列車が大きく揺れたあと、ふっと速度を落とし始めた。
 窓の外の闇の中に、小さなホームの明かりがにじんでいく。

「ただいま、空木駅ひとつ手前の、桐ノ沢に到着します。この駅では、しばらく停車いたします」

 車内アナウンスの声が、いつもよりゆっくりと聞こえた。

 桐ノ沢。聞いたことのない駅名だった。終点のひとつ手前。小さな、無人駅。

 カーテンを少しだけ開けると、ホームの柱に掛かった看板が見えた。白地に、黒い文字で「桐ノ沢」と書かれている。その上の空は、真っ黒ではなく、かすかに青みを帯びていた。

 夜明け前の、いちばん静かな時間。

「ちょっと、降りてみようか」

 千尋が膝の上で丸くなっていた黒猫に声をかけると、猫はぱちりと目を開けた。揺れが止まったのを感じたのか、マフラーの隙間から頭を押し出してくる。

「にゃ」

「冷たいけど、すぐ戻るから」

 コートの前を留め、猫をそっと抱き上げて胸元に押し当てる。小さな体温が、薄いシャツ越しに胸のところへしみこんできた。

 ドアが開く音がして、冷たい空気が車内に流れ込む。他の乗客はほとんど動かず、数人が毛布にくるまったまま身じろぎをしただけだった。

 千尋は、猫を抱いたまま、ゆっくりとホームへ降りた。

 ホームは思っていたより狭くて、ベンチが二つと、小さな木造の待合室があるだけだった。改札も、駅員の姿も見えない。ホームの端の方には、使われなくなった線路が草に埋もれている。

 吐く息が白い。足元のコンクリートから、朝の冷たさがじんわりと伝わってきた。

 誰もいないと思っていたホームの真ん中に、ひとりだけ人影があった。

 ベンチに腰かけ、両手を膝の上で組んでいる中年の女性。薄いベージュのコートを着て、足元には小さなバッグと紙袋が置かれている。肩までの長さの髪を、後ろで軽くまとめていた。

 横顔を見た瞬間、千尋の胸がきゅっとなった。

 目尻の形、鼻筋、頬のライン。大人になった真帆の、こんな姿を見ただろうと思わせる、どこか似た輪郭。

 女性もこちらに気づいたのか、視線を上げた。千尋と目が合う。

「あら」

 淡い驚きが、その目に浮かんだ。

「こんな時間に、降りる人がいるなんて珍しいわね」

「あ、すみません。ちょっと、外の空気が吸いたくなって」

 千尋は慌てて頭を下げた。胸元の猫が、その拍子に軽く鳴く。

「まあ、猫ちゃん」

 女性の視線が、千尋の腕の中へ落ちる。薄青い照明の下で、黒い毛並みが柔らかく光っていた。

「寒くないのかしら」

「少しだけ、ですけど。すぐ戻るので」

 千尋はベンチから少し離れた場所に立とうとした。けれど、ホームの長さはあまりなく、自然と女性との距離は近くなる。

「よかったら、そこに座ったらどう。冷えるわよ」

 女性が、自分の隣のスペースをぽんと叩いた。

 遠慮する間もなく、「ありがとうございます」と口が動いていた。千尋はベンチの端に腰を下ろす。猫は胸元からするりと抜け出して、千尋の膝の上に落ち着いた。

 その様子を見て、女性が少し目を細める。

「黒猫さん、ね」

「はい。さっき、この列車に乗る前に、ホームで拾って……」

 言いながら、第一章の夜のホームが頭に浮かぶ。段ボール箱と、「だれかお願いします」の紙切れ。

 女性は、膝の上で組んでいた両手をゆっくりほどいた。

「この子ね、うちから送り出したの」

「え」

 千尋は、思わず顔を向けた。

「桐ノ沢から少し離れたところに住んでるの。今朝、この子を抱えて、夜明け前のバスに乗って。どうしても、この列車に乗せたくてね」

 女性の視線が、猫の背中を撫でるように動く。その手つきには、明らかに見覚えがあった。真帆が昔、黒猫を抱いていたときの、あの優しい撫で方に似ていた。

「どうして、ですか」

 千尋が問うと、女性は少しだけ空を見上げた。ホームの上の空は、じわじわと色を変え始めている。

「あの子が、好きだったからよ。この夜行列車が」

 あの子。その言い方に、心臓が強く打った。

「夜行急行、月影ライン。珍しい列車だからって、ホームまで見に来たことがあってね。『いつかこれに乗って、遠くまで行ってみたいな』って」

 ああ、と千尋は小さく息を漏らした。

 真帆だ。真帆の声が、重なる。

『千尋、夜行列車ってロマンじゃない? いつかさ、これ乗ってどこまでも行きたいよね』

 高校のとき、そんなふうに笑っていた顔を思い出す。深夜のテレビで、地方の夜行列車のドキュメントを見ながら、二人で盛り上がったことがある。

「あなた、名前は」

 女性がこちらに向き直る。声はやわらかいけれど、その目は何かを確かめるようにまっすぐだった。

「神崎千尋といいます」

 名乗ると、女性の表情がほんの一瞬だけ揺れた。驚きと、納得と、懐かしさが混ざったような揺れ方だった。

「やっぱり」

 小さくつぶやいて、女性は微笑んだ。

「はじめまして。真帆の母です」

 その一言で、世界が音を立てて動いた気がした。

 真帆の、母。

 同じ目元。同じ笑い方。同じ、手の動き。

 千尋は膝の上の猫を支えながら、ゆっくりと頭を下げた。

「……はじめまして。千尋です。真帆には、本当に、お世話になって」

「こちらこそ。いつも『千尋がね』って、楽しそうに話してたわ」

 真帆の母の声が、少しだけ震えた。

「あの子、最後まで、あなたのこと、気にしていたのよ」

 胸のどこかに、ひびが入る音がした。その隙間から、ずっと押し込めていたものがあふれてきそうになる。

「私……」

 千尋は、視界がかすんでいくのを感じながら、言葉を探した。

「真帆からのメッセージ、ずっと、開けなくて。最後の、あの一通も。返事を書こうとして、下書きのままで放り出して。ずっと、仕事を理由に、怖がってて」

 スマホの画面に並んでいた「未送信」の文字が、頭の奥でもう一度光る。

「何をしていたんだろうって、さっきから、そればっかりで。間に合えばよかったのにって、そればっかりで」

 涙の気配が、喉の奥を熱くした。言葉にした瞬間、後悔が現実になってしまいそうで、ずっと呑み込んでいた。

 真帆の母は、静かに千尋の言葉を聞いていた。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ受け止めるように。

「そうね。間に合えばよかったって、私も何度も思ったわ」

 ぽつりと、母も言った。

「あの子が、もっと早く病院に行ってくれていたらとか。仕事を減らせって、もっと強く言っていればとか。考え出したらキリがないわね」

 そう言って、母は苦笑した。その笑い方が、真帆に似ていて、千尋の胸がまた痛くなる。

「でもね」

 母は、猫の頭をそっと撫でた。猫は目を細めて喉を鳴らす。

「生きている人が、自分を責め続けるのは、逝った人が一番望まないことよ」

 その言葉は、第三章で出会った老婦人の言葉と重なった。世代も場所も違うのに、不思議と同じところへたどり着いている。

「真帆は、千尋ちゃんに、『ごめん』なんて言ってほしくなかったと思うの。きっと『相変わらずだね』って笑いながら、『でも、会いに来てくれてありがとう』って言うんじゃないかしら」

「……でも、ちゃんと伝えたくて」

 千尋の声が震えた。

「ずっと、ありがとうとか、ごめんとか、本当はもっと話したかったとか。下書きにだけ溜め込んで、送れなかった言葉がたくさんあって。今さらかもしれないけど、それをどこかに、ちゃんと届けたくて」

 真帆の母は、千尋の顔を見つめた。目の奥で、何かを決めるように、ゆっくりとまばたきをする。

「千尋ちゃん、紙は持ってる?」

「紙……ですか」

「手紙、書きましょう。スマホじゃなくて。あの子に届くかどうかなんて、分からないけれど。あなたの言葉を、この空の下のどこかにちゃんと置いておくことはできるわ」

 母は紙袋の中から、小さなノートとペンを取り出した。表紙は、どこにでもありそうなシンプルな柄だった。

「さっき、この駅に来る前に買っておいたの。誰かが、あの子に何か伝えたくなったときのために。ちょっと、願掛けみたいなものね」

 千尋は、そのノートとペンを両手で受け取った。指先に、紙のざらりとした感触が伝わる。

「ここで、書いていいですか」

「もちろん」

 母はベンチから少し身を引き、スペースを空けてくれた。猫は千尋の膝の上で丸くなったまま、動かない。小さな体温だけが、心の真ん中を温めてくれていた。

 空は、さっきよりも青くなってきている。ホームの照明の白と、東の空の薄い色が混じり合って、時間の境目のような光になっていた。

 千尋はノートを膝に置き、ペン先を紙に落とした。

「真帆へ」

 一文字目を書いた時点で、視界がぼやけた。涙が邪魔をする。それでも、ペンを止めたくはなかった。

 もう、送れない。既読もつかない。それでも、この言葉たちをずっと自分の中だけに閉じ込めておく方が、よほど怖かった。

 ごめん、と書く。ありがとう、と書く。仕事の話、愚痴、笑い話。高校の帰り道のこと。卒業式の約束。あのとき言いそびれた「助けて」の一言。

 言葉が、勝手に手からこぼれていく。ノートの一ページがすぐにいっぱいになり、次のページに移る。

 途中で何度かペンが止まりそうになった。そんなときは、猫の毛並みに手を滑らせる。ふわふわとした感触と、喉を鳴らす音が、また言葉を押し出してくれる。

 どれくらい書いていたのか分からない。気づけば、ノートの半分ほどを使っていた。

「ふう」

 最後に「またね」と書いて、ペンを置いた。胸の中にずっと溜まっていたものを、ようやくテーブルの上に全部出したような、妙な脱力感があった。

 ノートから一枚を破り、丁寧に折る。便箋代わりのその紙を、震える指で整えた。

「読んでもらえますか」

 千尋が差し出すと、真帆の母は両手で受け取った。紙の上から、そっと指先でなぞる。

「もちろん」

 それから、母は胸の前で紙を抱きしめるようにした。

「これ、あの子の仏壇の横に置くわね。もし千尋ちゃんがよければ、一部だけでも、声に出して読ませてもらってもいいかしら」

「はい」

 千尋は、涙でにじんだ視界のまま頷いた。許されたいわけじゃない。ただ、ここに書いた気持ちが、本当にこの人の手に渡ったという事実だけが、今は欲しかった。

「ありがとう」

 母はそう言って、紙を大事そうにバッグにしまった。

「この子も、きっと喜んでるわ」

 視線の先には、黒猫がいる。猫はちょうど、たたんだ手紙の端に前足を乗せていた。いつの間にか、そこを踏んだらしい。

「あ、ちょっと」

 千尋が慌てて手紙を引き寄せると、白い紙の端に、小さな肉球の跡がついていた。インクがわずかに乾ききっておらず、淡い灰色の肉球がぽん、と押された形になっている。

「……スタンプみたい」

 千尋が苦笑すると、母も目を細めた。

「サインね」

「サイン、ですか」

「ええ。あの子が、『ちゃんと受け取ったよ』って押してくれたのかもしれないわ」

 冗談めかした言い方なのに、その言葉は不思議と嘘に聞こえなかった。猫の前足に残る少しだけ濡れた感触が、たしかにその証拠のようにも思える。

「この子……」

 千尋は、抱き上げた猫を見下ろした。

「真帆の……」

「飼っていた子の、子どもよ」

 母が続ける。

「あの子が飼っていた黒猫ね。去年、子を産んだの。そのうちの一匹を、どうしても夜行列車に乗せたかった。『いつか一緒に乗ろうね』って言ってたから。馬鹿みたいでしょ」

「そんなこと……」

 千尋は首を振った。

「全然、馬鹿なんかじゃないです。すごく、真帆らしいです」

 真帆なら、本当に言いそうだと思った。夢みたいな約束を、真顔でしようとする人だったから。

「本当は、もっと早く千尋ちゃんに会えればよかったんだけどね」

 母は少しだけ申し訳なさそうに笑った。

「あの子、あなたに連絡したがってたのよ。最近のこととか、自分の病気のこととか。『忙しそうだから、落ち着いてからにする』なんて言いながら、迷ってるうちに時間が過ぎちゃって」

「私も、同じです」

 千尋は、膝の上の猫の毛を撫でながら言った。

「いつか落ち着いたら、ちゃんと会って話そうって。そう思ってるうちに、ずっと先延ばしにして。仕事のせいにして、怖さのせいにして」

「似た者同士ね」

 母が穏やかに笑う。その笑顔に、今度は少しだけ救われる。

 ホームの向こうの空が、だんだんと明るくなってきた。山の稜線が、薄い輪郭を持ち始める。

 車内アナウンスが、再び静かに響いた。

「まもなく、発車のお時間です。乗車中のお客さまは、お席にお戻りください」

「あら、もうそんな時間」

 母がゆっくり立ち上がる。千尋も立ち上がり、猫を抱き直した。

「千尋ちゃん」

 ホームに戻る前に、母がもう一度こちらを見た。

「今日、来てくれて、ありがとうね」

 その一言に、千尋の目から、今度こそ大粒の涙がこぼれた。

「こちらこそ……本当に。真帆のこと、ずっと、謝りたくて。でもそれ以上に、ちゃんと『ありがとう』って言いたくて」

「伝わってるわ」

 母は、そっと千尋の肩を抱いた。柔らかくて、あたたかくて、でも芯のある抱擁だった。

「これからは、自分のことも、少しは大事にしてあげてね。あの子、いつもそこを心配してたから」

「はい」

 声にならない声で答える。猫の喉のゴロゴロという音が、二人の間に静かに挟まっていた。

「また、いつでもいらっしゃい。うちの方へも。あの子の部屋も、まだそのままだから」

 母はそう言って、ホームの端の階段へと歩いていく。その背中は、霧ヶ丘で見たあの後ろ姿と重なった。今度は、ちゃんと行き先を知っている背中として。

 千尋は、胸に猫を抱いたまま、何度も頭を下げた。

 列車に戻ると、静かな車内が迎えてくれる。自分の席に腰を下ろし、猫を膝の上に乗せると、猫は何事もなかったように丸くなった。

 窓の外では、ホームがゆっくりと後ろに流れていく。桐ノ沢の駅名板が小さくなり、やがて見えなくなる。

「行ってくるね」

 千尋は思わず、さっき書いた手紙の最後の言葉を口にしていた。

「真帆。行ってくるね。ちゃんと、ここからもう一回、やり直してみる」

 猫が、膝の上で小さく鳴いた。

 列車は、夜の終わりと朝のはじまりのあいだを、静かに進んでいった。