終電を逃したのは、わざとじゃない。
 でも、どこかで「まあ、いいか」と思っている自分がいる。

 そのことに気づいたのは、オフィスの時計が九時を指して、周りの人が次々と帰っていったあとだった。

「春菜ちゃん、これだけ、明日の午前中までに見といてくれる?」

 課長が書類の束をぽん、と私のデスクに置く。申し訳なさそうな顔と、仕事の重さは釣り合っていない。

「はい、大丈夫です」

 口が勝手にそう返事をしていた。本当は大丈夫じゃない。体力的にも、心のどこかも。

「お母さんのことも、色々大変だっただろ。無理すんなよ」

「本当に、もう落ち着きましたから」

 嘘ではない。葬式も、一周忌も済んだ。親戚もそれぞれの生活に戻って、家にはもう香典返しの残りもない。事務的なことは全部終わって、残っているのは、言えなかった言葉と、やり場のない空洞だけだ。

 空調の音とキーボードの打鍵だけが響くフロアで、私はモニターの光に照らされながら、エクセルのセルを埋めていく。数字は黙って並んでくれるから楽だ。感情みたいに、こぼれたりしない。

 ちょっとだけ目を休めようと、スマホの画面をのぞき込む。ロック画面の片隅には、消しきれずに残っているスクリーンショットのサムネイルが見えた。

 母からのLINE。

「ちゃんとごはん食べてる?」「たまには顔見せてよ」

 白い吹き出しの横に、「既読」の文字だけが冷たく並んでいる画面を、私は一度スクショして、それからトークごと消した。仕事が忙しいから、返信できなかった。ただそれだけのことだと、自分に言い聞かせながら。

 それなのに、今でもたまに夢に出てくる。あの通知音と、未返信のままの吹き出しが。

 スマホを伏せて、深く息を吸う。モニターの端の時計は二十一時半を過ぎていた。

「春菜、そろそろ終わりそう?」

 隣の島から、同僚の沙耶が顔を出した。小さな紙袋をぶら下げている。

「今片づけてるとこ。どうしたの?」

「今日、月末だしさ。みんなで軽く一杯行かない? 駅前の居酒屋、予約取れたんだよ」

 彼女の背後には、もう数人がコートを手に集まっている。みんな目の下にクマを作りながらも、どこか嬉しそうだ。残業続きの月の終わりに、やっと一息つけるから。

「……じゃあ、少しだけ」

 断る理由もない。家に帰ったところで、待っているのは静かな部屋と、使いかけのインスタント味噌汁くらいだ。

 私はPCをシャットダウンし、書類を片づけて立ち上がった。

     ◇

 駅前の居酒屋は、木目調のテーブルと提灯の灯りが妙に落ち着く、チェーン店らしい安心感に満ちていた。テーブルには唐揚げとポテトと、色とりどりのグラス。仕事の愚痴と笑い声が入り混じった空気の中で、私はウーロン茶の氷をストローでつつく。

「でさ、うちの部署の新卒くんがさー」

「推しのイベント当たったんですよ! 神じゃないですか?」

「来月、母親と温泉行くんだ。親孝行しとけって嫁に言われてさあ」

 隣の席から聞こえてきたその言葉に、胸のあたりが小さくきゅっと縮む。

 親孝行。そういえば、そんな言葉、もう自分には縁がないんだった。

「春菜は? 実家、もっと帰りなよ。お母さん、喜ぶって」

 一年前、沙耶にも同じことを言われた。あのとき、私は「今度ね」と笑ってごまかした。今度は結局来なかったのに。

 グラスの氷がカラン、と音を立てる。私の手の中で、冷たい輪郭が少しだけ震えた。

「大丈夫? 疲れてる?」

「ううん。ただ、ちょっと眠いだけ」

 そう言って笑ってみせると、沙耶は「あー分かる」と肩をすくめた。話題はすぐに推しのドラマの展開に移っていく。

 テーブルの真ん中で光っているのは、誰かのスマホの画面だ。カレンダーアプリが開いていて、「母 一周忌」と書かれた予定が、過去の日付のところに薄く残っているのがちらりと見えた。

 私のスマホにも、同じ文字がある。カレンダーを埋める予定は他にたくさん増えたのに、それだけは消せないでいる。

 忘れていない証拠みたいで、消すのがこわいから。

     ◇

「やば、もうこんな時間じゃん」

 終電の時刻が近づいて、飲み会は解散ムードになった。レジ前で割り勘の計算をして、外に出ると、夜風が思ったよりも冷たい。

「じゃ、お疲れ!」

「明日もよろしくねー!」

 みんながそれぞれの方向に散っていく中、私は駅のほうへ小走りした。ホームまでは階段を上がって一分もかからない。だから間に合うはずだった、のに。

 改札の上の電光掲示板には、「快速 ○○行き 終電」と表示が出ている。私はICカードをタッチして、駆け足で階段を駆け上がる。

 がらんとしたホームにたどり着いた瞬間、線路の向こう側で、最後尾の尾灯がじわりと遠ざかっていくのが見えた。

「え、ちょっと待って……!」

 口から漏れた声は、夜空に溶けていくだけだ。列車はお構いなしに速度を上げ、やがて見えなくなった。

 ホームの端に立ち尽くしたまま、私はポケットからスマホを取り出す。時刻は二十三時四十二分。次の電車の表示は、どこにもない。

「終電、これだったんだ……」

 ため息をつきながら、駅の案内板を見上げる。タクシー乗り場の案内はあるけれど、給料日前の財布の中身を思い出すと、簡単には手を挙げられない距離だ。

 家までは三駅分。歩けない距離ではないけれど、この街中からだと、夜道は車も多いし、信号も多い。ふと、頭に別の地図が浮かんだ。

 一駅分だけ、線路沿いを歩いた先にある、小さなローカル駅。

 大学生のころ、終電を逃した友達とそこで朝まで過ごしたことがある。自販機とベンチしかないような、誰も注目しない駅。でも、あそこならタクシー代も少しは安くなるかもしれないし、最悪、駅のベンチで始発を待ってもいい。

「……歩くか」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、私は改札を出た。

     ◇

 都会の明かりを背に、少し歩くだけで、空気の温度が変わっていく気がした。コンビニのネオンが少なくなり、代わりにシャッターを下ろしたままの小さな店が並ぶ道に変わる。

 街灯の下を通るたび、アスファルトの上に自分の影が伸びては縮んでいく。遠くで、踏切のカンカンという音がかすかに響いている。さっき乗り損ねた路線のどこかを、別の終電が走っているのだろう。

 息が白くなるほどではないけれど、頬に当たる風は冷たい。コートのポケットに手を突っ込むと、指先に硬い感触が触れた。

 母の家の鍵だ。使うことはもうないのに、なぜかキーホルダーから外せずにいる。小さな、鈴のチャームがついている。頃合いを間違えると、ふいにチリンと鳴って胸をざわつかせる。

 思い出したくない記憶は、こうやって日常のあちこちから顔を出す。私はそれを一つ一つ、足で蹴飛ばすみたいに忘れようとしてきた。でも、完全には消えてくれない。

 歩くこと十五分ほど。住宅街の隙間から、線路が顔を出した。その向こう側に、小さな駅舎の影が見える。

 駅名の看板は、少し色褪せている。自動改札なんてものはなくて、腰の高さほどのバーが一本だけぽつんと立っている。改札の上の丸い時計は、古い映画に出てきそうなデザインだ。

 二十三時五十八分。

 薄く黄ばんだ文字盤の針が、ゆっくりと十二の位置に近づいていく。秒針が「カチ、カチ」と規則正しい音を刻んでいるのが、妙にはっきりと聞こえた。

 改札をくぐってホームに出ると、自販機の青白い光だけが足元を照らした。ベンチは金属製で、座ると冷たさが体温を奪っていきそうだ。駅舎の向こうには、小さな駐輪場と、暗くなった道が続いているだけ。

「誰も、いないんだ……」

 ぽつりと呟いた声は、風に紛れて消えた。始発までここで時間をつぶすのは、正直気が重い。だけど、人の気配がないのは、少し気が楽でもあった。誰かに「大丈夫?」と心配されるのも、「もう平気でしょ」と軽く扱われるのも、今はどちらもしんどい。

 ホームをぶらぶらと歩いていると、視界の端で、小さな影が動いた。

「……猫?」

 ホームの端に、黒い塊がちょこんと座っている。近づいてみると、それが猫だと分かった。真っ黒な毛並みをしていて、駅の暗がりと溶け合うようにして座っている。

 そして、その頭には。

「……帽子?」

 小さな、けれどちゃんと形の整った駅長帽。金色のラインと、真ん中に丸いエンブレムまでついている。おもちゃみたいだけれど、不思議と違和感がない。黒猫はそれを当たり前のようにかぶったまま、黄色い目でじっと私を見上げていた。

「誰かの、いたずら?」

 思わず笑いそうになってから、胸の奥がふっとざわついた。

 母の実家で飼っていた三毛猫、「ミケ」のことを思い出したのだ。

『猫ってね、不思議と人の心が分かるのよ』

 台所で、母はよくそう言っていた。味噌汁の湯気の向こうで、ミケがテーブルの下をうろうろしていた。私がテストで悪い点を取って落ち込んでいるときも、失恋して部屋にこもっていたときも、ミケはふわっと膝に乗ってきた。

 その首には、小さな鈴がついていた。揺れるたびに、チリン、とかわいい音が鳴る。それが聞こえると、少しだけ気持ちが軽くなった。

 黒猫の首元にも、鈴があった。月明かりに照らされて、小さな銀色が光る。身体を少し動かした拍子に、チリン、と微かな音がした。

「……似てる」

 口の中でそう呟いて、すぐに打ち消す。

 似ているのは当たり前だ。鈴なんて、どこにでも売っている。猫も、町中にいくらでもいる。母の実家のミケは、もうとっくに歳を取ってこの世を去っている。そんなこと、分かっている。

 でも、黒猫の目は、不思議と私を責めないで見ていた。泣き顔も、見苦しいところも、全部知っているみたいな目だった。

「……そんな顔で見ないでよ」

 誰にともなく言うと、黒猫は小さく瞬きをした。それから、すっと立ち上がり、ホームの端のほうへ歩き出す。駅長帽が、耳のあたりでちょこんと揺れる。

「どこ行くの?」

 つい後を追ってしまう。黒猫は時々振り返って、ちゃんと私がついてきているか確かめるように目を向けた。その仕草が、どこか懐かしい。

 ホームの端に立つと、線路の向こうの闇が広がっているだけだった。けれど、その奥から、かすかな音が近づいてくる。

 ゴトン、ゴトン。

 電車の音。でも、さっき見た路線図には、もうこの時間に来る列車はなかったはずだ。

 ホームの上の電光掲示板を見上げると、いつの間にか、見慣れない表示が浮かんでいた。

「……〇時〇〇分発……?」

 数字のところが、にじむようにして読み取れない。目を凝らすと、「0:00」という文字が浮かんでは消え、代わりに「記憶」という漢字がちらりと現れた気がした。

「そんな行き先、あるわけ……」

 思わず笑いかけたそのとき、線路の向こうから、ヘッドライトの光が闇を切り裂いた。

 白くはなく、すこし黄色がかった柔らかい光。昔のドラマで見た夜行列車みたいな、丸いライト。車体の色も、最近の通勤電車のような無機質な銀色ではなく、深い緑とクリーム色が混ざったようなレトロな塗装だ。

 ゴトン、ゴトン、と音が大きくなるにつれ、ホームに風が吹き込んでくる。冷たい風のはずなのに、その中にほんのりと懐かしい匂いが混じっているような気がした。味噌汁の出汁と、柔軟剤と、猫の毛の匂い。そんなものが全部ごちゃまぜになった、家の匂い。

 黒猫の鈴が、チリン、と鳴る。

 列車が目の前で速度を落とし、ホームにすべり込んできた。その側面には、古いフォントで駅名のような文字が並んでいる。だけど、どれも読もうとすると、霧がかかったみたいにぼやけてしまう。

 電光掲示板に目を戻す。さっきまでぼやけていた文字が、今度ははっきりと見えた。

「0:00発 記憶行き」

「……なに、それ」

 思わず声が出る。こんなふざけた表示、酔っぱらいが見たら写真を撮ってSNSに上げそうだ。だけど、今このホームにいるのは、私と、駅長帽の黒猫だけ。

 プシューッ。

 レトロな柄のドアが、空気を吐き出すような音を立てて開いた。中からは、オレンジ色の柔らかな光が漏れてくる。冷えたホームとは対照的に、車内は暖かそうだ。

 黒猫が、当たり前のような顔でドアの前に立つ。それから、くるりとこちらを振り返った。

 黄色い瞳が、「どうする?」と問いかけている気がした。鳴き声は上げない。ただ、じっと見つめてくる。

「乗るわけないでしょ。こんなの、どう考えたっておかしいし……」

 口ではそう言いながら、足は一歩、前に出ていた。

 この列車に乗ったら、もう戻れないかもしれない。そんな予感が、体の奥底でひっそりと警報を鳴らしている。

 でも、じゃあ、今の私には戻る場所があるのか。

 いつもの満員電車で帰る部屋。コンロの上には、洗ってないフライパンが残っていて、冷蔵庫には賞味期限ギリギリのヨーグルト。テーブルの隅には、母からの喪中はがきの束がまだ片づけられずに置いてある。

 そこに戻るのが「現実」だと言うなら、少しくらい、現実から外れてもいいんじゃないかと思ってしまう。

 黒猫が一歩、列車の中に足を踏み入れる。駅長帽が、車内の光を受けてきらりと光る。その鈴が、もう一度だけ、チリンと鳴った。

 私は、ごくりと唾を飲み込む。冷たい空気と、車内から流れてくる暖かい空気が、ホームの境目で混ざり合っている。その境界線のすぐ手前で、靴の底がきゅっと鳴った。

「……少しだけなら、いいよね」

 自分でも驚くほど小さな声でそう呟いて、もう一歩を踏み出す。ドアの隙間をくぐった瞬間、背中にひんやりとした風が触れた。

 私は振り返らなかった。振り返ったら、きっと怖くなってしまうから。

 暖かな光の中へと足を進める。背後で、ドアがゆっくりと閉まる音がした。