放課後、図書準備室で君を好きになった。

 その木曜は、朝からやけにバタバタしていた。

 ホームルームが終わって、連絡事項もいったん落ち着いたころ。
 教室のドアがガラッと開いて、見慣れない上履きが視界に入る。

「成瀬くん、いる?」

 顔を上げると、三年の先輩が立っていた。
 文化祭実行委員の腕章をつけた、背の高い人だ。名前はたしか、佐伯先輩。

「はい」

「よかった。あのさ、文化祭実行委員で、ちょっと資料運ぶの手、借りてもいいかな。今、人手がほんとになくてさ」

「あ、えっと…」

 断らなきゃ、と思う。
 頭では分かっているのに、口が動かない。

「先輩、クラスでもしっかりしてるって聞いてさ。先生からも『あの子は頼りになるから』って」

 そんなこと、言わないでほしい。
 内心でそう思いながらも、口から出た言葉は、いつもと同じだった。

「…図書の仕事があるんですけど。その前までなら、大丈夫です」

「ほんと? 助かる!」

 ぱあっと顔を明るくした先輩が、俺の肩を叩く。
 その様子を見て、何人かのクラスメイトが「さすが成瀬」「また頼まれてる」と笑った。

 苦笑いを返しながら、机の中から筆箱を出して、メモを取る。
 場所と時間。運ぶ部数。必要なのはそれだけだ。

「ありがと。終わったら直接ここに戻ってきていいから」

「はい」

 先輩が教室を出ていく。
 その背中を見送ったあとで、なんとなく廊下の方に目を向けた。

 廊下の端に、制服の胸ポケットに生徒手帳を挿した一年が立っていた。

 立ったまま、こっちを見ていた。

 目が合うより早く、その一年はすっと視線をそらして歩き出す。
 黒髪の横顔。見覚えのある背中。

 白石に、見えた。

「…気のせいか」

 首を振って、プリントの束をまとめる。
 今日も、木曜。放課後はいつも通り、図書準備室で。

 そう思い込むようにして、俺は文化祭準備室へ向かった。



「すみません、これが最後の箱です」

「ありがと! 本当に助かった!」

 文化祭準備室は、段ボールとパネルと、見取り図で溢れていた。
 佐伯先輩と、同じ実行委員の三年が何人もいて、慌ただしく動き回っている。

 俺は言われるがまま、資料の束を箱から出して、教室ごとに仕分ける。
 その作業自体は嫌いじゃない。むしろ、こういう単純作業は落ち着く。

「成瀬くん、仕事早いね。助かるわ」

「いえ、そんな」

 褒められると、反射的に笑ってしまう。
 気づけば、先輩たちと軽い冗談も交わしていた。

「うちのクラス、去年めっちゃグダったからさ。今年はちゃんとやりたいんだよね」

「わかります。うちも去年、準備ギリギリでした」

「だよなー。あ、これ印刷ミスだから、この分は外しといて」

「はい」

 時計を見ると、思っていたより進んでいた。
 教室に戻ってプリントを配った時間から考えると、もうとっくに放課後だ。

 図書準備室へ行く時間を、だいぶ削ってしまっていた。

「あの、そろそろ行かないと」

「おっと、ごめんごめん。図書の仕事あるって言ってたもんな。マジで助かった。また頼むかも」

「そのときは、できる範囲で」

 笑って頭を下げる。
 準備室を出て、廊下に出た瞬間、足が自然と早くなった。

 しまった。

 白石には、何も伝えていない。

 毎週同じ時間に図書準備室に行っているから、今日もきっと、あの時間に来ると思っているはずだ。
 携帯の連絡先なんて知らないし、そもそも、あいつがスマホをいじっているところを見たこともない。

 人混みの中をすり抜けて、階段を駆け下りる。

 息を切らせながら、図書室の前にたどり着いたころには、いつもの時間より、三十分は遅れていた。

「…やば」

 心の中で自分にツッコミを入れつつ、小さなドアのノブを回す。

 ガラリ。

「ごめん、遅くな…」

 言いかけた声は、途中で止まった。

 準備室には、誰もいなかった。

 机も本棚も、いつもと同じ場所にあるのに、空気が少し違うように感じる。
 電気だけがついていて、椅子は二つとも、きちんと机の中に収まっていた。

「…あれ。今日は、来てないんだ」

 思わず、口に出ていた。

 当たり前のことなのに、胸の中が少し沈む。
 俺が遅れたんだから、仕方がない。待っていたとしても、帰ってしまっていて当然の時間だ。

 そう分かっていても、喉が少しだけ苦くなる。

「連絡、できないしな」

 白石のクラスに行って、「ごめん、遅くなった」とわざわざ言うのも、変な気がする。
 それに、もうとっくに家に帰っているかもしれない。

 ぐるぐる考えながら、とりあえず今日の作業に取りかかる。

 段ボールを開けて、ひとりでラベルを貼り始める。
 静かな準備室。紙の音だけが響く。

 いつもなら、その向かい側に、軍手をはめた白石の手がある。
 「ここ、貼りますね」とか、「このシリーズ、面白そうです」とか、ぽつぽつと落ちる声がある。

 今日は、ない。

 妙に椅子の音が大きく感じて、ひとりで動かした椅子が、カラリと床を引きずる。

「…まあ、こういう日もあるか」

 自分に言い聞かせるようにして、ラベルの位置を確認する。

 手元の作業はいつもと変わらないのに、時間の進み方が違って見える。
 同じ作業のはずなのに、やたらと長く感じた。



 その少し前、白石はいつもの時間通り、図書準備室に来ていた。

 時計の針が十七時を指す少し前。
 扉を開けて中に入り、電気をつける。

 机の上は、まだ手つかずのまま。
 段ボールの山も、ラベルも、きれいに並んでいる。

 椅子をひとつ引いて座り、足を組む。
 視線は自然と、扉の方へ向かった。

 カチ、カチ、と時計の音がやけに大きく響く。

 五分。
 十分。

「……遅い」

 誰もいない準備室で、白石は小さくつぶやいた。

 別に、毎週ぴったり時間通りに来るわけじゃない。
 先生に呼び止められて遅れることもある。クラスメイトに頼まれて、プリントを配ることもある。

 分かっているのに、今日に限って、胸の中のざわざわが消えない。

 扉が開く音がするたびに、顔を上げる。
 でも、それは図書室に出入りする先生だったり、他の生徒だったりで。

 いつまで経っても、「先輩」が現れない。

 足先が、勝手に揺れる。
 膝の上で組んだ指に、ほんの少しだけ力が入った。

「白石ー!」

 図書室の方から、同級生の声がした。

「一緒に帰ろうぜ。今日、ゲーム屋寄らない?」

 図書室と準備室の仕切りのガラス越しに、男子が手を振っている。
 クラスメイトだ。何度か話したことがある。

 白石は、立ち上がりかけて、足を止めた。

 時計を見る。
 針は、いつもの時間を、少しだけ過ぎている。

 ここで帰っても、いいのかもしれない。
 先輩が来なかったから、と言えば、それで終わる話だ。

 胸の中が、もやもやする。

「今日はいい」

 短く、そう返した。

「え、マジ? 珍しいな。じゃ、またなー」

 同級生はあっさり引き下がって、図書室を出ていく。
 ガラス越しに見える廊下の向こう側が、薄く夕焼け色に染まっていた。

 準備室に視線を戻す。

 机の上のラベルと、本と、軍手。

 ここで、ひとりで待ち続けるのか。
 それとも、いないならいないで、先に作業を始めるのか。

 どちらにしても、今日はなんだか、うまくやれそうにない。

 自分でも持て余す苛立ちが、喉のあたりでつかえている。

 結局、白石は軍手をたたんで、机の端に置いた。

 電気を消し、扉を閉める。
 その背中には「待ち続けるのは悔しい」という意地みたいなものと、「でも帰るのも負けた気がする」という拗ねた感情が混ざっていた。



 翌日。

 金曜の昼休み、俺は一年のフロアにいた。

 図書の返却のついでに、白石のクラスの前まで足を伸ばす。
 教室の中はにぎやかで、昼ごはんの匂いと笑い声が混ざっていた。

 ドアのところから中をのぞくと、窓際の席で弁当を広げている白石の姿が見える。

「白石」

 呼びかけると、彼は顔を上げた。

 一瞬だけ驚いた顔をしたあとで、すぐにいつもの無表情に戻る。

「先輩」

 周りの一年たちが、「誰?」「二年の人?」とひそひそ声をあげるのが聞こえた。

「ちょっといい?」

「…はい」

 白石は箸を置いて、立ち上がる。
 廊下に出てきてもらって、他のクラスから少し離れたところまで歩いた。

「昨日、ごめん」

 まず、そう言った。

「文化祭実行委員の先輩に頼まれてさ。資料運ぶの手伝ってたら、思ったより時間かかっちゃって。図書準備室、行くの、遅くなった」

「そうですか」

 短い返事。
 いつもと同じ低めの声なのに、どこか冷たく聞こえる。

「白石、待ってたよね。ほんと、ごめん」

「別に」

 言い方はあくまで淡々としていた。
 でも、視線が合わない。俺の顔を見ないまま、廊下の壁の方を見ている。

 胸のあたりが、ちくっとした。

「本当に、ごめんね」

 重ねて言うと、白石はわずかに眉を動かした。

「先輩って」

「うん」

「誰に頼まれても、断れないんですね」

「…え?」

 その一言は、皮肉みたいに聞こえた。

 責めているわけじゃない。怒鳴っているわけでもない。
 それでも、刺さった。

「いや、そんなつもりじゃ」

「先生にも、三年の先輩にも、同級生にも」

 白石は指を折っていくみたいに、淡々と並べる。

「なんでも、引き受けるんですね」

 まるで俺の一週間を全部見ていたみたいな言い方で。

「そんな言い方しなくても…」

 思わず、口をついて出そうになった。
 「白石には関係ないだろ」と続けそうになって、ぎりぎりで飲み込む。

 喉に、言葉が引っかかる。

 代わりに出てきたのは、少し情けない言葉だった。

「……俺、また何か気に障ること言った?」

 白石は、少しだけ目を丸くした。
 それから、すぐに視線をそらす。

「別に」

「別に、って」

「次からは」

 俺の言葉を遮るようにして、白石が続ける。

「先に、準備室に来るかどうかだけ、教えてほしいです」

「え?」

「それだけ、です」

 それだけ言って、白石は一歩下がった。
 もう話は終わり、というふうに。

「じゃあ、戻ります」

「あ、うん」

 背中を見送るしかできなかった。

 たった一言。
 「教えてほしい」というお願い。

 それを、どう受け取ればいいのか、うまく分からない。

 …昨日、待たせたから、か。

 そう結論づけて、自分を納得させる。

 でも、その奥に、もっと別の意味がある気がして。
 そこには、まだ手を伸ばせないでいた。



 その週の木曜、白石は準備室に来なかった。

 ホームルームが終わって、いつも通り図書準備室の鍵を借りる。
 少し緊張しながら扉を開けると、そこにはやっぱり誰もいなかった。

 机の上に、軍手も、ペットボトルもない。
 当たり前なのに、見慣れたものが消えているだけで、部屋の空気が違って見えた。

「……」

 何も言えずに、椅子を引く。
 音がやけに大きく響いた。

 ラベルを並べて、本を出して。
 ひとりで作業を始める。

 段ボールを開ける音。
 カッターの刃がガムテープを切る、シャリッとした音。

 全部、自分だけの音だ。

 いつもなら、「これ、シリーズ物ですよね」とか、「表紙、かわいいですね」とか、ぽつぽつと声が落ちてくる。
 今日は、それもない。

 ふと、向かいの椅子に目がいく。

 空っぽの座面。
 背もたれの上に、一つだけ、小さな青いキャップが転がっていた。

「…あ」

 見覚えのある色だった。
 白石がいつも飲んでいる、ブラックコーヒーのキャップ。

 前回、ここに置き忘れていったのだろう。
 ペットボトル本体はちゃんと捨てていたのに、キャップだけ残っていたのが、いかにも白石らしい。

 指でつまんでみる。
 軽くて、小さい。

「ちゃんと捨てとけよ」

 そう言いながら、机の上でくるくると転がす。
 ゴミ箱に投げようとして、手が止まった。

 なんとなく、捨てるのが惜しいと思ってしまった。

 自分でも理由が分からない。
 ただ、この小さなキャップが、ここに白石がいた証拠みたいに思えた。

 結局、ゴミ箱には入れずに、机の端に戻す。
 作業の合間、何度も無意識に指先がそこに伸びていることに気づいて、苦笑した。

「俺、なにやってんだろ」

 ラベルを貼りながら、自分にツッコミを入れる。
 でも、空いた椅子が視界に入るたびに、胸の奥が少しだけきゅっとなるのは、どうしようもなかった。

 あの時間が、自分にとってどれだけ大事だったのか。

 そのことに、やっと、少しだけ気づき始めていた。



 週の終わり、金曜の放課後。
 雨が降って、すぐに上がった日だった。

 廊下の窓ガラスには水滴の跡が残っていて、外は薄い曇り空。
 床にはまだところどころ濡れた足跡があって、歩くたびにキュッと音がする。

 職員室からの帰り道、廊下の角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになった。

「…あ」

 白石だった。

 傘をたたんだまま持っていて、制服の袖のあたりが少しだけ濡れている。
 前髪も、ところどころしっとりしていて、いつもより少し幼く見えた。

「白石」

 声をかけようとして、喉がつまる。

 昨日のこと。
 「次からは教えてほしい」と言われたこと。
 今日、準備室に来なかったこと。

 いろんなものが頭の中で渋滞して、うまく言葉にならなかった。

 ほんの一瞬、目が合う。

 白石は、何も言わなかった。
 視線をすっと外し、そのまま俺の横を通り過ぎていく。

 肩が、かすかに触れそうになって、ぎりぎりで離れた。

 そのとき、白石の肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。

 雨に濡れたせいか。
 寒いからか。

 それとも、怒っているからか。

 俺は、きっと一番簡単な答えを選んだ。

「あー…やっぱ、怒ってるよな」

 背中を見送りながら、心の中でつぶやく。
 当たり前だ。待たせた上に、ちゃんと伝えられなかったのだから。

 でも本当は、あの震えが、怒りだけじゃなくて、嫉妬とか、不安とか、いろんなものが混ざった震えだなんて。

 そのときの俺は、まだ全然、気づけていなかった。