一週間なんて、普段ならあっという間なのに。
この一週間だけは、やけに長く感じた。
木曜の六時間目が終わるチャイムを聞きながら、俺はノートを閉じる。
先生が黒板を消す音も、クラスメイトが椅子を引く音も、全部遠くに聞こえた。
「成瀬、今日プリントのやつどうする?」
「ごめん、先に図書の方行ってくる。またあとで手伝うよ」
ちゃんと「先に自分の用事をやる」って言うのにも、少しだけ勇気がいった。
でも、白石に言われたことを思い出す。
僕の前にいるときくらい、自分のこと優先してほしいです。
そう言ったときの真剣な顔が、まだ目に焼きついている。
職員室で鍵を借りて、図書室の前を通り過ぎる。
準備室の小さなドアの前に着いたところで、わざと一拍置いた。
今日は、少しだけ遅めに来た。
白石が「待つ側」をやめられるように、ちゃんと「来る」って自分から決めてここに来たくて。
「……よし」
小さく息を吸って、ノブを回す。
ガラリ。
「ごめん、待たせた」
中に入って、そう言った瞬間。
机の向こう側で、白石が顔を上げた。
机の上には、開きっぱなしの教科書とノート。
その横に、見慣れた薄いベージュのラベルが二本並んでいる。
「先輩」
白石は、いつもの落ち着いた声で俺の名前を呼んだ。
でも、その目の奥は、少しだけほっとしたように揺れている。
「来ましたね」
「来たよ。遅れてごめん」
「別に。僕が勝手に早く来ただけなので」
そう言いながら、手元のミルクティーをひとつ、俺の方に押しやった。
「これ、先輩の」
「ありがと」
ラベルを見なくても分かる。
いつもの、微糖のやつだ。
キャップをひねりながら、ふと思う。
「さ」
「はい?」
「これさ、ずっと俺がこれ好きなの知ってて買ってきてたんだよね」
軽く笑って言うと、白石がぴくっと肩を揺らした。
「前から見てたって、言ってたし」
自販機の前。
図書室の窓。
いろいろ思い出しながら、少しだけ茶化すように続ける。
「わりと、ガチで観察されてたんだなって」
「……変な言い方しないでください」
白石は、わずかに目をそらした。
耳の先まで、じわっと赤くなっていくのが分かる。
「別に、ストーカーとかそういうんじゃなくて」
「いや、そこまで言ってないけど」
「先輩がいつも同じボタン押してるの、たまたま目に入っただけで」
「たまたま、ね」
「……たまたまが、何回か続いただけです」
小声でそう付け足して、教科書に視線を落とす。
ページをめくる指先も、少しだけ落ち着きなく動いていた。
その反応がおかしくて、そして、くすぐったくて。
胸の中が、静かに満たされていく。
ああ、こういう顔も、俺だけが知ってるんだ。
図書室の窓越しじゃなくて。
同じ部屋の、同じ机の向かいで。
「……ありがと」
「何がですか」
「いろいろ。ミルクティーも、待っててくれたのも」
白石は少しだけ目を見開いたあとで、「どういたしまして」と照れくさそうに目を細めた。
◇
ラベル貼りと、本の整理を始める。
段ボールを開けて、ガムテープを剥がして、本棚の番号を確認する。
いつもの作業。
いつもの木曜。
でも、会話の内容は、少しだけ変わっていた。
「文化祭、図書委員って何かやるの?」
「うちの委員会は、本の展示としおり作りだけです」
「あー、あれか。毎年机に並んでるやつだ」
「先輩、去年の見ました?」
「見た見た。やたらポップな手描きイラストのコーナーあったろ。あれ、図書委員だったんだ」
「はい。ああいうの、苦手なんですけど」
「お、分かる。俺も絵は壊滅的」
並んでしゃがみこんで下段の本を出していると、自然と肩の距離が近くなる。
ふとした拍子に腕が触れて、そのたびに心臓がわずかに跳ねる。
「文化祭のときも、この時間は準備室来る?」
「たぶん。図書の展示と教室の方、両方見たいので」
「忙しそうだな」
「先輩こそ、また頼まれたりしませんか」
白石は本の背表紙を見ながら、少しだけ意地悪そうに言った。
「『成瀬ならやってくれるだろ』って」
「それは……ありそうで怖い」
「怖いなら、先に宣言しておいた方がいいと思いますけど」
「宣言?」
「木曜のこの時間は用事があるんで、って」
白石は手を止めずに、当たり前のように言った。
「ちゃんと決めておけば、断りやすくなるじゃないですか」
「用事、ね」
ガムテープを丸めながら、その言葉を繰り返す。
「あるよ」
「……もう何か、あるんですか」
「あるって決めた」
「決めた?」
「木曜のこの時間は、なるべく空けとく」
白石が、やっと手を止めてこっちを見た。
「誰に頼まれても、『その時間は用事があるんで』って断る。白石との約束の時間だから」
言ってから、自分で顔が熱くなるのが分かった。
でも、言葉を引っ込めたくはなかった。
これは、白石からもらった「願い」に応えるための、俺なりの答えだ。
白石は、一瞬だけ固まったみたいに黙り込む。
「……それ」
「うん」
「僕に、自慢してるんですか」
「え、自慢?」
「木曜の先約、僕なんだぞって」
白石は、少しだけ口の端を上げた。
照れ隠しみたいな笑い方だ。
「……まあ、そうかも」
否定できなくて、苦笑いする。
「でも、ちゃんと言っとかないと、また俺どっかで流されそうだし」
「流され禁止です」
「はい」
返事をすると、白石は満足そうにうなずいた。
その横顔が、やけにうれしそうで。
自慢したくなる気持ちも、悪くないなと思った。
◇
作業の手を少し止めて、俺はカバンの中からスケジュール帳を引っ張り出した。
「そうだ」
「何ですか?」
「見せたいものがありまして」
「見せたいもの?」
白石が首をかしげる。
机にスケジュール帳を開いて、ウィークリーのページを探す。
木曜の欄には、今まで通り、ボールペンで「図書準備室」と書いてあった。
その横には、前に途中まで書いて止めた「白」の字が、消しゴムの跡と一緒にうっすら残っている。
「これな」
「はい」
「前さ、白石に言われたじゃん。『予定に入れてほしい』って」
「……言いましたね」
「だから」
ボールペンのキャップを外して、「図書準備室」の横に文字を書き足す。
「白石」
さらさら、と。
今度は途中で止まらないように、最後まで書く。
「これで、ちゃんと予定に名前、入れたから」
少しだけ照れながら、スケジュール帳を白石の方に向けた。
白石は黙ってページを見つめて、それから、ふっと表情をゆるめた。
「……変なの」
「変?」
「紙に書かなくても、ちゃんと覚えてますけど」
「そう言うと思った」
ケラケラ笑うのじゃなくて、静かに笑う。
でも、そこにあるのは、確かにうれしそうな笑いだった。
「じゃあ、その予定」
白石はボールペンの先を指でつつきながら言う。
「ずっと先まで、埋めておいてください」
「ずっと先?」
「来週だけとかじゃなくて。二学期も、三学期も」
「お、欲張り」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
むしろ、そう言ってもらえたことが、すごく嬉しい。
「高校卒業するまで、埋めてもいい?」
「……それ、さすがに先過ぎませんか」
「じゃあ、とりあえず今学期分で」
「はい。それなら」
そんな他愛もないやりとりなのに。
「卒業するまで」という言葉が、胸のどこかに静かに残った。
◇
ラベル貼りも、本棚の整理も、一通り終わったころ。
机の上を片づけながら、ずっと頭の隅に引っかかっていたことを、やっと口にした。
「なあ、白石」
「はい」
「俺さ」
ミルクティーのキャップをいじりながら、言葉を選ぶ。
「誰にでも優しくしちゃう癖、多分すぐには直らないと思う」
「……そうですね」
即答された。
「そこ、即答なんだ」
「事実なので」
ちょっと笑ってから、白石は真面目な顔に戻る。
「でも、この前言ったこと、まだ有効ですから」
「この前?」
「僕の前では、自分のこと優先してほしいってやつです」
「ああ」
あの廊下の階段で、彼がまっすぐ言ってくれた言葉。
「……だからさ」
少しだけ真剣な声になる。
「白石の前では、ちゃんと自分勝手でいたい」
「自分勝手」
「疲れたら疲れたって言うし、嫌なことは嫌って言うし。愚痴も、ちょっとくらい聞いてほしい」
今までだったら、喉まで出かかって飲み込んでいた言葉たち。
白石の前なら、出してもいいかもしれないと思えた。
「これからも隣で、聞いてくれる?」
白石は、少し目を丸くして。
すぐに、ゆっくりと笑った。
「それ」
「うん」
「僕だけの特権なら、喜んで」
特権、という言葉の選び方が、なんだか白石らしい。
「他の人の前では、相変わらず優等生でもいいです」
「うわ、ひどい言い方」
「でも、ここではちゃんと、わがまま言ってください」
「ここ」という言葉に、いろんな意味が込められている気がした。
図書準備室。
狭くて、少し埃っぽくて。
前は、仕事を押しつけられた俺の逃げ場所だった場所。
今は――。
「分かった。ここでは、白石に甘える」
「……それ、録音しておけばよかったです」
「やめてください」
冗談を交わしながら、最後の段ボールを畳む。
机の上を片づけて、電気を消す準備をする。
鍵をかける前、白石がドアの内側にかかった小さな札を「準備中」の方にくるりと回した。
「今日もちゃんと、準備しましたね」
「何の?」
「いろいろです」
意味ありげなことを言って、白石は笑った。
◇
準備室の鍵を閉めて、職員室に返す。
校舎の外に出るころには、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
窓の外から差し込む夕焼けが、廊下の床に長く影を落としている。
俺と白石の影が、並んで伸びていた。
「先輩」
「ん?」
「さっきのスケジュール帳」
「ああ」
「本当に、書いてくれて嬉しかったです」
歩きながら、白石がぽつりと言う。
「名前、入れてもらえたの、初めてなので」
「初めて?」
「予定帳とかに、人の名前を書いたり書かれたりするの、なんとなく避けてたので」
中学の話が、少しだけ頭をよぎる。
「便利なやつ」として使われてきた過去。
「じゃあ、これから埋めてこ」
「これから?」
「うん。木曜のところ、白石の名前でいっぱいにする」
「……」
「めんどくさいって言われても、消さないからな」
「言いませんよ」
白石は、夕焼けの光の中で目を細めた。
「むしろ、もっと書いてほしいくらいです」
「欲張りだな、やっぱ」
「はい。欲張りです」
隠そうともしない返事に、思わず笑ってしまう。
下駄箱の前まで来て、それぞれローファーに履き替える。
一緒に校門へ向かって歩きながら、俺は窓の外に目を向けた。
ほんの少し前までは。
ここは、仕事を押しつけられた俺の逃げ場所だった。
クラスで頼まれたプリント配りとか、先生からの「お願い」とか。
そういうものから逃げ込んで、ひとりで黙々とラベルを貼っていた場所。
いまは――放課後に、白石を好きになった場所だ。
準備室の狭さも。
ミルクティーの甘さも。
ガムテープを剥がす音も。
全部、白石とセットで思い出す。
「これからもさ」
校門の少し手前で、ふと口が勝手に動いた。
「木曜の放課後は、ずっとこの子と一緒にいたいなって」
「この子?」
「……白石のこと」
自分で言っておいて、照れて視線をそらす。
白石は、一瞬きょとんとして、それから頬を赤くしながら笑った。
「僕もです」
「え」
「これからも、放課後は先輩と一緒がいいです」
さらっと言うから、余計に照れる。
「じゃあ、お互い様ってことで」
「そうですね」
並んで歩く足音が、夕方の校舎に小さく響く。
振り返ると、廊下の奥に、小さく「図書準備中」と書かれた札が揺れていた。
さっき白石がくるりと回したまま、風に揺れている。
あの扉の向こうで。
これからも、何度だって同じ木曜の放課後を過ごすのだろう。
少しずつ変わりながら。
少しずつ、同じでいながら。
そんなふうに続いていく毎週のことを、俺はきっと、ずっと見守っていたいと思った。
この一週間だけは、やけに長く感じた。
木曜の六時間目が終わるチャイムを聞きながら、俺はノートを閉じる。
先生が黒板を消す音も、クラスメイトが椅子を引く音も、全部遠くに聞こえた。
「成瀬、今日プリントのやつどうする?」
「ごめん、先に図書の方行ってくる。またあとで手伝うよ」
ちゃんと「先に自分の用事をやる」って言うのにも、少しだけ勇気がいった。
でも、白石に言われたことを思い出す。
僕の前にいるときくらい、自分のこと優先してほしいです。
そう言ったときの真剣な顔が、まだ目に焼きついている。
職員室で鍵を借りて、図書室の前を通り過ぎる。
準備室の小さなドアの前に着いたところで、わざと一拍置いた。
今日は、少しだけ遅めに来た。
白石が「待つ側」をやめられるように、ちゃんと「来る」って自分から決めてここに来たくて。
「……よし」
小さく息を吸って、ノブを回す。
ガラリ。
「ごめん、待たせた」
中に入って、そう言った瞬間。
机の向こう側で、白石が顔を上げた。
机の上には、開きっぱなしの教科書とノート。
その横に、見慣れた薄いベージュのラベルが二本並んでいる。
「先輩」
白石は、いつもの落ち着いた声で俺の名前を呼んだ。
でも、その目の奥は、少しだけほっとしたように揺れている。
「来ましたね」
「来たよ。遅れてごめん」
「別に。僕が勝手に早く来ただけなので」
そう言いながら、手元のミルクティーをひとつ、俺の方に押しやった。
「これ、先輩の」
「ありがと」
ラベルを見なくても分かる。
いつもの、微糖のやつだ。
キャップをひねりながら、ふと思う。
「さ」
「はい?」
「これさ、ずっと俺がこれ好きなの知ってて買ってきてたんだよね」
軽く笑って言うと、白石がぴくっと肩を揺らした。
「前から見てたって、言ってたし」
自販機の前。
図書室の窓。
いろいろ思い出しながら、少しだけ茶化すように続ける。
「わりと、ガチで観察されてたんだなって」
「……変な言い方しないでください」
白石は、わずかに目をそらした。
耳の先まで、じわっと赤くなっていくのが分かる。
「別に、ストーカーとかそういうんじゃなくて」
「いや、そこまで言ってないけど」
「先輩がいつも同じボタン押してるの、たまたま目に入っただけで」
「たまたま、ね」
「……たまたまが、何回か続いただけです」
小声でそう付け足して、教科書に視線を落とす。
ページをめくる指先も、少しだけ落ち着きなく動いていた。
その反応がおかしくて、そして、くすぐったくて。
胸の中が、静かに満たされていく。
ああ、こういう顔も、俺だけが知ってるんだ。
図書室の窓越しじゃなくて。
同じ部屋の、同じ机の向かいで。
「……ありがと」
「何がですか」
「いろいろ。ミルクティーも、待っててくれたのも」
白石は少しだけ目を見開いたあとで、「どういたしまして」と照れくさそうに目を細めた。
◇
ラベル貼りと、本の整理を始める。
段ボールを開けて、ガムテープを剥がして、本棚の番号を確認する。
いつもの作業。
いつもの木曜。
でも、会話の内容は、少しだけ変わっていた。
「文化祭、図書委員って何かやるの?」
「うちの委員会は、本の展示としおり作りだけです」
「あー、あれか。毎年机に並んでるやつだ」
「先輩、去年の見ました?」
「見た見た。やたらポップな手描きイラストのコーナーあったろ。あれ、図書委員だったんだ」
「はい。ああいうの、苦手なんですけど」
「お、分かる。俺も絵は壊滅的」
並んでしゃがみこんで下段の本を出していると、自然と肩の距離が近くなる。
ふとした拍子に腕が触れて、そのたびに心臓がわずかに跳ねる。
「文化祭のときも、この時間は準備室来る?」
「たぶん。図書の展示と教室の方、両方見たいので」
「忙しそうだな」
「先輩こそ、また頼まれたりしませんか」
白石は本の背表紙を見ながら、少しだけ意地悪そうに言った。
「『成瀬ならやってくれるだろ』って」
「それは……ありそうで怖い」
「怖いなら、先に宣言しておいた方がいいと思いますけど」
「宣言?」
「木曜のこの時間は用事があるんで、って」
白石は手を止めずに、当たり前のように言った。
「ちゃんと決めておけば、断りやすくなるじゃないですか」
「用事、ね」
ガムテープを丸めながら、その言葉を繰り返す。
「あるよ」
「……もう何か、あるんですか」
「あるって決めた」
「決めた?」
「木曜のこの時間は、なるべく空けとく」
白石が、やっと手を止めてこっちを見た。
「誰に頼まれても、『その時間は用事があるんで』って断る。白石との約束の時間だから」
言ってから、自分で顔が熱くなるのが分かった。
でも、言葉を引っ込めたくはなかった。
これは、白石からもらった「願い」に応えるための、俺なりの答えだ。
白石は、一瞬だけ固まったみたいに黙り込む。
「……それ」
「うん」
「僕に、自慢してるんですか」
「え、自慢?」
「木曜の先約、僕なんだぞって」
白石は、少しだけ口の端を上げた。
照れ隠しみたいな笑い方だ。
「……まあ、そうかも」
否定できなくて、苦笑いする。
「でも、ちゃんと言っとかないと、また俺どっかで流されそうだし」
「流され禁止です」
「はい」
返事をすると、白石は満足そうにうなずいた。
その横顔が、やけにうれしそうで。
自慢したくなる気持ちも、悪くないなと思った。
◇
作業の手を少し止めて、俺はカバンの中からスケジュール帳を引っ張り出した。
「そうだ」
「何ですか?」
「見せたいものがありまして」
「見せたいもの?」
白石が首をかしげる。
机にスケジュール帳を開いて、ウィークリーのページを探す。
木曜の欄には、今まで通り、ボールペンで「図書準備室」と書いてあった。
その横には、前に途中まで書いて止めた「白」の字が、消しゴムの跡と一緒にうっすら残っている。
「これな」
「はい」
「前さ、白石に言われたじゃん。『予定に入れてほしい』って」
「……言いましたね」
「だから」
ボールペンのキャップを外して、「図書準備室」の横に文字を書き足す。
「白石」
さらさら、と。
今度は途中で止まらないように、最後まで書く。
「これで、ちゃんと予定に名前、入れたから」
少しだけ照れながら、スケジュール帳を白石の方に向けた。
白石は黙ってページを見つめて、それから、ふっと表情をゆるめた。
「……変なの」
「変?」
「紙に書かなくても、ちゃんと覚えてますけど」
「そう言うと思った」
ケラケラ笑うのじゃなくて、静かに笑う。
でも、そこにあるのは、確かにうれしそうな笑いだった。
「じゃあ、その予定」
白石はボールペンの先を指でつつきながら言う。
「ずっと先まで、埋めておいてください」
「ずっと先?」
「来週だけとかじゃなくて。二学期も、三学期も」
「お、欲張り」
「嫌ですか」
「嫌じゃない」
むしろ、そう言ってもらえたことが、すごく嬉しい。
「高校卒業するまで、埋めてもいい?」
「……それ、さすがに先過ぎませんか」
「じゃあ、とりあえず今学期分で」
「はい。それなら」
そんな他愛もないやりとりなのに。
「卒業するまで」という言葉が、胸のどこかに静かに残った。
◇
ラベル貼りも、本棚の整理も、一通り終わったころ。
机の上を片づけながら、ずっと頭の隅に引っかかっていたことを、やっと口にした。
「なあ、白石」
「はい」
「俺さ」
ミルクティーのキャップをいじりながら、言葉を選ぶ。
「誰にでも優しくしちゃう癖、多分すぐには直らないと思う」
「……そうですね」
即答された。
「そこ、即答なんだ」
「事実なので」
ちょっと笑ってから、白石は真面目な顔に戻る。
「でも、この前言ったこと、まだ有効ですから」
「この前?」
「僕の前では、自分のこと優先してほしいってやつです」
「ああ」
あの廊下の階段で、彼がまっすぐ言ってくれた言葉。
「……だからさ」
少しだけ真剣な声になる。
「白石の前では、ちゃんと自分勝手でいたい」
「自分勝手」
「疲れたら疲れたって言うし、嫌なことは嫌って言うし。愚痴も、ちょっとくらい聞いてほしい」
今までだったら、喉まで出かかって飲み込んでいた言葉たち。
白石の前なら、出してもいいかもしれないと思えた。
「これからも隣で、聞いてくれる?」
白石は、少し目を丸くして。
すぐに、ゆっくりと笑った。
「それ」
「うん」
「僕だけの特権なら、喜んで」
特権、という言葉の選び方が、なんだか白石らしい。
「他の人の前では、相変わらず優等生でもいいです」
「うわ、ひどい言い方」
「でも、ここではちゃんと、わがまま言ってください」
「ここ」という言葉に、いろんな意味が込められている気がした。
図書準備室。
狭くて、少し埃っぽくて。
前は、仕事を押しつけられた俺の逃げ場所だった場所。
今は――。
「分かった。ここでは、白石に甘える」
「……それ、録音しておけばよかったです」
「やめてください」
冗談を交わしながら、最後の段ボールを畳む。
机の上を片づけて、電気を消す準備をする。
鍵をかける前、白石がドアの内側にかかった小さな札を「準備中」の方にくるりと回した。
「今日もちゃんと、準備しましたね」
「何の?」
「いろいろです」
意味ありげなことを言って、白石は笑った。
◇
準備室の鍵を閉めて、職員室に返す。
校舎の外に出るころには、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
窓の外から差し込む夕焼けが、廊下の床に長く影を落としている。
俺と白石の影が、並んで伸びていた。
「先輩」
「ん?」
「さっきのスケジュール帳」
「ああ」
「本当に、書いてくれて嬉しかったです」
歩きながら、白石がぽつりと言う。
「名前、入れてもらえたの、初めてなので」
「初めて?」
「予定帳とかに、人の名前を書いたり書かれたりするの、なんとなく避けてたので」
中学の話が、少しだけ頭をよぎる。
「便利なやつ」として使われてきた過去。
「じゃあ、これから埋めてこ」
「これから?」
「うん。木曜のところ、白石の名前でいっぱいにする」
「……」
「めんどくさいって言われても、消さないからな」
「言いませんよ」
白石は、夕焼けの光の中で目を細めた。
「むしろ、もっと書いてほしいくらいです」
「欲張りだな、やっぱ」
「はい。欲張りです」
隠そうともしない返事に、思わず笑ってしまう。
下駄箱の前まで来て、それぞれローファーに履き替える。
一緒に校門へ向かって歩きながら、俺は窓の外に目を向けた。
ほんの少し前までは。
ここは、仕事を押しつけられた俺の逃げ場所だった。
クラスで頼まれたプリント配りとか、先生からの「お願い」とか。
そういうものから逃げ込んで、ひとりで黙々とラベルを貼っていた場所。
いまは――放課後に、白石を好きになった場所だ。
準備室の狭さも。
ミルクティーの甘さも。
ガムテープを剥がす音も。
全部、白石とセットで思い出す。
「これからもさ」
校門の少し手前で、ふと口が勝手に動いた。
「木曜の放課後は、ずっとこの子と一緒にいたいなって」
「この子?」
「……白石のこと」
自分で言っておいて、照れて視線をそらす。
白石は、一瞬きょとんとして、それから頬を赤くしながら笑った。
「僕もです」
「え」
「これからも、放課後は先輩と一緒がいいです」
さらっと言うから、余計に照れる。
「じゃあ、お互い様ってことで」
「そうですね」
並んで歩く足音が、夕方の校舎に小さく響く。
振り返ると、廊下の奥に、小さく「図書準備中」と書かれた札が揺れていた。
さっき白石がくるりと回したまま、風に揺れている。
あの扉の向こうで。
これからも、何度だって同じ木曜の放課後を過ごすのだろう。
少しずつ変わりながら。
少しずつ、同じでいながら。
そんなふうに続いていく毎週のことを、俺はきっと、ずっと見守っていたいと思った。



