車内に入ると、ふわっと温かい空気が頬に触れた。
さっきまでいたホームの冷えた空気とは違う、柔らかい暖房のぬくもりと、カーペットのような匂いが混ざっている。
「指定席は……この車両か」
案内図を確認しながら、千尋はトートバッグを抱え直した。中で黒い頭がもぞっと動く。
「ちょっとだけ我慢してね。すぐ座るから」
小声でそう言うと、バッグの中から小さく「にゃ」と返事がした。
指定席のプレートがかかった車両に入ると、通路側と窓側に二列ずつ、青いシートが並んでいる。深夜のせいか、人はそれほど多くなかった。ところどころに一人で座る人がいるだけで、隣同士で話している声もほとんど聞こえない。
千尋の席番号は、窓側だった。隣の席には、誰も座っていない。背もたれのポケットに差し込まれた座席表にも、その番号は空欄になっている。
「ラッキーだね」
千尋は席に腰をおろし、トートバッグをそっと膝の上に乗せた。マフラーの隙間から、黒い鼻先がひょこりとのぞく。
「にゃあ」
「ここ、今日から君の指定席。ね」
指先で額のあたりを撫でると、子猫は目を細めて、もう一度喉を鳴らした。さっきよりも、少しだけリラックスしているように見える。
荷物棚にコートを掛け、窓の外に視線をやる。ホームの蛍光灯が、ガラス越しにぼんやりとにじんでいた。向かいのホームには、もう電車の姿はない。静かな線路だけが伸びている。
ほどなくして、ドアが閉まる音がして、低いモーター音が響き始めた。
「夜行急行、月影ラインは、空木行きです」
車内アナウンスが流れ、列車がゆっくりと動き出す。ホームの端に立っていた駅員の姿が遠ざかり、やがて窓の外は夜だけになった。
薄いカーテンの向こうを、街灯が一本、また一本と流れていく。その光の列を見ていると、不思議と時間の感覚が少しずつ薄れていく。
千尋は、足元の足置きにかかとを乗せ、ノートPCを取り出した。さっきまでいたオフィスの延長みたいで嫌だったが、明日の打ち合わせ資料だけは、どうしても確認しておきたかった。
「少しだけだから」
自分に言い訳をするようにパソコンを開ける。画面には、さっきまで触っていたバナーがそのまま表示された。鮮やかな色のボタン、訴求コピー、商品の写真。
仕事の画面は、いつものように、何も変わらずそこにある。それが、今だけ妙に遠く感じられた。
「にゃ」
膝の上のトートバッグの中から、抗議のような声がした。
「ごめんごめん。ちょっとだけ、ね」
千尋がタッチパッドに指を伸ばした、その瞬間だった。
マフラーのすき間からひょいっと飛び出した黒い前足が、ぱたん、とキーボードの向こうに倒れてきた画面を押した。
「うわっ」
ノートPCが、きれいに閉じられる。パチン、という軽い音が静かな車内に響き、千尋は思わず固まった。
「……閉じたね、今」
見間違いじゃない。子猫は自分のしたことに満足したのか、マフラーの中で身体を丸め直すと、そのまま千尋の膝の上にずしりと落ち着いた。
小さな頭が太ももの上にすり寄ってくる。毛布みたいな温度がじわじわとひろがる。
「仕事、するなってこと?」
つぶやくと、子猫はタイミングよく「にゃ」と鳴いた。
千尋はふっと息を吐き、それからノートPCを膝からどけて、足元に立てかけた。画面をもう一度開く気には、不思議とならなかった。
代わりに、カバンのポケットからスマホを取り出す。ロック画面には、さっきの陽菜からのメッセージが残ったままだった。
親指が、自然と別のアプリのアイコンへ滑っていく。ラインの緑。つい最近まで、仕事のグループとクライアントとの連絡でしか開いていなかった画面。
その中に、ひとつだけ、ずっとタップできなかったトークルームがある。
真帆。
白い吹き出しアイコンの横に並ぶ、ひらがなの名前。高校の頃ふざけてつけたあだ名のまま、ずっと変えていなかった。
ちょっとだけ。中を見るだけ。それでまた閉じればいい。
千尋は、深呼吸をひとつしてから、慎重にその名前をタップした。
画面が切り替わる。灰色の吹き出しに、緑のふきだし。三年分くらいの文字とスタンプが、細いスクロールバーの向こうに積もっている。
一番下まで指でなぞると、そこには例のメッセージがあった。
「そんなに仕事が大事?」
あの夜、真帆が送ってきた最後の問いかけ。まだ未読のまま、小さく下に「既読がついていません」とシステムの文字が出ている。
「ごめん……」
ようやく、その一文字目が口から漏れた。けれどそれは、画面の中の真帆には届かない。
千尋はさらにスクロールを戻した。トークルームの上部に、「下書き」と薄く表示されているタブに気づく。
「下書き、なんてあったっけ」
好奇心半分でそこを開くと、画面いっぱいに、いくつものタイトルが並んだ。自分でも忘れていた、自分の言葉たち。
「ごめん、あの日のこと」
「ほんとはね」
「今度、ちゃんと会って話そう」
「仕事やめたい 笑」
そのどれもが、「送信済み」ではなく、グレーアウトした「下書き」のまま止まっている。タイトルだけで本文が空白のものもあれば、逆に本文だけ長々と綴られているものもあった。
「いつの……」
日付を見ると、一番古いものは、二年前の冬になっていた。初めて徹夜続きの案件を任されたとき。真帆から「大丈夫?」と心配のメッセージが届いていた頃だ。
「ほんとはね」というタイトルの下書きを開いてみる。本文には、途中まで打ちかけて止まった文章があった。
「ほんとはね、わたし、そこまで仕事好きじゃないよ。ただ、誰かに褒められたくて、やってるだけ。真帆にはさ、なんかちゃんとした人でいたくて、弱音言えない」
自分の打った文字なのに、他人事みたいに感じる。画面の文字を追ううちに、胸がひゅうっと縮む。
「何してたんだろ、私」
送ればよかった。全部。多少かっこ悪くても、弱く見えても。真帆なら、笑い飛ばすか、一緒に真剣に心配してくれただろう。
でもあのときの自分は、「忙しいから」とか「今じゃないから」とか、いくらでも言い訳をつくって、送信ボタンに指を滑らせることをしなかった。
スマホの画面の明かりが、車内の薄暗がりの中で、やけに浮いて見える。窓にはその光が反射して、少しだけ自分の顔が映っていた。
細くなった目の下に、うっすらクマができている。中学の頃、真帆に「千尋って寝不足だとすぐパンダになる」とからかわれたのを思い出した。
あの頃の自分は、こんな顔で笑っていただろうか。
視界がにじみそうになったところで、膝の上からゴロゴロという音がした。
「……ありがと」
千尋が視線を落とすと、マフラーからのぞいた黒い頭が、喉を震わせながら彼女の太ももに顔をこすりつけている。まるで「こっちにいなよ」と引き止めるみたいに。
その振動に、張りつめていた呼吸が少しだけ整っていく。
「君には、関係ない話かもしれないけどね」
独り言のようにつぶやいてから、千尋は別の下書きを開いた。
「ごめん、あの日のこと」
それは、先月の日付だった。真帆と電話で大きな声を出してしまった、その夜。
「ごめん、あの日は言いすぎた。私だって、本当は分かってる。仕事ばっかりで、真帆のこと後回しにしてるって。それでも、今さらやめるのがこわいんだ。何も残らなくなってしまいそうで」
再生ボタンでもあるかのように、文字を目で追うたび、あの夜の声が耳の奥で蘇る。
『千尋、前にさ、高校のとき、駅のベンチで言ってたじゃん』
『何だっけ』
『「何も残らない大人にはなりたくない」って。覚えてないの』
冬の寒いホームで、ふたりで肉まんを分け合いながら、そんなことを真帆に愚痴ったことがある。
『今の千尋見てるとさ、なんか、あのときの千尋が可哀想だなって思う』
あのときの真帆の声は、責めているというより、心底心配している響きだった。それなのに、千尋は反射的に、きつい言葉を返してしまった。
『うるさいな。真帆に何が分かるの。こっちは仕事なんだよ』
そのあと何を言ったのか、あまり覚えていない。ただ、通話を切ったあと、しばらくスマホを裏返して机に投げ出していたことだけは覚えている。
あのとき、下書きにしたこの文章を、もし送っていたら。少し違う未来があったのだろうか。
「まもなく、北見ヶ原。北見ヶ原です」
車内アナウンスが流れた。列車は減速し、窓の外の街灯がゆっくりと動きを緩めていく。
画面をスクロールする千尋の指も、自然と動きを止めた。過去の会話のひと駅ごとに、一つずつ通り過ぎたような気がした。
列車が短く停車し、ホームの薄暗いベンチが見えた。そこには、誰かが座っているような気もしたけれど、すぐに列車はまた動き出す。窓ガラスに、千尋と子猫の姿が映る。
その横に、一瞬だけ、もうひとつ、見覚えのある輪郭が並んだような気がして、千尋ははっと息を吸った。
肩までの髪を耳にかけた横顔。高校のとき、前髪を伸ばそうとして失敗しかけていた真帆を思い出す。
「……気のせい、だよね」
列車が駅を離れると、ガラスに映っていた三つ目の影は、ただの座席のヘッドレストに戻っていた。
千尋は、スマホの画面をいったん閉じた。まぶたの裏に、さっきの横顔を焼きつけたまま、額をシートの背もたれに預ける。
膝の上の重みが、ほんの少し動いた。子猫が姿勢を変えて、千尋のくるぶしの方に顔を向ける。そのまま、ぴたりと小さな体を寄せてくる。
「ねえ」
千尋は、膝の上にそっと手を置いた。柔らかい毛の感触が掌に広がる。
「君は、どこから来たの」
もちろん、答えは返ってこない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「真帆が飼ってた黒猫がいたんだよ。すごい気分屋でさ。撫でてほしいときだけ寄ってきて、あとは窓辺で外眺めてるの。あれにちょっと似てる」
言いながら、自分でも驚く。真帆の話を、こんな自然な調子で口に出せたのは、いつ以来だろう。
「君は別の子だって分かってるんだけどね」
子猫は、まるで「知ってるよ」とでも言うように、喉を鳴らした。その声は、列車の低い振動とまじりあって、ゆっくりと心の奥の方へ沈んでいく。
千尋はもう一度スマホを取り、下書きの一覧のいちばん下へスクロールした。そこには、タイトルも本文もない、空白の下書きがひとつだけあった。
作成日時は、十日前。真帆が倒れる前日の夜だ。
「これ……」
開いてみても、やはり何も書かれていない。白い画面の上に、カーソルだけが瞬いている。
本当は、そのとき千尋は何を書こうとしていたのだろう。仕事のぐちだったのか、謝罪の言葉だったのか。それとも、ただ「元気?」と打つつもりだったのか。
どんな言葉であっても、今よりはよほどましだった気がする。
送られなかった言葉たちが、こうして小さなフォルダの中に閉じ込められている。画面を見つめていると、列車の窓の外の闇と同じくらい、そこが深く感じられた。
「まもなく、山ノ辺。山ノ辺です」
アナウンスがまたひとつ、駅の名前を読み上げる。千尋は、目を離せなくなっていた空白の画面から視線を移し、窓の外を見た。
薄暗いホームに、小さな待合室がひとつ。その前に、誰かの背中が見えるような気がして、また胸がきゅっとなる。
列車は止まり、すぐにまた走り出す。通り過ぎていく駅。通り過ぎていく言葉たち。
「私、どこまでこうやって、通り過ぎさせるつもりだったんだろうね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
子猫が、ごろりと仰向けになる。白い腹がちらりとのぞいた。千尋が指先でそこをつつくと、小さな前足でぺしっと押し返してくる。
「……そうだよね。いつまでも通り過ぎてばっかりじゃ、どこにも着かないよね」
自分で言いながら、やっとその意味が、少しだけ心に落ちていく。
真帆に送れなかった言葉。言えなかった本音。全部まとめて、どこかの駅のホームに置きっぱなしにしてきてしまったみたいだった。
この列車は、きっとそれを拾いに行く旅なのだ。
そんなことを考えた瞬間、胸のどこかが少しだけ軽くなった気がして、千尋はそっと目を閉じた。膝の上のぬくもりが、眠気と一緒に身体を包んでいく。
窓の外を、街の明かりがまたひとつ、またひとつ通り過ぎていった。
さっきまでいたホームの冷えた空気とは違う、柔らかい暖房のぬくもりと、カーペットのような匂いが混ざっている。
「指定席は……この車両か」
案内図を確認しながら、千尋はトートバッグを抱え直した。中で黒い頭がもぞっと動く。
「ちょっとだけ我慢してね。すぐ座るから」
小声でそう言うと、バッグの中から小さく「にゃ」と返事がした。
指定席のプレートがかかった車両に入ると、通路側と窓側に二列ずつ、青いシートが並んでいる。深夜のせいか、人はそれほど多くなかった。ところどころに一人で座る人がいるだけで、隣同士で話している声もほとんど聞こえない。
千尋の席番号は、窓側だった。隣の席には、誰も座っていない。背もたれのポケットに差し込まれた座席表にも、その番号は空欄になっている。
「ラッキーだね」
千尋は席に腰をおろし、トートバッグをそっと膝の上に乗せた。マフラーの隙間から、黒い鼻先がひょこりとのぞく。
「にゃあ」
「ここ、今日から君の指定席。ね」
指先で額のあたりを撫でると、子猫は目を細めて、もう一度喉を鳴らした。さっきよりも、少しだけリラックスしているように見える。
荷物棚にコートを掛け、窓の外に視線をやる。ホームの蛍光灯が、ガラス越しにぼんやりとにじんでいた。向かいのホームには、もう電車の姿はない。静かな線路だけが伸びている。
ほどなくして、ドアが閉まる音がして、低いモーター音が響き始めた。
「夜行急行、月影ラインは、空木行きです」
車内アナウンスが流れ、列車がゆっくりと動き出す。ホームの端に立っていた駅員の姿が遠ざかり、やがて窓の外は夜だけになった。
薄いカーテンの向こうを、街灯が一本、また一本と流れていく。その光の列を見ていると、不思議と時間の感覚が少しずつ薄れていく。
千尋は、足元の足置きにかかとを乗せ、ノートPCを取り出した。さっきまでいたオフィスの延長みたいで嫌だったが、明日の打ち合わせ資料だけは、どうしても確認しておきたかった。
「少しだけだから」
自分に言い訳をするようにパソコンを開ける。画面には、さっきまで触っていたバナーがそのまま表示された。鮮やかな色のボタン、訴求コピー、商品の写真。
仕事の画面は、いつものように、何も変わらずそこにある。それが、今だけ妙に遠く感じられた。
「にゃ」
膝の上のトートバッグの中から、抗議のような声がした。
「ごめんごめん。ちょっとだけ、ね」
千尋がタッチパッドに指を伸ばした、その瞬間だった。
マフラーのすき間からひょいっと飛び出した黒い前足が、ぱたん、とキーボードの向こうに倒れてきた画面を押した。
「うわっ」
ノートPCが、きれいに閉じられる。パチン、という軽い音が静かな車内に響き、千尋は思わず固まった。
「……閉じたね、今」
見間違いじゃない。子猫は自分のしたことに満足したのか、マフラーの中で身体を丸め直すと、そのまま千尋の膝の上にずしりと落ち着いた。
小さな頭が太ももの上にすり寄ってくる。毛布みたいな温度がじわじわとひろがる。
「仕事、するなってこと?」
つぶやくと、子猫はタイミングよく「にゃ」と鳴いた。
千尋はふっと息を吐き、それからノートPCを膝からどけて、足元に立てかけた。画面をもう一度開く気には、不思議とならなかった。
代わりに、カバンのポケットからスマホを取り出す。ロック画面には、さっきの陽菜からのメッセージが残ったままだった。
親指が、自然と別のアプリのアイコンへ滑っていく。ラインの緑。つい最近まで、仕事のグループとクライアントとの連絡でしか開いていなかった画面。
その中に、ひとつだけ、ずっとタップできなかったトークルームがある。
真帆。
白い吹き出しアイコンの横に並ぶ、ひらがなの名前。高校の頃ふざけてつけたあだ名のまま、ずっと変えていなかった。
ちょっとだけ。中を見るだけ。それでまた閉じればいい。
千尋は、深呼吸をひとつしてから、慎重にその名前をタップした。
画面が切り替わる。灰色の吹き出しに、緑のふきだし。三年分くらいの文字とスタンプが、細いスクロールバーの向こうに積もっている。
一番下まで指でなぞると、そこには例のメッセージがあった。
「そんなに仕事が大事?」
あの夜、真帆が送ってきた最後の問いかけ。まだ未読のまま、小さく下に「既読がついていません」とシステムの文字が出ている。
「ごめん……」
ようやく、その一文字目が口から漏れた。けれどそれは、画面の中の真帆には届かない。
千尋はさらにスクロールを戻した。トークルームの上部に、「下書き」と薄く表示されているタブに気づく。
「下書き、なんてあったっけ」
好奇心半分でそこを開くと、画面いっぱいに、いくつものタイトルが並んだ。自分でも忘れていた、自分の言葉たち。
「ごめん、あの日のこと」
「ほんとはね」
「今度、ちゃんと会って話そう」
「仕事やめたい 笑」
そのどれもが、「送信済み」ではなく、グレーアウトした「下書き」のまま止まっている。タイトルだけで本文が空白のものもあれば、逆に本文だけ長々と綴られているものもあった。
「いつの……」
日付を見ると、一番古いものは、二年前の冬になっていた。初めて徹夜続きの案件を任されたとき。真帆から「大丈夫?」と心配のメッセージが届いていた頃だ。
「ほんとはね」というタイトルの下書きを開いてみる。本文には、途中まで打ちかけて止まった文章があった。
「ほんとはね、わたし、そこまで仕事好きじゃないよ。ただ、誰かに褒められたくて、やってるだけ。真帆にはさ、なんかちゃんとした人でいたくて、弱音言えない」
自分の打った文字なのに、他人事みたいに感じる。画面の文字を追ううちに、胸がひゅうっと縮む。
「何してたんだろ、私」
送ればよかった。全部。多少かっこ悪くても、弱く見えても。真帆なら、笑い飛ばすか、一緒に真剣に心配してくれただろう。
でもあのときの自分は、「忙しいから」とか「今じゃないから」とか、いくらでも言い訳をつくって、送信ボタンに指を滑らせることをしなかった。
スマホの画面の明かりが、車内の薄暗がりの中で、やけに浮いて見える。窓にはその光が反射して、少しだけ自分の顔が映っていた。
細くなった目の下に、うっすらクマができている。中学の頃、真帆に「千尋って寝不足だとすぐパンダになる」とからかわれたのを思い出した。
あの頃の自分は、こんな顔で笑っていただろうか。
視界がにじみそうになったところで、膝の上からゴロゴロという音がした。
「……ありがと」
千尋が視線を落とすと、マフラーからのぞいた黒い頭が、喉を震わせながら彼女の太ももに顔をこすりつけている。まるで「こっちにいなよ」と引き止めるみたいに。
その振動に、張りつめていた呼吸が少しだけ整っていく。
「君には、関係ない話かもしれないけどね」
独り言のようにつぶやいてから、千尋は別の下書きを開いた。
「ごめん、あの日のこと」
それは、先月の日付だった。真帆と電話で大きな声を出してしまった、その夜。
「ごめん、あの日は言いすぎた。私だって、本当は分かってる。仕事ばっかりで、真帆のこと後回しにしてるって。それでも、今さらやめるのがこわいんだ。何も残らなくなってしまいそうで」
再生ボタンでもあるかのように、文字を目で追うたび、あの夜の声が耳の奥で蘇る。
『千尋、前にさ、高校のとき、駅のベンチで言ってたじゃん』
『何だっけ』
『「何も残らない大人にはなりたくない」って。覚えてないの』
冬の寒いホームで、ふたりで肉まんを分け合いながら、そんなことを真帆に愚痴ったことがある。
『今の千尋見てるとさ、なんか、あのときの千尋が可哀想だなって思う』
あのときの真帆の声は、責めているというより、心底心配している響きだった。それなのに、千尋は反射的に、きつい言葉を返してしまった。
『うるさいな。真帆に何が分かるの。こっちは仕事なんだよ』
そのあと何を言ったのか、あまり覚えていない。ただ、通話を切ったあと、しばらくスマホを裏返して机に投げ出していたことだけは覚えている。
あのとき、下書きにしたこの文章を、もし送っていたら。少し違う未来があったのだろうか。
「まもなく、北見ヶ原。北見ヶ原です」
車内アナウンスが流れた。列車は減速し、窓の外の街灯がゆっくりと動きを緩めていく。
画面をスクロールする千尋の指も、自然と動きを止めた。過去の会話のひと駅ごとに、一つずつ通り過ぎたような気がした。
列車が短く停車し、ホームの薄暗いベンチが見えた。そこには、誰かが座っているような気もしたけれど、すぐに列車はまた動き出す。窓ガラスに、千尋と子猫の姿が映る。
その横に、一瞬だけ、もうひとつ、見覚えのある輪郭が並んだような気がして、千尋ははっと息を吸った。
肩までの髪を耳にかけた横顔。高校のとき、前髪を伸ばそうとして失敗しかけていた真帆を思い出す。
「……気のせい、だよね」
列車が駅を離れると、ガラスに映っていた三つ目の影は、ただの座席のヘッドレストに戻っていた。
千尋は、スマホの画面をいったん閉じた。まぶたの裏に、さっきの横顔を焼きつけたまま、額をシートの背もたれに預ける。
膝の上の重みが、ほんの少し動いた。子猫が姿勢を変えて、千尋のくるぶしの方に顔を向ける。そのまま、ぴたりと小さな体を寄せてくる。
「ねえ」
千尋は、膝の上にそっと手を置いた。柔らかい毛の感触が掌に広がる。
「君は、どこから来たの」
もちろん、答えは返ってこない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「真帆が飼ってた黒猫がいたんだよ。すごい気分屋でさ。撫でてほしいときだけ寄ってきて、あとは窓辺で外眺めてるの。あれにちょっと似てる」
言いながら、自分でも驚く。真帆の話を、こんな自然な調子で口に出せたのは、いつ以来だろう。
「君は別の子だって分かってるんだけどね」
子猫は、まるで「知ってるよ」とでも言うように、喉を鳴らした。その声は、列車の低い振動とまじりあって、ゆっくりと心の奥の方へ沈んでいく。
千尋はもう一度スマホを取り、下書きの一覧のいちばん下へスクロールした。そこには、タイトルも本文もない、空白の下書きがひとつだけあった。
作成日時は、十日前。真帆が倒れる前日の夜だ。
「これ……」
開いてみても、やはり何も書かれていない。白い画面の上に、カーソルだけが瞬いている。
本当は、そのとき千尋は何を書こうとしていたのだろう。仕事のぐちだったのか、謝罪の言葉だったのか。それとも、ただ「元気?」と打つつもりだったのか。
どんな言葉であっても、今よりはよほどましだった気がする。
送られなかった言葉たちが、こうして小さなフォルダの中に閉じ込められている。画面を見つめていると、列車の窓の外の闇と同じくらい、そこが深く感じられた。
「まもなく、山ノ辺。山ノ辺です」
アナウンスがまたひとつ、駅の名前を読み上げる。千尋は、目を離せなくなっていた空白の画面から視線を移し、窓の外を見た。
薄暗いホームに、小さな待合室がひとつ。その前に、誰かの背中が見えるような気がして、また胸がきゅっとなる。
列車は止まり、すぐにまた走り出す。通り過ぎていく駅。通り過ぎていく言葉たち。
「私、どこまでこうやって、通り過ぎさせるつもりだったんだろうね」
思わず、そんな言葉が漏れた。
子猫が、ごろりと仰向けになる。白い腹がちらりとのぞいた。千尋が指先でそこをつつくと、小さな前足でぺしっと押し返してくる。
「……そうだよね。いつまでも通り過ぎてばっかりじゃ、どこにも着かないよね」
自分で言いながら、やっとその意味が、少しだけ心に落ちていく。
真帆に送れなかった言葉。言えなかった本音。全部まとめて、どこかの駅のホームに置きっぱなしにしてきてしまったみたいだった。
この列車は、きっとそれを拾いに行く旅なのだ。
そんなことを考えた瞬間、胸のどこかが少しだけ軽くなった気がして、千尋はそっと目を閉じた。膝の上のぬくもりが、眠気と一緒に身体を包んでいく。
窓の外を、街の明かりがまたひとつ、またひとつ通り過ぎていった。



