でるか、冷凍食品を温めるくらいだったから。

 それでも、母の背中を何度も見てきたはずだ。手元の映像を、記憶の奥から引っ張り出す。ネギは斜めに、薄く。豆腐は崩れないように、そっと。

 だしの匂いが部屋に広がっていく。

 その匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥にあった何かがじんわりと溶けた。

「……お母さんの味には、まだ全然かなわないな」

 味見をして、思わず笑う。

 少し塩気が足りない。でも、悪くない。これから何度でも練習すればいい。母の味に少しずつ近づけるように、一杯ずつ作っていけばいい。

 味噌汁と、焼いた鮭と、残っていた卵で作った目玉焼き。自分で用意した朝ごはんをテーブルに並べると、それだけで部屋が少し明るくなった気がした。

 椅子に座り、手を合わせる。

「いただきます」

 声に出して言うと、誰もいないはずの部屋が、不思議とあたたかくなった。

     ◇

 ごはんを食べ終えて、片付けを済ませると、スマホが震えた。

【今日の会議、大丈夫? 体調平気?】

 同僚の由香からだった。

 そういえば、昨夜は「ちょっと実家関係でバタバタしてて」とだけメッセージを送って、飲み会を早めに抜け出したのだ。心配してくれているのだろう。

 画面を見ながら、指が一瞬止まる。

 今までなら、「大丈夫大丈夫!」と適当に返して終わらせていたと思う。でも、今日はそれだけじゃなくていい気がした。

【昨日はごめん。ちょっといろいろ考えちゃって。
でも今日は、ちゃんと行くよ】

 そこまで打って、少し迷う。

 迷った末に、もう一文だけ付け足した。

【もし会議のあと、少しだけ時間あったら、
話聞いてもらってもいい?】

 送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。

【全然いいよ!
ていうか昨日から心配してたし。
終わったらカフェ行こ】

 画面の文字が、胸のあたりにじんわりと染み込んでくる。

 私はスマホを置き、ふと別のトーク画面を開いた。

 母とのLINE。

 最後のメッセージは、何年も前のもののままだ。

「はるな、無理しないでね。
いつでも帰ってきていいのよ。」

 その下に、私のそっけない返信が一行。

「忙しいから、今年は無理かも。」

 画面の中のその文字列が、ひと晩で違うものに見えるようになっていた。

 あのときの私は、本当に「忙しいから」だと思い込もうとしていた。でも、本当は。「怖かったから」「弱い自分を見せたくなかったから」だった。それを、やっと認められた。

 ゆっくりと画面の一番下にカーソルを合わせ、新しいメッセージ欄を開く。

【お母さん】

 一文字一文字打ちながら、指が少し震えた。

【私、ちゃんと生きていくよ】

【心配しないでね】

【ずっと、ありがとう】

 最後の句読点を打つかどうかで少し悩んで、結局つけなかった。なんとなく、そこに点を打ってしまうと、全部が終わってしまう気がしたから。

 送信ボタンの上に親指を乗せる。

「これは……私の、けじめだから」

 自分に言い聞かせるように小さくつぶやいて、そのまま押した。

 メッセージがすっと送られていく。トーク画面には、四つの吹き出しが並んだ。

 当然のことながら、「既読」はつかない。

 でも、その沈黙ごと、今は受け取れる気がした。

「行ってきますね」

 スマホに向かってそう呟き、画面を閉じる。

     ◇

 スーツに着替えて、鏡の前で髪を整える。

 目はまだ少し赤い。でも、会社に行けないほどではない。むしろ、このままの顔で一日を始めてもいいと思えた。弱った自分を全部隠して、「何もなかったです」と笑うより、よっぽどましだ。

 玄関で履きなれたパンプスに足を入れ、ドアノブに手をかける。

 ポケットの中の鈴が、そこでもう一度小さく揺れた。

 ちゃり、とほんのり音がする。

「……よし」

 深呼吸をひとつして、ドアを開けた。

 アパートの外の通路に、朝の光が差し込んでいる。階段の隙間から見える空は、さっき無人駅で見上げた空と同じ色だった。

 階段を下りようとしたところで、ふいに視界の端に黒いものが動いた。

 アパート前の小さな駐車場の隅。コンクリートとアスファルトの境目あたりに、一匹の黒猫が座っていた。

 さっきの駅長帽はかぶっていない。普通の猫。尻尾をゆっくりと揺らしながら、こちらを見ている。

 見つめ返すと、胸のあたりがじんわりと熱くなった。

「……おはよう」

 私は階段を降りて、少しだけ近づいた。猫との距離は数メートル。それ以上縮めると逃げられてしまいそうで、そこで足を止める。

「そっか。ここまで送ってくれたの?」

 黒猫は、やっぱり何も言わない。

 ただゆっくりと目を細めて、ひとつ瞬きをした。

 猫がよくする「キス」の合図。信頼している相手に向かって、「好きだよ」と伝えるときのしるしだと、どこかで読んだことがある。

 駅長帽の猫と同じかどうかなんて、もうどうでもいいのかもしれない。

 でも私は、その仕草を見て、素直に嬉しいと思った。

「行ってきます」

 黒猫に向かって、もう一度そう言う。

 猫はそれきりこちらを見ているだけだったけれど、十分だった。

     ◇

 駅へ向かう道を歩く。

 通学途中の制服姿の学生たちが前を走っていく。眠そうな顔でコンビニの袋をぶら下げたサラリーマンが、自転車を押している。パン屋からは焼き立てのパンの匂いが漂ってきた。

 世界は、いつもどおりに動いていた。

 でも、その中を歩く私は、少しだけ違う。

 昨日までなら、「間に合わない」と言いながら小走りで駅に向かっていたはずだ。今日は、足取りは早いけれど、走ってはいない。息を整えながら、ちゃんと前を見て歩いている。

 ポケットの中で、鈴がかすかに触れ合う。

 ちり。

 ほんの小さな音が、朝のざわめきに紛れて消えていった。

 私は振り返らない。

 ただ前を向いて、改札へ向かって歩き続ける。

 胸の奥には、昨夜までとは違うあたたかさが宿っていた。

 後悔が完全に消えたわけじゃない。これからもきっと、気持ちが沈む日がある。母を思い出して泣きたくなる夜も、何度だって来ると思う。

 それでも。

 泣きながらでも進んでいけばいい。立ち止まりそうになったら、ポケットの中の鈴を握ればいい。あの黒猫と母の言葉を思い出して、もう一度歩き出せばいい。

 私にはもう、「帰る場所」があるのだから。

 それは、母がいてくれた家だけじゃない。

 私が私でいられる心の中の、小さな台所。小さなテーブル。味噌汁の湯気と、誰かと分け合う「おいしいね」という一言。そこにいつでも戻ってこられるのだと、今は思える。

 朝の光の中を歩きながら、私はそっと笑った。

 私の胸の奥には、
 もう一度歩き出すための帰る場所が、
 確かに灯っていた。