列車が動き出す振動が、少しだけ弱くなった頃だった。
さっきまで胸の奥を締めつけていた痛みが、まだじんじん残っている。第一の駅で見たものは、どれも「大好きだった頃」の記憶と、「素直になれなくなり始めた頃」の記憶で、甘さと苦さがごちゃまぜになっていた。
私は窓にもたれるみたいにして、ぼんやり外を見ていた。
ガラスの向こうで、光の粒がまた揺れ始める。今度は、さっきよりも少し現実寄りの景色が混ざっていた。マンションのベランダ。スーパーの看板。コンビニの白い光。夕方の色が、にじんだり戻ったりする。
スピーカーから、あの風みたいな声がまた聞こえた。
「まもなく、記憶の駅……二番ホームです」
耳に届いたその言葉に、思わず身体が強張る。さっき黒猫は、「ここから先はちょっと苦いよ」とでも言いたげな雰囲気をまとっていた。第一の駅だって十分苦かったのに、それより苦いって、どういうことなんだろう。
視線を足元に落とすと、黒猫が私の前でちょこんと座っている。さっきよりずっとしっかりと駅長帽が決まっていて、前足をそろえて前を見ていた。
「また、行くんだよね」
問いかけると、猫は小さく瞬きをした。鳴き声は出さない。そのかわり尻尾の先が、どこか「ついておいで」と言っているみたいに、すこしだけ上を向いた。
列車が減速し、ゆっくりと止まる。ドアが開く音がして、オレンジ色の光が細長くホームへ伸びた。
私は息を飲んで、一歩、外に出た。
◇
ホームに広がっていたのは、見慣れた夕暮れの色だった。
空はオレンジと藍色のあいだで揺れていて、ビルの輪郭が黒く切り取られている。駅前には、小さなスーパーと、昔からあるパン屋。改札につづく階段の横には、自販機が二台並んでいた。
高校の頃、何度も通った駅。その「ちょっとだけきれいな版」が、目の前にあった。
「……ここ、高校のときの駅だ」
口に出した瞬間、制服の襟が首に触れる感覚が、幻みたいによみがえった気がした。重たいスクールバッグ。プリントの詰まったファイル。汗ばんだ手のひら。全部、よく知っている。
ホームの向こう側を見やると、スカートの丈をぎりぎりまで短くした女子高生が二人、笑いながら走っていく後ろ姿が見えた。そのうちの一人が、振り向きざまに友達に何かを投げる。プリントだ。白い紙が、ふわっと宙を舞って落ちる。
その横顔を見て、胸のあたりがきゅっと縮む。
あれは、制服を着ていた頃の私だ。
黒猫が、ホームの端を先に歩き出した。私はその後をついていく。改札を抜けて外に出ると、駅前の道がすぐに団地へ続いている。スーパーや本屋の看板は、見慣れたものばかりだ。
景色が、ふっと揺れた。
次にまぶたを開けたとき、私は実家のキッチンに立っていた。
◇
テーブルの上に、赤本の表紙がいくつも並んでいる。英語、国語、世界史。ページの端にはふせんがびっしり貼られていて、マーカーの色が重なりすぎて紙が少し波打っていた。
その向こうでは、母がエプロン姿で夕飯の準備をしている。
コンロの上では味噌汁の鍋がことこと煮えていて、出汁の匂いが部屋中にひろがっている。レンジのタイマーは「あと二分」と赤い数字を点滅させていた。テーブルの隅には、小皿に盛られたハンバーグの試作品みたいなものがひとつ。
「春菜、休憩しないと頭がもたないわよ。ほら、味見して」
母が、小さなハンバーグを箸でつまんで、私のほうに差し出した。
高校生の私が、眉を寄せて問題集から顔を上げる。
「今、そんなの食べてる場合じゃないから」
声が少し尖っていた。ペンを握った手は、紙にしがみつくように力が入っている。本当はおなかが空いていたくせに、胃のあたりがキリキリするくらい、何かを抱え込んでいた。
母はあ、という顔をして、一瞬だけ箸を引っ込めた。その顔に浮かんだ寂しさを、あの頃の私はちゃんと見ていなかった。今見ている私には、ありありと分かるのに。
「そう。じゃあ、ここに置いとくね」
母は笑い直して、小皿を私の手の届くところにそっと置いた。背中はコンロのほうに向き直る。でも、視線はときどきちらちらとテーブルの赤本のほうへ向いている。心配しているのが丸わかりだ。
高校生の私は、問題集を睨みながら、視界の端でその小皿を見ていた。ペン先が止まりかけ、また進む。結局、ひとくちも口をつけないまま、ページをめくる。
今の私は、その様子を見ていて、本気で額を叩きたくなった。
なんで、あそこで素直に「食べる」って言えなかったんだろう。
ひとくち食べて「おいしい」って笑えば、それだけで母は絶対、すごく嬉しそうにしたのに。
黒猫が、テーブルの足元で私の足に頭をこすりつけてきた。鈴が小さく鳴る。私は思わず膝に力を入れた。
「……受験だからって、ひとりで勝手に気負ってたの、私のほうだったね」
自分の声が、驚くほどかすれて聞こえた。
場面が、また少し先へ飛ぶ。
◇
リビングの真ん中に、段ボールがいくつも積み上がっていた。
「キッチン」「本」「服」とマジックで書かれた側面に、丸い字で母の名前が小さく添えられている。テレビでは、たまたまつけっぱなしになっていたドラマの再放送が流れていて、画面の隅には「上京」というテロップが出ていた。やけにタイミングがいい。
キッチンからは、いつもより豪華な匂いが漂ってくる。ハンバーグ。ポテトサラダ。卵焼き。唐揚げまである。冷蔵庫の中身を全部出したんじゃないかと思うくらいの品数だ。
「そんなに作らなくてもいいのに」
ソファに座ってスマホをいじっている高校生の私が、わざとぶっきらぼうに言う。
「最後の実家ごはんなんだから、張り切らせてよ」
母は笑いながら答える。鍋のふたを開けたときに立ちのぼる湯気が、いつもより眩しく見えた。エプロンのポケットから覗くハンカチは、ほんの少しだけ湿っている。
「一人暮らし、大丈夫? ちゃんと食べるのよ?」
「大丈夫。もう子どもじゃないから」
「でもね、困ったらすぐ帰ってきていいのよ。いつでも部屋あけて待ってるから」
「そんなに暇じゃないから。向こうで友達できるだろうし、勉強もあるし」
本当は、「困ったらすぐ帰るからね」と言いたかった。東京が楽しみな気持ちと同じくらい、ここを離れるのが怖くて仕方なかった。でも、それを見せるのは負けな気がして、私は笑って強がった。
母が、少しだけ目を細める。
「そうね。春菜は小さい頃から、頑張り屋さんだったものね」
それ以上何も言わないで、皿にハンバーグを盛りつける。その横顔が、今の私には、泣きながら笑っているように見えた。
「……頑張り屋なんかじゃなかったのに」
私は、横からその光景を見ていて、思わずつぶやいた。
「ただ、自分で勝手に背伸びして、勝手に一人でしんどくなってただけなのに」
黒猫が、テーブルの下からするりと現れる。母の足首に体をこすりつけてから、こっちに来て、私のほうでも同じようにする。まるで、そのあいだを行ったり来たりして、見えない糸でつないでいるみたいだ。
あのときも、母はきっと私以上に緊張して、心配して、でも「頑張れ」と「帰っておいで」の両方を胸の内にしまい込んで、台所に立っていたんだろう。
それを、私は「うるさい」「放っておいて」としか受け取れなかった。
場面がふいにほどけて、キッチンの光が薄れた。
◇
次に見えたのは、スマホの画面だった。
夏の終わり頃のカレンダー。土日の部分に、会社の飲み会と研修の予定がびっしり入っている。画面の上には、母からのメッセージが一つ。
「お盆、今年は帰れそう? 無理だったら無理しないでね」
新卒で入った会社の一年目。毎日が仕事と初めての一人暮らしでいっぱいいっぱいで、心の余裕なんてほとんどなかった頃だ。
画面の中の私の指が、スタンプ一覧を開き、「ごめん、忙しいから今年は無理かも」と文字を打っては消し、やっとのことで送信ボタンを押す。
本当は、「行こうと思えば行けた」。
繁忙期ではなかったし、有給だって取ろうと思えば取れた。片道三時間の距離は、決して不可能じゃなかった。でも、あのときの私は、自分の疲れと、気まずさと、「今さら帰っても子どもっぽい」と思われるのが怖くて、行かないほうを選んだ。
画面がすっと切り替わる。今度は実家のキッチンだ。
母がエプロン姿でスマホを見ている。画面には、さっき送った私のメッセージ。「忙しいから無理かも」の文字。母はそれを見て、小さく息を吐いた。
「そうよね、忙しいのよね。社会人一年目だものね」
ひとりごとのように呟いて、スマホをテーブルの上に置く。その横には、お盆用に買い込んだ食材が並んでいる。とうもろこし、枝豆、春菜の好きだった唐揚げ用の鶏肉。
母はしばらくそれをじっと見てから、くすりと笑った。
「まあ、せっかくだし、作っちゃおうか」
誰に聞かせるでもなくそう言って、流しに向き直る。味噌汁の鍋に、水を注ぐ手つきが、いつもと同じように丁寧だ。まるで、「春菜が隣の部屋にいる」と仮定しているみたいに。
味噌を溶かしながら、母がぽつりと言う。
「帰ってこなくてもいいけど……元気でいてくれたら、それでいいんだけどね」
その横顔を見て、膝がガクンと抜けそうになった。
「……ごめん」
息が詰まるくらい、小さな声でそう呟いた。
「本当は、仕事なんかよりずっと、ここに来たかったのに。忙しいからって、自分で自分をごまかしてただけなのに」
怖かったのだ。顔を合わせたら、きっと泣いてしまうから。泣いたら、「まだ子どもみたいだ」と思われる気がして。それが嫌で、私は「忙しい」を口実に逃げた。
母は、スマホの画面をもう一度見て、指でなぞるようにしてから、そっと伏せた。テーブルの上の空の椅子に、一瞬視線を置いて、それから何もなかったみたいに唐揚げの下味をつけ始める。
黒猫が、シンクの下から姿を現した。母の足元をすり抜けて、流しの前に座る。その目が、どうしようもないくらい優しかった。
場面が、そこでふっと途切れた。
◇
気づけば、またホームのベンチに座っていた。
二番ホーム。さっきと同じように、看板には駅名の代わりに「第二のホーム」とだけ書かれている。空気は少し冷たくなっていて、さっきまで見てきたキッチンの湯気の温かさだけが、まだ肌にまとわりついている気がした。
膝の上には、やっぱり黒猫がいた。丸くなって、尻尾をゆっくり動かしている。私のジーンズに小さな毛がついて、くすぐったい。
「私、ずっと『大人になりたい』って言ってたくせにさ」
声に出したら、思ったよりもあっさり言葉が出た。
「本当は、ただ母にがっかりされたくなかっただけなんだよね」
黒猫が、少し顔を上げる。
「忙しいからって言い訳して、母が用意してくれてた“帰る場所”から逃げて。自立です、みたいな顔して」
自分で言って、自分で苦笑する。笑った拍子に、目の奥の熱がじわりとこぼれそうになった。
「母は、ずっと分かってたのに」
あの日のキッチンで、母がスマホの画面を見つめていた横顔。ハンバーグのタネを差し出して、断られても小皿にそっと置いた手。上京前夜、「帰ってきていい」と言った声。
「あの人、絶対、全部分かってたんだよ」
私の強がりも、意地も、怖がりも。きっと気づいていた。それでも、「どうして帰ってこないの」と責める言葉は、一度も口にしなかった。
責めていたのは、いつも私自身だった。
「……ちゃんと、ありがとうって言っておけばよかったな」
小さい声でそう言った瞬間、目からぽたりと涙が落ちた。黒猫の背中に、丸い水滴がひとつ落ちる。黒猫はいやな顔ひとつせず、そのままじっとしていた。
そのうち、ぺろりと舌を出して、自分の毛づくろいをする。その仕草が、なんだか「泣いてていいよ」と言ってくれているように見えて、余計に胸が詰まった。
「ごめんね」
誰に向かっての「ごめん」なのか、自分でもよく分からない。
母に対して。過去の自分に対して。今まで目をそらしてきた全部に対して。何度も心の中で言いかけて、そのたびに飲み込んできた言葉を、やっと口に出した。
黒猫が、前足で私の手をちょんと触れた。柔らかい肉球の感触が、冷たくなりかけていた指先を温める。鈴が小さく鳴った。
ホームの向こうで、時計がカチリと音を立てる。
文字盤の針が、「23:59」から「0:00」へと変わった。さっきも見た、日付の境目。そして、現実と非日常の境目みたいな時間。
遠くで、かすれたアナウンスの音が聞こえた。
「つぎは……びょう……しつ……」
聞き取れたのか、聞き間違いなのか、自分でもよく分からない。でも、その一部だけが、妙にはっきり耳に残った。
「病室……?」
その二文字を口にした瞬間、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。心臓が、嫌な思い出を一気に押し上げてくる。
母の最期を過ごした、あの白い部屋。消毒液の匂い。モニターの電子音。薄い布団。握りしめた手のぬくもり。全部、まだ鮮明に残っている。
黒猫が、膝からするりと降りた。ホームの端に歩いていき、振り返る。その目が、どこかで「ここから先が一番つらい。でも、それを越えないと前に進めない」と言っているように見えた。
私は深く息を吸った。胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動くのを感じる。
「……行く」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「ちゃんと、最後まで見る」
吐き出した息と一緒に、その言葉も外に出た。
ちょうどそのとき、レールの音が近づいてきた。レトロな車体が、またゆっくりホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、オレンジ色の光がこぼれた。
黒猫が先に乗り込む。駅長帽が、光を受けてきらりと光る。
私は涙の跡を袖で拭いてから、立ち上がった。まだ足は少し震えている。でも、その震えごと抱きかかえるみたいにして、一歩踏み出す。
列車の中には、私と猫のためだけに空いた席が、ちゃんと待っている気がした。
さっきまで胸の奥を締めつけていた痛みが、まだじんじん残っている。第一の駅で見たものは、どれも「大好きだった頃」の記憶と、「素直になれなくなり始めた頃」の記憶で、甘さと苦さがごちゃまぜになっていた。
私は窓にもたれるみたいにして、ぼんやり外を見ていた。
ガラスの向こうで、光の粒がまた揺れ始める。今度は、さっきよりも少し現実寄りの景色が混ざっていた。マンションのベランダ。スーパーの看板。コンビニの白い光。夕方の色が、にじんだり戻ったりする。
スピーカーから、あの風みたいな声がまた聞こえた。
「まもなく、記憶の駅……二番ホームです」
耳に届いたその言葉に、思わず身体が強張る。さっき黒猫は、「ここから先はちょっと苦いよ」とでも言いたげな雰囲気をまとっていた。第一の駅だって十分苦かったのに、それより苦いって、どういうことなんだろう。
視線を足元に落とすと、黒猫が私の前でちょこんと座っている。さっきよりずっとしっかりと駅長帽が決まっていて、前足をそろえて前を見ていた。
「また、行くんだよね」
問いかけると、猫は小さく瞬きをした。鳴き声は出さない。そのかわり尻尾の先が、どこか「ついておいで」と言っているみたいに、すこしだけ上を向いた。
列車が減速し、ゆっくりと止まる。ドアが開く音がして、オレンジ色の光が細長くホームへ伸びた。
私は息を飲んで、一歩、外に出た。
◇
ホームに広がっていたのは、見慣れた夕暮れの色だった。
空はオレンジと藍色のあいだで揺れていて、ビルの輪郭が黒く切り取られている。駅前には、小さなスーパーと、昔からあるパン屋。改札につづく階段の横には、自販機が二台並んでいた。
高校の頃、何度も通った駅。その「ちょっとだけきれいな版」が、目の前にあった。
「……ここ、高校のときの駅だ」
口に出した瞬間、制服の襟が首に触れる感覚が、幻みたいによみがえった気がした。重たいスクールバッグ。プリントの詰まったファイル。汗ばんだ手のひら。全部、よく知っている。
ホームの向こう側を見やると、スカートの丈をぎりぎりまで短くした女子高生が二人、笑いながら走っていく後ろ姿が見えた。そのうちの一人が、振り向きざまに友達に何かを投げる。プリントだ。白い紙が、ふわっと宙を舞って落ちる。
その横顔を見て、胸のあたりがきゅっと縮む。
あれは、制服を着ていた頃の私だ。
黒猫が、ホームの端を先に歩き出した。私はその後をついていく。改札を抜けて外に出ると、駅前の道がすぐに団地へ続いている。スーパーや本屋の看板は、見慣れたものばかりだ。
景色が、ふっと揺れた。
次にまぶたを開けたとき、私は実家のキッチンに立っていた。
◇
テーブルの上に、赤本の表紙がいくつも並んでいる。英語、国語、世界史。ページの端にはふせんがびっしり貼られていて、マーカーの色が重なりすぎて紙が少し波打っていた。
その向こうでは、母がエプロン姿で夕飯の準備をしている。
コンロの上では味噌汁の鍋がことこと煮えていて、出汁の匂いが部屋中にひろがっている。レンジのタイマーは「あと二分」と赤い数字を点滅させていた。テーブルの隅には、小皿に盛られたハンバーグの試作品みたいなものがひとつ。
「春菜、休憩しないと頭がもたないわよ。ほら、味見して」
母が、小さなハンバーグを箸でつまんで、私のほうに差し出した。
高校生の私が、眉を寄せて問題集から顔を上げる。
「今、そんなの食べてる場合じゃないから」
声が少し尖っていた。ペンを握った手は、紙にしがみつくように力が入っている。本当はおなかが空いていたくせに、胃のあたりがキリキリするくらい、何かを抱え込んでいた。
母はあ、という顔をして、一瞬だけ箸を引っ込めた。その顔に浮かんだ寂しさを、あの頃の私はちゃんと見ていなかった。今見ている私には、ありありと分かるのに。
「そう。じゃあ、ここに置いとくね」
母は笑い直して、小皿を私の手の届くところにそっと置いた。背中はコンロのほうに向き直る。でも、視線はときどきちらちらとテーブルの赤本のほうへ向いている。心配しているのが丸わかりだ。
高校生の私は、問題集を睨みながら、視界の端でその小皿を見ていた。ペン先が止まりかけ、また進む。結局、ひとくちも口をつけないまま、ページをめくる。
今の私は、その様子を見ていて、本気で額を叩きたくなった。
なんで、あそこで素直に「食べる」って言えなかったんだろう。
ひとくち食べて「おいしい」って笑えば、それだけで母は絶対、すごく嬉しそうにしたのに。
黒猫が、テーブルの足元で私の足に頭をこすりつけてきた。鈴が小さく鳴る。私は思わず膝に力を入れた。
「……受験だからって、ひとりで勝手に気負ってたの、私のほうだったね」
自分の声が、驚くほどかすれて聞こえた。
場面が、また少し先へ飛ぶ。
◇
リビングの真ん中に、段ボールがいくつも積み上がっていた。
「キッチン」「本」「服」とマジックで書かれた側面に、丸い字で母の名前が小さく添えられている。テレビでは、たまたまつけっぱなしになっていたドラマの再放送が流れていて、画面の隅には「上京」というテロップが出ていた。やけにタイミングがいい。
キッチンからは、いつもより豪華な匂いが漂ってくる。ハンバーグ。ポテトサラダ。卵焼き。唐揚げまである。冷蔵庫の中身を全部出したんじゃないかと思うくらいの品数だ。
「そんなに作らなくてもいいのに」
ソファに座ってスマホをいじっている高校生の私が、わざとぶっきらぼうに言う。
「最後の実家ごはんなんだから、張り切らせてよ」
母は笑いながら答える。鍋のふたを開けたときに立ちのぼる湯気が、いつもより眩しく見えた。エプロンのポケットから覗くハンカチは、ほんの少しだけ湿っている。
「一人暮らし、大丈夫? ちゃんと食べるのよ?」
「大丈夫。もう子どもじゃないから」
「でもね、困ったらすぐ帰ってきていいのよ。いつでも部屋あけて待ってるから」
「そんなに暇じゃないから。向こうで友達できるだろうし、勉強もあるし」
本当は、「困ったらすぐ帰るからね」と言いたかった。東京が楽しみな気持ちと同じくらい、ここを離れるのが怖くて仕方なかった。でも、それを見せるのは負けな気がして、私は笑って強がった。
母が、少しだけ目を細める。
「そうね。春菜は小さい頃から、頑張り屋さんだったものね」
それ以上何も言わないで、皿にハンバーグを盛りつける。その横顔が、今の私には、泣きながら笑っているように見えた。
「……頑張り屋なんかじゃなかったのに」
私は、横からその光景を見ていて、思わずつぶやいた。
「ただ、自分で勝手に背伸びして、勝手に一人でしんどくなってただけなのに」
黒猫が、テーブルの下からするりと現れる。母の足首に体をこすりつけてから、こっちに来て、私のほうでも同じようにする。まるで、そのあいだを行ったり来たりして、見えない糸でつないでいるみたいだ。
あのときも、母はきっと私以上に緊張して、心配して、でも「頑張れ」と「帰っておいで」の両方を胸の内にしまい込んで、台所に立っていたんだろう。
それを、私は「うるさい」「放っておいて」としか受け取れなかった。
場面がふいにほどけて、キッチンの光が薄れた。
◇
次に見えたのは、スマホの画面だった。
夏の終わり頃のカレンダー。土日の部分に、会社の飲み会と研修の予定がびっしり入っている。画面の上には、母からのメッセージが一つ。
「お盆、今年は帰れそう? 無理だったら無理しないでね」
新卒で入った会社の一年目。毎日が仕事と初めての一人暮らしでいっぱいいっぱいで、心の余裕なんてほとんどなかった頃だ。
画面の中の私の指が、スタンプ一覧を開き、「ごめん、忙しいから今年は無理かも」と文字を打っては消し、やっとのことで送信ボタンを押す。
本当は、「行こうと思えば行けた」。
繁忙期ではなかったし、有給だって取ろうと思えば取れた。片道三時間の距離は、決して不可能じゃなかった。でも、あのときの私は、自分の疲れと、気まずさと、「今さら帰っても子どもっぽい」と思われるのが怖くて、行かないほうを選んだ。
画面がすっと切り替わる。今度は実家のキッチンだ。
母がエプロン姿でスマホを見ている。画面には、さっき送った私のメッセージ。「忙しいから無理かも」の文字。母はそれを見て、小さく息を吐いた。
「そうよね、忙しいのよね。社会人一年目だものね」
ひとりごとのように呟いて、スマホをテーブルの上に置く。その横には、お盆用に買い込んだ食材が並んでいる。とうもろこし、枝豆、春菜の好きだった唐揚げ用の鶏肉。
母はしばらくそれをじっと見てから、くすりと笑った。
「まあ、せっかくだし、作っちゃおうか」
誰に聞かせるでもなくそう言って、流しに向き直る。味噌汁の鍋に、水を注ぐ手つきが、いつもと同じように丁寧だ。まるで、「春菜が隣の部屋にいる」と仮定しているみたいに。
味噌を溶かしながら、母がぽつりと言う。
「帰ってこなくてもいいけど……元気でいてくれたら、それでいいんだけどね」
その横顔を見て、膝がガクンと抜けそうになった。
「……ごめん」
息が詰まるくらい、小さな声でそう呟いた。
「本当は、仕事なんかよりずっと、ここに来たかったのに。忙しいからって、自分で自分をごまかしてただけなのに」
怖かったのだ。顔を合わせたら、きっと泣いてしまうから。泣いたら、「まだ子どもみたいだ」と思われる気がして。それが嫌で、私は「忙しい」を口実に逃げた。
母は、スマホの画面をもう一度見て、指でなぞるようにしてから、そっと伏せた。テーブルの上の空の椅子に、一瞬視線を置いて、それから何もなかったみたいに唐揚げの下味をつけ始める。
黒猫が、シンクの下から姿を現した。母の足元をすり抜けて、流しの前に座る。その目が、どうしようもないくらい優しかった。
場面が、そこでふっと途切れた。
◇
気づけば、またホームのベンチに座っていた。
二番ホーム。さっきと同じように、看板には駅名の代わりに「第二のホーム」とだけ書かれている。空気は少し冷たくなっていて、さっきまで見てきたキッチンの湯気の温かさだけが、まだ肌にまとわりついている気がした。
膝の上には、やっぱり黒猫がいた。丸くなって、尻尾をゆっくり動かしている。私のジーンズに小さな毛がついて、くすぐったい。
「私、ずっと『大人になりたい』って言ってたくせにさ」
声に出したら、思ったよりもあっさり言葉が出た。
「本当は、ただ母にがっかりされたくなかっただけなんだよね」
黒猫が、少し顔を上げる。
「忙しいからって言い訳して、母が用意してくれてた“帰る場所”から逃げて。自立です、みたいな顔して」
自分で言って、自分で苦笑する。笑った拍子に、目の奥の熱がじわりとこぼれそうになった。
「母は、ずっと分かってたのに」
あの日のキッチンで、母がスマホの画面を見つめていた横顔。ハンバーグのタネを差し出して、断られても小皿にそっと置いた手。上京前夜、「帰ってきていい」と言った声。
「あの人、絶対、全部分かってたんだよ」
私の強がりも、意地も、怖がりも。きっと気づいていた。それでも、「どうして帰ってこないの」と責める言葉は、一度も口にしなかった。
責めていたのは、いつも私自身だった。
「……ちゃんと、ありがとうって言っておけばよかったな」
小さい声でそう言った瞬間、目からぽたりと涙が落ちた。黒猫の背中に、丸い水滴がひとつ落ちる。黒猫はいやな顔ひとつせず、そのままじっとしていた。
そのうち、ぺろりと舌を出して、自分の毛づくろいをする。その仕草が、なんだか「泣いてていいよ」と言ってくれているように見えて、余計に胸が詰まった。
「ごめんね」
誰に向かっての「ごめん」なのか、自分でもよく分からない。
母に対して。過去の自分に対して。今まで目をそらしてきた全部に対して。何度も心の中で言いかけて、そのたびに飲み込んできた言葉を、やっと口に出した。
黒猫が、前足で私の手をちょんと触れた。柔らかい肉球の感触が、冷たくなりかけていた指先を温める。鈴が小さく鳴った。
ホームの向こうで、時計がカチリと音を立てる。
文字盤の針が、「23:59」から「0:00」へと変わった。さっきも見た、日付の境目。そして、現実と非日常の境目みたいな時間。
遠くで、かすれたアナウンスの音が聞こえた。
「つぎは……びょう……しつ……」
聞き取れたのか、聞き間違いなのか、自分でもよく分からない。でも、その一部だけが、妙にはっきり耳に残った。
「病室……?」
その二文字を口にした瞬間、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。心臓が、嫌な思い出を一気に押し上げてくる。
母の最期を過ごした、あの白い部屋。消毒液の匂い。モニターの電子音。薄い布団。握りしめた手のぬくもり。全部、まだ鮮明に残っている。
黒猫が、膝からするりと降りた。ホームの端に歩いていき、振り返る。その目が、どこかで「ここから先が一番つらい。でも、それを越えないと前に進めない」と言っているように見えた。
私は深く息を吸った。胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動くのを感じる。
「……行く」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「ちゃんと、最後まで見る」
吐き出した息と一緒に、その言葉も外に出た。
ちょうどそのとき、レールの音が近づいてきた。レトロな車体が、またゆっくりホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、オレンジ色の光がこぼれた。
黒猫が先に乗り込む。駅長帽が、光を受けてきらりと光る。
私は涙の跡を袖で拭いてから、立ち上がった。まだ足は少し震えている。でも、その震えごと抱きかかえるみたいにして、一歩踏み出す。
列車の中には、私と猫のためだけに空いた席が、ちゃんと待っている気がした。



