木曜の終わりのチャイムが鳴った瞬間、俺は席を立った。
「成瀬、今日プリントどうする?」
「ごめん、今日は先に用事済ませたいからさ。あとでやる分、手伝うよ」
前みたいに、反射で「いいよ」と言いそうになる口を、ぐっと押さえ込む。
教室を出て、職員室で図書準備室の鍵を受け取る。そのまま二年のフロアを抜けて、階段を降りて――一年の廊下の前で、足が止まった。
このまま準備室で待っていても、きっとまた「来ないかな」「来ないかも」で、同じことの繰り返しだ。
だったら。
こっちから行くしかない。
心臓が、どくどくとうるさい。
鍵を持つ手に汗がにじむのを感じながら、一年三組のプレートがかかったドアの前に立った。
中からは、いつもの放課後のざわめき。
笑い声と、椅子を引く音と、プリントの擦れる音。
「……よし」
小さく息を吸って、ドアを開けた。
ガラッ。
一年の教室の空気が、一瞬だけ静まる。
何人かが「誰?」という顔でこっちを見た。前の方の女子が、ひそひそと何かを言っているのが聞こえる。
視線が一斉に刺さってきて、思った以上に緊張した。
でも、探すべき人はひとりだけだ。
「白石」
名前を呼ぶと、窓際の列で立っていた黒髪が、ぴくりと動いた。
机の上にはプリントの束。
クラスメイトに囲まれて、何かを仕分けていたらしい白石が、驚いた顔で振り返る。
「先輩…?」
ざわ、と教室の空気が揺れた。
「え、白石の先輩?」
「図書委員のとこの先輩じゃね?」
「なんかカッコよくない?」
女子の小声が耳に入ってきて、余計に顔が熱くなる。
でも、ここでビビって帰ったら、本当に何も変わらない。
「ごめん、白石ちょっと借りてもいい?」
できるだけ自然に、周りの一年たちに向かってそう言う。
自分で言っておいてアレだけど、完全に「先輩ムーブ」だ。
「ど、どうぞどうぞ」
「白石、行ってこいよ」
クラスメイトが冗談まじりに背中を押す。
白石はプリントを机に置いて、少し戸惑いながらも、こっちへ歩いてきた。
距離が近づくと、ちょっとだけ上を見上げてくる視線が合う。
「……行ってきます」
周りに向けてそう言ってから、俺の方に向き直る。
いつもより、少しだけ表情が固い。
「廊下、いい?」
「はい」
二人で教室を出ると、さっきまでのざわめきが背中の向こうに遠ざかっていく。
静かになった廊下で、やっと、ちゃんと息ができた気がした。
◇
少し歩いて、人通りの少ない掲示板の前で立ち止まる。
何から言えばいいか、頭の中で何度もシミュレーションしてきたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、全部どこかへ飛んでいく。
「先輩」
先に口を開いたのは、白石だった。
「図書準備室、今日も行くんですよね」
「あ、うん。行くつもり」
「じゃあ、僕――」
「白石」
言葉を被せるみたいに、呼び止めてしまった。
彼の目が、少しだけ見開かれる。
「この前は、ごめん」
「この前、って」
「文化祭実行委員の手伝いで遅れたときも。ちゃんと連絡しなかったことも。謝り方、中途半端だったなって」
金曜の廊下で、「怒ってるんだろうな」と勝手に決めつけて、そこで止めてしまった自分を思い出す。
あのとき、本当はもっと言うべきことがあった。
「前のことなら、もう――」
「ごめん、だけじゃなくてさ」
白石の言葉を、今度は俺が遮る。
彼が驚いたように瞬きをした。
「ありがとうも、ちゃんと言えてなかったから」
「……え?」
「最初、手伝ってくれてたの、正直すごい助かってたんだ。仕事の量も減ったし、早く帰れるし。楽になったなーって」
そこまで言って、一度息をつく。
ここから先が、本題だ。
「でもさ」
白石の視線が、まっすぐこっちに向くのを感じる。
「途中から、それだけじゃなくなってた」
木曜のスケジュール帳。
自販機の前でのミルクティー。
空いた椅子と、机の上に転がったキャップ。
ばらばらの場面が、頭の中で自然につながる。
「白石と一緒に作業するの、普通に楽しかったし。くだらない話するのも、ミルクティー飲むのも、なんか安心するっていうか」
言葉にしながら、自分でも「ああ、俺ほんとにこう思ってたんだ」と確認していく。
「だから、白石が来なくなって、空いた椅子見るたびに、変に気になって。自分で自分にツッコんでた」
「……」
「便利だからとか、楽だからとかじゃなくて」
喉が少しだけ詰まる。
でも、引き返したくはない。
「白石と一緒にいる時間が、好きだったんだって、やっと気づいた」
言い終わると、廊下の時計のカチカチという音だけが耳に残った。
白石は、俯いたまま黙っている。
制服の袖のところに、ぎゅっと力が入っているのが分かった。
沈黙が長く感じて、俺の方が不安になってきたころ、彼がぽつりと口を開く。
「……先輩」
「うん」
「それって、誰にでも言うんですか」
「え?」
思いもよらない返しだった。
「誰にでも優しくするし、誰に頼まれても断れないし」
白石は、ゆっくり顔を上げる。
目が、少しだけ鋭くなっている。
「そういうの、僕、好きじゃないです」
きっぱりした言葉。
責められているというより、長いこと胸の中にあったものを、やっと外に出した、みたいな重さがあった。
「いや、別に、誰にでもこんなこと言ってるわけじゃ――」
「でも、頼まれたら、断らないですよね」
ぐさ、と刺された気分だ。
図書準備室のことだって、本当は「図書の仕事があるから」と断ることもできたはずだ。
でも俺は、三年の先輩の頼みを優先した。
「先輩が誰にでも優しくしてるの、最初、見ててイライラしました」
「……イライラ?」
意外すぎる正直さに、思わず聞き返す。
「誰にでも笑ってて。誰にでも『いいよ』って言って」
白石は、廊下の向こうを見ながら続けた。
「けど、ひとりでモップ掛けしてるときとか、準備室の鍵取りに行くときとかは、あんまり楽しそうな顔じゃなかったから」
「え」
「それ見て、ああ、この人たぶん、自分のことは後回しなんだなって思って」
どきっとした。
そこまで見られていたことにも驚いたし、「自分のこと後回し」という言葉が、やけに図星だったからだ。
「……なんで、そんなとこまで見てたの」
「図書室から、よく見えるので」
あっさり言われると、なんか余計に恥ずかしい。
自販機の前。
モップ掛け。
準備室の鍵。
全部、図書室の窓から見えていたのか。
「最初は、ただ昔の自分を見てるみたいで、腹が立っただけです」
白石は、少しだけ目を伏せた。
「中学のとき、クラスでいろいろ頼まれて。ノート貸したり、プリントまとめたり、係の仕事押しつけられたり」
「……うん」
「断らないでいるうちに、便利なやつ、みたいになって」
静かな声。
そこだけ、少し温度が低くなる。
「都合悪くなったら、別の子のところに行かれて。僕のことは、『あいつ真面目だから』って、その一言で終わりでした」
胸が、ぎゅっとなった。
白石が、さらっと言っていることが、全然「さらっと」で済む話じゃないのが分かるから。
「それから、誰にでも優しくする人とか、誰にでも笑ってる人とか、あんまり信じられなくなって」
「……」
「だから、先輩見たときも、最初はそういう目でしか見られませんでした」
そう言って、彼は苦笑した。
自分で自分を責めているみたいな、小さな笑い方だった。
「なのに、なんで準備室に来てくれてたの」
気づいたら聞いていた。
「嫌なら、関わらなきゃよかったのに」
「……放課後、誰もいない廊下で、先輩がひとりで準備室入ってくの見て」
白石は、視線を俺に戻す。
「鍵閉めて中に入る前の顔が、少しだけ、しんどそうだったから」
「え」
「それ見たときに、昔の自分ばっかり思い出して、決定的に腹が立ちました」
やっぱり腹が立ってたのか。
妙にそこで納得しそうになったけれど、続きがあった。
「同時に」
白石は、少しだけ目を細める。
「放っておけないな、とも思って」
息を呑む音が、自分でもはっきり聞こえた。
「先輩が、自分のこと後回しにして、いろんな頼み事ばっかり聞いてるの、見てると、なんか気持ち悪くて」
「気持ち悪いって」
「悪い意味じゃなくて」
慌てて首を振る。
「昔の自分見てるみたいで、胸がぞわぞわするっていうか」
「……」
「だから先輩には、僕の前でくらい、自分のこと優先してほしいんです」
静かな声なのに、その一言だけ妙に強かった。
「僕の前にいるときくらいは、誰かの頼みより、自分の『こうしたい』を選んでほしい」
目が、まっすぐこっちを射抜いてくる。
逃げ場がなくて、でも嫌な感じじゃない。
「……ハードル高いな」
思わず冗談っぽく言ってしまう。
でも白石は、真剣な顔のままだ。
「先輩が誰かに頼まれても、『今は無理です』って断って」
言葉を一つずつ確かめるみたいに、続ける。
「僕との時間を選んでくれたら」
そこで、少しだけ間があいた。
「たぶん僕、めちゃくちゃ嬉しいです」
直球だった。
嬉しい、の前に「多分」をつけているくせに、声は全然曖昧じゃない。
廊下の向こうから、部活に向かう生徒たちの足音が近づいてくる。
人通りが増えてきて、自然と俺たちは窓際の階段のところまで移動した。
踊り場の窓から、薄い夕焼けが見える。
階段に腰かけるほどの時間はなさそうで、俺たちは手すりの横に立ったまま、向かい合った。
「白石」
「はい」
「さっきの、今のも含めてさ」
「はい」
「それって、つまり――」
告白、みたいな、そういう。
言いかけた俺の言葉を、白石が先に拾った。
「先輩の隣が」
彼は、一度だけ深く息を吸ってから、続ける。
「僕の一番、落ち着く場所です」
あの言葉だ。
図書準備室で聞いた、「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なんです」。
あのときよりも、はっきりした声で。
「他の誰でもなく、成瀬先輩がいい」
名前を、まっすぐ呼ばれる。
「……」
「その意味、分かってほしいです」
視線が、逃がしてくれない。
ようやく、その言葉の全部を、真正面から受け止めた気がした。
これは、たぶん、ただの「ありがとう」とか「助かる」とか、そういうのとは違う。
胸の奥が熱くなって、今までの木曜の全部が一気に頭の中を駆け回る。
準備室の狭さも。
ミルクティーの甘さも。
空いた椅子の心細さも。
そのどれにも、白石の姿がくっついている。
「……俺さ」
「はい」
「白石といると、楽なんだ」
声が少し震えているのが分かる。
でも、止まってほしくなかった。
「手伝ってもらって楽って意味だけじゃなくて」
言葉を探す。
「一緒に作業してるときとか、くだらない話してるときとか。なんか、変に頑張らなくていい感じがして」
先生の前とか、クラスメイトの前とか。
「ちゃんとしなきゃ」って思って、勝手に疲れていたのかもしれない。
「白石といた時間、思い出すとさ」
「はい」
「安心する、って言葉が一番近い」
白石の目が、少しだけ丸くなる。
「他の誰じゃなくて、白石にそう思われてるの、正直、嬉しいし」
ここまで言って、頬が一気に熱くなった。
自分で自分に、「何言ってんだ俺」とツッコミを入れたくなるけれど、もう遅い。
白石はしばらく黙っていたけれど、次の瞬間、表情が大きく崩れた。
「……よかった」
肩の力が抜けたみたいに、ほっとした笑い方だった。
今まで見たどの表情よりも、大きな笑顔。
噂で聞いていた「イケメン一年」の整った顔が、その瞬間だけ、急に年相応の男子高校生に見えた。
「先輩、そう言ってくれなかったら、たぶん僕、図書室にこもったまま一生出てこれなかったです」
「それは困る」
「困りますか」
「困る。木曜の準備室、どうすんの」
自然と、そんな言葉が出た。
「来週からの木曜もさ、ちゃんと一緒に図書準備室、来てくれる?」
白石のまぶたが、ふるっと震える。
「それ」
少し間をあけてから、確認するみたいに言う。
「先輩の方から、僕を選んでくれたってことで、いいんですか」
「……うん」
今度は迷わなかった。
「先生にも、先輩にも、友だちにも頼まれるだろうけど」
たぶんこれからも、俺の「断れない」癖はすぐには治らない。
「木曜の放課後は、白石と準備室にいる予定、ちゃんと入れたい」
スケジュール帳の木曜の欄。
「図書準備室」の横に、途中で止まった「白」の字。
あれを最後まで書けるようにしたい。
「白石と一緒の方が、俺、好きだし」
言ってから、顔から火が出そうになった。
でも、白石はうれしそうに目を細めただけで、変にからかったりはしなかった。
「……分かりました」
小さく笑って、うなずく。
「じゃあ来週からも、ちゃんと行きます」
「ほんとに?」
「はい。何回でも言いますけど」
少しだけ照れくさそうに、それでもはっきりと。
「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なので」
その言葉に、俺の胸のざわざわは、ゆっくりと形を変えていく。
不安とか、嫉妬とか、よく分からない焦りとか。
それら全部の真ん中に、「好き」という言葉があるのだと、やっと認められた気がした。
廊下に、またざわめきが戻ってくる。
部活へ向かう一年たちが、ちらちらとこっちを見て通り過ぎていった。
「そろそろ行こうか。準備室」
「はい」
二人で並んで歩き出す。
ほんの少しだけ、肩が触れた。
今までと同じ木曜。
でもきっと、もう同じじゃない。
そんな予感が、ちゃんと言葉になった「好き」と一緒に、静かに胸の中に座った。
「成瀬、今日プリントどうする?」
「ごめん、今日は先に用事済ませたいからさ。あとでやる分、手伝うよ」
前みたいに、反射で「いいよ」と言いそうになる口を、ぐっと押さえ込む。
教室を出て、職員室で図書準備室の鍵を受け取る。そのまま二年のフロアを抜けて、階段を降りて――一年の廊下の前で、足が止まった。
このまま準備室で待っていても、きっとまた「来ないかな」「来ないかも」で、同じことの繰り返しだ。
だったら。
こっちから行くしかない。
心臓が、どくどくとうるさい。
鍵を持つ手に汗がにじむのを感じながら、一年三組のプレートがかかったドアの前に立った。
中からは、いつもの放課後のざわめき。
笑い声と、椅子を引く音と、プリントの擦れる音。
「……よし」
小さく息を吸って、ドアを開けた。
ガラッ。
一年の教室の空気が、一瞬だけ静まる。
何人かが「誰?」という顔でこっちを見た。前の方の女子が、ひそひそと何かを言っているのが聞こえる。
視線が一斉に刺さってきて、思った以上に緊張した。
でも、探すべき人はひとりだけだ。
「白石」
名前を呼ぶと、窓際の列で立っていた黒髪が、ぴくりと動いた。
机の上にはプリントの束。
クラスメイトに囲まれて、何かを仕分けていたらしい白石が、驚いた顔で振り返る。
「先輩…?」
ざわ、と教室の空気が揺れた。
「え、白石の先輩?」
「図書委員のとこの先輩じゃね?」
「なんかカッコよくない?」
女子の小声が耳に入ってきて、余計に顔が熱くなる。
でも、ここでビビって帰ったら、本当に何も変わらない。
「ごめん、白石ちょっと借りてもいい?」
できるだけ自然に、周りの一年たちに向かってそう言う。
自分で言っておいてアレだけど、完全に「先輩ムーブ」だ。
「ど、どうぞどうぞ」
「白石、行ってこいよ」
クラスメイトが冗談まじりに背中を押す。
白石はプリントを机に置いて、少し戸惑いながらも、こっちへ歩いてきた。
距離が近づくと、ちょっとだけ上を見上げてくる視線が合う。
「……行ってきます」
周りに向けてそう言ってから、俺の方に向き直る。
いつもより、少しだけ表情が固い。
「廊下、いい?」
「はい」
二人で教室を出ると、さっきまでのざわめきが背中の向こうに遠ざかっていく。
静かになった廊下で、やっと、ちゃんと息ができた気がした。
◇
少し歩いて、人通りの少ない掲示板の前で立ち止まる。
何から言えばいいか、頭の中で何度もシミュレーションしてきたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、全部どこかへ飛んでいく。
「先輩」
先に口を開いたのは、白石だった。
「図書準備室、今日も行くんですよね」
「あ、うん。行くつもり」
「じゃあ、僕――」
「白石」
言葉を被せるみたいに、呼び止めてしまった。
彼の目が、少しだけ見開かれる。
「この前は、ごめん」
「この前、って」
「文化祭実行委員の手伝いで遅れたときも。ちゃんと連絡しなかったことも。謝り方、中途半端だったなって」
金曜の廊下で、「怒ってるんだろうな」と勝手に決めつけて、そこで止めてしまった自分を思い出す。
あのとき、本当はもっと言うべきことがあった。
「前のことなら、もう――」
「ごめん、だけじゃなくてさ」
白石の言葉を、今度は俺が遮る。
彼が驚いたように瞬きをした。
「ありがとうも、ちゃんと言えてなかったから」
「……え?」
「最初、手伝ってくれてたの、正直すごい助かってたんだ。仕事の量も減ったし、早く帰れるし。楽になったなーって」
そこまで言って、一度息をつく。
ここから先が、本題だ。
「でもさ」
白石の視線が、まっすぐこっちに向くのを感じる。
「途中から、それだけじゃなくなってた」
木曜のスケジュール帳。
自販機の前でのミルクティー。
空いた椅子と、机の上に転がったキャップ。
ばらばらの場面が、頭の中で自然につながる。
「白石と一緒に作業するの、普通に楽しかったし。くだらない話するのも、ミルクティー飲むのも、なんか安心するっていうか」
言葉にしながら、自分でも「ああ、俺ほんとにこう思ってたんだ」と確認していく。
「だから、白石が来なくなって、空いた椅子見るたびに、変に気になって。自分で自分にツッコんでた」
「……」
「便利だからとか、楽だからとかじゃなくて」
喉が少しだけ詰まる。
でも、引き返したくはない。
「白石と一緒にいる時間が、好きだったんだって、やっと気づいた」
言い終わると、廊下の時計のカチカチという音だけが耳に残った。
白石は、俯いたまま黙っている。
制服の袖のところに、ぎゅっと力が入っているのが分かった。
沈黙が長く感じて、俺の方が不安になってきたころ、彼がぽつりと口を開く。
「……先輩」
「うん」
「それって、誰にでも言うんですか」
「え?」
思いもよらない返しだった。
「誰にでも優しくするし、誰に頼まれても断れないし」
白石は、ゆっくり顔を上げる。
目が、少しだけ鋭くなっている。
「そういうの、僕、好きじゃないです」
きっぱりした言葉。
責められているというより、長いこと胸の中にあったものを、やっと外に出した、みたいな重さがあった。
「いや、別に、誰にでもこんなこと言ってるわけじゃ――」
「でも、頼まれたら、断らないですよね」
ぐさ、と刺された気分だ。
図書準備室のことだって、本当は「図書の仕事があるから」と断ることもできたはずだ。
でも俺は、三年の先輩の頼みを優先した。
「先輩が誰にでも優しくしてるの、最初、見ててイライラしました」
「……イライラ?」
意外すぎる正直さに、思わず聞き返す。
「誰にでも笑ってて。誰にでも『いいよ』って言って」
白石は、廊下の向こうを見ながら続けた。
「けど、ひとりでモップ掛けしてるときとか、準備室の鍵取りに行くときとかは、あんまり楽しそうな顔じゃなかったから」
「え」
「それ見て、ああ、この人たぶん、自分のことは後回しなんだなって思って」
どきっとした。
そこまで見られていたことにも驚いたし、「自分のこと後回し」という言葉が、やけに図星だったからだ。
「……なんで、そんなとこまで見てたの」
「図書室から、よく見えるので」
あっさり言われると、なんか余計に恥ずかしい。
自販機の前。
モップ掛け。
準備室の鍵。
全部、図書室の窓から見えていたのか。
「最初は、ただ昔の自分を見てるみたいで、腹が立っただけです」
白石は、少しだけ目を伏せた。
「中学のとき、クラスでいろいろ頼まれて。ノート貸したり、プリントまとめたり、係の仕事押しつけられたり」
「……うん」
「断らないでいるうちに、便利なやつ、みたいになって」
静かな声。
そこだけ、少し温度が低くなる。
「都合悪くなったら、別の子のところに行かれて。僕のことは、『あいつ真面目だから』って、その一言で終わりでした」
胸が、ぎゅっとなった。
白石が、さらっと言っていることが、全然「さらっと」で済む話じゃないのが分かるから。
「それから、誰にでも優しくする人とか、誰にでも笑ってる人とか、あんまり信じられなくなって」
「……」
「だから、先輩見たときも、最初はそういう目でしか見られませんでした」
そう言って、彼は苦笑した。
自分で自分を責めているみたいな、小さな笑い方だった。
「なのに、なんで準備室に来てくれてたの」
気づいたら聞いていた。
「嫌なら、関わらなきゃよかったのに」
「……放課後、誰もいない廊下で、先輩がひとりで準備室入ってくの見て」
白石は、視線を俺に戻す。
「鍵閉めて中に入る前の顔が、少しだけ、しんどそうだったから」
「え」
「それ見たときに、昔の自分ばっかり思い出して、決定的に腹が立ちました」
やっぱり腹が立ってたのか。
妙にそこで納得しそうになったけれど、続きがあった。
「同時に」
白石は、少しだけ目を細める。
「放っておけないな、とも思って」
息を呑む音が、自分でもはっきり聞こえた。
「先輩が、自分のこと後回しにして、いろんな頼み事ばっかり聞いてるの、見てると、なんか気持ち悪くて」
「気持ち悪いって」
「悪い意味じゃなくて」
慌てて首を振る。
「昔の自分見てるみたいで、胸がぞわぞわするっていうか」
「……」
「だから先輩には、僕の前でくらい、自分のこと優先してほしいんです」
静かな声なのに、その一言だけ妙に強かった。
「僕の前にいるときくらいは、誰かの頼みより、自分の『こうしたい』を選んでほしい」
目が、まっすぐこっちを射抜いてくる。
逃げ場がなくて、でも嫌な感じじゃない。
「……ハードル高いな」
思わず冗談っぽく言ってしまう。
でも白石は、真剣な顔のままだ。
「先輩が誰かに頼まれても、『今は無理です』って断って」
言葉を一つずつ確かめるみたいに、続ける。
「僕との時間を選んでくれたら」
そこで、少しだけ間があいた。
「たぶん僕、めちゃくちゃ嬉しいです」
直球だった。
嬉しい、の前に「多分」をつけているくせに、声は全然曖昧じゃない。
廊下の向こうから、部活に向かう生徒たちの足音が近づいてくる。
人通りが増えてきて、自然と俺たちは窓際の階段のところまで移動した。
踊り場の窓から、薄い夕焼けが見える。
階段に腰かけるほどの時間はなさそうで、俺たちは手すりの横に立ったまま、向かい合った。
「白石」
「はい」
「さっきの、今のも含めてさ」
「はい」
「それって、つまり――」
告白、みたいな、そういう。
言いかけた俺の言葉を、白石が先に拾った。
「先輩の隣が」
彼は、一度だけ深く息を吸ってから、続ける。
「僕の一番、落ち着く場所です」
あの言葉だ。
図書準備室で聞いた、「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なんです」。
あのときよりも、はっきりした声で。
「他の誰でもなく、成瀬先輩がいい」
名前を、まっすぐ呼ばれる。
「……」
「その意味、分かってほしいです」
視線が、逃がしてくれない。
ようやく、その言葉の全部を、真正面から受け止めた気がした。
これは、たぶん、ただの「ありがとう」とか「助かる」とか、そういうのとは違う。
胸の奥が熱くなって、今までの木曜の全部が一気に頭の中を駆け回る。
準備室の狭さも。
ミルクティーの甘さも。
空いた椅子の心細さも。
そのどれにも、白石の姿がくっついている。
「……俺さ」
「はい」
「白石といると、楽なんだ」
声が少し震えているのが分かる。
でも、止まってほしくなかった。
「手伝ってもらって楽って意味だけじゃなくて」
言葉を探す。
「一緒に作業してるときとか、くだらない話してるときとか。なんか、変に頑張らなくていい感じがして」
先生の前とか、クラスメイトの前とか。
「ちゃんとしなきゃ」って思って、勝手に疲れていたのかもしれない。
「白石といた時間、思い出すとさ」
「はい」
「安心する、って言葉が一番近い」
白石の目が、少しだけ丸くなる。
「他の誰じゃなくて、白石にそう思われてるの、正直、嬉しいし」
ここまで言って、頬が一気に熱くなった。
自分で自分に、「何言ってんだ俺」とツッコミを入れたくなるけれど、もう遅い。
白石はしばらく黙っていたけれど、次の瞬間、表情が大きく崩れた。
「……よかった」
肩の力が抜けたみたいに、ほっとした笑い方だった。
今まで見たどの表情よりも、大きな笑顔。
噂で聞いていた「イケメン一年」の整った顔が、その瞬間だけ、急に年相応の男子高校生に見えた。
「先輩、そう言ってくれなかったら、たぶん僕、図書室にこもったまま一生出てこれなかったです」
「それは困る」
「困りますか」
「困る。木曜の準備室、どうすんの」
自然と、そんな言葉が出た。
「来週からの木曜もさ、ちゃんと一緒に図書準備室、来てくれる?」
白石のまぶたが、ふるっと震える。
「それ」
少し間をあけてから、確認するみたいに言う。
「先輩の方から、僕を選んでくれたってことで、いいんですか」
「……うん」
今度は迷わなかった。
「先生にも、先輩にも、友だちにも頼まれるだろうけど」
たぶんこれからも、俺の「断れない」癖はすぐには治らない。
「木曜の放課後は、白石と準備室にいる予定、ちゃんと入れたい」
スケジュール帳の木曜の欄。
「図書準備室」の横に、途中で止まった「白」の字。
あれを最後まで書けるようにしたい。
「白石と一緒の方が、俺、好きだし」
言ってから、顔から火が出そうになった。
でも、白石はうれしそうに目を細めただけで、変にからかったりはしなかった。
「……分かりました」
小さく笑って、うなずく。
「じゃあ来週からも、ちゃんと行きます」
「ほんとに?」
「はい。何回でも言いますけど」
少しだけ照れくさそうに、それでもはっきりと。
「先輩の隣が、僕の一番落ち着く場所なので」
その言葉に、俺の胸のざわざわは、ゆっくりと形を変えていく。
不安とか、嫉妬とか、よく分からない焦りとか。
それら全部の真ん中に、「好き」という言葉があるのだと、やっと認められた気がした。
廊下に、またざわめきが戻ってくる。
部活へ向かう一年たちが、ちらちらとこっちを見て通り過ぎていった。
「そろそろ行こうか。準備室」
「はい」
二人で並んで歩き出す。
ほんの少しだけ、肩が触れた。
今までと同じ木曜。
でもきっと、もう同じじゃない。
そんな予感が、ちゃんと言葉になった「好き」と一緒に、静かに胸の中に座った。



