次の木曜、俺はわざと、いつもより早く教室を出た。
「成瀬、今日プリントの仕分けどうする?」
「ごめん、今日は図書の仕事先に片づけたいからさ。あとで手伝うよ」
珍しく、最初に断った。
クラスメイトが「お、おう」と目を丸くするのを横目に、職員室で鍵を借りて、そのまま図書準備室へ向かう。
まだチャイムが鳴ってから五分も経っていない。
これで、もし来てくれるなら、時間通りに会えるはずだ。
「……いや、別に、会う約束してるわけじゃないけど」
心の中で慌てて言い訳をつけ足しながら、小さなドアの前で一度深呼吸する。
ノブを回す手に、ほんの少しだけ力が入った。
ガラリ。
電気をつける。
白い蛍光灯の光が狭い部屋を照らすけれど、誰の気配もしなかった。
机の上には、今日届いたらしい段ボールの山。
ラベル用のシールとスタンプ。
椅子は二つとも、きちんと机の中に収まっている。
「……そりゃまあ、いないよな」
分かっていたくせに、胸の中がすうっと冷たくなった。
鍵を閉めて、椅子を一つ引く。
ギイ、と音がして、その音がやけに大きく感じられた。
ラベルを広げて、本を積む。
作業の流れは、もう体に染みついている。
段ボールを開けて、ガムテープを剥がして、背表紙を確認して――。
いつもなら、向かいの席からもガムテープの音が聞こえてくる。
「こっち、開けますね」とか、「このシリーズ、人気ですよね」とか、落ち着いた声が合間に入り込んでくる。
今日は、紙のこすれる音と、俺のため息しかない。
沈黙って、こんなに重かったっけ。
「集中、集中」
自分に言い聞かせるみたいに小さくつぶやいて、本棚の番号を確認する。
黙々とラベルを貼っていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
前は、この静けさが好きだった。
誰にも邪魔されずに、やるべきことだけを片づける時間。
今は、その静けさの中に「いないこと」が混ざっている。
それを意識するたび、背中のあたりが妙に落ち着かなくなった。
◇
作業を全部終えたころには、外はすっかり夕方になっていた。
鍵を返しに行く前に、自販機の前で立ち止まる。
図書室の横の廊下にある、見慣れた自販機。
いつもなら、準備室で白石が無言でミルクティーを渡してくれて、そのあとで「そういえば自販機で買ってきたんだな」と思い出すくらいだった。
今日は、俺が自分でボタンを押す番だ。
「……ミルクティー、っと」
小銭を入れて、いつものボタンを押す。
ごとん、と落ちる音がして、取り出し口から、薄いベージュのラベルが顔を出した。
キャップをひねりながら、ふと、思う。
「そういえば、最初にここで飲み物もらったとき」
なんで、俺の好み、知ってたんだろう。
ミルクティーなんて、どこにでもある。
でも、「微糖」のやつは、種類が限られている。
「この前もそれ飲んでましたよね」
白石は、そう言っていた。
記憶を辿る。
テスト前の放課後。眠気覚ましに自販機まで来て、なんとなく同じボタンを押した日。
図書室の窓は、この自販機のあたりまで見える。
俺が同じ飲み物を何回も買っていたのを、もしかして、ずっと見ていたのかもしれない。
「……いやいや」
自分で自分にツッコむ。
「そんな、たまたま見ただけだろ」
そう言いながらも、胸の中に小さな違和感が残った。
たまたまにしては、いろいろ出来過ぎている気がする。
俺が断れない性格だって知っていて。
放課後、いつも準備室にひとりでいることも知っていて。
ミルクティーまで、ぴったり当ててきて。
「……けっこう前から、見られてた?」
ぽつりと漏れた言葉を、自分で聞いて、自分で顔が熱くなる。
「いやいやないないない」
誰もいない廊下で、ひとりで頭を振る。
中高生男子の妄想は、ほどほどにしておくのが身のためだ。
ミルクティーを一口飲んで、甘さに紛らせるようにして、その日は帰った。
◇
それから何日かが過ぎて、雨の日の昼休み。
グラウンドには誰もいなくて、ガラス窓に小さな雨粒がびっしりついていた。
廊下もいつもより静かで、どの教室からも昼ごはんの話し声が漏れている。
俺は図書室に行って、借りていた文庫本をカウンターに返した。
「ありがとうございました」
司書の先生に頭を下げてから、何気なく閲覧スペースの方を見回す。
窓際の席で、本を読んでいる後ろ姿があった。
黒髪。制服の背中。見慣れた肩のライン。
「……白石」
口の中で名前を転がしてから、ゆっくり近づく。
心臓の音が、自分にだけ聞こえるくらい大きくなっていく。
途中で引き返そうかとも思ったけれど、ここで何も言わなかったら、きっとあとで後悔する。
机の隣まで来て、声をかける。
「白石」
白石は、本から目を離さずに、少しだけ顔を上げた。
「先輩」
相変わらず落ち着いた声。
でも、前より少しだけ壁があるように感じるのは、俺の気のせいじゃないだろう。
「最近、準備室来てないね」
ストレートに言ってから、自分で「あ、言っちゃった」と思う。
白石はページの上に視線を落としたまま、少しだけ指を止めた。
「……忙しくて」
「忙しい?」
「はい」
淡々とした返事。
それ以上は説明しようとしない。
嘘だな、と直感で分かった。
忙しいって言うなら、今みたいに図書室で本を読んでいる時間はないだろうし。
そもそも、あいつは忙しくても準備室に来るやつだ。
…でも、だからって、「嘘だろ」と責められるほど、俺は強くない。
「そっか」
短く返す。
このまま「じゃあまた」と言って背を向ければ、何事もなかったみたいに日常に戻れる。
でも、その日常は、もう少し前の「いつもの木曜」とは違う。
足が、止まった。
図書室の静けさの中で、自分の心臓の音がやけにうるさく感じる。
背中を向けかけて、振り返った。
「……俺」
「はい」
白石の指が、ページの上でぴたりと止まる。
「白石と一緒だと、作業するの、楽しかったよ」
言った瞬間、自分でびっくりした。
もっと当たり障りのない言葉を選ぶつもりだった。
「助かってた」とか、「早く終わってよかった」とか。
口から出たのは、完全に俺の本音だった。
白石は、本から目を離さない。
でも、指先だけがわずかに震えた。
「……そうですか」
小さな声。
それ以上は何も続かなかった。
俺も、怖くて、白石の顔を見られなかった。
もし、期待するような表情をしていたら。
もし、逆に、何も変わらない無表情だったら。
どっちにしても、たぶん今の俺には、受け止めきれない。
「じゃ、また」
短く言って、図書室を出る。
背中に刺さる視線を、勝手に想像しながら。
あとで思い出すと、その時間だけ、図書室の空気が少しだけ違っていた気がした。
ページをめくる音が止まっていたとか。
窓を叩く雨の音が、やけに大きく聞こえたとか。
でもあのときの俺は、ただ、自分の言葉を急いで過去形にしたかっただけだ。
◇
放課後。
どうしても気になって、一年のフロアまで足を運んだ。
白石のクラスの前。
ドアの窓からそっと中をのぞくと、教室の中はまだにぎやかだった。
「白石、これ頼んでいい?」
「教室掲示のやつ、まとめといてくれない?」
「プリント、クラス分数えといて」
何人もの同級生が、白石の机のまわりに集まっていた。
その真ん中で、白石はプリントの束を持って、淡々と仕分けをしている。
眉をひそめるでもなく、笑うでもなく。
「白石って、頼りにされてるんだな」
思わず、口の中でそうつぶやいた。
先生や先輩に頼まれて、断れなくて、気づけば仕事を抱えこんでいるのは、自分だけだと思っていた。
でも、教室の中の光景は、少し前の俺を見ているみたいだった。
プリントの山と、笑いながらお願いしてくるクラスメイト。
「助かる」と言われると、断れないところも。
白石も、同じなのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がちくっとした。
「…なんだよ、これ」
自分の感情が、自分でもよく分からない。
ただ、「頼られてるんだな」と思うのと同時に、「俺以外のお願いも、全部聞いてるんだ」と思ってしまった。
それが嫌だとか、ずるいとか、そういう言葉にする前の感情。
胸のどこかが、ぎゅっとつかまれる感じだけが残る。
教室に入って、「俺も手伝うよ」と言えばいい。
「さっき図書室で話しかけたの、俺だよ」と、何気なく笑えばいい。
頭では分かっているのに、足が動かない。
ドアから少し離れた廊下の角に、立ち尽くしたままになった。
誰かが廊下を走り抜けていく音。
遠くから聞こえる部活の掛け声。
白石の声は、聞こえなかった。
でも、時々、視線が入り口の方へ向くのが見えた。
「あ」
目が合いそうになって、あわてて角に隠れる。
自分でも情けないと思う。
でも、今ここで顔を合わせたら、うまく笑える自信がない。
「さっき、先輩……」
教室の中から、かすかにそんな声が聞こえた気がしたけれど、結局、その先の言葉は分からなかった。
◇
家に帰って、机の引き出しからスケジュール帳を出す。
小さいマンスリーのページには、テストや提出物の締め切りがびっしり書き込まれている。
その隣のウィークリーの欄。
木曜のところに、何週も続けて、同じ言葉が並んでいた。
「図書準備室」「図書準備室」「図書準備室」
「……」
ペンを握ったまま、その文字列をじっと見つめる。
最初は、ただの仕事だった。
図書委員の義務。やらなきゃいけないから、やっているだけ。
でも、いつからか、「図書準備室」という文字を見ると、その横に、黒髪の一年の顔が浮かぶようになった。
机の向かい側。
軍手をはめた手。
ミルクティーを差し出す指。
ページの端に、無意識にペン先が動いた。
「白…」
「図書準備室」の横に、「白石」と書きかける。
そこで、はっと我に返った。
「なにやってんだ、俺」
慌ててペンを離す。
中途半端な「白」の字だけが残って、余白にぽつんと浮かんだ。
俺は、仕事の手伝いが欲しかっただけなんじゃないのか。
ひとりで作業するのが大変だから、誰かと一緒にいる方が楽だっただけなんじゃないのか。
そう自分に言い聞かせようとしても、スケジュール帳の「図書準備室」の文字は、「白石」とセットでしか頭の中に浮かんでこなかった。
ミルクティーの甘さとか。
ラベルを貼る手つきとか。
「先輩」と呼ぶ声とか。
全部ひっくるめて、「木曜の放課後」になっていた。
「……」
ため息をひとつついて、スケジュール帳を閉じる。
机の上に置いたまま、天井を見上げた。
仕事の時間が欲しかったんじゃない。
あの狭い準備室で、白石と二人で過ごす時間が、いつの間にか当たり前になっていたんだ。
それがなくなった途端、こんなに落ち着かなくなるくらいには。
「来週の木曜こそ」
誰もいない部屋で、声に出してみる。
「ちゃんと話さなきゃ」
逃げるのをやめよう。
忙しいとか、忙しくないとか。
嘘だとか、本当だとか。
そういうことじゃなくて。
俺が、木曜の放課後に誰といたいのか。
何をしていたいのか。
それくらいは、自分の言葉で伝えたい。
スケジュール帳の木曜の欄を、もう一度開く。
「図書準備室」の横の中途半端な「白」を見て、苦笑いした。
来週こそ、ちゃんと最後まで書けるように。
そのための木曜に、しようと思った。
「成瀬、今日プリントの仕分けどうする?」
「ごめん、今日は図書の仕事先に片づけたいからさ。あとで手伝うよ」
珍しく、最初に断った。
クラスメイトが「お、おう」と目を丸くするのを横目に、職員室で鍵を借りて、そのまま図書準備室へ向かう。
まだチャイムが鳴ってから五分も経っていない。
これで、もし来てくれるなら、時間通りに会えるはずだ。
「……いや、別に、会う約束してるわけじゃないけど」
心の中で慌てて言い訳をつけ足しながら、小さなドアの前で一度深呼吸する。
ノブを回す手に、ほんの少しだけ力が入った。
ガラリ。
電気をつける。
白い蛍光灯の光が狭い部屋を照らすけれど、誰の気配もしなかった。
机の上には、今日届いたらしい段ボールの山。
ラベル用のシールとスタンプ。
椅子は二つとも、きちんと机の中に収まっている。
「……そりゃまあ、いないよな」
分かっていたくせに、胸の中がすうっと冷たくなった。
鍵を閉めて、椅子を一つ引く。
ギイ、と音がして、その音がやけに大きく感じられた。
ラベルを広げて、本を積む。
作業の流れは、もう体に染みついている。
段ボールを開けて、ガムテープを剥がして、背表紙を確認して――。
いつもなら、向かいの席からもガムテープの音が聞こえてくる。
「こっち、開けますね」とか、「このシリーズ、人気ですよね」とか、落ち着いた声が合間に入り込んでくる。
今日は、紙のこすれる音と、俺のため息しかない。
沈黙って、こんなに重かったっけ。
「集中、集中」
自分に言い聞かせるみたいに小さくつぶやいて、本棚の番号を確認する。
黙々とラベルを貼っていると、時間の感覚が少しずつ曖昧になっていく。
前は、この静けさが好きだった。
誰にも邪魔されずに、やるべきことだけを片づける時間。
今は、その静けさの中に「いないこと」が混ざっている。
それを意識するたび、背中のあたりが妙に落ち着かなくなった。
◇
作業を全部終えたころには、外はすっかり夕方になっていた。
鍵を返しに行く前に、自販機の前で立ち止まる。
図書室の横の廊下にある、見慣れた自販機。
いつもなら、準備室で白石が無言でミルクティーを渡してくれて、そのあとで「そういえば自販機で買ってきたんだな」と思い出すくらいだった。
今日は、俺が自分でボタンを押す番だ。
「……ミルクティー、っと」
小銭を入れて、いつものボタンを押す。
ごとん、と落ちる音がして、取り出し口から、薄いベージュのラベルが顔を出した。
キャップをひねりながら、ふと、思う。
「そういえば、最初にここで飲み物もらったとき」
なんで、俺の好み、知ってたんだろう。
ミルクティーなんて、どこにでもある。
でも、「微糖」のやつは、種類が限られている。
「この前もそれ飲んでましたよね」
白石は、そう言っていた。
記憶を辿る。
テスト前の放課後。眠気覚ましに自販機まで来て、なんとなく同じボタンを押した日。
図書室の窓は、この自販機のあたりまで見える。
俺が同じ飲み物を何回も買っていたのを、もしかして、ずっと見ていたのかもしれない。
「……いやいや」
自分で自分にツッコむ。
「そんな、たまたま見ただけだろ」
そう言いながらも、胸の中に小さな違和感が残った。
たまたまにしては、いろいろ出来過ぎている気がする。
俺が断れない性格だって知っていて。
放課後、いつも準備室にひとりでいることも知っていて。
ミルクティーまで、ぴったり当ててきて。
「……けっこう前から、見られてた?」
ぽつりと漏れた言葉を、自分で聞いて、自分で顔が熱くなる。
「いやいやないないない」
誰もいない廊下で、ひとりで頭を振る。
中高生男子の妄想は、ほどほどにしておくのが身のためだ。
ミルクティーを一口飲んで、甘さに紛らせるようにして、その日は帰った。
◇
それから何日かが過ぎて、雨の日の昼休み。
グラウンドには誰もいなくて、ガラス窓に小さな雨粒がびっしりついていた。
廊下もいつもより静かで、どの教室からも昼ごはんの話し声が漏れている。
俺は図書室に行って、借りていた文庫本をカウンターに返した。
「ありがとうございました」
司書の先生に頭を下げてから、何気なく閲覧スペースの方を見回す。
窓際の席で、本を読んでいる後ろ姿があった。
黒髪。制服の背中。見慣れた肩のライン。
「……白石」
口の中で名前を転がしてから、ゆっくり近づく。
心臓の音が、自分にだけ聞こえるくらい大きくなっていく。
途中で引き返そうかとも思ったけれど、ここで何も言わなかったら、きっとあとで後悔する。
机の隣まで来て、声をかける。
「白石」
白石は、本から目を離さずに、少しだけ顔を上げた。
「先輩」
相変わらず落ち着いた声。
でも、前より少しだけ壁があるように感じるのは、俺の気のせいじゃないだろう。
「最近、準備室来てないね」
ストレートに言ってから、自分で「あ、言っちゃった」と思う。
白石はページの上に視線を落としたまま、少しだけ指を止めた。
「……忙しくて」
「忙しい?」
「はい」
淡々とした返事。
それ以上は説明しようとしない。
嘘だな、と直感で分かった。
忙しいって言うなら、今みたいに図書室で本を読んでいる時間はないだろうし。
そもそも、あいつは忙しくても準備室に来るやつだ。
…でも、だからって、「嘘だろ」と責められるほど、俺は強くない。
「そっか」
短く返す。
このまま「じゃあまた」と言って背を向ければ、何事もなかったみたいに日常に戻れる。
でも、その日常は、もう少し前の「いつもの木曜」とは違う。
足が、止まった。
図書室の静けさの中で、自分の心臓の音がやけにうるさく感じる。
背中を向けかけて、振り返った。
「……俺」
「はい」
白石の指が、ページの上でぴたりと止まる。
「白石と一緒だと、作業するの、楽しかったよ」
言った瞬間、自分でびっくりした。
もっと当たり障りのない言葉を選ぶつもりだった。
「助かってた」とか、「早く終わってよかった」とか。
口から出たのは、完全に俺の本音だった。
白石は、本から目を離さない。
でも、指先だけがわずかに震えた。
「……そうですか」
小さな声。
それ以上は何も続かなかった。
俺も、怖くて、白石の顔を見られなかった。
もし、期待するような表情をしていたら。
もし、逆に、何も変わらない無表情だったら。
どっちにしても、たぶん今の俺には、受け止めきれない。
「じゃ、また」
短く言って、図書室を出る。
背中に刺さる視線を、勝手に想像しながら。
あとで思い出すと、その時間だけ、図書室の空気が少しだけ違っていた気がした。
ページをめくる音が止まっていたとか。
窓を叩く雨の音が、やけに大きく聞こえたとか。
でもあのときの俺は、ただ、自分の言葉を急いで過去形にしたかっただけだ。
◇
放課後。
どうしても気になって、一年のフロアまで足を運んだ。
白石のクラスの前。
ドアの窓からそっと中をのぞくと、教室の中はまだにぎやかだった。
「白石、これ頼んでいい?」
「教室掲示のやつ、まとめといてくれない?」
「プリント、クラス分数えといて」
何人もの同級生が、白石の机のまわりに集まっていた。
その真ん中で、白石はプリントの束を持って、淡々と仕分けをしている。
眉をひそめるでもなく、笑うでもなく。
「白石って、頼りにされてるんだな」
思わず、口の中でそうつぶやいた。
先生や先輩に頼まれて、断れなくて、気づけば仕事を抱えこんでいるのは、自分だけだと思っていた。
でも、教室の中の光景は、少し前の俺を見ているみたいだった。
プリントの山と、笑いながらお願いしてくるクラスメイト。
「助かる」と言われると、断れないところも。
白石も、同じなのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がちくっとした。
「…なんだよ、これ」
自分の感情が、自分でもよく分からない。
ただ、「頼られてるんだな」と思うのと同時に、「俺以外のお願いも、全部聞いてるんだ」と思ってしまった。
それが嫌だとか、ずるいとか、そういう言葉にする前の感情。
胸のどこかが、ぎゅっとつかまれる感じだけが残る。
教室に入って、「俺も手伝うよ」と言えばいい。
「さっき図書室で話しかけたの、俺だよ」と、何気なく笑えばいい。
頭では分かっているのに、足が動かない。
ドアから少し離れた廊下の角に、立ち尽くしたままになった。
誰かが廊下を走り抜けていく音。
遠くから聞こえる部活の掛け声。
白石の声は、聞こえなかった。
でも、時々、視線が入り口の方へ向くのが見えた。
「あ」
目が合いそうになって、あわてて角に隠れる。
自分でも情けないと思う。
でも、今ここで顔を合わせたら、うまく笑える自信がない。
「さっき、先輩……」
教室の中から、かすかにそんな声が聞こえた気がしたけれど、結局、その先の言葉は分からなかった。
◇
家に帰って、机の引き出しからスケジュール帳を出す。
小さいマンスリーのページには、テストや提出物の締め切りがびっしり書き込まれている。
その隣のウィークリーの欄。
木曜のところに、何週も続けて、同じ言葉が並んでいた。
「図書準備室」「図書準備室」「図書準備室」
「……」
ペンを握ったまま、その文字列をじっと見つめる。
最初は、ただの仕事だった。
図書委員の義務。やらなきゃいけないから、やっているだけ。
でも、いつからか、「図書準備室」という文字を見ると、その横に、黒髪の一年の顔が浮かぶようになった。
机の向かい側。
軍手をはめた手。
ミルクティーを差し出す指。
ページの端に、無意識にペン先が動いた。
「白…」
「図書準備室」の横に、「白石」と書きかける。
そこで、はっと我に返った。
「なにやってんだ、俺」
慌ててペンを離す。
中途半端な「白」の字だけが残って、余白にぽつんと浮かんだ。
俺は、仕事の手伝いが欲しかっただけなんじゃないのか。
ひとりで作業するのが大変だから、誰かと一緒にいる方が楽だっただけなんじゃないのか。
そう自分に言い聞かせようとしても、スケジュール帳の「図書準備室」の文字は、「白石」とセットでしか頭の中に浮かんでこなかった。
ミルクティーの甘さとか。
ラベルを貼る手つきとか。
「先輩」と呼ぶ声とか。
全部ひっくるめて、「木曜の放課後」になっていた。
「……」
ため息をひとつついて、スケジュール帳を閉じる。
机の上に置いたまま、天井を見上げた。
仕事の時間が欲しかったんじゃない。
あの狭い準備室で、白石と二人で過ごす時間が、いつの間にか当たり前になっていたんだ。
それがなくなった途端、こんなに落ち着かなくなるくらいには。
「来週の木曜こそ」
誰もいない部屋で、声に出してみる。
「ちゃんと話さなきゃ」
逃げるのをやめよう。
忙しいとか、忙しくないとか。
嘘だとか、本当だとか。
そういうことじゃなくて。
俺が、木曜の放課後に誰といたいのか。
何をしていたいのか。
それくらいは、自分の言葉で伝えたい。
スケジュール帳の木曜の欄を、もう一度開く。
「図書準備室」の横の中途半端な「白」を見て、苦笑いした。
来週こそ、ちゃんと最後まで書けるように。
そのための木曜に、しようと思った。



