モニターの光だけが、真夜中のオフィスを白く照らしていた。
 千尋はディスプレイににじむ赤字を、ぼんやりとした頭で追いかける。

「ここのボタン、もう少し大きく。あと、『無料』をもっと目立たせたいです」

 夕方に届いたクライアントメールを思い出す。そこからずっと、修正、また修正。何度もデザインデータを書き出して、チャットに送り、既読がつくたびに心臓がきゅっと縮む。

 気がつけば、コンビニおにぎりの袋がマグカップの横に積み上がっていた。マグカップの底には、冷めきったコーヒーが少しだけ残っている。

「……終わった」

 最後の修正データを送信し、千尋は小さく息を吐いた。時計を見ると、もう二十三時を過ぎている。オフィスには、フロアの隅でタイピングする音だけがぽつぽつと響いていた。

 帰ろう、と椅子から立ち上がったそのとき、スマホが震えた。

 机の上で光る画面。差出人の名前を見て、千尋の喉がかすかにつまる。

 陽菜。

 地元の友だちだ。高校の頃からのグループラインも、ここ最近はほとんど開いていなかった。

 嫌な予感がする。そう思いながらも、指は勝手に通知をタップしていた。

「千尋、見てたらすぐ連絡ほしい。真帆が……急に倒れて、そのまま……」

 文字の途中で、呼吸が止まった。

「嘘……」

 思わず声が漏れる。隣の席の同期がこちらを見る気配がしたが、千尋の耳には入らなかった。

 メッセージの続きを読み進める。救急車、病院、間に合わなかった、という単語が並ぶ。明日の朝、お通夜をやるらしい。場所と時間が、冷たい事務連絡みたいに淡々と書き添えられていた。

 真帆が。

 急に。

 亡くなった。

 頭の中で、その言葉だけが何度も反響する。ついさっきまで、色の指定やバナーのサイズで悩んでいた脳みそが、やっと現実の方へ振り向いたみたいだった。

 千尋はスマホを握りしめたまま、デスク横のロッカーにもたれかかる。膝から力が抜けそうになるのを、なんとかこらえる。

 真帆のアイコンが、画面の上の方に並んでいた。グループライン。最後に彼女から届いたメッセージは、まだ未読のまま、薄いグレーで止まっている。

「そんなに仕事が大事?」

 そこまで読んで、千尋は慌てて画面を閉じた。

 胸の奥が、じりじりと焼けるように痛い。あの夜以来、一度もちゃんと開けなかったトーク画面。その向こう側の相手は、もうどこにもいない。

 行かなきゃ。

 頭のどこかで、はっきりした声がした。

 でも、その声にぴったりくっつくみたいに、違う声も湧き上がる。

 本当に行けるの。明日も午前中に打ち合わせがある。デザインの再提案だ。ここで抜けたら、他のメンバーにしわ寄せがいく。上司の顔も浮かぶ。

「でも……」

 口の中に出した言葉は、途中でかすれて消えた。

 真帆の顔が、脳裏に浮かぶ。卒業式の日、笑いながら泣いていた顔。成人式の帰りに、コンビニ前で肉まんを頬張った顔。数か月前、電話越しに、ため息をつきながら言った顔。

『千尋、ほんとにそれで大丈夫なの』

 あの問いかけにも、ちゃんと答えられていなかった。

 千尋はもう一度時計を見る。二十三時半。終電は、まだギリギリあるかもしれない。

「すみません、今日、上がります」

 近くの席にいた先輩に声をかけると、先輩は目の下のクマをこすりながら「ああ、おつかれ」とだけ返した。誰も、千尋の手の震えまでは見ていない。

 コートとカバンをつかんで、エレベーターに飛び乗る。ビルを出ると、夜風が顔に当たった。ビルのガラス面に、自分の顔が映る。少しやつれた輪郭と、ぼさぼさになった前髪が目についた。

 そんな自分を見るのは、久しぶりな気がした。

 駅へ向かう途中、細い路地を抜けた先のビルの壁に、派手なポスターが貼られているのが目に入った。

「夜行急行 月影ライン 本日最終運行」

 白い車体に、薄い青のラインが走る列車のイラスト。その下には、夜の山々を背景に、星のような街灯が点々と描かれている。

 月影ライン。聞いたことのない路線名だった。観光列車か何かだろうか。

 でも、「本日最終運行」という文字だけが、やけに強く目に残った。

 一度きり。この先、もう二度と走らない列車。

 それは、どこかで「今逃したら、一生乗れないよ」と急かされているようにも感じられた。

 千尋は足を速める。ビルの間を抜け、ターミナル駅の明かりが見えてくる。

 駅ビルの時計は、二十三時五十五分を指していた。

 改札前の電光掲示板を見上げる。終電の表示は、すでに赤い文字で「発車済み」の欄に移っていた。

「あ……」

 足が止まる。肩から、がくりと力が抜けた。

 終電を逃した。

 こんな時に限って、と思いかけて、すぐに打ち消す。こんな時だからこそ、なのかもしれない。

 改札を通る人たちの波が、千尋の横をすり抜けていく。カップル、酔っぱらい、仕事帰りのスーツ姿。みんな、それぞれの帰る場所に向かって進んでいる。

 千尋には、今夜向かうべき場所があるはずなのに。足が床に貼りついたみたいに動かない。

「どうしよう……」

 小さくつぶやいたとき、視界の端で、あのポスターの車両がちらりとよぎった。

 夜行急行 月影ライン。

 もしかして、この駅から出ているのだろうか。

 千尋は、改札横の案内カウンターへ駆け寄った。深夜帯のせいか、窓口は一つしか開いていない。眠たそうな目をした駅員が、「どうされました」と声をかけてくる。

「あの、月影ラインって、この駅から出てますか」

「月影急行ですか。はい、この駅発ですよ。今日は特別に、二十四時二十分発で最終運行になってます」

 二十四時二十分。今からなら、まだ間に合う。

「乗るにはどうしたらいいですか」

「特急券が必要ですが、まだ少しお席がありますよ。行き先は、終点の空木駅ですけど、大丈夫ですか」

 空木駅。千尋の地元の最寄り駅から、さらに二つほど先の町だ。そこまで行けば、始発の在来線かバスで戻ってこられるだろう。

「大丈夫です。お願いします」

 自分の声とは思えないくらい、すっと答えが出た。考える前に口が動いていた。

 切符を受け取り、千尋は案内図を受け取る。月影ラインのホームは、一番奥の地下ホームだという。

 エスカレーターを降り、長い階段をさらに下りていく。薄暗い照明と、コンクリートの匂い。普通の在来線ホームとは、少し空気が違う。

 ホームに出ると、まだ列車は来ていなかった。広いホームに、人影はまばらだ。スーツケースを転がす人。大きなリュックを背負った学生風の二人組。ベンチでうつむいているおばあさん。

 電光掲示板には、「臨時 夜行急行 月影 空木行き 二十四時二十分発」と表示されている。

 千尋は、カバンの中のスマホを取り出した。陽菜のメッセージに、「明日の朝、そっちに着く。詳しいことは着いてから教えて」と短く打つ。打ちながら、指先が少し震えた。

 送信ボタンを押すと、すぐに「わかった。気をつけて」と返事が返ってくる。その速さに、向こう側の心配そうな顔が浮かぶようだった。

 ホームの端の方から、かすかな鳴き声が聞こえたのは、そのときだ。

「……ん?」

 電車のブレーキ音でも、人の声でもない。細く、どこか頼りない、でも諦めていないような響き。

 千尋は音の方へ顔を向けた。

 ホームのいちばん端。立ち入り禁止の黄色い線のずっと手前に、段ボール箱がぽつんと置かれている。箱の横には、小さく折りたたんだ紙がテープで貼られていた。

 近づくと、箱の中から、また鳴き声がする。

「……にゃあ」

 黒いものが、ふわりと動いた。

 目が慣れてくると、それが小さな黒い子猫だとわかった。頭と背中の毛が、まだ少しあまく立っている。つぶれそうなほど小さな耳が、ぴくりと揺れた。

「こんなところに……」

 思わず箱のふちに手をかける。子猫は、千尋の手を見上げて、丸い瞳をぱちぱちと瞬いた。真っ黒なはずの瞳なのに、ホームの照明を映して、小さな星が浮かんでいるみたいだった。

 箱の底には、古いタオルが一枚敷かれているだけだ。よく見ると、タオルの端が少し濡れている。誰かが、大急ぎでここに置いていったのだろうか。

 横に貼られた紙には、丸い字で一言だけ書かれていた。

「だれかお願いします」

 インクがところどころにじんでいる。書いた人の迷いごと、そのまま紙に染み込んだみたいだ。

「お願いしますって……」

 千尋は思わず声に出した。

 お願いされても。今から自分だって、どうなるかわからない旅に出るところなのに。

「にゃあ」

 子猫がもう一度鳴いた。その声は、さっきより少しだけ強く聞こえた。

 箱から前足を出して、千尋のスーツの裾を、ちょんと引っかく。細い爪が、布越しに肌に触れた。

 行かないの、と問われたみたいだった。

「……困った子だね」

 千尋は笑ったのか、泣いたのか、自分でも分からない声を出した。喉の奥が痛いのに、頬の筋肉だけが勝手に上がる。

 膝をつき、そっと子猫を抱き上げる。軽い。片手でも持ててしまいそうなほど軽いのに、その体温はしっかりと腕の中に広がった。

 ふわふわの毛の下に、小さな心臓がどきどきと打っているのが伝わってくる。そのリズムに、自分の心拍数が少しずつ引きずられていく。

「飼い主さん、いないのかな」

 周りを見回しても、箱を置いたらしい人影はどこにもない。ホームの向こう側では、大学生らしき二人組が自販機の前で笑い合っているだけだ。

「……一晩だけ、ね」

 千尋はしばらくの間、腕の中の子猫を見つめてから、そうつぶやいた。

「駅員さんに言ったら、保健所とかになっちゃうかもしれないし。とりあえず、私が預かるから」

 子猫は何も答えない。ただ、千尋のコートの襟に顔をうずめて、小さく喉を鳴らした。その震動が、胸のあたりまでじんわり響いてくる。

 腕の中のぬくもりに、張り詰めていたどこかが、ふっとほどけていく。

「よし。行こっか」

 千尋はカバンの中身を少し押し分けて、空いたスペースに子猫をそっと入れた。顔だけがひょこりと出る位置にして、上からマフラーをふんわりかぶせる。

 遠くで、ホームに列車が入ってくる音がした。レールをなぞるような低い振動が、足元から伝わってくる。

 真っ白なヘッドライトがトンネルの向こうから近づいてきて、やがて「月影」と書かれた列車の横顔が目の前に現れた。白い車体に、淡い青のライン。ポスターで見た絵そのままの姿だ。

 ドアが開き、やわらかい車内アナウンスが流れる。

「夜行急行 月影ライン、空木行きです」

 千尋はカバンの口元を一度確かめてから、列車の中へ一歩踏み出した。

 終電を逃した夜。腕の中に抱えた、小さな迷い猫と一緒に。