電車の中は、思っていたよりずっと暖かかった。

 さっきまでいたホームの冷たい空気が、ドアの向こう側にきれいに切り分けられているみたいで、足を一歩踏み入れた瞬間、体の周りの温度がふわりと変わった。

 座席は、よく映画で見る昔の夜行列車みたいな、深い緑色のモケット生地だ。新しい車両みたいなつるつるした冷たさはなくて、ちょっとだけ年季の入った、でもちゃんと手入れされている布の感じ。

 天井から下がるランプの明かりは白じゃなくて、少しだけオレンジがかった琥珀色。蛍光灯の、あの容赦ない感じの光とは違って、肌の粗さも心のざらつきも、ぜんぶふんわりぼかしてくれそうなやさしい色だ。

 なのに、乗客は私と、駅長帽の黒猫だけ。

「貸し切り、ってこと……?」

 ぽつりと口に出してから、自分でおかしくなった。知らない列車に乗り込んでおいて、真っ先に考えるのがそれってどうなんだろう。

 黒猫は私の足元にちょこんと座り、長い尻尾をゆっくり左右に揺らしている。さっきホームで見た時よりも、帽子が少しだけまっすぐになっている気がした。自分で直したのだろうか。そんなわけない、とすぐに心の中でツッコむ。

 ふと、車内が小さく震えた。揺れる、というより、深く息を吸い込んだみたいに、列車全体が「これから動きます」と告げる準備運動をしている感じ。

 その直後、スピーカーから、かすかな音が流れた。

「………き、……つぎは……」

 言葉の形をしているようで、していないような、不思議な響き。アナウンスにしてはやけに柔らかくて、風が通り抜ける音みたいでもある。

 耳を澄ませると、一瞬だけ、はっきりした日本語が混じった。

「次は、記憶の駅……第一のホームです」

「……記憶?」

 思わずつぶやくと、黒猫がちらりとこちらを見上げた。何かを説明するでもなく、ただ「そうだよ」とでも言いたげな目をする。

「いやいや、そんなファンタジーみたいな」

 言いかけて、飲み込んだ。

 終電を逃して、こんな時間に無人駅をさまよって、駅長帽の猫に導かれて、ダイヤにも載っていない列車に乗っている時点で、もう十分ファンタジーだった。ここまで来て、「記憶の駅なんてあるわけない」と否定するほうが無理がある。

 窓の外の景色が、ゆっくりと動き出した。さっきまでいた小さな駅のホームが遠ざかって、その先に広がる夜の住宅街が、ゆっくりと流れていく。

 ──と思ったのは最初だけで、すぐに景色は変な風になり始めた。

 街灯の光がにじんで、家の輪郭が水彩画みたいに溶けていく。車のライトも、ビルの窓も、きれいに四角く並んでいたはずなのに、いつの間にか柔らかい光の粒になって、ガラスの向こうでふわふわと漂っている。

 それは少しだけ、涙でぼやけた視界に似ていた。

 目をこすってみても、治らない。代わりに、耳の奥のほうで、列車の走行音とは別の音が混ざり始める。

 かすかな笑い声。遠くのチャイム。自転車のベル。昔、どこかで聞いたことがあるような。

 胸のあたりがざわざわと落ち着かなくなって、私は無意識に黒猫のほうを見た。黒猫は座席の間をすいと進み、ドアのそばで振り返る。

 まるで、「ほら、着くよ」と知らせているみたいに。

     ◇

 再びプシューッという音がして、ドアが開く。

 そこに広がっていたのは、見慣れているはずなのに、ずいぶん久しぶりな景色だった。

 小さな駅のホーム。古びた屋根。鉄骨の柱。ベンチには、細い足の小学生が二人並んで座っている。その足元で、小さなスニーカーのつま先が、そろってぶらぶら揺れている。

 ホームの向こう側には、低い建物が並ぶ商店街。角にはクリーム色の古い電柱。その足元には、昔よく遊んだガチャガチャの機械が二台。赤いのと青いのと。

「……ここ」

 喉が、ひゅっと音を立てた気がした。

「私の、地元の駅だ」

 言葉にした途端、空気の匂いまで変わる。線路の油の匂いと、一階が花屋になっているビルから漂ってくる、湿った土と草の匂い。放課後ここを通ったときにいつも嗅いでいた、あの匂い。

 黒猫は迷いなくホームに降りていき、くるりとこちらを振り返った。私は、半分怖くて半分懐かしくて、身体が勝手にあとを追っていた。

 足をホームに下ろした瞬間、何かが勝手に切り替わるような感覚があった。さっきまで乗っていた列車が、背後にあるかどうかを、私は確認しなかった。振り返るのが怖かったからだ。

 代わりに視線を前に向ける。ホームの真ん中あたりを、小さな女の子が走り抜けていく。

 肩につくくらいの長さの髪を、ぱつんとゴムで結んでいる。ランドセルは赤。足は細くて、半ズボンから伸びた膝に、青あざがひとつ。

「こら、春菜! 走っちゃダメって言ったでしょ!」

 その後ろから、少し息を切らしながら追いかけてくる、エプロン姿の女の人。

 知っている声。聞き慣れた口調。何度も何度も名前を呼ばれた響き。

 私は、足がすくんだみたいにその場に立ち尽くした。

「……お母さん」

 声に出すと、目の奥がじんわり熱くなる。白いカーディガンに、黄色い花柄のエプロン。髪を後ろでひとつ結びにして、頬にはうっすら笑いじわ。私の知っている母よりも少し若くて、元気で、よく笑っていた頃の顔だ。

 小さいほうの春菜は、私の前を通り過ぎていく。私の存在なんて見えていないみたいに。そうか、これは「記憶」なんだ。実体じゃない。ただの再現映像みたいなもの。でも、色も匂いも温度も、何もかもが本物と同じに感じられる。

「春菜、手、ちゃんと繋いで」

「えー、もう小学生だよ?」

「小学生でも、ママと手を繋いでくれていいの」

 母がそう言って、春菜の手をぎゅっと握る。嫌そうな顔をしながらも、私はちゃんと繋ぎ返している。今の私から見ると、笑ってしまうくらい甘えん坊な仕草で。

 黒猫が、私の足元にすり寄ってきた。小さな体がふわりと触れて、パーカーの裾が少しだけ揺れる。鈴がちりん、と鳴った。

「……これ、全部、覚えてる」

 思わずつぶやくと、黒猫は一度だけ瞬きをした。まるで、「そうだよ」と頷いているみたいに。

 駅の改札を抜けると、懐かしい匂いのする道が続いていた。角を曲がって少し歩くと、昔通っていた駄菓子屋がある。今はとっくに閉店してしまったはずなのに、ここではシャッターも閉まっていなくて、外のガラスケースにはカラフルなラムネや、くじ引き付きのチョコが並んでいた。

「ママ、あれ買って!」

「一個だけよ。晩ご飯食べられなくなるから」

「じゃあ、これとこれと……」

「一個だけって言ったでしょ?」

 母の声と、小さな私の声が重なる。そのやり取りのひとつひとつが、胸にじわじわ染み込んでくる。あの頃は当たり前すぎて、特別だなんて思わなかった風景や会話が、今は全部、宝物みたいに見える。

 私は二人に近づいて、そっと手を伸ばしてみた。小さい春菜の髪に触れてみようとしたけれど、指先はすっと空気をすり抜けるだけだ。母の肩にも触れてみたけれど、同じだった。

「触れないんだ……」

 当たり前だ。これは過去なんだから。変えられるわけがない。でも、変えられないと分かっているからこそ、余計に苦しい。あのとき手を離さなければよかった、とか、もっとわがままを聞いてあげればよかった、とか、あの頃の母に言ってあげたいことが、いまさらどんどん増えてくる。

 黒猫が私の足元に座り、駅長帽のつばを少しだけ傾けた。声は出さないけれど、その目は優しかった。

 やがて景色が、少しずつ夕焼け色に変わっていく。空が茜色に染まり、団地のベランダの影が長く伸びる。場面が、すっと切り替わったように感じた。

     ◇

 気づくと、私は団地の前に立っていた。

 グレーのコンクリートの建物。階段の踊り場に置かれた植木鉢。見慣れた番号のついたドア。中学生になったばかりの頃、何百回も出入りした場所。

 玄関のところで、中学生の私がスニーカーを脱いでいる。肩より少し伸びた髪を、ポニーテールにしていて、顔つきもさっきより少し大人だ。制服のスカートの丈を、校則ギリギリまで短くしているのも、記憶通り。

「おかえり、春菜。今日は早いのね」

 キッチンから、母の声がした。買い物袋をテーブルに置いて、エプロンの紐をキュッと結び直している。コンロの上では、ハンバーグの種らしきものがボウルに山盛りになっていた。

「今日は、春菜の好きなハンバーグにしたよ。いっぱい食べてね」

「……いらない」

 中学生の私が、そっけなく言った。靴をぱたんと脱ぎ捨てて、そのまま部屋に行こうとする。

「え?」

 母の手が、ほんの少しだけ止まる。その顔にはまだ笑顔がある。でも、その目の奥に、かすかな影が差したのを、今の私にははっきりと見て取れた。

「友達と食べてきたから。おなかいっぱい」

 あの日も、私は嘘をついた。本当はコンビニのおにぎりを一個食べただけで、お腹はぺこぺこだったのに。「友達と食べてきた」なんて、どこからどう見ても見栄だ。

「そう。じゃあ、残った分は明日のお弁当に入れようか」

「いらないってば」

 中学生の私が、面倒くさそうに眉をひそめる。ドアをバタンと閉める音が、やけに大きく響いた。

 その瞬間の母の顔を、私はあのとききちんと見ていなかった。自分のことで精一杯で、振り返りもしなかった。でも今の私は、その場に立っている第三者として、ちゃんと見てしまう。

 肩が少しだけ落ちて、笑顔の端がきゅっと引きつる。寂しさと、「それでもいいよ」と言おうとしている強がりが、同じ顔の中に同居している。

「……違うの」

 思わず、声が漏れた。

「あのとき、ほんとは食べたかったんだよ。おなかも空いてたし、ママのハンバーグ、ずっと好きだったし。なのに、なんで……」

 なんであんな言い方しかできなかったんだろう。なんで、素直に「食べる」って言えなかったんだろう。

 黒猫がそっと私の足に体をこすりつけた。鈴が小さく鳴る。うまく息が吸えないみたいに胸が苦しくなって、私は自分の胸元を握りしめた。

 場面はまた、静かに切り替わる。

     ◇

 次の瞬間、私は自分の部屋に立っていた。

 ポスターが貼られた壁。試験勉強のプリントが積み上がった机。床には、脱ぎっぱなしのカーディガン。どこから見ても、「よくいる中学生の部屋」だ。

 机の上に、小さな付箋が一枚、ぽつんと置かれている。

「明日お弁当いる?」

 丸い字でそう書かれていた。端っこには、ちょっと下手な猫のイラストが描かれている。母がたまにやる、おどけた落書きだ。

 中学生の私が、それを手に取る。眉間に皺を寄せて、ボールペンで一言だけ書き加える。

「いらない」

 それから、その付箋を机の端にぽいっと放り投げた。

 見ていた私は、思わず顔をしかめたくなった。あまりにも態度が悪すぎる。タイムマシンで乗り込めるなら、あの瞬間に戻って「ちょっとこっち来い」と説教したいくらいだ。

 でも、あの頃の私にとっては、これが精一杯の「大人ぶり」だったのだと思う。親に甘えたくない。子ども扱いされたくない。かといって、本当に一人で全部できるほど強くもない。その中途半端さを、こんな形でしか出せなかった。

 翌朝のキッチンの様子も、ちゃんと再現されていた。

 まだ外は薄暗い時間。母が眠そうな目をこすりながら、台所に立っている。フライパンの上で卵焼きがじゅうっと音を立てていた。黄色い玉子がくるりとひっくり返される。横には、揚げたての冷凍コロッケと、赤いミニトマト。

 テーブルの上には、猫の絵柄の小さなお弁当箱が開かれていて、その中におかずがきれいに並べられていく。

 昨日、「いらない」と書かれた付箋は、ゴミ箱の横に折りたたまれて置いてあった。捨てられてはいない。

「……作ったんだ」

 声に出すと、喉の奥が震えた。

 知っていた。実は、あの頃から知っていた。弁当箱を開けたとき、自分の好きなおかずばかり入っていたから。付箋には「いらない」と書いたくせに、本当はちゃんと期待していたから。それでも、口では素直に「ありがとう」が言えなかった。

 黒猫が、椅子の脚のあたりからひょいと顔を出した。母の足元をすり抜けるように歩き、私のところへやってくる。台所の匂いをまとった温かい空気が、一緒にふわっと漂ってきた。

「ずるいよ……」

 気づけば、目の端が熱くなっていた。涙腺にじわりと溜まった水が、こぼれないよう必死にこらえる。でも、胸の奥に溜め込んできたものが、一気にせり上がってくるのを止められない。

「全部、覚えてる。ちゃんと覚えてたのに。なんで、あのとき言えなかったんだろう。『ありがとう』とか、『ごめんね』とか」

 黒猫は何も言わない。ただ、前足をそっと私のスニーカーのつま先に乗せた。柔らかい肉球の感触が、現実よりもずっと鮮明に伝わってくる。鈴が、小さく一回だけ鳴った。

 その音が合図みたいに、世界がふっと揺らいだ。

     ◇

 目を開けると、私は再び駅のホームのベンチに座っていた。

 さっきの小さな地元の駅を少しだけ抽象化したみたいな、不思議なホーム。看板には駅名の代わりに、「第一のホーム」とだけ書かれている。

 膝の上には、いつの間にか黒猫が丸くなって乗っていた。小さな体は思ったより重くて、でもその重さが、今にも浮き上がってしまいそうな心を、ちゃんと地面につなぎとめてくれている。

 目尻から、一筋だけ涙が落ちて、手の甲を濡らした。

「なんで、今になって……」

 声が震える。黒猫の背中の毛に、ぽたりと涙が落ちた。黒猫はいやがる様子も見せず、むしろ喉の奥でごろごろと小さな音を鳴らした。

「わかってたのに。あの頃からずっと、わかってたのに。ママが優しいことも、私のために色々してくれてたことも、ぜんぶ」

 それを、わざと見ないふりをしてきたのは、私だ。

 自分が悪いと思いたくなくて。「反抗期だから仕方ない」と言い訳して。仕事が忙しくなってからは、「時間がないから」と言って。結局、素直になれなかった理由を、いつも外側に探してきた。

 でも今、目の前であれだけ鮮明に「過去」を見せつけられてしまうと、もうごまかせない。

「……最低だな、私」

 思わずそうこぼすと、黒猫が顔を上げた。黄色い目が、真正面から私を見つめる。責めるでも、同情するでもない。ただ、「聞いているよ」とだけ言ってくれているような目。

「ごめん」

 誰に向けてなのか、自分でもよく分からないまま、そう呟いた。

 母に対してかもしれないし、昔の自分に対してかもしれない。あるいは、今まで目をそらしてきた全部に対して。

 黒猫は、前足をそっと私の手の上に重ねた。小さな体温が、かすかに震えている手の甲を、じんわりと温めていく。鈴がもう一度だけ鳴って、その音が胸の奥の痛みをなぞる。

 そのとき、ホームの向こうから、列車のベルのような音が聞こえた。

 ゴトン、とレールの響きも混ざる。風がホームを通り抜けて、私の髪を揺らした。視線を向けると、さっき乗ってきたのと同じ、レトロな車体がゆっくりと近づいてくるのが見えた。

「……次、行かなきゃ、なんだよね」

 自分に言い聞かせるみたいに呟くと、黒猫は一度だけ瞬きをした。それから、私の膝の上からひょいと飛び降りて、ホームの端へと歩いていく。

 さっきよりも、背中が少し頼もしく見えた。駅長帽も、最初に見たときよりずっと似合っている気がする。

 私は涙を袖でごしごし拭って、立ち上がった。まだ胸の奥は痛いけれど、その痛みはさっきより少しだけ、形がはっきりしている気がした。ぼんやりした不安じゃなくて、「後悔」という名前を持った、ちゃんと向き合うべき感情。

「行こうか」

 黒猫のすぐ後ろに並んで、小さくそうつぶやくと、黒猫は尻尾をぴんと立てた。鈴が優しく鳴って、列車のドアが、またオレンジ色の光をこぼしながら開いていく。

 記憶の駅、第一のホーム。

 私と猫を乗せた列車は、まだ、夜の中を走り始めたばかりだった。