文化祭前日の放課後は、いつも以上にうるさかった。
カーテンの位置を直せだの、メニューの値段をもう一回確認しろだの、BGMの音量がどうだこうだだの。
クラス全体がちょっと浮き足立っていて、その中で俺は、黒板横の飾りの最終チェックをしていた。
「結城、メニュー表、マジでいい感じだな」
「ほんと。字綺麗だし、なんか店っぽい」
クラスメイトが軽く褒めてくれて、「ありがとう」と返す。
前みたいに「いや、たいしたことないし」とは、あまり言わなくなった。
それが、水瀬の影響だってことは、自分でも分かってる。
「じゃ、今日はここまでな。明日一時間目からリハだから、遅刻すんなよー」
小野の声で、準備終了の合図が出た。
ざわざわしていた教室が、少しずつ「帰るモード」に切り替わっていく。
「結城先輩」
片づけていたペンをペンケースに戻したところで、背後から呼ばれた。
振り向くと、やっぱり水瀬がいた。
今日も変わらず、まっすぐな目でこっちを見ている。
「帰り、ちょっとだけ一緒に歩きません?」
「ちょっとだけって」
「二時間くらい」
「全然ちょっとじゃねえな」
苦笑しながらも、断る気にはなれなかった。
「まあ、どうせ同じ方向だし」
「やった」
あからさまに嬉しそうな顔をされて、こっちの胸の奥も少しだけあたたかくなる。
そんな自分の反応に、内心で苦笑した。
◇
校門を出ると、空はもう少しで赤くなりそうな、薄いオレンジ色だった。
秋の夕方の空気は、ひんやりしているくせに、どこか高揚感がある。
文化祭前日っていうのは、きっとどの学校でもこうなんだろう。
「明日、絶対忙しいですよね」
「まあな。レトロ喫茶って、言うほどレトロ要素ないけど」
「先輩の字がレトロ感出してくれてるんで大丈夫です」
「そんな効果あったのか、俺の字」
「あります。あと、レコードの飾りもいい感じでした」
「お前の丸い字のおかげだろ」
「やった。先輩に褒められた」
嬉しそうに笑う顔を見ると、自然と口元がゆるむ。
何でだろうな。
こいつが笑うと、ちょっとだけ、自分のことも許せる気がする。
「明日、緊張します?」
「接客とか?」
「はい。だって結城先輩、たぶん一番『いらっしゃいませ』似合いますよ」
「そんなランキング聞いたことねえよ」
「俺が勝手に決めました」
堂々としてる。
「まあ、緊張はするかもな。人前で何かするときは、毎回する」
「でも、ちゃんとやるんですよね」
「……まあ」
「そういうところ、好きです」
「またそれ」
「事実なんで」
何度目か分からない「好き」に、心臓がゆっくり反応する。
前は、聞くたびに「いやいや」と否定する声がすぐに浮かんできた。
俺が好きとか、そんなのありえないだろ。
褒めるにしても、もっと他にふさわしいやつがいるだろ。
そうやって、自分で自分を下げるのが癖みたいになっていた。
でも最近、その否定の声は、少しずつ小さくなってきている。
それも全部、水瀬のせいだ。
◇
校門から駅までの道は、通学路になっていて、制服姿の生徒がちらほら歩いている。
「明日、俺、絶対お客さんに『おすすめ誰ですか』って聞かれたら、結城先輩紹介します」
「何のおすすめだよ」
「接客担当として」
「やめろ、ハードル上がるだろ」
「大丈夫です。先輩のいいところ、ちゃんとナビしますから」
「ナビって何だよ」
何でもかんでも「先輩のいいところ」に繋げてくるこいつは、もはや職業・褒め上手なんじゃないかと思う。
ふと、さっきから気になっていたことが、喉の奥まで上がってきた。
第三章のとき、あいつははっきり言った。
『勘違いじゃないですよ』
『先輩のこと、ちゃんと好きですから』
あの言葉が頭から離れない。
あれから俺は、水瀬の「好き」を聞くたびに、その意味を考えるようになった。
先輩として。
人として。
それとも──。
「……なあ、水瀬」
「はい」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「お前さ」
「はい」
「なんでそんなに、俺のこと……」
言いかけて、言葉がつかえる。
何て続ければいいのか分からない。
好きって言ってくれるのか、とか。
見てるって言ってくれるのか、とか。
自分からそんなことを聞くのは、怖い。
もし「いや、先輩としてですよ」とか、「尊敬してるだけですよ」とか言われたら、勝手に期待した自分がバカみたいじゃないか。
でも。
ここで聞かなかったら、ずっとこのままなんだろうとも思う。
モヤモヤしたまま、「後輩」と「先輩」の間をうろうろして、いつか気づいたら離れてる、みたいな。
それは、嫌だ。
「……なんでそんなに、俺のこと気にしてくれんの」
やっとのことで、それだけ絞り出した。
水瀬は、少しだけ足を止めた。
俺も、それにつられて立ち止まる。
「前から思ってた」
自分で言いながら、自分の鼓動の音がうるさい。
「毎日のように教室寄ってきて、ノート褒めてきて、声がどうとか言ってきて。メニュー表なくしたときも、味方だって言ってくれて」
あのときの「味方です」の声が、今でも鮮明によみがえる。
「正直、最初は『何だこいつ』って思ってたし」
「ひどくないですか」
「黙って聞け」
「はい」
「でも、最近は……その、嬉しいって思うことのほうが多くて」
自分で言っていて、顔が熱くなる。
「だから、ちゃんと聞きたい。なんでそこまでしてくれんのか」
沈黙が落ちた。
夕方の風の音と、遠くで車が走る音だけが聞こえる。
隣を見るのが怖くて、視線を前に固定したまま、返事を待つ。
しばらくして、小さく息を吸う音がした。
「……先輩が、がんばってるの、知ってるからです」
「え」
思っていたよりも、ずっと静かな声だった。
「さっき、教室でも見てました」
ゆっくりとした歩調で、水瀬の言葉が続く。
「メニュー表の字、最後の最後までバランス見て、何回も書き直してたの、知ってます」
「それは、まあ……」
「体育のときだって、ボール追いかけてました」
「それは、ほら、そうしないと試合にならないし」
「班長やってたときも、みんなの意見まとめようとしてました」
「……あれは、うまくできてなかっただろ」
「うまくやれてたかどうかじゃなくて。やろうとしてたのが、俺には大事なんです」
少しだけ強い声になった。
「先輩って、いつもそうですよね」
「そうって?」
「『ちゃんとやろう』ってしてる」
短く言い切る。
「誰かに頼まれたこととか、任されたこととか。適当に流さないで、ちゃんと考えて、ちゃんとやろうとする」
自分の足元を見ながら、ゆっくりと歩く水瀬の横顔が、視界の端に見えた。
「そういう人、かっこいいなって思って」
「……」
「俺、自分はそんなにちゃんとしてないから。ノートもガタガタだし、すぐサボりたくなるし」
「自分で言うなよ」
「だから余計に、結城先輩みたいな人、すごいなって思ったんです」
少し照れたように笑いながら。
「最初は、それだけでした」
「最初は、ってことは……」
「そこから、すぐでしたけど」
水瀬は、ふっと笑って、前を見た。
「先輩、誰かに何か言われても、自分以外を責めないじゃないですか」
「それは……」
「体育のときも、『自分がドジったから』って言ってたし。メニュー表のときも、『自分のミスだ』って一人で抱えてましたよね」
図星を刺されて、言葉が出ない。
「俺から見たら、それ、めちゃくちゃ優しいです」
「優しいっていうか……自分が我慢したほうが早いだけだよ」
「そうやって、自分のこと後回しにするところが、優しいって言ってるんですけど」
どうやら、俺と水瀬では「優しさ」の定義が違うらしい。
それでも。
そう言われて、悪い気はしなかった。
「がんばってるのに、自分のこと全然認めないの、もったいないなと思って」
水瀬は、少しだけ声を落とした。
「だから、『いいところ、ちゃんとあるよ』って、誰かが言わなきゃいけないなって」
「……その誰かが、お前だったのか」
「はい」
迷いのない返事。
「俺じゃなきゃ嫌でした」
心臓が、大きく跳ねる。
「先輩が誰かに褒められるの、正直、ちょっと妬ましいし」
「妬ましいって」
「だって、俺のほうが見てるのに」
さらっと危ないことを言ってくる。
「ずっと前から見てるの、俺なのに」
「……」
「だから、先輩のいいところ、百個言いたいって思いました」
あの台詞が、ここに繋がるのか。
「先輩が『そんなのない』って言うたびに、『あるよ』って言える人でいたくて」
彼の言葉が、ひとつひとつ胸に刺さっていく。
刺さる、っていうと痛いみたいだけど、実際は、その逆だった。
傷口にそっと絆創膏を貼られていくみたいな感覚。
今まで自分でばっさり切ってしまっていたところに、「そんなことない」と手を伸ばされているみたいな。
「……それだけ?」
自分でも驚くくらい、かすれた声が出る。
「それだけ、って?」
「がんばってるの知ってるからとか。俺のいいところ百個言いたいとか。それだけで、そんな毎日教室まで来るのか?」
そうじゃないだろ、と。
どこかで、そう願っている自分がいた。
水瀬は、足を止めた。
夕焼けが、彼の横顔をオレンジ色に染める。
「……それだけじゃないです」
静かな声で、そう言った。
「先輩のこと、ずっと前から好きでした」
心臓が、さっきまでと比べものにならないくらい、大きく鳴った。
頭の中が一瞬真っ白になる、ってこういう感覚なんだなと、変に冷静な自分もいる。
「最初は、『かっこいい先輩だな』っていう憧れでした」
水瀬は、ゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「いつも真面目で、ちゃんとしてて。自分の席じゃないところでも、ゴミ落ちてたら拾ってて。体育でこけても笑ってて」
「それ、見られてたのかよ」
「見てました」
即答だ。
「でも、見てるうちに、『かっこいい』だけじゃなくなって」
視線が、そっと俺に向けられる。
「『守りたい』とか、『支えたい』とか、『味方でいたい』とか」
ひとつひとつ、積み重ねるみたいに。
「気づいたら、全部『好き』って言葉にまとまってました」
ストレートな告白に、息が詰まりそうになる。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが響いている。
今までの俺なら、この言葉をすぐに否定したと思う。
俺なんかを好きになるわけない。
こいつの勘違いだ。
もっと相応しい人がいる。
そうやって、自分から逃げるみたいに全部打ち消してきた。
でも、今は。
昨日までのいろんな場面が、一気に頭の中に浮かんでくる。
ノートを褒めてくれたとき。
体育で怪我したとき、「味方です」と言ってくれたとき。
メニュー表をなくして落ち込んでいたとき、真剣に否定してくれたとき。
装飾のハサミを渡すとき、手が触れた瞬間。
「勘違いじゃないですよ」と、はっきり言った顔。
全部が一本の線で繋がって、「ああ、そうだったんだ」と思わせる。
こいつはずっと、俺のことを「好き」で見ていて。
俺はずっと、自分のことを「そんな価値ない」で見てきた。
その差が、急に怖くなくなった。
「……俺なんか、って言うなよ」
気づいたら、自分で自分に言っていた。
いつも水瀬に言われてた言葉を、そのまま返すみたいに。
水瀬が目を瞬く。
「先輩?」
「お前が、俺のこと好きって言ってくれるの、そんな簡単に否定したくない」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「俺なんか、とか言い出したら、お前の見る目全部バカにすることになるだろ」
「それは、嫌です」
すぐに返ってきた言葉に、少し笑ってしまう。
「俺だって嫌だ」
「……先輩?」
「俺さ」
ゆっくりと息を吸う。
文化祭前日の夕方の空気は、思ったより冷たくて、でも、肺の奥までちゃんと入っていく感じがした。
「最近、自分のことちょっとだけ嫌いじゃなくなってきたんだ」
「それ、めちゃくちゃいいことじゃないですか」
「調子に乗るな」
ツッコみながらも、笑ってしまう。
「多分、それ、お前のせいだ」
「俺の、せい?」
「原因」
言い直す。
「いい意味で」
「……」
水瀬の目が、大きくなる。
「お前が、毎日毎日『いいところありますよ』って言ってくるからさ。
最初は『そんなわけない』って思ってたけど。何回も言われると、ちょっとくらい信じてみてもいいのかなって、思うようになって」
言いながら、自分の中の変化を確かめる。
「体育のときも、『味方です』って言われたとき、本気で嬉しかったし」
「俺も本気でした」
「知ってる」
あのときの顔、冗談で言ってる顔じゃなかったもんな。
「買い出しペア決まったときも、お前が喜んでるの見て、ちょっとだけ嬉しかった」
「それ、本当ですか」
「嘘ついても意味ないだろ」
じわじわと、顔が熱くなっていく。
言葉にするのは、やっぱり恥ずかしい。
でも、一度口を開いたら、もう止まらなかった。
「俺さ……」
水瀬の目をちゃんと見る。
逃げないように、自分に言い聞かせながら。
「お前のこと、好きだと思う」
空気が、ぴたりと止まった気がした。
水瀬の目が、丸くなる。
いつもみたいにすぐ笑わない。その沈黙が、逆に不安になる。
「あの、でも、その……」
慌てて言葉を足す。
「俺、恋愛とかよく分かんないし。今まで誰かのこと『好きだ』ってちゃんと思ったこともなくて。だから、これが正しい『好き』なのか、自信あるわけじゃないんだけど」
頭の中が整理できてないまま、思ったことをそのまま言葉にしていく。
「でも、お前が誰かと楽しそうにしてると、ちょっと嫌だなって思うし」
「え」
「俺以外のやつに『好きです』って言ってたら、ムカつくし」
「先輩……」
「俺がミスしたとき、『味方です』って言ってくれたの、めちゃくちゃ心強かったし。教室に来ない日があるって考えたら、なんか、すごい嫌で」
そこまで言って、自分で気づく。
「ああ、これ、多分」
ゆっくりと息を吐く。
「ちゃんと『好き』なんだと思う」
やっとそこに辿り着いた。
自分で、自分の気持ちに名前をつけられた。
俺が水瀬に向けている感情は、ただの感謝とか、憧れとか、後輩への親しみなんかじゃない。
ちゃんと、恋だ。
「……ごめん、遅くて」
気づくのに、こんなに時間がかかった。
毎日あれだけ「好き」って言われてたのに。
「先輩だけ特別扱い」されてたのに。
「今さらかよって感じかもしれないけど」
「そんなことないです」
食い気味に否定された。
水瀬は、今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「めちゃくちゃ、うれしいです」
声が、少し震えている。
「俺、ずっと、先輩に『好き』って言ってきましたけど」
「うん」
「返ってくるとは、思ってなかったです」
「思っとけよ」
「だって、先輩、自己評価低いから」
「それは否定できないけど」
「だから、今、ちゃんと聞けて……」
水瀬は、目元をぐっと指で押さえた。
「ほんと、泣きそうです」
「泣くなよ」
「無理です」
顔を見られたくないのか、少し俯く。
「俺、結城先輩の『好きだと思う』が聞けただけで、文化祭成功です」
「早いな、ゴール」
「俺の中ではクライマックスです」
ドラマ化発言、ここで回収かよ。
笑いそうになって、でも、こっちも目頭が熱くなっているのを誤魔化すのに必死だった。
◇
「……なあ」
「はい」
「手、出して」
「え」
俺が言うと、水瀬は本当にびっくりしたみたいに目を見開いた。
「い、今ですか」
「今以外いつだよ」
「心の準備が」
「さっき泣きそうって言ってたやつが、何言ってんだよ」
照れ隠しに、少しだけ強めに言う。
本当は、こっちだって準備なんかできてない。
でも、この流れで何もしなかったら、絶対あとで後悔する。
「ほら」
「あ、はい」
水瀬が、おそるおそるって感じで、右手を差し出した。
その手を、俺はゆっくりと握る。
指先が触れた瞬間、びくっとするのが分かった。
たぶん、俺も同じタイミングでびくっとしてる。
手のひらの温度が、じわじわ伝わってくる。
「……あったか」
思わずこぼれたら、水瀬が笑った。
「先輩のほうが、あったかいです」
「そうか?」
「はい。落ち着く感じの温度です」
「例え方が独特だな」
「でも、本当にそう思ってます」
指を少しだけ絡めてくる。
その動きが、妙に慎重で、でも嬉しそうで。
見てるこっちまで笑ってしまう。
「これからさ」
繋いだ手を見ながら、ゆっくり言う。
「お前が俺のいいところ百個言うって言うなら」
「はい」
「俺も、お前のいいところ探す」
「え」
「今まで、お前に言われっぱなしだったからさ。ずるいだろ、それ」
ちょっとだけ、意地悪く笑ってみせる。
「だから、俺も見とく。お前のこと」
「見られるの、緊張しますね」
「散々こっち見といて、よく言うよ」
「じゃあ、お互い様ってことで」
水瀬は、繋いだ手を軽く持ち上げた。
「先輩のいいところ、俺が百個言ってる間に」
「うん」
「先輩も、俺のいいところ、ゆっくり見つけてください」
「分かった」
返事をしながら、胸の奥にじんわり広がる感覚を確かめる。
必要とされている、っていう実感。
自分の「好き」がちゃんと届いた、っていう安心。
今まで、ずっと自分で自分のことを小さくしてきた。
「どうせ俺なんか」とか、「主役っぽくない」とか。
そういう言葉で、自分を背景に追いやってきた。
でも今、俺の隣には、水瀬がいる。
俺の手を握って、「好きだ」と言ってくれた水瀬がいる。
その事実のおかげで、頭の中でうるさかった否定の声は、だいぶ小さくなった。
「……ありがとな」
繋いだ手を、少しだけ握り直す。
その小さな力に応えるみたいに、水瀬もぎゅっと握り返してきた。
「これからも、言いますから」
「何を」
「先輩のいいところ、です」
夕焼けの下、笑い合いながら歩くこの帰り道が、少しだけ特別なものになった気がした。
初めて手を繋いだこの日から、俺と水瀬の距離は、ゆっくり、でも確かに、恋へと変わっていくんだと思う。
カーテンの位置を直せだの、メニューの値段をもう一回確認しろだの、BGMの音量がどうだこうだだの。
クラス全体がちょっと浮き足立っていて、その中で俺は、黒板横の飾りの最終チェックをしていた。
「結城、メニュー表、マジでいい感じだな」
「ほんと。字綺麗だし、なんか店っぽい」
クラスメイトが軽く褒めてくれて、「ありがとう」と返す。
前みたいに「いや、たいしたことないし」とは、あまり言わなくなった。
それが、水瀬の影響だってことは、自分でも分かってる。
「じゃ、今日はここまでな。明日一時間目からリハだから、遅刻すんなよー」
小野の声で、準備終了の合図が出た。
ざわざわしていた教室が、少しずつ「帰るモード」に切り替わっていく。
「結城先輩」
片づけていたペンをペンケースに戻したところで、背後から呼ばれた。
振り向くと、やっぱり水瀬がいた。
今日も変わらず、まっすぐな目でこっちを見ている。
「帰り、ちょっとだけ一緒に歩きません?」
「ちょっとだけって」
「二時間くらい」
「全然ちょっとじゃねえな」
苦笑しながらも、断る気にはなれなかった。
「まあ、どうせ同じ方向だし」
「やった」
あからさまに嬉しそうな顔をされて、こっちの胸の奥も少しだけあたたかくなる。
そんな自分の反応に、内心で苦笑した。
◇
校門を出ると、空はもう少しで赤くなりそうな、薄いオレンジ色だった。
秋の夕方の空気は、ひんやりしているくせに、どこか高揚感がある。
文化祭前日っていうのは、きっとどの学校でもこうなんだろう。
「明日、絶対忙しいですよね」
「まあな。レトロ喫茶って、言うほどレトロ要素ないけど」
「先輩の字がレトロ感出してくれてるんで大丈夫です」
「そんな効果あったのか、俺の字」
「あります。あと、レコードの飾りもいい感じでした」
「お前の丸い字のおかげだろ」
「やった。先輩に褒められた」
嬉しそうに笑う顔を見ると、自然と口元がゆるむ。
何でだろうな。
こいつが笑うと、ちょっとだけ、自分のことも許せる気がする。
「明日、緊張します?」
「接客とか?」
「はい。だって結城先輩、たぶん一番『いらっしゃいませ』似合いますよ」
「そんなランキング聞いたことねえよ」
「俺が勝手に決めました」
堂々としてる。
「まあ、緊張はするかもな。人前で何かするときは、毎回する」
「でも、ちゃんとやるんですよね」
「……まあ」
「そういうところ、好きです」
「またそれ」
「事実なんで」
何度目か分からない「好き」に、心臓がゆっくり反応する。
前は、聞くたびに「いやいや」と否定する声がすぐに浮かんできた。
俺が好きとか、そんなのありえないだろ。
褒めるにしても、もっと他にふさわしいやつがいるだろ。
そうやって、自分で自分を下げるのが癖みたいになっていた。
でも最近、その否定の声は、少しずつ小さくなってきている。
それも全部、水瀬のせいだ。
◇
校門から駅までの道は、通学路になっていて、制服姿の生徒がちらほら歩いている。
「明日、俺、絶対お客さんに『おすすめ誰ですか』って聞かれたら、結城先輩紹介します」
「何のおすすめだよ」
「接客担当として」
「やめろ、ハードル上がるだろ」
「大丈夫です。先輩のいいところ、ちゃんとナビしますから」
「ナビって何だよ」
何でもかんでも「先輩のいいところ」に繋げてくるこいつは、もはや職業・褒め上手なんじゃないかと思う。
ふと、さっきから気になっていたことが、喉の奥まで上がってきた。
第三章のとき、あいつははっきり言った。
『勘違いじゃないですよ』
『先輩のこと、ちゃんと好きですから』
あの言葉が頭から離れない。
あれから俺は、水瀬の「好き」を聞くたびに、その意味を考えるようになった。
先輩として。
人として。
それとも──。
「……なあ、水瀬」
「はい」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「お前さ」
「はい」
「なんでそんなに、俺のこと……」
言いかけて、言葉がつかえる。
何て続ければいいのか分からない。
好きって言ってくれるのか、とか。
見てるって言ってくれるのか、とか。
自分からそんなことを聞くのは、怖い。
もし「いや、先輩としてですよ」とか、「尊敬してるだけですよ」とか言われたら、勝手に期待した自分がバカみたいじゃないか。
でも。
ここで聞かなかったら、ずっとこのままなんだろうとも思う。
モヤモヤしたまま、「後輩」と「先輩」の間をうろうろして、いつか気づいたら離れてる、みたいな。
それは、嫌だ。
「……なんでそんなに、俺のこと気にしてくれんの」
やっとのことで、それだけ絞り出した。
水瀬は、少しだけ足を止めた。
俺も、それにつられて立ち止まる。
「前から思ってた」
自分で言いながら、自分の鼓動の音がうるさい。
「毎日のように教室寄ってきて、ノート褒めてきて、声がどうとか言ってきて。メニュー表なくしたときも、味方だって言ってくれて」
あのときの「味方です」の声が、今でも鮮明によみがえる。
「正直、最初は『何だこいつ』って思ってたし」
「ひどくないですか」
「黙って聞け」
「はい」
「でも、最近は……その、嬉しいって思うことのほうが多くて」
自分で言っていて、顔が熱くなる。
「だから、ちゃんと聞きたい。なんでそこまでしてくれんのか」
沈黙が落ちた。
夕方の風の音と、遠くで車が走る音だけが聞こえる。
隣を見るのが怖くて、視線を前に固定したまま、返事を待つ。
しばらくして、小さく息を吸う音がした。
「……先輩が、がんばってるの、知ってるからです」
「え」
思っていたよりも、ずっと静かな声だった。
「さっき、教室でも見てました」
ゆっくりとした歩調で、水瀬の言葉が続く。
「メニュー表の字、最後の最後までバランス見て、何回も書き直してたの、知ってます」
「それは、まあ……」
「体育のときだって、ボール追いかけてました」
「それは、ほら、そうしないと試合にならないし」
「班長やってたときも、みんなの意見まとめようとしてました」
「……あれは、うまくできてなかっただろ」
「うまくやれてたかどうかじゃなくて。やろうとしてたのが、俺には大事なんです」
少しだけ強い声になった。
「先輩って、いつもそうですよね」
「そうって?」
「『ちゃんとやろう』ってしてる」
短く言い切る。
「誰かに頼まれたこととか、任されたこととか。適当に流さないで、ちゃんと考えて、ちゃんとやろうとする」
自分の足元を見ながら、ゆっくりと歩く水瀬の横顔が、視界の端に見えた。
「そういう人、かっこいいなって思って」
「……」
「俺、自分はそんなにちゃんとしてないから。ノートもガタガタだし、すぐサボりたくなるし」
「自分で言うなよ」
「だから余計に、結城先輩みたいな人、すごいなって思ったんです」
少し照れたように笑いながら。
「最初は、それだけでした」
「最初は、ってことは……」
「そこから、すぐでしたけど」
水瀬は、ふっと笑って、前を見た。
「先輩、誰かに何か言われても、自分以外を責めないじゃないですか」
「それは……」
「体育のときも、『自分がドジったから』って言ってたし。メニュー表のときも、『自分のミスだ』って一人で抱えてましたよね」
図星を刺されて、言葉が出ない。
「俺から見たら、それ、めちゃくちゃ優しいです」
「優しいっていうか……自分が我慢したほうが早いだけだよ」
「そうやって、自分のこと後回しにするところが、優しいって言ってるんですけど」
どうやら、俺と水瀬では「優しさ」の定義が違うらしい。
それでも。
そう言われて、悪い気はしなかった。
「がんばってるのに、自分のこと全然認めないの、もったいないなと思って」
水瀬は、少しだけ声を落とした。
「だから、『いいところ、ちゃんとあるよ』って、誰かが言わなきゃいけないなって」
「……その誰かが、お前だったのか」
「はい」
迷いのない返事。
「俺じゃなきゃ嫌でした」
心臓が、大きく跳ねる。
「先輩が誰かに褒められるの、正直、ちょっと妬ましいし」
「妬ましいって」
「だって、俺のほうが見てるのに」
さらっと危ないことを言ってくる。
「ずっと前から見てるの、俺なのに」
「……」
「だから、先輩のいいところ、百個言いたいって思いました」
あの台詞が、ここに繋がるのか。
「先輩が『そんなのない』って言うたびに、『あるよ』って言える人でいたくて」
彼の言葉が、ひとつひとつ胸に刺さっていく。
刺さる、っていうと痛いみたいだけど、実際は、その逆だった。
傷口にそっと絆創膏を貼られていくみたいな感覚。
今まで自分でばっさり切ってしまっていたところに、「そんなことない」と手を伸ばされているみたいな。
「……それだけ?」
自分でも驚くくらい、かすれた声が出る。
「それだけ、って?」
「がんばってるの知ってるからとか。俺のいいところ百個言いたいとか。それだけで、そんな毎日教室まで来るのか?」
そうじゃないだろ、と。
どこかで、そう願っている自分がいた。
水瀬は、足を止めた。
夕焼けが、彼の横顔をオレンジ色に染める。
「……それだけじゃないです」
静かな声で、そう言った。
「先輩のこと、ずっと前から好きでした」
心臓が、さっきまでと比べものにならないくらい、大きく鳴った。
頭の中が一瞬真っ白になる、ってこういう感覚なんだなと、変に冷静な自分もいる。
「最初は、『かっこいい先輩だな』っていう憧れでした」
水瀬は、ゆっくりと言葉を選ぶように話す。
「いつも真面目で、ちゃんとしてて。自分の席じゃないところでも、ゴミ落ちてたら拾ってて。体育でこけても笑ってて」
「それ、見られてたのかよ」
「見てました」
即答だ。
「でも、見てるうちに、『かっこいい』だけじゃなくなって」
視線が、そっと俺に向けられる。
「『守りたい』とか、『支えたい』とか、『味方でいたい』とか」
ひとつひとつ、積み重ねるみたいに。
「気づいたら、全部『好き』って言葉にまとまってました」
ストレートな告白に、息が詰まりそうになる。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが響いている。
今までの俺なら、この言葉をすぐに否定したと思う。
俺なんかを好きになるわけない。
こいつの勘違いだ。
もっと相応しい人がいる。
そうやって、自分から逃げるみたいに全部打ち消してきた。
でも、今は。
昨日までのいろんな場面が、一気に頭の中に浮かんでくる。
ノートを褒めてくれたとき。
体育で怪我したとき、「味方です」と言ってくれたとき。
メニュー表をなくして落ち込んでいたとき、真剣に否定してくれたとき。
装飾のハサミを渡すとき、手が触れた瞬間。
「勘違いじゃないですよ」と、はっきり言った顔。
全部が一本の線で繋がって、「ああ、そうだったんだ」と思わせる。
こいつはずっと、俺のことを「好き」で見ていて。
俺はずっと、自分のことを「そんな価値ない」で見てきた。
その差が、急に怖くなくなった。
「……俺なんか、って言うなよ」
気づいたら、自分で自分に言っていた。
いつも水瀬に言われてた言葉を、そのまま返すみたいに。
水瀬が目を瞬く。
「先輩?」
「お前が、俺のこと好きって言ってくれるの、そんな簡単に否定したくない」
自分でも驚くくらい、素直な声が出た。
「俺なんか、とか言い出したら、お前の見る目全部バカにすることになるだろ」
「それは、嫌です」
すぐに返ってきた言葉に、少し笑ってしまう。
「俺だって嫌だ」
「……先輩?」
「俺さ」
ゆっくりと息を吸う。
文化祭前日の夕方の空気は、思ったより冷たくて、でも、肺の奥までちゃんと入っていく感じがした。
「最近、自分のことちょっとだけ嫌いじゃなくなってきたんだ」
「それ、めちゃくちゃいいことじゃないですか」
「調子に乗るな」
ツッコみながらも、笑ってしまう。
「多分、それ、お前のせいだ」
「俺の、せい?」
「原因」
言い直す。
「いい意味で」
「……」
水瀬の目が、大きくなる。
「お前が、毎日毎日『いいところありますよ』って言ってくるからさ。
最初は『そんなわけない』って思ってたけど。何回も言われると、ちょっとくらい信じてみてもいいのかなって、思うようになって」
言いながら、自分の中の変化を確かめる。
「体育のときも、『味方です』って言われたとき、本気で嬉しかったし」
「俺も本気でした」
「知ってる」
あのときの顔、冗談で言ってる顔じゃなかったもんな。
「買い出しペア決まったときも、お前が喜んでるの見て、ちょっとだけ嬉しかった」
「それ、本当ですか」
「嘘ついても意味ないだろ」
じわじわと、顔が熱くなっていく。
言葉にするのは、やっぱり恥ずかしい。
でも、一度口を開いたら、もう止まらなかった。
「俺さ……」
水瀬の目をちゃんと見る。
逃げないように、自分に言い聞かせながら。
「お前のこと、好きだと思う」
空気が、ぴたりと止まった気がした。
水瀬の目が、丸くなる。
いつもみたいにすぐ笑わない。その沈黙が、逆に不安になる。
「あの、でも、その……」
慌てて言葉を足す。
「俺、恋愛とかよく分かんないし。今まで誰かのこと『好きだ』ってちゃんと思ったこともなくて。だから、これが正しい『好き』なのか、自信あるわけじゃないんだけど」
頭の中が整理できてないまま、思ったことをそのまま言葉にしていく。
「でも、お前が誰かと楽しそうにしてると、ちょっと嫌だなって思うし」
「え」
「俺以外のやつに『好きです』って言ってたら、ムカつくし」
「先輩……」
「俺がミスしたとき、『味方です』って言ってくれたの、めちゃくちゃ心強かったし。教室に来ない日があるって考えたら、なんか、すごい嫌で」
そこまで言って、自分で気づく。
「ああ、これ、多分」
ゆっくりと息を吐く。
「ちゃんと『好き』なんだと思う」
やっとそこに辿り着いた。
自分で、自分の気持ちに名前をつけられた。
俺が水瀬に向けている感情は、ただの感謝とか、憧れとか、後輩への親しみなんかじゃない。
ちゃんと、恋だ。
「……ごめん、遅くて」
気づくのに、こんなに時間がかかった。
毎日あれだけ「好き」って言われてたのに。
「先輩だけ特別扱い」されてたのに。
「今さらかよって感じかもしれないけど」
「そんなことないです」
食い気味に否定された。
水瀬は、今にも泣きそうな顔で笑っていた。
「めちゃくちゃ、うれしいです」
声が、少し震えている。
「俺、ずっと、先輩に『好き』って言ってきましたけど」
「うん」
「返ってくるとは、思ってなかったです」
「思っとけよ」
「だって、先輩、自己評価低いから」
「それは否定できないけど」
「だから、今、ちゃんと聞けて……」
水瀬は、目元をぐっと指で押さえた。
「ほんと、泣きそうです」
「泣くなよ」
「無理です」
顔を見られたくないのか、少し俯く。
「俺、結城先輩の『好きだと思う』が聞けただけで、文化祭成功です」
「早いな、ゴール」
「俺の中ではクライマックスです」
ドラマ化発言、ここで回収かよ。
笑いそうになって、でも、こっちも目頭が熱くなっているのを誤魔化すのに必死だった。
◇
「……なあ」
「はい」
「手、出して」
「え」
俺が言うと、水瀬は本当にびっくりしたみたいに目を見開いた。
「い、今ですか」
「今以外いつだよ」
「心の準備が」
「さっき泣きそうって言ってたやつが、何言ってんだよ」
照れ隠しに、少しだけ強めに言う。
本当は、こっちだって準備なんかできてない。
でも、この流れで何もしなかったら、絶対あとで後悔する。
「ほら」
「あ、はい」
水瀬が、おそるおそるって感じで、右手を差し出した。
その手を、俺はゆっくりと握る。
指先が触れた瞬間、びくっとするのが分かった。
たぶん、俺も同じタイミングでびくっとしてる。
手のひらの温度が、じわじわ伝わってくる。
「……あったか」
思わずこぼれたら、水瀬が笑った。
「先輩のほうが、あったかいです」
「そうか?」
「はい。落ち着く感じの温度です」
「例え方が独特だな」
「でも、本当にそう思ってます」
指を少しだけ絡めてくる。
その動きが、妙に慎重で、でも嬉しそうで。
見てるこっちまで笑ってしまう。
「これからさ」
繋いだ手を見ながら、ゆっくり言う。
「お前が俺のいいところ百個言うって言うなら」
「はい」
「俺も、お前のいいところ探す」
「え」
「今まで、お前に言われっぱなしだったからさ。ずるいだろ、それ」
ちょっとだけ、意地悪く笑ってみせる。
「だから、俺も見とく。お前のこと」
「見られるの、緊張しますね」
「散々こっち見といて、よく言うよ」
「じゃあ、お互い様ってことで」
水瀬は、繋いだ手を軽く持ち上げた。
「先輩のいいところ、俺が百個言ってる間に」
「うん」
「先輩も、俺のいいところ、ゆっくり見つけてください」
「分かった」
返事をしながら、胸の奥にじんわり広がる感覚を確かめる。
必要とされている、っていう実感。
自分の「好き」がちゃんと届いた、っていう安心。
今まで、ずっと自分で自分のことを小さくしてきた。
「どうせ俺なんか」とか、「主役っぽくない」とか。
そういう言葉で、自分を背景に追いやってきた。
でも今、俺の隣には、水瀬がいる。
俺の手を握って、「好きだ」と言ってくれた水瀬がいる。
その事実のおかげで、頭の中でうるさかった否定の声は、だいぶ小さくなった。
「……ありがとな」
繋いだ手を、少しだけ握り直す。
その小さな力に応えるみたいに、水瀬もぎゅっと握り返してきた。
「これからも、言いますから」
「何を」
「先輩のいいところ、です」
夕焼けの下、笑い合いながら歩くこの帰り道が、少しだけ特別なものになった気がした。
初めて手を繋いだこの日から、俺と水瀬の距離は、ゆっくり、でも確かに、恋へと変わっていくんだと思う。



