0時発、猫の駅長が導く記憶列車

 列車が動き出す振動が、少しだけ弱くなった頃だった。

 さっきまで胸の奥を締めつけていた痛みが、まだじんじん残っている。第一の駅で見たものは、どれも「大好きだった頃」の記憶と、「素直になれなくなり始めた頃」の記憶で、甘さと苦さがごちゃまぜになっていた。

 私は窓にもたれるみたいにして、ぼんやり外を見ていた。

 ガラスの向こうで、光の粒がまた揺れ始める。今度は、さっきよりも少し現実寄りの景色が混ざっていた。マンションのベランダ。スーパーの看板。コンビニの白い光。夕方の色が、にじんだり戻ったりする。

 スピーカーから、あの風みたいな声がまた聞こえた。

「まもなく、記憶の駅……二番ホームです」

 耳に届いたその言葉に、思わず身体が強張る。さっき黒猫は、「ここから先はちょっと苦いよ」とでも言いたげな雰囲気をまとっていた。第一の駅だって十分苦かったのに、それより苦いって、どういうことなんだろう。

 視線を足元に落とすと、黒猫が私の前でちょこんと座っている。さっきよりずっとしっかりと駅長帽が決まっていて、前足をそろえて前を見ていた。

「また、行くんだよね」

 問いかけると、猫は小さく瞬きをした。鳴き声は出さない。そのかわり尻尾の先が、どこか「ついておいで」と言っているみたいに、すこしだけ上を向いた。

 列車が減速し、ゆっくりと止まる。ドアが開く音がして、オレンジ色の光が細長くホームへ伸びた。

 私は息を飲んで、一歩、外に出た。

     ◇

 ホームに広がっていたのは、見慣れた夕暮れの色だった。

 空はオレンジと藍色のあいだで揺れていて、ビルの輪郭が黒く切り取られている。駅前には、小さなスーパーと、昔からあるパン屋。改札につづく階段の横には、自販機が二台並んでいた。

 高校の頃、何度も通った駅。その「ちょっとだけきれいな版」が、目の前にあった。

「……ここ、高校のときの駅だ」

 口に出した瞬間、制服の襟が首に触れる感覚が、幻みたいによみがえった気がした。重たいスクールバッグ。プリントの詰まったファイル。汗ばんだ手のひら。全部、よく知っている。

 ホームの向こう側を見やると、スカートの丈をぎりぎりまで短くした女子高生が二人、笑いながら走っていく後ろ姿が見えた。そのうちの一人が、振り向きざまに友達に何かを投げる。プリントだ。白い紙が、ふわっと宙を舞って落ちる。

 その横顔を見て、胸のあたりがきゅっと縮む。

 あれは、制服を着ていた頃の私だ。

 黒猫が、ホームの端を先に歩き出した。私はその後をついていく。改札を抜けて外に出ると、駅前の道がすぐに団地へ続いている。スーパーや本屋の看板は、見慣れたものばかりだ。

 景色が、ふっと揺れた。

 次にまぶたを開けたとき、私は実家のキッチンに立っていた。

     ◇

 テーブルの上に、赤本の表紙がいくつも並んでいる。英語、国語、世界史。ページの端にはふせんがびっしり貼られていて、マーカーの色が重なりすぎて紙が少し波打っていた。

 その向こうでは、母がエプロン姿で夕飯の準備をしている。

 コンロの上では味噌汁の鍋がことこと煮えていて、出汁の匂いが部屋中にひろがっている。レンジのタイマーは「あと二分」と赤い数字を点滅させていた。テーブルの隅には、小皿に盛られたハンバーグの試作品みたいなものがひとつ。

「春菜、休憩しないと頭がもたないわよ。ほら、味見して」

 母が、小さなハンバーグを箸でつまんで、私のほうに差し出した。

 高校生の私が、眉を寄せて問題集から顔を上げる。

「今、そんなの食べてる場合じゃないから」

 声が少し尖っていた。ペンを握った手は、紙にしがみつくように力が入っている。本当はおなかが空いていたくせに、胃のあたりがキリキリするくらい、何かを抱え込んでいた。

 母はあ、という顔をして、一瞬だけ箸を引っ込めた。その顔に浮かんだ寂しさを、あの頃の私はちゃんと見ていなかった。今見ている私には、ありありと分かるのに。

「そう。じゃあ、ここに置いとくね」

 母は笑い直して、小皿を私の手の届くところにそっと置いた。背中はコンロのほうに向き直る。でも、視線はときどきちらちらとテーブルの赤本のほうへ向いている。心配しているのが丸わかりだ。

 高校生の私は、問題集を睨みながら、視界の端でその小皿を見ていた。ペン先が止まりかけ、また進む。結局、ひとくちも口をつけないまま、ページをめくる。

 今の私は、その様子を見ていて、本気で額を叩きたくなった。

 なんで、あそこで素直に「食べる」って言えなかったんだろう。

 ひとくち食べて「おいしい」って笑えば、それだけで母は絶対、すごく嬉しそうにしたのに。

 黒猫が、テーブルの足元で私の足に頭をこすりつけてきた。鈴が小さく鳴る。私は思わず膝に力を入れた。

「……受験だからって、ひとりで勝手に気負ってたの、私のほうだったね」

 自分の声が、驚くほどかすれて聞こえた。

 場面が、また少し先へ飛ぶ。

     ◇

 リビングの真ん中に、段ボールがいくつも積み上がっていた。

 「キッチン」「本」「服」とマジックで書かれた側面に、丸い字で母の名前が小さく添えられている。テレビでは、たまたまつけっぱなしになっていたドラマの再放送が流れていて、画面の隅には「上京」というテロップが出ていた。やけにタイミングがいい。

 キッチンからは、いつもより豪華な匂いが漂ってくる。ハンバーグ。ポテトサラダ。卵焼き。唐揚げまである。冷蔵庫の中身を全部出したんじゃないかと思うくらいの品数だ。

「そんなに作らなくてもいいのに」

 ソファに座ってスマホをいじっている高校生の私が、わざとぶっきらぼうに言う。

「最後の実家ごはんなんだから、張り切らせてよ」

 母は笑いながら答える。鍋のふたを開けたときに立ちのぼる湯気が、いつもより眩しく見えた。エプロンのポケットから覗くハンカチは、ほんの少しだけ湿っている。

「一人暮らし、大丈夫? ちゃんと食べるのよ?」

「大丈夫。もう子どもじゃないから」

「でもね、困ったらすぐ帰ってきていいのよ。いつでも部屋あけて待ってるから」

「そんなに暇じゃないから。向こうで友達できるだろうし、勉強もあるし」

 本当は、「困ったらすぐ帰るからね」と言いたかった。東京が楽しみな気持ちと同じくらい、ここを離れるのが怖くて仕方なかった。でも、それを見せるのは負けな気がして、私は笑って強がった。

 母が、少しだけ目を細める。

「そうね。春菜は小さい頃から、頑張り屋さんだったものね」

 それ以上何も言わないで、皿にハンバーグを盛りつける。その横顔が、今の私には、泣きながら笑っているように見えた。

「……頑張り屋なんかじゃなかったのに」

 私は、横からその光景を見ていて、思わずつぶやいた。

「ただ、自分で勝手に背伸びして、勝手に一人でしんどくなってただけなのに」

 黒猫が、テーブルの下からするりと現れる。母の足首に体をこすりつけてから、こっちに来て、私のほうでも同じようにする。まるで、そのあいだを行ったり来たりして、見えない糸でつないでいるみたいだ。

 あのときも、母はきっと私以上に緊張して、心配して、でも「頑張れ」と「帰っておいで」の両方を胸の内にしまい込んで、台所に立っていたんだろう。

 それを、私は「うるさい」「放っておいて」としか受け取れなかった。

 場面がふいにほどけて、キッチンの光が薄れた。

     ◇

 次に見えたのは、スマホの画面だった。

 夏の終わり頃のカレンダー。土日の部分に、会社の飲み会と研修の予定がびっしり入っている。画面の上には、母からのメッセージが一つ。

「お盆、今年は帰れそう? 無理だったら無理しないでね」

 新卒で入った会社の一年目。毎日が仕事と初めての一人暮らしでいっぱいいっぱいで、心の余裕なんてほとんどなかった頃だ。

 画面の中の私の指が、スタンプ一覧を開き、「ごめん、忙しいから今年は無理かも」と文字を打っては消し、やっとのことで送信ボタンを押す。

 本当は、「行こうと思えば行けた」。

 繁忙期ではなかったし、有給だって取ろうと思えば取れた。片道三時間の距離は、決して不可能じゃなかった。でも、あのときの私は、自分の疲れと、気まずさと、「今さら帰っても子どもっぽい」と思われるのが怖くて、行かないほうを選んだ。

 画面がすっと切り替わる。今度は実家のキッチンだ。

 母がエプロン姿でスマホを見ている。画面には、さっき送った私のメッセージ。「忙しいから無理かも」の文字。母はそれを見て、小さく息を吐いた。

「そうよね、忙しいのよね。社会人一年目だものね」

 ひとりごとのように呟いて、スマホをテーブルの上に置く。その横には、お盆用に買い込んだ食材が並んでいる。とうもろこし、枝豆、春菜の好きだった唐揚げ用の鶏肉。

 母はしばらくそれをじっと見てから、くすりと笑った。

「まあ、せっかくだし、作っちゃおうか」

 誰に聞かせるでもなくそう言って、流しに向き直る。味噌汁の鍋に、水を注ぐ手つきが、いつもと同じように丁寧だ。まるで、「春菜が隣の部屋にいる」と仮定しているみたいに。

 味噌を溶かしながら、母がぽつりと言う。

「帰ってこなくてもいいけど……元気でいてくれたら、それでいいんだけどね」

 その横顔を見て、膝がガクンと抜けそうになった。

「……ごめん」

 息が詰まるくらい、小さな声でそう呟いた。

「本当は、仕事なんかよりずっと、ここに来たかったのに。忙しいからって、自分で自分をごまかしてただけなのに」

 怖かったのだ。顔を合わせたら、きっと泣いてしまうから。泣いたら、「まだ子どもみたいだ」と思われる気がして。それが嫌で、私は「忙しい」を口実に逃げた。

 母は、スマホの画面をもう一度見て、指でなぞるようにしてから、そっと伏せた。テーブルの上の空の椅子に、一瞬視線を置いて、それから何もなかったみたいに唐揚げの下味をつけ始める。

 黒猫が、シンクの下から姿を現した。母の足元をすり抜けて、流しの前に座る。その目が、どうしようもないくらい優しかった。

 場面が、そこでふっと途切れた。

     ◇

 気づけば、またホームのベンチに座っていた。

 二番ホーム。さっきと同じように、看板には駅名の代わりに「第二のホーム」とだけ書かれている。空気は少し冷たくなっていて、さっきまで見てきたキッチンの湯気の温かさだけが、まだ肌にまとわりついている気がした。

 膝の上には、やっぱり黒猫がいた。丸くなって、尻尾をゆっくり動かしている。私のジーンズに小さな毛がついて、くすぐったい。

「私、ずっと『大人になりたい』って言ってたくせにさ」

 声に出したら、思ったよりもあっさり言葉が出た。

「本当は、ただ母にがっかりされたくなかっただけなんだよね」

 黒猫が、少し顔を上げる。

「忙しいからって言い訳して、母が用意してくれてた“帰る場所”から逃げて。自立です、みたいな顔して」

 自分で言って、自分で苦笑する。笑った拍子に、目の奥の熱がじわりとこぼれそうになった。

「母は、ずっと分かってたのに」

 あの日のキッチンで、母がスマホの画面を見つめていた横顔。ハンバーグのタネを差し出して、断られても小皿にそっと置いた手。上京前夜、「帰ってきていい」と言った声。

「あの人、絶対、全部分かってたんだよ」

 私の強がりも、意地も、怖がりも。きっと気づいていた。それでも、「どうして帰ってこないの」と責める言葉は、一度も口にしなかった。

 責めていたのは、いつも私自身だった。

「……ちゃんと、ありがとうって言っておけばよかったな」

 小さい声でそう言った瞬間、目からぽたりと涙が落ちた。黒猫の背中に、丸い水滴がひとつ落ちる。黒猫はいやな顔ひとつせず、そのままじっとしていた。

 そのうち、ぺろりと舌を出して、自分の毛づくろいをする。その仕草が、なんだか「泣いてていいよ」と言ってくれているように見えて、余計に胸が詰まった。

「ごめんね」

 誰に向かっての「ごめん」なのか、自分でもよく分からない。

 母に対して。過去の自分に対して。今まで目をそらしてきた全部に対して。何度も心の中で言いかけて、そのたびに飲み込んできた言葉を、やっと口に出した。

 黒猫が、前足で私の手をちょんと触れた。柔らかい肉球の感触が、冷たくなりかけていた指先を温める。鈴が小さく鳴った。

 ホームの向こうで、時計がカチリと音を立てる。

 文字盤の針が、「23:59」から「0:00」へと変わった。さっきも見た、日付の境目。そして、現実と非日常の境目みたいな時間。

 遠くで、かすれたアナウンスの音が聞こえた。

「つぎは……びょう……しつ……」

 聞き取れたのか、聞き間違いなのか、自分でもよく分からない。でも、その一部だけが、妙にはっきり耳に残った。

「病室……?」

 その二文字を口にした瞬間、喉の奥がぎゅっと締めつけられた。心臓が、嫌な思い出を一気に押し上げてくる。

 母の最期を過ごした、あの白い部屋。消毒液の匂い。モニターの電子音。薄い布団。握りしめた手のぬくもり。全部、まだ鮮明に残っている。

 黒猫が、膝からするりと降りた。ホームの端に歩いていき、振り返る。その目が、どこかで「ここから先が一番つらい。でも、それを越えないと前に進めない」と言っているように見えた。

 私は深く息を吸った。胸の奥に溜まっていたものが、少しだけ動くのを感じる。

「……行く」

 自分の声が、少しだけ震えていた。

「ちゃんと、最後まで見る」

 吐き出した息と一緒に、その言葉も外に出た。

 ちょうどそのとき、レールの音が近づいてきた。レトロな車体が、またゆっくりホームに滑り込んでくる。ドアが開いて、オレンジ色の光がこぼれた。

 黒猫が先に乗り込む。駅長帽が、光を受けてきらりと光る。

 私は涙の跡を袖で拭いてから、立ち上がった。まだ足は少し震えている。でも、その震えごと抱きかかえるみたいにして、一歩踏み出す。

 列車の中には、私と猫のためだけに空いた席が、ちゃんと待っている気がした。