列車が、ふっと力を抜いたみたいに静かになった。
さっきまで胸の奥をかき回していた揺れが、おさまっていく。代わりに、窓の外から、やわらかい白っぽい光がにじみ込んできた。夜の濃い紺色じゃない。夜明け前、空と地面の境目が少しずつほどけていくあの時刻の光だ。
車内のランプの色も、ほんのり変わっていた。琥珀色に、白い光が混ざっている。座席の影がやわらかくなって、世界全体が少しだけ軽くなったように感じた。
スピーカーから、あの風みたいな声が聞こえる。
「終着駅──お帰りのホームです」
お帰り、という言葉に、胸がちくりとした。
どこに、帰るのだろう。
家なのか。今までの自分なのか。それとも、母のところなのか。
足元を見ると、黒猫がもう立ち上がっていた。駅長帽をちょこんとかぶったまま、先頭車両側のドアの前に歩いていく。振り返った黄色い目が、「大事なものがここにあるよ」と静かに告げているみたいだった。
私は、ゆっくりと席を立った。
膝はまだ少し震えている。でも、さっき病室で崩れ落ちたときのように、足に力が入らないわけではなかった。涙の分だけ、少しだけ軽くなった場所も確かにあって、その「少し」を信じて前に出る。
ドアが開く。白に近い朝の光が、ホームにすっと流れ込んでいった。
◇
終着駅のホームは、驚くほど静かだった。
線路は一本きりで、向こうまでまっすぐ伸びている。反対側に行き先表示の板も、電光掲示板も何もない。空はまだ薄暗いのに、地面のあたりだけがうす桃色に染まり始めている。
ホームの上には、古びたベンチがひとつだけ置かれていた。
そのベンチの上に、小さな文庫本が一冊、ぽつんと置かれている。
カバーの色で、すぐに分かった。
淡いクリーム色の地に、小さく青い花が散った模様。母が寝る前によく読んでいた、小説だ。台所のちゃぶ台の上に置きっぱなしになっていて、「ごはんのときくらい本閉じなよ」と私が笑ったこともあった。
風が一度だけ吹き抜けて、文庫本のページがぱらりとめくれた。
「……どうして、ここに」
思わずつぶやく。
ここは私の記憶の中の場所で、列車の終着駅で、現実のどことも違うはずなのに。母の本が、当たり前みたいな顔をしてベンチに座っている。
黒猫が、ベンチの横を通り過ぎて、ホームの端のほうへと歩いていく。私は本にもう一度目をやってから、その後を追った。
ホームの一番奥に、奇妙なものが建っていた。
そこだけぽつんと、古い木の扉が一枚。
壁も、建物もない。扉だけが、ホームのコンクリートに直接立っている。色は少しはげた茶色で、取っ手は真鍮のようにくすんでいた。電車の設備とも、駅の構造ともまったく合っていない。まるで、ここだけ別の場所から移動してきたみたいだ。
黒猫がその扉の前で立ち止まり、くるりと振り向く。
その足元、取っ手の横のあたりに、白い封筒が一枚、扉と枠のすき間に挟まっていた。
震えるような字で、「はるなへ」と書かれている。
見た瞬間、息が止まった。
あの病室で見た、書きかけのメモと同じ字だ。少し右上がりで、ところどころ力の抜けた癖のある文字。何度も見てきたくせに、大人になってからはしばらく忘れたふりをしてきた、母の字。
指先が、勝手に伸びていた。
封筒の角に触れたとたん、手がびくっと震える。
「……こわい」
小さな声で、思わず言ってしまった。
読んだら、もう戻れない気がした。
母が何を思っていたのか。私のことをどう見ていたのか。本当は寂しかったのか、怒っていたのか。全部、目の前に突きつけられて、逃げ場がなくなる気がして。
今さらそんなことを怖がるなんて、滑稽だ。でも、怖いものは怖かった。
足元に、柔らかい感触がした。
黒猫が、私の足首にそっと体を寄せている。何も言わないのに、「大丈夫だよ」と押してくれる。鈴が、ほんのかすかな音をたてた。さっき病室で聞いたときよりも、ずっとやわらかい音だった。
私は、息をひとつだけ深く吸った。
そして、震える手で封筒を抜き取った。
糊付けされた部分に指を入れて、破らないように、でも途中でやめないように、そっと開いていく。紙のこすれる音が、やけに大きく聞こえた。
中から、一枚の便箋が出てきた。白地に、薄い花柄の縁取り。うちの引き出しの中に、昔からしまわれていた手紙セットだ。
そこに、見慣れた字が並んでいた。
◇
はるなへ
この手紙を、あなたがいつか読むかどうかはわかりません。
でも、書かずにはいられませんでした。
あなたに、言っておきたいことがたくさんあるからです。
まず、ごめんね。
あなたが大人になっていくのを、
少し遠くから見ていることしかできなかったこと。
手を出しすぎるのはよくないかもしれない、
でも放っておくのも違うかもしれない、
そんなふうに迷ってしまうことが、たくさんありました。
本当はね、
あなたが「忙しいから帰れない」と言ったとき、
私は寂しかったです。
でも、それはあなたを責めたいわけではありません。
ああ、はるなは今、自分の場所で一生懸命生きているんだなあ、
そう思ったら、誇らしくて、嬉しくて、
胸がいっぱいになりました。
台所で一人でごはんを作りながら、
ここに座っていたら、はるなが帰ってきても大丈夫ね、
なんて考えていたこともありました。
結局、その椅子が空のままの日もあったけれど、
それでも私は、その場所があることが、
なんだか少し嬉しかったのです。
そして、どうしても伝えておきたいことがあります。
あなたは、
私がこの世でいちばん大切で、
いちばん愛しい娘です。
うまく笑えない日も、
強がってしまう日も、
誰にも会いたくない日も、
仕事でうまくいかない日も、
そんな日も全部まとめて、
私は、あなたがあなたであることを、
ずっと誇りに思っています。
はるな。
どうか、あなたが、
あなた自身のことを嫌いになりませんように。
私がそばにいられなくなっても、
あなたの毎日のどこかに、
小さな笑顔と、おいしいごはんと、
あたたかい灯りがありますように。
それを願いながら、
私は先に行きます。
生まれてきてくれて、ありがとう。
私のところに来てくれて、ありがとう。
世界で一番の宝物の、はるなへ。
お母さんより
◇
「……」
文字を追い終わったところで、視界が完全ににじんだ。
紙の上の字がぼやけて、どれが線でどれがインクのにじみなのか分からなくなる。胸の奥から、ゆっくりと何かがせり上がってきて、喉のあたりでつかえて、どうしていいか分からなくなる。
「なんで」
便箋を持つ手が震えた。
「なんで、そんなふうに……」
責める言葉なんて、どこにもない。
「どうして来てくれなかったの」とか、「さみしかった」とか、「もっと顔を見せて」とか。そんなこと、ひとつも書いていない。
あるのは、「誇りに思う」とか、「宝物」とか、「ありがとう」とか。
こんなの、ずるい。
「ごめん……」
気づいたら、言葉がこぼれていた。
「お母さん、ごめん」
便箋を胸に抱き寄せる。紙の角が肌に当たって少し痛い。その痛みもまとめて抱きしめるみたいに、ぐっと力を込めた。
「ちゃんと向き合えなくて、ごめん」
病室から逃げた夜も。お盆に帰らなかった夏も。キッチンでぶっきらぼうに返事をした夕方も。受験のとき、差し出されたハンバーグを食べなかったことも。
「全部、全部、ごめん」
声がうまく出なくて、言葉の形がくずれていく。それでも、何度も何度も「ごめん」と繰り返した。今さら謝ったって、時間が戻るわけじゃない。でも、それでも言わずにはいられなかった。
黒猫が、足元からそっとそばに来た。
腕の中に便箋を抱えたまましゃがみ込むと、猫の小さな頭が、胸のあたりにそっと触れた。鈴が、今度ははっきりと鳴る。
ちりん、と澄んだ音。
さっき病室で聞いた音とも、ホームで聞いたかすかな音とも違う。真ん中に芯があって、でも耳に刺さらない、やわらかくてまっすぐな音だった。
「……許して、くれるのかな」
誰に聞くでもなくつぶやく。
母はきっと、「許す」とか「許さない」とか、そういう言葉で私を見ていたわけじゃないんだと思う。手紙を読んで、やっとそれが分かった。
それでも、自分で自分を許せない部分は、まだたくさんある。
だけど。
「ねえ、お母さん」
私は便箋の上から、そっと指を滑らせた。
「私、ちゃんと生きるね」
涙で鼻の奥がつんとしながら、それでもはっきりと言った。
「逃げてばっかりじゃなくてさ。仕事もしんどいときは誰かに頼ってみるし、しんどいって言えるようになるように頑張る」
キッチンで一人でごはんを食べる夜があっても、ちゃんと自分であったかい味噌汁くらい作る。コンビニばっかりじゃなくて。できれば、母が作ってくれた味を思い出しながら。
「お母さんが心配しなくていいように、生きてみる」
言葉にした瞬間、胸の中の何かが少し動いた。
母が手紙に書いてくれた「願い」と、私が今口にした「これから」が、ぴたりと重なった感覚があった。
腕の中の黒猫が、喉を鳴らした。ゴロゴロという低い音が、胸の前で振動する。それが返事みたいに聞こえた。
鈴が、もう一度だけ鳴る。
ちりん。
音が空気に溶けていくのと一緒に、涙も少しずつ落ち着いていった。
◇
どれくらいそうして座っていたのか、正確な時間は分からない。
やがて、ふと、風の向きが変わった気がした。
顔を上げると、ホームの端のあたりで、空の色が変わり始めていた。濃い藍色の上に、うすい桃色が重なり、さらにその上から金色の線が引かれていく。
夜明けだ。
終着駅だとアナウンスされたこの場所が、「始まり」の匂いを帯びていく。
胸に抱えていた便箋を、大事に折りたたんで封筒に戻す。ポケットにしまうと、心臓のすぐ上あたりに紙の感触が残った。
ふと気づいて顔を向けると、黒猫が少し離れたところに座っていた。
ホームの真ん中あたり。さっきまで私の腕の中にいたくせに、そこだけ距離をとって、じっとこちらを見ている。
「……行っちゃうの?」
聞きながら、自分で答えを分かっている気がした。
この旅が終わるということは、この猫ともお別れだということだ。分かっていたはずなのに、いざその瞬間が近づいてくると、胸がきゅっと縮む。
黒猫は、鳴き声を出さない。代わりに、ゆっくりと目を細めた。猫がする「ありがとう」と「大好き」を込めた挨拶みたいな、その仕草。
駅長帽のつばが、ほんの少し揺れた。
風が一度だけ吹き抜ける。黒猫のまわりの光が、きらきらと細かく揺れた。
次の瞬間、その姿がふっと薄くなった。
「え……」
思わず一歩踏み出す。
そこにいたはずの場所には、もう何もいない。あるのは、ほんの少しだけ残ったあたたかさと、耳の奥に残る鈴の余韻だけ。
でも、完全に何もなくなったわけじゃなかった。
ポケットの中で、何かが指先に触れる。取り出してみると、小さな鈴がひとつ、てのひらの上にころんと転がった。
銀色に近い、少しくすんだ鈴。よく見ると、側面に小さな傷がいくつもついている。昔、母の実家で飼っていた三毛猫、ミケの首輪についていた鈴にそっくりだった。
「……もしかして」
そこまで考えて、頭を振った。
きっとこの列車のことも、終着駅のことも、黒猫のことも、目が覚めたら夢だったみたいに思うのかもしれない。全部を「母が会いに来てくれた」と決めつけるのも違う気がする。
でも。
ポケットに鈴が一個、実際に残っている。
これは、たしかに「ここにあった」という証拠だ。
私はその鈴を、てのひらの中でぎゅっと握った。
「ありがとう」
風に向かって、小さく言う。
黒猫に。列車に。母に。そして、やっとここまで来た自分自身にも。
◇
ホームの光が、徐々に強くなっていく。
目を閉じて、深呼吸をひとつした。
ほんのりと、コーヒーの匂いがした気がした。駅のホームで誰かが買った缶コーヒーの香り。電車を待つ人たちの足音。改札を抜けるスーツ姿。誰かの笑い声。
ゆっくりとまぶたを開ける。
目の前には、見慣れた無人駅のホームが広がっていた。
最初に黒猫と出会った、あのローカル駅。さっきまでとは違って、電車の時刻表にはちゃんと現実の路線名が並んでいる。ベンチには、眠そうな顔をしたサラリーマンがひとり座っていて、スマホをいじっていた。
空は、さっき終着駅で見たのと同じ、淡い桃色と金色の混ざった朝焼けだ。
本当に、戻ってきたんだ。
ポケットの中で、鈴が小さく動いた。ちゃり、とほとんど聞こえない音がする。
スマホを取り出す。画面には、日付と時刻。夜中のはずだった時間が、いつの間にか早朝に変わっていた。
ロック画面の通知の端に、古いメッセージがふと目に入った。
「はるな、無理しないでね。いつでも帰ってきていいのよ」
数年前、母が送ってくれたLINEだ。
そのメッセージを、私はずっとアーカイブの奥にしまい込んだまま、見ないふりをしてきた。
今見てみると、「いつでも」という言葉が、手紙の中の「あなたがあなたで生きていけますように」と重なって見えた。
「……もう、逃げない」
誰にも聞こえないくらいの声で、そっと言う。
全部、今日いきなり変えられるわけじゃない。優等生みたいに「これからは前向きに頑張ります」と胸を張れる自信もない。
それでも、「逃げてばかりの自分でいたくない」と思えたこと自体が、今の私にとっては大きな一歩だった。
改札のほうへ向かって歩き出す。朝の空気はひんやりしていて、肺に入るたびに頭が少しずつクリアになっていく。通勤のスーツの人たちに混ざってホームを出るのは、なんだか不思議な気分だった。
駅舎の外に出る前、一度だけ振り返る。
ホームの端のほうに、黒い影が一瞬見えた気がした。小さな猫のようなシルエット。駅長帽はもうかぶっていない。ただの、どこにでもいる黒猫。
目をこすってもう一度見ると、そこには何もいなかった。
私は、ポケットの中の鈴を指でなぞる。
「行ってきます」
朝の光の中へ、一歩踏み出した。
さっきまで胸の奥をかき回していた揺れが、おさまっていく。代わりに、窓の外から、やわらかい白っぽい光がにじみ込んできた。夜の濃い紺色じゃない。夜明け前、空と地面の境目が少しずつほどけていくあの時刻の光だ。
車内のランプの色も、ほんのり変わっていた。琥珀色に、白い光が混ざっている。座席の影がやわらかくなって、世界全体が少しだけ軽くなったように感じた。
スピーカーから、あの風みたいな声が聞こえる。
「終着駅──お帰りのホームです」
お帰り、という言葉に、胸がちくりとした。
どこに、帰るのだろう。
家なのか。今までの自分なのか。それとも、母のところなのか。
足元を見ると、黒猫がもう立ち上がっていた。駅長帽をちょこんとかぶったまま、先頭車両側のドアの前に歩いていく。振り返った黄色い目が、「大事なものがここにあるよ」と静かに告げているみたいだった。
私は、ゆっくりと席を立った。
膝はまだ少し震えている。でも、さっき病室で崩れ落ちたときのように、足に力が入らないわけではなかった。涙の分だけ、少しだけ軽くなった場所も確かにあって、その「少し」を信じて前に出る。
ドアが開く。白に近い朝の光が、ホームにすっと流れ込んでいった。
◇
終着駅のホームは、驚くほど静かだった。
線路は一本きりで、向こうまでまっすぐ伸びている。反対側に行き先表示の板も、電光掲示板も何もない。空はまだ薄暗いのに、地面のあたりだけがうす桃色に染まり始めている。
ホームの上には、古びたベンチがひとつだけ置かれていた。
そのベンチの上に、小さな文庫本が一冊、ぽつんと置かれている。
カバーの色で、すぐに分かった。
淡いクリーム色の地に、小さく青い花が散った模様。母が寝る前によく読んでいた、小説だ。台所のちゃぶ台の上に置きっぱなしになっていて、「ごはんのときくらい本閉じなよ」と私が笑ったこともあった。
風が一度だけ吹き抜けて、文庫本のページがぱらりとめくれた。
「……どうして、ここに」
思わずつぶやく。
ここは私の記憶の中の場所で、列車の終着駅で、現実のどことも違うはずなのに。母の本が、当たり前みたいな顔をしてベンチに座っている。
黒猫が、ベンチの横を通り過ぎて、ホームの端のほうへと歩いていく。私は本にもう一度目をやってから、その後を追った。
ホームの一番奥に、奇妙なものが建っていた。
そこだけぽつんと、古い木の扉が一枚。
壁も、建物もない。扉だけが、ホームのコンクリートに直接立っている。色は少しはげた茶色で、取っ手は真鍮のようにくすんでいた。電車の設備とも、駅の構造ともまったく合っていない。まるで、ここだけ別の場所から移動してきたみたいだ。
黒猫がその扉の前で立ち止まり、くるりと振り向く。
その足元、取っ手の横のあたりに、白い封筒が一枚、扉と枠のすき間に挟まっていた。
震えるような字で、「はるなへ」と書かれている。
見た瞬間、息が止まった。
あの病室で見た、書きかけのメモと同じ字だ。少し右上がりで、ところどころ力の抜けた癖のある文字。何度も見てきたくせに、大人になってからはしばらく忘れたふりをしてきた、母の字。
指先が、勝手に伸びていた。
封筒の角に触れたとたん、手がびくっと震える。
「……こわい」
小さな声で、思わず言ってしまった。
読んだら、もう戻れない気がした。
母が何を思っていたのか。私のことをどう見ていたのか。本当は寂しかったのか、怒っていたのか。全部、目の前に突きつけられて、逃げ場がなくなる気がして。
今さらそんなことを怖がるなんて、滑稽だ。でも、怖いものは怖かった。
足元に、柔らかい感触がした。
黒猫が、私の足首にそっと体を寄せている。何も言わないのに、「大丈夫だよ」と押してくれる。鈴が、ほんのかすかな音をたてた。さっき病室で聞いたときよりも、ずっとやわらかい音だった。
私は、息をひとつだけ深く吸った。
そして、震える手で封筒を抜き取った。
糊付けされた部分に指を入れて、破らないように、でも途中でやめないように、そっと開いていく。紙のこすれる音が、やけに大きく聞こえた。
中から、一枚の便箋が出てきた。白地に、薄い花柄の縁取り。うちの引き出しの中に、昔からしまわれていた手紙セットだ。
そこに、見慣れた字が並んでいた。
◇
はるなへ
この手紙を、あなたがいつか読むかどうかはわかりません。
でも、書かずにはいられませんでした。
あなたに、言っておきたいことがたくさんあるからです。
まず、ごめんね。
あなたが大人になっていくのを、
少し遠くから見ていることしかできなかったこと。
手を出しすぎるのはよくないかもしれない、
でも放っておくのも違うかもしれない、
そんなふうに迷ってしまうことが、たくさんありました。
本当はね、
あなたが「忙しいから帰れない」と言ったとき、
私は寂しかったです。
でも、それはあなたを責めたいわけではありません。
ああ、はるなは今、自分の場所で一生懸命生きているんだなあ、
そう思ったら、誇らしくて、嬉しくて、
胸がいっぱいになりました。
台所で一人でごはんを作りながら、
ここに座っていたら、はるなが帰ってきても大丈夫ね、
なんて考えていたこともありました。
結局、その椅子が空のままの日もあったけれど、
それでも私は、その場所があることが、
なんだか少し嬉しかったのです。
そして、どうしても伝えておきたいことがあります。
あなたは、
私がこの世でいちばん大切で、
いちばん愛しい娘です。
うまく笑えない日も、
強がってしまう日も、
誰にも会いたくない日も、
仕事でうまくいかない日も、
そんな日も全部まとめて、
私は、あなたがあなたであることを、
ずっと誇りに思っています。
はるな。
どうか、あなたが、
あなた自身のことを嫌いになりませんように。
私がそばにいられなくなっても、
あなたの毎日のどこかに、
小さな笑顔と、おいしいごはんと、
あたたかい灯りがありますように。
それを願いながら、
私は先に行きます。
生まれてきてくれて、ありがとう。
私のところに来てくれて、ありがとう。
世界で一番の宝物の、はるなへ。
お母さんより
◇
「……」
文字を追い終わったところで、視界が完全ににじんだ。
紙の上の字がぼやけて、どれが線でどれがインクのにじみなのか分からなくなる。胸の奥から、ゆっくりと何かがせり上がってきて、喉のあたりでつかえて、どうしていいか分からなくなる。
「なんで」
便箋を持つ手が震えた。
「なんで、そんなふうに……」
責める言葉なんて、どこにもない。
「どうして来てくれなかったの」とか、「さみしかった」とか、「もっと顔を見せて」とか。そんなこと、ひとつも書いていない。
あるのは、「誇りに思う」とか、「宝物」とか、「ありがとう」とか。
こんなの、ずるい。
「ごめん……」
気づいたら、言葉がこぼれていた。
「お母さん、ごめん」
便箋を胸に抱き寄せる。紙の角が肌に当たって少し痛い。その痛みもまとめて抱きしめるみたいに、ぐっと力を込めた。
「ちゃんと向き合えなくて、ごめん」
病室から逃げた夜も。お盆に帰らなかった夏も。キッチンでぶっきらぼうに返事をした夕方も。受験のとき、差し出されたハンバーグを食べなかったことも。
「全部、全部、ごめん」
声がうまく出なくて、言葉の形がくずれていく。それでも、何度も何度も「ごめん」と繰り返した。今さら謝ったって、時間が戻るわけじゃない。でも、それでも言わずにはいられなかった。
黒猫が、足元からそっとそばに来た。
腕の中に便箋を抱えたまましゃがみ込むと、猫の小さな頭が、胸のあたりにそっと触れた。鈴が、今度ははっきりと鳴る。
ちりん、と澄んだ音。
さっき病室で聞いた音とも、ホームで聞いたかすかな音とも違う。真ん中に芯があって、でも耳に刺さらない、やわらかくてまっすぐな音だった。
「……許して、くれるのかな」
誰に聞くでもなくつぶやく。
母はきっと、「許す」とか「許さない」とか、そういう言葉で私を見ていたわけじゃないんだと思う。手紙を読んで、やっとそれが分かった。
それでも、自分で自分を許せない部分は、まだたくさんある。
だけど。
「ねえ、お母さん」
私は便箋の上から、そっと指を滑らせた。
「私、ちゃんと生きるね」
涙で鼻の奥がつんとしながら、それでもはっきりと言った。
「逃げてばっかりじゃなくてさ。仕事もしんどいときは誰かに頼ってみるし、しんどいって言えるようになるように頑張る」
キッチンで一人でごはんを食べる夜があっても、ちゃんと自分であったかい味噌汁くらい作る。コンビニばっかりじゃなくて。できれば、母が作ってくれた味を思い出しながら。
「お母さんが心配しなくていいように、生きてみる」
言葉にした瞬間、胸の中の何かが少し動いた。
母が手紙に書いてくれた「願い」と、私が今口にした「これから」が、ぴたりと重なった感覚があった。
腕の中の黒猫が、喉を鳴らした。ゴロゴロという低い音が、胸の前で振動する。それが返事みたいに聞こえた。
鈴が、もう一度だけ鳴る。
ちりん。
音が空気に溶けていくのと一緒に、涙も少しずつ落ち着いていった。
◇
どれくらいそうして座っていたのか、正確な時間は分からない。
やがて、ふと、風の向きが変わった気がした。
顔を上げると、ホームの端のあたりで、空の色が変わり始めていた。濃い藍色の上に、うすい桃色が重なり、さらにその上から金色の線が引かれていく。
夜明けだ。
終着駅だとアナウンスされたこの場所が、「始まり」の匂いを帯びていく。
胸に抱えていた便箋を、大事に折りたたんで封筒に戻す。ポケットにしまうと、心臓のすぐ上あたりに紙の感触が残った。
ふと気づいて顔を向けると、黒猫が少し離れたところに座っていた。
ホームの真ん中あたり。さっきまで私の腕の中にいたくせに、そこだけ距離をとって、じっとこちらを見ている。
「……行っちゃうの?」
聞きながら、自分で答えを分かっている気がした。
この旅が終わるということは、この猫ともお別れだということだ。分かっていたはずなのに、いざその瞬間が近づいてくると、胸がきゅっと縮む。
黒猫は、鳴き声を出さない。代わりに、ゆっくりと目を細めた。猫がする「ありがとう」と「大好き」を込めた挨拶みたいな、その仕草。
駅長帽のつばが、ほんの少し揺れた。
風が一度だけ吹き抜ける。黒猫のまわりの光が、きらきらと細かく揺れた。
次の瞬間、その姿がふっと薄くなった。
「え……」
思わず一歩踏み出す。
そこにいたはずの場所には、もう何もいない。あるのは、ほんの少しだけ残ったあたたかさと、耳の奥に残る鈴の余韻だけ。
でも、完全に何もなくなったわけじゃなかった。
ポケットの中で、何かが指先に触れる。取り出してみると、小さな鈴がひとつ、てのひらの上にころんと転がった。
銀色に近い、少しくすんだ鈴。よく見ると、側面に小さな傷がいくつもついている。昔、母の実家で飼っていた三毛猫、ミケの首輪についていた鈴にそっくりだった。
「……もしかして」
そこまで考えて、頭を振った。
きっとこの列車のことも、終着駅のことも、黒猫のことも、目が覚めたら夢だったみたいに思うのかもしれない。全部を「母が会いに来てくれた」と決めつけるのも違う気がする。
でも。
ポケットに鈴が一個、実際に残っている。
これは、たしかに「ここにあった」という証拠だ。
私はその鈴を、てのひらの中でぎゅっと握った。
「ありがとう」
風に向かって、小さく言う。
黒猫に。列車に。母に。そして、やっとここまで来た自分自身にも。
◇
ホームの光が、徐々に強くなっていく。
目を閉じて、深呼吸をひとつした。
ほんのりと、コーヒーの匂いがした気がした。駅のホームで誰かが買った缶コーヒーの香り。電車を待つ人たちの足音。改札を抜けるスーツ姿。誰かの笑い声。
ゆっくりとまぶたを開ける。
目の前には、見慣れた無人駅のホームが広がっていた。
最初に黒猫と出会った、あのローカル駅。さっきまでとは違って、電車の時刻表にはちゃんと現実の路線名が並んでいる。ベンチには、眠そうな顔をしたサラリーマンがひとり座っていて、スマホをいじっていた。
空は、さっき終着駅で見たのと同じ、淡い桃色と金色の混ざった朝焼けだ。
本当に、戻ってきたんだ。
ポケットの中で、鈴が小さく動いた。ちゃり、とほとんど聞こえない音がする。
スマホを取り出す。画面には、日付と時刻。夜中のはずだった時間が、いつの間にか早朝に変わっていた。
ロック画面の通知の端に、古いメッセージがふと目に入った。
「はるな、無理しないでね。いつでも帰ってきていいのよ」
数年前、母が送ってくれたLINEだ。
そのメッセージを、私はずっとアーカイブの奥にしまい込んだまま、見ないふりをしてきた。
今見てみると、「いつでも」という言葉が、手紙の中の「あなたがあなたで生きていけますように」と重なって見えた。
「……もう、逃げない」
誰にも聞こえないくらいの声で、そっと言う。
全部、今日いきなり変えられるわけじゃない。優等生みたいに「これからは前向きに頑張ります」と胸を張れる自信もない。
それでも、「逃げてばかりの自分でいたくない」と思えたこと自体が、今の私にとっては大きな一歩だった。
改札のほうへ向かって歩き出す。朝の空気はひんやりしていて、肺に入るたびに頭が少しずつクリアになっていく。通勤のスーツの人たちに混ざってホームを出るのは、なんだか不思議な気分だった。
駅舎の外に出る前、一度だけ振り返る。
ホームの端のほうに、黒い影が一瞬見えた気がした。小さな猫のようなシルエット。駅長帽はもうかぶっていない。ただの、どこにでもいる黒猫。
目をこすってもう一度見ると、そこには何もいなかった。
私は、ポケットの中の鈴を指でなぞる。
「行ってきます」
朝の光の中へ、一歩踏み出した。



