文化祭当日の朝、教室の前に立った瞬間、思わず「おお……」って声が漏れた。

 いつもの2年A組の教室が、ちゃんと「店」になっている。

 レースのカーテン、黒板横のメニュー表、天井から下がるレコード風の飾り。
 どれも見慣れているはずなのに、今日だけ特別に見えるのは、多分、眠い目こすりながらみんなで作ったからだ。

「おー、結城。今日の店長、いい感じじゃん」

「店長じゃねえよ」

 エプロン姿の小野に軽く肩を叩かれる。

 うちのクラスは男女混合で、接客担当もエプロン着用に決まった。
 紺色のシンプルなやつだけど、男でエプロンってやっぱり少し気恥ずかしい。

「いらっしゃいませ担当、頼んだぞ」

「いや、そんな担当名はないだろ」

「ある。俺が決めた」

 小野は勝手に満足して、カウンターのほうへ行ってしまう。

 その背中を見送りながら、ふと視線を感じて振り向くと──案の定、いた。

「先輩」

 教室の入口のほうから、嬉しそうに手を振ってくる一年生。
 うちのクラスの人数より存在感がある、うちの専属わんこ。

「おはようございます。エプロン似合ってます」

「お前、それ言うためにわざわざ今ここまで来ただろ」

「はい」

 即答だ。

 今日、水瀬は「ホール全般+呼び込み手伝い」という半分ボランティアみたいなポジションになっている。
 自分のクラスの仕事もあるのに、「空いてる時間全部こっち来ます」って言い切ったあたり、本当に体力どこから出てるんだろう。

「先輩、メニュー表、めっちゃ評判いいですよ」

「もう誰か来たのか?」

「他のクラスの子が下見に来てて、『カフェっぽい』って言ってました」

「それ、褒め言葉で合ってるよな」

「もちろんです。だって、先輩の字、すごく綺麗で」

「またそれ」

 でも、今日は素直に「ありがと」と言えた。

 前みたいに「いやいや」とか「大したことない」とか、無理に受け流さなくてもいい気がして。

 水瀬は、その「ありがと」を聞いただけで、目を輝かせる。

「今日一日で、先輩のいいところ、また増えそうです」

「勝手に増やすな」

「じゃあ、ちゃんと報告しますね。何個増えたか」

「結構です」

 そう言いながらも、心のどこかでちょっとだけ楽しみにしている自分がいるのを、俺はもう知っている。

     ◇

 開店時間になると、廊下のざわつきが一気に増した。

「いらっしゃいませー、2年A組レトロ喫茶、開店でーす!」

 呼び込み担当の声が響く。
 最初のうちは、様子見の生徒がチラチラ覗いていくだけだったが、じきにぽつぽつとお客さんが入り始めた。

「結城、入り口頼む。席空いてるかの案内と、水出し」

「了解」

 俺は入口近くに立って、来てくれた生徒に軽く頭を下げる。

「いらっしゃいませ。二名様ですか?」

「そうでーす」

「じゃあ、こちらの席どうぞ」

 言いながら、メニューを渡す。
 昨日書いたメニュー表と同じフォントで清書された個別メニューだ。

 何回か繰り返すうちに、緊張はだんだん薄れていった。

「先輩、めちゃくちゃ店員さんっぽいです」

 合間を見てやってきた水瀬が、感心したようにつぶやく。

「ちゃんと声出てました。不安そうじゃなかったです」

「お前なりの褒め言葉だってことは分かるけど、『不安そうじゃなかった』って前提が失礼なんだよ」

「でも、最初のほう、ちょっと不安そうでした」

「否定できねえ」

 図星を刺されて苦笑すると、水瀬がにこっと笑う。

「でも今は、本当にかっこいいです」

「さらっとそういうこと言うな」

「事実なので」

 何度目だこのやり取り。

 ただ、前よりも俺のほうが照れなくなっているのは、本当に進歩だと思う。

 ……まあ、心臓はちゃんと忙しいけど。

     ◇

 ピークの時間帯は、さすがにバタバタした。

「オレンジジュース一つと、アイスティー二つ、追加!」

「氷、ちょっと多めにしてー!」

「皿、どこ置いたっけ!」

 教室のあちこちから声が飛び交う。

 俺は入口とホールを行ったり来たりして、飲み物を運んだり、空いたグラスを下げたり。

 そんな中でも、水瀬はいつも通りだった。

「こちら、アイスティーになります。先輩のおすすめです」

「ちょ、勝手に俺の名前出すな」

「だって、先輩が好きな味なんで」

「だからって宣伝文句にするな」

 でも、「先輩のおすすめ」って言われたテーブルの子が、「じゃあこれにしようかな」と注文してくれるのを見て、ちょっとだけ嬉しくなる。

「先輩、忙しいですか?」

「見れば分かるだろ」

「ですよね。手伝います」

「お前も自分のクラス戻らなくていいのかよ」

「休憩時間です。あと、うちのクラス、俺いなくても回るんで」

「うちのクラスも多分回るぞ」

「俺は先輩のところにいたいんで」

 さらっと言い切る。

 こういうところ、本当に変わらないなと思う。

 でも、その「いたいんで」を聞いて、胸の中があたたかくなるのも、やっぱり変わらない。

     ◇

 少しだけ落ち着いた時間帯。客席も半分くらい埋まっていて、ほどよくざわついている。

「結城ー、水のピッチャー、入り口横に置いといてくれ」

「ああ」

 言われた通りにしようとしたところで、後ろからひょいっとピッチャーを奪われた。

「俺、持っていきます」

「普通に言いなさいよ」

「先輩の近くの仕事、なるべく俺がやりたいんで」

「意味分かんねえ」

「分かんなくていいです」

 そう言いつつ、俺のすぐ脇のテーブルにピッチャーを置く。

 そのとき、後ろの席から女子がひそひそ声で言うのが聞こえた。

「ねえねえ、あの一年くん、結城くんのことすごい見てない?」

「分かる。ずっとそばにいるよね」

「仲良しなんだ。かわい」

 そこまで聞いて、思わず耳まで熱くなる。

 横を見ると、水瀬も聞こえていたらしく、ちょっとだけ頬が赤い。

「……聞こえました?」

「聞こえた」

「恥ずかしいですね」

「自覚あったのかよ」

「そりゃあ、見てますし」

 悪びれる気ゼロ。

 でも、その「見てますし」に、少しだけ胸が安定する。

 前の俺なら、「そんなに見られるような価値ないのに」とか、「変なやつって思われたらどうしよう」とか、そういう方向に考えていたかもしれない。

 今は、不思議とそこまで不安じゃない。

 この一年は、俺を見てくれることをやめないだろうって、何となく確信みたいなものがあるから。

     ◇

「ねえ、結城」

 少し落ち着いたタイミングで、クラスメイトの女子がひょいっと近づいてきた。

「何」

「さっき、一年の子に『先輩のことずっと見てます』って言われてたよね」

「聞こえてたのか」

「めちゃくちゃ聞こえてた」

 女子はニヤニヤ笑う。

「あの子、結城のこと好きでしょ」

「……さあ」

 はぐらかそうとしたけど、女子は軽く肩をすくめる。

「まあ、言いたくなかったらいいけどさ。でも、見てれば分かるよ」

「何が」

「結城も、あの子のこと好きでしょ」

 心臓が一拍、大きく跳ねた。

 顔に出たんだろう。女子は「あー」と楽しそうに声を上げる。

「やっぱり。変な顔した」

「うるさい」

「でも、いいね。文化祭でそういうのって」

「そういうのって何だよ」

「青春」

 それだけ言って、女子はひらひら手を振って離れていった。

 残された俺は、なんとなく落ち着かない気持ちで立ち尽くす。

 ……そうか。
 周りから見ても、そう見えるんだ。

 俺と水瀬のこの距離は、「後輩と先輩」以上になってるんだって、第三者に言われたみたいで。
 それが恥ずかしいような、嬉しいような、変な感じだった。

 でも、嫌ではなかった。

     ◇

 午後も山場を越え、ラストオーダーの時間が近づく。

「はい、こちら最後のお客さまですね」

 小野が声を上げる。

「ラストオーダー入りましたー!」

 教室の空気が少しだけゆるんで、「もう終わるんだ」という空気になる。

 最後のお客さんを見送って、「本日はご来店ありがとうございました」と言ったとき、少しだけ名残惜しくなった。

 忙しかったけど、楽しかった。
 何より、自分がちゃんと「店員」として働けたことが、少し誇らしい。

「先輩、お疲れさまです」

 片づけが始まった教室の隅で、水瀬がペットボトルのお茶を差し出してきた。

「喉、乾いてると思って」

「気が利くな」

「先輩観察歴、一年半なんで」

「長いな」

 でも、その長さが今はちょっとだけ心強い。

「今日さ」

「はい」

「どうだった?」

「楽しかったです。ずっと先輩見てられたんで」

「もっと他に感想あるだろ」

「ありますけど、一番はそれです」

 迷いなく言われて、苦笑する。

「先輩は、どうでした?」

「俺?」

「はい。文化祭」

 少しだけ考えてから、正直に答える。

「……思ったより、自分のこと嫌いじゃなかった」

 水瀬が、目を丸くした。

「接客、俺がやったほうがいいって言われたときも。前だったら『俺なんか向いてない』って思ってたと思うけど」

「うん」

「今日は、ちゃんとやろうって思えたし。メニュー表だって、『俺が書いたからこそ』って思ってもいいのかなって、少しだけだけど」

「思っていいです」

 即答が返ってくる。

「むしろ、思ってくれないと困ります」

「お前の中の俺、どんだけ評価高いんだよ」

「高いです。世界一です」

「やめろ、世界縮小しすぎだろ」

 ツッコみつつも、心の中の何かがじわっと溶ける気がする。

 昔の俺だったら、こんなに素直に話せなかった。

 水瀬が「味方だ」と言い続けてくれたからこそ、今の俺がいる。

「……なあ、水瀬」

「はい」

「お前さ」

「はい」

「今、俺の好きなところ、何個くらい言えるんだ?」

 少しからかうつもりで聞いたのに、水瀬は真面目な顔になった。

「えっとですね」

「数えるな」

「ざっくりですけど」

「ざっくり数えるな」

「七十は超えてます」

「マジで?」

「マジです」

 即答だった。

「今日だけでも増えましたし」

「今日、何で増えたんだよ」

「エプロン似合ってたところと」

「そこ?」

「忙しくても誰にもきつく当たらなかったところと」

「いや、それ普通だろ」

「普通じゃないです。疲れてると態度に出ちゃう人、多いんで」

 真剣な声で言われて、むしろこっちが照れる。

「最後のお客さんに一番丁寧に挨拶してたところ」

「そんなとこ見てんのかよ」

「見てます」

 きっぱり。

「そういうの全部込みで、七十超えです」

「お前のカウント、基準甘くない?」

「甘くないです」

 水瀬は少しだけ顔を近づけて、ふっと笑った。

「先輩の好きなところ、ひとつ選ぶなら」

 その言い方に、胸がどくんと鳴る。

「……全部です」

 短く、はっきりと言われた。

 音楽も掛かっていない教室のざわめきの中で、その言葉だけがやけにクリアに耳に届く。

 全部。

 自分で「ここ直したい」とか「ここがダメだ」と思ってるところも含めて、「全部」と言われたみたいで。

「……そんなの、ずるいだろ」

 やっと出た声は、情けないくらい小さかった。

「何がですか?」

「全部って言われたら、俺、もう何も否定できねえじゃん」

「狙い通りです」

 さらっと怖いことを言う。

「先輩が自分のこと否定するとき、片っ端から『でもそれも好きです』って潰したいんで」

「物騒な言い方すんな」

「でも、本気です」

 ふざけているようで、その目は真剣だった。

「全部って言っても、何でもかんでも無条件にOKってことじゃないですよ」

「うん?」

「先輩ががんばるところも、落ち込むところも、へこんでまた立ち上がるところも、変なところも、真面目すぎるところも」

「変なところって言ったな」

「それも含めて、結城先輩だなって思うから」

 少し照れたように笑う。

「だから、一つだけ選べって言われたら、『そういう全部』が好きって言います」

 そんな言葉、ずるいに決まってる。

 もう、いつもの「どうせ俺なんか」って声が入り込む隙間がない。

 代わりに、胸の中にあたたかい何かが広がっていく。

 こんなふうに言ってもらえるなんて、去年の俺が知ったら驚くだろうな。

「……ありがとな」

 気づけば、その言葉が自然に出ていた。

 何度言っても足りない気がする感謝だけど、今の俺にはこれくらいしか言えない。

「はい」

 水瀬は、嬉しそうに目を細める。

 周りでは、クラスメイトがテーブルを片づけたり、飾りを外したりしていて。
 さっきまで「店」だった教室が、少しずつ普通の教室に戻っていく。

「なあ、水瀬」

「はい」

「これからもさ」

 片づけが進んで、黒板のメニューも消されかけているのを見ながら、ぽつりと言う。

「お前が俺のいいところ百個言ってる間に」

「はい」

「俺も、お前のいいところ、ちゃんと探すから」

 昨日も似たようなことを言った気がするけど、改めて口にしたかった。

「だから、その……」

「その?」

「ずっと、そばにいていいか」

 自分で言っておいて、顔が熱くなる。

 水瀬は、一瞬固まって、それからゆっくり笑った。

「いいに決まってるじゃないですか」

 あっさりと返される。

「むしろ、俺のほうが聞きたかったです」

「何を」

「先輩、俺のそばにずっといてくれますかって」

「……お前、先に言えよ」

「今、言いました」

「ずる」

 口ではそう言いながら、心のどこかでは「まあ、こいつらしいか」と思っている自分もいた。

「じゃあ、改めて」

 水瀬は、手に持っていたトレイを机に置いて、片手を俺のほうに差し出してきた。

「これからも、よろしくお願いします、先輩」

 その言い方が、いつもより少しだけかしこまっていて、思わず笑ってしまう。

「こっちこそ」

 差し出された手を握り返す。

 手のひらの感触は、昨日と同じで。
 でも、今日のほうが少しだけ、確かなものになった気がした。

     ◇

 飾りが全部外されて、黒板もすっかり元どおりになった教室。

 それでも、今日ここであったことは、多分ずっと忘れない。

 メニュー表を書いて、接客して、ミスしないように必死になって。
 隣にはいつも、水瀬がいて。

 何度も俺の「いいところ」を拾い上げてくれた。

 そんな一日が、俺の中の「自分なんか」という声を、少しずつ小さくしてくれた気がする。

 これからも、多分失敗するだろうし、落ち込むこともあると思う。

 でも、そのたびに、「先輩の好きなところ、全部です」って言ってくれた今日の水瀬の顔を思い出すんだろう。

 それだけで、きっとまた前を向ける。

「先輩」

「ん」

「明日からも、毎日話しかけに行っていいですか」

「今さら確認すんな」

「一応、正式に」

「……いいよ」

 笑って答える。

「その代わり、俺もお前んとこ行くからな」

「大歓迎です」

 嬉しそうに笑うその横顔を見ながら、ふと思う。

 この先、どんなことがあっても。
 こいつと一緒なら、たぶん大丈夫だ。

 そう思えるくらいには、俺はもう、水瀬のことを信じてる。

 そして、そんな水瀬に「好きだ」と言われた自分のことも──少しずつ、信じられるようになってきている。

 文化祭の喧騒が遠のいた廊下を並んで歩きながら、俺はそっと隣の手を握り直した。

 その手の温度を、ずっと忘れないように。

 これから先も、ゆっくりでいいから。

 水瀬と一緒に、自分のことを少しずつ好きになっていけたらいいな、と。

 そんなことを、真面目に考えている自分に、ちょっとだけ笑ってしまった。