文化祭準備が本格的に始まってから、毎日がやたら騒がしい。

 クラスのレトロ喫茶計画は、思った以上に本気で、窓にはレースのカーテン、黒板にはメニュー看板、教室の後ろにはレコード風の飾りまでつけるらしい。

「じゃ、今日の買い出しメンバー決めるぞー」

 放課後、ホームルームのあと。
 いつものようにクラスの真ん中で、小野がリーダーっぽく声を張った。

「飲み物と紙ナプキン、あと麻ひもとガーランド用の画鋲だな。二人一組で行ってきてくれ」

 黒板にざっと必要なものを書きながら、振り返る。

「買い出しはー……」

「はい」

 俺の後ろのほうから、やたら元気な声がした。

 振り向くと、水瀬が勢いよく手を挙げている。目立つ。すごく目立つ。

「俺、行きます」

「お、えらい。じゃあ一年からの助っ人、水瀬くん」

 小野がニヤニヤしながら辺りを見回して、わざとらしく言う。

「で、もう一人は……結城」

「え」

「お前、昨日メニュー表の件頑張ってくれたしさ。買い出し係、頼んだ」

「いや、別に──」

「俺、結城先輩と行きたいです」

 被せ気味に水瀬が言った。

 教室の視線が、一瞬だけこっちに集まる。やめてくれ。

「ほら、後輩もこう言ってるし」

 小野がにやっと笑った。

「二人なら、買い物も間違えないだろ。よろしくな、真面目ペア」

 そうして、あっさりペアが決まった。

     ◇

 校門を出て、駅前のスーパーまでの道を歩く。

 夕方の風が少しひんやりしていて、長袖のシャツ越しにちょうどいい。

「先輩、買い物メモ持ってます?」

「ここ」

 ポケットから取り出した紙をひらひらさせる。

「飲み物は紙パックじゃなくてペットボトルね。氷入れるから。紙ナプキンは茶色系。麻ひもは太すぎないやつ」

「完璧ですね」

「黒板そのまま写しただけだよ」

「そういうとこが完璧って言ってるんですけど」

 まただ。すぐ褒めてくる。

「お前、誰にでもそうやって褒めてんの?」

「いえ」

 即答。

「先輩限定です」

「そういうことをさらっと言うな」

「事実なんで」

 悪びれた様子もなく、こっちを見て笑う。

 ほんと、好きがバレてるレベルの距離感だと思う。
 ……本人には言わないけど。

「足、もう平気ですか?」

「ああ。昨日より全然マシ」

「よかった。今日、買い出し決まったとき、めっちゃドキドキしました」

「何でだよ」

「先輩、俺と一緒なの嫌かなって」

「別に嫌じゃねえよ」

「じゃあ、よかった」

 心の底からほっとした顔をするから、こっちがびっくりする。

「そんな顔するほどのことか?」

「しますよ。だって、買い出しペアって、結構大事じゃないですか」

「どこが」

「ドラマで一話まるまる使うくらいには、大事です」

「基準がおかしい」

 笑いながら、その「ドラマ」という単語が、妙に頭に残る。

 もし本当にドラマになったとしたら──なんて、ありえない想像をしかけて、慌てて打ち消した。

     ◇

 スーパーに着いて、カゴを一つ取る。

「飲み物はどうします? アイスティーとオレンジと、あと何か」

「原価とか考えたら、炭酸よりお茶とジュースだろ。人気ありそうなのはオレンジとアップルかな」

「さすが、客目線」

「そこまで考えてない」

「でも、先輩、いつもそうやって『誰が飲むか』とか『誰が使うか』から考えてますよね」

 さらっと、核心を突くようなことを言う。

「そういうところ、好きです」

「お前、今日『好き』何回目だよ」

「まだ三回目です」

「カウントしてんのか」

 呆れながらも、その「好き」のたびに、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。

「先輩は、何味が好きですか?」

「俺? アイスティーかな」

「じゃあ、アイスティー多めで」

「いや、俺基準にしなくていいから」

「俺、先輩の好きなもの覚えたいんで」

 真剣な顔で言うな。心臓に悪い。

「覚えたからって、別に何も出ないぞ」

「出ます」

「何が」

「俺のテンションが上がります」

 分かりやすい。

 こういうわんこみたいなところ、見てると、なんか笑ってしまう。

     ◇

 買い物を終えて戻ると、教室では装飾班が天井にガーランドを張り始めていた。

「結城、水瀬、おかえり。画鋲と麻ひも、そこ置いといてくれ」

「了解」

 荷物を机に置いた途端、小野が声をかけてくる。

「それと、黒板横の飾り、二人でやってくれない? メニュー表の横に、レコードっぽいやつ吊るすやつ」

「分かった」

「結城のセンスと、観察くんのセンスに任せるわ」

 勝手にコンビ名をつけるな。

 黒板の横のスペースを確認して、麻ひもの長さを測る。

「天井のこのへん、結構高いな」

「踏み台、持ってきます」

 水瀬が、教室の後ろから脚立を引っ張ってくる。

「先輩、上、行けます?」

「まあ、行けるけど……」

「じゃあ、登るとき、俺が支えますね」

「そんな大げさな」

「先輩が落ちたら大事件なんで」

 またそれだ。いちいち大事にしてくる。

 脚立に上がると、思ったよりも視線が高くなった。黒板の上って、こんなに上から見下ろす感じなんだな、と変なことを考える。

「先輩、ハサミ渡します」

「うん」

 下から伸びてきた手から、ハサミを受け取る。

「……あ、手」

「ん?」

「怪我しないでね」

 ほんの一拍置いて、付け足された言葉。

 顔を見なくても、下でちょっと照れてるのが分かる言い方だった。

「大丈夫だよ。小学生じゃないし」

「でも、先輩の手、好きなんで」

「は?」

「綺麗だから」

 さらっと言うな。

「ノート書いてるときとか、黒板消してるときとか。見ちゃうんですよね」

「見ないでいいから」

「見ます」

 即答。
 ほんと、ブレーキという概念がない。

「手、細くて綺麗なのに、ちゃんと力入ってるところが好きです」

「分析やめろ」

 言いながらも、その言葉が、じわじわ効いてくる。

 今まで自分の手なんて、「線が細い」「頼りない」としか言われたことがなかったから。

「ほら先輩、そこ、もう少し右です」

「ここ?」

「もうちょい……そうです。その位置、完璧」

 脚立の上から、麻ひもをピンと張って画鋲で止める。
 下から見上げてくる視線が、やけに熱い。

「よし、とりあえず一本目はこれで」

「お疲れ様です」

 降りようとしたとき、脚立が少しぐらりと揺れた。

「うわ」

 思わず体が傾きかけた瞬間、腰のあたりをぐっと支えられる。

「先輩!」

 水瀬が、両手でしっかりと支えていた。

 予想以上に近い距離。
 振り向いたら、そのままぶつかりそうなくらい。

「だ、大丈夫か?」

「……お前に聞くなよ、それ」

 支えられてるの、俺だし。

「先輩が落ちたら、俺も一緒に倒れるんで」

「巻き込む気満々かよ」

「道連れです」

「物騒な言い方やめろ」

 そうツッコみながらも、腰にかかった手の感触が、じんわり残る。

「ごめん。ありがと」

「どういたしまして」

 距離が近すぎて、視線を合わせられない。

 脚立から降りて、少し離れてから、やっと息を整えた。

「先輩、ハサミ貸してください」

「あ、うん」

 さっき渡されたハサミを手渡すとき、指先が触れた。
 一瞬、電気が走ったみたいに心臓が跳ねる。

「……先輩?」

「なんでもない」

 慌てて手を引っ込めたのを、水瀬はじっと見ていた気がする。

     ◇

 レコード風の丸い画用紙に、黒ペンでタイトルを書いていく作業に移る。

 机を向かい合わせて、二人で座る。

「じゃあ俺、文字書きますね」

「お前、字大丈夫か?」

「人を不安にさせる前提やめてください」

「だって、前にノート見せてもらったとき、すげえ丸文字だったから」

「丸いのが味なんですって」

「分かった分かった。じゃあ、これはお前に任せるから、その代わりバランス見ていい?」

「先輩、監修ですね」

「そんな大層なもんじゃない」

 黒い丸の真ん中に、店名を書く。
 レトロ喫茶なのに店名が「クラス2―Aカフェ」というそのまま具合は、うちのクラスらしい。

「『カフェ』の『ェ』、ちょっと小さめにするとバランスいいかも」

「こんな感じですか?」

「もうちょい右」

「こう?」

「お、いいじゃん」

「先輩、褒めました?」

「いや、普通に良かったから」

「嬉しい」

 大げさにほっとする。

「俺、先輩に褒められるの、かなりレアなんで」

「そんなことないだろ」

「あります。先輩、自分にも人にも厳しめだから」

 そう言われると、否定しづらい。

「もっと褒めてくれてもいいですよ」

「何をだよ」

「俺のこと」

「自分で言うな」

 でも、少しだけ考えて、口を開いた。

「……さっきの、いい字だった」

「お」

「丸いけど、ちゃんと読みやすいし。雰囲気出てる」

「先輩、意外とちゃんと褒めてくれるじゃないですか」

「意外とってなんだよ」

 水瀬は、ほんの少し頬を赤くして笑った。
 その表情に、こっちの心臓がまた騒がしくなる。

 なんだ、この感じ。

 ただの後輩に褒め返しただけなのに、やたらと意識してしまう自分がいる。

「俺、もっと頑張ります」

「何をだよ」

「先輩に褒められるように」

 即答。

「先輩、褒めるとき、ちょっとだけ声優っぽくなりますよね」

「は?」

「なんか、落ち着いてて。でもちゃんと嬉しそうで」

「そうか?」

「はい。そういうとこも好きです」

 まただ。

 好き、って言うたびに、自分の胸の中の何かをコツコツ叩いてくる。

 今までは、それを「後輩として好き」とか「先輩として尊敬」とか、広い意味の「好き」だと無理やりラベルを貼っていたけど。

 ここまで連呼されると、さすがに意識せずにはいられない。

 俺はどうなんだろう。

 こいつのこと、どう思ってる?

 ノートを褒められるのも、声を褒められるのも、嬉しくないわけじゃない。
 むしろ、嬉しい。

 体育のとき、「味方です」って言われたときも、正直、少し泣きそうだった。

 それって、どういう感情なんだろう。

「……結城先輩?」

「ん」

「今、ちょっと難しい顔してました」

「いつもだろ」

「いつもより、です」

 よく見てる。観察魔め。

「何考えてたんですか?」

「別に」

「別にじゃ、納得しません」

「めんどくせーな」

「先輩の頭の中、ちょっとだけ知りたいです」

 真剣に、だけど笑いながら言う。

 そうやって、ぐいぐい距離を詰めてくる。

「……お前ってさ」

「はい」

「俺のこと、ほんとによく見てるよな」

「はい」

 即答だった。

「いつからだよ」

「いつから、って?」

「一年のときから見てましたって、この前言ってたろ」

「あー」

 水瀬は、少しだけ視線をそらした。

 珍しく、言葉を選んでいるように見える。

「入学して、最初の全校集会のときですね」

「全校集会?」

「一年代表が壇上で挨拶するとき、体育館の後ろのほうで二年の列が見えて」

「そんな前からかよ」

「はい。そこで、前のほうで先生と話してる先輩見て、『あ、なんかちゃんとしてる人いそう』って思って」

「ちゃんとしてる人いそう、ってざっくりだな」

「で、後で廊下で見かけたら、その『ちゃんとしてる人』が先輩で」

 じっと俺を見る。

「そこから、ずっと観察してました」

「今さらっと言ったけど、だいぶ怖い発言だぞ」

「いい意味でですよ」

「どこがだ」

「先輩のいいところ探すの、楽しかったんで」

 あっさり言い切るその感じが、本当にずるい。

「俺、先輩のことなら、もっと手伝いたいです」

「……は?」

 唐突に出てきた言葉に、手が止まる。

「メニュー表とか、装飾とかだけじゃなくて」

 水瀬は、視線を落としたかと思うと、またすぐにこっちを見た。

「先輩が困ってるときとか、落ち込んでるときとか」

「お前、昨日も十分やってくれただろ」

「昨日のは、まだ一部です」

「一部って」

「俺、先輩のこと好きだから」

 静かな声だった。

 今までの「好き」とは、少しだけ温度が違う気がした。

 冗談めかして笑っていない。
 目も、逸らさない。

 心臓が、どくん、と変な音を立てる。

 それでも、「好き」だけに反応して、勝手に舞い上がるわけにはいかない。

 今までだって、「先輩のノート好きです」とか「声好きです」とか、いろんな「好き」があった。今回だって、広い意味かもしれない。

 ……そう決めつけようとするのは、もうクセみたいなものだ。

「俺、先輩のいいところ百個言えるって言ったじゃないですか」

「またその話かよ」

「百個、言い終わるまで、そばにいたいです」

 ざわざわしていた教室の音が、一瞬遠のいた気がした。

 隣で誰かが笑っている声も、机を引く音も、聞こえなくなる。

 水瀬の声だけが、やけに耳に残る。

「……そんなの、時間かかるだろ」

 やっとそれだけ返す。

「かかっていいです」

 迷いのない返事だった。

「時間かけて、ちゃんと全部見つけたいです」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがぐっと揺れた。

 今まで、自分のことをそんなふうに言ってくれた人なんていなかった。

 「どうせ俺なんか」と思っていた場所に、「それでも」と言ってくる声が、何度も重なっていく。

 昨日、「味方です」と言われたときに少しだけ開いた心の蓋が、またもう少し、開いた気がした。

「……お前さ」

「はい」

「そんなこと言ってると、俺、勘違いするぞ」

 気づいたら、口から出ていた。

 水瀬は、一瞬だけ驚いたような顔をして、それから、ふっと笑った。

「勘違いじゃないですよ」

 まっすぐ、そう言った。

「先輩のこと、ちゃんと好きですから」

 心臓が、また変な音を立てる。

 それが「先輩として」なのか「人として」なのか――まだ聞く勇気は出なかった。

 けど。

 このとき初めて、「もし本当に、そうだったら」と考えた自分がいたことは、認めざるをえなかった。