水瀬と初めてまともに話した、その日のことは、たぶんしばらく忘れない。
ノートを褒められて、声を褒められて、「先輩のいいところ、百個言えますけど」とまで言われて。
家に帰ってからも、ふとした瞬間にその台詞を思い出しては、布団の中でひとりジタバタした。
……いや、絶対盛ってるだろ。百個ってなんだよ。大げさにもほどがある。
そう思いたいのに、水瀬の顔は本気だった。あいつ、冗談言うときと本気のときの差が分かりやすいから困る。
翌朝、そんなことを考えながら登校した俺は、さっそくその「本気」を見せつけられることになる。
◇
昇降口は、いつも湿った土と体育館シューズの匂いが混ざっている。
俺は二年の列に並んだ自分の下駄箱の前で、いつもの上履きに履き替えようとしゃがんだ。
「……ん?」
足元に、薄い水色のハンカチが落ちているのに気づく。
レースの端がついた、小さめのやつ。女子のだろうか。俺のじゃない。
とりあえず拾おうと手を伸ばしかけた、そのとき。
「あ、それ先輩のじゃないですよね?」
横から、聞き慣れてしまった声が飛び込んできた。
振り向くと、案の定、水瀬がいた。今日は髪が少し跳ねていて、寝癖なのかセットなのか判別がつかない。
「おはようございます、結城先輩」
「おはよ……っていうか、お前また」
「朝の巡回です」
「警備員か」
「先輩がちゃんと来てるか確認しないと、落ち着かないんで」
「担任かよ」
言いながらも、ちょっとだけおかしくなって笑ってしまう。
水瀬は俺の反応なんてお構いなしに、さっきのハンカチをひょいと拾い上げた。
「これ、一年の小山さんのやつかな」
「分かるのか?」
「この前、体育のときポケットから出してて。端っこに名前、ちっちゃく刺繍してあるんですよ、これ」
言われてよく見ると、確かに水色の糸で「K」と小さく刺繍されていた。
「すげーな、お前。よくそんな細かいとこ見てるな」
「観察が趣味なんで」
「またそれ」
こいつの「観察」は、良くも悪くも信用できすぎる。
「届けてくるんで、先輩は靴履き替えててください」
「いや、俺が拾ったんだし、職員室に届けとけば……」
「先輩が困るの、嫌なんで」
「は?」
さらっと出てきた一言に、言葉が止まる。
「これ、もし誰かが落としたままのを先生に見つかったりしたら、『誰だ、ちゃんと片づけろ』って怒られるじゃないですか」
「まあ、そうかもな」
「で、『先輩の下駄箱の前に落ちてた』ってなったら、なんか変な噂になりません?」
「変な噂って……」
「女子のハンカチだし。勝手に名前くっつけられたりとか」
ああ、なるほど。想像できなくもない。
どうせ俺には縁のない話だと思っていたけど、高校の噂話って、わりと何でもありだ。
「俺、それ嫌なんで」
水瀬は、ハンカチを指先でつまんだまま、真顔になった。
「先輩が変なことで名前出されるの、嫌です」
「……」
そこまで言い切られると、さすがに返す言葉が見つからなかった。
俺が「まあいいか」で済ませてしまいそうなところを、ちゃんと想像して、先回りして動く。
それを当たり前みたいな顔でやってのけるから、こいつはずるい。
「だから、俺が届けてきますね」
「いや、でも……」
「先輩は、その間に靴ひも結んでてください」
「小学生じゃねえんだから」
「ちゃんと結べましたか?」
「今から結ぶわ」
完璧なスルースキルだ。
俺が呆れている間に、水瀬は軽い足取りで一年の列のほうへ走っていく。
女子たちの間から「ありがとう」「助かったー」という声が聞こえてきて、また「いいやつポイント」を稼いでいるらしい。
……別に、俺のためだけにやってるわけじゃないだろ。
そう思おうとしたそのとき、ふいに視線が絡んだ。
一瞬だけ、こっちを見る。
満足げに小さく笑って、すぐまた一年の輪のほうへ戻っていった。
その笑顔が、「ちゃんと守りましたよ」と言っているみたいで、胸の奥がじわっと温かくなる。
なんだよ、あれ。
「……先輩だけ特別扱いって、そういうこと?」
自分で口にして、あわてて打ち消す。
ないない。そんなわけない。
こいつは誰にでも優しい。きっと。
そうやって、いつものように物事を悪いほう──いや、少なくとも「都合よくないほう」に解釈しようとする自分がいる。
でも、さっきの「先輩が困るの、嫌なんで」という言葉だけは、簡単に流せなかった。
◇
その日の四時間目は体育だった。
バスケットボール。球技が得意じゃない俺は、いつものように「とりあえず邪魔にならないように」が目標だ。
「結城、パス!」
「あ、ごめん!」
クラスメイトが投げたパスを取り損ねて、ボールがつるっと手から抜けた。ドリブルするつもりが、そのまま足元をすり抜けて、隣のコートまで転がっていく。
隣のコートのやつに「おーい、あぶねーよ」と笑われて、顔が熱くなる。
「悪い!」
謝りながら取りに行こうとして、足がもつれた。派手にはこけなかったけど、バランスを崩して、変な体勢で踏ん張った拍子に、足首をぐきっとやってしまう。
「いって……」
「おい、大丈夫か?」
「結城、ドジかよー」
近くにいた同じクラスの男子が、軽く笑いながら言った。
悪気はないのは分かってる。いつものノリだ。
でも、こういうときの「ドジ」とか「役立たず」とか、そういう言葉は、俺の頭の中で変に増幅される。
あーあ、またやった。
ほら、邪魔になってる。
いる意味ないじゃん、俺。
「ちょっと休んでろ」
先生に言われて、コートの端に座り込む。
足首はひねっただけっぽくて、氷で冷やしてもらえば大丈夫そうだ。
それでも、ゲームが続いているのを見ていると、胸がじんわり重くなる。
俺が抜けても、試合は普通に回っていく。
別に驚くことじゃない。元から戦力になってないから。
そう思えば思うほど、「やっぱりな」という声が頭の中で大きくなる。
「結城、保健室行ってこい」
先生にそう言われて、俺は小さくうなずいた。
「ひとりで行けるか?」
「はい。大丈夫です」
足を引きずらないよう気をつけながら、体育館を出る。
冷たい廊下の空気が、火照った顔に少し気持ちいい。
保健室で湿布を貼ってもらって戻ってくると、もう次のクラスの体育が始まっていた。俺のクラスは、ちょうど更衣室で着替え中らしい。
教室に戻ってからも、微妙に残る足首の違和感と、体育でのへまを思い出しては自己嫌悪した。
昼休み。
友達が「さっきのマジでマンガみたいだったな」と笑いながら言ってきて、俺もつられて笑ったふりをする。
「ほんとドジだよな、お前」
軽口に、いつもみたいに「だよなー」と返す代わりに、笑いが少し引っかかった。
「……だな」
笑って流したつもりでも、胸の中に小さな棘が残る。
◇
放課後。
ホームルームが終わって、教室から人が減り始めた頃。
「結城、足、大丈夫か?」
クラスメイトが何人か声をかけてくれて、「もう平気」と返す。
そのやり取りがひと段落した頃、廊下から例の声が聞こえてきた。
「せんぱーい」
反射的に顔を上げる。
水瀬が、教室のドアにもたれかかるように立っていた。視線が俺を見つけるのと、俺がそっちを見るのと、ほぼ同時。
「今日もちゃんといました」
「点呼やめろって」
「足、どうしたんですか?」
教室に入ってきた水瀬は、まっすぐ俺の机まで来て、机の端をぽんっと叩いた。
「さっき一年の体育の先生が、『二年の誰かが足ひねってた』って言ってたんで」
「情報早いな」
「観察と情報収集が趣味なんで」
「お前、それ趣味にすんな」
軽くツッコみながらも、どこか安心している自分がいた。
……何だよ、この感覚。
「で、本当に大丈夫なんですか?」
「ひねっただけ。保健室で湿布もらったし」
「見せてもらっていいですか」
「は?」
「いや、変な意味じゃなくて。本当に腫れてないか確認したくて」
「保健の先生が確認してるから、大丈夫だって」
「俺も確認したいんで」
真顔で言うな。心臓に悪い。
「大げさだろ」
「先輩が怪我してるの、大問題なんで」
「大問題は言いすぎだ」
「言いすぎじゃないです」
水瀬は椅子をひっぱってきて、俺の隣に座った。距離が、また近い。
「体育、見学してたんですか?」
「いや、途中まで出てたけど。パス取り損ねて、転んで」
「あー」
何となく恥ずかしくて、視線を机の上に落とす。
「ドジっただけだから」
自分で先にそう言ってしまえば、少しは楽になると思った。
でも、水瀬は眉をひそめた。
「誰かに、そう言われました?」
「え?」
「さっき廊下通ったとき、結城先輩の友達が『マジドジでさー』って話してたんで」
「あー……まあ、そんな感じ」
「それ、結城先輩が自分で言ったんじゃなくて、言われたんですよね」
「まあ、そうだけど。別に気にしてないし」
口ではそう言いながら、自分の声が少しだけ硬いのが分かる。
気にしてない。
気にしてない、はず。
でも、何回も繰り返されるうちに、それが自分のラベルになっていく感じがして。
「俺、結城先輩が転んだの、見てないんであれですけど」
「うん」
「多分それ、ドジというより、真面目なだけだと思います」
「真面目?」
意外な言葉に、顔を上げる。
「ちゃんと取りに行こうとして、変な体勢でも踏ん張ろうとしたんですよね」
「まあ……見てたわけじゃないのに、よく分かるな」
「見なくても分かります。先輩、手抜きしないじゃないですか」
「手抜きくらいしてるだろ」
「してないです」
きっぱり言い切られて、どう反応していいか分からなくなる。
「俺、先輩のことずっと見てるんで。体育のときも、ちゃんとボール追いかけてるの、知ってます」
「……一年は、自分の授業見ろよ」
「ちゃんと見てます。その上で、先輩も見てます」
堂々と宣言されても、それはそれで困る。
「そんな真面目な人が、ちょっと足ひねっただけで『ドジ』とか『地味』とか言われるの、なんか嫌なんですよね」
「いや、『地味』は今関係なくない?」
「体育の前にも言われてませんでした?」
図星だった。
今日の朝、友達に「結城ってさ、もうちょいガツガツ来てもいいのに。地味すぎ」と冗談混じりに言われて、「そうかな」と笑って返したところだ。
そのときは笑いで流したつもりだったけど、地味、という単語だけは、じくじくと残っている。
線が細い。目立たない。背景。
そういう言葉が、昔からずっと、俺につきまとってきた。
「……別に、派手になりたいわけじゃないし」
自分でも分かるくらい弱い声で、そう言った。
「俺なんかが前に出ても、邪魔になるだけだしさ」
「なんで、そうなるんですか」
「なんでって……俺、運動も普通、成績も普通、見た目も普通だし。地味で、線細くて。主役っぽくないだろ」
言いながら、自分で笑いそうになる。
何を真剣に「主役っぽくない」とか語ってるんだろう。
でも、そう思ってしまうのは本当だ。
どうせ俺なんか、誰かの背景で十分だ。
「……俺は、そのままがいいんですけど」
「え?」
ぽつりと落ちた水瀬の声が、意外と重くて、びくっとする。
「結城先輩、今のままがいいです」
真顔だった。
「地味とか線が細いとか、そういうの全部込みで、先輩がいいです」
「込みでって」
「ガツガツ前に出ないところも、ちゃんと周り見て動くところも、体育で怪我しても『大丈夫』って笑うところも」
ひとつひとつ、丁寧に並べてくる。
「先輩、主役っぽくないとか言ってましたけど」
「……うん」
「俺から見たら、ずっと主役ですけど」
「は?」
「観客席からずっと見てた側としては、そうとしか思えないです」
何その告白みたいな言い方。
頭の中でツッコみながらも、胸の奥がじわじわ熱くなっていくのが分かる。
「先輩、自分のこと評価低すぎです」
「そんなこと……」
「あります」
即答だ。
「誰かに『地味』とか『ドジ』とか言われたからって、それが全部じゃないです」
「でも」
「でもじゃないです」
食い気味に否定されて、言葉が止まる。
「俺、先輩のいいところ、百個言えるって言ったの、覚えてます?」
「……ああ」
忘れろってほうが無理だ。
「あれ、本気なんで」
ひとつひとつ確認するみたいに、水瀬は俺を見る。
「今日の分、もう一個言っていいですか」
「今日の分、って何個目だよ」
「二個目です」
「こっそりカウントすんなよ」
「じゃあ、二個目」
水瀬は、少し笑ってから、言葉を落とした。
「足ひねっても、誰のことも責めないところ、好きです」
「……は?」
「ボール投げたやつとか、笑ったやつとかのこと、一回も悪く言ってないじゃないですか」
「いや、別に、あいつら悪気なかったし」
「そういうとこです」
即答。まただ。
「俺だったら、ちょっと引きずると思います。『なんであんな投げ方するんだよ』ってか、『笑うなよ』って」
「根に持つタイプか」
「かもしれないです。でも先輩は、『自分がドジったから』って、自分の中で処理してるじゃないですか」
それは、昔からのクセだ。
自分が我慢すれば丸く収まるなら、それでいい、と思ってきた。
「そういうの、優しいって言うんだと思います」
「……そんな大したもんじゃないって」
「そういうところです」
「どこだよ」
「『大したことない』って言いながら、ちゃんと人のこと考えてるところ」
もうやめてくれ、と言いたくなるくらい、じわじわ効いてくる。
「俺、先輩が自分のこと悪く言うたびに、『違うのにな』って思ってますから」
「……」
体育のときの「ドジ」が、少しだけゆるむ。
クラスメイトの軽い「地味」が、少しだけ遠くなる。
代わりに、水瀬の「そのままがいいです」が、胸の真ん中に残る。
「信じなくていいですけど」
水瀬は、少しだけ視線を落とした。
「俺が知ってる先輩は、そういう人です」
「……」
「だから、誰が何と言おうと、俺が知ってます」
その言い方は、どこか昨日の「先輩のいいところ、百個言えるんで」に繋がっていて。
冗談じゃなく、本気で言っているのが分かるから、余計にずるい。
「……なんでそんなに俺のこと、分かるみたいに言えるんだよ」
やっと絞り出した言葉は、少し拗ねたみたいに聞こえたかもしれない。
水瀬は、少しだけ笑った。
「ずっと見てたからですよ」
あまりにも当たり前みたいに。
「一年のときから、結城先輩のこと」
さらっと、爆弾みたいなことを言う。
体育館の端っこでプレーしてるときも。
教室でノート取ってるときも。
班長としてみんなをまとめてるときも。
こいつは、たぶん、俺が思っている以上に、ずっと前から。
そう思った瞬間、「地味で、線細くて、主役っぽくない」と自分で貼り付けていたラベルが、少しだけ剥がれた気がした。
信じきれるほど自信家じゃないけど。
それでも、「全部否定しなくてもいいのかも」と、初めて思えた。
ノートを褒められて、声を褒められて、「先輩のいいところ、百個言えますけど」とまで言われて。
家に帰ってからも、ふとした瞬間にその台詞を思い出しては、布団の中でひとりジタバタした。
……いや、絶対盛ってるだろ。百個ってなんだよ。大げさにもほどがある。
そう思いたいのに、水瀬の顔は本気だった。あいつ、冗談言うときと本気のときの差が分かりやすいから困る。
翌朝、そんなことを考えながら登校した俺は、さっそくその「本気」を見せつけられることになる。
◇
昇降口は、いつも湿った土と体育館シューズの匂いが混ざっている。
俺は二年の列に並んだ自分の下駄箱の前で、いつもの上履きに履き替えようとしゃがんだ。
「……ん?」
足元に、薄い水色のハンカチが落ちているのに気づく。
レースの端がついた、小さめのやつ。女子のだろうか。俺のじゃない。
とりあえず拾おうと手を伸ばしかけた、そのとき。
「あ、それ先輩のじゃないですよね?」
横から、聞き慣れてしまった声が飛び込んできた。
振り向くと、案の定、水瀬がいた。今日は髪が少し跳ねていて、寝癖なのかセットなのか判別がつかない。
「おはようございます、結城先輩」
「おはよ……っていうか、お前また」
「朝の巡回です」
「警備員か」
「先輩がちゃんと来てるか確認しないと、落ち着かないんで」
「担任かよ」
言いながらも、ちょっとだけおかしくなって笑ってしまう。
水瀬は俺の反応なんてお構いなしに、さっきのハンカチをひょいと拾い上げた。
「これ、一年の小山さんのやつかな」
「分かるのか?」
「この前、体育のときポケットから出してて。端っこに名前、ちっちゃく刺繍してあるんですよ、これ」
言われてよく見ると、確かに水色の糸で「K」と小さく刺繍されていた。
「すげーな、お前。よくそんな細かいとこ見てるな」
「観察が趣味なんで」
「またそれ」
こいつの「観察」は、良くも悪くも信用できすぎる。
「届けてくるんで、先輩は靴履き替えててください」
「いや、俺が拾ったんだし、職員室に届けとけば……」
「先輩が困るの、嫌なんで」
「は?」
さらっと出てきた一言に、言葉が止まる。
「これ、もし誰かが落としたままのを先生に見つかったりしたら、『誰だ、ちゃんと片づけろ』って怒られるじゃないですか」
「まあ、そうかもな」
「で、『先輩の下駄箱の前に落ちてた』ってなったら、なんか変な噂になりません?」
「変な噂って……」
「女子のハンカチだし。勝手に名前くっつけられたりとか」
ああ、なるほど。想像できなくもない。
どうせ俺には縁のない話だと思っていたけど、高校の噂話って、わりと何でもありだ。
「俺、それ嫌なんで」
水瀬は、ハンカチを指先でつまんだまま、真顔になった。
「先輩が変なことで名前出されるの、嫌です」
「……」
そこまで言い切られると、さすがに返す言葉が見つからなかった。
俺が「まあいいか」で済ませてしまいそうなところを、ちゃんと想像して、先回りして動く。
それを当たり前みたいな顔でやってのけるから、こいつはずるい。
「だから、俺が届けてきますね」
「いや、でも……」
「先輩は、その間に靴ひも結んでてください」
「小学生じゃねえんだから」
「ちゃんと結べましたか?」
「今から結ぶわ」
完璧なスルースキルだ。
俺が呆れている間に、水瀬は軽い足取りで一年の列のほうへ走っていく。
女子たちの間から「ありがとう」「助かったー」という声が聞こえてきて、また「いいやつポイント」を稼いでいるらしい。
……別に、俺のためだけにやってるわけじゃないだろ。
そう思おうとしたそのとき、ふいに視線が絡んだ。
一瞬だけ、こっちを見る。
満足げに小さく笑って、すぐまた一年の輪のほうへ戻っていった。
その笑顔が、「ちゃんと守りましたよ」と言っているみたいで、胸の奥がじわっと温かくなる。
なんだよ、あれ。
「……先輩だけ特別扱いって、そういうこと?」
自分で口にして、あわてて打ち消す。
ないない。そんなわけない。
こいつは誰にでも優しい。きっと。
そうやって、いつものように物事を悪いほう──いや、少なくとも「都合よくないほう」に解釈しようとする自分がいる。
でも、さっきの「先輩が困るの、嫌なんで」という言葉だけは、簡単に流せなかった。
◇
その日の四時間目は体育だった。
バスケットボール。球技が得意じゃない俺は、いつものように「とりあえず邪魔にならないように」が目標だ。
「結城、パス!」
「あ、ごめん!」
クラスメイトが投げたパスを取り損ねて、ボールがつるっと手から抜けた。ドリブルするつもりが、そのまま足元をすり抜けて、隣のコートまで転がっていく。
隣のコートのやつに「おーい、あぶねーよ」と笑われて、顔が熱くなる。
「悪い!」
謝りながら取りに行こうとして、足がもつれた。派手にはこけなかったけど、バランスを崩して、変な体勢で踏ん張った拍子に、足首をぐきっとやってしまう。
「いって……」
「おい、大丈夫か?」
「結城、ドジかよー」
近くにいた同じクラスの男子が、軽く笑いながら言った。
悪気はないのは分かってる。いつものノリだ。
でも、こういうときの「ドジ」とか「役立たず」とか、そういう言葉は、俺の頭の中で変に増幅される。
あーあ、またやった。
ほら、邪魔になってる。
いる意味ないじゃん、俺。
「ちょっと休んでろ」
先生に言われて、コートの端に座り込む。
足首はひねっただけっぽくて、氷で冷やしてもらえば大丈夫そうだ。
それでも、ゲームが続いているのを見ていると、胸がじんわり重くなる。
俺が抜けても、試合は普通に回っていく。
別に驚くことじゃない。元から戦力になってないから。
そう思えば思うほど、「やっぱりな」という声が頭の中で大きくなる。
「結城、保健室行ってこい」
先生にそう言われて、俺は小さくうなずいた。
「ひとりで行けるか?」
「はい。大丈夫です」
足を引きずらないよう気をつけながら、体育館を出る。
冷たい廊下の空気が、火照った顔に少し気持ちいい。
保健室で湿布を貼ってもらって戻ってくると、もう次のクラスの体育が始まっていた。俺のクラスは、ちょうど更衣室で着替え中らしい。
教室に戻ってからも、微妙に残る足首の違和感と、体育でのへまを思い出しては自己嫌悪した。
昼休み。
友達が「さっきのマジでマンガみたいだったな」と笑いながら言ってきて、俺もつられて笑ったふりをする。
「ほんとドジだよな、お前」
軽口に、いつもみたいに「だよなー」と返す代わりに、笑いが少し引っかかった。
「……だな」
笑って流したつもりでも、胸の中に小さな棘が残る。
◇
放課後。
ホームルームが終わって、教室から人が減り始めた頃。
「結城、足、大丈夫か?」
クラスメイトが何人か声をかけてくれて、「もう平気」と返す。
そのやり取りがひと段落した頃、廊下から例の声が聞こえてきた。
「せんぱーい」
反射的に顔を上げる。
水瀬が、教室のドアにもたれかかるように立っていた。視線が俺を見つけるのと、俺がそっちを見るのと、ほぼ同時。
「今日もちゃんといました」
「点呼やめろって」
「足、どうしたんですか?」
教室に入ってきた水瀬は、まっすぐ俺の机まで来て、机の端をぽんっと叩いた。
「さっき一年の体育の先生が、『二年の誰かが足ひねってた』って言ってたんで」
「情報早いな」
「観察と情報収集が趣味なんで」
「お前、それ趣味にすんな」
軽くツッコみながらも、どこか安心している自分がいた。
……何だよ、この感覚。
「で、本当に大丈夫なんですか?」
「ひねっただけ。保健室で湿布もらったし」
「見せてもらっていいですか」
「は?」
「いや、変な意味じゃなくて。本当に腫れてないか確認したくて」
「保健の先生が確認してるから、大丈夫だって」
「俺も確認したいんで」
真顔で言うな。心臓に悪い。
「大げさだろ」
「先輩が怪我してるの、大問題なんで」
「大問題は言いすぎだ」
「言いすぎじゃないです」
水瀬は椅子をひっぱってきて、俺の隣に座った。距離が、また近い。
「体育、見学してたんですか?」
「いや、途中まで出てたけど。パス取り損ねて、転んで」
「あー」
何となく恥ずかしくて、視線を机の上に落とす。
「ドジっただけだから」
自分で先にそう言ってしまえば、少しは楽になると思った。
でも、水瀬は眉をひそめた。
「誰かに、そう言われました?」
「え?」
「さっき廊下通ったとき、結城先輩の友達が『マジドジでさー』って話してたんで」
「あー……まあ、そんな感じ」
「それ、結城先輩が自分で言ったんじゃなくて、言われたんですよね」
「まあ、そうだけど。別に気にしてないし」
口ではそう言いながら、自分の声が少しだけ硬いのが分かる。
気にしてない。
気にしてない、はず。
でも、何回も繰り返されるうちに、それが自分のラベルになっていく感じがして。
「俺、結城先輩が転んだの、見てないんであれですけど」
「うん」
「多分それ、ドジというより、真面目なだけだと思います」
「真面目?」
意外な言葉に、顔を上げる。
「ちゃんと取りに行こうとして、変な体勢でも踏ん張ろうとしたんですよね」
「まあ……見てたわけじゃないのに、よく分かるな」
「見なくても分かります。先輩、手抜きしないじゃないですか」
「手抜きくらいしてるだろ」
「してないです」
きっぱり言い切られて、どう反応していいか分からなくなる。
「俺、先輩のことずっと見てるんで。体育のときも、ちゃんとボール追いかけてるの、知ってます」
「……一年は、自分の授業見ろよ」
「ちゃんと見てます。その上で、先輩も見てます」
堂々と宣言されても、それはそれで困る。
「そんな真面目な人が、ちょっと足ひねっただけで『ドジ』とか『地味』とか言われるの、なんか嫌なんですよね」
「いや、『地味』は今関係なくない?」
「体育の前にも言われてませんでした?」
図星だった。
今日の朝、友達に「結城ってさ、もうちょいガツガツ来てもいいのに。地味すぎ」と冗談混じりに言われて、「そうかな」と笑って返したところだ。
そのときは笑いで流したつもりだったけど、地味、という単語だけは、じくじくと残っている。
線が細い。目立たない。背景。
そういう言葉が、昔からずっと、俺につきまとってきた。
「……別に、派手になりたいわけじゃないし」
自分でも分かるくらい弱い声で、そう言った。
「俺なんかが前に出ても、邪魔になるだけだしさ」
「なんで、そうなるんですか」
「なんでって……俺、運動も普通、成績も普通、見た目も普通だし。地味で、線細くて。主役っぽくないだろ」
言いながら、自分で笑いそうになる。
何を真剣に「主役っぽくない」とか語ってるんだろう。
でも、そう思ってしまうのは本当だ。
どうせ俺なんか、誰かの背景で十分だ。
「……俺は、そのままがいいんですけど」
「え?」
ぽつりと落ちた水瀬の声が、意外と重くて、びくっとする。
「結城先輩、今のままがいいです」
真顔だった。
「地味とか線が細いとか、そういうの全部込みで、先輩がいいです」
「込みでって」
「ガツガツ前に出ないところも、ちゃんと周り見て動くところも、体育で怪我しても『大丈夫』って笑うところも」
ひとつひとつ、丁寧に並べてくる。
「先輩、主役っぽくないとか言ってましたけど」
「……うん」
「俺から見たら、ずっと主役ですけど」
「は?」
「観客席からずっと見てた側としては、そうとしか思えないです」
何その告白みたいな言い方。
頭の中でツッコみながらも、胸の奥がじわじわ熱くなっていくのが分かる。
「先輩、自分のこと評価低すぎです」
「そんなこと……」
「あります」
即答だ。
「誰かに『地味』とか『ドジ』とか言われたからって、それが全部じゃないです」
「でも」
「でもじゃないです」
食い気味に否定されて、言葉が止まる。
「俺、先輩のいいところ、百個言えるって言ったの、覚えてます?」
「……ああ」
忘れろってほうが無理だ。
「あれ、本気なんで」
ひとつひとつ確認するみたいに、水瀬は俺を見る。
「今日の分、もう一個言っていいですか」
「今日の分、って何個目だよ」
「二個目です」
「こっそりカウントすんなよ」
「じゃあ、二個目」
水瀬は、少し笑ってから、言葉を落とした。
「足ひねっても、誰のことも責めないところ、好きです」
「……は?」
「ボール投げたやつとか、笑ったやつとかのこと、一回も悪く言ってないじゃないですか」
「いや、別に、あいつら悪気なかったし」
「そういうとこです」
即答。まただ。
「俺だったら、ちょっと引きずると思います。『なんであんな投げ方するんだよ』ってか、『笑うなよ』って」
「根に持つタイプか」
「かもしれないです。でも先輩は、『自分がドジったから』って、自分の中で処理してるじゃないですか」
それは、昔からのクセだ。
自分が我慢すれば丸く収まるなら、それでいい、と思ってきた。
「そういうの、優しいって言うんだと思います」
「……そんな大したもんじゃないって」
「そういうところです」
「どこだよ」
「『大したことない』って言いながら、ちゃんと人のこと考えてるところ」
もうやめてくれ、と言いたくなるくらい、じわじわ効いてくる。
「俺、先輩が自分のこと悪く言うたびに、『違うのにな』って思ってますから」
「……」
体育のときの「ドジ」が、少しだけゆるむ。
クラスメイトの軽い「地味」が、少しだけ遠くなる。
代わりに、水瀬の「そのままがいいです」が、胸の真ん中に残る。
「信じなくていいですけど」
水瀬は、少しだけ視線を落とした。
「俺が知ってる先輩は、そういう人です」
「……」
「だから、誰が何と言おうと、俺が知ってます」
その言い方は、どこか昨日の「先輩のいいところ、百個言えるんで」に繋がっていて。
冗談じゃなく、本気で言っているのが分かるから、余計にずるい。
「……なんでそんなに俺のこと、分かるみたいに言えるんだよ」
やっと絞り出した言葉は、少し拗ねたみたいに聞こえたかもしれない。
水瀬は、少しだけ笑った。
「ずっと見てたからですよ」
あまりにも当たり前みたいに。
「一年のときから、結城先輩のこと」
さらっと、爆弾みたいなことを言う。
体育館の端っこでプレーしてるときも。
教室でノート取ってるときも。
班長としてみんなをまとめてるときも。
こいつは、たぶん、俺が思っている以上に、ずっと前から。
そう思った瞬間、「地味で、線細くて、主役っぽくない」と自分で貼り付けていたラベルが、少しだけ剥がれた気がした。
信じきれるほど自信家じゃないけど。
それでも、「全部否定しなくてもいいのかも」と、初めて思えた。



