文化祭当日の朝、教室の前に立った瞬間、思わず「おお……」って声が漏れた。
いつもの2年A組の教室が、ちゃんと「店」になっている。
レースのカーテン、黒板横のメニュー表、天井から下がるレコード風の飾り。
どれも見慣れているはずなのに、今日だけ特別に見えるのは、多分、眠い目こすりながらみんなで作ったからだ。
「おー、結城。今日の店長、いい感じじゃん」
「店長じゃねえよ」
エプロン姿の小野に軽く肩を叩かれる。
うちのクラスは男女混合で、接客担当もエプロン着用に決まった。
紺色のシンプルなやつだけど、男でエプロンってやっぱり少し気恥ずかしい。
「いらっしゃいませ担当、頼んだぞ」
「いや、そんな担当名はないだろ」
「ある。俺が決めた」
小野は勝手に満足して、カウンターのほうへ行ってしまう。
その背中を見送りながら、ふと視線を感じて振り向くと──案の定、いた。
「先輩」
教室の入口のほうから、嬉しそうに手を振ってくる一年生。
うちのクラスの人数より存在感がある、うちの専属わんこ。
「おはようございます。エプロン似合ってます」
「お前、それ言うためにわざわざ今ここまで来ただろ」
「はい」
即答だ。
今日、水瀬は「ホール全般+呼び込み手伝い」という半分ボランティアみたいなポジションになっている。
自分のクラスの仕事もあるのに、「空いてる時間全部こっち来ます」って言い切ったあたり、本当に体力どこから出てるんだろう。
「先輩、メニュー表、めっちゃ評判いいですよ」
「もう誰か来たのか?」
「他のクラスの子が下見に来てて、『カフェっぽい』って言ってました」
「それ、褒め言葉で合ってるよな」
「もちろんです。だって、先輩の字、すごく綺麗で」
「またそれ」
でも、今日は素直に「ありがと」と言えた。
前みたいに「いやいや」とか「大したことない」とか、無理に受け流さなくてもいい気がして。
水瀬は、その「ありがと」を聞いただけで、目を輝かせる。
「今日一日で、先輩のいいところ、また増えそうです」
「勝手に増やすな」
「じゃあ、ちゃんと報告しますね。何個増えたか」
「結構です」
そう言いながらも、心のどこかでちょっとだけ楽しみにしている自分がいるのを、俺はもう知っている。
◇
開店時間になると、廊下のざわつきが一気に増した。
「いらっしゃいませー、2年A組レトロ喫茶、開店でーす!」
呼び込み担当の声が響く。
最初のうちは、様子見の生徒がチラチラ覗いていくだけだったが、じきにぽつぽつとお客さんが入り始めた。
「結城、入り口頼む。席空いてるかの案内と、水出し」
「了解」
俺は入口近くに立って、来てくれた生徒に軽く頭を下げる。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「そうでーす」
「じゃあ、こちらの席どうぞ」
言いながら、メニューを渡す。
昨日書いたメニュー表と同じフォントで清書された個別メニューだ。
何回か繰り返すうちに、緊張はだんだん薄れていった。
「先輩、めちゃくちゃ店員さんっぽいです」
合間を見てやってきた水瀬が、感心したようにつぶやく。
「ちゃんと声出てました。不安そうじゃなかったです」
「お前なりの褒め言葉だってことは分かるけど、『不安そうじゃなかった』って前提が失礼なんだよ」
「でも、最初のほう、ちょっと不安そうでした」
「否定できねえ」
図星を刺されて苦笑すると、水瀬がにこっと笑う。
「でも今は、本当にかっこいいです」
「さらっとそういうこと言うな」
「事実なので」
何度目だこのやり取り。
ただ、前よりも俺のほうが照れなくなっているのは、本当に進歩だと思う。
……まあ、心臓はちゃんと忙しいけど。
◇
ピークの時間帯は、さすがにバタバタした。
「オレンジジュース一つと、アイスティー二つ、追加!」
「氷、ちょっと多めにしてー!」
「皿、どこ置いたっけ!」
教室のあちこちから声が飛び交う。
俺は入口とホールを行ったり来たりして、飲み物を運んだり、空いたグラスを下げたり。
そんな中でも、水瀬はいつも通りだった。
「こちら、アイスティーになります。先輩のおすすめです」
「ちょ、勝手に俺の名前出すな」
「だって、先輩が好きな味なんで」
「だからって宣伝文句にするな」
でも、「先輩のおすすめ」って言われたテーブルの子が、「じゃあこれにしようかな」と注文してくれるのを見て、ちょっとだけ嬉しくなる。
「先輩、忙しいですか?」
「見れば分かるだろ」
「ですよね。手伝います」
「お前も自分のクラス戻らなくていいのかよ」
「休憩時間です。あと、うちのクラス、俺いなくても回るんで」
「うちのクラスも多分回るぞ」
「俺は先輩のところにいたいんで」
さらっと言い切る。
こういうところ、本当に変わらないなと思う。
でも、その「いたいんで」を聞いて、胸の中があたたかくなるのも、やっぱり変わらない。
◇
少しだけ落ち着いた時間帯。客席も半分くらい埋まっていて、ほどよくざわついている。
「結城ー、水のピッチャー、入り口横に置いといてくれ」
「ああ」
言われた通りにしようとしたところで、後ろからひょいっとピッチャーを奪われた。
「俺、持っていきます」
「普通に言いなさいよ」
「先輩の近くの仕事、なるべく俺がやりたいんで」
「意味分かんねえ」
「分かんなくていいです」
そう言いつつ、俺のすぐ脇のテーブルにピッチャーを置く。
そのとき、後ろの席から女子がひそひそ声で言うのが聞こえた。
「ねえねえ、あの一年くん、結城くんのことすごい見てない?」
「分かる。ずっとそばにいるよね」
「仲良しなんだ。かわい」
そこまで聞いて、思わず耳まで熱くなる。
横を見ると、水瀬も聞こえていたらしく、ちょっとだけ頬が赤い。
「……聞こえました?」
「聞こえた」
「恥ずかしいですね」
「自覚あったのかよ」
「そりゃあ、見てますし」
悪びれる気ゼロ。
でも、その「見てますし」に、少しだけ胸が安定する。
前の俺なら、「そんなに見られるような価値ないのに」とか、「変なやつって思われたらどうしよう」とか、そういう方向に考えていたかもしれない。
今は、不思議とそこまで不安じゃない。
この一年は、俺を見てくれることをやめないだろうって、何となく確信みたいなものがあるから。
◇
「ねえ、結城」
少し落ち着いたタイミングで、クラスメイトの女子がひょいっと近づいてきた。
「何」
「さっき、一年の子に『先輩のことずっと見てます』って言われてたよね」
「聞こえてたのか」
「めちゃくちゃ聞こえてた」
女子はニヤニヤ笑う。
「あの子、結城のこと好きでしょ」
「……さあ」
はぐらかそうとしたけど、女子は軽く肩をすくめる。
「まあ、言いたくなかったらいいけどさ。でも、見てれば分かるよ」
「何が」
「結城も、あの子のこと好きでしょ」
心臓が一拍、大きく跳ねた。
顔に出たんだろう。女子は「あー」と楽しそうに声を上げる。
「やっぱり。変な顔した」
「うるさい」
「でも、いいね。文化祭でそういうのって」
「そういうのって何だよ」
「青春」
それだけ言って、女子はひらひら手を振って離れていった。
残された俺は、なんとなく落ち着かない気持ちで立ち尽くす。
……そうか。
周りから見ても、そう見えるんだ。
俺と水瀬のこの距離は、「後輩と先輩」以上になってるんだって、第三者に言われたみたいで。
それが恥ずかしいような、嬉しいような、変な感じだった。
でも、嫌ではなかった。
◇
午後も山場を越え、ラストオーダーの時間が近づく。
「はい、こちら最後のお客さまですね」
小野が声を上げる。
「ラストオーダー入りましたー!」
教室の空気が少しだけゆるんで、「もう終わるんだ」という空気になる。
最後のお客さんを見送って、「本日はご来店ありがとうございました」と言ったとき、少しだけ名残惜しくなった。
忙しかったけど、楽しかった。
何より、自分がちゃんと「店員」として働けたことが、少し誇らしい。
「先輩、お疲れさまです」
片づけが始まった教室の隅で、水瀬がペットボトルのお茶を差し出してきた。
「喉、乾いてると思って」
「気が利くな」
「先輩観察歴、一年半なんで」
「長いな」
でも、その長さが今はちょっとだけ心強い。
「今日さ」
「はい」
「どうだった?」
「楽しかったです。ずっと先輩見てられたんで」
「もっと他に感想あるだろ」
「ありますけど、一番はそれです」
迷いなく言われて、苦笑する。
「先輩は、どうでした?」
「俺?」
「はい。文化祭」
少しだけ考えてから、正直に答える。
「……思ったより、自分のこと嫌いじゃなかった」
水瀬が、目を丸くした。
「接客、俺がやったほうがいいって言われたときも。前だったら『俺なんか向いてない』って思ってたと思うけど」
「うん」
「今日は、ちゃんとやろうって思えたし。メニュー表だって、『俺が書いたからこそ』って思ってもいいのかなって、少しだけだけど」
「思っていいです」
即答が返ってくる。
「むしろ、思ってくれないと困ります」
「お前の中の俺、どんだけ評価高いんだよ」
「高いです。世界一です」
「やめろ、世界縮小しすぎだろ」
ツッコみつつも、心の中の何かがじわっと溶ける気がする。
昔の俺だったら、こんなに素直に話せなかった。
水瀬が「味方だ」と言い続けてくれたからこそ、今の俺がいる。
「……なあ、水瀬」
「はい」
「お前さ」
「はい」
「今、俺の好きなところ、何個くらい言えるんだ?」
少しからかうつもりで聞いたのに、水瀬は真面目な顔になった。
「えっとですね」
「数えるな」
「ざっくりですけど」
「ざっくり数えるな」
「七十は超えてます」
「マジで?」
「マジです」
即答だった。
「今日だけでも増えましたし」
「今日、何で増えたんだよ」
「エプロン似合ってたところと」
「そこ?」
「忙しくても誰にもきつく当たらなかったところと」
「いや、それ普通だろ」
「普通じゃないです。疲れてると態度に出ちゃう人、多いんで」
真剣な声で言われて、むしろこっちが照れる。
「最後のお客さんに一番丁寧に挨拶してたところ」
「そんなとこ見てんのかよ」
「見てます」
きっぱり。
「そういうの全部込みで、七十超えです」
「お前のカウント、基準甘くない?」
「甘くないです」
水瀬は少しだけ顔を近づけて、ふっと笑った。
「先輩の好きなところ、ひとつ選ぶなら」
その言い方に、胸がどくんと鳴る。
「……全部です」
短く、はっきりと言われた。
音楽も掛かっていない教室のざわめきの中で、その言葉だけがやけにクリアに耳に届く。
全部。
自分で「ここ直したい」とか「ここがダメだ」と思ってるところも含めて、「全部」と言われたみたいで。
「……そんなの、ずるいだろ」
やっと出た声は、情けないくらい小さかった。
「何がですか?」
「全部って言われたら、俺、もう何も否定できねえじゃん」
「狙い通りです」
さらっと怖いことを言う。
「先輩が自分のこと否定するとき、片っ端から『でもそれも好きです』って潰したいんで」
「物騒な言い方すんな」
「でも、本気です」
ふざけているようで、その目は真剣だった。
「全部って言っても、何でもかんでも無条件にOKってことじゃないですよ」
「うん?」
「先輩ががんばるところも、落ち込むところも、へこんでまた立ち上がるところも、変なところも、真面目すぎるところも」
「変なところって言ったな」
「それも含めて、結城先輩だなって思うから」
少し照れたように笑う。
「だから、一つだけ選べって言われたら、『そういう全部』が好きって言います」
そんな言葉、ずるいに決まってる。
もう、いつもの「どうせ俺なんか」って声が入り込む隙間がない。
代わりに、胸の中にあたたかい何かが広がっていく。
こんなふうに言ってもらえるなんて、去年の俺が知ったら驚くだろうな。
「……ありがとな」
気づけば、その言葉が自然に出ていた。
何度言っても足りない気がする感謝だけど、今の俺にはこれくらいしか言えない。
「はい」
水瀬は、嬉しそうに目を細める。
周りでは、クラスメイトがテーブルを片づけたり、飾りを外したりしていて。
さっきまで「店」だった教室が、少しずつ普通の教室に戻っていく。
「なあ、水瀬」
「はい」
「これからもさ」
片づけが進んで、黒板のメニューも消されかけているのを見ながら、ぽつりと言う。
「お前が俺のいいところ百個言ってる間に」
「はい」
「俺も、お前のいいところ、ちゃんと探すから」
昨日も似たようなことを言った気がするけど、改めて口にしたかった。
「だから、その……」
「その?」
「ずっと、そばにいていいか」
自分で言っておいて、顔が熱くなる。
水瀬は、一瞬固まって、それからゆっくり笑った。
「いいに決まってるじゃないですか」
あっさりと返される。
「むしろ、俺のほうが聞きたかったです」
「何を」
「先輩、俺のそばにずっといてくれますかって」
「……お前、先に言えよ」
「今、言いました」
「ずる」
口ではそう言いながら、心のどこかでは「まあ、こいつらしいか」と思っている自分もいた。
「じゃあ、改めて」
水瀬は、手に持っていたトレイを机に置いて、片手を俺のほうに差し出してきた。
「これからも、よろしくお願いします、先輩」
その言い方が、いつもより少しだけかしこまっていて、思わず笑ってしまう。
「こっちこそ」
差し出された手を握り返す。
手のひらの感触は、昨日と同じで。
でも、今日のほうが少しだけ、確かなものになった気がした。
◇
飾りが全部外されて、黒板もすっかり元どおりになった教室。
それでも、今日ここであったことは、多分ずっと忘れない。
メニュー表を書いて、接客して、ミスしないように必死になって。
隣にはいつも、水瀬がいて。
何度も俺の「いいところ」を拾い上げてくれた。
そんな一日が、俺の中の「自分なんか」という声を、少しずつ小さくしてくれた気がする。
これからも、多分失敗するだろうし、落ち込むこともあると思う。
でも、そのたびに、「先輩の好きなところ、全部です」って言ってくれた今日の水瀬の顔を思い出すんだろう。
それだけで、きっとまた前を向ける。
「先輩」
「ん」
「明日からも、毎日話しかけに行っていいですか」
「今さら確認すんな」
「一応、正式に」
「……いいよ」
笑って答える。
「その代わり、俺もお前んとこ行くからな」
「大歓迎です」
嬉しそうに笑うその横顔を見ながら、ふと思う。
この先、どんなことがあっても。
こいつと一緒なら、たぶん大丈夫だ。
そう思えるくらいには、俺はもう、水瀬のことを信じてる。
そして、そんな水瀬に「好きだ」と言われた自分のことも──少しずつ、信じられるようになってきている。
文化祭の喧騒が遠のいた廊下を並んで歩きながら、俺はそっと隣の手を握り直した。
その手の温度を、ずっと忘れないように。
これから先も、ゆっくりでいいから。
水瀬と一緒に、自分のことを少しずつ好きになっていけたらいいな、と。
そんなことを、真面目に考えている自分に、ちょっとだけ笑ってしまった。
いつもの2年A組の教室が、ちゃんと「店」になっている。
レースのカーテン、黒板横のメニュー表、天井から下がるレコード風の飾り。
どれも見慣れているはずなのに、今日だけ特別に見えるのは、多分、眠い目こすりながらみんなで作ったからだ。
「おー、結城。今日の店長、いい感じじゃん」
「店長じゃねえよ」
エプロン姿の小野に軽く肩を叩かれる。
うちのクラスは男女混合で、接客担当もエプロン着用に決まった。
紺色のシンプルなやつだけど、男でエプロンってやっぱり少し気恥ずかしい。
「いらっしゃいませ担当、頼んだぞ」
「いや、そんな担当名はないだろ」
「ある。俺が決めた」
小野は勝手に満足して、カウンターのほうへ行ってしまう。
その背中を見送りながら、ふと視線を感じて振り向くと──案の定、いた。
「先輩」
教室の入口のほうから、嬉しそうに手を振ってくる一年生。
うちのクラスの人数より存在感がある、うちの専属わんこ。
「おはようございます。エプロン似合ってます」
「お前、それ言うためにわざわざ今ここまで来ただろ」
「はい」
即答だ。
今日、水瀬は「ホール全般+呼び込み手伝い」という半分ボランティアみたいなポジションになっている。
自分のクラスの仕事もあるのに、「空いてる時間全部こっち来ます」って言い切ったあたり、本当に体力どこから出てるんだろう。
「先輩、メニュー表、めっちゃ評判いいですよ」
「もう誰か来たのか?」
「他のクラスの子が下見に来てて、『カフェっぽい』って言ってました」
「それ、褒め言葉で合ってるよな」
「もちろんです。だって、先輩の字、すごく綺麗で」
「またそれ」
でも、今日は素直に「ありがと」と言えた。
前みたいに「いやいや」とか「大したことない」とか、無理に受け流さなくてもいい気がして。
水瀬は、その「ありがと」を聞いただけで、目を輝かせる。
「今日一日で、先輩のいいところ、また増えそうです」
「勝手に増やすな」
「じゃあ、ちゃんと報告しますね。何個増えたか」
「結構です」
そう言いながらも、心のどこかでちょっとだけ楽しみにしている自分がいるのを、俺はもう知っている。
◇
開店時間になると、廊下のざわつきが一気に増した。
「いらっしゃいませー、2年A組レトロ喫茶、開店でーす!」
呼び込み担当の声が響く。
最初のうちは、様子見の生徒がチラチラ覗いていくだけだったが、じきにぽつぽつとお客さんが入り始めた。
「結城、入り口頼む。席空いてるかの案内と、水出し」
「了解」
俺は入口近くに立って、来てくれた生徒に軽く頭を下げる。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「そうでーす」
「じゃあ、こちらの席どうぞ」
言いながら、メニューを渡す。
昨日書いたメニュー表と同じフォントで清書された個別メニューだ。
何回か繰り返すうちに、緊張はだんだん薄れていった。
「先輩、めちゃくちゃ店員さんっぽいです」
合間を見てやってきた水瀬が、感心したようにつぶやく。
「ちゃんと声出てました。不安そうじゃなかったです」
「お前なりの褒め言葉だってことは分かるけど、『不安そうじゃなかった』って前提が失礼なんだよ」
「でも、最初のほう、ちょっと不安そうでした」
「否定できねえ」
図星を刺されて苦笑すると、水瀬がにこっと笑う。
「でも今は、本当にかっこいいです」
「さらっとそういうこと言うな」
「事実なので」
何度目だこのやり取り。
ただ、前よりも俺のほうが照れなくなっているのは、本当に進歩だと思う。
……まあ、心臓はちゃんと忙しいけど。
◇
ピークの時間帯は、さすがにバタバタした。
「オレンジジュース一つと、アイスティー二つ、追加!」
「氷、ちょっと多めにしてー!」
「皿、どこ置いたっけ!」
教室のあちこちから声が飛び交う。
俺は入口とホールを行ったり来たりして、飲み物を運んだり、空いたグラスを下げたり。
そんな中でも、水瀬はいつも通りだった。
「こちら、アイスティーになります。先輩のおすすめです」
「ちょ、勝手に俺の名前出すな」
「だって、先輩が好きな味なんで」
「だからって宣伝文句にするな」
でも、「先輩のおすすめ」って言われたテーブルの子が、「じゃあこれにしようかな」と注文してくれるのを見て、ちょっとだけ嬉しくなる。
「先輩、忙しいですか?」
「見れば分かるだろ」
「ですよね。手伝います」
「お前も自分のクラス戻らなくていいのかよ」
「休憩時間です。あと、うちのクラス、俺いなくても回るんで」
「うちのクラスも多分回るぞ」
「俺は先輩のところにいたいんで」
さらっと言い切る。
こういうところ、本当に変わらないなと思う。
でも、その「いたいんで」を聞いて、胸の中があたたかくなるのも、やっぱり変わらない。
◇
少しだけ落ち着いた時間帯。客席も半分くらい埋まっていて、ほどよくざわついている。
「結城ー、水のピッチャー、入り口横に置いといてくれ」
「ああ」
言われた通りにしようとしたところで、後ろからひょいっとピッチャーを奪われた。
「俺、持っていきます」
「普通に言いなさいよ」
「先輩の近くの仕事、なるべく俺がやりたいんで」
「意味分かんねえ」
「分かんなくていいです」
そう言いつつ、俺のすぐ脇のテーブルにピッチャーを置く。
そのとき、後ろの席から女子がひそひそ声で言うのが聞こえた。
「ねえねえ、あの一年くん、結城くんのことすごい見てない?」
「分かる。ずっとそばにいるよね」
「仲良しなんだ。かわい」
そこまで聞いて、思わず耳まで熱くなる。
横を見ると、水瀬も聞こえていたらしく、ちょっとだけ頬が赤い。
「……聞こえました?」
「聞こえた」
「恥ずかしいですね」
「自覚あったのかよ」
「そりゃあ、見てますし」
悪びれる気ゼロ。
でも、その「見てますし」に、少しだけ胸が安定する。
前の俺なら、「そんなに見られるような価値ないのに」とか、「変なやつって思われたらどうしよう」とか、そういう方向に考えていたかもしれない。
今は、不思議とそこまで不安じゃない。
この一年は、俺を見てくれることをやめないだろうって、何となく確信みたいなものがあるから。
◇
「ねえ、結城」
少し落ち着いたタイミングで、クラスメイトの女子がひょいっと近づいてきた。
「何」
「さっき、一年の子に『先輩のことずっと見てます』って言われてたよね」
「聞こえてたのか」
「めちゃくちゃ聞こえてた」
女子はニヤニヤ笑う。
「あの子、結城のこと好きでしょ」
「……さあ」
はぐらかそうとしたけど、女子は軽く肩をすくめる。
「まあ、言いたくなかったらいいけどさ。でも、見てれば分かるよ」
「何が」
「結城も、あの子のこと好きでしょ」
心臓が一拍、大きく跳ねた。
顔に出たんだろう。女子は「あー」と楽しそうに声を上げる。
「やっぱり。変な顔した」
「うるさい」
「でも、いいね。文化祭でそういうのって」
「そういうのって何だよ」
「青春」
それだけ言って、女子はひらひら手を振って離れていった。
残された俺は、なんとなく落ち着かない気持ちで立ち尽くす。
……そうか。
周りから見ても、そう見えるんだ。
俺と水瀬のこの距離は、「後輩と先輩」以上になってるんだって、第三者に言われたみたいで。
それが恥ずかしいような、嬉しいような、変な感じだった。
でも、嫌ではなかった。
◇
午後も山場を越え、ラストオーダーの時間が近づく。
「はい、こちら最後のお客さまですね」
小野が声を上げる。
「ラストオーダー入りましたー!」
教室の空気が少しだけゆるんで、「もう終わるんだ」という空気になる。
最後のお客さんを見送って、「本日はご来店ありがとうございました」と言ったとき、少しだけ名残惜しくなった。
忙しかったけど、楽しかった。
何より、自分がちゃんと「店員」として働けたことが、少し誇らしい。
「先輩、お疲れさまです」
片づけが始まった教室の隅で、水瀬がペットボトルのお茶を差し出してきた。
「喉、乾いてると思って」
「気が利くな」
「先輩観察歴、一年半なんで」
「長いな」
でも、その長さが今はちょっとだけ心強い。
「今日さ」
「はい」
「どうだった?」
「楽しかったです。ずっと先輩見てられたんで」
「もっと他に感想あるだろ」
「ありますけど、一番はそれです」
迷いなく言われて、苦笑する。
「先輩は、どうでした?」
「俺?」
「はい。文化祭」
少しだけ考えてから、正直に答える。
「……思ったより、自分のこと嫌いじゃなかった」
水瀬が、目を丸くした。
「接客、俺がやったほうがいいって言われたときも。前だったら『俺なんか向いてない』って思ってたと思うけど」
「うん」
「今日は、ちゃんとやろうって思えたし。メニュー表だって、『俺が書いたからこそ』って思ってもいいのかなって、少しだけだけど」
「思っていいです」
即答が返ってくる。
「むしろ、思ってくれないと困ります」
「お前の中の俺、どんだけ評価高いんだよ」
「高いです。世界一です」
「やめろ、世界縮小しすぎだろ」
ツッコみつつも、心の中の何かがじわっと溶ける気がする。
昔の俺だったら、こんなに素直に話せなかった。
水瀬が「味方だ」と言い続けてくれたからこそ、今の俺がいる。
「……なあ、水瀬」
「はい」
「お前さ」
「はい」
「今、俺の好きなところ、何個くらい言えるんだ?」
少しからかうつもりで聞いたのに、水瀬は真面目な顔になった。
「えっとですね」
「数えるな」
「ざっくりですけど」
「ざっくり数えるな」
「七十は超えてます」
「マジで?」
「マジです」
即答だった。
「今日だけでも増えましたし」
「今日、何で増えたんだよ」
「エプロン似合ってたところと」
「そこ?」
「忙しくても誰にもきつく当たらなかったところと」
「いや、それ普通だろ」
「普通じゃないです。疲れてると態度に出ちゃう人、多いんで」
真剣な声で言われて、むしろこっちが照れる。
「最後のお客さんに一番丁寧に挨拶してたところ」
「そんなとこ見てんのかよ」
「見てます」
きっぱり。
「そういうの全部込みで、七十超えです」
「お前のカウント、基準甘くない?」
「甘くないです」
水瀬は少しだけ顔を近づけて、ふっと笑った。
「先輩の好きなところ、ひとつ選ぶなら」
その言い方に、胸がどくんと鳴る。
「……全部です」
短く、はっきりと言われた。
音楽も掛かっていない教室のざわめきの中で、その言葉だけがやけにクリアに耳に届く。
全部。
自分で「ここ直したい」とか「ここがダメだ」と思ってるところも含めて、「全部」と言われたみたいで。
「……そんなの、ずるいだろ」
やっと出た声は、情けないくらい小さかった。
「何がですか?」
「全部って言われたら、俺、もう何も否定できねえじゃん」
「狙い通りです」
さらっと怖いことを言う。
「先輩が自分のこと否定するとき、片っ端から『でもそれも好きです』って潰したいんで」
「物騒な言い方すんな」
「でも、本気です」
ふざけているようで、その目は真剣だった。
「全部って言っても、何でもかんでも無条件にOKってことじゃないですよ」
「うん?」
「先輩ががんばるところも、落ち込むところも、へこんでまた立ち上がるところも、変なところも、真面目すぎるところも」
「変なところって言ったな」
「それも含めて、結城先輩だなって思うから」
少し照れたように笑う。
「だから、一つだけ選べって言われたら、『そういう全部』が好きって言います」
そんな言葉、ずるいに決まってる。
もう、いつもの「どうせ俺なんか」って声が入り込む隙間がない。
代わりに、胸の中にあたたかい何かが広がっていく。
こんなふうに言ってもらえるなんて、去年の俺が知ったら驚くだろうな。
「……ありがとな」
気づけば、その言葉が自然に出ていた。
何度言っても足りない気がする感謝だけど、今の俺にはこれくらいしか言えない。
「はい」
水瀬は、嬉しそうに目を細める。
周りでは、クラスメイトがテーブルを片づけたり、飾りを外したりしていて。
さっきまで「店」だった教室が、少しずつ普通の教室に戻っていく。
「なあ、水瀬」
「はい」
「これからもさ」
片づけが進んで、黒板のメニューも消されかけているのを見ながら、ぽつりと言う。
「お前が俺のいいところ百個言ってる間に」
「はい」
「俺も、お前のいいところ、ちゃんと探すから」
昨日も似たようなことを言った気がするけど、改めて口にしたかった。
「だから、その……」
「その?」
「ずっと、そばにいていいか」
自分で言っておいて、顔が熱くなる。
水瀬は、一瞬固まって、それからゆっくり笑った。
「いいに決まってるじゃないですか」
あっさりと返される。
「むしろ、俺のほうが聞きたかったです」
「何を」
「先輩、俺のそばにずっといてくれますかって」
「……お前、先に言えよ」
「今、言いました」
「ずる」
口ではそう言いながら、心のどこかでは「まあ、こいつらしいか」と思っている自分もいた。
「じゃあ、改めて」
水瀬は、手に持っていたトレイを机に置いて、片手を俺のほうに差し出してきた。
「これからも、よろしくお願いします、先輩」
その言い方が、いつもより少しだけかしこまっていて、思わず笑ってしまう。
「こっちこそ」
差し出された手を握り返す。
手のひらの感触は、昨日と同じで。
でも、今日のほうが少しだけ、確かなものになった気がした。
◇
飾りが全部外されて、黒板もすっかり元どおりになった教室。
それでも、今日ここであったことは、多分ずっと忘れない。
メニュー表を書いて、接客して、ミスしないように必死になって。
隣にはいつも、水瀬がいて。
何度も俺の「いいところ」を拾い上げてくれた。
そんな一日が、俺の中の「自分なんか」という声を、少しずつ小さくしてくれた気がする。
これからも、多分失敗するだろうし、落ち込むこともあると思う。
でも、そのたびに、「先輩の好きなところ、全部です」って言ってくれた今日の水瀬の顔を思い出すんだろう。
それだけで、きっとまた前を向ける。
「先輩」
「ん」
「明日からも、毎日話しかけに行っていいですか」
「今さら確認すんな」
「一応、正式に」
「……いいよ」
笑って答える。
「その代わり、俺もお前んとこ行くからな」
「大歓迎です」
嬉しそうに笑うその横顔を見ながら、ふと思う。
この先、どんなことがあっても。
こいつと一緒なら、たぶん大丈夫だ。
そう思えるくらいには、俺はもう、水瀬のことを信じてる。
そして、そんな水瀬に「好きだ」と言われた自分のことも──少しずつ、信じられるようになってきている。
文化祭の喧騒が遠のいた廊下を並んで歩きながら、俺はそっと隣の手を握り直した。
その手の温度を、ずっと忘れないように。
これから先も、ゆっくりでいいから。
水瀬と一緒に、自分のことを少しずつ好きになっていけたらいいな、と。
そんなことを、真面目に考えている自分に、ちょっとだけ笑ってしまった。



