カップの縁から、ふうっと湯気がのぼっていく。
 窓際の席から見えるのは、駅前のロータリーと、人の流れ。だけどノートパソコンの画面に映っているのは、古い商店街の地図だった。

「この通りの看板、もう少し明るい色にした方がいいかな」

 千尋は独り言をこぼしながら、ロゴの色味を少しだけ変えてみる。地元の、小さな文房具屋さんのサイトリニューアル。東京の会社にいた頃だったら、まず回ってこなかったような、だけど今の千尋には、いちばん心地いい仕事だった。

 メールの通知がひとつ来る。真帆の母からだった。

「体、こわしていませんか。あの日から、少し肩の力が抜けた顔になったように感じました。あの子はきっと、あなたに来てほしかったと思います。そして、あなたがあの日、列車に乗ってくれたことで、本当に喜んでいると、私は信じています」

 指でその一文をなぞると、胸の奥がじんと温かくなる。

 会社には、あの日カフェで送ったメッセージのあと、何度か話し合いを重ねた。結局、前みたいなフルタイム勤務ではなく、業務委託に近い形で関わることになった。東京の大きな案件を少しだけ請けながら、地元の仕事や、自分の時間もちゃんと残しておける働き方。

 あの夜行列車の中で、「もう無理」を未送信のまま飲み込んできた自分とは、少し違う。

「よし」

 区切りのいいところで保存ボタンを押し、いったんパソコンを閉じる。代わりに、カバンから一通の手紙を取り出した。何度も読み返して、もう端が少しくたびれてきている。

「無理はしなくていいけれど、自分の好きなものは忘れないでね。あの子が、あなたの描くものを見るたびにうれしそうにしていたこと、私はよく覚えています」

 真帆の母の字は、やっぱりやさしい。

 ふと顔を上げると、カフェの壁に貼られたポスターが目に入った。新しくできた猫カフェの広告だ。

「保護猫カフェ 月影
 駅から徒歩五分の路地裏で、ちいさな出会いを」

 月影。その名前に、自然と笑みがこぼれる。

「ほんと、どこにでもいるんだね、君たち」

 そうつぶやきながら、スマホを取り出した。待ち受けには、桐ノ沢の駅舎の屋根に乗った黒猫が、今も小さくこちらを振り返っている。

「今度、あの駅に行くときは」

 画面を親指でなぞりながら、千尋は心の中で続けた。

「また、あの子に会える気がするな」

 屋根の上かもしれないし、ホームの片隅かもしれない。もしかしたら、どこにもいなくて、代わりに真帆の笑い声みたいな風だけが通り過ぎていくのかもしれない。

 それでもいい。あの終点駅の朝と、膝の上のあたたかさと、「行ってくるね」と送れた言葉が、ちゃんと自分の中に残っているから。

 カップのコーヒーを飲み干し、千尋はもう一度パソコンを開いた。画面の向こうには、小さな商店街の看板やロゴたちが並んでいる。

 あの日乗った夜行列車は、もう走らない。けれど、これから続いていく日々のどこかで、また新しい「乗り場」を見つけていけばいい。

 窓の外で、午後の光が少し傾き始める。

 千尋は、待ち受けの中の黒猫に、心の中でそっと言った。

「じゃあ、またね。次は、ちゃんと『ただいま』も言いに行くから」