どれくらい眠っていたのか分からない。
 ふと目を開けると、車内はさっきより暗くなっていた。天井の照明が少し落とされて、通路に沿ってだけ、細く明かりが続いている。

 膝の上には、相変わらず小さな重みがあった。

「……おはよう、って時間でもないか」

 千尋がつぶやくと、黒い頭がもぞっと動いて、マフラーの中から顔を出した。猫は一度あくびをしてから、名残惜しそうに千尋の太ももに顎を乗せ直す。

 窓の外を見ると、街の灯りはほとんどなくなっていて、代わりに遠くの民家の窓がぽつぽつと浮かんでいた。さっきよりもずっと田舎に入ってきているのが分かる。

 車内アナウンスが、小さく響いた。

「ただいま、◯◯駅を通過しました」

 知らない駅の名前だった。けれど、その「通過しました」という言葉が、さっきスマホの画面で見た、送られなかった言葉たちと重なる。

 通り過ぎてしまった駅。通り過ぎてしまった気持ち。

 千尋はふっと息を吐き、ゆっくり身体を起こした。長時間同じ姿勢だったせいで、腰が少し重い。

「ちょっとトイレ行ってくるね。いい子にしてて」

 猫を驚かせないように、そっと両腕で抱き上げて、隣の空いた席に移す。マフラーをかぶせ、通路側から見えないようにブランケットもかけた。

「にゃ」

 毛布の下から、短い抗議の声がする。

「すぐ戻るから。お留守番一駅分」

 そう言い残して席を立つ。通路を歩くと、他の乗客の寝息や、ページをめくる音がかすかに聞こえてきた。イヤホンの音漏れも、誰かの咳払いも、不思議と耳障りには感じない。

 デッキへ出ると、空気が少しひんやりする。窓ガラスの向こうに、暗い線路と信号の赤い光だけが流れていた。

 トイレの前には、小さなベンチのような折りたたみ椅子が付いていて、その上にスーツケースが一つ置かれている。その隣で、若い女性が肩に小さな子どもを抱きかかえていた。

 子どもは眠っているのかと思いきや、目を真っ赤にして、時々「うう」と小さく声をあげている。

「ごめん、ごめんね。もうすぐ着くから」

 女性が額に手を当てながら、必死になだめている。前髪の隙間から覗く顔には、濃いクマと、乾きかけた涙の跡があった。

 千尋は、順番を待ちながら、「トイレ大丈夫ですか」と声をかけた。

「あ、すみません、ちょっと、この子が」

 女性が申し訳なさそうに頭を下げる。その肩にしがみついている男の子は、三歳くらいだろうか。熱があるのか、頬がうっすら赤い。

「具合、悪いんですか」

「さっきからちょっと熱っぽくて。実家に連れて帰る途中なんですけど、夜中からずっとぐずっちゃって。周りの人に迷惑かけてないか、もう気が気じゃなくて」

 早口にまくし立てる声に、追いつめられた気持ちがにじんでいた。

「大変ですね」

 千尋がそう言うと、女性はかすかに笑った。

「すみません、初対面の方に愚痴なんて。でも、ほんと、毎日イライラしちゃって自己嫌悪で。こんなふうに夜中の電車に乗せてる時点で、もうダメ母ですよね」

 ダメ、なんて言葉に、千尋の胸がちくりとした。

「そんなことないと思います」

「え」

「だって、実家まで連れて帰ろうって決めたんですよね。夜中にこんな大変な思いしてまで。十分すぎるくらい、頑張ってると思いますけど」

 口から出た言葉に、自分でも少し驚いた。誰かを励ますなんて、最近では仕事でクライアントの機嫌をとるときくらいだった。

 女性はぽかんと千尋を見て、それから急に目元をゆるませた。

「……ありがとうございます。あの、わたし、ついこの子に怒っちゃうんですよね。寝ないでテレビ見たいって言われると、もうこっちもヘトヘトで。怒りたくて怒ってるんじゃないのにって、あとで自分が嫌になるんです」

「分かります。仕事でも、似たような感じで」

 千尋は小さく苦笑した。

「クライアントさんからの細かい要望とか、夜中に来る修正とか、本当はそんな相手に怒鳴りたくなんてないのに。気づいたら心の中で『またかよ』って暴言吐いてて、自己嫌悪して。相手は別に悪気なく言ってるだけなのに」

「仕事……デザイナーさんとかですか」

「そうです。ウェブの。好きで始めたはずなのに、いつの間にか、怒りと謝りの往復みたいな毎日になっちゃって」

 言葉にしてみると、自分の生活が急に第三者目線になって見える。そこに抱いていた窮屈さの正体が、少しだけ輪郭を持ってきた気がした。

「怒っちゃう自分が嫌いなの、一緒ですね」

 女性がくすっと笑う。その笑い声に、肩にしがみついていた子どもが小さく顔を動かした。

「……のどかわいた」

「あ、ごめんごめん。お水飲もうね」

 女性がペットボトルを取り出し、ストローを差し込む。子どもは眠そうな目をこすりながら、それを少し飲んで、また母親の肩に頭を預けた。

「ほんとは、『もう無理』って愚痴りたい相手、いるんですけどね。友だちとか。でも、みんな忙しそうで、なかなか」

「……分かります」

 千尋の頭に、真帆の名前が浮かぶ。愚痴を聞いてほしかった相手。聞いてくれるはずだった相手。

 でもそこで、下書きのままのメッセージを送らなかったのは、他ならない自分自身だ。

「愚痴って、大事なのに」

 女性がふっとつぶやいた。

「誰かにちゃんと『もう無理』って言えてたら、あの子にももう少しやさしくできたのかな、って、最近よく思うんです」

 あの子、という言い方に、少しひっかかりを覚えたけれど、千尋は深くは聞かなかった。代わりに、「私も、もうちょっと早く、『無理』って言えばよかったなって思ってるところです」とだけ返す。

「お互い、少しずつ言えるようになるといいですね」

「……はい」

 トイレのランプがようやく「空き」に変わった。千尋は順番を譲ろうとしたが、女性は「先にどうぞ」と笑って言った。

「この子、今のうちに寝かしつけちゃいたいので。さっき話したら、ちょっと楽になりました。ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ」

 頭を下げ合って別れ、千尋はトイレへ入った。

 用を済ませてから、鏡をのぞく。そこには、さっきよりも少し目元が柔らかくなった自分が映っていた。

 戻ろうとデッキを歩いていると、売店コーナーの明かりが目に入った。窓口のシャッターは閉まっているが、その前のベンチに、年配の女性が一人座っている。膝の上には、小さなバッグと、包み紙にくるまれた花束。

 真っ白なカーネーションが、薄暗い中でもはっきりと浮かんでいた。

「きれいな花ですね」

 思わず声をかけると、女性は顔を上げた。柔らかい目元と、口元の皺が優しい印象をつくっている。

「あら。ありがとう。夜行列車で花なんて、ちょっと場違いかしらね」

「そんなことないと思います」

「夫の実家にね、持っていくの。明日、七回忌で」

 そう言って、女性は花束を見つめた。

「もう七年も経ったのに、こうして毎年、何か持って行かないと落ち着かなくてねえ」

「ご主人、ですか」

「ええ。急にだったからね。あんまりちゃんとさよならを言えなかったから、今も時々、『あのときこう言えばよかった』なんて考えちゃうのよ」

 女性の声は、淡々としているのに、その奥に深い水面のようなものが揺れている。

「ちゃんとさよならを言えなかった人のことって、案外ずっと心に居座るのよ」

 その一言が、千尋の胸にすとんと落ちた。

 心に居座る。

 真帆の顔が、自然と浮かんでくる。高校の卒業式。成人式。電話越しに怒らせてしまった夜。どの場面の真帆も、まだどこかで「ねえ」と声をかけてきそうな気がしている。

「そう、ですよね」

 千尋は、握りしめた手のひらに力を込めた。

「私も、似たような人がいて。ちゃんとさよならも、ごめんも言えてなくて。だから今、こうして列車に乗ってるのかもしれません」

「あら。大事な旅なのね」

 女性は、ふふっと笑って、千尋を見上げた。

「でもね、その人が心に居座ってるってことは、それだけ大事だったってことでもあるのよ。嫌な人は、意外とさっさと出ていってくれるんだから」

「……それ、ちょっと救われます」

「少しでもね」

 女性は花束を撫でるように持ち直した。

「この花もね、夫の好きだった色なの。『そんなに毎年来なくていいよ』って、きっと向こうで笑ってるでしょうけどね」

「でも、きっと喜んでますよ」

「そうだといいわね」

 そのとき、車内アナウンスがまた流れた。

「まもなく、霧ヶ丘。霧ヶ丘です」

 ここも知らない駅だ。しかし「霧ヶ丘」という名前の響きが、どこか懐かしく感じられた。山の中の小さな駅のイメージが、頭の中に浮かぶ。

「そろそろ席に戻らないとね。あなたも、よく眠って、ちゃんとその人と向き合う夢でも見なさいな」

「はい。ありがとうございました」

 千尋は頭を下げ、花束の白い花に目をやってから、自分の車両へ戻った。

 席に近づくと、マフラーの下から黒い耳がぴょこんと飛び出した。

「ただいま」

 千尋が小さく声をかけると、猫は「にゃ」と鳴いて、ブランケットを自分で押しのける。どうやら本当に、おとなしく留守番していたらしい。

 ふと、通路側から学生らしい影がのぞき込んだ。

「あ、すみません。その席のお隣、僕です」

「あ、どうぞ」

 大学生くらいの男の子だった。大きめのリュックを背負い、手には就活用らしい黒いバッグ。ネクタイはゆるめにほどかれていて、思いきり伸びをしたあと、荷物を頭上に上げた。

「うわ、猫だ」

 隣に腰を下ろした彼は、千尋の膝の上を見て目を丸くした。

「しっ。内緒です」

 千尋は慌てて人差し指を口元に当てる。学生は、あ、と小さく声を出してから、声のトーンを落とした。

「すみません。かわいすぎて、つい。いいなあ、この子」

「さっきまで、一緒に終電を逃していた仲間です」

「終電仲間」

 学生が笑う。その笑い方はまだ幼さが残っていて、けれどどこか疲れも混ざっていた。

「帰省ですか」

「まあ、そんな感じです。就活、一回全部落とされちゃって。心が折れたんで、いったん地元帰ろうかなって」

 さらっと言う割に、その肩は少しだけ落ちている。

「大変ですね」

「大変、ってほど頑張れてたのかも、分かんないんですけどね。親には『努力が足りない』って言われて、友だちには『今どきみんな苦労してるよ』って言われて。分かってるんですけど、今はただ、しんどいなーって」

 彼は笑いながら、視線を猫に落とした。

「この子、いい顔してますね」

「顔、ですか」

「なんか、帰る場所がわかってる顔っていうか。『ちゃんと着くから心配すんな』って感じの目してます」

 そう言って、学生はそっと手を伸ばした。千尋が止める前に、黒猫は自分からその手に鼻先を近づける。警戒する様子もなく、指先をくんくんと嗅いでから、あっさり頬をすり寄せた。

「お、すごい。人見知りしないタイプ」

「さっき会ったばかりなんですけどね」

「やっぱ、帰り道だからかなあ。帰り道で出会う猫って、なんか安心するんですよね」

 学生は猫の頭を撫でながら、ぽつりと言った。

「俺、昔、受験失敗した時も、駅前の猫にめっちゃ話しかけてました。『終わったわ』って。猫は当然、何にも言ってくれないんですけど、それが逆に落ち着くというか」

「分かる気がします」

「人間相手だと、どうしても勝手に『こういうこと言われるかな』って構えちゃうじゃないですか。『頑張って』とか『まだ若いんだから』とか。間違ってないけど、今は聞きたくない、みたいな」

 それは、千尋にも覚えのある感覚だった。仕事で落ち込んでいるときに限って、「若いうちは苦労したほうが」といった言葉をかけられ、どう反応していいか分からなくなることがある。

「でも猫って、何も言わない代わりに、勝手に隣に座ってくれるんですよね。それだけで、ちょっと救われるっていうか」

 学生は、猫の耳の後ろをくすぐりながら続けた。

「この子も、多分そうなんじゃないですか。『とりあえず隣にいるだけいるわ』みたいな」

 千尋は、膝の上で気持ちよさそうに目を細める猫を見下ろした。

 何も言わないけれど、確かに、そこにいてくれる。

 隣で、黙って、あたたかさだけを渡してくれる。

「君、帰る場所は決まってるのかな」

 思わず、千尋の口からそんな言葉がこぼれた。

 猫は、学生の手から千尋の指へと頭を乗り換える。その動きが、まるで「大丈夫」と頷いているように見えた。

「まもなく、霧ヶ丘。霧ヶ丘です。お降りの方はお支度ください」

 アナウンスが流れた。

「あ、俺、ここで降りるんだ」

 学生が立ち上がる。リュックを背負い、猫の頭を最後にもう一度撫でた。

「お姉さんも、お気をつけて。猫先輩も」

「ありがとうございます。就活も、またきっと」

「まあ、なんとかします。なんないと困るんで」

 肩をすくめて笑い、彼は通路を歩いていった。

 霧ヶ丘駅に停車した列車の窓から、ホームの様子が見える。古い屋根と、小さなベンチ。それから、改札へ向かう学生の背中。

 その少し向こう、柱の影に、もうひとつの後ろ姿があった。

 髪をひとつに結んで、少しうつむき加減に立つ若い女性。セミロングくらいの長さと、肩のライン。千尋のよく知っている誰かの輪郭に、よく似ていた。

「……真帆」

 名前が、ほとんど反射で口をついて出た。

 振り返ってくれることを期待して、ガラス越しに目を凝らす。けれど、その背中は一度だけホームの外の方を向いただけで、こちらを向くことはなかった。

 列車が動き出す。ゆっくりとホームが後ろへ流れていき、その人物も、霧ヶ丘の駅舎ごと小さくなっていく。

 窓ガラスには、千尋と、その膝の上で丸くなる黒猫の姿だけが映っていた。

「……会いたかったな」

 それが、真帆に対してなのか、さっきの学生や若い母親に対してなのか、自分でも分からない。ただ、ぽつりと零れた言葉は、車内の静けさに吸い込まれていった。

 膝の上の猫が、ゆっくりと頭を押しつけてくる。

 大丈夫、とでも言うように。

 千尋はそのぬくもりを確かめながら、もう一度窓の外を見た。空が、ほんの少しだけ、夜の黒から群青に変わり始めていた。