文化祭の準備が、本格的に始まった。

 うちのクラスは、お化け屋敷と迷って、結局「レトロ喫茶」みたいなカフェをやることになった。内装班、メニュー班、買い出し班。俺は、比較的静かに作業できそうな「装飾・メニュー表担当」に振り分けられる。

「結城、字きれいだしさ、メニューの清書頼んでいい?」

「……ああ、いいよ」

 字が綺麗、くらいしか取り柄がない俺には、ありがたい仕事だ。

 黒板の端に書かれたメニュー案を見ながら、模造紙にレイアウトを考えていく。ペンの色を変えて、値段をそろえて、ちょっとだけイラストを入れて。

 集中しているときだけは、「地味」とか「主役っぽくない」とか、そういう言葉を忘れられる。

「結城、こっちはどうする?」

「あ、その右下のスペースに、注意書き入れたいんだけど。『アレルギーのある人は声かけてください』って」

「お、いいじゃん。さすが真面目」

 同じ装飾班の女子が、感心したように笑った。

 こういう「真面目」は、あんまり悪くない。

     ◇

 事件が起きたのは、その日の放課後だった。

「じゃあ、メニュー表と看板類は、このロッカーの中に入れとくから」

 クラスの中心にいる男子──いわゆるリア充代表の小野が言う。

「明日、朝イチでまた出して作業続きやるし。絶対なくすなよ」

「はーい」

 返事をしながら、俺は完成したばかりのメニュー表を丁寧にビニール袋に入れて、言われたロッカーの中にしまった。
 鍵なんてものはなく、スライド式の戸を閉めるだけ。少しだけ不安だったけど、「まあ教室だし、大丈夫だろ」と自分に言い聞かせる。

 その日はそのまま解散になって、俺もいつも通り、教科書を鞄に詰めて帰った。

     ◇

 翌朝。

 ホームルームが始まる前から、教室は文化祭モードでざわついていた。
 俺はとりあえずメニュー表を出そうと、昨日のロッカーのところへ向かう。

「……ん?」

 スライドを開けて、中をのぞき込んだ瞬間、血の気が引いた。

 ない。

 昨日、ビニール袋に入れて入れたはずの、メニュー表がない。

「うそだろ」

 慌てて中身を全部引っ張り出す。他のポスター、紙袋、画用紙。どれだけ見ても、あのメニュー表だけが見当たらない。

「おい、どうした?」

 背後から小野の声がした。

「メニュー表、出して……」

「……あれ?」

 小野もロッカーの中をのぞいて、首をかしげる。

「昨日、ここに入れたよな?」

「入れた。俺、ちゃんと見てた」

「じゃあ、なんでねーの?」

 知らない、と言いたい。
 言いたいけど、言えなかった。

 俺が最後に確認したのは、戸を閉める前。
 それで「大丈夫だろ」と思って、そのままにした。誰かがゲームか何かで使って、戻し忘れたのかもしれない。

 でも、「管理してたのは誰だ」と聞かれたら──。

「……ごめん。昨日、俺がしまった」

 気づけば、口が勝手にそう言っていた。

「鍵とか、かけてなかったのは?」

「このロッカー、鍵ないし」

「だよなー」

 小野が、分かりやすくため息をつく。

「マジか。メニュー表、けっこういい感じだったのに」

「……作り直す」

 反射的にそう言った。

「俺が、今日の放課後でもう一回──」

「いや、作り直すしかねーのは分かってるけどさ」

 小野は腕を組んで、少しだけ眉を寄せる。

「管理、ちゃんとしてくれよ。あれ、結城に任せたんだからさ」

「……ごめん」

 短く謝ることしかできなかった。

 責めているというほど強い口調ではない。
 むしろ、軽く注意した、くらいのニュアンスだ。

 それでも、「任せたんだから」という言葉が、ずしっと胸に落ちる。

「まあ、なくなったもんはしょうがねーし。今日はとりあえず席替え決めなきゃだしさ。放課後にまた集まろうぜ」

「……うん」

 納得したふりをして、自分の席に戻る。

 周りの友達が「マジ? なくなったの?」とひそひそ話しているのが耳に入ってきて、自然と背筋が丸くなった。

「結城、やらかしたなー」

「ドジだな、お前」

 軽い笑い声が混ざる。

 昨日の体育と同じだ。
 軽口だって分かってる。悪気なんてない。文化祭前のテンションで、誰かをいじりたくなる気持ちも。

 でも、「やらかした」「ドジ」という単語は、俺の中でちゃんと刺さる。

 まただ。

 また、やった。

 任された仕事を、ちゃんと守れなかった。

 メニュー表そのものより、「任せたのに」というあの一言のほうが、よっぽど重い。

     ◇

 ホームルームが終わって、席替えも決まって。
 授業が始まっても、頭の半分はメニュー表のことでいっぱいだった。

 どこにいったんだろう。
 誰かが悪ふざけで持って行って、どこかに隠してるんだろうか。

 だとしても、今さら「返せよ」と言い出せるほど、俺は図太くない。

 ……最初から、ちゃんと別の場所に保管しておけばよかった。

 図書室のロッカーとか、先生に預けるとか。方法はいくらでもあったのに。

「結城、教科書」

「あ、ごめん」

 隣の席のやつに呼ばれて、慌てて数学の教科書を開く。
 板書を写しながらも、頭の片隅で自分を責め続ける。

 俺がちゃんとしてれば、よかっただけだ。

 その繰り返し。

     ◇

 放課後。
 文化祭準備の号令がかかる前に、俺は一度、教室を抜け出した。

 どうしても、ひとりになりたかった。

 向かったのは、三階の端にある空き教室だ。使われていない家庭科室で、普段は鍵がかかっているけど、今日はたまたま開いていた。

 薄暗い教室の中で、窓際の椅子に座り込む。

「……はあ」

 ため息が出た。

 メニュー表なんて、作り直せばいい。
 紙なんて、いくらでもある。

 頭では分かってるのに、心が全然軽くならない。

 「任せたんだから」という言葉に、今までの自分の「失敗」が全部くっついて蘇ってくる。

 体育でこけたこと。
 班長のとき、うまく指示できなくてグダついたこと。
 小テストで凡ミスして、先生に「らしくないな」と笑われたこと。

 そういうのが全部、「やっぱ俺、何やっても中途半端だな」という結論に集約されていく。

「……ほんと、こういうとこだよな」

 自分で自分に呆れながら、机に額をつける。
 こうやってひとりで落ち込んで、勝手に底まで沈んでいくところ。

「先輩?」

 不意に、ドアのほうから声がした。

 聞き慣れた、ちょっとだけ高めの声。

 顔を上げると、家庭科室の入口から、水瀬が覗き込んでいた。

「やっぱりここでした」

「……ストーカーか、お前」

「ストーカーじゃないです。観察です」

「たいして変わんねーよ」

 反射的にツッコむけど、心のどこかで、少しだけほっとしていた。

「なんでここに」

「文化祭準備の集合かかったのに、先輩が教室にいなかったんで」

「トイレ行ってたんだよ」

「トイレにしては、長いなって」

「観察やめろ」

 水瀬は、何も言わずにこっちへ歩いてきて、俺の向かいの席に腰を下ろした。

 机越しに向かい合う形になる。

「メニュー表、なくなったんですね」

「……知ってたのか」

「さっき小野さんたちが、ロッカーの前で話してました」

 そりゃ、もうクラス中に知れ渡ってるだろうな。

「作り直すことになったって聞きましたけど」

「うん。今日の放課後と明日で、なんとかする」

「結城先輩が?」

「他に誰がやるんだよ。俺のミスだし」

 思ったより硬い声が出て、自分でもびくっとする。

 水瀬は、じっと俺の顔を見つめてきた。
 一拍置いて、静かに口を開く。

「先輩、今、めちゃくちゃ自分のこと責めてますよね」

「……まあ」

 否定できるほど、器用じゃない。

「俺、別に言い訳したいわけじゃないけどさ」

 机の端を指でなぞりながら、ぽつりとこぼす。

「ちゃんとやろうって思ってたんだよ。メニュー表、任されたから。なくさないように、って」

「うん」

「なのに、結果これだろ。任されたもの、守れないなら、最初からやるなよって感じじゃん」

「そんなこと──」

「あるだろ」

 自分でも驚くくらい、声が強くなる。

「俺がちゃんとしてれば、よかったんだって。ロッカーじゃなくて、先生に預けるとかさ。『鍵ないから心配なんで』って言えばよかったのに。変に周りの空気気にして、言えなくて」

 言いながら、笑ってしまう。

「結局、こうやって中途半端なんだよ、いつも」

 何でもないミス。
 作り直せば済む話。

 そうやって軽く考えてくれる人もいる。それは分かってる。
 でも、自分自身が、自分のミスを許せない。

「結城先輩」

 水瀬の声が、いつもより少し低くなった。

「先輩のいいところ、僕は百個言えます」

「……いきなり何の宣言だよ」

 あまりにも真剣な顔で言うから、思わずツッコミを入れてしまう。

 でも、あいつは笑わなかった。

「さっきのは、そのうちの一個も否定してないですよね」

「え?」

「『俺なんか』とか『中途半端』とか、そうやって全部、自分で自分のこと悪く言ってますけど」

 視線がまっすぐぶつかる。

「俺が知ってる結城先輩とは、違います」

 その言い方は、やけに強かった。

「先輩、ちゃんと守ろうとしてましたよ」

「……結果的に守れてないだろ」

「でも、『大丈夫だろ』って適当に入れたんじゃなくて、『なくさないように』ってちゃんと袋に入れて、言われた場所にしまって」

 ひとつひとつ、昨日の行動をなぞるみたいに言葉にしていく。

「それを見て、『やっぱり真面目だな』って、俺は思ってました」

「真面目って、そんな役に立たないだろ」

「役に立ってます」

 即答だった。

「任されたからって、ちゃんとやろうとする人って、そんなに多くないです。『誰かがやってくれる』って思って投げちゃう人のほうが多いのに」

 俺の中にある「常識」が、少しだけ揺れる。

「それに、なくなったの、結城先輩だけのせいじゃないですよ」

「でも──」

「でもじゃないです」

 また、食い気味に遮られる。

「鍵がないロッカーを『絶対なくすなよ』ってみんなで共有してたのに、誰かが勝手にいじったのかもしれないし。先生に預けるって案を、誰も出さなかったのはクラス全体の問題だし」

「……」

「『任せた』って言われたときに、ちゃんと引き受けて、最後までやろうとしたのは、先輩のいいところです」

 机の上で握りしめた自分の手が、少しだけ震えているのに気づく。

「だから、そんな顔しないでください」

「そんな顔って、どんな顔だよ」

「今にも、『俺なんかいなくても』って言いそうな顔です」

 図星を刺されて、何も言えなくなる。

 本当に、何で分かるんだろう、この一年は。

「俺、先輩が自分のこと悪く言うの、めちゃくちゃ嫌いなんですよ」

「嫌いって」

「一番近くで見てるからこそ、否定したくなります」

 そう言って、水瀬は椅子から立ち上がった。机を回り込んで、俺の隣の席に移動してくる。

 距離が、ぐっと近くなる。

「先輩」

「……なんだよ」

「誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」

 真っ直ぐな目で、はっきりと言い切った。

 さっきまでより、声が少しだけ大きい。
 でも、その大きさは怒鳴り声じゃなくて、何かを押し出すみたいな強さだった。

「メニュー表なくなったって、『結城の管理が』って言う人もいると思います」

「まあ……そうだろうな」

「でも、それだけで先輩のこと決めつけるの、違うなって」

 水瀬は、机の上に自分の手を置いた。そのすぐ横に、俺の手。

 触れてはいないけど、少し動けば触れる距離。

「失敗したからって、その人の全部がダメになるわけじゃないじゃないですか」

「……」

「結城先輩がちゃんとやろうとしたこと、俺は知ってます」

 その「知ってます」が、妙に重くて、あたたかい。

「だから、誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」

 さっきの台詞を、ゆっくり繰り返す。

 その言葉が、胸の奥にじんわり染み込んでいくのが分かった。

「……お前、一年のくせに、そういうこと言うなよ」

「一年だから言うんです」

「意味分かんねえ」

「同じ学年とかだと、変に遠慮しちゃうじゃないですか。俺、そういうの苦手なんで」

 さらっと言いながら、少しだけ笑う。

「先輩のいいところ、僕は百個言えるって言いましたけど」

「何回その話すんだよ」

「今日の分、増えました」

「……今日だけで何個カウントしてんだ」

「三個目です」

「また勝手に増やして」

「『任されたことをちゃんとやろうとするところ』と、『失敗しても誰のことも責めないところ』と」

 指を一本ずつ折りながら、数えていく。

「それでも自分のこと悪く言っちゃうところも──」

「それはいいところじゃないだろ」

「俺の中では、守りたくなるところです」

 そう言って、少しだけ視線を落とした。

「だから、先輩が先輩を嫌いになりそうなときは、俺が全力で止めます」

「……重いな」

「ちょい重いくらいが、俺にはちょうどいいです」

 自分で言って笑うその顔が、ずるい。

 いつもより少し真剣で、でも、ちゃんと俺を笑わせようとしてくれている。

「ほんと、お前は……」

 そこまで言って、言葉が途切れた。

 胸の奥で何かが、ぱちんと音を立てて外れたような感覚がする。

 今まで、しっかり閉めてきたはずの蓋が、少しだけ開いたみたいな。

 「どうせ俺なんか」という言葉でぎゅうぎゅう押さえてきたものが、ゆっくり外に出てこようとしている感覚。

 それが何なのか、まだはっきりとは分からない。

 ただひとつだけ、分かることがあった。

 こいつの「味方です」という言葉が、思った以上に、嬉しかった。

「……ありがとな」

 やっと出てきた言葉は、それだけだった。

 でも、水瀬は目を丸くしてから、ふわっと笑った。

「はい」

 短く答えて、机の上の俺の手を、上からそっと包むように触れた。

 一瞬、心臓が跳ねる。

「ちょ、なに」

「確認です」

「何のだよ」

「ちゃんと届いたかな、って」

 軽く握って、すぐに手を離す。
 それだけの動作なのに、そこに乗った熱が、なかなか消えてくれない。

「俺、本気で言ってるんで」

 いつもの明るい笑顔。その奥に、静かな熱みたいなものが宿っている。

「先輩のこと、ずっと味方でいるつもりですから」

 「ずっと」という言葉が、やけに響いた。

 その言葉に、心の蓋が、もう少しだけ、開いた気がした。