放課後、図書準備室で君を好きになった。

 木曜の終わりのチャイムが鳴った瞬間、俺は席を立った。

「成瀬、今日プリントどうする?」
「ごめん、今日は先に用事済ませたいからさ。あとでやる分、手伝うよ」

 前みたいに、反射で「いいよ」と言いそうになる口を、ぐっと押さえ込む。
 教室を出て、職員室で図書準備室の鍵を受け取る。そのまま二年のフロアを抜けて、階段を降りて――一年の廊下の前で、足が止まった。

 このまま準備室で待っていても、きっとまた「来ないかな」「来ないかも」で、同じことの繰り返しだ。

 だったら。

 こっちから行くしかない。

 心臓が、どくどくとうるさい。
 鍵を持つ手に汗がにじむのを感じながら、一年三組のプレートがかかったドアの前に立った。

 中からは、いつもの放課後のざわめき。
 笑い声と、椅子を引く音と、プリントの擦れる音。

「……よし」

 小さく息を吸って、ドアを開けた。

 ガラッ。

 一年の教室の空気が、一瞬だけ静まる。
 何人かが「誰?」という顔でこっちを見た。前の方の女子が、ひそひそと何かを言っているのが聞こえる。

 視線が一斉に刺さってきて、思った以上に緊張した。

 でも、探すべき人はひとりだけだ。

「白石」

 名前を呼ぶと、窓際の列で立っていた黒髪が、ぴくりと動いた。

 机の上にはプリントの束。
 クラスメイトに囲まれて、何かを仕分けていたらしい白石が、驚いた顔で振り返る。

「先輩…?」

 ざわ、と教室の空気が揺れた。

「え、白石の先輩?」
「図書委員のとこの先輩じゃね?」
「なんかカッコよくない?」

 女子の小声が耳に入ってきて、余計に顔が熱くなる。
 でも、ここでビビって帰ったら、本当に何も変わらない。

「ごめん、白石ちょっと借りてもいい?」

 できるだけ自然に、周りの一年たちに向かってそう言う。
 自分で言っておいてアレだけど、完全に「先輩ムーブ」だ。

「ど、どうぞどうぞ」
「白石、行ってこいよ」

 クラスメイトが冗談まじりに背中を押す。
 白石はプリントを机に置いて、少し戸惑いながらも、こっちへ歩いてきた。

 距離が近づくと、ちょっとだけ上を見上げてくる視線が合う。

「……行ってきます」

 周りに向けてそう言ってから、俺の方に向き直る。
 いつもより、少しだけ表情が固い。

「廊下、いい?」

「はい」

 二人で教室を出ると、さっきまでのざわめきが背中の向こうに遠ざかっていく。
 静かになった廊下で、やっと、ちゃんと息ができた気がした。



 少し歩いて、人通りの少ない掲示板の前で立ち止まる。

 何から言えばいいか、頭の中で何度もシミュレーションしてきたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、全部どこかへ飛んでいく。

「先輩」

 先に口を開いたのは、白石だった。

「図書準備室、今日も行くんですよね」

「あ、うん。行くつもり」

「じゃあ、僕――」

「白石」

 言葉を被せるみたいに、呼び止めてしまった。
 彼の目が、少しだけ見開かれる。

「この前は、ごめん」

「この前、って」

「文化祭実行委員の手伝いで遅れたときも。ちゃんと連絡しなかったことも。謝り方、中途半端だったなって」

 金曜の廊下で、「怒ってるんだろうな」と勝手に決めつけて、そこで止めてしまった自分を思い出す。

 あのとき、本当はもっと言うべきことがあった。

「前のことなら、もう――」

「ごめん、だけじゃなくてさ」

 白石の言葉を、今度は俺が遮る。
 彼が驚いたように瞬きをした。

「ありがとうも、ちゃんと言えてなかったから」

「……え?」

「最初、手伝ってくれてたの、正直すごい助かってたんだ。仕事の量も減ったし、早く帰れるし。楽になったなーって」

 そこまで言って、一度息をつく。
 ここから先が、本題だ。

「でもさ」

 白石の視線が、まっすぐこっちに向くのを感じる。

「途中から、それだけじゃなくなってた」

 木曜のスケジュール帳。
 自販機の前でのミルクティー。
 空いた椅子と、机の上に転がったキャップ。

 ばらばらの場面が、頭の中で自然につながる。

「白石と一緒に作業するの、普通に楽しかったし。くだらない話するのも、ミルクティー飲むのも、なんか安心するっていうか」

 言葉にしながら、自分でも「ああ、俺ほんとにこう思ってたんだ」と確認していく。

「だから、白石が来なくなって、空いた椅子見るたびに、変に気になって。自分で自分にツッコんでた」

「……」

「便利だからとか、楽だからとかじゃなくて」

 喉が少しだけ詰まる。
 でも、引き返したくはない。

「白石と一緒にいる時間が、好きだったんだって、やっと気づいた」

 言い終わると、廊下の時計のカチカチという音だけが耳に残った。

 白石は、俯いたまま黙っている。
 制服の袖のところに、ぎゅっと力が入っているのが分かった。

 沈黙が長く感じて、俺の方が不安になってきたころ、彼がぽつりと口を開く。

「……先輩」

「うん」

「それって、誰にでも言うんですか」

「え?」

 思いもよらない返しだった。

「誰にでも優しくするし、誰に頼まれても断れないし」

 白石は、ゆっくり顔を上げる。
 目が、少しだけ鋭くなっている。

「そういうの、僕、好きじゃないです」

 きっぱりした言葉。
 責められているというより、長いこと胸の中にあったものを、やっと外に出した、みたいな重さがあった。

「いや、別に、誰にでもこんなこと言ってるわけじゃ――」

「でも、頼まれたら、断らないですよね」

 ぐさ、と刺された気分だ。
 図書準備室のことだって、本当は「図書の仕事があるから」と断ることもできたはずだ。

 でも俺は、三年の先輩の頼みを優先した。

「先輩が誰にでも優しくしてるの、最初、見ててイライラしました」

「……イライラ?」

 意外すぎる正直さに、思わず聞き返す。

「誰にでも笑ってて。誰にでも『いいよ』って言って」

 白石は、廊下の向こうを見ながら続けた。

「けど、ひとりでモップ掛けしてるときとか、準備室の鍵取りに行くときとかは、あんまり楽しそうな顔じゃなかったから」

「え」

「それ見て、ああ、この人たぶん、自分のことは後回しなんだなって思って」

 どきっとした。

 そこまで見られていたことにも驚いたし、「自分のこと後回し」という言葉が、やけに図星だったからだ。

「……なんで、そんなとこまで見てたの」

「図書室から、よく見えるので」

 あっさり言われると、なんか余計に恥ずかしい。

 自販機の前。
 モップ掛け。
 準備室の鍵。

 全部、図書室の窓から見えていたのか。

「最初は、ただ昔の自分を見てるみたいで、腹が立っただけです」

 白石は、少しだけ目を伏せた。

「中学のとき、クラスでいろいろ頼まれて。ノート貸したり、プリントまとめたり、係の仕事押しつけられたり」

「……うん」

「断らないでいるうちに、便利なやつ、みたいになって」

 静かな声。
 そこだけ、少し温度が低くなる。

「都合悪くなったら、別の子のところに行かれて。僕のことは、『あいつ真面目だから』って、その一言で終わりでした」

 胸が、ぎゅっとなった。

 白石が、さらっと言っていることが、全然「さらっと」で済む話じゃないのが分かるから。

「それから、誰にでも優しくする人とか、誰にでも笑ってる人とか、あんまり信じられなくなって」

「……」

「だから、先輩見たときも、最初はそういう目でしか見られませんでした」

 そう言って、彼は苦笑した。
 自分で自分を責めているみたいな、小さな笑い方だった。

「なのに、なんで準備室に来てくれてたの」

 気づいたら聞いていた。

「嫌なら、関わらなきゃよかったのに」

「……放課後、誰もいない廊下で、先輩がひとりで準備室入ってくの見て」

 白石は、視線を俺に戻す。

「鍵閉めて中に入る前の顔が、少しだけ、しんどそうだったから」

「え」

「それ見たときに、昔の自分ばっかり思い出して、決定的に腹が立ちました」

 やっぱり腹が立ってたのか。
 妙にそこで納得しそうになったけれど、続きがあった。

「同時に」

 白石は、少しだけ目を細める。

「放っておけないな、とも思って」

 息を呑む音が、自分でもはっきり聞こえた。

「先輩が、自分のこと後回しにして、いろんな頼み事ばっかり聞いてるの、見てると、なんか気持ち悪くて」

「気持ち悪いって」

「悪い意味じゃなくて」

 慌てて首を振る。

「昔の自分見てるみたいで、胸がぞわぞわするっていうか」

「……」

「だから先輩には、僕の前でくらい、自分のこと優先してほしいんです」

 静かな声なのに、その一言だけ妙に強かった。

「僕の前にいるときくらいは、誰かの頼みより、自分の『こうしたい』を選んでほしい」

 目が、まっすぐこっちを射抜いてくる。
 逃げ場がなくて、でも嫌な感じじゃない。

「……ハードル高いな」

 思わず冗談っぽく言ってしまう。
 でも白石は、真剣な顔のままだ。

「先輩が誰かに頼まれても、『今は無理です』って断って」

 言葉を一つずつ確かめるみたいに、続ける。

「僕との時間を選んでくれたら」

 そこで、少しだけ間があいた。

「たぶん僕、めちゃくちゃ嬉しいです」

 直球だった。

 嬉しい、の前に「多分」をつけているくせに、声は全然曖昧じゃない。

 廊下の向こうから、部活に向かう生徒たちの足音が近づいてくる。
 人通りが増えてきて、自然と俺たちは窓際の階段のところまで移動した。

 踊り場の窓から、薄い夕焼けが見える。
 階段に腰かけるほどの時間はなさそうで、俺たちは手すりの横に立ったまま、向かい合った。

「白石」

「はい」

「さっきの、今のも含めてさ」

「はい」

「それって、つまり――」

 告白、みたいな、そういう。

 言いかけた俺の言葉を、白石が先に拾った。

「先輩の隣が」

 彼は、一度だけ深く息を吸ってから、続ける。

「僕の一番、落ち着く場所です」

 あの言葉だ。

 図書準備室で聞いた、「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なんです」。

 あのときよりも、はっきりした声で。

「他の誰でもなく、成瀬先輩がいい」

 名前を、まっすぐ呼ばれる。

「……」

「その意味、分かってほしいです」

 視線が、逃がしてくれない。

 ようやく、その言葉の全部を、真正面から受け止めた気がした。

 これは、たぶん、ただの「ありがとう」とか「助かる」とか、そういうのとは違う。

 胸の奥が熱くなって、今までの木曜の全部が一気に頭の中を駆け回る。

 準備室の狭さも。
 ミルクティーの甘さも。
 空いた椅子の心細さも。

 そのどれにも、白石の姿がくっついている。

「……俺さ」

「はい」

「白石といると、楽なんだ」

 声が少し震えているのが分かる。
 でも、止まってほしくなかった。

「手伝ってもらって楽って意味だけじゃなくて」

 言葉を探す。

「一緒に作業してるときとか、くだらない話してるときとか。なんか、変に頑張らなくていい感じがして」

 先生の前とか、クラスメイトの前とか。
 「ちゃんとしなきゃ」って思って、勝手に疲れていたのかもしれない。

「白石といた時間、思い出すとさ」

「はい」

「安心する、って言葉が一番近い」

 白石の目が、少しだけ丸くなる。

「他の誰じゃなくて、白石にそう思われてるの、正直、嬉しいし」

 ここまで言って、頬が一気に熱くなった。

 自分で自分に、「何言ってんだ俺」とツッコミを入れたくなるけれど、もう遅い。

 白石はしばらく黙っていたけれど、次の瞬間、表情が大きく崩れた。

「……よかった」

 肩の力が抜けたみたいに、ほっとした笑い方だった。

 今まで見たどの表情よりも、大きな笑顔。
 噂で聞いていた「イケメン一年」の整った顔が、その瞬間だけ、急に年相応の男子高校生に見えた。

「先輩、そう言ってくれなかったら、たぶん僕、図書室にこもったまま一生出てこれなかったです」

「それは困る」

「困りますか」

「困る。木曜の準備室、どうすんの」

 自然と、そんな言葉が出た。

「来週からの木曜もさ、ちゃんと一緒に図書準備室、来てくれる?」

 白石のまぶたが、ふるっと震える。

「それ」

 少し間をあけてから、確認するみたいに言う。

「先輩の方から、僕を選んでくれたってことで、いいんですか」

「……うん」

 今度は迷わなかった。

「先生にも、先輩にも、友だちにも頼まれるだろうけど」

 たぶんこれからも、俺の「断れない」癖はすぐには治らない。

「木曜の放課後は、白石と準備室にいる予定、ちゃんと入れたい」

 スケジュール帳の木曜の欄。
 「図書準備室」の横に、途中で止まった「白」の字。

 あれを最後まで書けるようにしたい。

「白石と一緒の方が、俺、好きだし」

 言ってから、顔から火が出そうになった。

 でも、白石はうれしそうに目を細めただけで、変にからかったりはしなかった。

「……分かりました」

 小さく笑って、うなずく。

「じゃあ来週からも、ちゃんと行きます」

「ほんとに?」

「はい。何回でも言いますけど」

 少しだけ照れくさそうに、それでもはっきりと。

「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なので」

 その言葉に、俺の胸のざわざわは、ゆっくりと形を変えていく。

 不安とか、嫉妬とか、よく分からない焦りとか。

 それら全部の真ん中に、「好き」という言葉があるのだと、やっと認められた気がした。

 廊下に、またざわめきが戻ってくる。
 部活へ向かう一年たちが、ちらちらとこっちを見て通り過ぎていった。

「そろそろ行こうか。準備室」

「はい」

 二人で並んで歩き出す。
 ほんの少しだけ、肩が触れた。

 今までと同じ木曜。
 でもきっと、もう同じじゃない。

 そんな予感が、ちゃんと言葉になった「好き」と一緒に、静かに胸の中に座った。