文化祭の準備が、本格的に始まった。
うちのクラスは、お化け屋敷と迷って、結局「レトロ喫茶」みたいなカフェをやることになった。内装班、メニュー班、買い出し班。俺は、比較的静かに作業できそうな「装飾・メニュー表担当」に振り分けられる。
「結城、字きれいだしさ、メニューの清書頼んでいい?」
「……ああ、いいよ」
字が綺麗、くらいしか取り柄がない俺には、ありがたい仕事だ。
黒板の端に書かれたメニュー案を見ながら、模造紙にレイアウトを考えていく。ペンの色を変えて、値段をそろえて、ちょっとだけイラストを入れて。
集中しているときだけは、「地味」とか「主役っぽくない」とか、そういう言葉を忘れられる。
「結城、こっちはどうする?」
「あ、その右下のスペースに、注意書き入れたいんだけど。『アレルギーのある人は声かけてください』って」
「お、いいじゃん。さすが真面目」
同じ装飾班の女子が、感心したように笑った。
こういう「真面目」は、あんまり悪くない。
◇
事件が起きたのは、その日の放課後だった。
「じゃあ、メニュー表と看板類は、このロッカーの中に入れとくから」
クラスの中心にいる男子──いわゆるリア充代表の小野が言う。
「明日、朝イチでまた出して作業続きやるし。絶対なくすなよ」
「はーい」
返事をしながら、俺は完成したばかりのメニュー表を丁寧にビニール袋に入れて、言われたロッカーの中にしまった。
鍵なんてものはなく、スライド式の戸を閉めるだけ。少しだけ不安だったけど、「まあ教室だし、大丈夫だろ」と自分に言い聞かせる。
その日はそのまま解散になって、俺もいつも通り、教科書を鞄に詰めて帰った。
◇
翌朝。
ホームルームが始まる前から、教室は文化祭モードでざわついていた。
俺はとりあえずメニュー表を出そうと、昨日のロッカーのところへ向かう。
「……ん?」
スライドを開けて、中をのぞき込んだ瞬間、血の気が引いた。
ない。
昨日、ビニール袋に入れて入れたはずの、メニュー表がない。
「うそだろ」
慌てて中身を全部引っ張り出す。他のポスター、紙袋、画用紙。どれだけ見ても、あのメニュー表だけが見当たらない。
「おい、どうした?」
背後から小野の声がした。
「メニュー表、出して……」
「……あれ?」
小野もロッカーの中をのぞいて、首をかしげる。
「昨日、ここに入れたよな?」
「入れた。俺、ちゃんと見てた」
「じゃあ、なんでねーの?」
知らない、と言いたい。
言いたいけど、言えなかった。
俺が最後に確認したのは、戸を閉める前。
それで「大丈夫だろ」と思って、そのままにした。誰かがゲームか何かで使って、戻し忘れたのかもしれない。
でも、「管理してたのは誰だ」と聞かれたら──。
「……ごめん。昨日、俺がしまった」
気づけば、口が勝手にそう言っていた。
「鍵とか、かけてなかったのは?」
「このロッカー、鍵ないし」
「だよなー」
小野が、分かりやすくため息をつく。
「マジか。メニュー表、けっこういい感じだったのに」
「……作り直す」
反射的にそう言った。
「俺が、今日の放課後でもう一回──」
「いや、作り直すしかねーのは分かってるけどさ」
小野は腕を組んで、少しだけ眉を寄せる。
「管理、ちゃんとしてくれよ。あれ、結城に任せたんだからさ」
「……ごめん」
短く謝ることしかできなかった。
責めているというほど強い口調ではない。
むしろ、軽く注意した、くらいのニュアンスだ。
それでも、「任せたんだから」という言葉が、ずしっと胸に落ちる。
「まあ、なくなったもんはしょうがねーし。今日はとりあえず席替え決めなきゃだしさ。放課後にまた集まろうぜ」
「……うん」
納得したふりをして、自分の席に戻る。
周りの友達が「マジ? なくなったの?」とひそひそ話しているのが耳に入ってきて、自然と背筋が丸くなった。
「結城、やらかしたなー」
「ドジだな、お前」
軽い笑い声が混ざる。
昨日の体育と同じだ。
軽口だって分かってる。悪気なんてない。文化祭前のテンションで、誰かをいじりたくなる気持ちも。
でも、「やらかした」「ドジ」という単語は、俺の中でちゃんと刺さる。
まただ。
また、やった。
任された仕事を、ちゃんと守れなかった。
メニュー表そのものより、「任せたのに」というあの一言のほうが、よっぽど重い。
◇
ホームルームが終わって、席替えも決まって。
授業が始まっても、頭の半分はメニュー表のことでいっぱいだった。
どこにいったんだろう。
誰かが悪ふざけで持って行って、どこかに隠してるんだろうか。
だとしても、今さら「返せよ」と言い出せるほど、俺は図太くない。
……最初から、ちゃんと別の場所に保管しておけばよかった。
図書室のロッカーとか、先生に預けるとか。方法はいくらでもあったのに。
「結城、教科書」
「あ、ごめん」
隣の席のやつに呼ばれて、慌てて数学の教科書を開く。
板書を写しながらも、頭の片隅で自分を責め続ける。
俺がちゃんとしてれば、よかっただけだ。
その繰り返し。
◇
放課後。
文化祭準備の号令がかかる前に、俺は一度、教室を抜け出した。
どうしても、ひとりになりたかった。
向かったのは、三階の端にある空き教室だ。使われていない家庭科室で、普段は鍵がかかっているけど、今日はたまたま開いていた。
薄暗い教室の中で、窓際の椅子に座り込む。
「……はあ」
ため息が出た。
メニュー表なんて、作り直せばいい。
紙なんて、いくらでもある。
頭では分かってるのに、心が全然軽くならない。
「任せたんだから」という言葉に、今までの自分の「失敗」が全部くっついて蘇ってくる。
体育でこけたこと。
班長のとき、うまく指示できなくてグダついたこと。
小テストで凡ミスして、先生に「らしくないな」と笑われたこと。
そういうのが全部、「やっぱ俺、何やっても中途半端だな」という結論に集約されていく。
「……ほんと、こういうとこだよな」
自分で自分に呆れながら、机に額をつける。
こうやってひとりで落ち込んで、勝手に底まで沈んでいくところ。
「先輩?」
不意に、ドアのほうから声がした。
聞き慣れた、ちょっとだけ高めの声。
顔を上げると、家庭科室の入口から、水瀬が覗き込んでいた。
「やっぱりここでした」
「……ストーカーか、お前」
「ストーカーじゃないです。観察です」
「たいして変わんねーよ」
反射的にツッコむけど、心のどこかで、少しだけほっとしていた。
「なんでここに」
「文化祭準備の集合かかったのに、先輩が教室にいなかったんで」
「トイレ行ってたんだよ」
「トイレにしては、長いなって」
「観察やめろ」
水瀬は、何も言わずにこっちへ歩いてきて、俺の向かいの席に腰を下ろした。
机越しに向かい合う形になる。
「メニュー表、なくなったんですね」
「……知ってたのか」
「さっき小野さんたちが、ロッカーの前で話してました」
そりゃ、もうクラス中に知れ渡ってるだろうな。
「作り直すことになったって聞きましたけど」
「うん。今日の放課後と明日で、なんとかする」
「結城先輩が?」
「他に誰がやるんだよ。俺のミスだし」
思ったより硬い声が出て、自分でもびくっとする。
水瀬は、じっと俺の顔を見つめてきた。
一拍置いて、静かに口を開く。
「先輩、今、めちゃくちゃ自分のこと責めてますよね」
「……まあ」
否定できるほど、器用じゃない。
「俺、別に言い訳したいわけじゃないけどさ」
机の端を指でなぞりながら、ぽつりとこぼす。
「ちゃんとやろうって思ってたんだよ。メニュー表、任されたから。なくさないように、って」
「うん」
「なのに、結果これだろ。任されたもの、守れないなら、最初からやるなよって感じじゃん」
「そんなこと──」
「あるだろ」
自分でも驚くくらい、声が強くなる。
「俺がちゃんとしてれば、よかったんだって。ロッカーじゃなくて、先生に預けるとかさ。『鍵ないから心配なんで』って言えばよかったのに。変に周りの空気気にして、言えなくて」
言いながら、笑ってしまう。
「結局、こうやって中途半端なんだよ、いつも」
何でもないミス。
作り直せば済む話。
そうやって軽く考えてくれる人もいる。それは分かってる。
でも、自分自身が、自分のミスを許せない。
「結城先輩」
水瀬の声が、いつもより少し低くなった。
「先輩のいいところ、僕は百個言えます」
「……いきなり何の宣言だよ」
あまりにも真剣な顔で言うから、思わずツッコミを入れてしまう。
でも、あいつは笑わなかった。
「さっきのは、そのうちの一個も否定してないですよね」
「え?」
「『俺なんか』とか『中途半端』とか、そうやって全部、自分で自分のこと悪く言ってますけど」
視線がまっすぐぶつかる。
「俺が知ってる結城先輩とは、違います」
その言い方は、やけに強かった。
「先輩、ちゃんと守ろうとしてましたよ」
「……結果的に守れてないだろ」
「でも、『大丈夫だろ』って適当に入れたんじゃなくて、『なくさないように』ってちゃんと袋に入れて、言われた場所にしまって」
ひとつひとつ、昨日の行動をなぞるみたいに言葉にしていく。
「それを見て、『やっぱり真面目だな』って、俺は思ってました」
「真面目って、そんな役に立たないだろ」
「役に立ってます」
即答だった。
「任されたからって、ちゃんとやろうとする人って、そんなに多くないです。『誰かがやってくれる』って思って投げちゃう人のほうが多いのに」
俺の中にある「常識」が、少しだけ揺れる。
「それに、なくなったの、結城先輩だけのせいじゃないですよ」
「でも──」
「でもじゃないです」
また、食い気味に遮られる。
「鍵がないロッカーを『絶対なくすなよ』ってみんなで共有してたのに、誰かが勝手にいじったのかもしれないし。先生に預けるって案を、誰も出さなかったのはクラス全体の問題だし」
「……」
「『任せた』って言われたときに、ちゃんと引き受けて、最後までやろうとしたのは、先輩のいいところです」
机の上で握りしめた自分の手が、少しだけ震えているのに気づく。
「だから、そんな顔しないでください」
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「今にも、『俺なんかいなくても』って言いそうな顔です」
図星を刺されて、何も言えなくなる。
本当に、何で分かるんだろう、この一年は。
「俺、先輩が自分のこと悪く言うの、めちゃくちゃ嫌いなんですよ」
「嫌いって」
「一番近くで見てるからこそ、否定したくなります」
そう言って、水瀬は椅子から立ち上がった。机を回り込んで、俺の隣の席に移動してくる。
距離が、ぐっと近くなる。
「先輩」
「……なんだよ」
「誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」
真っ直ぐな目で、はっきりと言い切った。
さっきまでより、声が少しだけ大きい。
でも、その大きさは怒鳴り声じゃなくて、何かを押し出すみたいな強さだった。
「メニュー表なくなったって、『結城の管理が』って言う人もいると思います」
「まあ……そうだろうな」
「でも、それだけで先輩のこと決めつけるの、違うなって」
水瀬は、机の上に自分の手を置いた。そのすぐ横に、俺の手。
触れてはいないけど、少し動けば触れる距離。
「失敗したからって、その人の全部がダメになるわけじゃないじゃないですか」
「……」
「結城先輩がちゃんとやろうとしたこと、俺は知ってます」
その「知ってます」が、妙に重くて、あたたかい。
「だから、誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」
さっきの台詞を、ゆっくり繰り返す。
その言葉が、胸の奥にじんわり染み込んでいくのが分かった。
「……お前、一年のくせに、そういうこと言うなよ」
「一年だから言うんです」
「意味分かんねえ」
「同じ学年とかだと、変に遠慮しちゃうじゃないですか。俺、そういうの苦手なんで」
さらっと言いながら、少しだけ笑う。
「先輩のいいところ、僕は百個言えるって言いましたけど」
「何回その話すんだよ」
「今日の分、増えました」
「……今日だけで何個カウントしてんだ」
「三個目です」
「また勝手に増やして」
「『任されたことをちゃんとやろうとするところ』と、『失敗しても誰のことも責めないところ』と」
指を一本ずつ折りながら、数えていく。
「それでも自分のこと悪く言っちゃうところも──」
「それはいいところじゃないだろ」
「俺の中では、守りたくなるところです」
そう言って、少しだけ視線を落とした。
「だから、先輩が先輩を嫌いになりそうなときは、俺が全力で止めます」
「……重いな」
「ちょい重いくらいが、俺にはちょうどいいです」
自分で言って笑うその顔が、ずるい。
いつもより少し真剣で、でも、ちゃんと俺を笑わせようとしてくれている。
「ほんと、お前は……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
胸の奥で何かが、ぱちんと音を立てて外れたような感覚がする。
今まで、しっかり閉めてきたはずの蓋が、少しだけ開いたみたいな。
「どうせ俺なんか」という言葉でぎゅうぎゅう押さえてきたものが、ゆっくり外に出てこようとしている感覚。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
ただひとつだけ、分かることがあった。
こいつの「味方です」という言葉が、思った以上に、嬉しかった。
「……ありがとな」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
でも、水瀬は目を丸くしてから、ふわっと笑った。
「はい」
短く答えて、机の上の俺の手を、上からそっと包むように触れた。
一瞬、心臓が跳ねる。
「ちょ、なに」
「確認です」
「何のだよ」
「ちゃんと届いたかな、って」
軽く握って、すぐに手を離す。
それだけの動作なのに、そこに乗った熱が、なかなか消えてくれない。
「俺、本気で言ってるんで」
いつもの明るい笑顔。その奥に、静かな熱みたいなものが宿っている。
「先輩のこと、ずっと味方でいるつもりですから」
「ずっと」という言葉が、やけに響いた。
その言葉に、心の蓋が、もう少しだけ、開いた気がした。
うちのクラスは、お化け屋敷と迷って、結局「レトロ喫茶」みたいなカフェをやることになった。内装班、メニュー班、買い出し班。俺は、比較的静かに作業できそうな「装飾・メニュー表担当」に振り分けられる。
「結城、字きれいだしさ、メニューの清書頼んでいい?」
「……ああ、いいよ」
字が綺麗、くらいしか取り柄がない俺には、ありがたい仕事だ。
黒板の端に書かれたメニュー案を見ながら、模造紙にレイアウトを考えていく。ペンの色を変えて、値段をそろえて、ちょっとだけイラストを入れて。
集中しているときだけは、「地味」とか「主役っぽくない」とか、そういう言葉を忘れられる。
「結城、こっちはどうする?」
「あ、その右下のスペースに、注意書き入れたいんだけど。『アレルギーのある人は声かけてください』って」
「お、いいじゃん。さすが真面目」
同じ装飾班の女子が、感心したように笑った。
こういう「真面目」は、あんまり悪くない。
◇
事件が起きたのは、その日の放課後だった。
「じゃあ、メニュー表と看板類は、このロッカーの中に入れとくから」
クラスの中心にいる男子──いわゆるリア充代表の小野が言う。
「明日、朝イチでまた出して作業続きやるし。絶対なくすなよ」
「はーい」
返事をしながら、俺は完成したばかりのメニュー表を丁寧にビニール袋に入れて、言われたロッカーの中にしまった。
鍵なんてものはなく、スライド式の戸を閉めるだけ。少しだけ不安だったけど、「まあ教室だし、大丈夫だろ」と自分に言い聞かせる。
その日はそのまま解散になって、俺もいつも通り、教科書を鞄に詰めて帰った。
◇
翌朝。
ホームルームが始まる前から、教室は文化祭モードでざわついていた。
俺はとりあえずメニュー表を出そうと、昨日のロッカーのところへ向かう。
「……ん?」
スライドを開けて、中をのぞき込んだ瞬間、血の気が引いた。
ない。
昨日、ビニール袋に入れて入れたはずの、メニュー表がない。
「うそだろ」
慌てて中身を全部引っ張り出す。他のポスター、紙袋、画用紙。どれだけ見ても、あのメニュー表だけが見当たらない。
「おい、どうした?」
背後から小野の声がした。
「メニュー表、出して……」
「……あれ?」
小野もロッカーの中をのぞいて、首をかしげる。
「昨日、ここに入れたよな?」
「入れた。俺、ちゃんと見てた」
「じゃあ、なんでねーの?」
知らない、と言いたい。
言いたいけど、言えなかった。
俺が最後に確認したのは、戸を閉める前。
それで「大丈夫だろ」と思って、そのままにした。誰かがゲームか何かで使って、戻し忘れたのかもしれない。
でも、「管理してたのは誰だ」と聞かれたら──。
「……ごめん。昨日、俺がしまった」
気づけば、口が勝手にそう言っていた。
「鍵とか、かけてなかったのは?」
「このロッカー、鍵ないし」
「だよなー」
小野が、分かりやすくため息をつく。
「マジか。メニュー表、けっこういい感じだったのに」
「……作り直す」
反射的にそう言った。
「俺が、今日の放課後でもう一回──」
「いや、作り直すしかねーのは分かってるけどさ」
小野は腕を組んで、少しだけ眉を寄せる。
「管理、ちゃんとしてくれよ。あれ、結城に任せたんだからさ」
「……ごめん」
短く謝ることしかできなかった。
責めているというほど強い口調ではない。
むしろ、軽く注意した、くらいのニュアンスだ。
それでも、「任せたんだから」という言葉が、ずしっと胸に落ちる。
「まあ、なくなったもんはしょうがねーし。今日はとりあえず席替え決めなきゃだしさ。放課後にまた集まろうぜ」
「……うん」
納得したふりをして、自分の席に戻る。
周りの友達が「マジ? なくなったの?」とひそひそ話しているのが耳に入ってきて、自然と背筋が丸くなった。
「結城、やらかしたなー」
「ドジだな、お前」
軽い笑い声が混ざる。
昨日の体育と同じだ。
軽口だって分かってる。悪気なんてない。文化祭前のテンションで、誰かをいじりたくなる気持ちも。
でも、「やらかした」「ドジ」という単語は、俺の中でちゃんと刺さる。
まただ。
また、やった。
任された仕事を、ちゃんと守れなかった。
メニュー表そのものより、「任せたのに」というあの一言のほうが、よっぽど重い。
◇
ホームルームが終わって、席替えも決まって。
授業が始まっても、頭の半分はメニュー表のことでいっぱいだった。
どこにいったんだろう。
誰かが悪ふざけで持って行って、どこかに隠してるんだろうか。
だとしても、今さら「返せよ」と言い出せるほど、俺は図太くない。
……最初から、ちゃんと別の場所に保管しておけばよかった。
図書室のロッカーとか、先生に預けるとか。方法はいくらでもあったのに。
「結城、教科書」
「あ、ごめん」
隣の席のやつに呼ばれて、慌てて数学の教科書を開く。
板書を写しながらも、頭の片隅で自分を責め続ける。
俺がちゃんとしてれば、よかっただけだ。
その繰り返し。
◇
放課後。
文化祭準備の号令がかかる前に、俺は一度、教室を抜け出した。
どうしても、ひとりになりたかった。
向かったのは、三階の端にある空き教室だ。使われていない家庭科室で、普段は鍵がかかっているけど、今日はたまたま開いていた。
薄暗い教室の中で、窓際の椅子に座り込む。
「……はあ」
ため息が出た。
メニュー表なんて、作り直せばいい。
紙なんて、いくらでもある。
頭では分かってるのに、心が全然軽くならない。
「任せたんだから」という言葉に、今までの自分の「失敗」が全部くっついて蘇ってくる。
体育でこけたこと。
班長のとき、うまく指示できなくてグダついたこと。
小テストで凡ミスして、先生に「らしくないな」と笑われたこと。
そういうのが全部、「やっぱ俺、何やっても中途半端だな」という結論に集約されていく。
「……ほんと、こういうとこだよな」
自分で自分に呆れながら、机に額をつける。
こうやってひとりで落ち込んで、勝手に底まで沈んでいくところ。
「先輩?」
不意に、ドアのほうから声がした。
聞き慣れた、ちょっとだけ高めの声。
顔を上げると、家庭科室の入口から、水瀬が覗き込んでいた。
「やっぱりここでした」
「……ストーカーか、お前」
「ストーカーじゃないです。観察です」
「たいして変わんねーよ」
反射的にツッコむけど、心のどこかで、少しだけほっとしていた。
「なんでここに」
「文化祭準備の集合かかったのに、先輩が教室にいなかったんで」
「トイレ行ってたんだよ」
「トイレにしては、長いなって」
「観察やめろ」
水瀬は、何も言わずにこっちへ歩いてきて、俺の向かいの席に腰を下ろした。
机越しに向かい合う形になる。
「メニュー表、なくなったんですね」
「……知ってたのか」
「さっき小野さんたちが、ロッカーの前で話してました」
そりゃ、もうクラス中に知れ渡ってるだろうな。
「作り直すことになったって聞きましたけど」
「うん。今日の放課後と明日で、なんとかする」
「結城先輩が?」
「他に誰がやるんだよ。俺のミスだし」
思ったより硬い声が出て、自分でもびくっとする。
水瀬は、じっと俺の顔を見つめてきた。
一拍置いて、静かに口を開く。
「先輩、今、めちゃくちゃ自分のこと責めてますよね」
「……まあ」
否定できるほど、器用じゃない。
「俺、別に言い訳したいわけじゃないけどさ」
机の端を指でなぞりながら、ぽつりとこぼす。
「ちゃんとやろうって思ってたんだよ。メニュー表、任されたから。なくさないように、って」
「うん」
「なのに、結果これだろ。任されたもの、守れないなら、最初からやるなよって感じじゃん」
「そんなこと──」
「あるだろ」
自分でも驚くくらい、声が強くなる。
「俺がちゃんとしてれば、よかったんだって。ロッカーじゃなくて、先生に預けるとかさ。『鍵ないから心配なんで』って言えばよかったのに。変に周りの空気気にして、言えなくて」
言いながら、笑ってしまう。
「結局、こうやって中途半端なんだよ、いつも」
何でもないミス。
作り直せば済む話。
そうやって軽く考えてくれる人もいる。それは分かってる。
でも、自分自身が、自分のミスを許せない。
「結城先輩」
水瀬の声が、いつもより少し低くなった。
「先輩のいいところ、僕は百個言えます」
「……いきなり何の宣言だよ」
あまりにも真剣な顔で言うから、思わずツッコミを入れてしまう。
でも、あいつは笑わなかった。
「さっきのは、そのうちの一個も否定してないですよね」
「え?」
「『俺なんか』とか『中途半端』とか、そうやって全部、自分で自分のこと悪く言ってますけど」
視線がまっすぐぶつかる。
「俺が知ってる結城先輩とは、違います」
その言い方は、やけに強かった。
「先輩、ちゃんと守ろうとしてましたよ」
「……結果的に守れてないだろ」
「でも、『大丈夫だろ』って適当に入れたんじゃなくて、『なくさないように』ってちゃんと袋に入れて、言われた場所にしまって」
ひとつひとつ、昨日の行動をなぞるみたいに言葉にしていく。
「それを見て、『やっぱり真面目だな』って、俺は思ってました」
「真面目って、そんな役に立たないだろ」
「役に立ってます」
即答だった。
「任されたからって、ちゃんとやろうとする人って、そんなに多くないです。『誰かがやってくれる』って思って投げちゃう人のほうが多いのに」
俺の中にある「常識」が、少しだけ揺れる。
「それに、なくなったの、結城先輩だけのせいじゃないですよ」
「でも──」
「でもじゃないです」
また、食い気味に遮られる。
「鍵がないロッカーを『絶対なくすなよ』ってみんなで共有してたのに、誰かが勝手にいじったのかもしれないし。先生に預けるって案を、誰も出さなかったのはクラス全体の問題だし」
「……」
「『任せた』って言われたときに、ちゃんと引き受けて、最後までやろうとしたのは、先輩のいいところです」
机の上で握りしめた自分の手が、少しだけ震えているのに気づく。
「だから、そんな顔しないでください」
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「今にも、『俺なんかいなくても』って言いそうな顔です」
図星を刺されて、何も言えなくなる。
本当に、何で分かるんだろう、この一年は。
「俺、先輩が自分のこと悪く言うの、めちゃくちゃ嫌いなんですよ」
「嫌いって」
「一番近くで見てるからこそ、否定したくなります」
そう言って、水瀬は椅子から立ち上がった。机を回り込んで、俺の隣の席に移動してくる。
距離が、ぐっと近くなる。
「先輩」
「……なんだよ」
「誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」
真っ直ぐな目で、はっきりと言い切った。
さっきまでより、声が少しだけ大きい。
でも、その大きさは怒鳴り声じゃなくて、何かを押し出すみたいな強さだった。
「メニュー表なくなったって、『結城の管理が』って言う人もいると思います」
「まあ……そうだろうな」
「でも、それだけで先輩のこと決めつけるの、違うなって」
水瀬は、机の上に自分の手を置いた。そのすぐ横に、俺の手。
触れてはいないけど、少し動けば触れる距離。
「失敗したからって、その人の全部がダメになるわけじゃないじゃないですか」
「……」
「結城先輩がちゃんとやろうとしたこと、俺は知ってます」
その「知ってます」が、妙に重くて、あたたかい。
「だから、誰が何と言おうと、僕は先輩の味方です」
さっきの台詞を、ゆっくり繰り返す。
その言葉が、胸の奥にじんわり染み込んでいくのが分かった。
「……お前、一年のくせに、そういうこと言うなよ」
「一年だから言うんです」
「意味分かんねえ」
「同じ学年とかだと、変に遠慮しちゃうじゃないですか。俺、そういうの苦手なんで」
さらっと言いながら、少しだけ笑う。
「先輩のいいところ、僕は百個言えるって言いましたけど」
「何回その話すんだよ」
「今日の分、増えました」
「……今日だけで何個カウントしてんだ」
「三個目です」
「また勝手に増やして」
「『任されたことをちゃんとやろうとするところ』と、『失敗しても誰のことも責めないところ』と」
指を一本ずつ折りながら、数えていく。
「それでも自分のこと悪く言っちゃうところも──」
「それはいいところじゃないだろ」
「俺の中では、守りたくなるところです」
そう言って、少しだけ視線を落とした。
「だから、先輩が先輩を嫌いになりそうなときは、俺が全力で止めます」
「……重いな」
「ちょい重いくらいが、俺にはちょうどいいです」
自分で言って笑うその顔が、ずるい。
いつもより少し真剣で、でも、ちゃんと俺を笑わせようとしてくれている。
「ほんと、お前は……」
そこまで言って、言葉が途切れた。
胸の奥で何かが、ぱちんと音を立てて外れたような感覚がする。
今まで、しっかり閉めてきたはずの蓋が、少しだけ開いたみたいな。
「どうせ俺なんか」という言葉でぎゅうぎゅう押さえてきたものが、ゆっくり外に出てこようとしている感覚。
それが何なのか、まだはっきりとは分からない。
ただひとつだけ、分かることがあった。
こいつの「味方です」という言葉が、思った以上に、嬉しかった。
「……ありがとな」
やっと出てきた言葉は、それだけだった。
でも、水瀬は目を丸くしてから、ふわっと笑った。
「はい」
短く答えて、机の上の俺の手を、上からそっと包むように触れた。
一瞬、心臓が跳ねる。
「ちょ、なに」
「確認です」
「何のだよ」
「ちゃんと届いたかな、って」
軽く握って、すぐに手を離す。
それだけの動作なのに、そこに乗った熱が、なかなか消えてくれない。
「俺、本気で言ってるんで」
いつもの明るい笑顔。その奥に、静かな熱みたいなものが宿っている。
「先輩のこと、ずっと味方でいるつもりですから」
「ずっと」という言葉が、やけに響いた。
その言葉に、心の蓋が、もう少しだけ、開いた気がした。



