放課後のチャイムが鳴ると、教室のざわざわは一気に色を変える。

 部活に行くやつ、コンビニ談義を始めるやつ、机を寄せてカードゲームを始めるやつ。そんな中で、俺はひとり、自分の席で静かに帰り支度をしていた。

 筆箱を閉めて、教科書を鞄にしまって、忘れ物がないか確認して。いつものルーティン。

 別に誰かと一緒に帰る約束もないし、寄り道の予定もない。家に帰って、適当に動画見て、寝る。それだけ。

「……よし」

 小さくつぶやいて立ち上がると、後ろのドアがガラリと開いた。

「せんぱーい!」

 元気な声が、廊下から飛び込んでくる。

 来た。今日も。

「結城先輩、まだいました!」

「……まだいました、じゃないだろ」

 振り返ると、そこには一年の水瀬悠斗がいた。ネクタイをゆるくして、カバンを片手でぶらさげて、こっちにまっすぐ歩いてくる。

 何でわざわざ一年が二年の教室まで、毎日来るのか。いまだに分からない。

「今日、帰り遅いんですか? 部活?」

「いや、部活ない日。今から帰る」

「じゃあ、よかった」

「何が」

「間に合って」

「何にだよ」

「先輩のとこ寄るのに決まってるじゃないですか」

 当たり前みたいな顔で言われて、思わず視線をそらした。

 こういうところだ。こいつは。

「一年の教室、逆方向だろ」

「はい。でも、先輩の教室、そんなに遠くないですよ」

「いや、遠いとか近いとかじゃなくて」

「ルートに先輩を組み込んでるんで、大丈夫です」

「お前のルート事情なんか知らねえよ」

 軽くツッコんでも、まったく堪えた様子がない。むしろ、嬉しそうに笑っている。

 わんこ、ってこういうのを言うんだろうなと、内心で思う。

「そうだ、先輩。今日の数学のノート、見てもいいですか」

「え、なんで」

「黒板写すの間に合わなかったとこがあって。先輩のノート分かりやすいから、写させてほしいです」

「分かりやすいって……」

 思わず眉をひそめる。
 俺のノートなんか、特別なこと書いてるわけじゃない。黒板の内容を、ただきっちり写してるだけだ。

「ほら、これ」

 渋々机にノートを広げると、水瀬がぐっと身を乗り出してきた。距離、近い。

「うわ。やっぱり綺麗だ……」

「大げさだろ」

「全然大げさじゃないです。字も読みやすいし、色分けもちゃんとしてるし。ここの公式のとこ、線引いてあるのとか、超好きです」

「好きって」

「こういうまとめ方、めっちゃ好きなんですよね。先輩のノート、ずっと見てられます」

「それはちょっと怖い」

 冗談めかして言うと、水瀬は「あはは」と笑った。

「でも本当に、先輩のノート、見やすいですよ。黒板そのまま写してる人より、絶対テスト前役立つやつです」

「……まあ、自分が分かるように書いてるだけだけど」

「そういうところがいいんです」

「どこだよ」

「『自分が分かるように』って考えてるところです」

 さらっと褒めを足してくる。反則だ。

 俺は昔から字だけは綺麗だと言われてきたけど、それ以外は全部「普通」だと思ってる。成績も、運動も、見た目も。

 だから、「いい」とか「好き」とか言われると、どう受け取っていいか分からない。

「ねえ先輩」

「ん」

「この三行目のここ、先生ちょっと飛ばしてたとこじゃないですか?」

「ああ、そうかも」

「先輩、ちゃんとメモってるんですね。真面目」

「いや、真面目っていうか……不安だからだよ。ここ出るって言ってたし」

「そういうとこが、真面目でいいんですよ」

 またそれだ。

「水瀬」

「はい」

「お前さ」

「なんですか」

「さっきから褒めすぎ」

「えー」

 不満そうに唇を尖らせる。
 こういうところも、ずるい。こいつはたぶん、自分がどう見えてるかあんまり分かってない。

「だって、本当にそう思ってますもん。嘘ついてないです」

「いや、嘘だとは言ってないけど」

「じゃあ、いいじゃないですか。思ったこと言ってるだけです」

 思ったことを、そのまま口に出せる人間が、世の中にどれだけいるんだろう。

 少なくとも俺は、その逆だ。
 思ったことがあっても、「どうせ勘違いだろ」とか「誰も聞きたくないだろ」とか考えて、言葉が引っ込んでしまう。

「先輩の声も、好きです」

「は?」

 急に話題を変えられて、変な声が出た。

「さっきから、好き好き言いすぎだろ」

「本当に好きなんですって。声、落ち着くし」

「……落ち着く?」

「はい。今日のホームルームで、先生に当てられたときも、めちゃくちゃ落ち着いた声で答えてて、すごいなって思いました」

「あれは、寝起きだっただけだと思うけど」

「寝起きでも、ちゃんとしてるのがすごいんです」

 水瀬は、俺の顔をじっと見上げてくる。黒目がちの目で、まっすぐ。

「先輩の声、聞いてると、なんか安心するんですよね」

「……」

 息が少しだけ止まった。

 安心、とか。
 そんなふうに言われたことなんて、今までなかった。

「俺、先輩が授業で発言したり、班長に指示出してるの、結構好きですよ」

「そんなの、誰も聞いてないだろ」

「聞いてます。少なくとも、俺は聞いてます」

 さらっと「俺は」と言い切ってくる。その言い方が、変に胸に残る。

「先輩、自分のいいところ、ぜんぜん分かってないですよね」

「は?」

「もったいないなって、いつも思ってます」

「いや、そんな、いいところなんか……」

 言いかけて、自分で口をつぐんだ。

 こういうときに「ないよ」とか「普通だよ」とか言うのは、謙遜なのか、本心なのか。自分でもよく分からない。

 ただ、「自分が特別なわけがない」と思うクセだけは、ずっと染みついている。

「先輩のいいところ、僕は百個言えますけど」

「……は?」

 さらっと、とんでもないことを言った。

「百個?」

「はい」

「盛りすぎだろ。いくらなんでも」

「盛ってないです。今パッと思いつくだけでも、十個くらいはすぐ言えます」

「十個も?」

 思わず素で驚いてしまう。

「言いましょうか?」

「いや、いい」

「なんでですか」

「恥ずかしいからに決まってんだろ」

 即答すると、水瀬は少し肩を落とした。

「せっかくストックしてるのに」

「ストックって言うな」

「じゃあ、一個だけ」

「一個だけって」

「今日の分です」

 今日の分って何だよ。そんなポイントカードみたいに。

「……一個だけなら」

 自分でも訳が分からないうちに、うなずいていた。
 どこかで聞いてみたいと思ってしまったことを、認めるのが悔しい。

 水瀬の顔が、ぱっと明るくなる。

「じゃあ、今日の先輩のいいところ」

 少しだけ考えるふりをしてから、俺を見て、にこっと笑った。

「『誰にでも、同じトーンで話してくれるところ』です」

「トーン?」

「はい。先生に話すときも、一年に話すときも、友達に話すときも、なんか、ちゃんと相手のこと見てる感じがして」

「そんなことないだろ」

「あります。俺、結構見てるんで」

 またそれだ。こいつの「見てる」は信用ならないくらい本気だ。

「先輩、俺にだけ優しいとかじゃなくて、誰に対してもちゃんとしてるじゃないですか」

「別に、普通だろ」

「その『普通』が、俺にはかっこよく見えます」

 真正面から、そんなことを言うな。

 顔が熱くなってきて、思わず視線を逸らす。
 窓の外を見るふりをしても、水瀬の視線の熱は消えてくれない。

「……お前さ」

「はい」

「一年で、そういうこと平気で言えるやつ、なかなかいないと思うぞ」

「そうですか?」

「そうだよ。もっとこう、照れろよ」

「照れたら、先輩に伝わらないじゃないですか」

 即答。
 何というか、強い。

「俺、好きな人のいいところは、ちゃんと言葉にしたいんで」

「すき──」

 言いかけて、飲み込んだ。

 今の「好き」は、多分、まだ広い意味のやつだ。先輩としてとか、人としてとか、そういうやつ。

 勝手に深読みして、期待して、勝手に落ち込むのは、昔からの悪いクセだ。

 だから、今はスルーする。

「……まあ、とりあえず」

 話題を変えるように、鞄を持ち上げた。

「ノート写すなら、早くしろよ。職員室寄ってから帰りたいんだろ」

「あ、そういえばそうでした」

 水瀬は慌てて自分のノートを取り出して、嬉しそうに俺の席の隣に座った。
 机をくっつけるみたいに寄せてくるものだから、距離がさらに近くなる。

 横から見える横顔が、妙に真剣で。
 うまく言えないけど、その真剣さが、ちょっとだけ眩しかった。

「……そんなに褒めるところないだろ、俺」

 小さくつぶやくと、すかさず返事が飛んできた。

「あります」

「聞いてないのに答えんな」

「結城先輩、自分のこと全然分かってないからなぁ」

「余計なお世話だ」

「じゃあ、俺がちゃんと教えてあげます」

「何をだよ」

「先輩のいいところ」

 ノートにペンを走らせながら、さらっと言う。

 その声が、妙にあたたかかった。

 このときの俺はまだ知らなかった。

 こいつが本気で、「俺のいいところ」を百個数えようとしているなんてことを。