その木曜は、朝からやけにバタバタしていた。
ホームルームが終わって、連絡事項もいったん落ち着いたころ。
教室のドアがガラッと開いて、見慣れない上履きが視界に入る。
「成瀬くん、いる?」
顔を上げると、三年の先輩が立っていた。
文化祭実行委員の腕章をつけた、背の高い人だ。名前はたしか、佐伯先輩。
「はい」
「よかった。あのさ、文化祭実行委員で、ちょっと資料運ぶの手、借りてもいいかな。今、人手がほんとになくてさ」
「あ、えっと…」
断らなきゃ、と思う。
頭では分かっているのに、口が動かない。
「先輩、クラスでもしっかりしてるって聞いてさ。先生からも『あの子は頼りになるから』って」
そんなこと、言わないでほしい。
内心でそう思いながらも、口から出た言葉は、いつもと同じだった。
「…図書の仕事があるんですけど。その前までなら、大丈夫です」
「ほんと? 助かる!」
ぱあっと顔を明るくした先輩が、俺の肩を叩く。
その様子を見て、何人かのクラスメイトが「さすが成瀬」「また頼まれてる」と笑った。
苦笑いを返しながら、机の中から筆箱を出して、メモを取る。
場所と時間。運ぶ部数。必要なのはそれだけだ。
「ありがと。終わったら直接ここに戻ってきていいから」
「はい」
先輩が教室を出ていく。
その背中を見送ったあとで、なんとなく廊下の方に目を向けた。
廊下の端に、制服の胸ポケットに生徒手帳を挿した一年が立っていた。
立ったまま、こっちを見ていた。
目が合うより早く、その一年はすっと視線をそらして歩き出す。
黒髪の横顔。見覚えのある背中。
白石に、見えた。
「…気のせいか」
首を振って、プリントの束をまとめる。
今日も、木曜。放課後はいつも通り、図書準備室で。
そう思い込むようにして、俺は文化祭準備室へ向かった。
◇
「すみません、これが最後の箱です」
「ありがと! 本当に助かった!」
文化祭準備室は、段ボールとパネルと、見取り図で溢れていた。
佐伯先輩と、同じ実行委員の三年が何人もいて、慌ただしく動き回っている。
俺は言われるがまま、資料の束を箱から出して、教室ごとに仕分ける。
その作業自体は嫌いじゃない。むしろ、こういう単純作業は落ち着く。
「成瀬くん、仕事早いね。助かるわ」
「いえ、そんな」
褒められると、反射的に笑ってしまう。
気づけば、先輩たちと軽い冗談も交わしていた。
「うちのクラス、去年めっちゃグダったからさ。今年はちゃんとやりたいんだよね」
「わかります。うちも去年、準備ギリギリでした」
「だよなー。あ、これ印刷ミスだから、この分は外しといて」
「はい」
時計を見ると、思っていたより進んでいた。
教室に戻ってプリントを配った時間から考えると、もうとっくに放課後だ。
図書準備室へ行く時間を、だいぶ削ってしまっていた。
「あの、そろそろ行かないと」
「おっと、ごめんごめん。図書の仕事あるって言ってたもんな。マジで助かった。また頼むかも」
「そのときは、できる範囲で」
笑って頭を下げる。
準備室を出て、廊下に出た瞬間、足が自然と早くなった。
しまった。
白石には、何も伝えていない。
毎週同じ時間に図書準備室に行っているから、今日もきっと、あの時間に来ると思っているはずだ。
携帯の連絡先なんて知らないし、そもそも、あいつがスマホをいじっているところを見たこともない。
人混みの中をすり抜けて、階段を駆け下りる。
息を切らせながら、図書室の前にたどり着いたころには、いつもの時間より、三十分は遅れていた。
「…やば」
心の中で自分にツッコミを入れつつ、小さなドアのノブを回す。
ガラリ。
「ごめん、遅くな…」
言いかけた声は、途中で止まった。
準備室には、誰もいなかった。
机も本棚も、いつもと同じ場所にあるのに、空気が少し違うように感じる。
電気だけがついていて、椅子は二つとも、きちんと机の中に収まっていた。
「…あれ。今日は、来てないんだ」
思わず、口に出ていた。
当たり前のことなのに、胸の中が少し沈む。
俺が遅れたんだから、仕方がない。待っていたとしても、帰ってしまっていて当然の時間だ。
そう分かっていても、喉が少しだけ苦くなる。
「連絡、できないしな」
白石のクラスに行って、「ごめん、遅くなった」とわざわざ言うのも、変な気がする。
それに、もうとっくに家に帰っているかもしれない。
ぐるぐる考えながら、とりあえず今日の作業に取りかかる。
段ボールを開けて、ひとりでラベルを貼り始める。
静かな準備室。紙の音だけが響く。
いつもなら、その向かい側に、軍手をはめた白石の手がある。
「ここ、貼りますね」とか、「このシリーズ、面白そうです」とか、ぽつぽつと落ちる声がある。
今日は、ない。
妙に椅子の音が大きく感じて、ひとりで動かした椅子が、カラリと床を引きずる。
「…まあ、こういう日もあるか」
自分に言い聞かせるようにして、ラベルの位置を確認する。
手元の作業はいつもと変わらないのに、時間の進み方が違って見える。
同じ作業のはずなのに、やたらと長く感じた。
◇
その少し前、白石はいつもの時間通り、図書準備室に来ていた。
時計の針が十七時を指す少し前。
扉を開けて中に入り、電気をつける。
机の上は、まだ手つかずのまま。
段ボールの山も、ラベルも、きれいに並んでいる。
椅子をひとつ引いて座り、足を組む。
視線は自然と、扉の方へ向かった。
カチ、カチ、と時計の音がやけに大きく響く。
五分。
十分。
「……遅い」
誰もいない準備室で、白石は小さくつぶやいた。
別に、毎週ぴったり時間通りに来るわけじゃない。
先生に呼び止められて遅れることもある。クラスメイトに頼まれて、プリントを配ることもある。
分かっているのに、今日に限って、胸の中のざわざわが消えない。
扉が開く音がするたびに、顔を上げる。
でも、それは図書室に出入りする先生だったり、他の生徒だったりで。
いつまで経っても、「先輩」が現れない。
足先が、勝手に揺れる。
膝の上で組んだ指に、ほんの少しだけ力が入った。
「白石ー!」
図書室の方から、同級生の声がした。
「一緒に帰ろうぜ。今日、ゲーム屋寄らない?」
図書室と準備室の仕切りのガラス越しに、男子が手を振っている。
クラスメイトだ。何度か話したことがある。
白石は、立ち上がりかけて、足を止めた。
時計を見る。
針は、いつもの時間を、少しだけ過ぎている。
ここで帰っても、いいのかもしれない。
先輩が来なかったから、と言えば、それで終わる話だ。
胸の中が、もやもやする。
「今日はいい」
短く、そう返した。
「え、マジ? 珍しいな。じゃ、またなー」
同級生はあっさり引き下がって、図書室を出ていく。
ガラス越しに見える廊下の向こう側が、薄く夕焼け色に染まっていた。
準備室に視線を戻す。
机の上のラベルと、本と、軍手。
ここで、ひとりで待ち続けるのか。
それとも、いないならいないで、先に作業を始めるのか。
どちらにしても、今日はなんだか、うまくやれそうにない。
自分でも持て余す苛立ちが、喉のあたりでつかえている。
結局、白石は軍手をたたんで、机の端に置いた。
電気を消し、扉を閉める。
その背中には「待ち続けるのは悔しい」という意地みたいなものと、「でも帰るのも負けた気がする」という拗ねた感情が混ざっていた。
◇
翌日。
金曜の昼休み、俺は一年のフロアにいた。
図書の返却のついでに、白石のクラスの前まで足を伸ばす。
教室の中はにぎやかで、昼ごはんの匂いと笑い声が混ざっていた。
ドアのところから中をのぞくと、窓際の席で弁当を広げている白石の姿が見える。
「白石」
呼びかけると、彼は顔を上げた。
一瞬だけ驚いた顔をしたあとで、すぐにいつもの無表情に戻る。
「先輩」
周りの一年たちが、「誰?」「二年の人?」とひそひそ声をあげるのが聞こえた。
「ちょっといい?」
「…はい」
白石は箸を置いて、立ち上がる。
廊下に出てきてもらって、他のクラスから少し離れたところまで歩いた。
「昨日、ごめん」
まず、そう言った。
「文化祭実行委員の先輩に頼まれてさ。資料運ぶの手伝ってたら、思ったより時間かかっちゃって。図書準備室、行くの、遅くなった」
「そうですか」
短い返事。
いつもと同じ低めの声なのに、どこか冷たく聞こえる。
「白石、待ってたよね。ほんと、ごめん」
「別に」
言い方はあくまで淡々としていた。
でも、視線が合わない。俺の顔を見ないまま、廊下の壁の方を見ている。
胸のあたりが、ちくっとした。
「本当に、ごめんね」
重ねて言うと、白石はわずかに眉を動かした。
「先輩って」
「うん」
「誰に頼まれても、断れないんですね」
「…え?」
その一言は、皮肉みたいに聞こえた。
責めているわけじゃない。怒鳴っているわけでもない。
それでも、刺さった。
「いや、そんなつもりじゃ」
「先生にも、三年の先輩にも、同級生にも」
白石は指を折っていくみたいに、淡々と並べる。
「なんでも、引き受けるんですね」
まるで俺の一週間を全部見ていたみたいな言い方で。
「そんな言い方しなくても…」
思わず、口をついて出そうになった。
「白石には関係ないだろ」と続けそうになって、ぎりぎりで飲み込む。
喉に、言葉が引っかかる。
代わりに出てきたのは、少し情けない言葉だった。
「……俺、また何か気に障ること言った?」
白石は、少しだけ目を丸くした。
それから、すぐに視線をそらす。
「別に」
「別に、って」
「次からは」
俺の言葉を遮るようにして、白石が続ける。
「先に、準備室に来るかどうかだけ、教えてほしいです」
「え?」
「それだけ、です」
それだけ言って、白石は一歩下がった。
もう話は終わり、というふうに。
「じゃあ、戻ります」
「あ、うん」
背中を見送るしかできなかった。
たった一言。
「教えてほしい」というお願い。
それを、どう受け取ればいいのか、うまく分からない。
…昨日、待たせたから、か。
そう結論づけて、自分を納得させる。
でも、その奥に、もっと別の意味がある気がして。
そこには、まだ手を伸ばせないでいた。
◇
その週の木曜、白石は準備室に来なかった。
ホームルームが終わって、いつも通り図書準備室の鍵を借りる。
少し緊張しながら扉を開けると、そこにはやっぱり誰もいなかった。
机の上に、軍手も、ペットボトルもない。
当たり前なのに、見慣れたものが消えているだけで、部屋の空気が違って見えた。
「……」
何も言えずに、椅子を引く。
音がやけに大きく響いた。
ラベルを並べて、本を出して。
ひとりで作業を始める。
段ボールを開ける音。
カッターの刃がガムテープを切る、シャリッとした音。
全部、自分だけの音だ。
いつもなら、「これ、シリーズ物ですよね」とか、「表紙、かわいいですね」とか、ぽつぽつと声が落ちてくる。
今日は、それもない。
ふと、向かいの椅子に目がいく。
空っぽの座面。
背もたれの上に、一つだけ、小さな青いキャップが転がっていた。
「…あ」
見覚えのある色だった。
白石がいつも飲んでいる、ブラックコーヒーのキャップ。
前回、ここに置き忘れていったのだろう。
ペットボトル本体はちゃんと捨てていたのに、キャップだけ残っていたのが、いかにも白石らしい。
指でつまんでみる。
軽くて、小さい。
「ちゃんと捨てとけよ」
そう言いながら、机の上でくるくると転がす。
ゴミ箱に投げようとして、手が止まった。
なんとなく、捨てるのが惜しいと思ってしまった。
自分でも理由が分からない。
ただ、この小さなキャップが、ここに白石がいた証拠みたいに思えた。
結局、ゴミ箱には入れずに、机の端に戻す。
作業の合間、何度も無意識に指先がそこに伸びていることに気づいて、苦笑した。
「俺、なにやってんだろ」
ラベルを貼りながら、自分にツッコミを入れる。
でも、空いた椅子が視界に入るたびに、胸の奥が少しだけきゅっとなるのは、どうしようもなかった。
あの時間が、自分にとってどれだけ大事だったのか。
そのことに、やっと、少しだけ気づき始めていた。
◇
週の終わり、金曜の放課後。
雨が降って、すぐに上がった日だった。
廊下の窓ガラスには水滴の跡が残っていて、外は薄い曇り空。
床にはまだところどころ濡れた足跡があって、歩くたびにキュッと音がする。
職員室からの帰り道、廊下の角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになった。
「…あ」
白石だった。
傘をたたんだまま持っていて、制服の袖のあたりが少しだけ濡れている。
前髪も、ところどころしっとりしていて、いつもより少し幼く見えた。
「白石」
声をかけようとして、喉がつまる。
昨日のこと。
「次からは教えてほしい」と言われたこと。
今日、準備室に来なかったこと。
いろんなものが頭の中で渋滞して、うまく言葉にならなかった。
ほんの一瞬、目が合う。
白石は、何も言わなかった。
視線をすっと外し、そのまま俺の横を通り過ぎていく。
肩が、かすかに触れそうになって、ぎりぎりで離れた。
そのとき、白石の肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
雨に濡れたせいか。
寒いからか。
それとも、怒っているからか。
俺は、きっと一番簡単な答えを選んだ。
「あー…やっぱ、怒ってるよな」
背中を見送りながら、心の中でつぶやく。
当たり前だ。待たせた上に、ちゃんと伝えられなかったのだから。
でも本当は、あの震えが、怒りだけじゃなくて、嫉妬とか、不安とか、いろんなものが混ざった震えだなんて。
そのときの俺は、まだ全然、気づけていなかった。
ホームルームが終わって、連絡事項もいったん落ち着いたころ。
教室のドアがガラッと開いて、見慣れない上履きが視界に入る。
「成瀬くん、いる?」
顔を上げると、三年の先輩が立っていた。
文化祭実行委員の腕章をつけた、背の高い人だ。名前はたしか、佐伯先輩。
「はい」
「よかった。あのさ、文化祭実行委員で、ちょっと資料運ぶの手、借りてもいいかな。今、人手がほんとになくてさ」
「あ、えっと…」
断らなきゃ、と思う。
頭では分かっているのに、口が動かない。
「先輩、クラスでもしっかりしてるって聞いてさ。先生からも『あの子は頼りになるから』って」
そんなこと、言わないでほしい。
内心でそう思いながらも、口から出た言葉は、いつもと同じだった。
「…図書の仕事があるんですけど。その前までなら、大丈夫です」
「ほんと? 助かる!」
ぱあっと顔を明るくした先輩が、俺の肩を叩く。
その様子を見て、何人かのクラスメイトが「さすが成瀬」「また頼まれてる」と笑った。
苦笑いを返しながら、机の中から筆箱を出して、メモを取る。
場所と時間。運ぶ部数。必要なのはそれだけだ。
「ありがと。終わったら直接ここに戻ってきていいから」
「はい」
先輩が教室を出ていく。
その背中を見送ったあとで、なんとなく廊下の方に目を向けた。
廊下の端に、制服の胸ポケットに生徒手帳を挿した一年が立っていた。
立ったまま、こっちを見ていた。
目が合うより早く、その一年はすっと視線をそらして歩き出す。
黒髪の横顔。見覚えのある背中。
白石に、見えた。
「…気のせいか」
首を振って、プリントの束をまとめる。
今日も、木曜。放課後はいつも通り、図書準備室で。
そう思い込むようにして、俺は文化祭準備室へ向かった。
◇
「すみません、これが最後の箱です」
「ありがと! 本当に助かった!」
文化祭準備室は、段ボールとパネルと、見取り図で溢れていた。
佐伯先輩と、同じ実行委員の三年が何人もいて、慌ただしく動き回っている。
俺は言われるがまま、資料の束を箱から出して、教室ごとに仕分ける。
その作業自体は嫌いじゃない。むしろ、こういう単純作業は落ち着く。
「成瀬くん、仕事早いね。助かるわ」
「いえ、そんな」
褒められると、反射的に笑ってしまう。
気づけば、先輩たちと軽い冗談も交わしていた。
「うちのクラス、去年めっちゃグダったからさ。今年はちゃんとやりたいんだよね」
「わかります。うちも去年、準備ギリギリでした」
「だよなー。あ、これ印刷ミスだから、この分は外しといて」
「はい」
時計を見ると、思っていたより進んでいた。
教室に戻ってプリントを配った時間から考えると、もうとっくに放課後だ。
図書準備室へ行く時間を、だいぶ削ってしまっていた。
「あの、そろそろ行かないと」
「おっと、ごめんごめん。図書の仕事あるって言ってたもんな。マジで助かった。また頼むかも」
「そのときは、できる範囲で」
笑って頭を下げる。
準備室を出て、廊下に出た瞬間、足が自然と早くなった。
しまった。
白石には、何も伝えていない。
毎週同じ時間に図書準備室に行っているから、今日もきっと、あの時間に来ると思っているはずだ。
携帯の連絡先なんて知らないし、そもそも、あいつがスマホをいじっているところを見たこともない。
人混みの中をすり抜けて、階段を駆け下りる。
息を切らせながら、図書室の前にたどり着いたころには、いつもの時間より、三十分は遅れていた。
「…やば」
心の中で自分にツッコミを入れつつ、小さなドアのノブを回す。
ガラリ。
「ごめん、遅くな…」
言いかけた声は、途中で止まった。
準備室には、誰もいなかった。
机も本棚も、いつもと同じ場所にあるのに、空気が少し違うように感じる。
電気だけがついていて、椅子は二つとも、きちんと机の中に収まっていた。
「…あれ。今日は、来てないんだ」
思わず、口に出ていた。
当たり前のことなのに、胸の中が少し沈む。
俺が遅れたんだから、仕方がない。待っていたとしても、帰ってしまっていて当然の時間だ。
そう分かっていても、喉が少しだけ苦くなる。
「連絡、できないしな」
白石のクラスに行って、「ごめん、遅くなった」とわざわざ言うのも、変な気がする。
それに、もうとっくに家に帰っているかもしれない。
ぐるぐる考えながら、とりあえず今日の作業に取りかかる。
段ボールを開けて、ひとりでラベルを貼り始める。
静かな準備室。紙の音だけが響く。
いつもなら、その向かい側に、軍手をはめた白石の手がある。
「ここ、貼りますね」とか、「このシリーズ、面白そうです」とか、ぽつぽつと落ちる声がある。
今日は、ない。
妙に椅子の音が大きく感じて、ひとりで動かした椅子が、カラリと床を引きずる。
「…まあ、こういう日もあるか」
自分に言い聞かせるようにして、ラベルの位置を確認する。
手元の作業はいつもと変わらないのに、時間の進み方が違って見える。
同じ作業のはずなのに、やたらと長く感じた。
◇
その少し前、白石はいつもの時間通り、図書準備室に来ていた。
時計の針が十七時を指す少し前。
扉を開けて中に入り、電気をつける。
机の上は、まだ手つかずのまま。
段ボールの山も、ラベルも、きれいに並んでいる。
椅子をひとつ引いて座り、足を組む。
視線は自然と、扉の方へ向かった。
カチ、カチ、と時計の音がやけに大きく響く。
五分。
十分。
「……遅い」
誰もいない準備室で、白石は小さくつぶやいた。
別に、毎週ぴったり時間通りに来るわけじゃない。
先生に呼び止められて遅れることもある。クラスメイトに頼まれて、プリントを配ることもある。
分かっているのに、今日に限って、胸の中のざわざわが消えない。
扉が開く音がするたびに、顔を上げる。
でも、それは図書室に出入りする先生だったり、他の生徒だったりで。
いつまで経っても、「先輩」が現れない。
足先が、勝手に揺れる。
膝の上で組んだ指に、ほんの少しだけ力が入った。
「白石ー!」
図書室の方から、同級生の声がした。
「一緒に帰ろうぜ。今日、ゲーム屋寄らない?」
図書室と準備室の仕切りのガラス越しに、男子が手を振っている。
クラスメイトだ。何度か話したことがある。
白石は、立ち上がりかけて、足を止めた。
時計を見る。
針は、いつもの時間を、少しだけ過ぎている。
ここで帰っても、いいのかもしれない。
先輩が来なかったから、と言えば、それで終わる話だ。
胸の中が、もやもやする。
「今日はいい」
短く、そう返した。
「え、マジ? 珍しいな。じゃ、またなー」
同級生はあっさり引き下がって、図書室を出ていく。
ガラス越しに見える廊下の向こう側が、薄く夕焼け色に染まっていた。
準備室に視線を戻す。
机の上のラベルと、本と、軍手。
ここで、ひとりで待ち続けるのか。
それとも、いないならいないで、先に作業を始めるのか。
どちらにしても、今日はなんだか、うまくやれそうにない。
自分でも持て余す苛立ちが、喉のあたりでつかえている。
結局、白石は軍手をたたんで、机の端に置いた。
電気を消し、扉を閉める。
その背中には「待ち続けるのは悔しい」という意地みたいなものと、「でも帰るのも負けた気がする」という拗ねた感情が混ざっていた。
◇
翌日。
金曜の昼休み、俺は一年のフロアにいた。
図書の返却のついでに、白石のクラスの前まで足を伸ばす。
教室の中はにぎやかで、昼ごはんの匂いと笑い声が混ざっていた。
ドアのところから中をのぞくと、窓際の席で弁当を広げている白石の姿が見える。
「白石」
呼びかけると、彼は顔を上げた。
一瞬だけ驚いた顔をしたあとで、すぐにいつもの無表情に戻る。
「先輩」
周りの一年たちが、「誰?」「二年の人?」とひそひそ声をあげるのが聞こえた。
「ちょっといい?」
「…はい」
白石は箸を置いて、立ち上がる。
廊下に出てきてもらって、他のクラスから少し離れたところまで歩いた。
「昨日、ごめん」
まず、そう言った。
「文化祭実行委員の先輩に頼まれてさ。資料運ぶの手伝ってたら、思ったより時間かかっちゃって。図書準備室、行くの、遅くなった」
「そうですか」
短い返事。
いつもと同じ低めの声なのに、どこか冷たく聞こえる。
「白石、待ってたよね。ほんと、ごめん」
「別に」
言い方はあくまで淡々としていた。
でも、視線が合わない。俺の顔を見ないまま、廊下の壁の方を見ている。
胸のあたりが、ちくっとした。
「本当に、ごめんね」
重ねて言うと、白石はわずかに眉を動かした。
「先輩って」
「うん」
「誰に頼まれても、断れないんですね」
「…え?」
その一言は、皮肉みたいに聞こえた。
責めているわけじゃない。怒鳴っているわけでもない。
それでも、刺さった。
「いや、そんなつもりじゃ」
「先生にも、三年の先輩にも、同級生にも」
白石は指を折っていくみたいに、淡々と並べる。
「なんでも、引き受けるんですね」
まるで俺の一週間を全部見ていたみたいな言い方で。
「そんな言い方しなくても…」
思わず、口をついて出そうになった。
「白石には関係ないだろ」と続けそうになって、ぎりぎりで飲み込む。
喉に、言葉が引っかかる。
代わりに出てきたのは、少し情けない言葉だった。
「……俺、また何か気に障ること言った?」
白石は、少しだけ目を丸くした。
それから、すぐに視線をそらす。
「別に」
「別に、って」
「次からは」
俺の言葉を遮るようにして、白石が続ける。
「先に、準備室に来るかどうかだけ、教えてほしいです」
「え?」
「それだけ、です」
それだけ言って、白石は一歩下がった。
もう話は終わり、というふうに。
「じゃあ、戻ります」
「あ、うん」
背中を見送るしかできなかった。
たった一言。
「教えてほしい」というお願い。
それを、どう受け取ればいいのか、うまく分からない。
…昨日、待たせたから、か。
そう結論づけて、自分を納得させる。
でも、その奥に、もっと別の意味がある気がして。
そこには、まだ手を伸ばせないでいた。
◇
その週の木曜、白石は準備室に来なかった。
ホームルームが終わって、いつも通り図書準備室の鍵を借りる。
少し緊張しながら扉を開けると、そこにはやっぱり誰もいなかった。
机の上に、軍手も、ペットボトルもない。
当たり前なのに、見慣れたものが消えているだけで、部屋の空気が違って見えた。
「……」
何も言えずに、椅子を引く。
音がやけに大きく響いた。
ラベルを並べて、本を出して。
ひとりで作業を始める。
段ボールを開ける音。
カッターの刃がガムテープを切る、シャリッとした音。
全部、自分だけの音だ。
いつもなら、「これ、シリーズ物ですよね」とか、「表紙、かわいいですね」とか、ぽつぽつと声が落ちてくる。
今日は、それもない。
ふと、向かいの椅子に目がいく。
空っぽの座面。
背もたれの上に、一つだけ、小さな青いキャップが転がっていた。
「…あ」
見覚えのある色だった。
白石がいつも飲んでいる、ブラックコーヒーのキャップ。
前回、ここに置き忘れていったのだろう。
ペットボトル本体はちゃんと捨てていたのに、キャップだけ残っていたのが、いかにも白石らしい。
指でつまんでみる。
軽くて、小さい。
「ちゃんと捨てとけよ」
そう言いながら、机の上でくるくると転がす。
ゴミ箱に投げようとして、手が止まった。
なんとなく、捨てるのが惜しいと思ってしまった。
自分でも理由が分からない。
ただ、この小さなキャップが、ここに白石がいた証拠みたいに思えた。
結局、ゴミ箱には入れずに、机の端に戻す。
作業の合間、何度も無意識に指先がそこに伸びていることに気づいて、苦笑した。
「俺、なにやってんだろ」
ラベルを貼りながら、自分にツッコミを入れる。
でも、空いた椅子が視界に入るたびに、胸の奥が少しだけきゅっとなるのは、どうしようもなかった。
あの時間が、自分にとってどれだけ大事だったのか。
そのことに、やっと、少しだけ気づき始めていた。
◇
週の終わり、金曜の放課後。
雨が降って、すぐに上がった日だった。
廊下の窓ガラスには水滴の跡が残っていて、外は薄い曇り空。
床にはまだところどころ濡れた足跡があって、歩くたびにキュッと音がする。
職員室からの帰り道、廊下の角を曲がったところで、人影とぶつかりそうになった。
「…あ」
白石だった。
傘をたたんだまま持っていて、制服の袖のあたりが少しだけ濡れている。
前髪も、ところどころしっとりしていて、いつもより少し幼く見えた。
「白石」
声をかけようとして、喉がつまる。
昨日のこと。
「次からは教えてほしい」と言われたこと。
今日、準備室に来なかったこと。
いろんなものが頭の中で渋滞して、うまく言葉にならなかった。
ほんの一瞬、目が合う。
白石は、何も言わなかった。
視線をすっと外し、そのまま俺の横を通り過ぎていく。
肩が、かすかに触れそうになって、ぎりぎりで離れた。
そのとき、白石の肩が、ほんの少しだけ震えているように見えた。
雨に濡れたせいか。
寒いからか。
それとも、怒っているからか。
俺は、きっと一番簡単な答えを選んだ。
「あー…やっぱ、怒ってるよな」
背中を見送りながら、心の中でつぶやく。
当たり前だ。待たせた上に、ちゃんと伝えられなかったのだから。
でも本当は、あの震えが、怒りだけじゃなくて、嫉妬とか、不安とか、いろんなものが混ざった震えだなんて。
そのときの俺は、まだ全然、気づけていなかった。



