水瀬と初めてまともに話した、その日のことは、たぶんしばらく忘れない。

 ノートを褒められて、声を褒められて、「先輩のいいところ、百個言えますけど」とまで言われて。

 家に帰ってからも、ふとした瞬間にその台詞を思い出しては、布団の中でひとりジタバタした。

 ……いや、絶対盛ってるだろ。百個ってなんだよ。大げさにもほどがある。

 そう思いたいのに、水瀬の顔は本気だった。あいつ、冗談言うときと本気のときの差が分かりやすいから困る。

 翌朝、そんなことを考えながら登校した俺は、さっそくその「本気」を見せつけられることになる。

     ◇

 昇降口は、いつも湿った土と体育館シューズの匂いが混ざっている。

 俺は二年の列に並んだ自分の下駄箱の前で、いつもの上履きに履き替えようとしゃがんだ。

「……ん?」

 足元に、薄い水色のハンカチが落ちているのに気づく。

 レースの端がついた、小さめのやつ。女子のだろうか。俺のじゃない。

 とりあえず拾おうと手を伸ばしかけた、そのとき。

「あ、それ先輩のじゃないですよね?」

 横から、聞き慣れてしまった声が飛び込んできた。

 振り向くと、案の定、水瀬がいた。今日は髪が少し跳ねていて、寝癖なのかセットなのか判別がつかない。

「おはようございます、結城先輩」

「おはよ……っていうか、お前また」

「朝の巡回です」

「警備員か」

「先輩がちゃんと来てるか確認しないと、落ち着かないんで」

「担任かよ」

 言いながらも、ちょっとだけおかしくなって笑ってしまう。

 水瀬は俺の反応なんてお構いなしに、さっきのハンカチをひょいと拾い上げた。

「これ、一年の小山さんのやつかな」

「分かるのか?」

「この前、体育のときポケットから出してて。端っこに名前、ちっちゃく刺繍してあるんですよ、これ」

 言われてよく見ると、確かに水色の糸で「K」と小さく刺繍されていた。

「すげーな、お前。よくそんな細かいとこ見てるな」

「観察が趣味なんで」

「またそれ」

 こいつの「観察」は、良くも悪くも信用できすぎる。

「届けてくるんで、先輩は靴履き替えててください」

「いや、俺が拾ったんだし、職員室に届けとけば……」

「先輩が困るの、嫌なんで」

「は?」

 さらっと出てきた一言に、言葉が止まる。

「これ、もし誰かが落としたままのを先生に見つかったりしたら、『誰だ、ちゃんと片づけろ』って怒られるじゃないですか」

「まあ、そうかもな」

「で、『先輩の下駄箱の前に落ちてた』ってなったら、なんか変な噂になりません?」

「変な噂って……」

「女子のハンカチだし。勝手に名前くっつけられたりとか」

 ああ、なるほど。想像できなくもない。

 どうせ俺には縁のない話だと思っていたけど、高校の噂話って、わりと何でもありだ。

「俺、それ嫌なんで」

 水瀬は、ハンカチを指先でつまんだまま、真顔になった。

「先輩が変なことで名前出されるの、嫌です」

「……」

 そこまで言い切られると、さすがに返す言葉が見つからなかった。

 俺が「まあいいか」で済ませてしまいそうなところを、ちゃんと想像して、先回りして動く。

 それを当たり前みたいな顔でやってのけるから、こいつはずるい。

「だから、俺が届けてきますね」

「いや、でも……」

「先輩は、その間に靴ひも結んでてください」

「小学生じゃねえんだから」

「ちゃんと結べましたか?」

「今から結ぶわ」

 完璧なスルースキルだ。

 俺が呆れている間に、水瀬は軽い足取りで一年の列のほうへ走っていく。
 女子たちの間から「ありがとう」「助かったー」という声が聞こえてきて、また「いいやつポイント」を稼いでいるらしい。

 ……別に、俺のためだけにやってるわけじゃないだろ。

 そう思おうとしたそのとき、ふいに視線が絡んだ。

 一瞬だけ、こっちを見る。

 満足げに小さく笑って、すぐまた一年の輪のほうへ戻っていった。

 その笑顔が、「ちゃんと守りましたよ」と言っているみたいで、胸の奥がじわっと温かくなる。

 なんだよ、あれ。

「……先輩だけ特別扱いって、そういうこと?」

 自分で口にして、あわてて打ち消す。

 ないない。そんなわけない。

 こいつは誰にでも優しい。きっと。

 そうやって、いつものように物事を悪いほう──いや、少なくとも「都合よくないほう」に解釈しようとする自分がいる。

 でも、さっきの「先輩が困るの、嫌なんで」という言葉だけは、簡単に流せなかった。

     ◇

 その日の四時間目は体育だった。

 バスケットボール。球技が得意じゃない俺は、いつものように「とりあえず邪魔にならないように」が目標だ。

「結城、パス!」

「あ、ごめん!」

 クラスメイトが投げたパスを取り損ねて、ボールがつるっと手から抜けた。ドリブルするつもりが、そのまま足元をすり抜けて、隣のコートまで転がっていく。

 隣のコートのやつに「おーい、あぶねーよ」と笑われて、顔が熱くなる。

「悪い!」

 謝りながら取りに行こうとして、足がもつれた。派手にはこけなかったけど、バランスを崩して、変な体勢で踏ん張った拍子に、足首をぐきっとやってしまう。

「いって……」

「おい、大丈夫か?」

「結城、ドジかよー」

 近くにいた同じクラスの男子が、軽く笑いながら言った。
 悪気はないのは分かってる。いつものノリだ。

 でも、こういうときの「ドジ」とか「役立たず」とか、そういう言葉は、俺の頭の中で変に増幅される。

 あーあ、またやった。
 ほら、邪魔になってる。
 いる意味ないじゃん、俺。

「ちょっと休んでろ」

 先生に言われて、コートの端に座り込む。
 足首はひねっただけっぽくて、氷で冷やしてもらえば大丈夫そうだ。

 それでも、ゲームが続いているのを見ていると、胸がじんわり重くなる。

 俺が抜けても、試合は普通に回っていく。
 別に驚くことじゃない。元から戦力になってないから。

 そう思えば思うほど、「やっぱりな」という声が頭の中で大きくなる。

「結城、保健室行ってこい」

 先生にそう言われて、俺は小さくうなずいた。

「ひとりで行けるか?」

「はい。大丈夫です」

 足を引きずらないよう気をつけながら、体育館を出る。
 冷たい廊下の空気が、火照った顔に少し気持ちいい。

 保健室で湿布を貼ってもらって戻ってくると、もう次のクラスの体育が始まっていた。俺のクラスは、ちょうど更衣室で着替え中らしい。

 教室に戻ってからも、微妙に残る足首の違和感と、体育でのへまを思い出しては自己嫌悪した。

 昼休み。
 友達が「さっきのマジでマンガみたいだったな」と笑いながら言ってきて、俺もつられて笑ったふりをする。

「ほんとドジだよな、お前」

 軽口に、いつもみたいに「だよなー」と返す代わりに、笑いが少し引っかかった。

「……だな」

 笑って流したつもりでも、胸の中に小さな棘が残る。

     ◇

 放課後。
 ホームルームが終わって、教室から人が減り始めた頃。

「結城、足、大丈夫か?」

 クラスメイトが何人か声をかけてくれて、「もう平気」と返す。
 そのやり取りがひと段落した頃、廊下から例の声が聞こえてきた。

「せんぱーい」

 反射的に顔を上げる。

 水瀬が、教室のドアにもたれかかるように立っていた。視線が俺を見つけるのと、俺がそっちを見るのと、ほぼ同時。

「今日もちゃんといました」

「点呼やめろって」

「足、どうしたんですか?」

 教室に入ってきた水瀬は、まっすぐ俺の机まで来て、机の端をぽんっと叩いた。

「さっき一年の体育の先生が、『二年の誰かが足ひねってた』って言ってたんで」

「情報早いな」

「観察と情報収集が趣味なんで」

「お前、それ趣味にすんな」

 軽くツッコみながらも、どこか安心している自分がいた。

 ……何だよ、この感覚。

「で、本当に大丈夫なんですか?」

「ひねっただけ。保健室で湿布もらったし」

「見せてもらっていいですか」

「は?」

「いや、変な意味じゃなくて。本当に腫れてないか確認したくて」

「保健の先生が確認してるから、大丈夫だって」

「俺も確認したいんで」

 真顔で言うな。心臓に悪い。

「大げさだろ」

「先輩が怪我してるの、大問題なんで」

「大問題は言いすぎだ」

「言いすぎじゃないです」

 水瀬は椅子をひっぱってきて、俺の隣に座った。距離が、また近い。

「体育、見学してたんですか?」

「いや、途中まで出てたけど。パス取り損ねて、転んで」

「あー」

 何となく恥ずかしくて、視線を机の上に落とす。

「ドジっただけだから」

 自分で先にそう言ってしまえば、少しは楽になると思った。

 でも、水瀬は眉をひそめた。

「誰かに、そう言われました?」

「え?」

「さっき廊下通ったとき、結城先輩の友達が『マジドジでさー』って話してたんで」

「あー……まあ、そんな感じ」

「それ、結城先輩が自分で言ったんじゃなくて、言われたんですよね」

「まあ、そうだけど。別に気にしてないし」

 口ではそう言いながら、自分の声が少しだけ硬いのが分かる。

 気にしてない。
 気にしてない、はず。

 でも、何回も繰り返されるうちに、それが自分のラベルになっていく感じがして。

「俺、結城先輩が転んだの、見てないんであれですけど」

「うん」

「多分それ、ドジというより、真面目なだけだと思います」

「真面目?」

 意外な言葉に、顔を上げる。

「ちゃんと取りに行こうとして、変な体勢でも踏ん張ろうとしたんですよね」

「まあ……見てたわけじゃないのに、よく分かるな」

「見なくても分かります。先輩、手抜きしないじゃないですか」

「手抜きくらいしてるだろ」

「してないです」

 きっぱり言い切られて、どう反応していいか分からなくなる。

「俺、先輩のことずっと見てるんで。体育のときも、ちゃんとボール追いかけてるの、知ってます」

「……一年は、自分の授業見ろよ」

「ちゃんと見てます。その上で、先輩も見てます」

 堂々と宣言されても、それはそれで困る。

「そんな真面目な人が、ちょっと足ひねっただけで『ドジ』とか『地味』とか言われるの、なんか嫌なんですよね」

「いや、『地味』は今関係なくない?」

「体育の前にも言われてませんでした?」

 図星だった。

 今日の朝、友達に「結城ってさ、もうちょいガツガツ来てもいいのに。地味すぎ」と冗談混じりに言われて、「そうかな」と笑って返したところだ。

 そのときは笑いで流したつもりだったけど、地味、という単語だけは、じくじくと残っている。

 線が細い。目立たない。背景。

 そういう言葉が、昔からずっと、俺につきまとってきた。

「……別に、派手になりたいわけじゃないし」

 自分でも分かるくらい弱い声で、そう言った。

「俺なんかが前に出ても、邪魔になるだけだしさ」

「なんで、そうなるんですか」

「なんでって……俺、運動も普通、成績も普通、見た目も普通だし。地味で、線細くて。主役っぽくないだろ」

 言いながら、自分で笑いそうになる。

 何を真剣に「主役っぽくない」とか語ってるんだろう。

 でも、そう思ってしまうのは本当だ。
 どうせ俺なんか、誰かの背景で十分だ。

「……俺は、そのままがいいんですけど」

「え?」

 ぽつりと落ちた水瀬の声が、意外と重くて、びくっとする。

「結城先輩、今のままがいいです」

 真顔だった。

「地味とか線が細いとか、そういうの全部込みで、先輩がいいです」

「込みでって」

「ガツガツ前に出ないところも、ちゃんと周り見て動くところも、体育で怪我しても『大丈夫』って笑うところも」

 ひとつひとつ、丁寧に並べてくる。

「先輩、主役っぽくないとか言ってましたけど」

「……うん」

「俺から見たら、ずっと主役ですけど」

「は?」

「観客席からずっと見てた側としては、そうとしか思えないです」

 何その告白みたいな言い方。

 頭の中でツッコみながらも、胸の奥がじわじわ熱くなっていくのが分かる。

「先輩、自分のこと評価低すぎです」

「そんなこと……」

「あります」

 即答だ。

「誰かに『地味』とか『ドジ』とか言われたからって、それが全部じゃないです」

「でも」

「でもじゃないです」

 食い気味に否定されて、言葉が止まる。

「俺、先輩のいいところ、百個言えるって言ったの、覚えてます?」

「……ああ」

 忘れろってほうが無理だ。

「あれ、本気なんで」

 ひとつひとつ確認するみたいに、水瀬は俺を見る。

「今日の分、もう一個言っていいですか」

「今日の分、って何個目だよ」

「二個目です」

「こっそりカウントすんなよ」

「じゃあ、二個目」

 水瀬は、少し笑ってから、言葉を落とした。

「足ひねっても、誰のことも責めないところ、好きです」

「……は?」

「ボール投げたやつとか、笑ったやつとかのこと、一回も悪く言ってないじゃないですか」

「いや、別に、あいつら悪気なかったし」

「そういうとこです」

 即答。まただ。

「俺だったら、ちょっと引きずると思います。『なんであんな投げ方するんだよ』ってか、『笑うなよ』って」

「根に持つタイプか」

「かもしれないです。でも先輩は、『自分がドジったから』って、自分の中で処理してるじゃないですか」

 それは、昔からのクセだ。

 自分が我慢すれば丸く収まるなら、それでいい、と思ってきた。

「そういうの、優しいって言うんだと思います」

「……そんな大したもんじゃないって」

「そういうところです」

「どこだよ」

「『大したことない』って言いながら、ちゃんと人のこと考えてるところ」

 もうやめてくれ、と言いたくなるくらい、じわじわ効いてくる。

「俺、先輩が自分のこと悪く言うたびに、『違うのにな』って思ってますから」

「……」

 体育のときの「ドジ」が、少しだけゆるむ。

 クラスメイトの軽い「地味」が、少しだけ遠くなる。

 代わりに、水瀬の「そのままがいいです」が、胸の真ん中に残る。

「信じなくていいですけど」

 水瀬は、少しだけ視線を落とした。

「俺が知ってる先輩は、そういう人です」

「……」

「だから、誰が何と言おうと、俺が知ってます」

 その言い方は、どこか昨日の「先輩のいいところ、百個言えるんで」に繋がっていて。

 冗談じゃなく、本気で言っているのが分かるから、余計にずるい。

「……なんでそんなに俺のこと、分かるみたいに言えるんだよ」

 やっと絞り出した言葉は、少し拗ねたみたいに聞こえたかもしれない。

 水瀬は、少しだけ笑った。

「ずっと見てたからですよ」

 あまりにも当たり前みたいに。

「一年のときから、結城先輩のこと」

 さらっと、爆弾みたいなことを言う。

 体育館の端っこでプレーしてるときも。
 教室でノート取ってるときも。
 班長としてみんなをまとめてるときも。

 こいつは、たぶん、俺が思っている以上に、ずっと前から。

 そう思った瞬間、「地味で、線細くて、主役っぽくない」と自分で貼り付けていたラベルが、少しだけ剥がれた気がした。

 信じきれるほど自信家じゃないけど。

 それでも、「全部否定しなくてもいいのかも」と、初めて思えた。