文化祭準備が本格的に始まってから、毎日がやたら騒がしい。
クラスのレトロ喫茶計画は、思った以上に本気で、窓にはレースのカーテン、黒板にはメニュー看板、教室の後ろにはレコード風の飾りまでつけるらしい。
「じゃ、今日の買い出しメンバー決めるぞー」
放課後、ホームルームのあと。
いつものようにクラスの真ん中で、小野がリーダーっぽく声を張った。
「飲み物と紙ナプキン、あと麻ひもとガーランド用の画鋲だな。二人一組で行ってきてくれ」
黒板にざっと必要なものを書きながら、振り返る。
「買い出しはー……」
「はい」
俺の後ろのほうから、やたら元気な声がした。
振り向くと、水瀬が勢いよく手を挙げている。目立つ。すごく目立つ。
「俺、行きます」
「お、えらい。じゃあ一年からの助っ人、水瀬くん」
小野がニヤニヤしながら辺りを見回して、わざとらしく言う。
「で、もう一人は……結城」
「え」
「お前、昨日メニュー表の件頑張ってくれたしさ。買い出し係、頼んだ」
「いや、別に──」
「俺、結城先輩と行きたいです」
被せ気味に水瀬が言った。
教室の視線が、一瞬だけこっちに集まる。やめてくれ。
「ほら、後輩もこう言ってるし」
小野がにやっと笑った。
「二人なら、買い物も間違えないだろ。よろしくな、真面目ペア」
そうして、あっさりペアが決まった。
◇
校門を出て、駅前のスーパーまでの道を歩く。
夕方の風が少しひんやりしていて、長袖のシャツ越しにちょうどいい。
「先輩、買い物メモ持ってます?」
「ここ」
ポケットから取り出した紙をひらひらさせる。
「飲み物は紙パックじゃなくてペットボトルね。氷入れるから。紙ナプキンは茶色系。麻ひもは太すぎないやつ」
「完璧ですね」
「黒板そのまま写しただけだよ」
「そういうとこが完璧って言ってるんですけど」
まただ。すぐ褒めてくる。
「お前、誰にでもそうやって褒めてんの?」
「いえ」
即答。
「先輩限定です」
「そういうことをさらっと言うな」
「事実なんで」
悪びれた様子もなく、こっちを見て笑う。
ほんと、好きがバレてるレベルの距離感だと思う。
……本人には言わないけど。
「足、もう平気ですか?」
「ああ。昨日より全然マシ」
「よかった。今日、買い出し決まったとき、めっちゃドキドキしました」
「何でだよ」
「先輩、俺と一緒なの嫌かなって」
「別に嫌じゃねえよ」
「じゃあ、よかった」
心の底からほっとした顔をするから、こっちがびっくりする。
「そんな顔するほどのことか?」
「しますよ。だって、買い出しペアって、結構大事じゃないですか」
「どこが」
「ドラマで一話まるまる使うくらいには、大事です」
「基準がおかしい」
笑いながら、その「ドラマ」という単語が、妙に頭に残る。
もし本当にドラマになったとしたら──なんて、ありえない想像をしかけて、慌てて打ち消した。
◇
スーパーに着いて、カゴを一つ取る。
「飲み物はどうします? アイスティーとオレンジと、あと何か」
「原価とか考えたら、炭酸よりお茶とジュースだろ。人気ありそうなのはオレンジとアップルかな」
「さすが、客目線」
「そこまで考えてない」
「でも、先輩、いつもそうやって『誰が飲むか』とか『誰が使うか』から考えてますよね」
さらっと、核心を突くようなことを言う。
「そういうところ、好きです」
「お前、今日『好き』何回目だよ」
「まだ三回目です」
「カウントしてんのか」
呆れながらも、その「好き」のたびに、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
「先輩は、何味が好きですか?」
「俺? アイスティーかな」
「じゃあ、アイスティー多めで」
「いや、俺基準にしなくていいから」
「俺、先輩の好きなもの覚えたいんで」
真剣な顔で言うな。心臓に悪い。
「覚えたからって、別に何も出ないぞ」
「出ます」
「何が」
「俺のテンションが上がります」
分かりやすい。
こういうわんこみたいなところ、見てると、なんか笑ってしまう。
◇
買い物を終えて戻ると、教室では装飾班が天井にガーランドを張り始めていた。
「結城、水瀬、おかえり。画鋲と麻ひも、そこ置いといてくれ」
「了解」
荷物を机に置いた途端、小野が声をかけてくる。
「それと、黒板横の飾り、二人でやってくれない? メニュー表の横に、レコードっぽいやつ吊るすやつ」
「分かった」
「結城のセンスと、観察くんのセンスに任せるわ」
勝手にコンビ名をつけるな。
黒板の横のスペースを確認して、麻ひもの長さを測る。
「天井のこのへん、結構高いな」
「踏み台、持ってきます」
水瀬が、教室の後ろから脚立を引っ張ってくる。
「先輩、上、行けます?」
「まあ、行けるけど……」
「じゃあ、登るとき、俺が支えますね」
「そんな大げさな」
「先輩が落ちたら大事件なんで」
またそれだ。いちいち大事にしてくる。
脚立に上がると、思ったよりも視線が高くなった。黒板の上って、こんなに上から見下ろす感じなんだな、と変なことを考える。
「先輩、ハサミ渡します」
「うん」
下から伸びてきた手から、ハサミを受け取る。
「……あ、手」
「ん?」
「怪我しないでね」
ほんの一拍置いて、付け足された言葉。
顔を見なくても、下でちょっと照れてるのが分かる言い方だった。
「大丈夫だよ。小学生じゃないし」
「でも、先輩の手、好きなんで」
「は?」
「綺麗だから」
さらっと言うな。
「ノート書いてるときとか、黒板消してるときとか。見ちゃうんですよね」
「見ないでいいから」
「見ます」
即答。
ほんと、ブレーキという概念がない。
「手、細くて綺麗なのに、ちゃんと力入ってるところが好きです」
「分析やめろ」
言いながらも、その言葉が、じわじわ効いてくる。
今まで自分の手なんて、「線が細い」「頼りない」としか言われたことがなかったから。
「ほら先輩、そこ、もう少し右です」
「ここ?」
「もうちょい……そうです。その位置、完璧」
脚立の上から、麻ひもをピンと張って画鋲で止める。
下から見上げてくる視線が、やけに熱い。
「よし、とりあえず一本目はこれで」
「お疲れ様です」
降りようとしたとき、脚立が少しぐらりと揺れた。
「うわ」
思わず体が傾きかけた瞬間、腰のあたりをぐっと支えられる。
「先輩!」
水瀬が、両手でしっかりと支えていた。
予想以上に近い距離。
振り向いたら、そのままぶつかりそうなくらい。
「だ、大丈夫か?」
「……お前に聞くなよ、それ」
支えられてるの、俺だし。
「先輩が落ちたら、俺も一緒に倒れるんで」
「巻き込む気満々かよ」
「道連れです」
「物騒な言い方やめろ」
そうツッコみながらも、腰にかかった手の感触が、じんわり残る。
「ごめん。ありがと」
「どういたしまして」
距離が近すぎて、視線を合わせられない。
脚立から降りて、少し離れてから、やっと息を整えた。
「先輩、ハサミ貸してください」
「あ、うん」
さっき渡されたハサミを手渡すとき、指先が触れた。
一瞬、電気が走ったみたいに心臓が跳ねる。
「……先輩?」
「なんでもない」
慌てて手を引っ込めたのを、水瀬はじっと見ていた気がする。
◇
レコード風の丸い画用紙に、黒ペンでタイトルを書いていく作業に移る。
机を向かい合わせて、二人で座る。
「じゃあ俺、文字書きますね」
「お前、字大丈夫か?」
「人を不安にさせる前提やめてください」
「だって、前にノート見せてもらったとき、すげえ丸文字だったから」
「丸いのが味なんですって」
「分かった分かった。じゃあ、これはお前に任せるから、その代わりバランス見ていい?」
「先輩、監修ですね」
「そんな大層なもんじゃない」
黒い丸の真ん中に、店名を書く。
レトロ喫茶なのに店名が「クラス2―Aカフェ」というそのまま具合は、うちのクラスらしい。
「『カフェ』の『ェ』、ちょっと小さめにするとバランスいいかも」
「こんな感じですか?」
「もうちょい右」
「こう?」
「お、いいじゃん」
「先輩、褒めました?」
「いや、普通に良かったから」
「嬉しい」
大げさにほっとする。
「俺、先輩に褒められるの、かなりレアなんで」
「そんなことないだろ」
「あります。先輩、自分にも人にも厳しめだから」
そう言われると、否定しづらい。
「もっと褒めてくれてもいいですよ」
「何をだよ」
「俺のこと」
「自分で言うな」
でも、少しだけ考えて、口を開いた。
「……さっきの、いい字だった」
「お」
「丸いけど、ちゃんと読みやすいし。雰囲気出てる」
「先輩、意外とちゃんと褒めてくれるじゃないですか」
「意外とってなんだよ」
水瀬は、ほんの少し頬を赤くして笑った。
その表情に、こっちの心臓がまた騒がしくなる。
なんだ、この感じ。
ただの後輩に褒め返しただけなのに、やたらと意識してしまう自分がいる。
「俺、もっと頑張ります」
「何をだよ」
「先輩に褒められるように」
即答。
「先輩、褒めるとき、ちょっとだけ声優っぽくなりますよね」
「は?」
「なんか、落ち着いてて。でもちゃんと嬉しそうで」
「そうか?」
「はい。そういうとこも好きです」
まただ。
好き、って言うたびに、自分の胸の中の何かをコツコツ叩いてくる。
今までは、それを「後輩として好き」とか「先輩として尊敬」とか、広い意味の「好き」だと無理やりラベルを貼っていたけど。
ここまで連呼されると、さすがに意識せずにはいられない。
俺はどうなんだろう。
こいつのこと、どう思ってる?
ノートを褒められるのも、声を褒められるのも、嬉しくないわけじゃない。
むしろ、嬉しい。
体育のとき、「味方です」って言われたときも、正直、少し泣きそうだった。
それって、どういう感情なんだろう。
「……結城先輩?」
「ん」
「今、ちょっと難しい顔してました」
「いつもだろ」
「いつもより、です」
よく見てる。観察魔め。
「何考えてたんですか?」
「別に」
「別にじゃ、納得しません」
「めんどくせーな」
「先輩の頭の中、ちょっとだけ知りたいです」
真剣に、だけど笑いながら言う。
そうやって、ぐいぐい距離を詰めてくる。
「……お前ってさ」
「はい」
「俺のこと、ほんとによく見てるよな」
「はい」
即答だった。
「いつからだよ」
「いつから、って?」
「一年のときから見てましたって、この前言ってたろ」
「あー」
水瀬は、少しだけ視線をそらした。
珍しく、言葉を選んでいるように見える。
「入学して、最初の全校集会のときですね」
「全校集会?」
「一年代表が壇上で挨拶するとき、体育館の後ろのほうで二年の列が見えて」
「そんな前からかよ」
「はい。そこで、前のほうで先生と話してる先輩見て、『あ、なんかちゃんとしてる人いそう』って思って」
「ちゃんとしてる人いそう、ってざっくりだな」
「で、後で廊下で見かけたら、その『ちゃんとしてる人』が先輩で」
じっと俺を見る。
「そこから、ずっと観察してました」
「今さらっと言ったけど、だいぶ怖い発言だぞ」
「いい意味でですよ」
「どこがだ」
「先輩のいいところ探すの、楽しかったんで」
あっさり言い切るその感じが、本当にずるい。
「俺、先輩のことなら、もっと手伝いたいです」
「……は?」
唐突に出てきた言葉に、手が止まる。
「メニュー表とか、装飾とかだけじゃなくて」
水瀬は、視線を落としたかと思うと、またすぐにこっちを見た。
「先輩が困ってるときとか、落ち込んでるときとか」
「お前、昨日も十分やってくれただろ」
「昨日のは、まだ一部です」
「一部って」
「俺、先輩のこと好きだから」
静かな声だった。
今までの「好き」とは、少しだけ温度が違う気がした。
冗談めかして笑っていない。
目も、逸らさない。
心臓が、どくん、と変な音を立てる。
それでも、「好き」だけに反応して、勝手に舞い上がるわけにはいかない。
今までだって、「先輩のノート好きです」とか「声好きです」とか、いろんな「好き」があった。今回だって、広い意味かもしれない。
……そう決めつけようとするのは、もうクセみたいなものだ。
「俺、先輩のいいところ百個言えるって言ったじゃないですか」
「またその話かよ」
「百個、言い終わるまで、そばにいたいです」
ざわざわしていた教室の音が、一瞬遠のいた気がした。
隣で誰かが笑っている声も、机を引く音も、聞こえなくなる。
水瀬の声だけが、やけに耳に残る。
「……そんなの、時間かかるだろ」
やっとそれだけ返す。
「かかっていいです」
迷いのない返事だった。
「時間かけて、ちゃんと全部見つけたいです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがぐっと揺れた。
今まで、自分のことをそんなふうに言ってくれた人なんていなかった。
「どうせ俺なんか」と思っていた場所に、「それでも」と言ってくる声が、何度も重なっていく。
昨日、「味方です」と言われたときに少しだけ開いた心の蓋が、またもう少し、開いた気がした。
「……お前さ」
「はい」
「そんなこと言ってると、俺、勘違いするぞ」
気づいたら、口から出ていた。
水瀬は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、ふっと笑った。
「勘違いじゃないですよ」
まっすぐ、そう言った。
「先輩のこと、ちゃんと好きですから」
心臓が、また変な音を立てる。
それが「先輩として」なのか「人として」なのか――まだ聞く勇気は出なかった。
けど。
このとき初めて、「もし本当に、そうだったら」と考えた自分がいたことは、認めざるをえなかった。
クラスのレトロ喫茶計画は、思った以上に本気で、窓にはレースのカーテン、黒板にはメニュー看板、教室の後ろにはレコード風の飾りまでつけるらしい。
「じゃ、今日の買い出しメンバー決めるぞー」
放課後、ホームルームのあと。
いつものようにクラスの真ん中で、小野がリーダーっぽく声を張った。
「飲み物と紙ナプキン、あと麻ひもとガーランド用の画鋲だな。二人一組で行ってきてくれ」
黒板にざっと必要なものを書きながら、振り返る。
「買い出しはー……」
「はい」
俺の後ろのほうから、やたら元気な声がした。
振り向くと、水瀬が勢いよく手を挙げている。目立つ。すごく目立つ。
「俺、行きます」
「お、えらい。じゃあ一年からの助っ人、水瀬くん」
小野がニヤニヤしながら辺りを見回して、わざとらしく言う。
「で、もう一人は……結城」
「え」
「お前、昨日メニュー表の件頑張ってくれたしさ。買い出し係、頼んだ」
「いや、別に──」
「俺、結城先輩と行きたいです」
被せ気味に水瀬が言った。
教室の視線が、一瞬だけこっちに集まる。やめてくれ。
「ほら、後輩もこう言ってるし」
小野がにやっと笑った。
「二人なら、買い物も間違えないだろ。よろしくな、真面目ペア」
そうして、あっさりペアが決まった。
◇
校門を出て、駅前のスーパーまでの道を歩く。
夕方の風が少しひんやりしていて、長袖のシャツ越しにちょうどいい。
「先輩、買い物メモ持ってます?」
「ここ」
ポケットから取り出した紙をひらひらさせる。
「飲み物は紙パックじゃなくてペットボトルね。氷入れるから。紙ナプキンは茶色系。麻ひもは太すぎないやつ」
「完璧ですね」
「黒板そのまま写しただけだよ」
「そういうとこが完璧って言ってるんですけど」
まただ。すぐ褒めてくる。
「お前、誰にでもそうやって褒めてんの?」
「いえ」
即答。
「先輩限定です」
「そういうことをさらっと言うな」
「事実なんで」
悪びれた様子もなく、こっちを見て笑う。
ほんと、好きがバレてるレベルの距離感だと思う。
……本人には言わないけど。
「足、もう平気ですか?」
「ああ。昨日より全然マシ」
「よかった。今日、買い出し決まったとき、めっちゃドキドキしました」
「何でだよ」
「先輩、俺と一緒なの嫌かなって」
「別に嫌じゃねえよ」
「じゃあ、よかった」
心の底からほっとした顔をするから、こっちがびっくりする。
「そんな顔するほどのことか?」
「しますよ。だって、買い出しペアって、結構大事じゃないですか」
「どこが」
「ドラマで一話まるまる使うくらいには、大事です」
「基準がおかしい」
笑いながら、その「ドラマ」という単語が、妙に頭に残る。
もし本当にドラマになったとしたら──なんて、ありえない想像をしかけて、慌てて打ち消した。
◇
スーパーに着いて、カゴを一つ取る。
「飲み物はどうします? アイスティーとオレンジと、あと何か」
「原価とか考えたら、炭酸よりお茶とジュースだろ。人気ありそうなのはオレンジとアップルかな」
「さすが、客目線」
「そこまで考えてない」
「でも、先輩、いつもそうやって『誰が飲むか』とか『誰が使うか』から考えてますよね」
さらっと、核心を突くようなことを言う。
「そういうところ、好きです」
「お前、今日『好き』何回目だよ」
「まだ三回目です」
「カウントしてんのか」
呆れながらも、その「好き」のたびに、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。
「先輩は、何味が好きですか?」
「俺? アイスティーかな」
「じゃあ、アイスティー多めで」
「いや、俺基準にしなくていいから」
「俺、先輩の好きなもの覚えたいんで」
真剣な顔で言うな。心臓に悪い。
「覚えたからって、別に何も出ないぞ」
「出ます」
「何が」
「俺のテンションが上がります」
分かりやすい。
こういうわんこみたいなところ、見てると、なんか笑ってしまう。
◇
買い物を終えて戻ると、教室では装飾班が天井にガーランドを張り始めていた。
「結城、水瀬、おかえり。画鋲と麻ひも、そこ置いといてくれ」
「了解」
荷物を机に置いた途端、小野が声をかけてくる。
「それと、黒板横の飾り、二人でやってくれない? メニュー表の横に、レコードっぽいやつ吊るすやつ」
「分かった」
「結城のセンスと、観察くんのセンスに任せるわ」
勝手にコンビ名をつけるな。
黒板の横のスペースを確認して、麻ひもの長さを測る。
「天井のこのへん、結構高いな」
「踏み台、持ってきます」
水瀬が、教室の後ろから脚立を引っ張ってくる。
「先輩、上、行けます?」
「まあ、行けるけど……」
「じゃあ、登るとき、俺が支えますね」
「そんな大げさな」
「先輩が落ちたら大事件なんで」
またそれだ。いちいち大事にしてくる。
脚立に上がると、思ったよりも視線が高くなった。黒板の上って、こんなに上から見下ろす感じなんだな、と変なことを考える。
「先輩、ハサミ渡します」
「うん」
下から伸びてきた手から、ハサミを受け取る。
「……あ、手」
「ん?」
「怪我しないでね」
ほんの一拍置いて、付け足された言葉。
顔を見なくても、下でちょっと照れてるのが分かる言い方だった。
「大丈夫だよ。小学生じゃないし」
「でも、先輩の手、好きなんで」
「は?」
「綺麗だから」
さらっと言うな。
「ノート書いてるときとか、黒板消してるときとか。見ちゃうんですよね」
「見ないでいいから」
「見ます」
即答。
ほんと、ブレーキという概念がない。
「手、細くて綺麗なのに、ちゃんと力入ってるところが好きです」
「分析やめろ」
言いながらも、その言葉が、じわじわ効いてくる。
今まで自分の手なんて、「線が細い」「頼りない」としか言われたことがなかったから。
「ほら先輩、そこ、もう少し右です」
「ここ?」
「もうちょい……そうです。その位置、完璧」
脚立の上から、麻ひもをピンと張って画鋲で止める。
下から見上げてくる視線が、やけに熱い。
「よし、とりあえず一本目はこれで」
「お疲れ様です」
降りようとしたとき、脚立が少しぐらりと揺れた。
「うわ」
思わず体が傾きかけた瞬間、腰のあたりをぐっと支えられる。
「先輩!」
水瀬が、両手でしっかりと支えていた。
予想以上に近い距離。
振り向いたら、そのままぶつかりそうなくらい。
「だ、大丈夫か?」
「……お前に聞くなよ、それ」
支えられてるの、俺だし。
「先輩が落ちたら、俺も一緒に倒れるんで」
「巻き込む気満々かよ」
「道連れです」
「物騒な言い方やめろ」
そうツッコみながらも、腰にかかった手の感触が、じんわり残る。
「ごめん。ありがと」
「どういたしまして」
距離が近すぎて、視線を合わせられない。
脚立から降りて、少し離れてから、やっと息を整えた。
「先輩、ハサミ貸してください」
「あ、うん」
さっき渡されたハサミを手渡すとき、指先が触れた。
一瞬、電気が走ったみたいに心臓が跳ねる。
「……先輩?」
「なんでもない」
慌てて手を引っ込めたのを、水瀬はじっと見ていた気がする。
◇
レコード風の丸い画用紙に、黒ペンでタイトルを書いていく作業に移る。
机を向かい合わせて、二人で座る。
「じゃあ俺、文字書きますね」
「お前、字大丈夫か?」
「人を不安にさせる前提やめてください」
「だって、前にノート見せてもらったとき、すげえ丸文字だったから」
「丸いのが味なんですって」
「分かった分かった。じゃあ、これはお前に任せるから、その代わりバランス見ていい?」
「先輩、監修ですね」
「そんな大層なもんじゃない」
黒い丸の真ん中に、店名を書く。
レトロ喫茶なのに店名が「クラス2―Aカフェ」というそのまま具合は、うちのクラスらしい。
「『カフェ』の『ェ』、ちょっと小さめにするとバランスいいかも」
「こんな感じですか?」
「もうちょい右」
「こう?」
「お、いいじゃん」
「先輩、褒めました?」
「いや、普通に良かったから」
「嬉しい」
大げさにほっとする。
「俺、先輩に褒められるの、かなりレアなんで」
「そんなことないだろ」
「あります。先輩、自分にも人にも厳しめだから」
そう言われると、否定しづらい。
「もっと褒めてくれてもいいですよ」
「何をだよ」
「俺のこと」
「自分で言うな」
でも、少しだけ考えて、口を開いた。
「……さっきの、いい字だった」
「お」
「丸いけど、ちゃんと読みやすいし。雰囲気出てる」
「先輩、意外とちゃんと褒めてくれるじゃないですか」
「意外とってなんだよ」
水瀬は、ほんの少し頬を赤くして笑った。
その表情に、こっちの心臓がまた騒がしくなる。
なんだ、この感じ。
ただの後輩に褒め返しただけなのに、やたらと意識してしまう自分がいる。
「俺、もっと頑張ります」
「何をだよ」
「先輩に褒められるように」
即答。
「先輩、褒めるとき、ちょっとだけ声優っぽくなりますよね」
「は?」
「なんか、落ち着いてて。でもちゃんと嬉しそうで」
「そうか?」
「はい。そういうとこも好きです」
まただ。
好き、って言うたびに、自分の胸の中の何かをコツコツ叩いてくる。
今までは、それを「後輩として好き」とか「先輩として尊敬」とか、広い意味の「好き」だと無理やりラベルを貼っていたけど。
ここまで連呼されると、さすがに意識せずにはいられない。
俺はどうなんだろう。
こいつのこと、どう思ってる?
ノートを褒められるのも、声を褒められるのも、嬉しくないわけじゃない。
むしろ、嬉しい。
体育のとき、「味方です」って言われたときも、正直、少し泣きそうだった。
それって、どういう感情なんだろう。
「……結城先輩?」
「ん」
「今、ちょっと難しい顔してました」
「いつもだろ」
「いつもより、です」
よく見てる。観察魔め。
「何考えてたんですか?」
「別に」
「別にじゃ、納得しません」
「めんどくせーな」
「先輩の頭の中、ちょっとだけ知りたいです」
真剣に、だけど笑いながら言う。
そうやって、ぐいぐい距離を詰めてくる。
「……お前ってさ」
「はい」
「俺のこと、ほんとによく見てるよな」
「はい」
即答だった。
「いつからだよ」
「いつから、って?」
「一年のときから見てましたって、この前言ってたろ」
「あー」
水瀬は、少しだけ視線をそらした。
珍しく、言葉を選んでいるように見える。
「入学して、最初の全校集会のときですね」
「全校集会?」
「一年代表が壇上で挨拶するとき、体育館の後ろのほうで二年の列が見えて」
「そんな前からかよ」
「はい。そこで、前のほうで先生と話してる先輩見て、『あ、なんかちゃんとしてる人いそう』って思って」
「ちゃんとしてる人いそう、ってざっくりだな」
「で、後で廊下で見かけたら、その『ちゃんとしてる人』が先輩で」
じっと俺を見る。
「そこから、ずっと観察してました」
「今さらっと言ったけど、だいぶ怖い発言だぞ」
「いい意味でですよ」
「どこがだ」
「先輩のいいところ探すの、楽しかったんで」
あっさり言い切るその感じが、本当にずるい。
「俺、先輩のことなら、もっと手伝いたいです」
「……は?」
唐突に出てきた言葉に、手が止まる。
「メニュー表とか、装飾とかだけじゃなくて」
水瀬は、視線を落としたかと思うと、またすぐにこっちを見た。
「先輩が困ってるときとか、落ち込んでるときとか」
「お前、昨日も十分やってくれただろ」
「昨日のは、まだ一部です」
「一部って」
「俺、先輩のこと好きだから」
静かな声だった。
今までの「好き」とは、少しだけ温度が違う気がした。
冗談めかして笑っていない。
目も、逸らさない。
心臓が、どくん、と変な音を立てる。
それでも、「好き」だけに反応して、勝手に舞い上がるわけにはいかない。
今までだって、「先輩のノート好きです」とか「声好きです」とか、いろんな「好き」があった。今回だって、広い意味かもしれない。
……そう決めつけようとするのは、もうクセみたいなものだ。
「俺、先輩のいいところ百個言えるって言ったじゃないですか」
「またその話かよ」
「百個、言い終わるまで、そばにいたいです」
ざわざわしていた教室の音が、一瞬遠のいた気がした。
隣で誰かが笑っている声も、机を引く音も、聞こえなくなる。
水瀬の声だけが、やけに耳に残る。
「……そんなの、時間かかるだろ」
やっとそれだけ返す。
「かかっていいです」
迷いのない返事だった。
「時間かけて、ちゃんと全部見つけたいです」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがぐっと揺れた。
今まで、自分のことをそんなふうに言ってくれた人なんていなかった。
「どうせ俺なんか」と思っていた場所に、「それでも」と言ってくる声が、何度も重なっていく。
昨日、「味方です」と言われたときに少しだけ開いた心の蓋が、またもう少し、開いた気がした。
「……お前さ」
「はい」
「そんなこと言ってると、俺、勘違いするぞ」
気づいたら、口から出ていた。
水瀬は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、ふっと笑った。
「勘違いじゃないですよ」
まっすぐ、そう言った。
「先輩のこと、ちゃんと好きですから」
心臓が、また変な音を立てる。
それが「先輩として」なのか「人として」なのか――まだ聞く勇気は出なかった。
けど。
このとき初めて、「もし本当に、そうだったら」と考えた自分がいたことは、認めざるをえなかった。



