低く続いていたレールの振動が、ふっと抜ける。
ブレーキの感触と一緒に、車体がゆっくりと止まっていった。
「終点、空木。空木です」
車内アナウンスの声は、もう夜行列車のものというより、朝の始発列車のそれに近かった。
カーテンを開けると、窓の向こうはすっかり朝だった。山の稜線の向こうから太陽が顔を出し、ホームの屋根の影が長く伸びている。空は薄い水色で、ところどころに小さな雲が浮かんでいた。
千尋はひとつ深呼吸をしてから、コートの前を留めた。膝の上には、さっきまでの重みがもうない。
「……行っちゃったね」
空になった座席を撫でるように見下ろす。いつの間にか、黒猫はどこかへ移動していた。
ホームに降りると、冷たい朝の空気が頬に当たった。夜のあいだにたまった眠気が、すっと引いていく。
終点の駅は、思った以上に小さかった。ホームは一面だけで、向かいには山の斜面が迫っている。駅舎は木造で、瓦屋根の上には、まだうっすらと夜露が残っていた。
夜行急行 月影ライン。本日の最終運行。
ホームの端に立つと、車体の横に小さな看板が出ていて、その文字が朝日に照らされている。「ありがとう 月影」と手書きで書かれた紙も、誰かが貼っていた。
千尋の胸の中にも、似た気持ちが浮かんだ。
「こちらこそ、ありがとう」
小さくつぶやいてから、改札の方へ歩き出す。駅舎の外に出れば、真帆の実家のある町へ向かう路線バスの停留所があるはずだ。
駅舎の扉をくぐる前に、ふと、何かに視線を引かれた。
さっきまでいた列車の車体の影。その下の暗がりから、黒い影がするりと動いた。
「……いた」
黒猫が、ひょいっと顔を出していた。ホームと線路の境目あたりから、こちらを見上げている。
「おはよう」
千尋が近づくと、猫は小さく「にゃ」と鳴いた。夜通し一緒に旅をしてきたのに、改めて見ると、どこかよそよそしい顔つきにも見える。
二人きりで過ごした時間は、もう列車と一緒に過去に置いてきたのかもしれない。
「一緒に、来る?」
千尋はしゃがみ込み、手を差し出した。東京から抱えてきたトートバッグも、腕にかけたままだ。
「真帆のお母さんのところ、一緒に行く?」
猫は一歩だけ前に出てきて、その指先の匂いをくんくんと嗅いだ。昨日の夜、何度も頬をすり寄せてくれた鼻先。その温度は変わらない。
けれど次の瞬間、猫は千尋の手から視線を外し、すっと別の方向を向いた。
「にゃあ」
短く鳴いただけで、するすると駅舎の方へ駆けていく。軽い足音が、コンクリートを叩く。
「おいで」と声をかける間もなく、猫は駅舎の壁を足場にして、屋根へと登っていった。瓦の上を器用に歩いて、てっぺん近くで立ち止まる。
朝日に照らされた黒いシルエットが、青い空をバックにくっきりと浮かび上がった。
千尋は、その姿を見上げる。
帰る場所がわかってる顔。
途中駅で会った大学生の言葉が、ふっと頭の中に浮かんだ。
「そっか。ここが、君の帰りたかった場所なんだね」
真帆が好きだった夜行列車。その終点の町。その駅舎の屋根。
きっと、この猫は、ここに帰ってきたかったのだ。
一緒に来てほしい気持ちもあった。これから先の心細さを紛らわせるために、小さなぬくもりを連れていたかった。
でも、それは猫のためではなく、自分のためだ。
「……また、来るね」
千尋は、屋根の上の黒い影に向かって手を振った。
「そのとき、もしまだそこにいたら、そのときは、もう一回撫でさせて」
猫は答える代わりに、尻尾を一度だけふるりと揺らした。それから、屋根の向こう側へ軽やかに消えていった。
あっけないほど、あっさりと。
それでも、胸の中に残ったのは、寂しさだけではなかった。
どこか、すっきりとした感覚。
依存ではなく、別々の場所から同じ空を見上げるような距離感。
駅前のロータリーに、小さなバス停があった。真帆の家のある町行きの時刻表を確認すると、「七時五十分発」と書かれている。今はまだ、出発まで少し時間があった。
千尋はベンチに腰を下ろし、スマホを取り出した。画面には、さっき切ったままの真帆の母との通話履歴が残っている。
バスの中で、もう一度連絡を入れよう。そう思いながら、一度ホームを振り返る。駅舎の屋根には、もう黒い影は見えなかった。
*
バスの中から見る山道は、昔とあまり変わっていなかった。
カーブの多い細い道。ガードレールの向こうに続く川。ところどころに現れる田んぼと、小さな商店。
高校の頃、真帆の家に遊びに来るたび、千尋は少し酔いそうになりながらこの道を通った。窓の外を見ないように、二人でしりとりをしたり、お互いの将来の話をしたりした。
『千尋はどんな大人になりたい』
『かっこよく働いてるけど、ちゃんと休むときは休める人』
真帆の家は、バス停から少し歩いた小高い場所にあった。白い外壁と、庭の柿の木。玄関の前には、真帆が小さい頃から乗っていたらしい、さびかけた自転車がまだ立てかけられている。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「ようこそ」
出迎えてくれた真帆の母は、桐ノ沢のホームで出会ったときと同じ笑顔だった。玄関には、黒猫の小さな置物がいくつも並んでいる。
居間に通されると、仏壇の前に真帆の写真があった。高校の卒業式のときの写真だ。袴姿で、片手に卒業証書を持ち、もう片方の手でピースをしている。
「この写真、覚えてます」
千尋は思わず笑った。写真の端っこには、自分の袖だけ少し写り込んでいる。
「千尋が、『そんな撮り方したら証書で顔隠れるってば』って言ってたのよね」
母も懐かしそうに笑う。
お茶と、一緒に出されたのは、真帆がよく作ってくれたという手作りクッキーだった。形は少し不揃いで、ところどころ焼き色が濃い。
「上手じゃないけど、あの子の味に似せてみたの」
「すごく、真帆っぽいです」
ひと口かじると、バターの香りと、少し控えめな甘さが口に広がった。高校のとき、テスト勉強の差し入れでもらったクッキーの味が、舌の上でよみがえる。
真帆の部屋も、少しだけ見せてもらった。壁には、学生時代の写真や、好きなバンドのポスター。そして、パソコンの横には、小さなデザインの本が積み重なっている。
「千尋の影響ね。ウェブのこと、いろいろ聞いてたのよ」
母の言葉に、千尋の胸がじんとした。
「そんなこと、全然言ってくれなかったのに」
「照れてたんじゃないかしら。『どうせ本業の人から見たら』なんて言いつつ、こっそり勉強してたみたい」
知らなかった真帆の一面が、いくつも出てくる。そのたびに、千尋は笑ったり、少し涙ぐんだりしながら、ゆっくりと話を聞いた。
仏壇の前では、あの無人駅で渡した手紙が、きちんと折りたたまれて置かれていた。横には、猫の肉球跡がついた紙がそっと挟まれている。
ごめん、とありがとうと、またね。
自分の字を見て、不思議と胸が落ち着いた。
ちゃんと、ここに届いている。
*
東京に戻るころには、夕方のラッシュが始まりかけていた。行きと違って、今度は新幹線と在来線を乗り継いで帰る。
人の多いホームに降り立つと、あの夜行列車の静けさが少し恋しくなった。
それでも、もうあの列車は走らない。本日の最終運行。本当に、一度きりの旅だった。
千尋は、自分のアパートに戻る前に、ふと足を止めた。
駅ビルの中にある、小さなカフェ。窓際の席は、夜になるとオフィスの明かりがよく見える場所だ。以前は、ここで深夜まで作業をすることも多かった。
今日は、違う理由で座りたかった。
カフェラテを頼み、窓際の席に座る。カップから立ちのぼる湯気の向こうに、スマホの画面が映る。
千尋は、会社のグループラインではなく、上司の個人チャットを開いた。
「おつかれさまです。神崎です」
いつもと同じ書き出し。でも、そのあと続く言葉は、いつもと違う。
「すみませんが、復職の前に、一度お話の時間をいただけませんか。今までの働き方について、見直しの相談をしたいです」
送信ボタンに指を置き、ほんの少しだけ迷う。
前の自分なら、「迷う」のあとに「やっぱりやめておこう」がついてきた。未送信フォルダの中身が、その証拠だ。
でも、今度は違う。
千尋は、深く息を吸ってから、送信ボタンを押した。
メッセージの下に、「送信しました」と表示される。さっきまで夜行列車の窓の外で通り過ぎていった駅と違って、今回はちゃんと「着いた」のが分かる。
返事はすぐには来ない。それでもいい。今の自分にできる一歩は、ここまでだ。
ホッとしたような、少しこそばゆいような気持ちで、千尋は次にラインの別の画面を開いた。
真帆とのトークルーム。上部にある「下書き」のタブをタップする。
未送信フォルダの一覧が表示された。タイトルの並んだ画面の一番下に、あの空白のままだった下書きがある。
「最後のメール……」
タップして開く。あの日、何も書けずに閉じたはずの画面。
そこには、一行だけ文字が増えていた。
「行ってくるね」
短いひらがなの列。自分の癖そのままの字で、それだけがぽつんと打たれている。
「え……」
千尋は、思わず声を漏らした。
もしかしたら、自分で打っていたのかもしれない。あの夜、仕事帰りに、酔った勢いで。あるいは、列車の中で眠気と疲れの中、無意識に。
理由はいくらでもつけられる。
それでも、「行ってくるね」という言葉の響きは、不思議と、今日一日の流れとぴたりと重なっていた。
真帆のところへ。真帆のお母さんのところへ。そして、自分の、これからの生き方の方へ。
「……ただいま、も、ちゃんといつか打たなきゃね」
小さくつぶやいて、千尋は画面を閉じた。
カフェラテは、ちょうど飲み頃の温度になっていた。ひと口すすると、ミルクの甘さと、コーヒーのほろ苦さが広がる。
窓の外には、仕事帰りの人たちが、急ぎ足で歩いている。かつての自分も、その中の一人だった。
これからも、仕事を嫌いになるわけではないだろう。作ることは好きだし、誰かの役に立てるなら、それはやっぱり嬉しい。
でも、「仕事のために全部を削る」のではなく、「自分と、誰かとの時間を守るために仕事の形を変える」方を選んでもいいはずだ。
真帆なら、きっとそう言うだろう。
そう思うと、胸の奥に、少しだけあたたかい場所ができた。
*
家に帰ると、玄関には郵便物がいくつか届いていた。通販の荷物と、クレジットカードの明細。そして、地元からの封筒。
差出人の名前を見て、千尋は自然と笑みを浮かべる。
真帆の母からだった。
封を開けると、小さな便箋が入っている。
「今日は、来てくれてありがとう。千尋ちゃんの手紙、あの子の写真の横に置きました。きっと、あの子も喜んでいると思います」
「それから、あの黒猫の子。あの子、昔から、駅の方ばかり見ていたのよ。やっと好きな列車に乗れて、好きな場所に帰れたんだと思います」
「無理はしすぎないでね。また、いつでも遊びに来てください」
さらりとした字なのに、一行一行が優しかった。
便箋の間から、小さな写真が一枚滑り落ちる。桐ノ沢の駅舎の屋根に乗った黒猫の写真だ。朝日の中、こちらを振り返っているような角度で写っている。
「いつの間に撮ってたんだろ」
千尋は笑って、その写真を拾い上げた。スマホを手に取り、写真のデータを取り込む。
ホーム画面の設定を開き、待ち受けを変更する。
駅舎の屋根の上、小さく写る黒猫。その向こうに広がる空。
「よし」
画面いっぱいに、あの朝の光景が広がる。
ベッドに腰を下ろし、スマホを胸の上に置く。天井を見上げながら、千尋はゆっくりと目を閉じた。
これからも、きっと迷うことはあるだろう。仕事で行き詰まったり、人間関係でつまずいたり、また未送信の言葉を抱えそうになる日もあるかもしれない。
そのたびに、この待ち受けを見ようと思う。
屋根の上の小さな黒猫と、遠くまで続く空を。
「行ってくるね」
小さくつぶやく。今度は、ちゃんと自分の声で。
真帆にも。あの黒猫にも。そして、これから出会う、自分自身にも。
窓の外では、都会の夜が始まろうとしていた。けれど千尋の胸の中には、あの終点駅の朝が、柔らかく灯ったまま残っていた。
ブレーキの感触と一緒に、車体がゆっくりと止まっていった。
「終点、空木。空木です」
車内アナウンスの声は、もう夜行列車のものというより、朝の始発列車のそれに近かった。
カーテンを開けると、窓の向こうはすっかり朝だった。山の稜線の向こうから太陽が顔を出し、ホームの屋根の影が長く伸びている。空は薄い水色で、ところどころに小さな雲が浮かんでいた。
千尋はひとつ深呼吸をしてから、コートの前を留めた。膝の上には、さっきまでの重みがもうない。
「……行っちゃったね」
空になった座席を撫でるように見下ろす。いつの間にか、黒猫はどこかへ移動していた。
ホームに降りると、冷たい朝の空気が頬に当たった。夜のあいだにたまった眠気が、すっと引いていく。
終点の駅は、思った以上に小さかった。ホームは一面だけで、向かいには山の斜面が迫っている。駅舎は木造で、瓦屋根の上には、まだうっすらと夜露が残っていた。
夜行急行 月影ライン。本日の最終運行。
ホームの端に立つと、車体の横に小さな看板が出ていて、その文字が朝日に照らされている。「ありがとう 月影」と手書きで書かれた紙も、誰かが貼っていた。
千尋の胸の中にも、似た気持ちが浮かんだ。
「こちらこそ、ありがとう」
小さくつぶやいてから、改札の方へ歩き出す。駅舎の外に出れば、真帆の実家のある町へ向かう路線バスの停留所があるはずだ。
駅舎の扉をくぐる前に、ふと、何かに視線を引かれた。
さっきまでいた列車の車体の影。その下の暗がりから、黒い影がするりと動いた。
「……いた」
黒猫が、ひょいっと顔を出していた。ホームと線路の境目あたりから、こちらを見上げている。
「おはよう」
千尋が近づくと、猫は小さく「にゃ」と鳴いた。夜通し一緒に旅をしてきたのに、改めて見ると、どこかよそよそしい顔つきにも見える。
二人きりで過ごした時間は、もう列車と一緒に過去に置いてきたのかもしれない。
「一緒に、来る?」
千尋はしゃがみ込み、手を差し出した。東京から抱えてきたトートバッグも、腕にかけたままだ。
「真帆のお母さんのところ、一緒に行く?」
猫は一歩だけ前に出てきて、その指先の匂いをくんくんと嗅いだ。昨日の夜、何度も頬をすり寄せてくれた鼻先。その温度は変わらない。
けれど次の瞬間、猫は千尋の手から視線を外し、すっと別の方向を向いた。
「にゃあ」
短く鳴いただけで、するすると駅舎の方へ駆けていく。軽い足音が、コンクリートを叩く。
「おいで」と声をかける間もなく、猫は駅舎の壁を足場にして、屋根へと登っていった。瓦の上を器用に歩いて、てっぺん近くで立ち止まる。
朝日に照らされた黒いシルエットが、青い空をバックにくっきりと浮かび上がった。
千尋は、その姿を見上げる。
帰る場所がわかってる顔。
途中駅で会った大学生の言葉が、ふっと頭の中に浮かんだ。
「そっか。ここが、君の帰りたかった場所なんだね」
真帆が好きだった夜行列車。その終点の町。その駅舎の屋根。
きっと、この猫は、ここに帰ってきたかったのだ。
一緒に来てほしい気持ちもあった。これから先の心細さを紛らわせるために、小さなぬくもりを連れていたかった。
でも、それは猫のためではなく、自分のためだ。
「……また、来るね」
千尋は、屋根の上の黒い影に向かって手を振った。
「そのとき、もしまだそこにいたら、そのときは、もう一回撫でさせて」
猫は答える代わりに、尻尾を一度だけふるりと揺らした。それから、屋根の向こう側へ軽やかに消えていった。
あっけないほど、あっさりと。
それでも、胸の中に残ったのは、寂しさだけではなかった。
どこか、すっきりとした感覚。
依存ではなく、別々の場所から同じ空を見上げるような距離感。
駅前のロータリーに、小さなバス停があった。真帆の家のある町行きの時刻表を確認すると、「七時五十分発」と書かれている。今はまだ、出発まで少し時間があった。
千尋はベンチに腰を下ろし、スマホを取り出した。画面には、さっき切ったままの真帆の母との通話履歴が残っている。
バスの中で、もう一度連絡を入れよう。そう思いながら、一度ホームを振り返る。駅舎の屋根には、もう黒い影は見えなかった。
*
バスの中から見る山道は、昔とあまり変わっていなかった。
カーブの多い細い道。ガードレールの向こうに続く川。ところどころに現れる田んぼと、小さな商店。
高校の頃、真帆の家に遊びに来るたび、千尋は少し酔いそうになりながらこの道を通った。窓の外を見ないように、二人でしりとりをしたり、お互いの将来の話をしたりした。
『千尋はどんな大人になりたい』
『かっこよく働いてるけど、ちゃんと休むときは休める人』
真帆の家は、バス停から少し歩いた小高い場所にあった。白い外壁と、庭の柿の木。玄関の前には、真帆が小さい頃から乗っていたらしい、さびかけた自転車がまだ立てかけられている。
インターホンを押すと、すぐに扉が開いた。
「ようこそ」
出迎えてくれた真帆の母は、桐ノ沢のホームで出会ったときと同じ笑顔だった。玄関には、黒猫の小さな置物がいくつも並んでいる。
居間に通されると、仏壇の前に真帆の写真があった。高校の卒業式のときの写真だ。袴姿で、片手に卒業証書を持ち、もう片方の手でピースをしている。
「この写真、覚えてます」
千尋は思わず笑った。写真の端っこには、自分の袖だけ少し写り込んでいる。
「千尋が、『そんな撮り方したら証書で顔隠れるってば』って言ってたのよね」
母も懐かしそうに笑う。
お茶と、一緒に出されたのは、真帆がよく作ってくれたという手作りクッキーだった。形は少し不揃いで、ところどころ焼き色が濃い。
「上手じゃないけど、あの子の味に似せてみたの」
「すごく、真帆っぽいです」
ひと口かじると、バターの香りと、少し控えめな甘さが口に広がった。高校のとき、テスト勉強の差し入れでもらったクッキーの味が、舌の上でよみがえる。
真帆の部屋も、少しだけ見せてもらった。壁には、学生時代の写真や、好きなバンドのポスター。そして、パソコンの横には、小さなデザインの本が積み重なっている。
「千尋の影響ね。ウェブのこと、いろいろ聞いてたのよ」
母の言葉に、千尋の胸がじんとした。
「そんなこと、全然言ってくれなかったのに」
「照れてたんじゃないかしら。『どうせ本業の人から見たら』なんて言いつつ、こっそり勉強してたみたい」
知らなかった真帆の一面が、いくつも出てくる。そのたびに、千尋は笑ったり、少し涙ぐんだりしながら、ゆっくりと話を聞いた。
仏壇の前では、あの無人駅で渡した手紙が、きちんと折りたたまれて置かれていた。横には、猫の肉球跡がついた紙がそっと挟まれている。
ごめん、とありがとうと、またね。
自分の字を見て、不思議と胸が落ち着いた。
ちゃんと、ここに届いている。
*
東京に戻るころには、夕方のラッシュが始まりかけていた。行きと違って、今度は新幹線と在来線を乗り継いで帰る。
人の多いホームに降り立つと、あの夜行列車の静けさが少し恋しくなった。
それでも、もうあの列車は走らない。本日の最終運行。本当に、一度きりの旅だった。
千尋は、自分のアパートに戻る前に、ふと足を止めた。
駅ビルの中にある、小さなカフェ。窓際の席は、夜になるとオフィスの明かりがよく見える場所だ。以前は、ここで深夜まで作業をすることも多かった。
今日は、違う理由で座りたかった。
カフェラテを頼み、窓際の席に座る。カップから立ちのぼる湯気の向こうに、スマホの画面が映る。
千尋は、会社のグループラインではなく、上司の個人チャットを開いた。
「おつかれさまです。神崎です」
いつもと同じ書き出し。でも、そのあと続く言葉は、いつもと違う。
「すみませんが、復職の前に、一度お話の時間をいただけませんか。今までの働き方について、見直しの相談をしたいです」
送信ボタンに指を置き、ほんの少しだけ迷う。
前の自分なら、「迷う」のあとに「やっぱりやめておこう」がついてきた。未送信フォルダの中身が、その証拠だ。
でも、今度は違う。
千尋は、深く息を吸ってから、送信ボタンを押した。
メッセージの下に、「送信しました」と表示される。さっきまで夜行列車の窓の外で通り過ぎていった駅と違って、今回はちゃんと「着いた」のが分かる。
返事はすぐには来ない。それでもいい。今の自分にできる一歩は、ここまでだ。
ホッとしたような、少しこそばゆいような気持ちで、千尋は次にラインの別の画面を開いた。
真帆とのトークルーム。上部にある「下書き」のタブをタップする。
未送信フォルダの一覧が表示された。タイトルの並んだ画面の一番下に、あの空白のままだった下書きがある。
「最後のメール……」
タップして開く。あの日、何も書けずに閉じたはずの画面。
そこには、一行だけ文字が増えていた。
「行ってくるね」
短いひらがなの列。自分の癖そのままの字で、それだけがぽつんと打たれている。
「え……」
千尋は、思わず声を漏らした。
もしかしたら、自分で打っていたのかもしれない。あの夜、仕事帰りに、酔った勢いで。あるいは、列車の中で眠気と疲れの中、無意識に。
理由はいくらでもつけられる。
それでも、「行ってくるね」という言葉の響きは、不思議と、今日一日の流れとぴたりと重なっていた。
真帆のところへ。真帆のお母さんのところへ。そして、自分の、これからの生き方の方へ。
「……ただいま、も、ちゃんといつか打たなきゃね」
小さくつぶやいて、千尋は画面を閉じた。
カフェラテは、ちょうど飲み頃の温度になっていた。ひと口すすると、ミルクの甘さと、コーヒーのほろ苦さが広がる。
窓の外には、仕事帰りの人たちが、急ぎ足で歩いている。かつての自分も、その中の一人だった。
これからも、仕事を嫌いになるわけではないだろう。作ることは好きだし、誰かの役に立てるなら、それはやっぱり嬉しい。
でも、「仕事のために全部を削る」のではなく、「自分と、誰かとの時間を守るために仕事の形を変える」方を選んでもいいはずだ。
真帆なら、きっとそう言うだろう。
そう思うと、胸の奥に、少しだけあたたかい場所ができた。
*
家に帰ると、玄関には郵便物がいくつか届いていた。通販の荷物と、クレジットカードの明細。そして、地元からの封筒。
差出人の名前を見て、千尋は自然と笑みを浮かべる。
真帆の母からだった。
封を開けると、小さな便箋が入っている。
「今日は、来てくれてありがとう。千尋ちゃんの手紙、あの子の写真の横に置きました。きっと、あの子も喜んでいると思います」
「それから、あの黒猫の子。あの子、昔から、駅の方ばかり見ていたのよ。やっと好きな列車に乗れて、好きな場所に帰れたんだと思います」
「無理はしすぎないでね。また、いつでも遊びに来てください」
さらりとした字なのに、一行一行が優しかった。
便箋の間から、小さな写真が一枚滑り落ちる。桐ノ沢の駅舎の屋根に乗った黒猫の写真だ。朝日の中、こちらを振り返っているような角度で写っている。
「いつの間に撮ってたんだろ」
千尋は笑って、その写真を拾い上げた。スマホを手に取り、写真のデータを取り込む。
ホーム画面の設定を開き、待ち受けを変更する。
駅舎の屋根の上、小さく写る黒猫。その向こうに広がる空。
「よし」
画面いっぱいに、あの朝の光景が広がる。
ベッドに腰を下ろし、スマホを胸の上に置く。天井を見上げながら、千尋はゆっくりと目を閉じた。
これからも、きっと迷うことはあるだろう。仕事で行き詰まったり、人間関係でつまずいたり、また未送信の言葉を抱えそうになる日もあるかもしれない。
そのたびに、この待ち受けを見ようと思う。
屋根の上の小さな黒猫と、遠くまで続く空を。
「行ってくるね」
小さくつぶやく。今度は、ちゃんと自分の声で。
真帆にも。あの黒猫にも。そして、これから出会う、自分自身にも。
窓の外では、都会の夜が始まろうとしていた。けれど千尋の胸の中には、あの終点駅の朝が、柔らかく灯ったまま残っていた。



