列車の揺れが、ほとんど感じられなくなっていた。
さっきまでと同じ車両のはずなのに、空気が違う。天井のランプは、いつもの琥珀色じゃなくて、少し青みを帯びた白に近い光に変わっている。座席の影がいつもよりくっきりしていて、明るいのに、どこか薄暗い。
黒猫も、さっきまでみたいに尻尾をのんびり振ったりはしていなかった。駅長帽をきちんとかぶり直して、私の足元でじっと座っている。鈴はついているはずなのに、どこからも音はしない。
「ここから先が、一番きついところだよ」
誰かにそう宣告されたみたいに、胸の奥が固くなっていた。
スピーカーから、風が擦れるような音がする。
「まもなく、記憶の駅……三番ホームです」
その言葉と同時に、列車の速度がゆっくり落ちていく。窓の外の景色が薄れ、代わりに白い光がにじみ始めた。蛍光灯の、あの遠慮のない明るさ。
私は、無意識に手を握りしめていた。爪が手のひらに食い込むくらい強く握っているのに、指先の感覚が薄い。
「……ここだけは、戻りたくなかったのに」
思わず、声になって漏れた。
黒猫が、少しだけ私のジーンズのすそに頭を押しつけてくる。顔を上げると、黄色い目がまっすぐ私を見ていた。何も言わない。だけど、「一人で行かせたりしないよ」と言ってくれているみたいで、喉の奥がじわっと熱くなる。
プシューッ、とドアが開く音がした。
◇
最初に飛び込んできたのは、白い床と、白い壁だった。
病院のエントランス。夜間用の出入口だから、人影はほとんどない。受付の窓口には、小さなスタンドライトだけが灯っていて、カルテの束が静かに積まれている。
自動ドアの向こうから、消毒液の匂いが流れてきた。
「ああ、そうだ。この匂いだった」
胸の奥で、もうひとつ別の記憶がざわりと動く。仕事帰りに駆け込んだ夜。タクシーを飛ばしても、間に合うかどうか分からなかった、あの日。
黒猫が、つと足を進める。ついてこい、とでも言うように振り向きもしないで、エレベーター前へ歩いていく。私はふらつく足をどうにか動かして、その後ろを追った。
エレベーターを降りると、長い廊下が続いていた。
白い蛍光灯が、一定の間隔で天井からぶらさがっている。さっき列車の中で見た光より、ずっと冷たい。壁には「消火器」「ナースステーション→」と書かれたプレート。床を照らす光が、ツルツルした素材に反射している。
遠くのほうで、かすかに機械の電子音が鳴っていた。一定のリズムで、規則正しく。反対側からは、誰かの咳払いが一度だけ聞こえる。それ以外は、驚くほど静かだ。
壁の時計に目がいった。
針は「二十三時五十八分」を指していた。秒針が進んでいるのかどうか、遠くてよく見えない。けれど、あの日も、こんなふうに「時間が止まった」ように感じていた。
早く行かなきゃいけない。母のところに。
分かっているのに、足が重くて仕方がない。ここから先に一歩踏み出したら、「終わり」が現実になってしまうような気がして。
「……結局、最後まで、私は怖がってばかりだったんだよね」
自分で自分に言うようにつぶやく。
黒猫が振り返った。今度は私を待ってくれている。私は深呼吸をひとつして、廊下の奥へ歩き出した。
◇
病室の前に来ると、胸の鼓動がはっきり聞こえるくらい早くなった。
ドアの小さな窓から、中の様子が少しだけ見える。薄いカーテンの向こうに、ベッドの白いシーツ。その上に、痩せてしまった人の影が横たわっている。
私が知っている母は、いつも台所に立っていて、エプロン姿で笑っていた。腕まくりをして、フライパンを振る背中。スーパーの袋を両手に下げて帰ってくる姿。ハンバーグのタネを丸める指。
ベッドの上の母は、そのどれとも違っていた。
頬はこけて、肩も胸も小さくなっている。鼻には酸素のチューブ。腕には点滴のライン。機械のモニターが、静かに数字を変えていくたびに、小さな電子音が鳴る。
ドアに手を伸ばそうとして、一瞬、指が止まった。
あの日もこうだった。ドアノブに触れられなくて、何秒も、何十秒も、ここで立ち止まっていた。開けたら、現実を見なきゃいけなくなるのが怖くて。
黒猫が、その場で小さく鳴いたような気がした。声は聞こえないのに、「行こう」と背中を押された気がして、私はやっとのことでドアを開けた。
白い光が、一段と強くなる。
「……春菜?」
ベッドの上から、母の声がした。
弱くて、かすれていて、それでもちゃんと私の名前を呼んでくれる声。責める響きなんて、どこにもない。あるのはただ、「来てくれたんだ」という喜びだけ。
「来たのね」
母が、ゆっくり目を細める。
「うん」
私は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。口角だけ持ち上げようとしても、頬が硬くて、ぎこちない。
「忙しかったけど、来たよ」
言わなくていい言い訳を、つい付け足してしまう。
「無理しなくていいのよ」
母は、少しだけ息を整えてから言った。
「あなたは、頑張り屋さんなんだから」
その言葉が、胸に刺さった。
頑張り屋なんかじゃない。私はずっと、逃げてばかりだった。母のところからも、自分の気持ちからも。
だけどそのときの私は、「そんなことないよ」と否定することもできなかった。ただ、また笑ったふりをするしかなかった。
「それより、どう? ごはん、ちゃんと食べてる?」
母が、昔と同じ質問をする。
「食べてるよ。コンビニとかだけど」
「コンビニばっかりじゃ、だめよ。時々は自分で作りなさい」
「大丈夫だって。今どきレトルトもめちゃくちゃおいしいし」
軽口みたいに返したけれど、指先が震えていた。布団の端を握りしめている自分の手が、自分のものじゃないみたいだ。
「無理してない?」
母が、少し真剣な声になる。
「残業、多いんでしょう?」
「大丈夫だってば。仕事だって、ちゃんとやってるし」
また「大丈夫」と言ってしまう。口をついて出るその言葉は、まるで反射みたいだった。
本当は、大丈夫なんかじゃなかった。
慣れない仕事でいっぱいいっぱいで、失敗するたびに落ち込んで。帰っても部屋は真っ暗で、冷蔵庫の中はペットボトルのお茶と、賞味期限ギリギリのヨーグルトくらいしかなくて。眠れない夜には、スマホを見ながら、「もう全部やめてしまいたい」と思ったことだってあった。
そんな本音、口に出せるわけがないと思っていた。
母は、少しだけ目を伏せてから、ふわりと微笑んだ。
「そう……春菜は、強い子ね」
強いから、じゃない。強く見せようとしていたから、だ。
本当は弱いくせに。怖がりなくせに。助けてって言えないだけなのに。
黒猫がいつの間にか、ベッドの足元に座っていた。母には見えていないみたいに、視線は合わない。でも、猫はじっとこちらを見ている。その目が、「今なら言えるよ」とでも言いたげで、余計に喉の奥が詰まった。
「春菜」
母が、少し息を整えて、もう一度私の名前を呼んだ。
「なに?」
「あなたが……あなたを、嫌いになりませんように」
思ってもみなかった言葉に、息が止まった。
「どういう、意味?」
聞き返そうと口を開いたけれど、その瞬間、看護師さんがそっと入ってきて、点滴の量を確認し始めた。母も少し疲れたのか、目を閉じる。
私は、その言葉の意味をちゃんと考える前に、タイミングを失ってしまった。
母の「本当の本音」は、あの一言に全部詰まっていたのに。
◇
それから、どれくらい時間が経ったのか、正確には覚えていない。
時計の針は進んでいたのかもしれないけれど、病室の中では、時間の流れがぼやけていた。点滴の落ちるリズムと、モニターの音だけが、世界の時間を刻んでいた。
やがて、看護師さんが私のほうを見た。
「ご家族の方、もしよければ、今日はここで泊まっていかれても大丈夫ですよ」
柔らかい声だった。
あの日、同じ言葉を聞いた。私はそのとき、何て答えたんだっけ。
「いえ……」
口が、勝手に動いた。
「今日は、家に仕事持ち帰ってて。明日も朝早くて」
嘘ではなかった。机の上には、やりかけの資料が山ほどあった。けれど、本当の理由はそれだけじゃない。
この部屋に一晩いるのが、怖かったのだ。
母が少しずつ弱っていく姿を、最初から最後まで見続けることが。最後の瞬間に立ち会ってしまうことが。もしそのとき、自分が泣き崩れてしまったら、「大人」としての自分が全部崩れてしまう気がした。
だから私は、「仕事」を盾にして、逃げた。
「そうですか。気をつけて帰ってくださいね」
看護師さんは責めるような言い方はしなかった。それがまた、余計に胸に刺さる。
ベッドのほうを見ると、母が私のほうを見ていた。
「春菜」
弱い声なのに、不思議とはっきり届く。
「気をつけてね」
「……うん」
私は、できるだけ普通の声で返したつもりだった。鞄を肩にかけて、病室のドアに向かう。
あのとき、振り返りもしなかった。
背中に残った母の視線が、重たくて、怖くて。
◇
記憶の中の私は、そのまま廊下に出ていく。
ドアが閉まる音がして、私の足音が遠ざかっていく。その背中を、今の私は、病室の中から見ていた。あのときと違う位置から、その背中を。
ドアが静かに閉まると、病室の中はまた機械の音だけになった。
母の顔に、ほんの少しだけ、寂しさが浮かぶ。だけど、それを誰かに見せる人はいない。
母は、細くなった腕を、ゆっくりと持ち上げた。
ベッドの端を、撫でるみたいに手のひらでなぞる。その動作は、今ここにいない誰かの頭を撫でるようにも見えたし、「ここにいていいんだよ」と場所を示すようにも見えた。
ベッドの上のシーツが、そこだけ少しくしゃりと音を立てる。
母はもう一度、小さく呟いた。
「……おかえり、って言いたかったなあ」
その声は、あの日の私は聞いていない。廊下に出た時点で、私はもう、この部屋の音を全部シャットアウトしていた。
今、記憶列車の中から見ている私は、その言葉を真正面から浴びてしまった。
「やめてよ……」
思わず、声が漏れる。
「そんなの、聞いてない。聞いてないよ」
母は、ふう、と息をつくように目を閉じた。少しだけ顔を横に向ける。その視線の先にあるのは、ベッド脇の小さなテーブルだ。
そこには、白い紙が一枚、ボールペンと一緒に置かれていた。
便箋でもなんでもない、病院のメモ用紙みたいな紙。その端っこに、震える字で何かが書かれている。
私は思わず近づいて、その文字を覗き込んだ。
「はる……なへ」
そこまで書かれて、ペン先が力尽きたように止まっている。
「る」と「な」の間は、かすかにインクがにじんでいる。あと少しだけ力が残っていたら、「春菜へ」の三文字が、きっと最後まで綴られていたはずだ。
母は、その紙に指先を伸ばそうとして、途中で力が抜けたように手を下ろした。
「ごめんね……」
誰に向けての謝罪なのか、母自身にも分かっていなかったかもしれない。でも、その声は確かに、空気の中に残った。
記憶の中の病室の床に、私は膝をついた。
「ごめん、ごめん……」
今度は私が謝る番だった。
「ごめんね、お母さん……」
喉の奥が痛くて、うまく声にならない。胸の真ん中がギュッと押しつぶされるみたいに苦しくて、息を吸うたびに涙があふれてくる。
「あのとき、戻ればよかった」
ドアノブに手をかけた瞬間に。母の声を背中で受け取った瞬間に。
「『やっぱり泊まる』って言えばよかった。そばにいるよって、ちゃんと言えばよかった」
あの日の自分の背中が、今の私にはあまりにも小さく見える。強がって歩いているくせに、肩は震えていて、今にも泣き出しそう顔をしていた。そんな自分を、誰よりも先に分かってあげられなかったのは、きっと私自身だ。
視界が涙でぼやける。そのぼやけた輪郭の端で、黒猫の影が動いた。
黒猫が、そっと私の隣に来る。泣き崩れている私の腕に、頭をぐいっと押し当てた。鈴が、そこで初めて、小さく鳴る。
ちりん。
その一音だけが、病室の静けさの中で、はっきりと響いた。
「責めないの?」
かすれ声で問いかける。
「私、最低だったよ。逃げてばっかりで、最後までちゃんと向き合えなくて」
黒猫は、答えの代わりみたいに、私の腕をまたこすった。前足を私の膝に乗せ、丸くなって寄り添う。目を閉じているのに、その存在だけははっきり分かる。あたたかくて、柔らかくて、ここにいるよと言ってくれている。
鈴は、それ以上鳴らなかった。
たった一度の音に、全部が込められている気がした。
「あなたのせいじゃないよ」
「一緒に見たね」
「ここまで来れたね」
そんな言葉を、勝手に心の中で当てはめる。誰もそうは言ってくれなかったけれど、誰かにそう言ってほしかった言葉たち。
涙が少し落ち着いてきたとき、病室の景色がふわりと薄れ始めた。
白い壁が遠くなっていく。ベッドも、モニターも、母の顔も、光の粒に変わっていく。最後に残ったのは、ベッド脇の小さなメモだけだ。
「はる……なへ」と途中まで書かれた文字が、光の中に溶けていく。
それは、きっと終着駅で、もう一度ちゃんと出会うことになるのだろう。
◇
気づくと、私はまた列車のホームに立っていた。
三番ホーム。看板には、やっぱり駅名ではなく、「第三のホーム」とだけ書かれている。さっきまで病室で泣き崩れていたはずなのに、ここではちゃんと立っていられる。不思議なことに、足は震えていなかった。
目元が少しヒリヒリする。きっと、まだ泣いた跡が残っている。
黒猫が、私のすぐそばにいた。さっきまで病室の床にいたときと同じように、ぴたりと寄り添っている。小さな体は温かくて、鈴は静かだ。
列車のドアは開いたまま、オレンジと白の混ざった光を漏らしていた。車内の灯りは、いつもより少し明るく見える。
スピーカーから、風の声がする。
「まもなく、終着駅に到着します」
その言葉に、胸がまたきゅっとする。でも、さっきまでのような、「もう見たくない」という種類の苦しさではなかった。
母の最期の姿。言えなかった「ありがとう」と「ごめん」。途中までしか書かれなかった「春菜へ」の文字。
どれも、きっと消えない傷だ。それでも、あの人がずっと優しいままだったことだけは、もう疑いようがない。
私は、黒猫をそっと抱き上げた。
小さな体が腕の中に収まる。胸の前でその重みを感じると、不思議と呼吸がしやすくなった。
「……最後まで、行く」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「全部、ちゃんと向き合う。逃げないで、聞くよ。お母さんが、ほんとは何を言いたかったのか」
黒猫が、腕の中で目を細めた。喉の奥から、小さなゴロゴロという音が伝わってくる。それは、「よくここまで来たね」と言ってくれているみたいだった。
私は一度だけ、涙の跡を指でぬぐってから、列車の中へ足を踏み入れた。
終着駅まで、もうすぐだ。
さっきまでと同じ車両のはずなのに、空気が違う。天井のランプは、いつもの琥珀色じゃなくて、少し青みを帯びた白に近い光に変わっている。座席の影がいつもよりくっきりしていて、明るいのに、どこか薄暗い。
黒猫も、さっきまでみたいに尻尾をのんびり振ったりはしていなかった。駅長帽をきちんとかぶり直して、私の足元でじっと座っている。鈴はついているはずなのに、どこからも音はしない。
「ここから先が、一番きついところだよ」
誰かにそう宣告されたみたいに、胸の奥が固くなっていた。
スピーカーから、風が擦れるような音がする。
「まもなく、記憶の駅……三番ホームです」
その言葉と同時に、列車の速度がゆっくり落ちていく。窓の外の景色が薄れ、代わりに白い光がにじみ始めた。蛍光灯の、あの遠慮のない明るさ。
私は、無意識に手を握りしめていた。爪が手のひらに食い込むくらい強く握っているのに、指先の感覚が薄い。
「……ここだけは、戻りたくなかったのに」
思わず、声になって漏れた。
黒猫が、少しだけ私のジーンズのすそに頭を押しつけてくる。顔を上げると、黄色い目がまっすぐ私を見ていた。何も言わない。だけど、「一人で行かせたりしないよ」と言ってくれているみたいで、喉の奥がじわっと熱くなる。
プシューッ、とドアが開く音がした。
◇
最初に飛び込んできたのは、白い床と、白い壁だった。
病院のエントランス。夜間用の出入口だから、人影はほとんどない。受付の窓口には、小さなスタンドライトだけが灯っていて、カルテの束が静かに積まれている。
自動ドアの向こうから、消毒液の匂いが流れてきた。
「ああ、そうだ。この匂いだった」
胸の奥で、もうひとつ別の記憶がざわりと動く。仕事帰りに駆け込んだ夜。タクシーを飛ばしても、間に合うかどうか分からなかった、あの日。
黒猫が、つと足を進める。ついてこい、とでも言うように振り向きもしないで、エレベーター前へ歩いていく。私はふらつく足をどうにか動かして、その後ろを追った。
エレベーターを降りると、長い廊下が続いていた。
白い蛍光灯が、一定の間隔で天井からぶらさがっている。さっき列車の中で見た光より、ずっと冷たい。壁には「消火器」「ナースステーション→」と書かれたプレート。床を照らす光が、ツルツルした素材に反射している。
遠くのほうで、かすかに機械の電子音が鳴っていた。一定のリズムで、規則正しく。反対側からは、誰かの咳払いが一度だけ聞こえる。それ以外は、驚くほど静かだ。
壁の時計に目がいった。
針は「二十三時五十八分」を指していた。秒針が進んでいるのかどうか、遠くてよく見えない。けれど、あの日も、こんなふうに「時間が止まった」ように感じていた。
早く行かなきゃいけない。母のところに。
分かっているのに、足が重くて仕方がない。ここから先に一歩踏み出したら、「終わり」が現実になってしまうような気がして。
「……結局、最後まで、私は怖がってばかりだったんだよね」
自分で自分に言うようにつぶやく。
黒猫が振り返った。今度は私を待ってくれている。私は深呼吸をひとつして、廊下の奥へ歩き出した。
◇
病室の前に来ると、胸の鼓動がはっきり聞こえるくらい早くなった。
ドアの小さな窓から、中の様子が少しだけ見える。薄いカーテンの向こうに、ベッドの白いシーツ。その上に、痩せてしまった人の影が横たわっている。
私が知っている母は、いつも台所に立っていて、エプロン姿で笑っていた。腕まくりをして、フライパンを振る背中。スーパーの袋を両手に下げて帰ってくる姿。ハンバーグのタネを丸める指。
ベッドの上の母は、そのどれとも違っていた。
頬はこけて、肩も胸も小さくなっている。鼻には酸素のチューブ。腕には点滴のライン。機械のモニターが、静かに数字を変えていくたびに、小さな電子音が鳴る。
ドアに手を伸ばそうとして、一瞬、指が止まった。
あの日もこうだった。ドアノブに触れられなくて、何秒も、何十秒も、ここで立ち止まっていた。開けたら、現実を見なきゃいけなくなるのが怖くて。
黒猫が、その場で小さく鳴いたような気がした。声は聞こえないのに、「行こう」と背中を押された気がして、私はやっとのことでドアを開けた。
白い光が、一段と強くなる。
「……春菜?」
ベッドの上から、母の声がした。
弱くて、かすれていて、それでもちゃんと私の名前を呼んでくれる声。責める響きなんて、どこにもない。あるのはただ、「来てくれたんだ」という喜びだけ。
「来たのね」
母が、ゆっくり目を細める。
「うん」
私は笑おうとした。でも、うまく笑えなかった。口角だけ持ち上げようとしても、頬が硬くて、ぎこちない。
「忙しかったけど、来たよ」
言わなくていい言い訳を、つい付け足してしまう。
「無理しなくていいのよ」
母は、少しだけ息を整えてから言った。
「あなたは、頑張り屋さんなんだから」
その言葉が、胸に刺さった。
頑張り屋なんかじゃない。私はずっと、逃げてばかりだった。母のところからも、自分の気持ちからも。
だけどそのときの私は、「そんなことないよ」と否定することもできなかった。ただ、また笑ったふりをするしかなかった。
「それより、どう? ごはん、ちゃんと食べてる?」
母が、昔と同じ質問をする。
「食べてるよ。コンビニとかだけど」
「コンビニばっかりじゃ、だめよ。時々は自分で作りなさい」
「大丈夫だって。今どきレトルトもめちゃくちゃおいしいし」
軽口みたいに返したけれど、指先が震えていた。布団の端を握りしめている自分の手が、自分のものじゃないみたいだ。
「無理してない?」
母が、少し真剣な声になる。
「残業、多いんでしょう?」
「大丈夫だってば。仕事だって、ちゃんとやってるし」
また「大丈夫」と言ってしまう。口をついて出るその言葉は、まるで反射みたいだった。
本当は、大丈夫なんかじゃなかった。
慣れない仕事でいっぱいいっぱいで、失敗するたびに落ち込んで。帰っても部屋は真っ暗で、冷蔵庫の中はペットボトルのお茶と、賞味期限ギリギリのヨーグルトくらいしかなくて。眠れない夜には、スマホを見ながら、「もう全部やめてしまいたい」と思ったことだってあった。
そんな本音、口に出せるわけがないと思っていた。
母は、少しだけ目を伏せてから、ふわりと微笑んだ。
「そう……春菜は、強い子ね」
強いから、じゃない。強く見せようとしていたから、だ。
本当は弱いくせに。怖がりなくせに。助けてって言えないだけなのに。
黒猫がいつの間にか、ベッドの足元に座っていた。母には見えていないみたいに、視線は合わない。でも、猫はじっとこちらを見ている。その目が、「今なら言えるよ」とでも言いたげで、余計に喉の奥が詰まった。
「春菜」
母が、少し息を整えて、もう一度私の名前を呼んだ。
「なに?」
「あなたが……あなたを、嫌いになりませんように」
思ってもみなかった言葉に、息が止まった。
「どういう、意味?」
聞き返そうと口を開いたけれど、その瞬間、看護師さんがそっと入ってきて、点滴の量を確認し始めた。母も少し疲れたのか、目を閉じる。
私は、その言葉の意味をちゃんと考える前に、タイミングを失ってしまった。
母の「本当の本音」は、あの一言に全部詰まっていたのに。
◇
それから、どれくらい時間が経ったのか、正確には覚えていない。
時計の針は進んでいたのかもしれないけれど、病室の中では、時間の流れがぼやけていた。点滴の落ちるリズムと、モニターの音だけが、世界の時間を刻んでいた。
やがて、看護師さんが私のほうを見た。
「ご家族の方、もしよければ、今日はここで泊まっていかれても大丈夫ですよ」
柔らかい声だった。
あの日、同じ言葉を聞いた。私はそのとき、何て答えたんだっけ。
「いえ……」
口が、勝手に動いた。
「今日は、家に仕事持ち帰ってて。明日も朝早くて」
嘘ではなかった。机の上には、やりかけの資料が山ほどあった。けれど、本当の理由はそれだけじゃない。
この部屋に一晩いるのが、怖かったのだ。
母が少しずつ弱っていく姿を、最初から最後まで見続けることが。最後の瞬間に立ち会ってしまうことが。もしそのとき、自分が泣き崩れてしまったら、「大人」としての自分が全部崩れてしまう気がした。
だから私は、「仕事」を盾にして、逃げた。
「そうですか。気をつけて帰ってくださいね」
看護師さんは責めるような言い方はしなかった。それがまた、余計に胸に刺さる。
ベッドのほうを見ると、母が私のほうを見ていた。
「春菜」
弱い声なのに、不思議とはっきり届く。
「気をつけてね」
「……うん」
私は、できるだけ普通の声で返したつもりだった。鞄を肩にかけて、病室のドアに向かう。
あのとき、振り返りもしなかった。
背中に残った母の視線が、重たくて、怖くて。
◇
記憶の中の私は、そのまま廊下に出ていく。
ドアが閉まる音がして、私の足音が遠ざかっていく。その背中を、今の私は、病室の中から見ていた。あのときと違う位置から、その背中を。
ドアが静かに閉まると、病室の中はまた機械の音だけになった。
母の顔に、ほんの少しだけ、寂しさが浮かぶ。だけど、それを誰かに見せる人はいない。
母は、細くなった腕を、ゆっくりと持ち上げた。
ベッドの端を、撫でるみたいに手のひらでなぞる。その動作は、今ここにいない誰かの頭を撫でるようにも見えたし、「ここにいていいんだよ」と場所を示すようにも見えた。
ベッドの上のシーツが、そこだけ少しくしゃりと音を立てる。
母はもう一度、小さく呟いた。
「……おかえり、って言いたかったなあ」
その声は、あの日の私は聞いていない。廊下に出た時点で、私はもう、この部屋の音を全部シャットアウトしていた。
今、記憶列車の中から見ている私は、その言葉を真正面から浴びてしまった。
「やめてよ……」
思わず、声が漏れる。
「そんなの、聞いてない。聞いてないよ」
母は、ふう、と息をつくように目を閉じた。少しだけ顔を横に向ける。その視線の先にあるのは、ベッド脇の小さなテーブルだ。
そこには、白い紙が一枚、ボールペンと一緒に置かれていた。
便箋でもなんでもない、病院のメモ用紙みたいな紙。その端っこに、震える字で何かが書かれている。
私は思わず近づいて、その文字を覗き込んだ。
「はる……なへ」
そこまで書かれて、ペン先が力尽きたように止まっている。
「る」と「な」の間は、かすかにインクがにじんでいる。あと少しだけ力が残っていたら、「春菜へ」の三文字が、きっと最後まで綴られていたはずだ。
母は、その紙に指先を伸ばそうとして、途中で力が抜けたように手を下ろした。
「ごめんね……」
誰に向けての謝罪なのか、母自身にも分かっていなかったかもしれない。でも、その声は確かに、空気の中に残った。
記憶の中の病室の床に、私は膝をついた。
「ごめん、ごめん……」
今度は私が謝る番だった。
「ごめんね、お母さん……」
喉の奥が痛くて、うまく声にならない。胸の真ん中がギュッと押しつぶされるみたいに苦しくて、息を吸うたびに涙があふれてくる。
「あのとき、戻ればよかった」
ドアノブに手をかけた瞬間に。母の声を背中で受け取った瞬間に。
「『やっぱり泊まる』って言えばよかった。そばにいるよって、ちゃんと言えばよかった」
あの日の自分の背中が、今の私にはあまりにも小さく見える。強がって歩いているくせに、肩は震えていて、今にも泣き出しそう顔をしていた。そんな自分を、誰よりも先に分かってあげられなかったのは、きっと私自身だ。
視界が涙でぼやける。そのぼやけた輪郭の端で、黒猫の影が動いた。
黒猫が、そっと私の隣に来る。泣き崩れている私の腕に、頭をぐいっと押し当てた。鈴が、そこで初めて、小さく鳴る。
ちりん。
その一音だけが、病室の静けさの中で、はっきりと響いた。
「責めないの?」
かすれ声で問いかける。
「私、最低だったよ。逃げてばっかりで、最後までちゃんと向き合えなくて」
黒猫は、答えの代わりみたいに、私の腕をまたこすった。前足を私の膝に乗せ、丸くなって寄り添う。目を閉じているのに、その存在だけははっきり分かる。あたたかくて、柔らかくて、ここにいるよと言ってくれている。
鈴は、それ以上鳴らなかった。
たった一度の音に、全部が込められている気がした。
「あなたのせいじゃないよ」
「一緒に見たね」
「ここまで来れたね」
そんな言葉を、勝手に心の中で当てはめる。誰もそうは言ってくれなかったけれど、誰かにそう言ってほしかった言葉たち。
涙が少し落ち着いてきたとき、病室の景色がふわりと薄れ始めた。
白い壁が遠くなっていく。ベッドも、モニターも、母の顔も、光の粒に変わっていく。最後に残ったのは、ベッド脇の小さなメモだけだ。
「はる……なへ」と途中まで書かれた文字が、光の中に溶けていく。
それは、きっと終着駅で、もう一度ちゃんと出会うことになるのだろう。
◇
気づくと、私はまた列車のホームに立っていた。
三番ホーム。看板には、やっぱり駅名ではなく、「第三のホーム」とだけ書かれている。さっきまで病室で泣き崩れていたはずなのに、ここではちゃんと立っていられる。不思議なことに、足は震えていなかった。
目元が少しヒリヒリする。きっと、まだ泣いた跡が残っている。
黒猫が、私のすぐそばにいた。さっきまで病室の床にいたときと同じように、ぴたりと寄り添っている。小さな体は温かくて、鈴は静かだ。
列車のドアは開いたまま、オレンジと白の混ざった光を漏らしていた。車内の灯りは、いつもより少し明るく見える。
スピーカーから、風の声がする。
「まもなく、終着駅に到着します」
その言葉に、胸がまたきゅっとする。でも、さっきまでのような、「もう見たくない」という種類の苦しさではなかった。
母の最期の姿。言えなかった「ありがとう」と「ごめん」。途中までしか書かれなかった「春菜へ」の文字。
どれも、きっと消えない傷だ。それでも、あの人がずっと優しいままだったことだけは、もう疑いようがない。
私は、黒猫をそっと抱き上げた。
小さな体が腕の中に収まる。胸の前でその重みを感じると、不思議と呼吸がしやすくなった。
「……最後まで、行く」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「全部、ちゃんと向き合う。逃げないで、聞くよ。お母さんが、ほんとは何を言いたかったのか」
黒猫が、腕の中で目を細めた。喉の奥から、小さなゴロゴロという音が伝わってくる。それは、「よくここまで来たね」と言ってくれているみたいだった。
私は一度だけ、涙の跡を指でぬぐってから、列車の中へ足を踏み入れた。
終着駅まで、もうすぐだ。



